大秦景教流行中國碑に就いて

桑原隲藏





西


 Nestor西西Missiah 
 Heller西1Cordier2387-1Wylie西3
 ※(二の字点、1-2-22)西Nestorius TheotokosChristotokos4西Ephesus西5西西西Adam西Balkh使殿 Izadbuzid ?6
 Estrangelo使
 Havret7
 
 ※(二の字点、1-2-22)
 
 

 西Zarathustra※(「示+天」、第3水準1-89-22)
 西Semedo8
西西empan empan  empan empan  empan MeliaporSt. Thomas
 Leon
 西西Nicholas Trigault 
 ※(「日+斤」、第3水準1-85-14)西9
 ※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)西
 
  西

 Emmanuel Diaz西Gaspar Ferreira Julius Aleni Johannes Monteiro 
  Leon Leon Li  Leon
※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)()()西
と書いてある。
 この張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞は教名を Paul といひ、洋人の記録には普通に Paul Tshang として知られて居る。岐陽の産といへば、陝西省鳳翔府管下の人と見える。彼はその以前に、北京で利馬竇にも面會して、キリスト教に就いての智識をもつて居つた。景教碑出土の噂が四方に傳ると、彼は親しく西安に出掛けて、この古碑を檢閲した。當時陝西には一人の宣教師も滯在せなかつた故、彼はキリスト教に關係ある人々の中で、尤も早く景教碑の實物を親覩した人である。セメドの『支那通史』の記事中に見える、キリスト教に關する智識を有する或る紳士とは、畢竟この張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞を指すのである。張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞は已に紹介せる如く、景教碑の拓本をとつて、杭州府の李之藻の手許に寄送した。李之藻の讀景教碑書後の終末に、
392-10
西10
 ※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)※(二の字点、1-2-22)西西西11
 西Moule1314
 15393-15393-15
 393-16393-16393-16393-16
 394-1394-1
 ※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)394-4394-4
 西西16
 394-7394-7394-7394-7西
 394-12394-12西西17
 西西18西19Michel Boym 
 西西()()20使21AndreasMatthaeus22Kircherus
 23※(二の字点、1-2-22)VoltaireNeumann, 1850Renan, 1855Stanislas Julien, 185524西25
 Pauthier, 185726Wylie, 185427※(「日+斤」、第3水準1-85-14)OxfordLegge西28
 
  

  西

 

西
西西西
西Gabriel ?29
30
Estrangelo31
KumdanKumdan32西使
33
34
 西西Salisbury西西35
 36
所謂西安府の景教碑は、頗る有益のものであるが、同時にその眞僞に就きては議論一定せざる故、且つ又十七世紀の後半以來、一個の歐人もこの碑を親覩せざる故、我が協會は、目下支那在留中のアメリカ宣教師諸君が、適當と信ずる方法によつて、この古碑を調べ、その現状を詳にし、新にその拓本をとり、之を學界に寄與せんことを熱望する。
この決議書は在支那の米國各宣教師の手許に發送されたが、その實行は可なり困難であつた。康煕帝の末期から、雍正帝の初年にかけて、天主教を禁制して以來、宣教師は支那内地に踏み入ることが出來なかつたからである。然るに千八百六十年の北京條約によつて、天主教も耶蘇教も、布教を許可せられ、歐米人の内地旅行が、やや自由になつてから、千八百六十六年に、英國のウイリアムソン(Williamson)とリース(Lees)の二人が西安に出掛けて、始めて金勝寺内の景教碑を探望した。當時の實況は彼等の『北支那旅行』中に載せてある。兔も角も十數年前のアメリカ東洋協會の決議の主意は、この二英國人によつて、始めて實行された譯である。
 明末に景教碑が發掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廢※(「土+己」、第3水準1-15-36)した。咸豐九年(西暦一八五九)に韓泰崋カンタイクワといふ者が、訪碑の機會に、重ねて碑亭を建ててこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の來觀した時には、その碑亭が依然儼存して居つたといふ(37)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亙るマホメット教徒の大騷亂が起つて、西安の金勝寺もこの時燒き拂はれたから、碑亭も恐らく同樣の運命に罹つたものと想はれる。兔に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理學者リヒトホーフェン(Richthofen)が、金勝寺の景教碑を來觀した時には、已に碑亭の跡形もなくなつて居つた(38)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縱横の間に、風雨の剥蝕に放任するといふ有樣で、尠からず心ある歐米人を憂慮せしめた。殊に英國では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォア(Balfour)やラクーペリ(Lacouperie)の如き學者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英國の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英國博物館に引き取るべしといふ希望を披瀝した(39)。中にもスティヴンソン(Stevenson)といふ支那在住の宣教師は、實地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手嚴しい書を寄せて居る(40)。
世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の儘に、自然の破壞と人爲の毀損とに對して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、實に十九世紀の大恥辱といはねばならぬ。吾人はわが當局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英國博物館に轉交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる樣盡力せんことを、衷心より希望する。若しこの計畫が實行し難いならば、在北京の外交團諸君の盡力により、支那官憲に勸めて、責ては一の碑亭を建てて、この碑の保護を圖る樣にさせたい。今日に當りて何等か適當な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廢※(「土+己」、第3水準1-15-36)するに至るであらう。
 China Branch of Royal Asiatic SocietyHughes使使Brandt41西Forke西42
 西
 西西西殿殿西
 西西西調西滿
 西※(「走+旱」、第4水準2-89-23)()()西西
 Hankou Daily News西Danish Journalist Fritz von Holm西()()404-3宿()()Danish Journalist  Holm 
 西西西
 Shanghai Times※(二の字点、1-2-22)Replica滿 Replica 
 調※(二の字点、1-2-22)西
 43
 Copenhagen Japan Daily Advertiser 西西西
 西ChavannesAlexieff西44
 ()西西Robert Hart Metropolitan Museum of Art滿Benedict XV45 Lateran Palace 
 CalcuttaIndian Museum
 Gordon46

