――初めての發掘――權現臺の歴史――貝層より石棒――把手にあらで土偶――元日の初掘り――朱の模樣ある土器――奇談――珍品――地主と駄菓子――鷄屋の跡――
太たい古こ遺ゐせ跡きの發はつ掘くつに、初はじめて余よが手てを下くだしたのは、武むさ藏しの權ごん現げん臺だいである。それは余よの品しな川がはの宅たくから極きはめて近ちかい、荏えば原らぐ郡ん大おほ井ゐの小こあ字ざの事こと。東とう海かい道だう線せんと山やまの手て線せんと合がつして居ゐる鐵てつ道だう線せん路ろの右みぎ手ての臺だい地ちがそれで、大おほ井ゐの踏ふみ切きりから行ゆけば、鐵てつ道だう官くわ舍んしやの裏うらから畑はた中なかに入いるのである。
余よは併しかし大たい概がい蛇へび窪くぼの踏ふみ切きりの第だい二の線せんを越こして、直すぐと土ど手てに登のぼつて行ゆくのである。
初しよ心しんの發はつ掘くつとしては此この權ごん現げん臺だいは大だい成せい功こうであつた。無むろ論ん遺ゐぶ物つが豐ほう富ふでも有あつたのだが、宅たくから近ちかいので、數しば々〴〵﹇#ルビの﹁しば〴〵﹂はママ﹈行ゆき得えられたのと、人ひと手でが多おほかつたのも勝しや利うりの原も因とであつた。
されば余よとして、終しふ生せい忘わするゝ事ことの出で來きぬのは、この權ごん現げん臺だいの遺ゐせ跡きで、其そ所この地ちを踏ふむ時ときは勿もち論ろん、遺ゐぶ物つの一ひと片ひらを手てにしても、直すぐと其その當とう時じを思おも出ひいだすのである。成せい功こうした其その時ときの嬉うれしさも思おも出ひいでるが、併しかし多おほくは其その時とき一いつ處しよに行いつた友ともの、死しんだのや、遠とほざかつたのや、いろ〳〵それを懷おも出ひいだして、時とき々〴〵變へんな感かん情じやうに打うたれもする。
三十五年ねんの九月ぐわつ、日ひは忘わすれたが初しよ旬じゆんであつた。それが權ごん現げん臺だい最さい初しよの發はつ掘くつで、其その頃ころ余よの宅たくは陣ぢん屋やよ横こち町やうに在あつて、活くわ東つとう望ばう蜀しよくの二子しが同どう住じうして居ゐた。後のちに玄げん川せん子しも來きた。
文ぶん士しず相ま樸ふが﹇#﹁文士相樸が﹂はママ﹈盛さかんな頃ころなので、栗くり島しま狹さご衣ろも氏しが殆ほとんど毎まい日にちの樣やうに來きて居ゐたので、狹さご衣ろも子しと同おなじ朝あさ日ひし新んぶ聞んに居ゐる水みづ谷たに幻げん花くわ氏しも、其その縁えんで遊あそびに來き出だした。
今け日ふは天てん氣きが快いいからとて、幻げん花くわ子しが先せん導だうで、狹さご衣ろも、活くわ東つとう、望ばう蜀しよくの三子しが、鍬くわを擔かついで權ごん現げん臺だいに先せん發ぱつした。後あとから余よも行いつて見みると、養やう鷄けい所じよの裏うら手ての萱かや原はらの中なかを、四人にんて﹇#﹁四人て﹂はママ﹈連しきりに掘ほり散ちらして居ゐる。なる程ほど貝かひ塚づかとは這こんな物ものだなと初はじめて余よは地ちち中うに秘ひみ密つあるを知しつた。
此この時じぶ分んの發はつ掘くつ法はふといふのは、幼よう稚ちなもので、幻花子しはハンマーでこつこつ掘ほつて、布ふろ呂し敷きで貝かひ殼がらを渫しやくひ出だす位くらゐ。
