禮嚴法師歌集の初にしるしおく文。
一、今年八月十七日は父の十三囘忌辰なれば、かねて兄達に謀りて、父の歌集一巻を刷物とし、紀念のため、有縁の人人に供養せんは如何にと言へば、皆よしと言ひつ。さてその歌は寛に編めよと兄達の命じければ、父が若き頃より壮年に到る草稿を京都なる兄大圓より、晩年の詠草を周防なる兄照幢より乞ひうけて、読みもてゆくに、歌の数は長き短き打まじへて三万首に近からし。こは偶ま残りける詠草なれば、この外、旅中などにて詠み捨てられつる、又は反古となりて失はれつるも多かりけん。二はた十ちばかりにて江戸に遊び諸国を行脚せられける頃の作、維新前十年がほど国事にいたづかれし頃の作、その後薩摩大隅の間に布教せられし頃の作、それらのほとほと伝はらぬも口惜し。
一、さて一わたりは辛うじて読み終へつれど、さばかり大数の歌を二たび三たび繰返して撰びなんこと、わが暇の許さざりければ、今は専ら晩年の詠草のみを読み返して、そが中より撰びたるを本とし、壮年の頃の歌をも少しばかり加へて、ここに六百参拾首を輯め、禮嚴法師歌集とは名づけつ。父が一生の歌の零砕に過ぎざるいささけきひと巻に斯かる名をしも負はするは、我等はらからのえ忍びぬ所なれど、さしあたりて全集を刷物とする余裕なければいかがはせん。
一、父は世の長なが人びとにて七十六歳まで在りければ、生前にすら若き頃の友の残りゐ給へるは稀なりしを、まして歿後十三年を経つる今には、父が若き日を知り給へる人ほとほと無かるべく、はた晩年に風雅の交りを与にし、歌を問ひて教へ子となられし人人も、おほかた鬢上に一茎の霜をや点し給ふらんとぞ覚ゆる。あはれ世は斯かるさまに移ろひゆくならひとは云へ、旧りしものの次つぎ次つぎに忘られゆくは憂うれ痛たきかな。我等おろかなれども、年ごろ子としていかで父母が名を顕さであるべきと思へるに、このささやかなる一ひと巻まきとても、おのづから父が歌の片かた端はしを世に出いだすよすがとはならざらんや。はた、すくよかに世にいませる父が晩年の友垣教へ子なりし人人の、そのかみをしぬび給ふ助縁ともなりなんかし。
一、寛ひそかに思へるは、父が歌の今日まで世に聞ゆる所なきは如何にぞや。こは父の性格が、老年期の初までは新思想の人にして、進取の気概に富まれたるにかかはらず、その後は反りて世外に独処し、念仏風雅の閑適を楽みて、一生の行事のすべて世の耳目に触るるを避けられしに因るならん。さはれ、晩年に詠まれたる述懐の諸作を覗けば、おのづから世を恨み己を果敢なみ給ふ声の、惻惻として霜夜のこほろぎにもたぐへつべきが打まじれり。身は老いかがみて、比叡の麓の清水に漱くちそそぎ、歌の中山の松風を枕とし給ひながらも、終に寒岩枯木の人とはなりおほせ給はず、一片の壮心掩はんとして掩ひ難くやありけん。﹁折にあへば如何なる花か厭はれん時ならぬこそ見劣りはすれ﹂、﹁憂きことよ猶身に積れ老いてさへまだ世に飽かぬこころ知るべく﹂、かかるは如何でか無為空寂をよろこぶ世よす捨てび人との歌ならんや。寛はそこに父が人としての閃光を認め、一味の哀みの身にせまるを覚ゆ。父は古事記、万葉集、古今集などの学者なりければ、技巧に於ては古典に累せられたる所すくなからねど、叙情にも叙景にも折にふれたる素直なる感情を主題とするに力められ、とりわき述懐の歌に煩悩起伏の醜き自己をあからさまに披瀝せられたるなど、花鳥風月の旧株を守れる近世の歌人以外に立ちて異色を放つと謂ひつべし。但し一生の作を通じて恬澹なる気味あるは、父が一面の性癖に本づき、且つ幼きより父母の感化を受けて心を内典に傾けられたるにも由るべし。祖父母の二男に生れて鐘愛ことに深く、十三歳の冬早くも産を分たれて新宅の工を終らんとする頃、脱塵の志止みがたく、強ひて父母に乞ひて出家せられしを初とし、後年、王政維新のため、宗門のため、社会公益のために、幾多の辛労を重ねながら、その功はすべて他人に譲られたる謙虚の態度に至るまで、この恬澹なる一面の性癖に由れることならん。
