――彌生式土器の貝塚?――特種の遺跡――新に又貝塚――樽貝塚――疑問の貝塚――
望ばう蜀しよ生くせいが採さい集しふから歸かへつて來きた。それは三十六年ねん十一月ぐわつ三十日にちの夕ゆふ方がた。
何なにが有あつたか。
這こんなのが有ありましたと出だして見みせるのは、彌やよ生ひし式き土ど器きの上じや部うぶ︵第五圖參照︶と破はへ片ん澤たく山さん及および木この葉は底ぞこである。別べつに貝かひ塚づか土ど器きの網あじ代ろぞ底こ一箇こ。
第五圖︵武藏北加瀬︶ ︵彌生式土器上部︶ ﹃これは君きみ、彌やよ生ひし式きぢやアないか﹄ ﹃なる程ほど※﹇#感嘆符三つ、47-9﹈﹄ 破はへ片んをツギ合あはせて見みると、徳とく利りが形たの彌やよ生ひし式き土ど器き。とは知しらずに望ばう蜀しよ生くせいは貝かひ塚づか土ど器きと信しんじて掘ほつて來きたのである。場ばし所よは何ど處こだと聞きくと、神かな奈がは川け縣ん、橘たち樹ばな郡ごほり、北きた加かせ瀬む村らの貝かひ塚づか。 貝かひ塚づかから彌やよ生ひし式きが出でる。其そつ分ぶん量りやう﹇#ルビの﹁そつぶんりやう﹂はママ﹈は普ふつ通うの貝かひ塚づか土ど器きよりも、ずんと多たり量やう。 貝かひ塚づかに彌やよ生ひし式きが混こんじたと言いはうよりも、彌やよ生ひし式き土ど器きの出でる貝かひ塚づかに、他たの土ど器きが混こんじたと言いひたい位くらゐの分ぶん量りやうである。 いよ〳〵大だい問もん題だい。早さツ速そく、水みづ谷たに氏しの處ところへ報ほう告こくすると、氏しは大おほいに喜よろこんで、早さつ速そく十二月ぐわつに入いつて、望ばう蜀しよ生くせいと共ともに加か瀬せに行ゆつた。 發はつ掘くつの結けつ果くわ、依いぜ然んとして多たり量やうの彌やよ生ひし式きど土き器は破へ片ん、及および同どう徳とく利りが形たの上じや半うは部んぶを︵水みづ谷たに氏し、二箇こ。望ばう蜀しよ生くせい、三箇こ︶掘ほり出だした。 それが貝かひ層そうの四五尺しやく下したからである。曾かつて攪かく亂らんせる痕こん跡せきの無ない貝かひ層そう中ちうからである。 水みづ谷たに氏しも、余よ等らも、彌やよ生ひし式きに就ついては、意いけ見んを發はつ表ぺうせず、又また別べつに有いうして居をらなかつた時じだ代いである。 この大だい問もん題だいたる彌やよ生ひし式きに關くわんしてであるので、注ちう意いの上うへにも注ちう意いを加くはへて、其その土ど器きの出でる状じや態うたいを見みた結けつ果くわ、彌やよ生ひし式きか貝ひづ塚かとして發はつ表ぺうするに足たる、特とく種しゆの遺ゐせ跡きといふ事ことを確かく認にんした。 それからいよ〳〵問もん題だいが大おほきく擴ひろがつて、大だい學がく人じん類るゐ學がく教けう室しつで﹃彌やよ生ひし式きけ研んき究うく會わい﹄が開ひらかれ、其その結けつ果くわとして、加かせ瀬たん探け檢んの遠えん足そく會くわいが催もよほされた。 此この遠えん足そく會くわい位くらゐ、不ふと得くえ要うり領やうの甚はなはだしいのは無なかつた。銘めい々〳〵勝かつ手てに分わかつた々々と自じぶ分んの議ぎろ論んに都つが合ふの好いい方はうにのみ眼めを配くばつて、毫がうも學がく術じゆ的つて研きけ究んきうは行おこなはれず、一方ぱうは後あとから彌やよ生ひし式きが混こん入にふしたと云いひ、一方ぱうは、否いな、然しからずと云いひ。水みづ掛かけ論ろんで終をはつて了しまつた。 其その後のち、三十九年ねん七月ぐわつに、マンロー氏しを八や木ぎ氏しが引ひツ張ぱつて行ゆつて、大だい發はつ掘くつを試こゝろみた。其その報ほう告こくの一部ぶは人じん類るゐ學がく會くわ雜いざ誌つしに出でて居ゐるが、其その研けん究きうの要えう點てんは新しん古こ二時じだ代いの貝かひ塚づかが合がつして居ゐる。