寝床に仰向きになっていたその死人は、実に物凄い形相だった。 体はもう硬直していたが、頭か髪みは逆立ち、口を歪め、唇は上うわ反ぞって、両手で喉を掻きむしる恰好をしていた。そして小さなランプが一つ点ともっている薄暗い室へやの中に、なお生けるがごとくかっと見開いた両眼には、最後に何か恐ろしいものを目撃した恐怖の跡が、まざまざと残っていた。 その傍そばで、警部や警察医や刑事達に取囲まれた一人の下男が、不気味な屍体を見まいとして、自分の顔へ手を翳かざしながら、話をつづけた。 ﹁十一時頃だったと思います。旦那様はもうお臥やすみでしたが、私は自分の部屋へ退さがろうとしていると、叫び声がしました。ハイ、たしかに叫び声です。私はいきなり階段を駆け登あがって、旦那様のこのお室へやの戸を叩きましたが、御返事がないものですから、室な内かへ入って御様子を見ると、思わず後あと退すざりをして大声で助けを呼びました。ところが、そのとき、ランプのあたりに二ふた個つの人影がちらついたのを認めました。で、私は飛ぶように階段を降りて、庭を突切って、お届けに行ったんですが、その間に誰も此こ室こから逃げ出せる筈がありません。何故って、私は戸口を二重鍵で締めておきましたし、どの窓も厳重な格子付になっておりますので﹂ ﹁うむ、お前の考えで怪しいと思う者がないかね。その人影っていうのは、判はっ然きりと見たんじゃないのか﹂ 下男は漠然たる身振りをやって、少しもじもじしながら、言葉をつづけた。 ﹁実は、こうなんです――二年前から小間使が一人住込んでおりまして、つまりお妾めかけですが、旦那様は六十四で、その女はまだ若いものですから、とうとうお気に入りになって、鍵を預るといったようなわけで、いずれ遺産を相続するだろうなんて噂もありました。それだのに、その女は夜分に男を引入れたりなんかしまして……私達もこれまでは秘ない密しょにしておきましたが、どうも警察の方がお出いでになった上は、何もかも申し上げないわけに行きません……それで先さっ刻き私が見た人影というのも、実はその男ふた女りだったのでございます﹂ ﹁それは重大なことだぞ。間違いがあるまいな﹂ ﹁わかっております﹂ 下男はきっぱりと答えた。 ﹁よしっ、その小間使をつれて来い﹂ 小間使は寝乱れ姿の髪も整えずに、ふるえる手先で下着の襟をかき合せながら入って来たが、 ﹁わたしは何も存じません﹂ と問われぬ前さきから、はや涙ぐんで弁解した。 ﹁ドクトル、屍体を検案して下さい、成るだけ動かさんようにしてね﹂ 警部は警察医にそういってから、女の方へふり向いて、 ﹁お前を呼びにやったとき、お前は何処にいたのだ﹂ ﹁わたしの部屋におりました﹂ ﹁お前だけか﹂ ﹁あら……﹂ それは全く自然に出た調子であった。 寸ちょ時っと皆が黙りこんだ。と、女は俄かに歯の根も合わぬほどがたがたふるえだした。 ﹁何故怖がるんだ。何がそんなに怖いのか﹂ 彼女は頤あごで屍体の方を指して、 ﹁あれ、あれ……旦那様が……わたしを睨んで……﹂ ﹁なアんだ、馬鹿馬鹿しい。確しっかりしろ。ところで、お前はこの人のお妾だったそうだな﹂ 彼女はちぢこまって、両手を喉へあてたまま、死人の眼をじっと見つめたが、 ﹁わたしはもう、怖くて見ていられません﹂ ﹁お前も、情夫も――お前には他に情夫がある筈だ――この人が大変な金もの満も家ちっていうことを知っていただろう﹂ ﹁存じません。