倭女王卑彌呼考

白鳥庫吉




 倭人の名は『山海經』・『漢書』・『論衡』等の古書に散見すれども、其記事何れも簡單にして、之に因りては未だ上代に於ける倭國の状態を窺ふに足らず。然るに獨り『魏志』の倭人傳に至りては、倭國の事を敍すること頗る詳密にして、而も傳中の主人公たる卑彌呼女王の人物は、赫灼として紙上に輝き、讀者をして恰も暗黒の裡に光明を認むるが如き感あらしむ。『魏志』は晉の陳壽の編纂に成れりと雖も、其東夷傳は主として魏の魚豢の著作『魏略』に據り、殊に倭人傳に載せたる事實は、當代の人が實際に目に睹、耳に聞ける所を記述せしもの多ければ、史料として最も尊重すべきものなり。本朝には『古事記』・『日本書紀』の二書備はりて上代の事蹟を傳へたりと雖も、漢魏時代に當る頃は固より口碑傳説によりて、幽にその状況を彷彿するに過ぎざるを思へば、當時支那人が我國に渡りて、親しく目撃したる事實を傳へたる『魏志』の倭人傳の如きは、實に我國の太古史上に一大光明を與ふる者と謂ふべし。『魏志』の國史に與ふる價値已に此の如くなるを以て、古來本邦の學者にして倭人傳の解釋に勢力を傾注したる者亦尠からざりき。然るに文中記す所の里程及日程に分明を缺く處あるに因り、傳中の主眼たる卑彌呼及其居城邪馬臺等の考定に就きて異議百出し、今日に至るまで史上の難問題と稱せらる。されば後進の學者は卑彌呼の事蹟に就きて殆ど適從する所を知らず、爲めに國史を著はすもの、此の貴重なる史料を徒に高閣に束ねて、參考に供せざる傾向あり。是れ豈に史界の一大恨事にあらずや。余輩は常に之を遺憾とし、聊か亦此問題につきて考究する所ありしが、今年の初に至り、漸くにして新解釋を得たるを以て、二月二十一日日本學會に於て論旨の大要を講述して、會員の批評を仰ぎたり。而して本論は即ち當時の講演を増補改訂せしものなり。若しも此論文が卑彌呼に對する史界の注意を喚起し、此難問題に關して學者の新研究が、陸續發表せらるるに至らば、望外の幸なり。
 卑彌呼問題の難點は、全く魏の帶方郡より女王の都邪馬臺に至る道程の解釋に存ずるが故に、余輩は茲に『魏志』に載する行程の全文を拔載し、而して後逐次にその解釋を試みんとす。
從郡至倭、循海岸、水行歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始渡一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島方可四百餘里、土地山險多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴、又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴、又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之、東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐、東南至奴國百里、官曰※(「凹/儿」、第3水準1-14-49)馬觚、副曰卑奴母離、〔有二萬餘戸、東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離〕、有千餘家、南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸、南至邪馬〔原本壹〕國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳※(「革+是」、第3水準1-93-79)、可七萬餘戸、自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳、次有斯馬國、次有已百支國、〔次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國〕、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡、其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王、自郡至女王國萬二千餘里。
 