下か部ぶの貝かひ塚づかが、普ふつ通うので、其その上うへに彌やよ生ひし式きの貝かひ塚づかが重かさなつて居ゐるとか、たしかそんな事ことであつた。今いま雜ざつ誌しが手ても元とに無ないので委くはしくは記しるされぬ。 其その以い後ご、誰たれも手てを附つけぬ。漸やうやく余よが此この前まへを素すど通ほりする位くらゐであつたが、四十年ねん五月ぐわつ十二日にちに、余よは、織お田だ、高たか木ぎ、松まつ見み三子しと表へう面めん採さい集しふに此この邊へんへ來きた。其その時ときに︵地ちて底いた探んけ檢ん記き一五七頁ぺいじ參さん照せう︶貝かひ灰ばいの原げん料れうとすべく土どか方たが大だい發はつ掘くつをして居ゐたのを初はじめて知しり、それから六月ぐわつ十四日かに又また一度ど行ゆつて見みたが、兩りや度うどとも實じつに大だい失しつ望ばうであつた。 それは、二十坪つぼばかりの貝かひ殼がらを、殘のこらず綺きれ麗いに取とり出だして、他たの藪やぶの方はうに運はこび、其そ所こで綺きれ麗いに、貝かひは貝かひ、石いしは石いし、土つちは土つちと、篩ふるひで分わけてあるに拘かゝはらず、石せき器きも、土ど器きも、獸じう骨こつも、何なにも出でて居をらね﹇#﹁居らね﹂はママ﹈。︵貝かひ塚づか土ど器きの破はへ片んが、僅わづかに二三片ぺん見みい出だされたが、貝かひの分ぶん量りやうから比ひか較くして見みると、何なん億おく萬まん分ぶんの一いちといふ位くらゐしかに當あたらぬ︶ それから殘のこりの斷だん面めん貝かひ層そう︵一丈じや餘うよ︶三方ぱうを隈くまなく見みま廻はつたが、何ど處こに一片ぺんの土どき器は破へ片ん、其その他たを見みい出ださなかつた。 彌やよ生ひし式きもなければ、普ふつ通うの貝かひ塚づか土ど器きも見みい出ださぬ。爪つめから先さきの破はへ片んも、見みい出ださぬ。 唯たゞ、一箇かし所よ、丈じや餘うよの貝かひ層そうの下か部ぶから一二尺しやくの處ところに、小こい石しで爐ろの如ごとく圍かこつた中なかで、焚たき火びをしたらしい形けい跡せきの個かし所よが、半はん分ぶん切きりくづされて露ろし出ゆつして居ゐるのを見みい出だした。炭すみ、燒やけ灰ばい等などが、小こい石しで圍かこまれた一小せう部ぶぶ分んに滿みちて居ゐるのを見みい出だしただけである。 言げんを奇きにして言いへば、此この貝かひ塚づかは彌やよ生ひし式きのでも無ない、石せき器きじ時だ代いのでも無ない、一種しゆ特とく別べつの貝かひ塚づかに、彌やよ生ひし式きも混こん入にふした。他たの土ど器きも混こん入にふしたと――まア言いひたい位くらゐゐ﹇#﹁位くらゐゐ﹂はママ﹈、何なんにも出でぬ。 もし、何なにか出でたなら、通つう知ちして呉くれ。然さうすれば酒さか手てを出だすからと土どか方たれ連んに依いら頼いして、余よは此こ所ゝを去さつた。 七月ぐわつ十八日にちに土どか方たからハガキが來きて、土ど器きが出でたから、加かせ瀬む村らの菱ひし沼ぬま鐵てつ五ごら郎うの宅たくまで來こいとある。 十九日にち、雨うち中うを、余よは行ゆつて見みて、驚おどろいた。今いままでの貝かひ塚づか發はつ掘くつは臺だい地ち東とう部ぶの坂さかの上じや部うぶ左さそ側くであつたが、臺だい地ち南なん側そくの下か部ぶ、菱ひし沼ぬま鐵てつ五ごら郎う宅たく地ち前まえの畑はたけを、大だい發はつ掘くつしてある。一反たん以いじ上やう貝かひを掘ほり取とつて運はこび出だしてある。其その跡あとからは清しみ水づが湧ゆう出しゆつして、直たゞちに田たに入いる程ほど低ひくくなつて居ゐる。此こ所ゝに貝かひ塚づかがあらうとは、今け日ふまで知しらなかつた。