――雪ヶ谷の道路――金槌で往來を擲く――嶺千鳥窪發掘歴史――土瓶の續出――露西亞式の發掘――棄權の跡――土瓶の仇討――都々逸の功徳――異臭紛々――内部に把手の有る破片――
嶺みねの發はつ掘くつを語かたる前まへに、如ど何うしても故こ飯いひ田だと東うく皐わう君くんとの關くわ係んけいを語かたらねばならぬ。
三十六年ねんの夏なつ、水みづ谷たに氏しが内うちの望ぼう蜀しよ生くせいと共ともに採さい集しふに出でかけて、雪ゆきヶ谷やの圓えん長ちや寺うじの裏うらの往わう還くわんを掘ほつて居ゐた。道だう路ろが遺ゐせ跡きに當あたるので、それをコツ〳〵掘ほりかへして居ゐたのだ。
其そ所こへ來きあ合はせた一紳しん士しが、貴あな君たが方たは何なにをするんですかと咎とがめたので、水みづ谷たに氏しは得とく意いの考かう古こが學くけ研んき究うを振ふり舞まはした。其その紳しん士し連しきりに傾けい聽ちやうして居ゐたが、それでは私わたくしも仲なか間まに入いれて貰もらひたい。兎とも角かく手てま前への宅たくへ來きて下くださいといふので、二ふた人りはのこ〳〵附ついて行いつた。
其その先さきは、つい、下したの、圓えん長ちや寺うじ。日にち蓮れん宗しうの大おほ寺でらである。紳しん士しが帽ぼう子しを取とり去さると、それは住じう職しよくの飯いひ田だと東うく皐わう氏し。
此こ所ゝで水みづ谷たに氏しと飯いひ田だ氏しとはすツかり懇こん意いに成なつて了しまつたので、今こん度どは僕ぼくの弟で子しを連つれて來きますから、一處しよに發はつ掘くつしませうと、大だい採さい集しふ袋ぶくろを擴ひろげた結けつ果くわ、七月ぐわつ十八日にちに水みづ谷たに氏しは余よと高たか橋はし佛ぶつ骨こつ氏しと、望ぼう蜀しよ生くせいとを率ひきゐて行ゆく事こととなつた。
余よと望ぼう生せいとは徒と歩ほである。幻げん花くわ佛ぶつ骨こつ二子しは自じて轉んし車やである。自じて轉んし車やの二子しよりも、徒と歩ほの余よ等らの方はうが先さきへ雪ゆきヶ谷やへ着ついたなどは滑こつ稽けいである。如い何かに二子しがよたくり廻まはつたかを想さう像ぞうするに足たる。
待まてども〳〵遣やつて來こぬので、ハンマーを持もつて往わう還くわんをコツ〳〵穿うがち、打だせ石き斧ふの埋うもれたのなど掘ほり出だして居ゐたが、それでも來こない。仕しか方たが無ないので此こつ方ちの二ふた人りは、先さきへ寺てらの中なかに入はいつた。
其その後あとへ自じて轉んし車やた隊いが來きて、居ゐあ合はせた農のう夫ふに、二ふた人りづ連れの、人にん相さうの惡わるい男をと子こが、此この邊へんをうろ〳〵して居ゐなかつたかと問とうて見みると、農のう夫ふ頗すこぶる振ふるつた答こたへをした。
﹃はア今いまの先さき、二ふた人りづ連れで、何なんだか知しんねえが、金かな槌づちを持もつて、往わう來らいを擲たゝきながら歩あるいて居ゐたツけ﹄
金かな槌づちで往わう來らいを擲たゝくとは奇きば拔つである。大おほ笑わらひをして、自じて轉んし車やた隊いは寺てらに入はいつた。
四人にん合がつして頼たの母もを乞こうて見みると、住じう職しよくは不ふざ在いとある。
や、大だい失しつ敗ぱいと、がツかりして、先まづ本ほん堂だうの椽えん側がはへ腰こしを掛かける。いつしかそれが誰たれ先さきとなく草わら鞋じを脱ぬぐ。到たう頭〳〵四人にん本ほん堂だうへ上あがり込こんで、雜ざつ談だんをする。寐ねこ轉ろぶ。端はては半な燒ほ酎しを村むらの子こに頼たのんで買かひに遣やつて、それを飮のみながら大だい氣きえ焔んを吐はく。留る守す居ゐの女ぢよ中ちうは烟けむに卷まかれながら、茶ちやを入いれて出だす。菓くわ子しを出だす。菓くわ子しは疾とくに平たひらげて了しまつて、其その後あとへ持ぢさ參んの花はな竦らつ薑きやうを、壜びんから打うち明あけて、酒さけの肴さかなにして居ゐる。
