此の初めての詩集を
亡き父上に捧ぐ
元麿
自序
この詩集は自分の初めての本だ。こゝに集めた詩は一九〇〇年の冬から今迄に書いたものを全部集めた。それ以前のものははぶいた。 武者小路實篤兄から序文を、岸田劉生兄から裝幀を頂いた事を深く感謝する。自分はこの詩集に誇りをもつ事を禁じ得無いでゐる。自分はこの初めての詩集を亡き父上に捧げる。 一九一八年三月二十六日夜 千家元麿車の音
夜中の二時頃から 巣鴨の大通りを田舍から百姓の車が カラ〳〵カラ〳〵と小さな燥いた木の音を立て、無數に遣つて來る。 勢のいゝその音は絶える間もなく、賑やかに密集して來る。 人聲は一つも聞え無い。何千何萬と知れ無い車の輪の、 飾り氣の無い、元氣な單調な音許り 天から繰り出して來る。 遠く遠くから、カラ〳〵カラ〳〵調面白く、 よく廻りあとからあとから空に漲り、 地に觸れて跳ねかへり一杯にひろがつて來る。夥しい木の輪の音、 夜もすがら 眠れる人々の上に天使が舞ひ下りて、休みもせず 舞ひつ踊りつ煩さい位耳を離れず、幸福な歌をうたふやうに。 氣が附けばます〳〵音は元氣づき、密集團となり 朝の來るのに間に合はせる爲め 忙しなく天の戸を皆んな繰り出した音のやうに 喜びに滿ちた勇しい同じ小さな木の輪の音が 恐ろしいやうにやつて來る。 一つ一つ夥しい星の中から生れてぬけ出して來る。 もう餘程通り過ぎて仕舞つたやうに 初めから終りまで同じ音で此世へやつて來る。 曉方になるとその音は 天使の見離した夢のやうに消えて仕舞ふ。 天と地とのつなぎをへだてゝしまふ 何處かへ蜂が巣を替へて仕舞つた跡のやうに 一つも聞えなくなる。 鋭敏になつた頭には今度は地上のあらゆる音を聞く 馬鹿らしい夜烏の自動車の浮いた音や、 間の拔けた眠さうな不平をこぼす汽笛や、 だるさうな時計の響が味もなくあつち、こつちで 眞似をして仕損つたやうに、自信もなく離れ〴〵に鳴る。 あゝ毎晩々々、雨の降る夜も星の降る夜も、自分の頭に響て來る 無數の百姓の車の音は自分に喜びを運んで來る 飾り氣の無い木の音のいつも變らない快さ 天から幸福を運んで繰り出して來る神來の無數の車を迎へる。 その一つ事に熱中した心の底から親切な、 喜びいそぐ無數の車の音、樂しい、賑やかな、勇しい音。 あゝ、汝の勝利だ その一生懸命な小さいけれど氣の揃つた 豐かな百姓車の軍勢が堂々と繰り出して行つたら何でも負ける。 道を讓る あゝ勇しい木の輪の音の行列よ どん〳〵繰り出して來い。 天の一方から下りて來い 下界を目がけて、一直線に遠い〳〵ところから走つて來る星のやうに 都會を目がけてその一絲も亂さず、整然と 同じ法則、同じ姿勢で 立派に揃つた、木の音で 電車道を踏み鳴らして行け、躍つて行け 揃ひも揃つて選り拔きの、よく洗はれた手入の屆いた、簡單で、 調法な、木の車の自信のある安らかな音色よ 何ものも御前の音に敵ふ奴は無い。 憎々しい惰弱な病的な汽笛や不平な野心の逞しい機械の音より どの位、 御前の勤勉な盡き無い木の音の方が俺は大好きだか知れないぞ、 前にゆくものゝ音を受けついで、後から來る者に傳へて、 赤兒のやうに生れて來る、 汝の盡きる事なく繰り出す音は 此世のものでは無い、天上のものだ 喜びだ、勝どきだ。 おゝ又氣がつけば賑やかな、いつも機嫌な木の輪の音の群 滿ち、溢れ、盡きずくり出して來て ぴつたり跡を殘さず消えて行く自信のある歌ひぶりよ神來が來り、 大擾亂を呈して過ぎ去つたあとのやうに一つも殘さず、 漏れる事無く歌ひ終る。 無數の木の輪の音、 わが愛す、喜びの歌、 平易で味の無いやうで 無限な味の籠つた 天の變化にも追ひ付く、單調な喜びの歌、 天來の音、呱々の聲 簡單で完全な、よく洗はれた、手入のいゝ、親切な車の輪の音、 氣の揃つた賑やかなコーラス 毎晩來てくれ、 毎晩調子を揃へて繰り出して來て呉れ 巣鴨の大通りを田舍からつゞいて來る 無數の百姓車の木の輪の音、 俺は毎晩待つて居る。きつと氣がつく 御前の來るのを待つのは恐いけれど 來てしまへば俺は元氣づいて躍り出す、 氣がつけば引つきり無しに遣つて來る、神來の喜び! 木の音の行列、夥しい星の歌、一粒撰りの新しい音色! 天の戸をくる喜びの歌、朝の歌! 氣の揃つた一團の可愛ゆい、小さな百姓車の行進曲! ︵一〇、二五曉、愛の本所載︶わが兒は歩む
吾が兒は歩む 大地の上に下ろされて 翅を切られた鳥のやうに 危く走り逃げて行く 道の向ふには 地球を包んだ空が蒼々として、 底知らず蒼々として日はその上に大波を蹴ちらして居る 風は地の底から涼しく吹いて來る 自分は兒供を追つてゆく。 道は上り下り、人は無關係に現はれ又消える 明るく、或は暗く 景色は變る。 わが兒は歩む 地の上に映つた小さな影に驚き むやみに足を地から引離さうともち上げて 落て居るものを拾つたり、捨てたり 自分の眼から隱れてしまひたい樣に 幸福は足早に逃れて行かうとする われを知らで、 どこまでも歩いて行く。その足の早さ、幸福の足の早さ、 道の端の蔭を撰んで下駄の齒入れ屋が荷を下ろして居る わが兒はそこに立止る。 麥藁帽子のかげにゐる年寄りの顏を覗き込み、 腰をかゞめて、ものを問ふ 齒入れ屋は、大きな眼鏡をはづして見せ、 機嫌好く乞はれたまゝに鼓をたゝく。 暫らくそこでわが兒は遊ぶ。 わが兒は歩む あちら、こちらに寄り道して、翅を切られた鳥のやうに 幸福の足の危ふさ 向ふから屑屋が來る。 いゝ御天氣で一杯屑の集つた大きな籠を脊負つて來る。 わが兒は遠くから待ち受けて居る。 屑屋はびつくりして立止る。 わが兒は晴々見上げて居る。 屑屋は笑つて、あとからついて行く自分に挨拶をする。 ﹃可愛ゆい顏をしてゐる。﹄と、 郵便配達が自轉車で來る、﹃あぶない﹄と思ふ間に、 うまく調子をとつて小供の側を、燕のやうにすりぬけて行く わが兒はびつくりして見送つて居る 郵便配達は勢ひよく體を左右に振つて見せ わざと自轉車をよろつかせて 曉方の星のやうに消えてゆく わが兒は歩む。 嬉々として、もう汗だらけになつて。 掴るまいと大急ぎ 大きな犬が來る。彼よりも脊が高い 然しわが兒は驚かない、恐がら無い 喜んで見て居る。 笑ひ聲を立てゝ犬のうしろについてゆく。 わが兒は歩む、 誰にでも親しく挨拶し、關係のある無しに拘らず 通る人には誰にでも笑顏を見せる。 不機嫌な顏をした女や男が通つて 彼の挨拶に氣がつかないと 彼は不審相に悲しい顏付をして見送る がすぐ忘れてしまつて 嬉々として歩んでゆく。幸福の足の危さ。 幾度もつまづき、 ころんでも汚した手を氣にし乍らます〳〵元氣に一生懸命にしつかり 歩かうとする。 未だ小學校へ入らない いたづら盛りの汚ない兒供が メンコを打ち乍ら群れて來る。 忽ち彼はその中に取り圍れる。 皆んなから何か質問される わが子は横肥りの小さな躯で眞中に一人立つて小さい手をひろげて 小供を見上げて何か告げて居る 小供等は好奇心と親切を露骨に示しメンコを彼に分けてくれる。 何にでも氣のつく小供等は彼の特色を發見して叫ぶ ﹃着物は綺麗だが頭でつかちだ。﹄ かくして尚も先へ先へと歩み行く わが兒をとらへて抱き上ぐれば 汗だらけになり、上氣して 觀念した樣に青い眼をぢつと閉ぢて力がぬける 自分は驚いて幾度も名を呼びあわてゝ木蔭へつれこむ、そこにはひやひやと 火をさます風が吹いて來て、 彼は疲れ切つて眠り入る。 一生懸命に歩き 一生懸命に活動したので 自分の眼には涙が浮ぶ。 ︵一〇、一一、愛の本所載︶闇と光
暗夜の中に光りはめぐる 暖に、氣丈夫に 生命の火は勢よく燃える。 地を撲つ雨の烈しい時に、 火は衰へて沈み行き 火の壯なる時、雨は衰へ 烈しき雨とめぐる火と 明滅する刹那 闇の中に美くしく濡れて立つ何本の木を見る。 靜かな光りが梢に蛇のやうにまつはつて居る。 自分は雨戸を貫いて木と相面したやうに感じる。 光りの座の上に相抱いたやうに感じる。 あゝ氣がつけば相撲ち、明滅する 闇と光りの美くしさ 雨よ降れ、火よ燃えよ 光りを生む爲め永劫に衰へるな。朝
朝、 清淨な火の風はよろづのものゝ上に吹き渡り 人も木も鳥も凡てのものが皆默つて戰きを感じる 非常な靜かさが空の頂天から地の底まで感じられる 棒のやうに横ふ雲も隅の方にかたづけられて 空にはあちらこちらで 白熱した星がくるくると廻轉し乍ら すばらしい速力でかけて行く 然うして 消えるものは消えて行き 天の一方がにはかに爆發して 血管が破れたやうに空に光りが潮して來る。 自ら歡喜が人の身に生じる。 にはかに一齊のものに暖い活氣が生じて來る かゝる時初めて見上げた空の感じは忘られない 人は空の頂天から地の底まで。 火の通じてゐるのを感じる。夜
鐘が鳴る。 一日の終りの 街のどよめきの上に 今太陽は朝よりも大きく輝いて 家々から町から、人間から遠ざかる。 然うして人々は その工場から、役所から一日の仕事から 開放されて わが家に歸つて來る喜びと 一日の終りの疲れと悲しみが町の上に交り合ふ。 赤ん坊を抱いて夫を迎へに行く妻が幾組も通る 酒を買ひに行く女が通る。ざるや皿を持つた女が通る 魚屋の前にはそれぞれ特色のある異樣な一杯な人がたかり ごたかへす道の上には初冬の青い靄が立ち 用のすんだ大きな荷馬車が忙しなくゴロゴロ通り 晝間の暖さを一杯身の内に吸ひ込んだ小供等の 興奮して燥ぎ廻る金切聲が 透明な月の薄く現はれた空に 一つづゝ浮んでは、胸に殘つて一つも聞えなくなる苦るしさ。 一つづゝ星はあらはれ、下界目がけて搖れ來り だん〳〵人の顏が見えなくなるに連れて 月は光を加へ、高くなり 人の姿は異形となり、燈の數は赤ん坊のやうに殖え あちら、こちらで空氣を轟かして いそがし相に戸を閉ざす音が 天の扉が閉ぢられる樣に鳴り渡り 歸り遲れた人々は興奮してせつかちに たち籠めた闇の中を 大きな音を立てゝ飛ぶ樣に通つて行く。 もう町には小供等は馳け廻ら無い。 ところどころに路上には薄茫んやりと 今夜の宿を求める勞働者が佇んで居て 最うぢき冬が來るけはひが 天にも地にも星の息にも人の上にも感じられる。 然し或る横丁の、湯屋の煙突からは 時を得顏に惡どい元氣づいた煙が寒い空氣にふれて息のやうに立ち騰り 賑やかな人聲、赤ん坊の泣きわめく聲が湧き起りうす汚ない朧ななりをしたそこら界隈の 男や女が小供を肩車に乘せたり 三人も五人も一人でゾロ〳〵引張つたり 火事で燒き出された人のやうに 小供の着替やむつきを兩の小脇に一杯抱へて 恐ろしい路次の闇から異形な風で現はれ 赤い燈火が滲みもう〳〵と暖い煙の蒸しこめた 錢湯へ吸ひこまれて行く。 