それに、わたしは情夫なんかございません﹂ ﹁今夜此こ家こへ忍びこんだ男は何だ人れだい﹂ ﹁存じません﹂ ﹁お前は先さっ刻き誰と一緒に階段を逃げたのか﹂ ﹁存じません﹂ ﹁そんなら、今この室へやの外で二人の警官に捕まっている男は何な者んだい﹂ ﹁相済みません……わたしは嘘を申しました﹂彼女は首をうな垂れて、口ごもりながらいった。﹁けれども、その外のことは何も存じません﹂ そのとき警察医が、 ﹁ちょっと此こ処こへ﹂ と警部に声をかけた。 女はまたふるえだし、両手に顔を押しかくして、 ﹁おお怖わ……旦那様が、わたしを睨んでいます……どうぞ、わたしを彼あっ方ちへつれて行って下さい……﹂ 警察医は屍体にかがみこんで指で触りながら、低こご声えでいった。 ﹁何でもなさそうです。別段に変った点もありません。暴行をうけたらしい形跡は全然ないし、擦過傷すらもないんですからね﹂ ﹁そんなら毒殺かな﹂ ﹁毒殺といっても、暴力による毒殺なら、やはり一種の暴行ですよ。何故って、毒を嚥下させるためには、喉を引絞めるとか、鼻を押えなければならないもので、随したがってそこに何か徴しるしが残らねばならんわけです。鼻の上に爪痕があるとか、掻き痕きずとか、頸を絞めつけた痕あととか、とにかく、そうした痕跡がなければならんわけです﹂ ﹁そんなら、死因をどう説明しますか﹂ ﹁まず脈管閉塞か、心臓痲痺か、でなければ動脈瘤破裂でしょうな﹂ ﹁つまり自然死なんですか﹂ ﹁勿論そうです﹂ ﹁だが併しかし……﹂ そのとき、まだ両手に顔をかくしていた女が、一層はげしく喚き立てた。 ﹁彼あっ方ちへつれて行って下さい……旦那様が、わたしを睨んで……おお怖わ……﹂ ﹁だが併しかし﹂警部は低こご声えになって、﹁この女が怖がるのも無理がありませんよ。死人を御覧なさい。いったい自然死で、こんな物凄い顔になりましょうか。不気味な死人には慣れっこになっているわしでさえ、真ま正と面もに見られんくらいですからね。わしは、ピストルで脳天を射抜いた奴も見たし、脳漿が血潮に浸っている部屋へ踏みこんだり、女子供の惨殺された屍体だの、松たい火まつのように燃えながら死んだ焼死者も見たが、この死人のような物凄い顔は、見たことも想像したこともありません。どうです、この眼、この表情、そしてこの開いた口は。貴方が何といったって、自然死でこんなひどい形相になるとは思えないんですがね﹂ ﹁おお怖わ……わたしを睨んで……﹂ と女は相変らず口走っていた。 ﹁それに、この女は狂きち気がいでもないのに、こんな風です。お聴きなさい、﹃わたしを睨んでいる﹄なんて喚いています。そら、まるで魔まぜ攻めか、歌う曲たの折ルフ返ラしンでも唱えているような調子じゃありませんか。犯罪者はよくこれをやりますよ。被害者の傍そばへ引きだすと、彼等はきっとこんなことを口走るもんです。自分で殺した者が断末魔の形相や姿勢のままで死んでいるのを見たら、そりゃ堪たまらんでしょう。とにかく、わしを信じて下さい、間違いっこありませんよ﹂ 警部はちょっと黙りこんで、女から死人の方へ視線をうつした。死人の眼は相変らず不可思議な闇を見すえていた。 女は間ひっ断きりなしに例の忌わしい歎願をくりかえした。 ﹁彼あっ方ちへつれて行って下さい……わたしを睨んでいます……彼あっ方ちへつれて行って下さい……﹂ しかし誰もそれに取合おうとしなかった。 警部はまた声をひそめて、 ﹁ああドクトル、解った、解った。