二回くわ目いめには矢やは張り其その人にん數ずで、此こち方らはや、鍬くわで遣やつて見みたが、如ど何うも巧うまく行ゆかぬものだから、三回くわ目いめには汐しほ干ひの時ときに用もちゐた熊くま手で︵小せう萬まん鍬くわ︶が四五本ほん有あつたのを持もち出だした處ところが、これが非ひじ常やうに有ゆう効かうであつたので、︵勿もち論ろん先せん輩ぱい中ちう、既すでに小せう萬まん鍬ぐわを用もちゐて居ゐた人ひとが有あつたさうだが、それは三本ぼん爪づめの、極きはめて小せうなる物もの︶前まへの鍛か冶じ屋やに四本ほん刄ばの大おほ形がたのを別べつ誂あつらへするなど、大だい分ぶ乘のり氣きに成なつて來きた。︵箕みも其その頃ころから遣つかひ出だした︶
といふのが、幻げん花くわ子しが、小せう魔ませ石き斧ふや﹇#﹁小魔石斧や﹂はママ﹈、完くわ全んぜんに近ちかい土ど器きなどを掘ほり出だしたので、余よ等らの發はつ掘くつ熱ねつがそろ〳〵高かう度どに達たつしかけたからである。
休きう日じつ毎ごとに誘さそひに來くる幻げん花くわ子しを待まつて居ゐられず。今け日ふは望ぼう生せい、翌あ日すは活くわ子つし、或あるひは三人にん揃そろつて行ゆく間うちに、土どぐ偶うの足あしも出でる。小せう土ど器きも出でる。大だい分ぶ景けい氣きが附ついて來きた。
並ならんで掘ほつて居ゐる望ぼう生せいの膝ひざ頭かしらが泥どろに埋うまつて居ゐるのを、狹さご衣ろも子しが完くわ全んぜんな土ど器きと間まち違がへて掘ほり出ださうとすると、ピヨイと望ぼう生せいが起たち上あがつたので、土ど器きに羽は根ねが生はえたかと驚おどろいたのも其その頃ごろ。
活くわ東つと子うしがゴホン〳〵咳せきをしながら、赤あか土つちの下したまで掘ほり入いつて、何なにも出でないと零こぼしたのも其その頃ごろ。
初しよ心しん﹇#ルビの﹁しよしん﹂は底本では﹁しよしよ﹂﹈の失しつ策さくは决けつして少すくなくなかつたのだ。
幻げん花くわ子しは此この當たう時じ、ぐツと先せん生せい振ぶつて、掘ほりながら種いろ々〳〵講こう釋しやくを聞きかせるのであつた。余よ等らが最もつとも興きや味うみを有ゆうして傾けい聽ちやうしたのは、權ごん現げん臺だい貝かひ塚づかの歴れき史しであつて、最さい初しよに野のな中か完くわん一氏しが發はつ見けんしたのを、氏しは深ふかく秘ひして居ゐたので、其その頃ころは發はつ掘くつをせずとも、表ひや面うめんをチヨイ〳〵掻かき廻まはして見みれば、土どぐ偶う、土どば版ん、完くわ全んぜんに近ちかい土ど器きなど、ごろ〳〵轉ころがり出だし、磨ませ製いせ石き斧ふなどは、いくらでも有あつた。それを幻げん花くわ子しがチラと耳みゝに挾はさんで、大おほ井ゐむ村らぢ中う殘のこらず探さがして、漸やうやく野のな中か氏しの寶ほう庫こを突つき留とめると間まもなく、貝かい塚づかの一部ぶを開ひらいて其そ所こに養よう鷄けい場ぢやうを設せつ立りつする大だい工こう事じが起おこり、此この期きを利りよ用うして土どか方たを買ばい收しうし、幻げん花くわ子しが種いろ々〳〵の珍ちん品ぴんを手てに入いれた事ことから、地ぢぬ主しとの衝しよ突うと奇つき談だん、小こさ作くに人んとの大おほ喧けん嘩ぐわ﹇#ルビの﹁おほけんぐわ﹂はママ﹈、小こみ南なみ保やす之のす助け氏しと貝かひ塚づかの奇きぐ遇うだ談んやら、足あだ立ちは博か士せの未まだ學がく士しじ時だ代いに此こ所ゝへ來きて蜂はちに螫さされた話はなしやら、却なか々〳〵面おも白しろい。
但たゞし斯かういふ話はなしの出でた時ときは、餘あまり遺ゐぶ物つの出でない時ときで、土ど器きの顏かほでも貝かひ層さうから出でやうものなら、呼こき吸うをするのさへ忘わすれる位くらゐ。
活くわ東つと子うしが十月ぐわつ卅一日にちに鐵てつ鉢はつ形がたの小せう土ど器きを掘ほり當あてながら、過あやまつてそれを破わつたので、破はて鐵つば鉢つの綽あだ號なを取とりなどしたが、それと同どう時じに出だした把とつ手てつ附きの小せう土ど器きは、少すこし缺かげては﹇#﹁缺げては﹂はママ﹈居ゐるが珍ちん形けいで、優いう物ぶつたるを失うしなはぬ。︵第壹圖イ參照︶