然うして月は暗さうに切口を輝かし 星は下界に近づいて、揃ひも揃つて大粒な奴が、 すぐ屋根の上に異形に輝いて 好奇心で下界を覗き込み 人間の頭の中は何かかぶさつて來て、眼の見えぬ樣に暗くなり 心のしん許りが猫の眼のやうに光り出し、小さな焔を燃やし、 夜は更けて行き 凡てのものを美くしく、もろく、果敢なく、貴い、 整然とした他界のものゝやうに並べて見せ 夜の祕密は大きな重々しい混沌とした土塊の中に一杯附着したダイヤモンドのやうに 暗きを好んで異樣に輝き 燈の中に浮んで來る人の顏は恐く、 然し親切相に露骨になり此世以上のものを浮き立たせる。 日が暮れて道を行く旅人は せつかちに歩いても歩いても、思ふ所に達せず 廣大な夜の潮に押し流され、 道を誤つて居るかと不審を起して立止れば、 天體はぐる〳〵廻り、 眠たい眼をこすれば稻妻が發し狐に廻されてゐるやうに恐くなり ます〳〵せつかちに急いで行けば、幾度も石に躓き 餘りに夜は大きく、人間の小さな無力をつくづく感じる。 然し出しぬけに人は目的地に達すと 鱗がとれたやうに眼がはつきりして 見知らぬ町には澤山間の拔けた光りがともつてその中を人がゾロ〳〵通つて行く。 餘りの明るさに自分の身の暗さを感じ 苦るしさが胸一杯に滿ちてくる時 出しぬけに自分の足下に氣がつけば あゝ一生の思ひ出か 遠い〳〵幼な時 母に抱れて暖に 浮世の波風を外にちんまり行儀に暖つて居た 懷しい懷しい幸福が思ひ出され 疲れ切つて暗い宿屋に辿りつけば 他人の家も吾が家へ歸つたかのやうに生々感じ 煤けたランプの下に暫らく會はない、 國に殘した妻や親子の顏がはつきり現れる。 あゝ夜を支配する廣大なる者よ 御身の胸に遍く人々を掻き抱き給へ。 ︵一一、一二︶野球
王子電氣會社の前の草原で メリヤスシヤツの工場の若い職工達が ノツクをして居る。 晝の休みの鐘が鳴るまで 自由に嬉々として めい〳〵もち場所に一人々々ちらばり 原の隅から一人が打ち上る球を走つて行つてうまく受取る。 十五人餘りのそれ等の職工は 一人々々に美くしい特色がある 脂色に染つたヅツクのズボンに青いジヤケツの蜻蛉のやうなのもあれば 鉛色の職工服そのまゝのもある。 彼等の衣服は汚れて居るが變に美くしい 泥がついても美くしさを失はない動物のやうに 左ぎつちよの少年は青白い病身さうな痩せた弱々しい顏だが、 一番球をうけ取る事も投げる事も上手で敏捷だ。その上一番快活だ。 病氣に氣がついてゐるのかゐないのか 自覺した上でそれを忘れて餘生を樂しんでゐるのか 若白髮の青年はその顏を見ると、 何故かその人の父を思ひ出す 親父讓りの肩が頑丈すぎてはふり方が拙い。 教へられてもうまくやれない 受取る事は上手だ。 皆んな上手だ、どこで習つたのかうまい、 一人々々に病的な美くしいなつこ相な特色をもつて居る。 病氣上りのやうに美くしいこれ等の少年や青年は 息づまる工場から出て來て 青空の輝く下にちらばり 心から讃め合つたりうまく冷やかしたり、 一つの球で遊んでゐる。 雜り氣の無い快活なわざとらしくなく飛び出し出た聲は 清い空氣の中にそのまゝ無難に消えて行き その姿はまるで星のやうに美くしい 星も側へ行つて見たら あんなに青白く、汚ないにちがひない 一人々々の汚ない服や病的の體のかげから 快活な愛が花やいでうつかり現はれる美くしさ、なつこさ、 鐘が鳴ると彼等は急に緊張して 美くしい笑ひや喜びや好奇心に滿ちた快活さを一人々々、 疊んでどこかへ隱したやうに 一齊に默つて歸つて行く。幸福
幸福は 鳥のやうに飛ぶ。 自分の内から羽を生やして飛んで居る。 それをとらへよ。 空中にそれをとらへよ。 暖にそれをとらへよ。 手の内でも啼くやうに。 幸福はとらへるのが難しい とらへても手の中で暖みを失ひ だんだん啼かなくなつて死んでしまふ。 幸福は追ふな、とらへようとするな そのまゝにしておけ。 人間の冷たい手をそれに觸れるな。 人間の息をそれに當てるな、 清淨な空氣にそれを離してやれ。 それを追ふな。 遠く消えて行つても心配するな、 幸福のみは 神の手にあれ、 生き暖き神の手にあれ よみがへし給ふは神の息のみ 清淨な風と火の業にあれ。 ︵一〇、二四︶或る時
御寺のあとの空地に 旅廻りの曲馬がかゝつて 高い天幕を張つて旗や提灯を樹てた。 自分は小さい弟や妹にせがまれて見に行つた。 未だ始つてゐなかつた。 人々は草原に集り、高いところに並べてつるした 繪看板を見上げたり、前に並んだ馬を見たりしてゐた、 幕が開いてゐて中には舞臺としやじきが見えた。 絆纒を着た男や襷がけの女が、ランプをつるしたり、 舞臺を掃いたり、座布團を重ねて居た。 犬も澤山ゐた。小さな椅子の上に乘つて外を見て居た。 人がゾロ〳〵集つて來た。 繪看板のうしろの高い所、 ボツクスに樂隊が陣どつて悲しいふしで吹奏し出した。 御白粉をはげちよろに塗つた十か十二位の女の子が舞臺へ出て來て、 犬にからかつて居た。 札賣場に大きな男がのつかつて、 札をつみ上げて原の方から集つて來る人を見て居た。 妹や弟は遊び廻はつては天幕の前に來て中を見た。 馬を批評した。 見物人は殖えて來て、 札を賣り初めた。 日はくれかゝつて天幕の向ふの空に燃えてゐた大きな雲が崩れ初めた。 それを見乍らどうして地球は圓いか話し合つてゐた、 弟や妹は今晩曲馬へ來たがつた。 自分をせびつた、 自分は斷るのが可愛相な氣がした。 棧敷にはだんだん人が殖えた。 それ等の人を見ると自分は恥しい氣がした。 小供をつれて入つてゆくのが恥しい氣がした、 自分は赤い顏をした。 弟や妹をごまかして歸りかけた。 二人は自分の手に兩方からぶら下つた。 自分は淋しくなつた。涙ぐんだ。 自分はうしろに賑やかな然し悲しい樂隊を聞き、 札賣りのどなる聲を聞き乍ら 何かに襲はれるやうに坂を下つた。 門が見えると 弟も妹も自分の手を離れて一目散にかけて行つた。 自分は淋しく苦るしかつた。死んだ弟の事を思ひ出した。 自分もうしろから家をめがけて馳け出した。 ︵一〇、一三夕︶創作家の喜び
見えて來る時の喜び、 それを知ら無い奴は創作家では無い 平常は生きてゐても、本當ではない 自分の内のものが生きる喜びだ。 自分の内の自然、或は人類が生きる喜びだ。 創作家は、その喜びの使ひだ。初めて小供を
初めて小供を 草原で地の上に下ろして立たした時 小供は下許り向いて、 立つたり、しやがんだりして 一歩も動かず 笑つて笑つて笑ひぬいた、 恐さうに立つては嬉しくなり、そうつとしやがんで笑ひ その可笑しかつた事 自分と小供は顏を見合はしては笑つた。 可笑しな奴と自分はあたりを見廻して笑ふと 小供はそつとしやがんで笑ひ いつまでもいつまでも一つ所で 悠々と立つたりしやがんだり 小さな身をふるはして 喜んで居た。道端で
道端にベニ色の衣服を着た赤ん坊を抱いた老婆が休んで居る。 母の胎内ですつかりのびた小供の頭の髮は ところ〴〵から長くのびて前へ垂れ 大きなつむりを下げて默々と地上を見詰めて動いて居る。 靜かにおとなしく、孤獨で 未だものを見る勢も無いが、彼はもう動き出しさうに見える。 よそ見してゐる老婆の手からすりぬけて行きさうに見える。 頭がだんだん垂れて行く、地上へ向つて。 その深い姿は日の目の見えぬ他界の蔭に育つたものを思はせる。 地の底を流れる河の渦まく淵から現はれたやうに暗黒で異樣だ。 そこに此世ならぬ顏がもう一つ現はれて居る。 地球が青空の中に包まれて浮んで居るやうに 見えぬ姿に包まれて半分姿を此世に現はして居る。 默々として孤獨で、つくられたまゝである。 誰もそれを見るものは無い その異樣な姿を見ると、自ら涙が湧いて來る その孤獨が自分の胸に觸れて來る。 ︵一〇、三︶自分は見た
自分は見た。 朝の美くしい巣鴨通りの雜沓の中で 都會から田舍へ歸る肥車が 三四臺續いて靜かに音も無く列り過ぎるのを 同じ姿勢、同じ歩調、同じ間隔をもつて 同じ方向に同じ目的に急ぐのを 自分がぴつたり立止つてその過ぎ行くのを見た時 同じ姿勢で、ぴつたりとまつたやうに見えた。 小さく、小さく、町の隅、此世の隅に形づけられて。 自分はそれから眼を離した時、 自分の側を過ぎ行く人、 左へ右へ急ぐ人が皆んな 同じ方則に支配されて居るのを感じた。 彼等は美くしく整然と一糸亂れ無い他界の者のやうに見えた。 人形のやうに見えた。 自分は見た 夜の更けた電車の中に 偶然乘り合はした人々が おとなしく整然と相向つて並んで居た。 窓の外は眞暗で 電車の中は火の燃えるかと思ふ迄明るかつた。 自分は一つの目的、一つの正しい法則が 此世を支配して居るやうに思ふ 人は皆んな美くしく人形のやうに 他界の力で支配されて居るのだ。 狂ひは無いのだ。つくられたまゝの氣がする。 一つの目的、一つの正しい法則があるのだと思ふ。 自分はその力で働くのだ。葉書
今日はいゝ日だ。 朝、床の中でうと〳〵して居ると 郵便配達が どつしりと重みの有る一束の葉書と手紙を投げ込んで行く 音に目を覺された。 自分は其處に五六枚のハガキが重さなり合つてちらばり、 一通の手紙とを見た。 自分は檻の中の獅子が投げ込まれた肉片に飛び付くやうに 勢ひよく手を伸してそれを掻き集めて胸の下に引寄せた。 久しぶりでKから自筆のハガキがあつた。 國へ歸つたNの二度目のハガキがあつた。 それからKからの編輯についてのハガキと、 夫から來月號に小説を出す通知を兼ねた返事があつた。 それからNのハガキと今月の雜誌に出た三つの小説があつた。 それが手紙に見えたのだ。 自分は一枚々々餓ゑるやうに讀み噛みしめた。 すつかり血が殖えたやうに。 自分は元氣づいて手紙を懷にねぢこんで立上つた。 窓からは好きな青空が誘ふやうに光つてゐた。 小供をつれて原つぱへ行かうと思つた。 そこでNの小説を讀まうと思つた。 顏を洗ひ乍らも幾度も幾度も自分はハガキを懷から出して眺めた。 妻や小供にも少し關つてやらうと思ひ乍ら ハガキに氣をとられつゝ 自分はNの﹃哀れな少女﹄の初めの一頁を息を殺して讀んだ。 然うしてあとを樂しみにして 幾度も自分を待つて呼んでゐる食事にいそいだ。 ハガキと原稿は自分の懷と袂に本能的にしまはれた。 自分は元氣に 妻や子供に、原へ連れて行つてやると云つた。 ︵一〇、一四︶飯
君は知つてゐるか 全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを 赤ん坊が乳を呑む時、涙ぐむやうに 冷たい飯を頬張ると 餘りのうまさに自ら笑ひが頬を崩し 眼に涙が浮ぶのを知つてゐるか うまいものを食ふ喜びを知つてゐるか、 全身で働いたあとで飯を食ふ喜び 自分は心から感謝する。 ︵一〇、二五︶眠れぬ者の歌
