その夜よの月つきは、紺こん碧ぺきの空そらの幕まくからくり拔ぬいたやうに鮮あざやかだつた。 夜よつ露ゆに濡ぬれた草くさが、地ちじ上やうに盛もり溢あふれさうな勢いきほひで、野のを埋うづめてゐた。 ﹃お歸かへんなさい、歸かへつて下ください。﹄ ﹃いえ。私わたしはもう歸かへらないつもりです。﹄ ﹃どこまでひとを困こまらせようといふんです。あなただつて子こど供もぢやああるまいし。﹄ 草くさの中なかに半はん身しんを沒ぼつして、二ふた人りはいひ爭あらそつてゐた。男をとこは激はげしく何なにかいひながら、搖ゆすぶるやうに女をんなの肩かたを幾いく度ども小こ突づいた。 ﹃いえ、私わたしはあなたが何なんと仰おつ有しやつても、あなたに隨ついてゆくのです。それより他ほかに私わたしの行ゆくみちはないんです。﹄ 女をんなは嶮けはしい男をとこの眼めを眼めが鏡ねの中なかに見みつめながらいふのだつた。 ﹃馬ば鹿かなツ、隨ついてゆくつたつて、何ど處こへ行ゆくといふんです。﹄ ﹃何ど處こまでゝも――けれど、それがもしあなたの御ごめ迷いわ惑くになるとでも仰おつ有しやるなら、私わたしは此こ處こでお訣わかれします。でも、家うちへはもう歸かへらない覺かく悟ごです。﹄ 女をんなは少すこし冷ひややかにいひ放はなつと、蒼あをざめて俯うつ向むいた。二ふた人りの間あひだに、暫しばらく沈ちん默もくが續つゞいた。 默だまつて女をんなを凝ぎよ視うししてゐた男をとこは、前まへとは全ぜん然ぜん異ちがつた柔やさしさでいつた。 ﹃ね、解わかつて下ください。僕ぼくは塒ねぐらさへ持もつてゐない、浮ふら浪うに人んに等ひとしい男をとこなんですよ。﹄ ﹃知しつてます、そんなこと。﹄ ﹃それにです、明あ日すどうなるかも解わからない體からだなんです。﹄ ﹃みんな、よく私わたしは解わかつてゐるんです。﹄ ﹃今こん夜やあなたのお父とうさんが、僕ぼくを罵ばた倒うして追おひ出だしたのも、親おやとして無む理りなことではありません。全まつたく僕ぼくといふ男をとこは、あなたを何なにひとつ幸かう福ふくにしてあげる事ことなんかできない人にん間げんなんですから……﹄ ﹃ぢやあ、あなたは私わたしを輕けい蔑べつしてらつしやるんだ。﹄ ﹃なにいつてるんですツ﹄ ﹃だつてあなたは、私わたしがやつぱし、父ちゝのいふ意い味みの幸かう福ふくな結けつ婚こんを求もとめ、さうしてまた、それに滿まん足ぞくして生いきてられる女をんなだとしか思おもつてない……﹄ ﹃さうぢやない、さうぢやないが……﹄ ﹃いえ、あなたは、私わたしといふ女をんなが、あなたの足あし手てま纒とひになる厄やく介かいな女をんなだと思おもつて、その癖くせに今いままで……﹄ ﹃昂こう奮ふんしないでお聽ききなさいツ。ではこれから自じぶ分んた達ちの行ゆく道みちが、どんなに嶮けはしい、文も字じ通どほりの荊いば棘らの道みちだつてことが、生なま々〳〵しい現げん實じつとして、お孃ぢやうさん、ほんとにあなたにわかつてゐるんですか……﹄ 彼かれ等らの爭あらそ﹇＃ルビの﹁あらそ﹂は底本では﹁あら﹂﹈ひは、際はて限しもなく續つゞいた。さうして夜よが更ふけて行いつた。 ……だがその夜よ始はじめて、彼かの女ぢよは戀こひ人びとの激はげしい熱ねつ情じやうに身みを投とうじたのだつた。 彼かの女ぢよが、戀こひ人びとの片かた山やまと一緒しよに生せい活くわつしたのは、僅わづかかに三ヶ月げつばかりだつた。彼かれがその屬ぞくしてゐる黨たうの指しれ令いのもとに、ある地ちは方うへ派はけ遣んされた後のち、彼かれ等らは滅めつ多たに逢あふ機きく會わいもなかつた。 その間あひだ彼かの女ぢよは、無むさ産んし者や××同どう盟めいの支し部ぶで働はたらく傍かたはら、あるデパート專せん屬ぞくの刺しし繍う工こう場ぢやうに通かよつて生せい活くわつを支さゝへた。