それを又また大だつ發はつ掘くつ﹇#ルビの﹁だつはつくつ﹂はママ﹈して居ゐやうとは知しらなかつた。 隈くまなく其その、大だい々/″發\は掘つく跡つあとの、一反たんばかりある處ところを歩あるいて見みれば、爪つめの先さきほどの破はへ片んをも見みい出ださぬ。 奇きく怪わい々/々\※﹇#感嘆符三つ、52-11﹈ と云いつて、それが第だい三紀き層そうに屬ぞくする舊きふ貝かひ塚づか︵といふも變へんだが︶とも思おもはれぬ。何な故ぜならば、灰はいを混こんじて、細さい密みつに碎くだかれたる貝かひ殼がらが、貝かひ層そう中ちうに一線せんを畫かくして、又また層そうを成なして居ゐるからである。 迷めい宮きうに入いつた感かんなき能あたはずである。 如い何かに不ふい有うば望うの貝かひ塚づかだとて、これだけの大だい部ぶぶ分んを發はつ掘くつして、小せう破はへ片ん一箇こ出でぬといふ、そんなのは未いまだ曾かつて無ない。 此この新しん發はつ見けんの奇きく怪わいなる貝かひ塚づかと、前まへの奇きく怪わいなる貝かひ塚づかと、山さん上じやう、山さん下か、直ちよ徑くけいとしたら、いくらも離はなれて居をらぬ。三四十間けんより遠とほくは有あるまいが、しかし、山さん上じやうと山さん下か、貝かひ層そうの連れん絡らくの無ない事ことは、明あきらかである。 疑ぎも問んの上うえに疑ぎも問んが重かさなつたのである。 兎とも角かくも土どか方たを菱ひし沼ぬまの宅たくに訪たづねて、其その出でたといふ土ど器きを見みると、完くわ全んぜんなる徳とく利りが形たの、立りつ派ぱなる彌やよ生ひし式きである。それに又またカワラケの燈とう明みや皿うざら︵燈とう心しんの爲ために一部ぶの黒くろく焦こげたる︶と、高たか抔つき﹇#﹁高抔﹂はママ﹈の一部ぶとである。 以いじ上やう三點てんは坂さかの上うへの貝かひ塚づかから出でたといふのである。 徳とく利りが形たのは、水みづ谷たに氏しも同どう形けいを三箇こ、我わが望ばう生せいも前ぜん後ご四箇こを出だして居ゐる。それと同どう形けい式しきであるから、疑うたがう事ことはないが、他たの二箇こは、如ど何うも怪あやしい。土どか方たの説せつ明めいは點てん頭とうし得えられぬのであつた。 次つぎに余よは、宅たく前まへの新あらたなる貝かひ塚づかから、何なにか出でぬかと問とうたが、土どか方たは首くびを振ふつて、出でたらば破はへ片んでも取とつて置おけツてお前まへさんが言いつたので、隨ずゐ分ぶん氣きはつけたが、何なにも無なかツたといふ。 酒さか手てを得える爲ためには、疑うたがうべき土ど器きさへ他たから持もつて來きさうな人ひと達たちである。破はへ片んでも報ほう酬しうは與あたへると云いつたのに、出でた破はへ片んを、彼かれ等らが隱かくす必ひつ用ようは無ないのだから、全まつたく菱ひし沼ぬま宅たく前まへからは、何なにも出でなかつたのであらう。 疑ぎも問んいよ〳〵疑ぎも問ん※﹇#感嘆符三つ、54-7﹈ これに就ついて余よは思おもひ出ださざるを得えないのである。 鶴つる見みだ臺いの各かく所しよに、地ちめ名いへ表うには遺ゐせ跡きとして記きに入ふあるが、實じつ際さいに於おいて、破はへ片ん一ひと箇つ見みい出ださぬ貝かひ塚づかが少すくなくない。︵大だい發はつ掘くつはせぬが︶ 電でん車しやが神かな奈が川はに初はじめて通つうじた時ときに、其その沿えん道だう低てい地ちに、貝かひ塚づかを發はつ見けんしたといふ人ひとの説せつを聞きき、實じつ地ちに就ついてチヨイ〳〵發はつ掘くつして見みて、破はへ片んの香にほひもせなんだ例れいを考かんがへ、又また橘たち樹ばな郡ごほり樽たるの貝かひ塚づかは、可か成なり大おほきいけれど、僅わづかに一小せう破はへ片んを見みい出だしたのみといふ八や木ぎ水みづ谷たに﹇#ルビの﹁みづたに﹂は底本では﹁みづたみ﹂﹈二氏しの談だん話わなど考かんがへて、余よはおぼろ氣げながら。 