夜もすがら眠る者は幸福だ。 夜と共に眠る者よ その面白さうな健康な呼吸よ 沈默の聲よ 幾多の人が集ひ寄つて さゞめき、喜ぶやうな賑やかさ ﹃おゝ汝は笑つて居る、何が可笑しいのか﹄ 夜もすがら眠り得ぬ者は不幸だ 彼は病んで居る 他界の人のやうに 幸福に擽られて居る露骨な笑ひを聞き乍ら 涙の浮んだ眼を見開いて居る。 ﹃止めよ、止めよ 其の病的な幸福を、露骨な笑ひを止めて呉れ﹄ 不幸な人は呟けど 夜もすがら幸福は眠れる者を去らず 病める者の耳を離れず 氣がつけばます〳〵露骨に話し合ひ、囁き、笑ひ 誘ひ込む樣に夜は騷しく更けて行く。 ︵一〇、九︶白鳥の悲しみ
美しく晴れた日、 動物園の雜鳥の大きな金網の中へ 園丁が忍び入り、 白鳥の大きな白い玉子を二つ奪つて戸口から出ようとする時 氣がついた白鳥の母は細長い首を延して朱色の嘴で 園丁の黒い靴をねらつてついて行つた。 卑しい園丁は玉子を洋服のポケツトに入れて どん〳〵行つてしまつた。 白鳥の母は玉子の置いてあつた木の堂へ默つて引返へし それから入口に出て來て立止つて悲しい聲で鳴いた。 二三羽の白鳥がそれの側へ首を延ばして近寄り 彼女をとりまいて慰めた。 白鳥の母は悲しく大きな聲で二つ三つ泣いた。 大粒な涙がこぼれる樣に 滑らかな純白な張り切つた圓い胸は 内部から一杯に搖れ動き、 血が溢れ出はしまいかと思はれる程 動悸を打つて悶えるのが外からあり〳〵見えた。 啼かなくなつてもその胸は痙攣を起して居た。 その悲しみは深くその失望は長くつゞいた。 然しやがて白鳥の母は水の中へ躍り込んだ。 然うして涙を洗ふやうに、悲しみを紛らすやうに その純白の胸も首も水の中へひたし、水煙をあげて悶えた。 然しそれはとり亂したやうには見えなかつた。 然うして晴々した日の中で悲しみを空に發散した。 その單純な悲しみは美くしく痛切で偉大な感じがした。 その滑かな純白の胸のふくらみのゆれ動くのは實に立派であつた。 まことにあんな美くしいものを見た事はない氣がした。 威嚴のある感じがした。 金網の周圍には多くの女や吾れ〳〵が立つて見てゐた。 自分達は均しく感動した。 自分はその悲しみを見るのが白鳥にすまない氣がした。 吾々の誤つてゐる事を卑しめられた 白鳥に知らしてやれないのを悲しく思つた。 自分はその悲しみを早く忘れてくれるやうに願つた。白犬よ
白犬よ、 御前がものを乞ひに來る時 自分の心は騷々しくなる。 御前のものをねだる聲、呼ぶ聲を聞いてゐると、 落着いてゐられ無くなる。心の内が生々して來る。 大事件でも起つたやうになる。 戸の外で御前の俺を呼ぶ聲は 不思議な生命を俺の心に燃え上らせる。 大波が胸に溢れて來るやうに感じる。 さつきから子供は默つて自分の顏を見てゐる。 自分が立つと同時に、申し合はしたやうに二人で玄關へ出て見る。 濡れしよびれて、 闇の中から御前は玄關へ入つて來て知り人に會つたやうに、 恥しいやうに、すま無いやうに、 身體の置き場に困るやうな恰好をして叫ぶ。 然うして御前は食べ物を少しもらふと默つて歸つてゆく。 不思議な白犬よ、御前の歸つたあとは嵐がすぎ去つたやうに靜かだ。 この寒い雨の降る夜更けに、 本當に何しに來たのだ。 何を思ひ出して來たのだ。 然うして禮も云ふのか云はないのか、 默つて行つてしまふ。 御前は何だ。 不思議な白犬よ。 ︵以下十八篇、白樺所載︶二人の癈人
自分は見た。 自分はその二人を忘られ無い。 警察署の留置場の一室の隅に竝んだ二人の窃盜犯を、 二人は共犯者ではなかつた。 一人は三十か四十位、一人は五十か六十位の小柄な老人、 二人とも顏色の惡い事は夜の人の特長を示して居た。 若い方は狼のやうに痩せてゐた。 鋭い此世のものを馬鹿にし切つた、野生な瞳を有つてゐた。 周圍の人には頓着ない自分の心持一つで 生きてゐる事があり〳〵見えた。 誰でもこんな人にはめつたに町では逢へ無い。 夜を選んで孤獨で傷ついた野犬のやうに彼は姿を見せはしない。 彼の姿が見られるのはこんな檻の中でなくてはならないのだ。 彼は恐ろしい孤獨な人間だ。癈人だ。 彼にも妻や子があるだらう。 が彼位妻や子を愛したものがあるだらうか。 自分は彼が、留置場の向ふの刑事室のある邊りで︵朝であつた︶ 七つか八つ位の女の子が笑ふ聲を聞いて、 彼の側にかしこまつた老人に、 ﹁子供が來てゐるね﹂と云つたのを忘られ無い。 俺は﹁子供がこの人にはあるのか﹂と思つた。 今度行けばどうせ十二三年は食ふのだから罪は俺が引受ける。 誰か持つてゐるならマツチを出してくれと自分で然う云つて、 涙を呑み込んで身をふるはした此の前科者に。 老人は不攝生の爲めに眼の下の腫れ上つた白い眼をむき出して ﹁うん﹂と生返事をして、 寒さうに心配でまつ青になつて溜息をついた。 あゝ哀れな老人、孤獨で、し切りに指ばかり折り數へてゐた老人 ︵多分刑期がきまるのを待つ爲に。 おつかない法廷に呼び出されるのを待つ爲めに︶ 未だ牢に馴れないと見える、何か心を苦るしめると見える、 一心に考へ事をしてゐる老人、 夜も晝も默つて、外聞も見榮も忘れて、 露骨にあり餘る心配を人に見せて、 然うして朝、人々にくるりと脊を向けて、 二三寸離れた壁の方を向いて、きちやんとかしこまつて、 一心に何か禮拜した老人、 俺はそこに老人の一家のものを浮べた、 老人の小さな家の神棚を思ひ出した。 ︵毎朝さうして拜んでるだらう。︶ 自分は又そこにいかめしい法廷の光景を見た、 然うしてこの老人の爲めに重い罪が少しぽつちでも 宥される事を願つた。 この小柄の老人が何を欲してゐる? それは少しの同情だ。罪の輕くされる事だ、 それよりこの老人の重い重い心のつかへに なつてゐるものがあるものか、 それより屈托する慾望があるものか、 法官よ、彼に同情してやれ、 このずる相な頬骨の出た前科者の老人に、 自分に托け切つたこの小さな老人に、 ほんの輕い罰を與へて喜ばしてやつてくれ、 彼を踏みつぶす事位わけのない事は無いのだ。 おどかすな、おびやかすな、戰々としてゐるこの生ひ先き短い老人に 二三十分過ぎてから又子供の聲がした。 若い犯人は、 ﹁おやまだゐるね﹂と又老人に話しかけた。 然うして同室の人々の顏を初めて見廻した。 俺は凡てがあり〳〵わかつたやうに思つた。 子供は誰かこゝに囚はれた人を迎へに來た。 その妻がつれて來たのだ。 俺はこの若い犯人の心の裏を云ふのは廢めよう。 餘りにわかり過ぎてゐる。 その前の晩だ。 往來で三十錢許り入つてゐた蟇口を拾つて、 つかひもしない内に捕つて、 四日間とらはれてゐた勞働者が放還された、 彼は妻が子供をつれて遠い町から朝早く ﹁貰らひ﹂に來た時の事を俺に話した。 放還される前の晩の隱し抑へた嬉しさから、 俺に話した。 子供にこんな所を見られたのが恥しいと云つてゐた。 そしてこゝを出たら妻や子をうんと喜ばしてやると、 腹の底から平和と團欒に餓ゑた若い勞働者は、 目の前に見える放免を喜んで、 驚く程の親切を本當の良心から俺に示してくれた。 然うして﹁十日や十五日は何でも無い、あの人は君十三年だよ﹂ と云つて笑つた。 あゝ俺は忘られ無い、 あの十三年行つた男が、 雨、風にさらされ、あらゆるものに虐げられ、 戰つて來た兩手の筋を力を罩めてさすり乍ら、 その蒼褪めた兩手を眺めつゝ誰に云ふとも無く、 ﹁もうすつかり駄目になつてしまつた﹂と云つて、 自分の體をかこつたのを、 然うして牢に馴れた人のやうに體を運動させるのを。 自分は思つた。此人も子供の時があつたのだ。 白い手を見た時に恐らく彼も思つたらう。 あの人にも御母さんがあつたのだ。 さうして自分の子供のやうに、 矢張り御母さんを慕ひ御母さんも彼をどんなに可愛がり、 神樣以外のものには指もさゝせず育てられた事があるのだ。 この顏色の惡い夜の人、人々に嫌はれ、忌まれる癈れた人が、 然うだ。十三年も行けば、︵十三年と云へば長い月日だ︶ 牢で病死をしないとも限ら無いこの哀れな罪人が、 あゝ神よ、彼を哀れみ給へ。彼を救ひ給へ。 凡ての哀れ極る罪人を救ひ給へ。 自分は彼を見た。どこに責む可きところがある。 その子供のやうな好奇心の強い、眼を輝して、 膝頭で立つて腰を浮かせて牢の外で何か起ると、 盜みに入る時のやうに眼を据ゑ切つて、覗き窺ひ、 耳をすませるこの野生の狼、 自分は忘られ無い、 かの年寄りと若い犯人が、 同じ一つの法則によつて動いてゐたのを、 夜寢る刻限が來ると、 二人は今日か昨日入つた許りの同室の者達に構はずに、 さつさと投げこまれた寢床をのべて 二人竝んでぐつすりいそいで眠つたのを さうだ、 一日でも早く消えてゆく事はどんな喜びだらう 一日も終つた、もう考へる事は無い 明日は何か變化があるだらう 自分には見えるやうだ。 あの小柄の老人が 若い犯人の側に目だたない位つゝましく默つてくつついて 捨てられるのでも恐れるやうに 申し合はしたやうに、 寢床へいそいで飛び込む姿が さうしてあの若い犯人はこゝではたしかに老人の保護者だ。 彼は老人より罪が重いから。 老人は彼を自分の子供のやうに慕ふのだ。 身も心も彼の側を離れられ無いのだ。 一人となるのはこゝでは恐いのだ。 あゝ何と云ふ美だ。 癈れた者にこの美があるのだ。 觸はつたらたまら無い美がもうもろく露骨になつてゐるのだ。 自分はもう書けない。 書かなくてもいゝ、 ︵十一月二日︶雨
雨が降る、安らかに恙なく 天から地に屆く 人通りはまるで無い。自分一人だ。 店々は燈をかゝげ、人が坐り、 永遠に然うして居るものゝやうに見える。 本當にどこに恐れや暗さがある。 雨は往來にさした燈の中に美くしい姿を見せて 濛々とした薄闇の世界へ音も無く消えて行く。安らかだ。 ゴト〳〵と荷馬車が一臺向ふ側を通る。 實に靜かだ。音も無く雨は降る。小景
今日は馬鹿に寒い、雪か霙でも降り出し相だ。 出しぬけに冬が來たのだ。 日が出かけようとして出られ無いで居る。 出かけ相にしては隱れてしまふ。 人がいそぎ足に澤山通る。女と子供が多い。 皆んな饒舌つて行く、寒いのに皆んな驚いて居る。 日が出るのを一樣に期待して居る。 母親の脊中で子供が 初めて此冬に出會つた連中だらう 未だ赤ん坊臭い泣き聲がすつかりとれない わけのわからない聲でむづかつて行く 時々男の聲も交る。 寒いので皆んな急ぎ足だ。かけ足だ。 用を足しに家を一寸明けて出た人々と云ふ氣がする。 家の中から聞いて居ると面白い。 一しきり往來は子供と女達の聲で賑はつて。 軈てまるでちがつてしまふ。 誰も通ら無くなる。 變な氣がする。そこは通り過ぎてしまつたやうに。 人類生存の一くさりだ。 どん〳〵變つて行く。 ︵十一月七日︶立ち話し