一、父が伝記は寛別に詳しく一冊に編したるものあり。ここにはその概略を言はんとす。父は文政六年九月十三日、丹後国与謝郡加悦村の里正細見氏の二男に生れき。十三歳加悦村浄福寺に養はれて住職禮道の二男となる。弘化二年四月京都に上りて西本願寺の学林に懸席し、同年五月西本願寺に於て得度す。京都に学ぶこと数年、偶江戸の国学者八木立禮大人の来りて、摂津国多田の荘に帷を下し給ふと聞き、行きて師事し、国書歌文の教を受く。八木大人は幕臣の二男にして本居春庭翁の門を出づ。其妻敏子刀自また歌と書とを善くせり。翌年師夫妻を奉じて丹後国に帰り、与謝郡清滝村に暫く師を留めて講筵に侍す。次いで京に上り、畿内を漫遊して、伊勢の神宮を詣で、東海道を行脚して江戸に出づ。この旅行によりて見聞を広むる所多く、又時勢の推移に就いて深く憂ふる所あり、慨然として君国の為に微力を致さんことを思ひぬ。それより丹後国に帰りしに、仲立するものありて若狭国大飯郡高浜の専能寺に養はれて住職す。そこにても師八木大人夫妻を屈請して講莚に侍す。居ること二年、故ありて寺を去り、京都に出でて本願寺の役僧となり、兼ねて畿内附近の地に説教す。安政四年五月十五日山城国愛宕郡岡崎村の願成寺に入り、同年八月六日住職す。其年、京都新車屋町二条下る山崎惣兵衞の長女初枝を娶れり。当時攘夷論と共に幕府の外交を批難し、勤王討幕を唱ふるなど、世諭鼎沸して、諸藩の志士京都に集る者日日に繁く、幕吏の頻りに之を物色するあり、うれたき事ども多かりし中に、父は窃に其れ等の志士と往来して画策する所ありしが、わきて薩摩藩には八田友紀、村山松根、黒田嘉右衞門、高崎正風の諸歌人を通じて交友多く、小松帶刀、土師吉兵衞、椎原小彌太、内田政風、西郷吉之助、大久保一藏、吉井幸輔、伊地知正治の諸氏と交るに至り、常に薩摩の藩邸に出入して京都の形勢、諸藩の動静を内報し、その他細事に亘りて薩藩の為めに幾多の便宜を計りぬ。例へば相国寺に交渉して立所に薩兵三千人の陣所をしつらひたる、伏見鳥羽の戦ひ初まれる中に、一夜にして参万金の軍資を調達したるたぐひ、一一に挙ぐべくもあらず。父の意は薩藩を通じて微力を王事に致さんとするにありしなり。また父は薩藩を経て種種の建言を朝廷に奉りしが、明治元年一月四日の夜、おなじく薩藩を経て参与所に奉りつる三箇条の建言の如きは、二日を出でずして実施せられき。その一に曰く。急遽の際兵力に乏しければ、臨機の策として西本願寺に命じ、近国の寺院より僧兵を召さば、千五百人乃至二千人を集むるを得べし。そをもて皇居の御警衛に当て給はんことを。この事立所に行れて、西本願寺の法嗣光威上人みづから法衣の上に帯刀せる僧兵を率ゐ、正信偈を唱へつつ皇居の四方を練りありきぬ。世の人之を帰命無量寿隊と言へりき。二に曰く。方今の形勢にて最も急要なるものは軍資なり。目前の欠乏を救ふ一策としては、町民にして皇居の諸門を衛る法内と謂ふ者四家あり。その四家に命じて、町家の富裕なる者、就中呉服商などより御用金の貸上げを謀らしむる事。三に曰く。京都に御朱印寺と称するもの百余箇寺あり。彼等に献金を命じ給ふも又一策なりと。