男は、死んだ女のそばに突立って、平然とその屍体を見まもった。 彼は眼を細めにあけて、大理石の石いし板いたに横よこたえられた女の白い体と、胸の只中をナイフで無残に刳えぐられた赤い創きず口ぐちとを見た。 屍体はすでに硬直しているにも拘らず、完全な肉附の美くしさは、まるで生きている人のようだ。ただその余りに蒼白くなった手の皮膚や、紫色に変色した爪や、かっと見ひらいた両眼、気味わるく歯を露あらわしている黯くろずんだ唇――それ等のものが永久の眠りを語っているのだ。 石で床を鋪しきつめたその不気味な広い室へやは、息いき窒づまるような沈黙で圧おしつけられていた。屍体の傍そばには、今までそれを包んでいたらしい、血痕の附着した敷布があった。臨検の役人たちはそのとき一斉に、被疑者であるその男の方へ眼をつけたが、男は二人の看守に護られながら、しゃんと顔を擡あげ、背うしろへ両手を廻わして、相変らず傲然と突立っているのであった。 やがて判事が審問をはじめた。 ﹁これ、ブルダン、お前は自分で殺したこの被害者を見知っているだろうな﹂ 男ははじめて判事の方へ顔を向け、一生懸命に記憶を喚び起そうとして、死人の上に注意をあつめているらしい風であったが、 ﹁まるっきり知らない女ひとです。見かけたこともありません﹂ と落ちついた声で彼は答えた。 ﹁しかし、お前がこの女の情夫であったということを、大勢の証人が申立てているではないか﹂ ﹁証人の申立はみな違っています。まったく知らない女ひとです﹂ ﹁ようく考えてから答えるがいい﹂判事はちょっと沈黙したあとでいった。﹁われわれを誤魔化そうたって、そうは行かんぞ。今日の審しら問べはほんの形式上のもので、これでお前の裁判が決定するというわけではない。お前は立派に教育のある男だ。寛大な判決を下して欲しいと思うなら、ここで自白する方が、お前の利た益めにいいだろうがなア﹂ ﹁身に覚えのないことは、自白の仕様がありません﹂ ﹁もう一度注意するが、強情を張ると利た益めにならんぞ。多分激昂して発作的に殺したんだろう。この屍体を御覧。この惨たらしい死しに態ざまを見て気の毒とは思わんか。後悔もしないか﹂ ﹁自分で殺しもしないのに、どうして後悔が出来ましょう。そりゃ私だって感情というものがありますから、死者を可かわ憫いそうだとは思います。しかしその憫あわれむという感情も、此こ室こへ入ればこんなものを見せられると予期したために、よほど薄らいで大方貴方と同じぐらいの程度になっています。これ以上に感動しろというのは無理なことで、もし感動しないのが悪いと仰おっしゃるなら、この光景を平気で見ておられる貴方を、反あべ対こべに私が告発して差支ないという理窟になるではありませんか﹂ 男は身振り一つするでもなく、まったく自分を制しきったもののように、落ちつき払った口調でこういった。峻厳な判事の訊問に対しても、この言葉で無難に切り抜けたように見えた。彼の唯一の対抗策は、只もう冷静に頑強に事実を否定することであった。 そのとき下した役やくの一人が低こご声えでいった。 ﹁此こい奴つは決して実じつを吐きません。絞首台に立たされてまでも抗弁するでしょう﹂ ブルダンは、それを聞いて些すこしも腹を立てた様子もなく、やり返した。 ﹁そうですとも。絞首台に立たされたって、私の云うことに変りはありません﹂ 暴あ風ら雨しを含んだ蒸暑さに加えて、判事と被疑者が互いに激昂するものだから、室内は一そう息ぐるしくなって来た。この犯人はあらゆる証拠にも屈しないで、飽くまでも﹃否﹄と答えるのである。 西に傾いた夕日は、汚れた窓硝子を透して、そのぎらぎらする金こん色じきの光りを屍体の上に投げかけていた。 ﹁うむ、お前はこの女を知らんと云うんだな。しからば訊ねるが、この兇器に見覚えはないか﹂ 判事はそういいながら、象牙柄の大型のナイフをつきつけた。血痕がその強靭な刃先から一面に附着していた。 