急いで家へ歸つて來る途中で もう暗かつた。妻に出會つた。 二人は用を話し合つた。 妻は自分に子供を注意した 成程、見れば妻の顏のうしろに ねんねこの蔭にしつかりと窮屈な位包れて、 枝になつた果實のやうにかつちり引きしまつた小さな顏が、 默つて笑つて居た。 例へやうもない可愛ゆいおとなしい顏よ すつかりいゝ氣持になつてゐる滿足顏だ。 自分が笑へば、靜かに笑ふ、その眼の光り、 りかう相な默つた表情。いゝところで出會つた。 さて又自分は妻と話のつゞきをする。 もう子供の事は忘れて、 話が絶えて又思ひ出して見れば 靜かに笑つて二人の話を聞いてゐる 母の顏のうしろの一寸氣がつかない小さな顏よ、 葉蔭の花か果物のやうな 滿足しきつたぜい澤な顏、 可愛ゆい、小さな鋭い顏、 ではさよなら、行つて御いで さよなら、笑つて居ますよ。 ︵十一月三日︶或る朝の印象
あゝ朝 どの家々もがら明きのやうに靜かだ 皆んな何處かへ行つて仕舞つたのでは無いか 亂雜に家々ばかりが蜘蛛の居ない巣のやうに 澤山空に向つて淋しく竝んで居る。 餘りに明るい光りが暗さを生むやうに 淋しいうつろな家々の近所で 勇しい雀ばかりが啼いてゐる。 ゆつくりと、この朝の靜かさに驚いたやうにつゝましく啼いてゐる。 だん〳〵啼く音が殖えてゆく。 勢ひも増して行く、羨しくなる程恐れを知ら無いで雀は啼いてゐる ついと一羽が、 高い目のまはるやうな高い電線に飛んで來て とまり、輕く調子をとつて姿勢を正した。 大きな淋しい空に對して鋭い對照をなして、憎いほど大膽な雀よ。 恐れを知らない雀よ。 同時にあとからあとから、屋根を離れて幾羽も飛んで來た。 然うして枝渡りして彼はどこかへ行く。 どこへ行くのか。 少しぼつちの群れで。白犬よ
白犬よ 立たなくてもいゝ。其儘で居よ 俺を見て逃げなくてもいゝ そこは人の來ない空地だ。 御前の世界だ。 久しぶりの御天氣に 汝ものう〳〵してるな 腹もいゝと見えるね、 呑氣な白犬よ 安心して遊べ 人氣の無い空地の日和に そこはお前の世界だ 御前がさがしたうまい場所だ。 そこなら誰も來はしない 俺はそこを占領しようとは思は無い 歸つて來い、白犬よ そんなに殘り惜し相に去らなくてもいゝ 俺はいたづらはしない、大丈夫だ。だまし打ちはしない。 歸つて來い、 御前は逃げるね、口笛を吹いても よし、よし、俺は外へ行く 外へ行つていゝ所を御前のやうに目つける、 白犬よ 俺に構はず戻つて來い。臆病な魂
俺の飼犬が捕つたと知らせに來てくれたので 飛んで行つて犬殺しの箱車を覗いた時 毛臭い、暗い匂ひがプンとした。 兵隊が澤山通つたあとの獸の皮の匂ひのやうに 然うしてサラ〳〵サラ〳〵と毛の戰く音がした。 臆病な、早くも死を嗅ぎつけた魂の顫へる音だ。 大小、七八匹の犬が赤や黒や白いのが一つ隅つこにかたまつて サラ〳〵サラ〳〵と毛の音を默つてふるはして居た。 淋しい日の目もくらい音だ。 別れの音だ。 俺の飼犬はゐなかつた。 助つた。 だが、如何うして俺は皆んな戸を開けて逃がして遣らなかつたらう。空中の詩
今日は久しぶりの天氣だ。 だが風が冷たい。一月二月頃の風のやうだ。 どこかで凧をあげてゐないかと思はれる。 久しぶりに子供を連れて散歩する。 原に行くと、遠く富士とその連山が見えた。 目に見えぬ風は空中に滿ち、雲は皆んな動いてゐた。 冷たいけれど、ぢつとしてゐると日は暖く、 凡てのものがそのまゝに生きた詩だ。 自分の心は透明になつて空中に聳える高い富士や その他の山々の姿を恐ろしく感じた。 道へ出れば、 小學校がへりの子供が、二人、三人づゝ組んで、 何か聞え無いが話し合つて來た。一人が聞き一人が饒舌つて 女許りの群が通つた。一人は母親らしく二人は※﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、22-中-9﹈妹らしく、 一人は子供を脊負ひ夫の噂をして通つた。 もう再び歸つて來無いものゝやうに 羽の薄い蜻蛉が羽だけ光らしてとんで居た。 外氣の中に一日を過せば自分は幸福だ。 空中に見えるものを見れば自分は敬虔の念に打れる。 ︵十一月五日︶彼は
彼はどこにでも居る。 生命の火はどこにでも居る。 何處にでもめぐり、何處にでも隱れて居る。 氣がつけば彼は露骨だ。 彼は水の中にもゐる。魚となつて水の中にゐる 美くしい金魚となつて瓶の中にも居る。笑ひの中にも涙の中にも 彼は人々がいやがる雨の中にも、闇の中にもゐる。 木の中にもゐる。女や子供や犬や猫の中にもゐる。 見よ、どこにでも彼はゐる 露骨なる彼は。或る夕暮
夕暮、暖い靄が天と地の間に濛々と湧き起り 晴れた空には光り初めた許りの星がゆつくりと光り 廣大な同情と慈惠はおだやかに地上に降りて來る。 街道に竝んだ小さな家々には灯がともつて 食卓につく家族があらはに見え 戸口の闇にわだかまつて白い犬に食物を與へる少年があり 道端のところ〴〵に休んで居る荷馬車の黒馬は その脊や立髮に金を交へて異形な天馬のやうに 靜かに默つて、居酒屋に入つて居る主を待つ。 人は疲れて頼り無く歩いて行けば 薄闇の深いところから浮き出して 乳房のやうにふくらんだ凸凹の面白くついた地面が 星の中から見たやうに僅か許りはつきりと 子供を顏のとこまで抱き上げて そのニコ〳〵した白い顏に見入るやうに、ふと見えて永久に消えた 生白い蝋骨のやうな固い地面が古いたしかな親しいものに感じられ 不思議な恐れと感喜が暖かに甦る。 人は忽ち小さな自分を脱して 無限の同情のある優しい力を與へられ 靄に包まれて見え無い行く手に 身をまかせてスタ〳〵歩いて行けば 不思議のやうに靄は薄れて行き ところまだらに空に現はれ、天國は開け 今つくられた許りのどろ〳〵した星は恍惚として現はれ 人は﹁如何んな小さいものも大きな天體と一致してゐる﹂と 思はずには居られ無くなる。 ︵十一月二十四日︶子供の動作
子供は不思議な動作に富んで居る。 子守唄をうたへば 必ず何事を捨てゝも母の元へ飛んで行つて非常に落着いて膝を跪き 靜かに念を入れてその頭を母の肩の邊に押し當てゝ顏を隱し 嬉しき事あれば誰れにでも好んで接吻を求め 或は兩手を祈るやうに組み合はして口のところへ置き 持つてる物をとらうとする時 奪ひとらうとすれば爭つて離さず 手を合して頂戴をすればいそいで與へる この本能的な動作は實にシンプルで貴い 教へられ無いでする 接吻や合掌である。 自分は子供の天性の中に 過去が現在となり未來となつて 永遠に連つて行くものを見る氣がする。 ︵十一月二十四日︶朝飯
朝、家の中に日の光りが舞ひ込んで來て 天井に輝く その下に食卓を竝べて 妻と自分と子供と坐る。 妻は自分達の食べ物を一人で働いてよそつて呉れる 自分と子供とは待ち兼ねて手を出す この朝は少しも寒いとは思は無い。 皆んな默つて食べ初める。靜かだ。 思はず祈りたくなる 顏に力がこもつて幸福だと默つて思ふ。 妻はいろんなものに手を出す子供をちよいちよい叱る 子供も負けて居無いで小ぜり合ひをやる 日は暖に天井で笑ひ室内に一杯になる ︵十一月二十日︶夕暮
夕暮、日はもう沈んで 足の踏み場も無く 亂雜な地上となる。 何に躓くか分らない程暗く すばやく背景のとりかへられる 大きな劇場の内部のごとく 自分の胸は早鐘を撞き 不思議な譯のわから無い歡喜に燃えて歩む。 自分の腕の上には子供がゐる。 子供は自分の手の上から、地上に下り度くて もがくけれど 次々に忙しく變る景色に心を奪はれて之れも忘れ 小さな體の方向を手の上でくりくり更へて 黒眼を燃やし 餘りに近く行き交ふ人を眺め、それに交る馬や犬を見出して 天文學者が新しい星を發見したやうな奇妙な喜びに興奮して 自分に指し、叫んで、告げる。 天の一方には 久しく待れたものが滿願に達し 然かも惜し氣も無く成就されたものを燒き棄てるやうに 眞赤に燃えた巨大な雲の五六片が 亂雜に一つ所に積み重つて崩れ その前には今にも燃え移りさうに 數本の木立が明るい反射を受けて、はつきりとそよいで立ち 葉の落ち盡した枝や梢は白熱して 灰のごとくふるへつゝ眩ゆく輝き 燃え切ればくづれ落ちるごとく立ちつくし ずつと遠くには火の子のやうに彼方此方を星がとぶ 又見る、此方の青黒い原の上には いつの間に此處まで來たのか 恐ろしい速力を有つて 大きな金星が餘り眞近く來て 其處にぴつたりとゞまり 逸早く先驅者の使命を完うしたやうに 清い焔のやうな熱い息をついて搖れ返り 過度の勢ひで來過ぎたやうに 少しづゝ目だた無い樣にあとじさりをし乍ら 中心を保つてらん〳〵と澄み渡り その周圍の炎えるやうな空氣の中を 星を乘せて來て不用になつた魔法の翅の 雙ひ蝙蝠が 餘り遠くへ離れ無いで 地に觸れて盲のやうに夢中に歡喜して飛びめぐる。 又此方の原の上には 何處から出て來たのか 眞黒く焦げたやうな人影が 無數に入亂れ、高くなり低くなり、現はれ、消え 列をつくり 前に行く者をじれつたく思ふやうに追ひ越さうとしてのめり、 重り合つて急ぎ列を亂し、廻り道をして行く者もあり。 あらゆる方向に我れ勝ちに 不思議な力でいそぐ。 又此方の庭園の靜かな黒い木の間からは 忽然として大きな滿月が ほとんど地に觸れて 靜かにせり上り 早くも、黄色い暖い光りは 富める家の奧深い茂みを越して おしやべりに夢中で裏手の往來を行く 同じ年頃の氣の合つた四人の若い女工の 白い顏や地味な姿にはつきりと照りつけて 鳩の胸から出るやうな感嘆の聲を發さしめた。 かくして凡てのものが 何か完うする爲めに いそぎ、競つて 我れ勝ちに 神の速力をもつてその任務につく この夕暮の不思議な力よ かくして亂雜な背景はとりかへられ 騷ぎしづまれば 月も星も高いところにはね上り 天と地は整然とへだてられてしまふ。 ︵十一月二十三日︶星
夜ハガキを出しに 子供を抱いて往來に出た 郵便局の屋根の向ふの 暗闇の底から 星が一つ青々と炎えて自分の胸に光りをともした 自分は優しい力を感じた、氣丈夫に感じた 宇宙を通して火はめぐつて居るのを感じた 至る處に優しい力がまき散らされてゐるのを感じた 自分の内と星は同じ火でつくられ、同じ法則に從つてゐると思つた 暗闇の底にある遠い星も自分で動かす事が出來る 優しい力で動かす事が出來る。往來で
