政治の破産者・田中正造

木下尚江




   


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明治十年        七七、〇〇〇斤
同 十一年       八一、〇〇〇
同 十二年      一五一、〇〇〇
同 十三年      一五四、〇〇〇
同 十四年      二九〇、〇〇〇
同 十五年      二二三、〇〇〇
同 十六年    一、〇八九、〇〇〇
同 十七年    三、八四九、〇〇〇
同 十八年    六、八八六、〇〇〇
同 十九年    六、〇五二、〇〇〇
同 二十年    五、〇二九、二五七
同 廿一年    六、三六八、五五八
同 廿二年    八、一四六、六六六
同 廿三年    九、七四六、一〇〇
同 廿四年   一二、七〇四、六三五
特に古河の事業を俄に刺戟したのは、明治二十一年、当時世界の市場を騒がせた仏国のシンヂケートと契約して、廿三年に至る三年間一万九千噸提供に応じたことで、これが為めに、足尾の山に始めて水力電気の設備が出来た。山上の繁昌は直に下流農村の破滅――看よ、その結果の尤も直接現はれた漁業家の惨状を。
       安蘇足利梁田三郡の漁業家
明治十四年      二、八〇〇戸
同 十七年      二、〇〇〇
同 二十年      一、〇〇〇
同二十一年        七〇〇
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 畑土並に流水の定量分析を出願致度旨にて、現品分量問合のおもむき領承。然るに右分析の義は、当所に於て依頼に応じ難く候間、右様承知有之度、此段及通知候也。
   明治廿四年四月廿二日
地質調査所
仕方が無いから、農科大学の古在教授へ依頼した。やがて教授から次の返事が来た。
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 ()※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)



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一、群馬栃木両県下渡良瀬沿岸の耕地に被害あるは事実なれども、被害の原因確実ならず。
二、右被害の原因に就ては、目下各専門家の試験調査中なり。



   

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二、既往の損害は、行政官たるもの、何等の処分をなすべき職権なし。
三、将来予防の為め、鉱業人は粉鉱採聚器設置の準備中なり。
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この答弁書を見よ、これは政府と云ふ者の態度でなく、全く鉱業者の代理人だ。田中は直に再度の質問書を提出し、その十四日、議会最終日の演壇で次のやうにのゝしつた。
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田中が、議会の演壇で真つ赤になつて、農商務大臣の責任を論じて居る時、政府は裏から手を伸ばして、被害地人民の口に封印を押して居た。地方官吏が権力を以て示談の契約書に調印をさせて居たのだ。見本を一枚見せよう。
       契約書
下野国上都賀郡足尾に於て、古河市兵衛所営の銅山より流出する粉鉱に就き、渡良瀬川沿岸町村に加害有之に付、今般仲裁人立入、其扱に任し、梁田郡久野村人民より正当なる手続を尽し委任を付托せられたる総代其外十二名と、古河市兵衛との間に熟議契約をなす左の如し。
第一条 古河市兵衛は粉鉱の流出を防がんが為め、明治二十六年六月三十日を期し、精巧なる粉鉱採聚器を足尾銅山工場に設置する事。

 

   

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退
一、大隈重信、改進党の創立者、背景が三菱。
一、山県有朋、非議会主義の代表者、陸軍の首脳。
 廿
退
総理大臣兼大蔵大臣    松方正義
外務大臣         大隈重信
内務大臣         樺山資紀
海軍大臣         西郷従道
拓植大臣兼陸軍大臣    高島鞆之助
薩派の非立憲的行動、進歩党の猟官的運動、両々相容れず、三十年十一月、進歩党提携を断ちて大隈辞職、鉱毒防禦工事を始めて古河市兵衛へ命令したのはこの時だ。
一、同十二月廿四日、第十一帝国議会開院式。
 廿五日、進歩党自由党連合して松方内閣不信任決議案提出。衆議院解散。
 廿八日、松方首相辞表提出。
 西
 十二日、伊藤内閣成立。伊藤と板垣との間に黙契あり、三月行はれた臨時総選挙には自由党到る処に有利の成績を挙げた。
退
 四月十六日、自由党代議士会は、政党を基礎とせざるを理由として伊藤内閣反対を決議。
 五月十四日、議会召集。
 
 翌十一日、自由進歩両党、各自評議員会に於て、合同を決議。
 十六日、新政党同志懇親会。大隈板垣来会。
 二十二日、両党合同の「憲政党」、新富座に結党式を挙ぐ。
西
 
 二十五日、伊藤挂冠、且つ勲等爵位一切奉還の表章をたてまつる。
 同日、重ねて御前会議、而も諸老、一人の自ら難局に当るものなし。
 二十七日、大隈板垣へ組閣の大命下る。三十日親任式。
総理大臣兼外務大臣    大隈重信(旧進歩)
内務大臣         板垣退助(旧自由)
農商務大臣        大石正巳(旧進歩)
文部大臣         尾崎行雄(旧進歩)
大蔵大臣         松田正久(旧自由)
司法大臣         大東義徹(旧進歩)
逓信大臣         林 有造(旧自由)

一、憲政党内閣わづかに成立を告ぐるや、内部の軋轢あつれきは直に起つて、日に益々劇しくなつた。
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一、二十九日、自由派の板垣松田林三相辞表。
一、三十一日、進歩派の大隈大石大東犬養四相辞表。
 
一、十二月三日、開院式始めて行はる。
 かくて多年の難件地租増徴案は、二十日、自由党の支持の上に無事通過することが出来た。
 三月六日、委員会から直ぐに本会議に移さる。



 
 
 
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   老農の歌へる「渡良瀬の詩」

世間は、去る三十年五月の「鉱毒防禦工事」の命令書で、鉱毒問題は既に解決して了つたものと思つて居る。
三十一年秋の大洪水の折、鉱毒地の農民は大挙して東京へ押寄せた。東京に居た田中は、この急報に接すると、単身直ちに千住街道を淵江村と云ふ迄車を走せ其処に請願の民衆を待ち受けて、百方説諭して引き取らせた。それは憲政党内閣の時なので、即ち我党内閣を信用して、此度は平和に帰村せよと言ふのであつた。その時彼は言うた。
『政府若し正造及び同志の説明を用ひざれば、議会に於て責任を詰問し、社会に向て当局の不法を訴ふべし。其時諸君は御出京御随意なり。其時こそ正造は諸君と進退を共にすべければ、今日決死の生命をば、それまで保存せられたし』



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彼はその長演説の終りにかう言うて居る。
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二十一日、政府は左の答弁書を送つて来た。
質問の旨趣、其要領を得ず、依て答弁せず。
右及答弁候也

 

   


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『憲法がある、立派に憲法が行はれて居る。租税を出せ――かう言ふ。私は絶対的反対でございます。憲法は書いたものばかりの理窟で無い。徳義だ。徳義を守るものが憲法を所有する。背徳の人は憲法を所有する権利が無い。憲法は国民四千万同胞の共有すべきもので、悪人には所有権が無い』
四十歳始めて立憲政治の建立に志を立ててより二十年。今やこの一声を議場の四壁に残して、彼は徐ろに議院の門を出た。

   衆議院議員を辞す

三十四年九月、東京控訴院に於て兇徒嘯集被告事件の第二審公判が開かれた。
重罪の被告         二十三名
軽罪の者          二十八名
弁護士           五十余名
鉱毒問題は、帝国議会から裁判所へ移つた。
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一、本件犯罪地、即ち雲龍寺より館林、川俣地方の臨検。
一、鑑定人には農科大学の三教授選定。



   




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