﹁今日お発ちだそうですね、ムッシュウ﹂ と跛ちんばの男が私に問いかけた。 ﹁ああ、月曜の朝にマルセイユへついていないと、都合がわるいからね。十時五十分の急行でリオン停車場から発とうと思っている。あの急行がいいよ。だが鉄道のことは君の方が詳しいわけなんだね、君は病気になる前までP・L・M︵巴パ里リ・リオン・地中海鉄道会社︶に勤でていたそうだから﹂ すると彼は眼を閉じたが、急に顔が蒼ざめて来て、 ﹁ええ、知っていますとも。知り過ぎるほど知っています﹂ 眼まぶ瞼たの下に涙さえうかべて、ちょっと黙りこんでから附け加えた。 ﹁あの列車のことなら、私以上に詳しい者がありますまい﹂ もうその職しご業とにかえれなくなったことを悲観しているらしいので、私は思わず同情していった。 ﹁面白い仕事だったろうね。何しろ頭の要る結構な仕事だ﹂ 彼は身ぶるいした。不随になったその体がはげしく引きつり、そして眼には或る恐怖の色をうかべながら、 ﹁大違いですよ、ムッシュウ。結構どころか、恐ろしい生命がけの仕事なんです。思いだしてさえ慄ぞ然っとして魘うなされるくらいです。余計なおせっかいをするようだが、あの列車だけはお止めなさい。他の列車ならどれにお乗りになろうと介か意まいませんがね、あの十時五十分の急行だけはお止めなさい﹂ ﹁何故﹂私は笑いながらいった。﹁君は迷信家なんだね﹂ ﹁迷信じゃありませんが、千八百九十四年の七月二十四日の大惨事のときに、私は恰度あの列車を運転していたのです。そのお話をするとよくお解りになりましょう。 その日、私達は定刻にリオン停車場を発でて、約三時間駛はしりました。馬鹿に熱くるしい日で、速力のはやいにも拘らず、汽きか鑵ん台へ来る風が息づまるようでした。それに大気が妙に重く、蒸暑くて、今にもあらしがやって来そうな気けは勢いでした。 空が、突然電燈を消したように真暗になって、星影一つありませんでした。月も隠れて、ときどき凄い稲妻がぴかりと来たかと思うと、そのあとがインキを流したような真の闇です。 私は火夫へ声をかけました。 ﹃どうしたって逃れっこはないね。今に豪おお雨あめが来るぜ﹄ ﹃早く降ればいい。こう蒸されちゃ遣りきれたもんじゃない。だがこんな晩には、シグナルをしっかり睨んでいないと危いですよ﹄ ﹃大丈夫だ、はっきり見えるよ﹄ 雷鳴がひどいので、車輪の響きも排汽の音も聞えません。雨はまだ降らないけれど、あらしがだんだん近づいていました。いや、私達は真直にあらしの方へ突進しているのです。まるで、あらしを追かけている恰好でした。 狂きち人がいのように突つっ駛ぱしっている鋼鉄の怪物に乗って、大あらしの真只中へ投げこまれたとき、少しは変な気がしたって、決して臆病ということは出来ますまい。 直ぐ眼の前で、稲妻が大地をつん裂いたかと思うと、雷鳴ががらがらっとやって来ました。それが続けざまで、余りに凄いものだから、私は思わず眼をつぶって、がっくりと膝を折りました。 数秒間そうしているうち突然に耳ががんと鳴って、頸筋を強したたか打たれたと思ったら、それっきり気絶してしまいました。 やがて正気にかえったときは、まだ膝まずいて、汽鑵台の仕切へぐったりと倚よりかかっていました。何だか百マイルも駆けて来たような感じがしました。 起たちあがろうとしたけれど、駄目です。折れ曲った両脚がもう利かなくなっています。転ぶ拍子に何処ぞ挫くじいたのでしょう。そのくせ痛くも何ともないが、手を突張って起上りたくも、両方の腕がだらりとぶら垂さがっています。 私は異様な感じに囚われて、ただ呆然としていました。手や脚が他人のもののようで、もはや自由がきかないばかりでなく、まるで風に吹きまくられている私の作業服同様、生命のないものになってしまって、それに私は、えたいの知れぬ或る力に圧迫されているようで、眼を開けることすらも出来ませんでした。 列車は最大速力で駛はしっていました。あらしはなお暴あれ狂うていたが、そのときは少しく穏かになって遠のいたようでした。その代り雨が降りだしました。鋼鉄にしぶきの砕ける音がして、顔に温あったかい雨粒を感じました。 私は突然に身内が弛ゆるんだようになって、少し疲れていながら、気分ははっきりして来ました。その場所と、仕事のことに気づくと同時に、ハッと現実にかえりました。何事が起って、何故体が痙ひき攣つったかは呑込めないが、とにかく自分じゃ起たてそうもないので、抱き起して貰おうと思って火夫を呼びました。 が、返事がありません。 全速力が出ているときは、汽鑵台の音響がはげしいものですから、私は声を張りあげました。 ﹃フランソア。おい、フランソア、手を貸してくれ﹄ やはり返事がない。と、私は何といっていいかわからないが、眼を開けると同時に或る恐ろしい懸念でアッと叫びました。正まさしく恐怖の叫びで、しかもそれには十分の理由がありました。 汽鑵台が空っぽで、火夫の姿が見えないのです。 はっと思った瞬間に、はっきりと了のみ解こめました。われわれは落雷にうたれたので、火夫は即死して線路に墜落し、私はそのまま体が痺れてしまったに違いないのです。 