町を歩けば 何か自分を貫いて來る 行き交ふ凡ての人の運動の中を 無言の挨拶が貫いて居る。 思はず自分は後しざりして歩いて行く 或る力が自分を押し流す。 子供の時 丸い團子を描いて それを串を描いてさし通すのが變に面白かつた。 一氣にうまくさし通せば喜んだ。 同じ事を幾度くりかへしても面白かつた。 あの手應へを感じる。白い温室
自分は妻と子供と三人で まる三日間、かし家を探して歩いた。 何處にも無いのでがつかりした。 或日もう夕方近く、 三人は大きな邸の裏庭のあらはに見える道に出た。 自分は妻の疲れをいたはつて話し乍ら、 どつちへ行かうか迷つて居た、 その時ゆくり無く 自分の眼には 冬枯のさびれた裏庭の隅に 疎らな木立を透かして ガラス張りの大きな白い温室が少し靄に包れて 無人島に漂泊した人の憔衰した眼に 偶暗い沖を通過する白い朦朧とした汽船を見出した喜びのやうに、 靜かに暖い美の姿を現はした。 自分はびつくりしてはつきりは見なかつた。 その必要はなかつた。 幻で澤山だ。自分は再びそれを見るのが苦るしかつた 眼を反らした。 自分は妻を顧みて身顫ひをして ﹁仕事がしたい﹂と叫んだ 妻は疲れた顏をして默つて自分を見上げた 然うして二人は庭の垣に添つた道を通り過ぎた。 自分の頭には女のやうな白い温室が殘つた それは人の目に屆かない、觸れ無いところに 靜かに露骨に立つた孤獨な姿だ。 人の世を離れて安らかに生きてゐる美に包れた幸福の姿だ。 ︵十一月十八日︶三人の子供
三人の子供が 原ぱで泥いぢりをして居る。 穴を掘つてその周りに立つたりしやがんだりして居る。 淋しい大きな空の翼はから鳴りを發し 忽ち日を蔽ふやうに暗くなり 卒然として舞ひ下り 深淵はそこに開け、三人の子供を呑み込んで消え失せる、 刹那三人の子供は光りのやうに其處にこぼれて睦み合ひ 自分の過ぎて行くのを微笑して見て居る。 ︵十一月二十四日︶默劇
子供と妻と原へ遊びに行く 大人に連れられ無い子供が二人原の隅に淋しさうにうろついて居る。 何か探すやうに、手もち無沙汰で、 わが子は元氣で原をとび廻り 元來し道の方へ行かうと大きな聲で﹁あゝ﹂と云つて指して示す、 二人の子供はびつくりして竝んで立止り わが子の指さした方に同時に顏を向け すぐ又顏をくるりとかへしてわが子に向けた。 自分と妻は可笑しくて笑つた。 やがて又三人の子供が來た。 三人とも同じい位の間をへだてゝ 淋しさうに地面を見乍ら何か探して來た。 自分達の側へ來ると 三人とも顏を上げて一人で飛び廻るわが子を見乍ら立止つた。 然うして默つて同じ位な笑ひを浮べ乍ら 又ソロ〳〵申し合はしたやうに歩き出し 自分達のうしろへ原の隅に竝んで音も無く消えて行つた。眞夜中の宴會
あゝ眞夜中、ふと目ざめ、窓に立つて行つて 外を覗けば、壯麗無比の宴會は開かれて居る。 もう餘程前から開かれて居るらしい。 多くの人は皆んな妻も子も親も兄弟も友人も無數の知人も 打ち連れて早くから行つて居るらしい、 自分はこの招待の日を忘れて居た事を思ひ出して悔やしくなる。 もう今から行つても遲い氣がする。宴會は下火らしい。 いや今が絶頂かも知れ無い。自分は一人窓に佇んで見る。 木は一杯魚のひそんだ大きな藻のやうに 靜かに光を放つて溌剌として入り亂れ 一夜の中に凡ての美を焦燼し切るやうに 優しく強き姿をして整然と佇み 全世界から美の粹を集めた星は少し赤味を帶びて輝き競つて舞踏し 夜の更けたのを知らせるやうに 少し疲れた歡樂の宴の再び勢ひを新たにつけられるやうに 風も無いのに落葉の音は 一齊に起る拍手のやうに空中に入り亂れ觸れ合つて 無數の細かな音を發し 幾度も幾度も同じ事がくりかへされ 宴會は更に絶頂へ至りつくやうに あり餘るところから新に酒肴が運び出されたやうに 一氣に何倍も光りが加へられ 燈の數は増され 夜のふくるまで壯麗無比の宴會はつゞく 自分はもう招ぎに遲れたのを悔やまない 自分はそれを見てゐるのだ。 自分も内に優しい力が生じ、勢ひが加へられた。 自分は詩人だ。 一篇の詩をこの宴會に捧げようと思つた。 ︵十一月二十五日︶三人の小供
何處から來たのか
蝶々のやうに見馴れ無い三人の小供が原へ來てゐる。
メリンスの美しい着物の五つ位の二人の女の子と
同じ年頃の男の兒と
三人はいつでも一緒にかたまつて遊んで居る。
道側の原の小さな崖崩れの上を飛び越しても、原へ立つても
又原へ下りて往來へ出ても三人はいつも一緒になつてしまふ。
運命が三人を一つにして居るやうに、皆んなの衣物が觸れ合つて居る
彼等は餘り騷が無い、
何か一つするとすぐ運動を休んでしまふ
向ひ合つて默つて並ぶ。
女の兒と女の兒が小聲で話して居る
男の兒はおとなしく默つて傍に立つて居る
一人の女の兒が崖崩れに辷つて轉がつた
手をかさうとすると一人で起き上つた。
泣か無いので感心だと思つた。
三人は原へ行つて立つて
そこで女の兒はシク〳〵泣いて居た
自分の方を見乍ら、惡かつたやうな氣がした。
男の兒は妙な顏をして自分を見て笑つた
泣くのは可笑しいと云ふ風に、
自分も默つて笑つた。
女の兒は靜かに泣いたり、止めたりした。
自分で泣いて居るのを知ら無いやうに
自分は美くしいと思つた。少し三人が美しい氣がした、
その間自分の小供は崖くづれの上で轉んだり這ひ上つたり一人で
﹁うんうん﹂と力んで居た。
三人の子供を思ひ出して見た時には
原の隅の方にうしろ姿を見せて三人一緒に馳けて行つた
一番ひの蝶々のやうに
何か相談が纏つたやうに
喜んで走つて行つた。
如何うして三人はこんな所へ來たのかと思つた。
(十二月六日)
︵以下八篇、愛の本所載︶
往來で
今日は曇つて居るが、その代り暖い 日のありかがよく解る 靄の中でそこだけ空が黄色くなつて居る 親切な日は出たがつて居るのが實によく分る。 どこかへ出ようとして靄の中を非常な勢ひで走つてゐる。 妻と小供と原へ行つてそれを眺める。 妻の手の明いたのが自分を元氣にして居る 久しぶりで用の無い身の幸福が味へる 原もいつもより美くしい。 すつかり姿が變つて居る。 枯れた芝が青々として居る。 霜溶け道はつくられた許りのやうに黒々と泥があれて居る。 すつかり冬仕度が出來た落着きがそこら一面にある。 もうこれで大丈夫と云ふやうに、日が出るのを待つて居る。 自分達は芝の上に離れ〴〵に腰を下ろす 風も無いのに小供が 少し色のついた五厘紙凧を上げて居る。 自分の目の前で、フラ〳〵上つてはすぐ落ちる。 家に飼つてある支那金魚を思ひ出す 小さくて灰色で少し紅が交つてゐるのがよく似てゐる。 生きてゐるやうに紙凧は動く、動き方も似てゐる。 原の隅から見知ら無い白い犬が人戀しげに顏を出す。 妻が呼ぶと飛んで來てその足下にころがつてじやれる。 自分が立つとピヨイと飛びさがつて逃げて行く 子供は南京豆をもつて追掛けて行く 逃げ腰に下つた犬は原の隅の垣根の中へ入つてしまふ。 子供は默てトツトと引返して來る 犬は垣根から出て來て小供の居たところを嗅いでゐる。 原の裾の方で屑屋が籠を下ろして一人で紙を選んでゐる。 道の向ふのもう一つの原では大人が二人でボールを投げ合つてゐる。 玉がはづれて眞中にある古井戸へ落ちこんだ。 古井戸の周りには忽ち一杯人が集つた 皆んな覗いてゐる。 酒屋の小僧や自轉車乘の小僧や小供がゴチヤ〳〵高低になつてゐる。 首を動してはうしろをふり向く顏が見える 道を行く人は立止つて浮腰になつて迷つてゐる。 原の隅へ女の子がふくらんだうしろ姿を見せて家へ飛んで行く。 自分は妻と子供に別れて散歩に行く 電車に乘る。まるですいてゐる。 自分の前には厚着した上に水色の襟卷をした老婆が暖いので 供も連れずに遠くへ出掛けると見える。 車掌に乘替を切らしてゐる。 綺麗な可愛ゆい聲だ。 電車は坂を下りて行く 向ふから一杯荷馬車や荷車が高々と下りて來て通り過ぎる。 馭者臺に小僧が同乘して嬉し相に見渡して居る 學校がへりの袴をつけて少女が 思ひ〳〵の色のふろしき包みを片手の上にきちやんと載せて、 二三人づゝ連れ立つて來る 何か饒舌つてゐる。 みんな赤い顏を前に集めて覗き合ひ乍ら話して來る。 道行く人の眼はみんな同じ方向を向いてゐる。 黄ろい菊の束をもつた少女も通る。 黒いマントに白のゲートルの脛の長い學生も通る。 みんな青々として通る。力をもつて高々と通る。 歩いて行く者は凡て美しいと思ふ。 地面は之等の人や馬や車を載せてゆるく地辷りして來る。 電車は馬のやうに一氣に坂をのぼり切る。 坂の上の火藥庫の番兵も明るい顏をしてゐる 呑氣さうに見える。御じぎをして人が入つて行く。 番兵は見知り合ひと見える。一寸頭を下げる。 白いつゝみを脊負つた洗濯屋の小僧が立止つて門内を見てゐる。 番兵は暇さうに石甃の上を行つたり來たりしてゐる 鐵砲なんか捨てゝノコ〳〵往來に歩き出しさうだ。 然し筋向ひの西洋料理屋の門前の 少し日の當つた石の上に 顏は見え無いが未だ若相な女が 赤い帽子の赤ん坊を落ちないやうに窮屈さうに 腹をこゞめて帶を締め直して居る。 これからうんと歩く用心に その側に五つか六つ位の帽子も冠らない未だ頑是ない男の子が、 御母さんの方に體を寄せ乍ら、眼はボンヤリ往來を見てゐる。 親子とも汚ない風だ。 この寒中に白つぽくなつた水色の着物を着てゐる。 その代りやたらに重ねて着てゐる 無論持てゐるだけの着物を着てしまつてゐるのだ。 だがねんねこは無い、白い紐にぢかに子供を脊負つてゐる。 自分の眼には出しぬけに涙が湧いた 今迄のいゝ氣持はとんでしまつた。 何處へ行く女だ、 歩いてこの電車の果てまでももつと先きまでも行くのではあるまいか もう餘程遠くから歩いて來たのではあるまいか。 坂を上り切つたので疲れて息を入れてゐるのだ。 人を頼つて行くのではなからうか 男に棄てられた女か、夫に死に別れた妻か、 子供があつてどこでも働け無い女 子供は二人とも何もしらないのだ 御母さんの困つてゐる心は知らないのだ。 遊ぶ事は出來ずにあつちこつち連れて歩かせられるのだ。 自分は電車を下りようか 道には着飾つた女や男が通る 皆んな餘裕のあるニコ〳〵した顏をしてゐる 彼女のやうな女は一人も見當ら無い 兩側の店もあいにく立派だ。 この道は若い彼女にはつらい道だ。 しつかり赤ん坊を脊負つて下を見乍ら、 うしろについて來る小供の足を引ずらして、 泣き度くなるやうな小言を云ひ乍ら、 電車道を急いで行かなくてはならない。 一緒に歩いて遣つたらどんなにいゝか どこに彼女の夫はゐるのだ。 どこに小供の父はゐるのだ。 若しも亡くなつたのならきつと蔭身に添つてゐるのだらう。 頼つて行く人は親切に彼女を歡迎し相だ。 向ふの方には居さうな氣がする 人は幸福だ。青々して居る。 然し不幸な人がゐる以上 その人をそこまで引上げなくてはならない 力を與へ給へと祈つた。 乘り換へ場で下りた。 あとへ引き返へせば彼女に遇へる ﹃失禮ですがあなたは困つてゐるのではないのですか﹄と聞けばいゝ 返事に依つて何でもしよう 電車の片道切符を與へてもいゝ 子供へ菓子か蜜柑位與へる金は五六錢ある 金を與へるのが問題ではない 共力する事が出來ればいゝ 彼女の爲めに働いて遣る事が出來ればいゝ あゝ友達と二人で歩いて居たらば きつと心を合はして如何うとか出來る 電車が來た、自分は迷つた 紫色をした一羽の鳩が電車道の敷石へとび下りて歩いた。 鳩が彼女の方へ飛んだらば引返さう 鳩はどつちつかずの屋根へ飛び上つた 自分は人に紛れて電車へ乘つた。 幸福な人は青々と滿ち溢れてゐる。 如何うして多くの幸福が、不幸な人を生むのか。 ︵十二月一日︶樹木
