平塚明子論

伊藤野枝




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『社会、社会と私達はこれ迄、馬鹿にして来たけれど、その為めに、本当に私達が生きやうとして行く上に、どの位、多くの、無駄や、骨折やをさせられたらう、何故私達は今迄誤解や、誤伝や、誤信を黙過して来たか?』
と云つてゐる。
 氏が此処に気がついた時には、氏は両親の許を離れて自分一個の生活を初めてゐた。

 
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 どのやうに氏にとつて氏の主張の社会的効果を挙げる事が必要であらうとも、それが、氏自身の生活を貧しくし、若しくは妨害するものである場合になれば、氏は大切な自己の生活の為めにはその仕事を投げる位は何ともない事なのだ、けれどまた一方から云へば氏の其の自己のみの生活と、他に対する生活と、キチンと別け目をつけてゐる事が氏の主張に効果を挙げられない事になり、氏自身を死地に陥れる事になるのだ。氏が何処までも、他との交渉から自分の内生活を離さうとする処に無理が起るのだ。氏が、唯だ自然に対してのみ、自己を打ち開く事が出来ると云ふのも、煎じつめれば、自然の前には、特に、自分を看視しなければならないと云ふ緊張なしに安心して、その中にひたつてゐられるからなのだ。
『自然に向ひ合つてゐると、私は次第に興奮して来る。それによりて私の心は洗はれる。そして純粋になり新鮮になり、透明になりいつか情熱的に自然の中にはいつてゆく。けれどこの興奮は、人に於けるそれとは違つて、情熱的になればなる程、沈静的になるを感じる。しかも持続性を持つてゐる。しかし高まつてきても、熱して来ても、張りつめて来ても、それが局部的でない丈け、また対象とするものが所謂、有情のものでない丈け容易に外に向つて破れない。そして放散して仕舞はない。一杯になつたまゝで、何時までも堪へてゐられると云ふやうな、爽快な充実感が続く。たとへ、感激の頂点に達する事があつてもそこには恍惚があるばかりで、何の苦痛も動乱も伴はない。』
 
  
 
 
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(六、三、一一)

[『新日本』第七巻第四号、一九一七年四月号]






底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「新日本 第七巻第四号」
   1917(大正6)年4月号
初出:「新日本 第七巻第四号」
   1917(大正6)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:笹平健一
2024年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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