そのうち、三・一五事じけ件んとして有いう名めいな、日にほ本ん×××員ゐんの全ぜん國こく的てきの大だい檢けん擧きよが行おこなはれた。それ以いら來い、片かた山やまの消せう息そくは知しれなくなつた。 彼かの女ぢよは、片かた山やま一ひと人りを得うる爲ためには、過くわ去この一切さいを棄すてた。肉にく親しんとも絶たたなければならなかつた。もつとも、母はゝ親おやは實じつ母ぼではなかつた。 唯たゞ一ひと人り、頼たのみとする片かた山やまに訣わかれた彼かの女ぢよは、全まつたく淋さびしい身みの上うへだつた。彼かの女ぢよは、片かた山やまの同どう志しのＫ氏しの家うちに身みを寄よせて、彼かれの居ゐど所ころを搜さがしてゐたが、その彼かれが、Ｉ刑けい務むし所よの未みけ決つか監んにゐると判わかつたのは、行ゆく方へふ不め明いになつてから、半はん年としもの後のちだつた。 それから彼かの女ぢよは﹇＃﹁ それから彼女は﹂は底本では﹁それから彼女は﹂﹈毎まい晩ばん、惡あく夢むを見みた。片かた山やまが後うし手ろでに縛しばり上あげられて上うへから吊つるされてゐる、拷がう問もんの夢ゆめである。 ある時ときは、隣りん室しつに臥ねてゐるＫの夫ふじ人んに搖ゆすり起おこされて眼めを覺さましたが、彼かの女ぢよにはそれが單たんに夢ゆめとばかり、打うち消けすことができなかつた。何な故ぜなら、その頃ころ、さういふ野やば蠻んな戰せん慄りつすべき噂うはさが、世せけ間んに喧やかましく傳つたはつてゐたからだ。 彼かの女ぢよは毎まい晩ばんぐつしよりと、寢ねあ汗せをかいて眼めをさました。寢ねま卷きは濡ぬれ紙がみのやうに膚はだにへばりついてゐた。 その日ひも、朝あさ早はやく彼かの女ぢよは起おき上あがらうとしたが、自じぶ分んにどう鞭むちうつて見みても、全ぜん身しんのひだるさには﹇＃﹁ひだるさには﹂はママ﹈勝かてなかつた。立たち上あがると激はげしい眩めま暈ひがした。周しう圍ゐがシーンとして物もの音おとがきこえなくなつた。體からだはエレベーターのやうに、地ち下かへ地ち下かへと降かう下かしてゆくやうな氣きも持ちだつた。そして遂つひに彼かの女ぢよは意いし識きを失うしなつて了しまつた。 間まもなく、Ｋ夫ふじ人んは間あひだの襖うすま﹇＃ルビの﹁うすま﹂はママ﹈を開あけて吃びつ驚くりした。瞬しゆ間んかん、自じさ殺つかと狼らう狽ばいした程ほど、彼かの女ぢよは多たり量やうの咯かく血けつの中なかにのめつてゐた。 然しかし、夫ふじ人んは氣きを鎭しづめて、近ちかくにゐる同どう志しの婦ふじ人んた達ちを招よび集あつめた。近きん所じよから醫い師しも來きて、兎とも角かく應おふ急きふ手てあ當てが施ほどこされた。 病びや氣うきは急ギヤ激ロツ性ピン肺グコ勞ンザンプシヨンと診しん斷だんされた。 然しかしその時ときの周しう圍ゐの事じじ情やうは、病びや人うにんをＫ氏しの家うちに臥ねかして置おく事ことを許ゆるさないので、直すぐに何ど處こへか入にふ院ゐんさせなければならなかつた。 だが、入にふ院ゐんするとしても、誰たれ一ひと人り入にふ院ゐん料れうなどを持もち合あはしてゐる筈はずがないので、施せれ療う患くわ者んじやを扱あつかふ病びや院うゐんへ入いれるより仕しか方たがなかつた。處ところで一番ばん先さきに、市しの結けつ核かく療れう養やう所じよへ交かう渉せふして見みたが、寄きり留うと屆ゞけがしてないので駄だ目めだつた。そのうちにも、病びや人うにんの容よう態たいは、刻こく々〳〵險けん惡あくになつてゆくので、たうとう、そこから餘あまり遠とほくない、府ふ下か××村むらのＨ病びや院うゐんへ入にふ院ゐんさせるより仕しか方たがなくなつた。それはキリスト教けうの教けう會くわいの附ふぞ屬く病びや院うゐんなので、その事ことに就ついては、大だい分ぶ異い議ぎを持もち出だした者ものもあつたが、この場ばあ合ひ一刻こくも、病びや人うにんを見みす過ごして置おく事ことはできなかつた。