第だい三紀き層そうに屬ぞくする貝かひ塚づか。 石せき器きじ時だ代いの貝かひ塚づか。 此この二貝かひ塚づかの他ほかに、一種しゆの貝かひ塚づかが有ある樣やうに考かんがへられて來きた。 無むろ論ん直ちよ覺くか的くてきである。理りろ論んを立たてるには未いまだ材ざい料れうが少せう數すうであるが。 それで先まづ樽たるの貝かひ塚づかが探たん檢けんしたくなつたので、四十一年ねん六月ぐわつ四日か、樽たるに行ゆつて見みた。然しかるに今いまは全ぜん滅めつして、僅わづかに畠はたけに貝かひ殼がらが點てん々〳〵浮ういて居ゐる位くらゐで、迚とても層そうを見みる事ことは出で來きぬ。皆みな道だう路ろに引ひき出だしたらしい。 地ぢぬ主しの主しゆ婦ふに就ついて聞きいて見みると、徳とく利りのやうな物ものが出でた事ことが有あつたといふ。 徳とく利りし式きの貝かひ塚づか土ど器きは、東とう北ほくに多おほくして、關くわ東んとうには甚はなはだ少すくない。――出でない事ことはないが、先まづ出でたとしたら異ゐれ例いと云いつても好いい。 實じつ物ぶつを見みぬから、勿もち論ろん斷だん定ていは出で來きぬが、樽たるの徳とく利りといふのは、加か瀬せの彌やよ生ひし式きのと同どう形けい同どう類るゐではなかつたらうか。 同どう形けいとすれば加か瀬せと同おなじく樽たるの貝かひ塚づかも、特とく種しゆの物ものではなかつたらうか。八や木ぎ水みづ谷たに氏し等らが見みい出だしたといふ小せう破はへ片んは今こん日にちほど研けん究きうされて居をらぬ其その時じだ代いの眼めで見みて、普ふつ通う貝かひ塚づかのと見みす過ごしたのではあるまいか。それが彌やよ生ひし式きの破はへ片んではなかつたらうか。 現げんにである、最さい初しよに加か瀬せから望ばう生せいが破はへ片んを持もつて來きた時ときも、彌やよ生ひし式きとは思おもはなかつた位くらゐであるから、小せう破はへ片んを一ちよ寸つと拾ひろつた、其その時ときに於おいて、普ふつ通うのと思おもはれたのではあるまいかといふ疑うたがひを、今こん日にちに於おいて生しやうじたからとて、其その當たう時じの二氏しの鑑かん識しきに就ついて、侮ぶぢ辱よくする事ことには决けつして當あたるまいと余よは信しんじて居ゐる。 樽たるの例れいは想さう像ぞうに過すぎるので、加かせ瀬かひ貝づ塚かの疑ぎも問んをして、一層そう強つよからしめる論ろん證しようとするには足たらぬけれども、一應おう參さん考かうとするには充じう分ぶんだらうと余よは思おもうのである。 未まだ此この他たに、四十一年ねんの十月ぐわつ、七八九三ヶ日にち、お穴あな樣さま探たん檢けんに駒こま岡をかにと通かよつた、其その時ときに、道だう路ろに貝かひ殼がらを敷しくのを見みて、何ど處この貝かひ塚づかから持もち出だしたのかと疑うたがつて居ゐた。 最さい後ごの日ひに、偶ぐう然ぜんにも、それは鶴つる見みえ驛きから線せん路ろを起こして﹇#﹁起して﹂はママ﹈、少すこ許し行ゆつた畑はた中なかの、紺こう屋やの横よこ手ての畑はた中なかから掘ほり出だしつゝあるのを見みい出だした。普ふつ通う貝かひ塚づかなどの有あるべき個かし所よではない、極きはめて低てい地ちだ。 層そうは淺あさいが、びツしりと詰つまつて居ゐて、それで土どき器る類ゐも何なにも見みい出ださぬ。 いよ〳〵疑うたがはしい。 如ど何うしても、特とく種しゆの貝かひ塚づかが有あるらしく思おもはれてならぬ。それが彌やよ生ひし式きに直たゞちに結けつ合がふされるか否いなかは、未いまだ斷だん言げんする能あたはずだが、特とく種しゆの貝かひ塚づかが有あると認みとめられた上うへは、それが彌やよ生ひし式き土ど器きに多おほく關くわ係んけいを有いうして居ゐるとまでは言いへるのである。 これから如ど何う研けん究きうが進すゝむだらうか。