其そ所こへ、ひよツくり住じう職しよくは歸かへつて來きて。
﹃いやこれは〳〵﹄と驚おどろかれた。
然さうして、四邊へんをきよろ〳〵見みま廻はしながら。
﹃留るゐ守ち中う﹇#ルビの﹁るゐちう﹂はママ﹈これは失しつ禮れいでした。妻さいが居ゐませんので、女ぢよ中ちう﹇#ルビの﹁ぢよちう﹂は底本では﹁ぢうちう﹂﹈ばかり‥‥や、つまらん物ものを差さし上あげて恐きよ縮うしゆくしました﹄と花はな竦らつ薑きやうを下した目めで見みる。
入いれ物ものは其そつ方ちのですが、其そのつまらん中なか身みは持ぢさ參んですと言いひたい處ところを、ぐツと我がま慢んして、余よ等らは初しよ對たい面めい﹇#ルビの﹁しよたいめい﹂はママ﹈の挨あい拶さつをした。
それから東とう皐くわ子うしの案あん内ない﹇#ルビの﹁あんない﹂は底本では﹁あんなん﹂﹈で、嶺みね村むらに是ぜく空うあ庵ん、原はら田だぶ文んか海い氏しを訪とうべく立たち出いでた。
原はら田だ氏し﹇#﹁はらだし﹂は底本では﹁ らだし﹂﹈は星ほし亨とほ氏るし幕ばつ下かの雄ゆう將しやうで、關くわ東んとうに於おける壯さう士しの大おほ親おや分ぶんである。嶺みね村むら草くさ分わけの舊きう家けであるが、政せい事じね熱つで大だい分ぶ軒のきを傾かたむけたといふ豪がう傑けつ。美びせ髯ん﹇#ルビの﹁びせん﹂はママ﹈、禿とく頭とう、それがシヤツ、ヅボン下したに、大おほ麥むぎ稈はら帽ぼうを冠かぶつて、今いましも畑はたに水みづを遣やつて居ゐる處ところ。
﹃やア、僕ぼくは今いま、フアーマーをして居ゐる處ところだ。まア上あがり給たまへ。直ぢき足あしを洗あらふ。離はな座れざ敷しきは見みは晴らしが好いいから﹄と客きやくを好このむ。
﹃いや、上あがらんで其その儘まゝが好いい。掘ほりに行ゆくのだから、フアーマーが結けつ構かうだ﹄と東とう皐くわ氏うしはいふ。
﹃掘ほるのなら僕ぼくの知しつて居ゐる者ものの雜ざふ木きや山まが好いい。案あん内ないするから來きた給まへ﹄と文ぶん海かい子しは先さきに立たつた。
同どう勢せい六人にんで行ゆつて見みると、それは我われ等らの間あひだに既すでに名なだ高かき、嶺みね千ちど鳥りく窪ぼの遺ゐせ跡きである。
此こ所ゝならば度たび々〴〵來きたが、未まだ大だい發はつ掘くつはせずに居ゐるのだ。今け日ふ掘ほつても好いいかと問とふと、大だい丈じや夫うぶだ。原はら田だぶ文んか海いが心こゝ得ろえとると大おほ呑のみ込こみ。
それ、掛かゝれツと、蠻ばん勇ゆう隊たいは一時じに突とつ貫くわん。これが抑そもそも嶺みね千ちど鳥りく窪ぼだ大いは發つく掘つの發ほつ端たん。
抑そもそも此こ所ゝ千ちど鳥りく窪ぼが、遺ゐせ跡きとして認みとめられたのは、隨ずゐ分ぶん古ふるい事ことで、明めい治ぢ二十一年ねんの九月ぐわつには、阿あべ部せい正こ功う若わか林ばや勝しか邦つくにの二氏しが既すでに發はつ掘くつをして居ゐる。其その後ご三月ぐわつ二十八日にちに、内うち山やま九三郎らう氏しが發はつ掘くつして、大おほ把とつ手てを出だした。其その記き事じは東とう京きや人うじ類んる學ゐが會くゝ雜わい誌ざつしの八十六號がうに記きさ載いせられてある。