是等もまた直ちに参与所の納るる所となりしかば、翌五日父は先づ西本願寺に赴きて寺臣島田左兵衞、松井中務の二人と謀り、立所に五千金を献ぜしめ、更に西本願寺の信徒譽田屋、柏屋その他を勧誘して三日を出でずして更に参万金を納めしめき。猶かの法内より町家に勧誘し、朝廷より御朱印寺にも命ぜられしかば、白木の箱に献金の札を立て競うて参与所に集るもの、同月十五六日頃に亘り陸続として絶えざりき。父はまた年頃、西本願寺をして王事に力を致さしむることを計るは、仏恩に報ずる所以なるを思ひ、然かするには先づ豐臣氏以来杆格を来せる薩藩と和し、又長州藩と往来し、両藩を輔けて朝廷に報効せしむるに如くなしと思ひければ、前の年既に両藩と西本願寺との間に周旋して和親を結びたりき。又しばしば法主光澤上人に謁して天下の形勢を説き、一意王事に尽し給ふことの緊要なるを述べたれば、東本願寺の佐幕に傾きたるに反し、西本願寺は終始順逆をあやまつこと無かりき。さてまた父が其後の建言を納れて、一月十九日参与所より、北陸道鎮撫の勅使高倉三位、四條大輔二卿の随従として使僧七人を出だすべき由を西本願寺に命ぜらる。即ち父は六人の使僧を選び、参与所及び法主の特命によりそれに主となりて同二十三日京都を出立す。若狭国小浜に至れば勅使より命あり。北陸道諸藩の情勢未だ一定せず、民心もまた恟恟たり。加ふるに北越の反勢日を追ひて猖獗ならんとす。北陸道は西本願寺の信徒多き土地なれば、使僧等は常に先発して社寺奉行及び各宗の寺院を集め、王政維新の御趣旨、幕府の罪状等を演達し太政官の大号令を諭示して、更に之を諸民に伝へしむべし。また行先ごとに国情を探りて報告し、兼ねて軍資の献納を勧誘すべしと。即ち各地に於て日夜前条の御趣旨を演説し、また諸藩の重臣と会して朝旨を誤解せざると共に王事に奮励すべきことを勧めしが、加賀国大聖寺に到る間に於て、寺院及び民家より軍資を献納したるもの参万金に達せり。越中高岡に到りて敵勢のために前途を阻止せられ進みがたければ、勅使の一行は江戸に向ひて出発し、父の一行は太政官へ復命のため四月十九日帰京の途に就く。京に帰れば播州姫路藩より西本願寺の連枝本徳寺を経て依嘱する所あり、即ち西郷大久保の両参与に議り、かの藩のために佐幕の嫌疑を救解せり。同年六月、岩倉卿の邸に到り建言して云ふ。北越地方の敵勢今猶熾んなるは、太政官より発布せられたる神仏判然の趣旨を農民等に於て誤解し、神道を揚げて排仏毀釈の挙に出づるとなせるもの、その一因なり。この誤解を融和して農民の後援を断たば叛徒の保ちがたきこと想ふべし。農民の誤解を融和するは、真宗の信者多き地方なれば、西本願寺に勅書を賜り、門末の僧侶をして御趣旨を諭示せしむるを上策とすと。即ち数日を出でずして西本願寺に勅書を賜りしかば、再び父は西本願寺使僧として勅書を奉じ、七月中旬京都を出発し、北越の各地に於て神官僧侶を集め、神仏判然の御趣旨、王政維新の宏謨、民心の一統に就いて演説す。長岡城の潰滅するに及び民政局を越後三条に置かれければ、父はまたその局に出仕を命ぜられ、西本願寺の諭達と共に窮民を賑はすことに力を尽し、翌明治二年十一月に至りて帰京復命す。翌年二月、伊地知正治氏東京より書を送り、北陸道某県、東山道某県、両地何れかの大参事に推挙すべき由を言ふ。父は、天下の大変に際し尊王報仏の心止みがたくして聊か国事に微力を致したるのみ、桑門の身固より仕官に意なしと言ひて之を辞せり。此に於て父の思ひけるは、王政維新の実を挙ぐるは一面に人智を開発し、一面に産業を興すに在り。また民心を和げ、安んじて業に就かしめんとするには、窮民に新業を授け、はた医薬を裕かにして疾病の憂なからしむるに在りと。