さうして彼かの女ぢよは何なにも知しらずに、婦ふじ人んた達ちに見みま守もられながら、靜しづかに寢しん臺だい車しやで搬はこばれた。 冷れい氣きは酢すのやうに彼かの女ぢよの體からだを浸ひたしてゐた。 硝ガラ子ス戸どの外そとには秋あき風かぜが吹ふいて、木この葉はが水みな底そこの魚さかなのやうに、さむ〴〵と光ひかつてゐた。 此こ處こはどこなのかしら――彼かの女ぢよは起おき上あがらうと意いし識きの中なかでは藻も掻がいたが、體からだは自じい由うにならなかつた。 西にしの空そらはいま、血ちみどろな沼ぬまのやうに、まつ紅かな夕ゆふやけに爛たゞれてゐた。Ｋ夫ふじ人んは立たつて西にし窓まどのカーテンを引ひいた。 病びや人うにんは不ふあ安んな眼めを室しつ内ないに漂たゞよはしてゐたが、何なにか物ものをいひたさうに、Ｋ夫ふじ人んの動うごく方はうを眼めで追おつてゐた。 ﹃あなたはいま重ぢう態たいなんですから、お氣きをおちつけて、靜しづかにしてゐなければいけませんのよ、此こ處こ？ 此こ處こですか……﹄ Ｋ夫ふじ人んはいひ澁しぶつたが、氣きの毒どくさうに病びや人うにんを見みていふのだつた。 ﹃此こ處こは、御ごぞ存んじでせう、ほら××村むらのＨ病びや院うゐんですのよ。それは宗しう教けうの病びや院うゐんになんか、あなたをお入いれしたくなかつたんですけれど、差さし迫せまつた事ことではあるし、經けい濟ざい的てきにどうにもならなかつたもんですからね、全まつたく仕しか方たのないことでした。﹄ 病びや人うにんはＫ夫ふじ人んの顏かほの下したで、小こど兒ものやうに顎あごで頷うなづいて見みせた。上うへの方はうへ一ひと束たばにした髮かみが、彼かの女ぢよを一層そう少せう女ぢよらしく痛いた々〳〵しく見みせた。 Ｋ夫ふじ人んは病びや人うにんの耳みゝもとに口くちを寄よせて囁さゝやくやうにたづねた。 ﹃遠とほくにゐる方かたで、お逢あひになりたい方かたもありませう？﹄ 彼かの女ぢよは默だまつて首くびを振ふつた。その眼めには涙なみだがいつぱいに溜たまつた。 ﹃でも、知しらしてだけは置おく方はうが好いいんですのよ、來きようと思おもふ氣きも持ちがありさへしたら、すぐに來きてくれるかもしれませんからね、ね、電でん報ぱうを打うちませうね？﹄ Ｋ夫ふじ人んの言こと葉ばに、病びや人うにんは感かん謝しやするやうに、素すな直ほに頷うなづいた。 隣りん室しつには、Ａの夫ふじ人ん、Ｃの母ぼだ堂う、若わかいＴの夫ふじ人ん等らが集あつまつてゐた。病びや室うしつの方はうでの忙せはしさうな醫いゐ員んや看かん護ご婦ふの動どう作さ、白しろい服ふくの擦すれ音おと、それらは一々病びや人うにんの容よう態たいのたゞならぬ事ことを、隣りん室しつに傳つたへた。 そこへ今け朝さ、片かた山やまの假かり出しゆ獄つごくを頼たのむ爲ために辯べん護ご士しの處ところへ出でかけて行いつたＫ氏しが戻もどつて來きた。 疲ひら勞うと睡すゐ眠みん不ふそ足くとに、Ｋ氏しは蒼あをざめて髭ひげさへ﹇＃﹁髭さへ﹂は底本では﹁髮さへ﹂﹈伸のばしてゐた。 ﹃どうも困こまつちやつたんです。﹄ Ｋ氏しは婦ふじ人んた達ちを見みるなりさういつた。 ﹃片かた山やまさんのことですか？﹄ ﹃それもどうも望のぞみはないらしいですがね、それよりも金かねの事ことですよ。先さつ刻き、僕ぼくが此こ處こへ入はひらうとすると、例れいのあの牧ぼく師し上あがりの會くわ計いけいの老おや爺ぢが呼よび止とめるのです。それから事じむ務し所よへ行いつて今いままでゐたんですが、施せれ療うは村むら役やく場ばの證しよ明うめ書いしよのない患くわ者んじやには絶ぜつ對たいにできない規きて定いだといふんです。だから十日か分ぶんの入にふ院ゐん料れうを前ぜん金きんで即そく時じに納をさめろといふんです。