 西沿西沿※(「にんべん+耶」、第3水準1-14-34)西
西便
使使使使
 
 
※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)
と註し、同じく四十年の條に
魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。
と註し、又四十三年の條に
魏志云、正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人、上獻。
使祿
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と云はれたり。蓋し、氏の如きは『書紀』編者の意見を公然と表白せしものと謂ふべし。松下氏の説一たび出でてより、幕府の學者は殆どこれに雷同し、また一人として其間に疑議を挾むものなかりき。然るに本居宣長氏は『馭戎慨言』を著はし、卑彌呼を以て神功皇后に當つるの非なるを痛論し、その九州に據れる熊襲の輩なるべきを辯證せり。同氏が『魏志』の行程に關する考察は、余輩の意見に合する所多ければ、左に其一節を引用すべし。
使()()使()使使使()()()()()()()()()()()()()西西()()西()()使使()()()()()
 本居氏が卑彌呼を以て熊襲に擬したるは更なり、その行路局部の解釋に於ても、余輩悉くは之に贊成すること能はざれども、女王の住地を九州に當てたる大體の論に至りては、實に敬服の外なく、蓋し當時に於ける卓見と稱すべし。本居氏の此論文によりて、當時の學者は殆ど女王卑彌呼を熊襲の類と見做すに一定せしが、さて『魏志』の不彌國より邪馬臺國に至る行路につきては、大體二説に分かれたるが如し。一は本居氏自身の唱へ出でたるが如く、不彌國より九州の東海岸に出で、これを南方に航行して、熊襲の國に至れりとなす説、又一は不彌國即ち太宰府の附近より筑後に下り、有明の内海を南方に航行して、熊襲に至れりとなす説即ち是なり。鶴峯戊申は其著『襲國僞僭考』に於いて、『魏志』上文の百里を不彌國より投馬國に至る里程と誤解して曰く
()()()()
西西
不彌國ヨリ南ニ向ヒテ進ミ行クコト二十日ノ後ニ、投馬國ニハイタルトノ義ナレバ、必ズ内海ニハアラズ、豐前豐後ノ東洋ヲ經テ、日向アタリ所謂投馬國ナラント覺シケレバ、本居翁ノ説オホカタハ違ハサルベシ。
と云ひ、又邪馬臺國の條に
水行十日陸行一月トイヘルニツキテ思フニ、兒湯郡アタリヨリ贈於郡ニ至ランニ、海陸トモニサバカリ多クノ月日ヲ經ベキニモアラネバ、本居翁ノ考ノ如ク、月ハ日ノ誤リニテ、此ハ船路ヨリ直チニ今ノ大隅國佐多岬ヲ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)リテ鹿兒島灣ニ入リタルモノト覺シク、水行ハ十日ニテ陸行一日トアランニハ、サモコソト思ヒナサルヽナリ。
西
()谿
と。那珂氏は菅氏の説に對しては
筑前博多ヨリ贈於郡ニ至ルニ、豐前豐後日向ノ東ニ沿ヒテ、佐多岬ヲ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)リテハ、イカニ地理ニ暗キ古代トハ云ヘド、餘リノ迂※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ナレバ、信ゼラレズ。

 
不彌(不詳)千餘家、投馬(備後備中ノ内ナルベシ)可四萬餘戸、邪馬臺(大和)可七萬餘戸。

※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)

 調使
 
 
()()()()()()()()()()()駿()()()()()

 

 此の中「女王國東渡海云々」以上の文意を案ずるに、末盧、伊都、奴、不彌、投馬諸國の戸數道程は前文の如く之を略載し得べけれども、其餘の傍國に就いては、詳なること知るべからず。然れども斯馬國以下奴國に至る十七ヶ國ありて、而して奴國は女王界の盡くる所に位す。又女王國の南には狗奴國ありて、男子を王とし、女王に屬せず、と云ふ趣に解せらる。されば倭國即ち九州の全部は、女王の所領にあらずして、その南部は狗奴國の版圖に屬せしなり。然るに『後漢書』の編者范曄は上段掲載の文面に據り、而も大に之を省略して、左の如き文をなせり。
自女王國東度海千餘里、至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王、自女王國南四千餘里、至朱儒國、人長三四尺、自朱儒東南行船一年、至裸國黒齒國、使驛所傳極於此矣。
 
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。
※(二の字点、1-2-22)使沿
 西
 使使西
 
高勾麗在遼東之東千里、南與朝鮮※(「さんずい+穢のつくり」、第3水準1-87-24)貊、東與沃沮、北與夫餘接、都於丸都之下。
使
西
※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)※(「广+鬼」、第4水準2-12-8)
西西
西使沿沿※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)沿※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)沿沿※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)沿沿※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)使※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)
 使使使使使沿
 沿使使使使沿
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西()()()()()()()()()()()
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 hikomikoto 
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 西滿
 使西西歿
 西西西



西西()()()()()西
()()西
 
()※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)使()※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)西西※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)()()()()()()橿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
 

と説かれ、又三宅博士は別に説をなして
凡太古の家系は母姓に因れり。我が舊辭の時代はかゝる原始社會を去ること遠しと雖も、猶其の遺風を存したればにや、古事記往々女子を擧げて氏族の祖と爲せり。又我が舊辭時代には著名なる女子多く、各處の酋長に女子少からず、是れ亦女系を主とせる古俗と相關係せるならん。