即ち奈良朝に於て種芸、種智、悲田、施療の諸院を開きたる例に則り、諸種の新しき施設を先づわが京都府より試みんとし、府の大参事植村正直氏を初め、友人金閣寺住職伊藤貫宗、銀閣寺住職佐佐間雲巖諸氏に議りて、その協賛を得つ。由つて父は先づ市内各区及び各郡を巡囘して小学校の必要を演述し、著著その創設を見るに到りしかば、はては滋賀県大参事松田氏の招請に応じ、その県下をも遊説し、大津小学校を初め二三の小学校を開始するに到れり。之より先き人智を開発するは古道にのみ由るべからず、宜しく西洋の新智識を布くべしとなし、率先して洋服を著け、神戸居留の外人に交りて舎密︵物理、化学︶の学を研究せしが、明石博高氏と共に京都府庁に舎密局を設くるに尽力し、局の嘱托となり、府下の諸鉱山を巡囘zして鉱石の分析を試みぬ。また四男巖をしてフルベツキ博士に就き洋語を学ばしめ、神戸の外人某に就きて西洋の染色術をも学ばしめつ。また窮民をして巻煙草を巻かしめ、鹿子絞りを纈らしめ、また各郡を遊説して養蚕と製茶とを奨励せり。是等の事、父の性癖として必ず自ら実験するを常とせしかば、わが願成寺の宅地二町歩を開いて桑樹と茶とを栽培し、母と共に傭役の男女を督して養蚕製茶の事に従へり。また母及び兄達が暇あれば煙草を巻き、鹿子を纈り、或は京人形の製造に従へるさま、わが六七歳頃の記憶に存せり。父はまた明治四年より病院の創立に志し、伊藤貫宗、稻葉宙方、佐佐間雲巖諸氏と共に、京都府下に於る各宗の寺院を勧誘して出資せしめ、明治六年十一月一日に到りて英国の医師を主任とし開業式を行へり。現に存する所の府立療病院是なり。療病院の名もまた父の命ずる所なりと言ふ。明治四年の春、姫路藩に於て神葬祭を行ふ布達を出だしけるに、両本願寺の信徒数万蜂起して騒擾せしかば、藩庁の乞により、父は西本願寺の使僧として出張し、四月より七月に亘りて各地を巡演し、民心を鎮定すると共に、藩庁と協議して神葬祭を延期せしめたり。明治五年一月、病院の出資勧誘のため南山城を経て丹波に入りしに、各所の穢多ども新たに平民に編入せられたるに驕気を生じ、良民に対し粗暴のふるまひ多かりければ、府庁の依嘱により、彼等を集めて平民に編入せられたる朝恩の広大なるを訓諭し、報効の手初として国中三箇所の険道を平坦にすべき旨を勧めたるに、彼等悦服して立所に三千人を出して修治せり。また父は、大坂の長與専齋、大井卜新二氏、神戸の外人ボオドイン氏寺の後援を得て、京都市内に一店を設け、洋薬を主として石油、洋酒等をも鬻ぎ﹁ポン水すゐ﹂と称して今の所謂ゆる﹁ラムネ﹂をも製造して販売せり。また府知事植村氏其他諸有志に勧めて博覧会を仙洞御所に開き、またボオドイン氏の設計により、円山に鉱泉場を開きて諸人の衛生に資せり。以上舎密局、小学校、病院、博覧会、鉱泉場等は、全国に於て京都府の率先して施設する所、また京都府下に養蚕、製茶を奨励し、洋薬、石油等を販売せるは、実に父を以て嚆矢とする所なり。而も是等のこと一として容易に好果を収め得たるは無かりき。目を著くる所独早くして時運は未だ到らず、常に保守姑息の徒の多数を頼みて嫉視妨害するあり。また無能にして漫罵詆笑を事とする徒の頻りに投機者流を以て父及び父の同志者を呼ぶあり。此間に処するの苦心は如何ばかりぞ。寺は寺格の高きにかかはらず、無檀の古刹なれば、些の資財あるにあらず、清廉無欲にして極端に公益をのみ思ふ急進空想の人なる父は、万余の債を負ひて、明治十二年堂宇地所を挙げて競売に附せられつ。年頃経営せる所も概ね失敗に終りぬ。ただ円山の鉱泉場のみは今も面かげを残せど、早く他人の手に移りて、その実質も父が営める初とはいたく異れり。