第壹圖︵武藏權現臺︶
イ︵土器︶ ロ︵土偶顏面︶ ハ︵土偶胴部︶
斯かうして殆ほとんど毎まい日にちの如ごとく掘ほつて居ゐる間うちに、萱かや原はらを三間げん幅はゞで十間けんばかり、南みなみから北きたまで掘ほり進すゝんで、畑はたの方はうまで突つき拔ぬけて了しまつた。︵高たか抔つき形がた﹇#﹁高抔形﹂はママ﹈、茶ちか椀わん形がた﹇#ルビの﹁ちかわんがた﹂はママ﹈、土どび瓶んが形た、大だい小せう土ど器き十餘よし種ゆ。石せき劒けん片へん、石いし槍やり、貝かひ輪わ、輕かる石いし製せい浮うき標と等う出いづ︶
これは大たい變へんと、總そう掛がゝりで地ぢならしをして、今こん度どは又また思おもひ思おもひに陣ぢんを取とり、西にしから東ひがしに向むかつて坑こう道だうを進すゝめ掛かけた。
此この間あひだにチヨイ〳〵飛とび入いりの發はつ掘くつ者しやが見みえた。野のな中かく完わん一いち氏し、伊いさ坂かば梅いせ雪つ氏し、小こみ南なみ保やす之のす助け氏し、高たか橋はし佛ぶつ骨こつ氏しと等う。
十二月ぐわつの四日かであつた。余よと幻げん花くわ子しと二騎き、轡くつわを並ならべて掘ほつて居ゐると。
﹃江え見みクン、出でた〳〵﹄と幻げん子しが變へんな聲こゑを出だした。
何なにが出でたかと覗のぞいて見みると、眞まつ白しつ﹇#ルビの﹁まつしつ﹂はママ﹈い貝かひ層そうの中なかから、緑りよ泥くで片いへ岩んがんの石せき棒ぼうの頭とう部ぶが見みえ出だして居ゐる。
それが横よこ一文もん字じに貝かひ層さうの間あひだに挾はさまつて居ゐるのを。
﹃未まだ有ある、未まだ有ある﹄と幻げん子しは調てふ子しを取とりながら掘ほつて行ゆくので、見みて居ゐるに耐たえぬ。
殘ざん念ねんでならぬので、自じぶ分んの持もち場ばを一生しや懸うけ命んめいに掘ほつたけれど、何なにも出でない。幻げん子しの大だい成せい功かうに引ひき替かへて大だい失しつ敗ぱい。活くわつ望ぼう二子しも茫ばう然ぜんとして了しまつた。
其その翌よく五いつ日か、奮ふん然ぜんとして余よは唯たゞ一ひと人りで行ゆ﹇#ルビの﹁ゆ﹂はママ﹈つた。寒さむいい風かぜが吹ふき、空そらの曇くもつた、厭いや﹇#ルビの﹁いや﹂は底本では﹁いな﹂﹈な日ひであつたが、一ひと人りで一生しや懸うけ命んめいに掘ほつたけれど、何なにも出でて來こぬ。晩ばんまで掛かゝつて漸やうやく土ど器きの端ふちでも磨すつたらしい石いしと、把とつ手ての平へい凡ぼんなのを二三箇こ得えたばかり。がツかりして歸かへつて、食しよ卓くたくにつきながら、把とつ手ての一ひと箇つを家かじ人んに示しめして、これが責せめて土どぐ偶うの顏かほでも有あつたら、昨きの日ふの敗はい軍ぐんを盛もり返かへすものをとつぶやくと、脇わきで見みて居ゐた母はゝが﹃おや〳〵それは人にん形ぎやうの顏かほではなかつたのか﹄といふ。﹃へえ、人にん形ぎやうの顏かほだと好いいのですが、然さうではないのです﹄と余よは答こたへた。
母はゝは重かさねて﹃でも妾わたしには人にん形ぎやうの顏かほに見みえる﹄余よ﹃然さうですな、これが眉まゆ毛げで、これの下したに眼めがあると好いいのですが﹄と言いひつゝ、小こや揚う子じで﹇#﹁小揚子で﹂はママ﹈ツヽくと、土つちが、ポロリと落おちて、兩りや眼うがんが開ひらいた。おや〳〵と思おもひながら、又またツヽくと、鼻はなの孔あなさへ二ツ開ひらいた。正まさしく土どぐ偶うの顏がん面めんなのであつた。︵第壹圖ロ參照︶