第五圖︵武藏北加瀬︶ ︵彌生式土器上部︶ ﹃これは君きみ、彌やよ生ひし式きぢやアないか﹄ ﹃なる程ほど※﹇#感嘆符三つ、47-9﹈﹄ 破はへ片んをツギ合あはせて見みると、徳とく利りが形たの彌やよ生ひし式き土ど器き。とは知しらずに望ばう蜀しよ生くせいは貝かひ塚づか土ど器きと信しんじて掘ほつて來きたのである。場ばし所よは何ど處こだと聞きくと、神かな奈がは川け縣ん、橘たち樹ばな郡ごほり、北きた加かせ瀬む村らの貝かひ塚づか。 貝かひ塚づかから彌やよ生ひし式きが出でる。其そつ分ぶん量りやう﹇#ルビの﹁そつぶんりやう﹂はママ﹈は普ふつ通うの貝かひ塚づか土ど器きよりも、ずんと多たり量やう。 貝かひ塚づかに彌やよ生ひし式きが混こんじたと言いはうよりも、彌やよ生ひし式き土ど器きの出でる貝かひ塚づかに、他たの土ど器きが混こんじたと言いひたい位くらゐの分ぶん量りやうである。 いよ〳〵大だい問もん題だい。早さツ速そく、水みづ谷たに氏しの處ところへ報ほう告こくすると、氏しは大おほいに喜よろこんで、早さつ速そく十二月ぐわつに入いつて、望ばう蜀しよ生くせいと共ともに加か瀬せに行ゆつた。 發はつ掘くつの結けつ果くわ、依いぜ然んとして多たり量やうの彌やよ生ひし式きど土き器は破へ片ん、及および同どう徳とく利りが形たの上じや半うは部んぶを︵水みづ谷たに氏し、二箇こ。望ばう蜀しよ生くせい、三箇こ︶掘ほり出だした。 それが貝かひ層そうの四五尺しやく下したからである。曾かつて攪かく亂らんせる痕こん跡せきの無ない貝かひ層そう中ちうからである。 水みづ谷たに氏しも、余よ等らも、彌やよ生ひし式きに就ついては、意いけ見んを發はつ表ぺうせず、又また別べつに有いうして居をらなかつた時じだ代いである。 この大だい問もん題だいたる彌やよ生ひし式きに關くわんしてであるので、注ちう意いの上うへにも注ちう意いを加くはへて、其その土ど器きの出でる状じや態うたいを見みた結けつ果くわ、彌やよ生ひし式きか貝ひづ塚かとして發はつ表ぺうするに足たる、特とく種しゆの遺ゐせ跡きといふ事ことを確かく認にんした。 それからいよ〳〵問もん題だいが大おほきく擴ひろがつて、大だい學がく人じん類るゐ學がく教けう室しつで﹃彌やよ生ひし式きけ研んき究うく會わい﹄が開ひらかれ、其その結けつ果くわとして、加かせ瀬たん探け檢んの遠えん足そく會くわいが催もよほされた。 此この遠えん足そく會くわい位くらゐ、不ふと得くえ要うり領やうの甚はなはだしいのは無なかつた。銘めい々〳〵勝かつ手てに分わかつた々々と自じぶ分んの議ぎろ論んに都つが合ふの好いい方はうにのみ眼めを配くばつて、毫がうも學がく術じゆ的つて研きけ究んきうは行おこなはれず、一方ぱうは後あとから彌やよ生ひし式きが混こん入にふしたと云いひ、一方ぱうは、否いな、然しからずと云いひ。水みづ掛かけ論ろんで終をはつて了しまつた。 其その後のち、三十九年ねん七月ぐわつに、マンロー氏しを八や木ぎ氏しが引ひツ張ぱつて行ゆつて、大だい發はつ掘くつを試こゝろみた。其その報ほう告こくの一部ぶは人じん類るゐ學がく會くわ雜いざ誌つしに出でて居ゐるが、其その研けん究きうの要えう點てんは新しん古こ二時じだ代いの貝かひ塚づかが合がつして居ゐる。下か部ぶの貝かひ塚づかが、普ふつ通うので、其その上うへに彌やよ生ひし式きの貝かひ塚づかが重かさなつて居ゐるとか、たしかそんな事ことであつた。