そこで最後の叫びが何のためで、何故暴行の痕跡が残らないかを説明しましょう。まず、女が情夫と二人で此こ室こへ忍びこんだことは、疑う余地がありませんね。彼等は主人が眠っていると思ってそっと戸を開けました。その目的が物盗りであったか、殺人であったかは審問の上で判りましょう。ところが主人はその時まだ眠らずに半うと醒うとしていたんです。ランプが消されていなかったのが何よりの証拠です。つまり主人は、戸の蔭から、多分兇器を所持した不気味な二ふた箇つの人影が室内へ忍びこんだのを見て、きゃっと声を立てたのです﹂ ﹁もう我慢が出来ません……﹂女はか細い声で呻いた。﹁もう可いけない……わたしを睨んで……﹂ ﹁この女を彼あっ方ちへ連れだしましょうか﹂ 一人の刑事が訊くと、警部は、 ﹁いや、此こい奴つ狂言がうまいんだ。こっちへ連れて来い、寝台の頭さきへ。そうそう、そこなら死人の顔が見えまい。死人は寝がえりを打ちはしないからな……どうだ、これで気が落ちついたか。もう怖い顔が見えんぞ﹂ 女はほっと溜息をして、それっきり例の歎願をやめた。 そこで警部は説明をつづけた。 ﹁今もいったように、老人は恐怖の叫びをあげたのです。殺されかけたのでなければ、夜中にそんな消けた魂たましい声を立てるわけがないんですよ。ところが忍びこんだ二人は、その叫び声にぎょっとして階段の方へ逃げだしたがそのときに、下男が二人の姿を認めたのです。だから文字通りに殺人が行われたのではないが、主人は彼等が手を下す前に、恐怖のために死んだのです。医学上から見て貴方の御意見はどうですか﹂ ﹁それは、医学上あり得ないことではない。大方そんなことに違いないと思いますがね、たった一つ腑におちない点があります。屍体を御覧なさい、首を縮めたなりで正面を向いていますね。そしてこの視線を辿ると、まっすぐに寝台の裾の方を睨んでいます。ところが、犯人等たちが入って来たという戸口は別の側にあって、三メートル以上も右へ片寄っているじゃありませんか。そこで死人のかっと開いている眼は、果してその戸口を見ていますかね、どうです﹂ ﹁それで?﹂ 警部が問いかえしたとき、人々はきゃっという叫び声を聞いた。見ると、女が突然に鯱しゃちこばって、口を歪めて両手で喉を掻きむしりながら、はや呼い吸きを引取るところだった。人々は彼女が仰向けに打ぶっ倒たおれるのを恐れて早速抱きとめたが、彼女は首を縮め、眼玉をかっと剥いて前方を凝視したまま、体はもう硬ばっていた。 下男はふるえあがって、 ﹁不思議ですね、今のこの女ひとの叫び声は旦那様のと酷そっ似くりでございました﹂ すると寝台の裾の方に立っていた誰かが、ふと主人の死顔と女の死顔とを見くらべて、 ﹁この二人の死人は、眼付が酷そっ似くりですね……ひょっとすると、死際に同じものを見たんじゃないでしょうか﹂ ﹁おお君のいうとおりだ。此こ女れに罪はない﹂ と女の屍体を運ぼうとして胴どう中なかを抱えていたドクトルが、だしぬけに叫んだ。 ﹁そら、いたぞ、いたぞ……老人の見たものが……そして、この女の見たものが……﹂ 羽は毛ね布団の下から、真黒なものがむくむくと姿を現わした。それは一疋ぴきの大おお蜘ぐ蛛もだった。腹のふくれた、背の盛りあがった、恐ろしく巨大なその天びろ鵞う絨ど色の生いき物ものが、逞ましい毛むくじゃらな肢あしを毛布にふん張って、寂ひっ然そりした沈しじ黙まにかさこそと音を立てながら、死人の不気味な顔へのっそりと這いあがって来たのであった。