北風が止んで夕日の傾く空に 靜かに大きな樹は沈んでゆく 難破船の最後のやうに 枝を開いた樹は妙にゆる〳〵目のまはるやうに 天體と共に傾いて行く、大きな渦の中に沈んでゆく。 靜かに、光りを加減し乍ら 自分は海上にたゞよふ漂泊者のやうに 涙をためて汝を見送る 靄に包まれて汝の沈み果てるまで 日に別れて行く汝の姿は悲壯だ。 日は沒し、汝も急に沈む。 然し月夜は再び汝の姿をもつて來た。 汝は優しい姿を保つて海底に見棄てられてゐる。 早くも光りの鱗屑の類ひは夥しく群れ來り 大きな藻のやうに開いた枝や葉の上に集つて 跳ね、躍り、宿つて眠る。 然うして眞夜中の潮が滿ちて來ると 汝の姿はいよ〳〵靜かにすみ渡つて 思ひ出した樣に打ち寄せる波に少し搖れる 眠れる魚は驚いて一時に目覺め 枝を離れて空にとび散りをどんだ光りをわきかへらせる。 その時、時は過ぎて行く陣痛のやうに、 汝は健げな産婦のやうにあわてないで落葉をする。 幽かな音を發して落葉はふれ合つてこぼれる、 思はず口をきいたやうに。 然うしていよ〳〵冴え渡る生命の水底に 樹はつくりものゝやうに動かない。 あゝ樹よ、汝は生きてゐる 見るものも無い眞夜中に 見て居るものがあるのを知つたら 汝は消え失せはしないか 然し汝は消える事は出來無い 汝は力を出しすぎて居る 汝の消えるのは手間がかゝる 汝はだまされたやうに 冬の最中に春が來たやうに いよ〳〵靜かに光つて光りぬく。 あゝ冬の夜の戸外の美くしさ 白晝のやうな眩さ、 究り無い美くしさ、 霜と星の光線の入り亂れ 一本一本の枝はイルミネーシヨンする その淨さ、その整しさ、 星は曉の近い赤さを帶びて 一齊に火を噴きかける。清い息を吹きかける。 然うしてぐる〳〵廻轉する。亂舞する。 いそがしく消えたり、光つたりし初める。 夜の潮は引き初める。 一陣の風が魔術を吹き消すやうに吹き渡り 星の鱗屑は遠い〳〵ところへぐる〳〵目を廻し乍らひいて行く。 潮の引いたやうに樹は黒い姿で現はれる。 ︵十一月二十八日︶或る夕方
夕方 小供を連れて牛屋へ牛を見に行つた もう一匹も居なかつた。 皆んな部屋へ入つて居た。 廣い空地には夫婦が肥料を掃き竝べて乾して居た 小供が嬉し相に手傳つて居た 小屋の方から若者がニコ〳〵し乍ら夫婦の方へ歩いて來た。 ﹃雨が降り出したら困るね﹄と夫が云つた ﹃本當に困りますね﹄と妻が云つた。 美くしい氣がした。 自分は亡くなつた弟を思ひ出した。 牧場で馬の病氣の看病を徹夜してした話を聞いてゐたのを思ひ出した ﹃明日又來て見よう﹄と云つて小供と家へ歸つた。 雨が靜に降り出した。 然し青い空は靜かに窓の向ふにいつまでも明るかつた。 窓をしめるのを忘れたやうに。小景
冬が來た 夜は冷える けれども星は毎晩キラ〳〵輝く 赤ん坊にしつこをさせる御母さんが 戸を明ければ 爽やかに冷たい空氣が サツと家の内に流れこみ 海の上で眼がさめたやう 大洋のやうな夜の上には 星がキラ〳〵 赤ん坊はぬくとい 股引のまゝで 圓い足を空に向けて 御母さまの腕の上に すつぽりはまつて しつこする。地球の生地
見ろ、見ろ 何處にでも地球の生地はまる出しだ。 例へば 澤山な子持の青白い屑屋の女房は 寒い吹き晒らしの日蔭の土間で 家中にぶちまけられた襤褸やがらくたを 日がな一日吟味し形付ける。 大きな籠の中からとり出すのは つるのこはれた鐵瓶や錆の出たブリキ製の御飯蒸し かうやくを澤山張つた埃だらけな硝子のかけら もう日が暮れるのに家中明け放しの中で どう仕末がつくことと思はれる冷たいがらくたを 一手に引受けて一々選り分け仕末する。 たまには小供も仆れて泣いて來ようし 乳をねだりに遣つて來ようし 家のしきゐには女の子が二人腰掛けて、 駄菓子をかじり乍ら眺めてゐる。 凍つた道の上には狹い家の中から追ひ出された、 ボロ〳〵な男の子が相撲をとつてゐる この寒いのに轉んだり、手をついたり 着物はよごし方題、體は怪我し方題 見ろ、見ろ どこにでも地球の生地は丸出しだ。櫛
私の家では 久しぶりに 夜中に妻が髮を洗ふ うまい工合に小供が早く寢たので その隙に 臺所で火をカン〳〵起して湯を沸かして ばら〳〵となつた髮をほどいた。 ところがあいにく櫛がめつから無い 箪笥の上の鏡臺の抽出にも火鉢の抽出にも どこを探しても、家中探しても出て來ない 小供の目をさまさせないやうに 音をたてずに探す氣苦勞 とう〳〵櫛めは出て來ない どこへ一たい隱れて居るのだ 折角御湯も沸いてゐるのに 赤ん坊もよく眠てゐるのに とう〳〵妻は疳癪を起してしまつた。 とばつちりは俺に來る 俺もない〳〵はら〳〵して居たのだ。 何處かで見たやうに覺えがあるが さて思ひ出せない 妻の探したあとを探してどなられる 可愛相に妻はとう〳〵本氣に腹を立てた 恐ろしい呪の言葉が口をついて出て 箪笥の上の俺の本は疊の上にぶちまけられる 自分位不運な者は無い 小供なんかいらないと恐ろしい事を云ふ 俺も負けないで賣言葉に買ひ言葉 とう〳〵二人は默つてしまふ。 妻は自暴半分で髮を洗ひ出す 俺は如何うかして目つけてやりたいと 親切氣を出して探し廻る音に あいにく子供が泣き出した。 可愛相に赤ん坊は眞赤になつてすかしてもだましても泣く。 眼には恐れと苦しさが一杯涙とまじつて見える 濡れたまゝの髮で妻が臺所からやつて來る 見馴れない形相に赤ん坊は變な顏 枕の上に布をあてがつて濡れた毛のまゝ 妻は添寢をさせて遣る。 小供は安心して眠つてゆく 臺所ではやかんのふたが踊り出し 水と火が喧嘩を初める 俺は櫛めを又探す 然し櫛めは何處かにはさまつて出たくても、 出られないでもがいてゐるにちがひない、 その隙に小供の床からぬけ出した妻は 新しい櫛を買ひに闇にまぎれて走つてゆく 小供はもう眼はさめない。 夜が更けても妻は鏡臺の前に腰を据ゑて 遲くまで眠ら無い。 鏡臺の抽出が急がしく開けたてされる音と リスリンを手につけてこする音が隣りの室から聞えて居る。自分は見た
自分は見た。 とある場末の貧しき往來に平行した下駄屋の店で 夫は仕事場の木屑の中に坐り 妻は赤子を抱いて座敷に通るあがりかまちに腰をかけ 老いたる父は板の間に立ち 凡ての人は運動を停止し 同じ思ひに顏を曇らせ茫然として眼を見合して居るのを その顏に現はれた深い痛苦、 中央にありて思案に咽ぶ如き痛ましき妻の顏 妻を頼りに思ふ如く片手に削りかけの下駄をもちて その顏を仰いだる弱々しき夫の顏、 二人を見下ろして老いの愛情に輝く父の顏 無心に母の乳に食ひつく赤兒の顏 その暗き茫然として自失したる如き光景を自分は忘れない。 それを思ふ度びに涙が出て來る。 何事のありしかは知らず されど自分は未だかゝる痛苦に迫つた顏を見し事なし かゝる暗き光景を見し事なし子供の首
何か子供の首を包んで居る。 うしろから見ると 枕ずれのしたちゞれ毛が 美くしい白い肉を包んで居る 草が地面に生えるやうに 白い肉もそこで育つのだ。 子供も一緒に 美くしい髮もそこで育つのだ。 地球と一緒に、或夜
父の家を出づれば 夜は悲し 代々木の原の上に 涯しなく高く闇は佇み、落ちかゝり 星の光りも僅かに力無し 土手の上の線路の側を 人は徘徊し 悲しく犬の遠吠は聞え 使に出された小き女中が 土手の下の闇をすれちがひ走りぬ 白き犬と共に、散歩する人
巣鴨の奧の片田舍 日かげ照り添ふ畑道を 用も無い身の 冬仕度せる人、散歩せり その一人々々は異樣なり 近づくのが恐いやう 年代を經し無慘なる印象 その身を包む外套のかげより現はれたり その顏の立派さ、恐ろしさ。乳
母親の乳の張つて痛んで來る時 小供の腹は餓ゑて來る。 與ふる者と與へられる者は、 一つとなつてしつかりときつく抱き合ふ。 乳はひとりでに滿ち溢れ出る 赤ん坊はむせかへつて怒る、 母親はどうする事も出來ないで氣を揉むが、乳は出過ぎる。 遠慮なく響いて出る 充ち滿ちて出過ぎる苦しさ。 與ふる者の苦るしさ。 赤ん坊は母親と苦るしんだ上句、 自然に響いて來るのをごくり〳〵と呑む。人形
赤ん坊は淋しい、 何となく淋しい 未だ口もきけないで、僅かに聲を立てゝゐる赤ん坊は淋しい 居るか居ないのか解らないやうにおとなしいから。 眼をつむつたり、開いたり 泣くのにも笑ふのにも まるで人形のやうに、内の命じるまゝにおとなしく從つてゐるから。 見て居ると涙が湧いて來る 尊いものを見た時の樣に。 ︵一九一六、一二、二九︶眼
眼よ、眼よ、不思議な眼よ。 赤ん坊の眼の動かぬ時の凄さ 充ち滿ちて溢れるものに迷ふ畏怖の眼だ。 何かゞ赤ん坊を内から動かしてゐる氣がして來る。その眼! 眠りから覺めた時によくする 苦るし相な目、生氣に滿ちたあの悲しい眼! 自分は眼を閉ぢ度くなる あゝ眼、眼を造つたものは何だ。 寂しい處で眼を造つたものがあるのだ。 優しくしたり、恐くしたり、その眼に生氣を與へる者があるのだ。赤ん坊
赤ん坊は泣いて母を呼ぶ 自分の眼覺めたのを知らせる爲めに 苦るしい力強い聲で 母を呼ぶ。母を呼ぶ 深いところから世界が呼ぶやうに 此世の母を呼ぶ、母を呼ぶ北風
烈しい北風が吹き止んだ。 太陽が落ちると同時に まるで申し合はせたやうに 地上のものを思はせる、確りした平和の夕暮が來た。 一層深く淨められた夕暮が來た。 惱みが鎭められたやうに。雪
雪が降つて世間の騷ぎが鎭つた。 人間は漸つと自分に歸つたやうな氣がする。 立派な永遠の法則に從つたやうに 同じやうな明るさと、 同じやうな靜かさが地平線の奧までひろがつて來る。 この靜さと光りの中に魂は安息と平和を得た。 永い苦るしみが忘られて、 自分等は行く道を見出したやうな氣がする。 古い地上の道は雪の中へ埋れて 新らしい道が空とぶ鳥のやうに自分等の胸に見出された。 自由と平等と安息と平和の道だ。 ︵一九一七、一、二午後︶小供