今いま雜ざつ誌しが手ても元とに無ないので委くはしくは記しるされぬ。 其その以い後ご、誰たれも手てを附つけぬ。漸やうやく余よが此この前まへを素すど通ほりする位くらゐであつたが、四十年ねん五月ぐわつ十二日にちに、余よは、織お田だ、高たか木ぎ、松まつ見み三子しと表へう面めん採さい集しふに此この邊へんへ來きた。其その時ときに︵地ちて底いた探んけ檢ん記き一五七頁ぺいじ參さん照せう︶貝かひ灰ばいの原げん料れうとすべく土どか方たが大だい發はつ掘くつをして居ゐたのを初はじめて知しり、それから六月ぐわつ十四日かに又また一度ど行ゆつて見みたが、兩りや度うどとも實じつに大だい失しつ望ばうであつた。 それは、二十坪つぼばかりの貝かひ殼がらを、殘のこらず綺きれ麗いに取とり出だして、他たの藪やぶの方はうに運はこび、其そ所こで綺きれ麗いに、貝かひは貝かひ、石いしは石いし、土つちは土つちと、篩ふるひで分わけてあるに拘かゝはらず、石せき器きも、土ど器きも、獸じう骨こつも、何なにも出でて居をらね﹇#﹁居らね﹂はママ﹈。︵貝かひ塚づか土ど器きの破はへ片んが、僅わづかに二三片ぺん見みい出だされたが、貝かひの分ぶん量りやうから比ひか較くして見みると、何なん億おく萬まん分ぶんの一いちといふ位くらゐしかに當あたらぬ︶ それから殘のこりの斷だん面めん貝かひ層そう︵一丈じや餘うよ︶三方ぱうを隈くまなく見みま廻はつたが、何ど處こに一片ぺんの土どき器は破へ片ん、其その他たを見みい出ださなかつた。 彌やよ生ひし式きもなければ、普ふつ通うの貝かひ塚づか土ど器きも見みい出ださぬ。爪つめから先さきの破はへ片んも、見みい出ださぬ。 唯たゞ、一箇かし所よ、丈じや餘うよの貝かひ層そうの下か部ぶから一二尺しやくの處ところに、小こい石しで爐ろの如ごとく圍かこつた中なかで、焚たき火びをしたらしい形けい跡せきの個かし所よが、半はん分ぶん切きりくづされて露ろし出ゆつして居ゐるのを見みい出だした。炭すみ、燒やけ灰ばい等などが、小こい石しで圍かこまれた一小せう部ぶぶ分んに滿みちて居ゐるのを見みい出だしただけである。 言げんを奇きにして言いへば、此この貝かひ塚づかは彌やよ生ひし式きのでも無ない、石せき器きじ時だ代いのでも無ない、一種しゆ特とく別べつの貝かひ塚づかに、彌やよ生ひし式きも混こん入にふした。他たの土ど器きも混こん入にふしたと――まア言いひたい位くらゐゐ﹇#﹁位くらゐゐ﹂はママ﹈、何なんにも出でぬ。 もし、何なにか出でたなら、通つう知ちして呉くれ。然さうすれば酒さか手てを出だすからと土どか方たれ連んに依いら頼いして、余よは此こ所ゝを去さつた。 七月ぐわつ十八日にちに土どか方たからハガキが來きて、土ど器きが出でたから、加かせ瀬む村らの菱ひし沼ぬま鐵てつ五ごら郎うの宅たくまで來こいとある。 十九日にち、雨うち中うを、余よは行ゆつて見みて、驚おどろいた。今いままでの貝かひ塚づか發はつ掘くつは臺だい地ち東とう部ぶの坂さかの上じや部うぶ左さそ側くであつたが、臺だい地ち南なん側そくの下か部ぶ、菱ひし沼ぬま鐵てつ五ごら郎う宅たく地ち前まえの畑はたけを、大だい發はつ掘くつしてある。一反たん以いじ上やう貝かひを掘ほり取とつて運はこび出だしてある。其その跡あとからは清しみ水づが湧ゆう出しゆつして、直たゞちに田たに入いる程ほど低ひくくなつて居ゐる。此こ所ゝに貝かひ塚づかがあらうとは、今け日ふまで知しらなかつた。それを又また大だつ發はつ掘くつ﹇#ルビの﹁だつはつくつ﹂はママ﹈して居ゐやうとは知しらなかつた。 隈くまなく其その、大だい々/″發\は掘つく跡つあとの、一反たんばかりある處ところを歩あるいて見みれば、爪つめの先さきほどの破はへ片んをも見みい出ださぬ。 