 此文によりて卑彌呼の人となりを察するに、軍國の政務を親ら裁斷する俗界に於ける英略勇武の君主と見るよりは、寧ろ深殿に引き籠りて祭祀を事とし、神意を奉じて民心を收攬せる宗教的君主と見らるるなり。是れ余輩が那珂氏の説に從ふこと能はざる所以なり。又三宅博士の云はるるが如く、我國の太古にも母系を重んじたる形跡なきにあらねど、卑彌呼時代には夫婦の制が判然と確立せしことは、『魏志』の文面よりも、又我が開闢史の上よりも知らるるが故に、余輩は博士の意見に贊成すること能はず。且つ母系を重ずる習慣より之を論ずれば、國民の尊敬を受くる女王は母たる資格を要すべきは勿論なるに、卑彌呼が年長じて夫壻なく、一生を處女にて送りしは如何に解くべきか。我國の古俗にては人事を汚穢とするが故に、神祇に奉侍する婦人は大概人に嫁せざるを常とす。人の妻女は勿論、一たび人に姦せられたる女子が齋宮たる資格を失ふことは能く人の知る所なり。因て案ずるに、卑彌呼が年長じても夫壻なきは、神祇に奉侍する自己の地位の然らしむる所にして、他の故ありしにあらず。されば卑彌呼が女王として推戴せられしは其資性の英明勇武なるにあらずして、神祇に奉侍し其意を傳達するに適したる性質を具備せしが故なり。又卑彌呼の嗣者壹與が十三歳にして女王となりしは、必しも之を卑彌呼の宗女たりし門閥上の關係にのみ因れるものと見るべからず。之を皇朝の例に鑑るに、二、三歳の皇女にして齋王となれるものありき。壹與が十三歳にして王統を繼ぎしも、必ず此宗教的理由に因るものと解せらる。
 論者若し我が國の古俗に女酋多きの故を以て、女尊男卑は我が國上代の風俗なりしと推斷せば、大なる謬見なり。『魏志』倭人傳に
其俗國大人皆四五婦、下戸或二三婦、婦人不淫不妬忌。
※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
 ※(「彳+編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第3水準1-84-34)滿
殿穿滿-※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)-
 ()()()()()()()()()()()()
廿()U+638736-1()()殿※(「不/見」、第3水準1-91-88)殿殿※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)
 姿
 
 ※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)禿
其太后息長帶日賣命者、當時歸神、故天皇坐筑紫之訶志比宮熊曾國之時、天皇控御琴而、建内宿禰大臣居於沙庭、請神之命、於是太后歸神、言教覺詔者、西方有國、金銀爲本、目之炎耀種々珍寶、多在其國、吾今歸-賜其國、尓天皇答白、登高地西方者、不國土、唯有大海、謂詐神而、押退御琴、不控默坐、尓其神大忿詔、凡茲天下者、汝非知國、汝者向一道、於是建内宿禰大臣白、恐我天皇、猶阿-蘇-婆勢其大御琴阿至勢以尓稍取依其御琴而、那摩那摩迩此五字以控坐、故未幾久而、不御琴之音、即擧火見者、既崩訖、尓驚懼而坐殯宮、更取國之大奴佐奴佐二字以-々-求生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸、上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚・犬婚之罪類、爲國之大祓而、亦建内宿禰居於沙庭、請神之命、於是教覺之状、具如先日、凡此國者、坐汝命御腹之御子所知國者也、尓建内宿禰白、恐我大神、坐其神腹之御子、何子歟、答詔、男子也、尓具請之、今如此言教之大神者、欲其御名、即答詔、是天照大神之御心者、亦底筒男、中筒男、上筒男三柱大神者也此時其三柱大神之御名者顯也今寔思其國者、於天神地祇亦山神及河海之諸神、悉奉幣帛、我之御魂坐于船上[#「于船上」は底本では「干船上」]而、云々
 倭女王卑彌呼は如何なる方法を以て國民を統馭せしかは、『魏志』に記す所の文辭甚だ簡單にして、其の詳なること得て之を知るべからずと雖も、祭祀を以て政治の要道とする一種の神裁政治なりし點に於いては、神功皇后に異る所なきを認めずんばあらず。故に卑彌呼が「事鬼道能惑衆」とあるは、神功皇后が神懸りして神意を宣傳する類を指ししなるべく、「年已長大無夫壻」とあるは、齋王が常に處女なりし古俗、或神功皇后が仲哀天皇崩去の後寡居せられしが如き風習を云へるなるべく、「有男弟佐治國、自王以來、少見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食辭」とあるは、神功皇后が神主となりて、神殿に籠らせ給ひ、武内宿禰が沙庭に伏して神命を請ふに比すべきものなり。而して神功皇后が當時の人民を畏服せしめし所以は、皇后としての位置のみにあらず、又皇后自身の威勢のみにあらずして、全く皇后が神明の意思を宣傳する御資格にありしが如し。故に夫君仲哀天皇といへども、皇后に由りて宣言せられたる神命を奉ぜざるときは、神怒にふれて崩去するに至る。之を以て之を觀ても神祇に對するの信仰が、如何に當時の人心を支配せしかを窺ふに足らん。神功皇后が攝政として宏業を建てられしも、卑彌呼が女王として九州に威勢を震ひしも、均しく皆この關係に由るものなれば、此兩者の形跡に於いて類似する所ありしは、寧ろ當然の事のみ。『日本書紀』の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも、全く此類似を認めたるが故なるべけれど、斯る類似は獨り皇后と卑彌呼とに限るべからず。苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。故に余輩は茲に『書紀』が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を斷じて、本論の結末となす。

〔明治四十三年六・七月、『東亞之光』第五卷第六・七號〕






   
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2012104

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