自分の小供は可愛相な程御世話燒きだ。 猫に袋をかぶしたり、ふろしきを冠せると すぐとつてやらずにはゐられない 一生懸命になつてとらうとする とれないと泣き出す とつてしまつて猫を見ると非常に喜んで笑ふ。 今日も襖の明いて居たのを妻にしめさせると、 それが小供には氣に入らなかつた。 で又襖を明けさせた。 今度は自分で明けさせたと思つて? 泣き出した。 それが胸の中から一生懸命である。 氣にして居るのだ。 本能的にするのだ。 變つた事が恐いのだ。 危險な事が嫌ひなのだ。そのまゝ無邪氣な事が好きなのだ。 自分の小供は生れて未だ一年になつた許りだ。 小供は實に潔白だ。いゝ加減な事が嫌ひである。 小供の氣に向かない事をさせるのは惡いと思ふ。 可愛相だ。大變心配する。 かう云ふ氣性を失はないで育つてくれると面白いと思ふ。 然し餘り可愛相な氣もする。 ︵一七、九、八︶靴を買ひに
御母さんに手をひかれて 小供は靴を買ひに行つた。 たつた二日で初めて買つたズツクの靴を破つてしまつたので。 今度はもう少しいゝのを買ひに。 白い洋服に麥藁帽、赤い靴下をはいて ぬかるみを拾ひ〳〵チヨコ〳〵歩いてゆく 赤い足の白い鳥のやうに お尻のところからパツとひろがつた服を着て 町へ買物に御出かけ。 無邪氣な女と小供よ。 氣をつけて行け危いから よつぱらひに會はないやうに。 荷車にひかれないやうに ︵一七、九、八、愛の本所載︶○
今日は何と云ふ晴天 風があるので日の光はすさまじく 何となく神祕的なまよはされるやうな日だ 空はまつさをにまよはすやうに 地上のあらゆるものは亂れて輝き溢れる。 ︵一七、九、八、愛の本所載︶○
小供がものを食べる時を見て居ると恐くなる 本能そのものを見るやうだ。 恐いやうに食べる。 どんなものも噛み碎き嚥み下ろし飽くを知ら無い恐さを感じる。 異樣の恐さを感じる。ドーミヱを思ふ
寢床の中で 小供が仰向けになつて怒つて泣いて居る 口を一杯に開けて 涙が兩眼から眞赤な頬に溢れて濡らしてゐる 小さな顰んだ顏の眞中に 鼻が小高く突立つてゐる。 面白い恰好だ。 ドーミヱを思ふ。 此世の空氣の中の一つの光景。 ︵一九一八、二、三日︶小さき金魚
となりの人は引越した。 主人が發狂して田舍へかへり 殘つた妻君と十二三の憂鬱な娘とは何處かへ間借りをする爲めに、 三羽の鷄を賣るのは哀れだと云ふので親類に預け 一匹の金魚を俺の金魚の中に殘して行つた。 自分は妻の留守にフト水瓶を覗くと 小さな、小さな苔のやうなものが瓶の隅で ピチヨ〳〵と動き廻つてゐるのでびつくりした。 ﹁おや金魚が生れたのかしら﹂と不思議に思つた。 よく見ると灰色に少し紅の交つた眼玉の飛び出した支那金魚なので。 フト思ひ出した。あの娘が可愛がつてゐたのを放して行つたのだなと。 自分は危く涙がこぼれ相になつた。 灰色に少し紅の交つた眼玉のとび出した小さな金魚が赤い大きな 金魚の群の中で、瓶の隅を一匹でチヨピチヨピと動き廻つてゐる哀れさ。 今生れた許りのやうなフヨ〳〵した眼にも餘る小さな金魚、 あの娘のやうなあの顏色の惡い、眼の大きい、 氣違ひの遺傳でもあり相な、あの哀れの娘のやうな 生たものはどんなものでも殺す事が嫌ひだと云ふあの娘のやうな、 三羽の鷄に別れて、明日から玉子が食べられないと云つて、 今日産み殘して行つた玉子を大事にしたあの娘のやうな 思ひが殘つてゐるのではないか あの淋しさうな金魚、チヨピ〳〵と水をはねかす金魚、淋しい金魚、 自分と前後して縁日で買つた五匹の中一匹生き殘つてゐた、 あの小さな金魚、御前も決して無情ではない。 あれを見る度びに俺は娘を思ひ出すだらう 淋しい哀れな、御父さんに別れて、 御母さんと淋しい他人の家の二階へ行つた娘を御父さんと別れてから あの御母さんの元氣なささうにくらしてゐた事を 俺は忘れないだらう あの淋しい人達……幸福でつゝがなくあれ。 ︵九、二十一日、愛の本所載︶三人の親子
或年の大晦日の晩だ。
場末の小さな暇さうな、餅屋の前で
二人の小供が母親に餅を買つてくれとねだつて居た。
母親もそれが買ひたかつた。
小さな硝子戸から透かして見ると
十三錢と云ふ札がついて居る賣れ殘りの餅である。
母親は永い間その店の前の往來に立つて居た。
二人の小供は母親の右と左の袂にすがつて
ランプに輝く店の硝子窓を覗いて居た。
十三錢と云ふ札のついた餅を母親はどこからか射すうす明りで
帶の間から出した小さな財布から金を出しては數へて居た。
買はうか買ふまいかと迷つて、
三人とも默つて釘付けられたやうに立つて居た。
苦るしい沈默が一層息を殺して三人を見守つた。
どんよりした白い雲も動かず、月もその間から顏を出して、
如何なる事かと眺めて居た。
然うして居る事が十分餘り
母親は聞えない位の吐息をついて、默つて歩き出した。
小供達もおとなしくそれに從つて、寒い町を三人は歩み去つた。
もう買へない餅の事は思は無い樣に、
やつと空氣は樂々出來た。
月も雲も動き初めた。然うして凡てが移り動き、過ぎ去つた。
人通りの無い町で、それを見て居た人は誰もなかつた。場末の町は永遠の沈默にしづんで居た。
神だけはきつとそれを御覽になつたらう
あの靜かに歩み去つた三人は
神のおつかはしになつた女と小供ではなかつたらうか
氣高い美くしい心の母と二人のおとなしい天使ではなからうか。
それとも大晦日の夜も遲く、人々が寢鎭つてから
人目を忍んで、買物に出た貧しい人の母と子だつたらうか。
(一九一六、一二、三一夜)
︵以下五篇、生命の川所載︶
夕刊賣
十一月のびつしりと凍えた夜 街の四辻に女は新聞を賣る 彼女の脊中には三つ位の小供が掻卷にくるまつて、 小さな頭のうしろだけ露はに晒し出して、 顏を脊中にうづめて居る。 女はうろ〳〵と電車道を突切つたり 彼方へ行き、此方へ走る。心も體もいそがしい、 脊中では凍えて小供は夢路を辿る。 霜の下りたその頭は星のやうに輝いて見える 女は走る。買つて呉れ手が無いかと眼を四方に配る。 然うしてしきりなしに叫ぶ。泣くやうに叫ぶ。 道で主人にはぐれた犬のやうに、 人さへ見ればかけ出す。 あつちへ迷ひ此方に走り寄る。 着物を通す寒さも忘れて 氣違ひのやうに夜ぴて行つたり來たりしてゐる。 小供の首は母の頭のうしろから走る度びにうなづいてゐる。 時々眼をさますと顏をつき出して、寒い不思議な世界を見る。 その中を氣違ひの樣に母は走つてゐる。自分も走つて居る。 彼は男の子だ。 おとなしい顏をした目の利こうさうな男の子だ。 彼は母親の走るのを見て居る。母親は話しかけてくれないから 自分も默つて居る可きものと思つて默つて居る。 何の爲めに毎晩かうして 寒い中を母親が走るのか、彼は未だ知ら無い。 時々男の人が母親の前に立つて何か話して行つてしまふのを見る。 彼はその人を見送る。いゝ人なのだらうと思ふ。 輝いた電車を見る。行きすぎる人を見る。星を見る。 飽きてしまふと顏を脊中に埋める。そこは少しはいゝ具合に暖い。 もぐれるだけもぐる。頭のてつぺんが寒い。 然し彼はその搖れる脊中の上で眠る。 三枚一錢、三枚一錢と云ふ母の叫ぶ聲と、 何だかわからない大きな火の燃えるやうなごう〳〵云ふ夜の子守唄を聞き乍ら 幸福さうにねむる。腹も未だ減らないし、小便も出度くないから。 さうして夜ぴて母と小供は走るのだ。 三枚一錢、三枚一錢……しつきりなしに走るのだ。 電車は來ては止り、行つてしまふ。 夜はごう〳〵唸つて更けて行く。 それから疲れ切つた母と子とはどこかへ歸つてゆく 小供は今度は母に話しをかける事が出來る。笑ふ事も出來る 二人は話し乍ら歸つてゆく。小供は笑ふ。いゝ聲で笑つて。 四邊を響かせ乍ら、彼等は家へかへつてゆく。 ︵一九一七、一、二夜︶或夜
小供は眠つた。家の中は靜かになつた。 苦るしい沈默が室の中にある。 妻も夫も默つて小供を見守つてゐる。 小供は馬鹿に大きく見える。 妻の腕に抱かれて足を伸ばしてゐる。 ひつくりかへつて居るのが可笑しいやうに。立派な男の子だ。 見て居ると夫も妻も緊張した苦るしさを感じる 氣の遠くなる樣な冬枯の夜で 空にはどんよりとした月と白い雲がじつと動かずに凍てついて居る、 苦るしい〳〵永遠の沈默がある。 萬物が同一の法則に漸つと歸つたやうな靜かさだ。 小供は苦るしさうに、壓し出されるやうな吐息をつく それが靜かに空氣を動かす。 さうして幸福に夢見てゐるやうな安心を與へる。 然し夫と妻は矢張り默つて居る。 遠い遠い過去と未來を何も解らず夢見て ︵一九一六、一二月︶貧しい母親
高い煉瓦の壁の中で 赤い着物を着てゐるのを見たら 乳は上つてしまつた。乳は上つてしまつた。 乳呑兒を抱へて、四歳位になる男の子を片手につれて 貧しい母親は誰にでも饒舌る。 師走の寒い電車の中で、何も彼も棄てゝしまつたやうな目付をして。 高い煉瓦の壁の中で 赤い着物を着てゐるのを見たら 私の乳は上つてしまつた。乳が上つてしまつた。 これぽつちか出やしない。 ︵一九一六、一二︶納豆賣
日の出前の町を 納豆賣の女は赤ん坊を脊中に縛りつけて 鳥の樣に歌つてゆく すばらしい足の早さで あつち、こつちで御用を聞いて 機嫌のいゝ、挨拶をして 町から町を縫つて 空氣を清めて行く 鳥のやうに早く、姿も見せず歌つてゆく 私はあの聲が好きだ。 あの姿が好きだ。 ︵一九一六、一二︶蘇生の思ひ
冬になるとよくこんな晩がある。 空が曇つて何となく悲しい壓迫を人が感じる 凡てのものが火が消えた樣にしづまり 遠く潮の引いたやうな空の感じがする。 自然が何か計畫をして居る爲めに遠くの方へ そこへ力が皆んな行つてしまつたやうな氣がする 用も無いのに町へ出て見てもどこにも活氣が無い 家々は白く氣味の惡い氣の拔けた恰好をして居る。 どこか遠くの方で道路を工事する 大勢の人間の掛聲が聞えるそれにも力が無い どうする事も出來ない寂寞を感じる。 家へ歸ると出し拔けに友達がたづねて來る。 何かもの足りなかつたのはこの友を待つて居たのだと思はせるやうに 然し一寸驚く。やつとわかる。 友も誰か來るのを待ちくたびれて出て來たと云ふ風だ。 淋しい泣きつくやうな氣難しい憂鬱な顏をして居る。 かゝる時の嬉しさ、蘇生した思ひがする 自分達は外の事を忘れてしまつた 打ちくつろいで熱心に文學を話す。心の中には火花の散る思ひ。 かくて友を送つて外へ出て見ると 天氣はすつかり變つて雲の間から星が見える 何を自然は企んでゐたのか 自分達は明日の天氣を告げ合つて 別れて歸る。 ︵一九一六、九、二一日︶冬の朝