其その後のち、表へう面めん採さい集しふ、或あるひは小せう發はつ掘くつに來きた人ひとは、少すくなくあるまいが、正せい式しきの發はつ掘くつに掛かゝるのは我われ々〳〵が三番ばん目めに當あたるのだ。
加それ之に、前まへの諸しよ氏しが發はつ掘くつしたのは、畑はた中なかに塚つかの形かたちを成なして居ゐた處ところで、それは今いま開ひらかれて形かたちを留とめぬ。
我われ々〳〵の著ちや手くしゆするのは、一本ぽん老らう松しやうのある雜ざふ木きや山まの中なかで、一ちよ寸つと眼めには、古こふ墳んでも有あるかと思おもはれるが、これは四方はうを畑はたに開ひらいて自しぜ然んに取とり殘のこされた一區くゝ劃わくに他ほかならぬ。つまり、畑はたに開ひらき難にくいので其その儘まゝ放はう棄きされて居ゐる、それだけ貝かい層そうが深ふかいのである。
幻げん花くわ子しは佛ぶつ骨こつ子しと共ともに、松しや下うか南なん面めんの左さた端んから掘ほり進すゝみ。余よと望ぼう蜀しよ生くせいとは右うた端んから掘ほり進すゝみ、中ちう央わうを東とう皐くわう文ぶん海かい二子しの初うゐ陣ぢんに委まかせた。忽たちまちの間うちに穴あなは連れん續ぞくして、大おほ穴あなを開ひらいた。
が、何なにも出でぬ。大だい破はへ片んがチヨイ〳〵見みい出だされるが、格かく別べつ注ちう意いすべき物ものではない。大おほいに疲ひら勞うして來きたので、引ひき揚あげやうかと考かんがへて居ゐる間うち、幻げん花くわ子しは、口こう部ぶだけ缺かけて、他たは完くわ全んぜんなる土どび瓶んを一箇こ、掘ほり出だした。
大だい氣きえ焔んで以もつて威ゐ張ばり散ちらされるので、品しな川がは軍ぐんは散さん々〴〵の敗はい北ぼく。文ぶん海かい子しが歸かへりに寄よつて呉くれといふのも聽きかず、望ぼう蜀しよ生くせいを連つれて、せツせと歸かへり支じた度くした。ぷツぷツ憤おこつてゞある。
幻げん花くわ子しは、此この土どび瓶んを布ふろ呂し敷きに包つゝみ、背せに斜はすに掛かけて負おひ、自じて轉んし車やに反そり身みで乘のつて走はしらすのを、後うしろから見みて行ゆく佛ぶつ骨こつ子しが、如ど何うかして自じて轉んし車やから落おちて、土どび瓶んを破こはしたら面おも白しろからうと呪のろつたといふ。それで考かんがへても幻げん翁おうの大だい氣きえ焔んは知しるべしである。
これで病やみ附ついた東とう皐くわ子うしは、翌よく日じつ徒とて弟い及および穴あな掘ほりの老おや爺ぢを同どう行かうして、盛さかんに發はつ掘くつし、朝あさ貌がほ形がた完くわ全んぜ土んど器きを出だしたなどは、茶ちや氣き滿まん々〳〵である。
七月ぐわつ二十三日にちには、幻げん翁おう、望ぼう生せい、及および余よの三人にんで出で掛かけたが、此この時ときも亦また幻げん翁おうは完くわ全んぜんなる小せう土どび瓶んを一箇こ出だし、望ぼう生せいは砧きぬ形たがたを成なす小せう角かく器き︵用よう法はふ不ふめ明い。類るゐ品ひん下しも總ふさ余よや山まより出いづ︶と朝あさ貌がほ式しきの完くわ全んぜ土んど器きとを出だし、而しかして余よは大だい失しつ敗ぱい。
斯かうなると既もう厭いやに成なつて來くる。貧びん乏ぼう貝かひ塚づかだの、馬ばか鹿かひ貝づ塚かだの、狗くそ鼠かひ貝づ塚かだの、あらゆる惡あく罵ばを加くはへるのである。
東とう皐くわ子うしはそれを聞きいて、手てが紙みで﹃思おもひ直なほして來くる氣きは無ないか鳥とりも枯かれ木きに二度どとまる﹄と言いつて寄よ越こす。幻げん翁おうもすゝめる。罵のゝしりながらも實じつは行ゆきたいので、又また出で掛かける。相あひ變かはらず何なにも無ない。