さはれ父が京都に於ける公共事業に絶縁しつる後も、新思想の有力者つぎつぎに起りて、我国の新事業は常に京都府民によりて先鞭を著けらるるの観ありしは、時運の到ると共に他人に由りて父の志の大成せられつるとも謂ふべきか。明治十三年、再び法衣を著けて西本願寺の役僧となり、同四月、鹿児島本願寺出張所の顧問として派遣せられ、県下の布教に従事す。翌年県知事渡邊千秋氏と謀り、戦後の窮困せる士族に新業を授けんとし、基金として西本願寺より参万円を寄附せしめ、翌十六年鹿児島興業館を創設するに到りしが、そは今も現存せり。十四年以後、大隅国加治木説教場主任を兼ね、布教の傍、鉱業、養蚕業、西洋葡萄及び楮の栽培等を奨励し、楮と葡萄とは苗木を東京より取寄せて寺内に移植し、無料を以て需要者に頒てり。また士族の子弟の為に儒書及び舎密学を講じ、各村の公共事業費を作る為に頼母子講を設くるなど、施設する所すくなからず。十七年夏、医の薬物の分量を誤りしに由りて大患を得、京都にある子大圓の来り迎へて切に東帰を勧むるに遇ひ、少しく癒えて後、職を辞して京都に帰れり。翌十八年、本願寺の支院、愛宕郡一乗寺村養源寺に隠栖し、爾後また世事に与らず、念仏と詠歌とを以て優遊自適し、稀に後進の為に国典を講ずるのみ。明治二十七年、寺務を見るを厭ひて愛宕郡高野村に僑居し、同二十九年の冬、洛東歌の中山なる清閑寺の幽静を愛でて、そこに移れり。同三十年の冬、周防徳山なる子照幢のもとに遊び、翌三十一年六月より病を得、八月十七日午前三時に身まかり給ひき。享年七十六。遺骨は京都西大谷なる妻初枝の墓に合せて葬れり。
一、父の幼名は詳ならず。法名は禮嚴。雅号を尚絅、又は尚歌堂といへり。人となり、内に豪気を負ひ、志操堅実にして清廉、外は温厚優雅の風姿あり。平生読書を好み、小閑あれば即ち巻を放たず。学は仏、儒、老、荘、国典等に渉りしが、就中、唯識、六国史、万葉集、古今集、韻鏡等に精通せり。説教を善くし、又特に遊説の弁に長ず。その人を説くや、徐ろに種種旁系の問題を出して対者をして先づ所感を言はしめ、討究数次の間、おのづからわが言はんとする主要の意見を却て対者をして言はしむるに及び、徹頭徹尾我は之を賛ずるの位地に立つが故に、毫も他を不快ならしむることなく、よく悦服随喜せしむるを得たりと言ふ。父が維新前後の事功は、私欲に澹泊にして公事に熱烈なる稟性と、この温顔善弁の徳とに由るならんか。さはれ、軽薄なる世情に対しては、時に痛憤の抑へ難きものやありけん、みづからの嗔恚を戒めらるる歌の此集に多きを見れば、父はまた克己の心を修めて内に善く忍ぶの人なりけらし。また、さばかり他人に対して善く忍び給ひし父の、折にふれて、子等に向ひ激怒を発せられしは、我等の放逸なる性精を矯めんとの御みこ心ころしらひなりけんと思ふに、かへすがへすもかたじけなし。
一、父は若狭国高浜の専能寺に養子となられし頃、一男あり、響天と云ひ、大都城氏を襲げり。京に来り、山崎氏を娶りて大圓、照幢、巖、寛、修の五男、靜子の一女を挙げられたり。大圓は和田氏を冒し、照幢は赤松氏を冒し、寛は家を襲げり。
一、此集に父の写真を載すると共に、記念として母の写真をも載せたり。母、名は初枝、天保十年二月二十一日京都の商家山崎氏に生れ、明治二十九年九月二日五十八歳を以て身まかり給ひき。人となり、都雅快濶にして細憂に拘拘たらず、貧寒の間に居りて絃を弾じ、大津絵を歌ひ、奇謔常に人の頤を解けり。
一、また、此集に挿みたる父の筆蹟の初なるは壮年の頃の詠草、次なるは晩年の詠草及び短冊なり。
明治四十三年七月十五日、
東京駿河台に於て、
與謝野 寛しるす。