だが、ないものは拂はらへないからそこは宗しう教けうの力ちからで、何なんとか便べん宜ぎを計はかつてはくれまいかと嘆たん願ぐわんして見みたんですが、彼あい奴つはどうして、規きて定いは規きて定いだから、證しよ明うめ書いしよもなく金かねもないなら、すぐに病びや人うにんを連つれてゆけつて酷ひどい事ことをぬかしやがる、此こつ方ちもつい嚇かつとして呶ど鳴なつて來きちやつたんですが…………﹄ ﹃だうりで先さつ刻きから幾いく度ども、證しよ明うめ書いしよお持もちですかつて、婦ふち長やうさんが顏かほを出だしました。﹄ ﹃十日か分ぶんの入にふ院ゐん料れうを前まへ金きんで納をさめろですつて、今け日ふ明あ日すにも知しれない重ぢう態たいな病びや人うにんだのに――ほんとに、キリスト樣さまの病びや院うゐんだなんて、何ど處こに街まちの病びや院うゐんと異ちがふ處ところがあるんだ。﹄ Ｃの母ぼだ堂うまで憤ふん慨がいした。 Ｋ氏しはすぐに、村むら役やく場ばへ證しよ明うめ書いしよを貰もらひに出でて行いつたが、失しつ望ばうして歸かへつて來きた。證しよ明うめ書いしよなるものが下か附ふされるには、十日かかゝるか二は十つ日かかゝるか、解わからないといふ事ことだつた。事じた態いはそんなものを待まつてはゐられなかつた。 その朝あさは、もう病びや人うにんの爪つま先さきを紫むら色さきいろに染そめて、﹇＃﹁チアノーゼが﹂は底本では﹁チノアーゼが﹂﹈來きてしまつた。 彼かの女ぢよは、生いの命ちの灯ひの、消きえる前まへの明あかるさで、めづらしくＫ夫ふじ人んに話はなしかけた。 ﹃Ｋのおくさん、私わたしはいま何なんて幸かう福ふく――﹄ ﹃え、幸かう福ふく？﹄夫ふじ人んも微びせ笑うを返かへした。 ﹃私わたしはかうして皆みなさんに圍かこまれてゐると、氣きも持ちの好いいサナトリウムにでも來きてゐるやうですよ、私わた達したちの爲ためにも、病びや院うゐんやサナトリウムが設せつ備びされてゐたら、此この間あひだ亡なくなつたＳさんなんか、屹きつ度とまた、健けん康かうになれたんでせうにね。﹄ Ｓとは、極きよ度くどに切きり詰つめた生せい活くわつをして、献けん身しん的てきに運うん動どうをしてゐた、若わかい一ひと人りの鬪とう士しだつた。 ﹃今け日ふは脚あしから、ずん〳〵冷つめたくなつてゆくのが自じぶ分んにも解わかるんです。私わたしも矢やつ張ぱりあのＳさんのやうに皆みなさんにもうお訣わかれです、でもね私わたしは今いま、大おほきな大おほきな丘きう陵りようのやうに、安あん心しんして横よこたはつてゐますのよ。﹄ 夫ふじ人んも涙なみだの眼めで頷うなづいた。 それが彼かの女ぢよの最さい期ごの言こと葉ばだつた。 證しよ明うめ書いしよとか、寄きり留うと屆ゞけとか、入にふ院ゐん料れうとか、さうした鎖くさりに取とり卷まかれてゐる事ことを、彼かの女ぢよは少すこしも知しらなかつたのである。 幾いく回くわいものカンフル注ちう射しやが施ほどこされて、皆みなは彼かの女ぢよの身みう内ちの者ものが、一ひと人りでも來きてくれる事ことを待まち望のぞんでゐたが、電でん報ぱうを打うつたにも拘かゝはらず、誰たれ一ひと人り、たうとう來こなかつた。 秋あきの日ひが暮くれた。彼かの女ぢよの屍した體いは白しろ布ぬのに掩おほはれて、その夜よ屍しし室つに搬はこばれた。 そして病びや院うゐんがいふには、入にふ院ゐん料れうを持もつて來こない限かぎり、決けつして屍した體いは渡わたさないと。 それが宗しう教けうの病びや院うゐんだつた。 翌よく日じつ、同どう志した達ちは皆みんなから醵きよ金きんした入にふ院ゐん料れうを持もつて、彼かの女ぢよの屍した體いを受うけ取とりに來きた。すると、黒こく衣いの坊ばうさん達たちが、彼かの女ぢよの周しう圍ゐを取とり捲まいたが、Ｋ氏しは斷だん然ぜんそれを拒きよ絶ぜつした。 怜れい悧りな快くわ活いくわつな、大おほきい眼めを持もつてゐた美うつくしい彼かの女ぢよ、今いまは一ひと人りの女をんなとして力ちか限らかぎり鬪たゝかつた。そして遂つひに安やすらかに睡ねむつた。