電でん車しやは無なし、汽きし車やで大おほ森もりまで行ゆく。それから俥くるまで走はしらせるなど、却なか々〳〵手て間ま取とるのだが、それでも行ゆく。
と餘あまり猛もう烈れつに掘ほり立たてるので、地ぢぬ主しが感かん情じやうを害がいして、如ど何うか中ちう止しして貰もらひたいと掛かけ合あひに來くるのである。
掘ほつてる穴あなを覗のぞきながら、地ぢぬ主しは頑ぐわ固んこに中ちう止しを言いひ張はる。下したでは掘ほりながら、談だん判ぱんはどうか原はら田ださんの方はうへ言いつて呉くれと取とり合あはぬ。これを露ろし西あ亞し式きの發はつ掘くつと云いつて笑わらつたのであつた。
然さう斯かうして居ゐる間うちに、松しよ下うか南なん面めんの方はうは大たい概がい掘ほり盡つくして了しまつた。余よは九月ぐわつ二日か幻げん翁おう佛ぶつ子しの二人にんと共ともに行ゆつて、掘ほらうとしたが、既もう余よの坑あなは、松まつの木きの根ねか方たまで喰くひ入いつて了しまつて、進すゝむ事ことが出で來きぬ。
已やむを得えず、松まつの東とう面めんの方はうに坑あなを開ひらかうとして、草くさ原はらを分わけて見みると、其そ所こに掘ほり掛かけの小せう坑かうがある。先せん度ど幻げん翁おうが試しく掘つして、中ちう止しした處ところなのだ。
﹃如ど何うです、君きみは此こ所ゝを未まだ掘ほりますか﹄と問とうて見みると。
﹃いや、其そ所こは駄だ目めで、貝かい層そうは直ぢきに盡つきて了しまうです﹄と幻げん翁おうはいふ。
それでは其その棄きけ權んした跡あとを讓ゆづ受りうけやうとて、掘ほり掛かけると、なる程ほど、貝かい層そうは五六寸すんにして盡つきる。が、其その下したの土つちの具ぐあ合ひが未まだシキとも見みえぬので、根こん氣き好よく掘ほり下さげて見みると、又また新あたらしき貝かい層そうがある。二重ぢうに成なつて居ゐるらしい。
其その貝かい層そうのシキまで掘ほり下さげて見みると、萬まん鍬ぐわの爪つめの間なかを巧うまく潜くゞつて、土つちの中なかから、にゆツと出でた突とつ起きぶ物つ。
把とつ手てでもあるかと、そろ〳〵掘ほつて見みると、把とつ手てには相さう違ゐないが、それは土どび瓶んのツルカケの手てと、それに接せつして土どび瓶んの口くち。
おや〳〵と思おもひながら、猶なほ念ねんを入いれて土つちを取とつて見みると、把とつ手ての一部ぶのみ缺かけて他たは完くわ全んぜんなる土どび瓶んであつた。︵第三圖イ參照︶
第三圖︵武藏嶺︶ イ︵土瓶︶ ロ︵土器︶ ﹃出でた〳〵﹄と叫さけぶ。 ﹃出た?﹄と眼めの色いろを變かへて、幻げん翁おうは覗のぞき込こむ。佛ぶつ子しは手てを打うつて喜よろこび。 ﹃嶺みね千ちど鳥り土どび瓶んの仇あだ討うち﹄と地ぢ口ぐる。 此この日ひは全まつたく大だい勝しや利うりであつた。土どび瓶んの他ほかに完くわ全んぜ土んど器きが一箇こ。 東とう皐くわ子うしは之これを聞きいて、正まさしく都どゞ々い逸つの功くど徳くだと誇ほこるのであつた。 味あぢを締しめて同どう月げつ七日かに行ゆくと、完くわ全んぜんなる大だい土ど器き、及および大だい土ど器きの下か部ぶが取とれて上じや部うぶのみを廢はい物ぶつ利りよ用うしたかと思おもふのと、土どき器せい製ざう造よ用うの石せき具ぐかと思おもふのと、鋸のこ目ぎりめに刻きざみたる獸じう牙がとを出だした。大あた當あた﹇#ルビの﹁あたあた﹂はママ﹈りである。 其その代かはり二十八日にちには大だい失しつ敗ぱいをして、坑あなに入いると忽たちまち異ゐし臭う紛ふん々〳〵たる物ものを踏ふみ付つけた。