1 Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 438-441 (Graf Sz※(アキュートアクセント付きE小文字)chenyis Ostasiatische Reise. Bd. II).
2 Cordier; Bibliotheca Sinica. Volume II, Col. 772-781. Ibid. Suppl※(アキュートアクセント付きE小文字)ment, Col. 3562-3564.
3 Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. pp. 289-300 (Journal of the American Oriental Society. V).
4 Mosheim; Ecclesiastical History. Vol. I, p.366.
5 Barthold; Zur Geschichte des Christentums in Mittle Asien. s. 22 flg.
6 Pelliot; Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tiens d'Asie Centrale et d'Extr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me Orient. p. 625 (T'oung Pao. 1914).
7 Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne de Sin-gan fou. III partie.
8 Semedo; The History of China. p. 157.
9 
10 Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)leLa St※(グレーブアクセント付きE小文字)leLa St※(アキュートアクセント付きE小文字)le Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne II partie, pp. 37. 39.
11 Havret; Ibid. II, p.59.
12 Havret; Ibid. II, pp. 34-37, 70-71.
13 Moule; The Christian Monument at Hsi-an fu. p. 77 (Journal of N.C.B.R.A.S, 1910).
14 Saeki; The Nestorian Monument in China. pp. 17-19.
15 Lamy et Gueluy; Le Monument Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tien de Sin-gan-fou. p. 100 (M※(アキュートアクセント付きE小文字)moire de l'Acad※(アキュートアクセント付きE小文字)mie Royale des Science etc. de Belgique. Tome Liii).
16 
17 Pelliot; Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tiens d'Asie Central et d'Extr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me Orient. . 625.
18 Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne. II, p. 326. III, p. 67.
19 Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne. II, pp. 32, 325.
20 Havret; Ibid. II, p. 31.
21 稿※(「广+龍」、第3水準1-94-86)
22 Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 15. Lamy et Gueluy; Le Monument Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tien. p. 9.
23 Kirchere; La Chine Illustr※(アキュートアクセント付きE小文字)e. p. 1.
24 Pauthier; De l'Authenticit※(アキュートアクセント付きE小文字) de l'Inscription Nestorienne de Sin-gan-fou. pp. 7, 14-21.
25 Neumann; Die erdichtete Inschrift von SingnanSingnanSignan Fu. (Zeitschrift d. D. M. Gesellschaft. IV).
26 Pauthier; De l'Authenticit※(アキュートアクセント付きE小文字) de l'Inscription Nestorienne.
27 Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. (Journal of the American Oriental Society. V).
28 Legge; The Nestorian Monument of Hsi-an Fu. p. 37.
29 稿
30  The Nestorian Missionary Adam, Presbyter, Papas of China, Translating a Buddhist S※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)tra. p. 590 (T'oung Pao. 1896).
31 Lamy et Gueluy; Le Monument Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tien de Sin-gan-fou. p. 83.
32 Hirth; Nachworte zur Inschrift des Tonjukuk. s, 35-36 (Radloff; Die Altt※(ダイエレシス付きU小文字)rkischen Inschriften. II).
33 稿西
34 
35 Salisbury; On the Genuineness of the so-called Nestorian Monument of Singan Fu. p. 410 (Journal of the American Oriental Society. III).
36 Journal of the A. O. S. III{1853}, p. 419.
37 Williamson; Journey to the North China. Vol. I, p. 381.
38 Richthofen; China.Bd. I, s. 553.
39 Lacouperie; Beginnings of Writing in Central and Eastern Asia. pp. 84-85.
40 Lacouperie; Ibid. p. 85.
41 Journal of China B. of R. A. S. XXIV{1889-90} pp. 136-139
42 Forke; Von Peking nach Chang-an und Lo-yang. s. 70 (Mittheilungen des Seminar f※(ダイエレシス付きU小文字)r Orient. Sprachen. I).
43 Holm; The Nestorian Monument.
44 Holm; My Nestorian Adventure. p. 251.
45 Holm; Ibid. pp. 319-320.
46 





底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1938(昭和43)年2月13日初版発行
※底本が用いている「〔」と「〕」は、「アクセント分解された欧文をかこむ」記号と重なるため、和文中では「{」と「}」に、欧文中では「{」「}」に置き換えた。
※底本では、注釈番号は、本文の右脇にルビのように組まれている。
入力:はまなかひとし
校正:米田進
2003年4月1日作成
2004年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。







 W3C  XHTML1.1 



JIS X 0213



JIS X 0213-


「金+志」    387-1
「旗−其+冉」    392-10
「(幸+攵)/皿」    393-15、393-16、393-16、394-1、394-4、394-7、394-7、394-12
「厂+至」    393-15、393-16、393-16、394-1、394-4、394-7、394-7、394-12
「門<旻」    404-3