それから又また調てふ子し附づいて、雪せつ中ちう雨うち中う構かまひ無なしに掘ほつて、三十五年ねんの十二月ぐわつ三十日にち、棹たう尾びの成せい功かうとしては望ぼう蜀しよ生くせいが、第だい貳に圖づロの如ごとき口こう唇しん具ぐを出だした。朱しゆ塗ぬりである。
最もつとも振ふるつて居ゐたのは三十六年ねん一月ぐわつ元ぐわ旦んたんで、此この日ひ年ねん始しに來きた幻げん花くわ子しは、掘ほり初ぞめをすると云いつて唯たゞ一ひと人りで出で掛かけたのを、後あとから、靜せい灣わん、佳かす水ゐ、天てん仙せん、望ぼう蜀しよく、古こか閑ん、狹さご衣ろも、活くわ東つとうの七人にんと評ひや議うぎの上うへ、二ふた人りづ宛ゝ四方はうから進すゝんで、穴あなに籠こもる幻げん子しを包はう圍ゐこ攻うげ撃きして遣やらうといふので、それ〳〵に﹇#﹁それ〳〵に﹂はママ﹈手てく配ばりしたが、活くわ東つと子うしが不ぶ間まを遣やつて、却かへつて幻げん花くわ子しの方はうから突とつ貫くわんし來きたつたのであつた。
其その時ときの八人にんの内うちで、活くわ東つとう天てん仙せん古こか閑んの三子しは、今いまは現この世よの人ひとであらぬ。
三十六年ねんに入いつて余よは大だい成せい功かうをした。一月ぐわつ十六日にちには、土ど器きに朱しゆを以もつて緻ちみ密つなる模もや樣うを畫ゑがいてあるのを、二ふた箇つまで掘ほり出だした。それから四十二年ねんの今こん日にちまでに斯かくの如ごとき珍ちん品ぴんは又またと出いでずに居ゐる。余よが藏ざう品ひん中ちうの第だい一位ゐを占しめて、未いまだ一歩ぽも下さがらずに居ゐる。
それから、土ど器きも種いろ々〳〵出でた。奇きだ談んも種いろ々〳〵有あつた。
貝かいをさらひ出だすのに就ついて、活くわ東つと子うしと幻げん花くわ子しと衝しよ突うとつする。發はつ掘くつの進しん路ろに就ついて衝しよ突うとつする。狹さご衣ろも子しが手てつ傳だひに來きては、つい、社しやに出でる時じか間んを忘わすれた事ことや、佛ぶつ骨こつ子しが穴あなの中なかで午ひる睡ねをした事ことや、これ等らは奇きだ談んの主おもなるもの。
發はつ掘くつ品ひんとしては三十六年ねん三月ぐわつ十九日にちに、活くわ東つと子うしが方はう形けい裏うら模もや樣うの土ど器きを出だし、望ぼう蜀しよ生くせいが、同どう二月ぐわつ二十二日にちに壺つぼ形がた土ど器きを出だし、玄げん川せん子しが土どぐ偶うの足あしと、第だい二に圖づニの如ごとき、珍めづらしく複ふく雜ざつなる把とつ手てを出だし。余よが又また土どぐ偶うの足あし、半はん磨ませ石き斧ふ、三月ぐわつ二十二日にちに獸じふ牙がせ製いま曲がた玉まの一種しゆ、略りやくしてキバマガ︵第二圖ハ參照︶を出だし、同どう月げつ二十六日にちに、鹿ろく角かく製せい浮うき袋ぶくろの口くち︵第二圖イ參照︶を出だし、四月ぐわつ三日かに土どぐ偶うど胴う部ぶ︵第壹圖ハ參照︶を出だした等とうが主おもなる物もの。
第貮圖︵武藏權現臺︶﹈ イ︵浮袋口︶ ロ︵口唇具︶ ハ︵牙曲玉︶ ニ︵把手︶ ホ︵有孔石器︶
第貮圖︵武藏權現臺︶﹈ イ︵浮袋口︶ ロ︵口唇具︶ ハ︵牙曲玉︶ ニ︵把手︶ ホ︵有孔石器︶
此この間あひだに望ばう蜀しよ生くせいは故こき郷やうに歸かへり、活くわ東つと子うし又また振ふるはず。幻げん花くわ子しは相あひ變かはらず。それと玄げん川せん子しを相あひ手てにぼつ〳〵掘ほつて、到たう頭とう鷄とり屋やの塀へいの下したまで掘ほり進すゝんで、夏なつの頃ころには既もう手ての附つけ場ばし所よが無なくなつた。