これは乞こじ食きの所しよ爲ゐだと思おもふ。 貝かひ塚づか發はつ掘くつの爲ために、余よは種しゆ々〴〵の遭そう難なんを重かさねるけれど、此この時ときの如ごとき惡あく難なんは恐おそらく前ぜん後ごに無なからうである。 到たう頭〳〵此この坑あなを見み捨すてるの已やむを得えぬに至いたつた。︵いや土ど器きが出でかゝつてゞも居ゐれば、决けつして見み捨すてるのでは無ない︶ 其その後のち望ぼう生せいが、土どぐ偶うへ變んけ形いとも見みるべき一箇この把とつ手てを有ゆうする土ど器き︵第三圖ロ參照︶其その他た二箇この土ど器きを出だし。余よも亦また土ど器きを三箇こばかり出だした。幻げん翁おうも大だい分ぶ出だした。 余よが出だした破はへ片んの内うちに、内うち模もや樣うのある土ど器きの内ない部ぶに把とツ手てを有ゆうするのがある。これなぞも珍ちん品ぴんに數かぞふべしだ。 斯かくして嶺みね千ちど鳥りく窪ぼの遺ゐせ跡きは、各かく部ぶめ面んに大おほ穴あなを穿うがち散ちらした。今いまでも其その跡あとは生なま々〳〵しく殘のこつて居ゐる。 露ろし西あし亞きは式つ發く掘つは併しかし好よい事ことでは無ない。それ限ぎり余等は行はぬ。
第三圖︵武藏嶺︶ イ︵土瓶︶ ロ︵土器︶ ﹃出でた〳〵﹄と叫さけぶ。 ﹃出た?﹄と眼めの色いろを變かへて、幻げん翁おうは覗のぞき込こむ。佛ぶつ子しは手てを打うつて喜よろこび。 ﹃嶺みね千ちど鳥り土どび瓶んの仇あだ討うち﹄と地ぢ口ぐる。 此この日ひは全まつたく大だい勝しや利うりであつた。土どび瓶んの他ほかに完くわ全んぜ土んど器きが一箇こ。 東とう皐くわ子うしは之これを聞きいて、正まさしく都どゞ々い逸つの功くど徳くだと誇ほこるのであつた。 味あぢを締しめて同どう月げつ七日かに行ゆくと、完くわ全んぜんなる大だい土ど器き、及および大だい土ど器きの下か部ぶが取とれて上じや部うぶのみを廢はい物ぶつ利りよ用うしたかと思おもふのと、土どき器せい製ざう造よ用うの石せき具ぐかと思おもふのと、鋸のこ目ぎりめに刻きざみたる獸じう牙がとを出だした。大あた當あた﹇#ルビの﹁あたあた﹂はママ﹈りである。 其その代かはり二十八日にちには大だい失しつ敗ぱいをして、坑あなに入いると忽たちまち異ゐし臭う紛ふん々〳〵たる物ものを踏ふみ付つけた。これは乞こじ食きの所しよ爲ゐだと思おもふ。 貝かひ塚づか發はつ掘くつの爲ために、余よは種しゆ々〴〵の遭そう難なんを重かさねるけれど、此この時ときの如ごとき惡あく難なんは恐おそらく前ぜん後ごに無なからうである。 到たう頭〳〵此この坑あなを見み捨すてるの已やむを得えぬに至いたつた。︵いや土ど器きが出でかゝつてゞも居ゐれば、决けつして見み捨すてるのでは無ない︶ 其その後のち望ぼう生せいが、土どぐ偶うへ變んけ形いとも見みるべき一箇この把とつ手てを有ゆうする土ど器き︵第三圖ロ參照︶其その他た二箇この土ど器きを出だし。余よも亦また土ど器きを三箇こばかり出だした。幻げん翁おうも大だい分ぶ出だした。 余よが出だした破はへ片んの内うちに、内うち模もや樣うのある土ど器きの内ない部ぶに把とツ手てを有ゆうするのがある。これなぞも珍ちん品ぴんに數かぞふべしだ。 斯かくして嶺みね千ちど鳥りく窪ぼの遺ゐせ跡きは、各かく部ぶめ面んに大おほ穴あなを穿うがち散ちらした。今いまでも其その跡あとは生なま々〳〵しく殘のこつて居ゐる。 露ろし西あし亞きは式つ發く掘つは併しかし好よい事ことでは無ない。それ限ぎり余等は行はぬ。