奇きく怪わい々/々\※﹇#感嘆符三つ、52-11﹈ と云いつて、それが第だい三紀き層そうに屬ぞくする舊きふ貝かひ塚づか︵といふも變へんだが︶とも思おもはれぬ。何な故ぜならば、灰はいを混こんじて、細さい密みつに碎くだかれたる貝かひ殼がらが、貝かひ層そう中ちうに一線せんを畫かくして、又また層そうを成なして居ゐるからである。 迷めい宮きうに入いつた感かんなき能あたはずである。 如い何かに不ふい有うば望うの貝かひ塚づかだとて、これだけの大だい部ぶぶ分んを發はつ掘くつして、小せう破はへ片ん一箇こ出でぬといふ、そんなのは未いまだ曾かつて無ない。 此この新しん發はつ見けんの奇きく怪わいなる貝かひ塚づかと、前まへの奇きく怪わいなる貝かひ塚づかと、山さん上じやう、山さん下か、直ちよ徑くけいとしたら、いくらも離はなれて居をらぬ。三四十間けんより遠とほくは有あるまいが、しかし、山さん上じやうと山さん下か、貝かひ層そうの連れん絡らくの無ない事ことは、明あきらかである。 疑ぎも問んの上うえに疑ぎも問んが重かさなつたのである。 兎とも角かくも土どか方たを菱ひし沼ぬまの宅たくに訪たづねて、其その出でたといふ土ど器きを見みると、完くわ全んぜんなる徳とく利りが形たの、立りつ派ぱなる彌やよ生ひし式きである。それに又またカワラケの燈とう明みや皿うざら︵燈とう心しんの爲ために一部ぶの黒くろく焦こげたる︶と、高たか抔つき﹇#﹁高抔﹂はママ﹈の一部ぶとである。 以いじ上やう三點てんは坂さかの上うへの貝かひ塚づかから出でたといふのである。 徳とく利りが形たのは、水みづ谷たに氏しも同どう形けいを三箇こ、我わが望ばう生せいも前ぜん後ご四箇こを出だして居ゐる。それと同どう形けい式しきであるから、疑うたがう事ことはないが、他たの二箇こは、如ど何うも怪あやしい。土どか方たの説せつ明めいは點てん頭とうし得えられぬのであつた。 次つぎに余よは、宅たく前まへの新あらたなる貝かひ塚づかから、何なにか出でぬかと問とうたが、土どか方たは首くびを振ふつて、出でたらば破はへ片んでも取とつて置おけツてお前まへさんが言いつたので、隨ずゐ分ぶん氣きはつけたが、何なにも無なかツたといふ。 酒さか手てを得える爲ためには、疑うたがうべき土ど器きさへ他たから持もつて來きさうな人ひと達たちである。破はへ片んでも報ほう酬しうは與あたへると云いつたのに、出でた破はへ片んを、彼かれ等らが隱かくす必ひつ用ようは無ないのだから、全まつたく菱ひし沼ぬま宅たく前まへからは、何なにも出でなかつたのであらう。 疑ぎも問んいよ〳〵疑ぎも問ん※﹇#感嘆符三つ、54-7﹈ これに就ついて余よは思おもひ出ださざるを得えないのである。 鶴つる見みだ臺いの各かく所しよに、地ちめ名いへ表うには遺ゐせ跡きとして記きに入ふあるが、實じつ際さいに於おいて、破はへ片ん一ひと箇つ見みい出ださぬ貝かひ塚づかが少すくなくない。︵大だい發はつ掘くつはせぬが︶ 電でん車しやが神かな奈が川はに初はじめて通つうじた時ときに、其その沿えん道だう低てい地ちに、貝かひ塚づかを發はつ見けんしたといふ人ひとの説せつを聞きき、實じつ地ちに就ついてチヨイ〳〵發はつ掘くつして見みて、破はへ片んの香にほひもせなんだ例れいを考かんがへ、又また橘たち樹ばな郡ごほり樽たるの貝かひ塚づかは、可か成なり大おほきいけれど、僅わづかに一小せう破はへ片んを見みい出だしたのみといふ八や木ぎ水みづ谷たに﹇#ルビの﹁みづたに﹂は底本では﹁みづたみ﹂﹈二氏しの談だん話わなど考かんがへて、余よはおぼろ氣げながら。 第だい三紀き層そうに屬ぞくする貝かひ塚づか。 石せき器きじ時だ代いの貝かひ塚づか。 