思おも出ひだして見みると未まだ奇きだ談んがあつた。母はゝや妻さいや親しん類るゐの子こど供もや、女ぢよ中ちうや、遠とほくも無ないので摘つみ草くさかた〳〵﹇#﹁かた〳〵﹂はママ﹈見けん物ぶつに來きた事ことが有あつた。其その時ときは生あい憎にく何なにも出でないので、採さい集しふ袋ぶくろへ摘つみ草くさを入いれて歸かへつた事こともあつた。
最もつとも奇きだ談んとすべきは地ぢぬ主しの某ぼう氏しが來きた時ときである。とは知しらぬので貝かいを揚あげるのに邪じや魔まだから、其そ所こを退どいて呉くれなんて威ゐ張ばり散ちらして、後あとで地ぢぬ主しと分わかつて、有あり合あはせの駄だぐ菓わ子しを出だして、機きげ嫌んを取とつた事ことなどである。
やがて其その秋あきには、殘のこらず貝かい塚づかは開ひらかれて、畑はたけと成なつて了しまつたが、それでも余よ等らは未みれ練い﹇#ルビの﹁みれい﹂はママ﹈に引ひかされて、表ひや面うめ採んさ集いしふに時とき々〴〵立たち寄よるが、其その後のちとても、土どぐ偶うを得え、磨ませ石き斧ふを得え、三十七年ねんの九月ぐわつには、第だい二圖づホの如ごとき有ゆう孔こう石せき器ゝをさへ表ひや面うめんで得えた。これは曲まが玉たまの一種しゆでもあらう。
これだけ荒あらした權ごん現げん臺だいは、其その後のち幾いく變へん遷せんして、以も前との樣さまは既もう見みられぬ。四十一年ねんの夏なつ行いつて見みると、彼かの鷄とり屋やさへ失なくなつて了しまつて居ゐる。幻げん花くわ子しは鷄とり屋やの出で來きぬ前まへから知しつて居ゐるのだ。余よが知しつてからも三四代だい主しゆ人じんが變かはつたのであつた。
二代だい目めの時じだ代いの鷄とり屋やの番ばん人にんに好いい老らう人じんが居ゐて、いろ〳〵世せ話わをして茶ちやなど入いれて呉くれて居ゐたが、其その老ろう人じん間まもなく死しんだので、何なんとなく余よは寂せき寞ばくを感かんじたのであつた。それから三代だい目め四代だい目めとは、無むく關わん係けいで、構こう内ないへは一歩ぽも足あしを踏ふみ入いれなかつたが、到たう頭〳〵その鷄とり屋やは亡ほろびて了しまつたので、これを幸さいはひと佛ぶつ骨こつ子しをかたらひ、又また少すこし掘ほつて見みた。それでも土ど器きが一ひとツ、磨ませ石き斧ふが一本ぽん出でた。
此この後のち權ごん現げん臺だいは如ど何う變かはるだらう。
初はじめて萱かや原はらに分わけ入いつた時ときに居ゐた活くわ東つと子うしは死しんだ。望ぼう蜀しよ生くせいは如ど何うしたのか、寄よりつきも仕しない。狹さご衣ろも子しは役やく者しやに成なつて、あの泥どろを渫しやくつた手てでお白しろ粉しい﹇#ルビの﹁しろしい﹂はママ﹈を解ときつゝあり。幻げん花くわ子しも新しん聞ぶんの方はうが忙いそがしいので、滅めつ多たに來こず。自じぶ分ん一ひと人りで時とき々〴〵掘ほり始はじめの處ところへ立たつては、往むか事しを追つひ懷くわいすると、其その時ときの情じや景うけいが眼がん前ぜんに彷ほう彿ふつとして見みえるのである。が――既もう直ぢきに其そ處こは人ひとの屋やし敷きう内ちにでもなつて、垣かきから覗のぞく事ことも出で來きなくなるだらう。
纔わづかに五六年ねんで地ちじ上やうは此この變へん化くわである。地ちち中うの秘ひみ密つはそれでも、三千餘よね年んの間あひだ保たもたれたと思おもふと、これを攪くわ亂んらん﹇#ルビの﹁くわんらん﹂はママ﹈した余よ等らは、確たしかに罪ざい惡あくであると考かんがへずには居ゐられぬのである。