男は兇器を手に執ってしばらく眺めていたが、やがて看守の一人にそれを返して、血に汚れた指を拭き拭き、 ﹁こんなナイフは、ついぞ見たこともありません﹂ ﹁飽くまでも否定するんだな。それがお前の予定行動なんだろう﹂と判事は冷笑して、﹁しかしこのナイフはお前の所持品に相違ない。不断お前の書斎に置いてあったもので、大勢の人が見てよく知っているのだ﹂ すると被疑者はちょっと腰をかがめて、 ﹁その人達はみな思い違いをしているのです﹂ ﹁黙れ﹂判事は怒鳴った。﹁他に疑わしい点がないとしても、ここに一つ最後の有力な吟味が残っている。それは外でもないが、被害者は頸部を締めつけられた形跡がある。この五本の指の痕がお前にも判はっ然きり見えるだろう。しかも加害者は特別に指の長い男だということは、法医学者も鑑定を下しておる。さア皆さんの前へ手を出してみろ。それ、どうじゃ﹂ 判事はこういって、屍体の顎をぐいと引きあげた。 成るほど、頸部の白い皮は膚だに、五本の指痕が紫色を呈して鮮やかに残っていた。大きな木の葉の形に似て、しかも末端のところは、爪が喰入ったらしく、肉が深々と掘られていた。 ﹁これがお前の仕事さ。お前は左手でこの可かわ憫いそうな女の頸を絞めながら、右手で胸にナイフを突き刺したのだ。ここで、その晩の行動をもう一度繰りかえしてみろ。頸の傷痕へお前の指をあてるんだ。さア此こっ方ちへ出ろ﹂ ブルダンは一瞬間ためらった。それから肩をすぼめて、憤む然っとした声でいった。 ﹁私の指が傷痕に合うかどうかを見たいと仰おっしゃるんですか。合ったとしても、それが何で証拠になりましょう﹂ 彼は石いし板いたの方へ歩み寄った。顔色は人にもわかるほど蒼ざめ、歯を喰いしばり、眼は張りきっていた。彼はしばらく静じ然っと立ちすくんで、硬ばった屍体を見据えていたが、やがて自動人形のような動作で衝つと手をのべて屍体に触れた。 と、その冷たい、じっとりした感触から体がぞくぞく慄ふるえだし、指先は痙攣的に緊張して、自然と屍体の頸を絞めつけるように力がこもって来た。 死んだ女の硬ばった筋肉は、男の指の圧迫によって生きがえりでもしたように、頸骨から顎の尖さきまでぐびりと動いたとたんに、物凄くむき出していた白しら歯はがおのずから隠れて、口は大きな欠あく伸びでもするようにがっくりと開いた。と、その乾いた唇が弛たるんで、再び露あらわれた歯を見ると、濃厚なぬらぬらした鳶色の粘液が一杯に蔽かぶさっていた。 役人達も思わずぞっとした。 ところが、このがっくりと開いた口から、謎のような物すごい不思議が起るのである。そもそもこの口が開いたときに、墓の彼方に通う末まつ期ごの声にも似た一種の音響を発したが、直じきに舌が捲くれて咽の喉どへ塞つかえたので、その音響はぱったり止まった。 すると突然に、何ともわからぬ一種の音――蜂の巣のそばで聞く羽音のような音がした――と思っているうちに死人の黯くろずんだ口く腔ちの中うちから、羽のぎらぎら光った大きな青蠅が一匹、ついと飛びだした。 この青蠅という奴は、納骨所に発わ生いて、あの糜びら爛んした屍体を喰っている奴で、何とも形容の出来ない厭な生いき物ものの一つだが、此こい奴つが今女の口く腔ちから飛びだすと、微かな羽音を立てながら、恰あたかも近づく者を警戒でもするように、一しきり屍体の周囲を飛びまわってから、やがてじっと羽を据えていたが突然ブルダンの蒼ざめた唇めがけてまっすぐに飛んで行った。 ブルダンは吃びっ驚くりして払いのけた。けれどもこの怪物はしつこく舞い戻って来ては、その有毒な肢あしを踏んばって一生懸命に彼の唇に縋すがりついた。 ブルダンは呀あっといって跳び退のいたが、眼は狂おしく釣りあがり髪は逆立ち、両手をひろげてぶるぶる顫ふるえながら、まるで狂きち人がいのようになって叫んだ。 ﹁白状します……実は私が殺やったのです……私を彼あっ方ちへ連れて行って下さい……早く連れて行って下さい﹂