此この二貝かひ塚づかの他ほかに、一種しゆの貝かひ塚づかが有ある樣やうに考かんがへられて來きた。 無むろ論ん直ちよ覺くか的くてきである。理りろ論んを立たてるには未いまだ材ざい料れうが少せう數すうであるが。 それで先まづ樽たるの貝かひ塚づかが探たん檢けんしたくなつたので、四十一年ねん六月ぐわつ四日か、樽たるに行ゆつて見みた。然しかるに今いまは全ぜん滅めつして、僅わづかに畠はたけに貝かひ殼がらが點てん々〳〵浮ういて居ゐる位くらゐで、迚とても層そうを見みる事ことは出で來きぬ。皆みな道だう路ろに引ひき出だしたらしい。 地ぢぬ主しの主しゆ婦ふに就ついて聞きいて見みると、徳とく利りのやうな物ものが出でた事ことが有あつたといふ。 徳とく利りし式きの貝かひ塚づか土ど器きは、東とう北ほくに多おほくして、關くわ東んとうには甚はなはだ少すくない。――出でない事ことはないが、先まづ出でたとしたら異ゐれ例いと云いつても好いい。 實じつ物ぶつを見みぬから、勿もち論ろん斷だん定ていは出で來きぬが、樽たるの徳とく利りといふのは、加か瀬せの彌やよ生ひし式きのと同どう形けい同どう類るゐではなかつたらうか。 同どう形けいとすれば加か瀬せと同おなじく樽たるの貝かひ塚づかも、特とく種しゆの物ものではなかつたらうか。八や木ぎ水みづ谷たに氏し等らが見みい出だしたといふ小せう破はへ片んは今こん日にちほど研けん究きうされて居をらぬ其その時じだ代いの眼めで見みて、普ふつ通う貝かひ塚づかのと見みす過ごしたのではあるまいか。それが彌やよ生ひし式きの破はへ片んではなかつたらうか。 現げんにである、最さい初しよに加か瀬せから望ばう生せいが破はへ片んを持もつて來きた時ときも、彌やよ生ひし式きとは思おもはなかつた位くらゐであるから、小せう破はへ片んを一ちよ寸つと拾ひろつた、其その時ときに於おいて、普ふつ通うのと思おもはれたのではあるまいかといふ疑うたがひを、今こん日にちに於おいて生しやうじたからとて、其その當たう時じの二氏しの鑑かん識しきに就ついて、侮ぶぢ辱よくする事ことには决けつして當あたるまいと余よは信しんじて居ゐる。 樽たるの例れいは想さう像ぞうに過すぎるので、加かせ瀬かひ貝づ塚かの疑ぎも問んをして、一層そう強つよからしめる論ろん證しようとするには足たらぬけれども、一應おう參さん考かうとするには充じう分ぶんだらうと余よは思おもうのである。 未まだ此この他たに、四十一年ねんの十月ぐわつ、七八九三ヶ日にち、お穴あな樣さま探たん檢けんに駒こま岡をかにと通かよつた、其その時ときに、道だう路ろに貝かひ殼がらを敷しくのを見みて、何ど處この貝かひ塚づかから持もち出だしたのかと疑うたがつて居ゐた。 最さい後ごの日ひに、偶ぐう然ぜんにも、それは鶴つる見みえ驛きから線せん路ろを起こして﹇#﹁起して﹂はママ﹈、少すこ許し行ゆつた畑はた中なかの、紺こう屋やの横よこ手ての畑はた中なかから掘ほり出だしつゝあるのを見みい出だした。普ふつ通う貝かひ塚づかなどの有あるべき個かし所よではない、極きはめて低てい地ちだ。 層そうは淺あさいが、びツしりと詰つまつて居ゐて、それで土どき器る類ゐも何なにも見みい出ださぬ。 いよ〳〵疑うたがはしい。 如ど何うしても、特とく種しゆの貝かひ塚づかが有あるらしく思おもはれてならぬ。それが彌やよ生ひし式きに直たゞちに結けつ合がふされるか否いなかは、未いまだ斷だん言げんする能あたはずだが、特とく種しゆの貝かひ塚づかが有あると認みとめられた上うへは、それが彌やよ生ひし式き土ど器きに多おほく關くわ係んけいを有いうして居ゐるとまでは言いへるのである。 これから如ど何う研けん究きうが進すゝむだらうか。