いや、迚とても、ムッシュウ。仮りに私が大学者であって、どんな語ことばを列ねたからって、あのときの恐怖を適切に云い現わすことは出来ません。私を補た助すける役目である火夫が魔法にでもかかったように消えて失くなり、私の背後には、二百名からの旅客が、狂速力で確実に死の方へ驀進しているということを夢にも知らずに、平和に眠ったり談はなしたりしている。しかも、その列車の機関士たる私はもう全身不随で、腕が自由を失っているので、何として見ようもないのです。 私は体の利かないくせに、頭が鋭敏に働いて来ました。まず、行く手につづいている線路がはっきりと見える。列車は、月光にきらきらするその線路の上を非常な速力で突進しています。私は平ふだ生ん痲痺していた速力の感じが、そのとき急に鋭くなりました。 列車が或る小さな駅を電光のごとく通過した瞬間に、私は、信号手が哨舎の中で、電号機の傍そばに居眠りをしているのをちらと認めました。と、車体が転車台の上で一、二度揺ゆすぶれ、鋼鉄板がガッタンガッタン鳴って、縦横に交錯した線路が急に広くなったり狭まったりして、或る切通し線へ入ったと思うと、また闇の中を駛はしりはじめました。 間もなくトンネルへさしかかると、列車はまるで猛り狂うた疾はや風てのごとくその中へ突入したが、忽ちそこを突きぬけて、再びひらけた線路へ出ました。ところがその時です、私が、列車が何どの地点を駛はしっているかということに気づいたのは。そして到底脱線の外はないとあきらめました。二分後には急カーヴへかかる筈で、しかもその狂おしい速力では、どうしたって其そ処こで転覆を免かれなかったのです。 ところが天祐でしたね。その急カーヴで機関車が全列車諸もろともに傾斜すると、レールが車輪の方へ猛烈に盛り上ったものだから、案外にも無事にそこを通過しました。 第一の懸念だったこの急カーヴを無難に通過したので、私はほっとしました。あとは、燃料の欠乏で火が消えると、機関がひとりでに止まるだろう。そうすると車掌が汽鑵台の方へ様子を見に来る。私が詳しく事情を話せば、車掌は列車の後あと前さきへ濃霧信号を出してくれる。それでわれわれは救われるわけです。 だが、そうした気休めは長くつづきませんでした。やがてもう一つの駅を通過したが、そのときこそ慄ぞ然っとしました。そこに停車信号が掲かかっているのが見えて、しかも私の列車がその故障線へ飛込んでしまったのです。 そのとき私が発狂しなかったのが、不思議なくらいです。一時間七十マイルという狂速力で驀進しているとき、行く手に故障があると知った機関士の心持をお察し下さい。 私は自分にいいました。﹃今停車しなければ、おればかりでなく、全列車が粉微塵だ。その恐ろしい事故を防ぐために、おれは一寸した動作をすればいい。僅か二呎フィト前に見えている槓レヴ杆ァを握りさえすればいいのだ。しかしおれにはそれだけの簡単な動作も出来やしない。じっとして災難を見ていなければならぬ。それが死より百倍も辛いことだ。衝突の対象物が目の前に、次第に大きくなって来るのを見つめながら、それに向って驀進するこの苦痛――﹄ 私は眼をつぶろうとしたけれど駄目でした。で、我れにもあらず行く手を見据えていました。私はすべてを見ました。障しょ碍うがい物の現われぬ前さきから、それの何であるかを察しました。果して推測どおり、その線を塞いでいたのは破損した列車でした。その真黒な影と後燈が見えていました。私の列車はそれに向ってぐんぐん近づいて行く。刻々に迫って行く。私は声を限りに叫びました。 ﹃助けてくれい、止めてくれい﹄ しかし誰に聞えましょう? 間へだ隔たりがぐんぐん減って行きます。私は感覚のほかは死人も同様だったのです。生きている部分といえば、夜や闇みの中であらゆる物の見える不気味な視力と、囂ごう々ごうたる車輪の響きにも拘らずあらゆる物音の聞える耳と、もう一つ、総崩れの味方を盛りかえすべく必死に号令する大将のように怒鳴りつづけている、狂おしい意思があるばかりでした。 障碍物は急速に接近しました……五百ヤード……三百ヤード……人影が慌だしく線路を駆け廻る……たった百ヤード……アッという間に、もうお終い……轟然たる音響……死屍累々……壊滅! その惨状は、現場を見た人でなければ迚とてもわかりません。 私は正気にかえったときは、崩れた車台の下敷になっていました。苦しそうに救いを求める叫び声が空に充ち充ちて、カンテラを提げた人や、怪我人を抱えた人が右往左往に駛はせちがっていました。そうして夥しい叫喚と、呻吟と、哀泣。 私はそれ等のすべてを目に見、耳に聞きながら、ただ呆然としていました。考える力を失ったのです。勿論救けを呼びもしませんでした。 しかも私はそのとき、唇くちに触れるほど近く頭上におっかぶさった二枚の板いた片ぎれの間から、ぽっちりと静かに澄みきった蒼あお穹ぞらを眺めていました。そして不思議なことに、その蒼あお穹ぞらに小さな美しい星が一つきらきらとふるえているのを見て、爽やかな気持がしたのを覚えています﹂