今年になつてから珍らしい寒さだ。 雲が多いので日が未だ地上に屆か無いのだ。 雀までも巣から飛び出さないのか聲がしない、 いつも勉強の納豆賣ももう通つてしまつたのか、 こつちが寢過したのだ。 起きて見ると日はもう登つて居るので、 凍え死んだ樣な雲がだん〳〵色づけられて、 漸つと動き出す地上ではところどころでずるい雀の聲がする、 人間は午後からのすばらしい天氣を見越して 生きかへる樣に喜び、 珍らしい寒さを元氣づいた聲で口々に語り合つて居る。 その内に雲はすつかり蘇生して 旅を續けて何處かへ滑つて行つて仕舞ふ 霜に飾られた木々の梢が、濃やかにぼかされて 雀は屋根の上に飛び出して來て揃つて啼き出す 啼く音がだん〳〵高くなる。 家の中は人が居なくなつたやうに靜かだ。 寢飽きた赤ん坊が床の中で一人言を云つて居る ︵一九一六、一二、二二日︶夕暮の一時
冬の宵の口である。 朝から吹き通した寒い北風はぱつたり止んで 室の中も外も靜かになつた。 深林か谷底の樣に 自分は机の前に坐つて居る。 妻は側に赤ん坊を抱いて坐つてあやして居る。 赤ん坊は妻の胸に首を埋めてゐる。 小供は眠たいのだ。半分頭はねむつて居るのだ。 心は夢の境を辿つて居るのだ。だが彼は落着かない。 急に何か活動しかける。鼻を鳴らす。 自分の心も落着かない。妙に苦るしい。然うして寂しい。 疲れ切つた妻は一生懸命に歌をうたつて居る。本當に向きになつて それを聞いて居ると自分の眼にも涙が滿ちて來る。心は重たい。 これが幸福なのかしら、この苦るしさと悲しさが。 何か爲なくてはならない事がある氣がする。 誰かに罪があるやうな氣がする。 誰にも謝り度い氣がする。 あゝこの苦るしい夕暮の一時。 神よ吾等の罪を宥し給へ。 吾等をみ心のまゝに導き給へ。 ︵一九一六、一二、九夕︶︵青空所載︶雀
親鳥が巣にかへる時 待ち受けた小さい雛は黄い口を裂ける程開いて 夢かと許りに喜んで啼き、その喜びに死んでもいゝと喜んで啼き、 あらゆる感動の階音を刻んで啼き 全身を緊張させ、ふるはせ、未だ飛べない羽を空に向つて擴げ、 感謝と喜びを示し 親鳥から餌を與へて貰はうとする、 もどかし相なその姿は實に親しげだ。實に優しい その急がしい窒息する樣な聲も、 その待ち切れないで落着かぬ氣の狂ひ相な身ぶりも、 嬉しさに千切れるほどふるふ羽も 小さい全身に滿ちる喜びを有り餘る程現はし、 親しさをこぼし、然し餘り小さく、 あゝ餘りに小さくて その生きようとする樣は、人に哀れを起さしめる。 ︵一九一六、七、一五︶夜の太陽
或夜 母の膝に小供は腰をかけて運動してゐる その顏は赤く輝いて笑つて居る うしろから小供にそつくりな母の顏も快く笑ふ 健康に滿ち溢れた力強い美しさ 赤い夜の光の艶々しさ 今は見え無い太陽が 夜を貫いてこゝに愛撫の手をのべる。 二人の首を飾るのもその輝きだ。 岩疊な顏に優しく溢れる血汐の喜び どこにも不健康のしるしは見られ無い 力を出しすぎる位 いくらでも笑ひつゞけてゐる小供と母の顏 樂々とした笑ひの中に肉が躍り 神々の喜びがゆらぐ 肉體を精神が活氣づける。 心靈の波が深いところから溢れて來るやうだ。 死せる者も甦らうとするやうに 此世に爭つて顏を出す 亂れて湧きかへる力強い心靈の波 波の中から此世に生れる歡喜の姿 赤き夜の光りに輝く 母と子の笑ひの美しさ ︵一九一七、一二、三一︶ ︵以下十三篇、使命所載︶冬
太陽は日に日に遠くなる 急いで空を走つて行くのが眼にまで見ゆる 日はだん〳〵と短くなり 晝間の中から月が出る。 母體に小供がたまつた樣に凡てのものが 逆まになつて凝結して眠り 野に出て見れば小川はせつせと流れ 岸に簇る木立はすつかり葉を落し盡して一番早く大膽な眠りにつき 小鳥の聲が美しく小さく響く。 町に出て見れば 往來には人通りが減つて來た。 小供が默つて足音も無く通つた。 大膽に月の世界から來たやうに 皆んな默つて行來してゐる。 人の上にも冬が來た。 もう浮いた話は聞かれない 人はにんしんした女房の眠るのを叱ら無い夫のやうに 忠ま實めに働く許りだ。 神聖な眠りをさまさないやうに。猿
自分のあとになり、先きになり 女の猿廻しが二人連れ立つて夕暮の町を歩いて行く 男のやうに筒袖を着て、白い脚絆に鞋かけ、スタ〳〵と歩いてゆく、 脊中に脊負つた辨當箱の上に一匹猿が横向きに乘て居る。 薄桃色の顏と同じ色の可愛ゆい耳をもつた胸だけ白い灰色の奴だ。 不安さうに搖られ乍ら體を女の脊中に赤ん坊のやうに寄せ掛けて 時々キーキーと啼いてゐる。 側ではし切り無しに電車が通る 深山の奧から一匹 仲間に別れて來た小猿は ひもじいのか恐いのか眠りもしないで 寒い空氣の中で恐さうに眼を光らして居る。 二人の女猿曳は話し乍ら實にスタ〳〵歩いてゆく 地の上はすつかり暗くなつて 坂の向ふには建て込んだ都會の家々の間から 赤い廣告燈の上に 大きな滿月が浮び上るのに 息をつく隙も無く二人はセツセツと歩いてゆく あたりの騷ぎにはまるで頓着無く 月の下では町の生活の呼聲が寄せては返へす波のやうに 恐ろしく聞える。 人を攫つてゆく狂氣した波だ。 その中で人間がわめいてゐる 心細い漂泊の猿よ 御前は俺のあとになり、先きになる 俺の考へてゐる内に御前は先になつてしまひ 俺が急ぐとあとになる。 今夜はどこで御前は一人で眠るのだ どこまで行つても御前はその女主からはのがれられはしない。 筒袖をブラ〳〵させて懷手をして行く仲間も 胸に太鼓をぶらさげて御前をおんぶしてゆく人も見たところ貧しい、 淋しい、いゝ人らしい 御前は一人島流しになつたやうに不運だが 三人一緒に世渡りして行くのだ。 皆んな哀れな此世の道連れだ。 心細い夕暮の悲しさに小猿はキイ〳〵啼き 女は二人で今日のまうけの事でも話し乍ら 然し少しも調子をその爲めに弛めないで いそいでゆく、實にいそいでゆく。どこか場末の宿へ ︵一九一七、一二、二八日︶冬の日の入り
今日は慘しい冬の日の入り 立止つて祈る人も無い破鐘が鳴る 人々は薄れて行く寒い光の中で 歩みをとゞめ無い。 皆んな孤獨で、男も女も急がしく追はれて行く 大膽な世渡りの光景だ。電車の隅で
電車の隅で 本を讀んで居た 未だ暮れ無い光の中に 燈が柔くついた 長い夜の來る知らせを齎らして 走るやうに柔い光が自分の心を照らした 氣がつけば電車の中は混雜して走つてゐる。 初めて見る人計り立つたり、坐つたり、一杯だ 窓の外を見れば未だ日はくれない 日は落ちようとして苦悶してゐる 荒い冬の日の中に 見知らない人々が住む屋根が 恐ろしい色をして建て竝んでゐる。 苦るしい孤獨が 自分を再び夢の中へとり戻す 病氣の快復の希望を認めたやうに 柔い燈の下にてらされて自分は夢見る。或る夕暮
夕暮、自分は本郷通りを歩いてゆく 無關心になつた自分の心は至る所に美を見る。至る所から美が響く 粗惡な電車も灯をつけて走つて行くのが 死んで居るものが生きかへつたやうに 思はぬ美を自分に見せる。 力が罩つて變化して見える。 こまやかに降りた靄の中に 向ふ側はすでにうす暗く 仕事がへりの大工がうしろ姿を見せて一團になつて いそいで歸つて行く。 その中には師匠もある。兄貴も小僧もある。 彼等は自由になつた喜びに輕るさをもつて歩む。 横丁からは提灯をつけ無い俥が澤山出て來て左右に分れて行き 矢張り提燈をつけ無い自轉車が あつちにもこつちにも破れた翅の鳥のやうに 一直線に飛んで行く ふと見た自轉車にのつかつた若者の顏は 暮れ殘る反射の中に いゝ心持に青白い顏を浮べて現はれて消え 往來は地球一面のやうに廣くなり 用のすんだ空になつた荷馬車が音も無く通る。 馬の先導に立つて歩く馬子は 暗くてよく見え無い靄の中でもう大分飮んで居る わけの分ら無い獨言を云つて居る 哀れな馬は足元の危い主を心配するやうに 時々立ち止らされては首を垂れてついて行く そのあとから馬の體に縛りつけられた車が安らかに輪を廻して行く。 とある菓子屋の前に配達車と一緒に積んだ藁の上には 十六七の子守兒が寒さうに 遠い星のやうに煙つて居眠つて居る。 脊の子も娘の肩の上に頬をのつけて居眠つて居る 店の中ではどこでも人が皆んな立上つて居る。 一日坐つて居た痺れを感じ乍ら變化を喜んで居る。 はたきを持つた者や爪立ちをして 瓦斯に火をつけて居る小僧が見える。 家族の者も店に出たり奧へ入つたりして居る。 赤門の中の大きな樹は忘られたやうに青空に暮れ殘つて、 變化を生じて高くなり その上に金星が眼を光らし その眞下に薄い星が御供のやうに現はれ 舖石の上には小さな灯を澤山ともして夜店を出してゐる親子がある。 父は店を孤鼠々々と飾り 十位の學生帽子の息子は道にしやがんで、 破鍋の中で火をおこして居る。 これ等の平凡なものも廣大無邊な面影に變化を生じる光景は 自分に日頃侮蔑して居た生を懷しいものに思はせ 此世から死んでゆく事は一番淋しい事だと思はせる 死んだ人達も生きかへりたいと思ふだらうと思はせる。五月の朝
朝は感謝の心に燃える 殊に五月 淺黄空に若い太陽は輝き 織る樣に人の通る道も 人氣無い徑も どこを歩いても心は賑ふ。 毎日通る道も 眞白く清められて 新らしく人の目を惹き 何ものか心に忍び入る如く 暫らく會は無い 空のあなたの遠い人々も思ひ出して 心は嬉しく、世界は賑ふ。 おゝ若々しい五月の朝よ 男も女も若きも老いたるも均しく 活氣づいて、清い空氣の中を そよぎつゝ歩き行く時 われは感ず、祝祭のごとき喜びを おゝ五月の朝明け空の若々しさ 雲は靜かに現はれ來り 高いところを小さく列りつゝ幽かに滑りゆき 天地は靜かに行列しつゝ 運行す ︵一九一八、五、四日︶落葉
或朝、起きて見ると 裏の空地、一杯落葉して居た。 地面が僅か一處、現はれて居る程、地を埋めて 落葉は普通より大きく見えた。 日に反りかへつて皆んな裏返しになつて地面の上に載つて居た。 葉の落ちつくした木は明るくなつて居た。 それだけの葉の落ちた騷ぎはどこにもなかつた。 落ちた夥しい木の葉は少しも動か無い、死んだまゝ。 地面も微塵も動か無い 空も立木も動か無い。 靜かに日が當つて居た。死んだやうに。 空地の隅の日和には白い犬が足を投げ出して 昨夜の雨で汚れた毛を舐めて居た。 自分は奇蹟を思つた。 全く奇蹟だ。 この澤山の落葉は生命の過剩を思はした。 然うして大地と落葉との輕い接觸點に 自分は滲み出すやうな愛を感じた。 大地はその落ちた葉の中に埋れて靜かにそれを載せて浮んで居た。 動かない光りの中に。格鬪
或る夜、月は傾き落ちて 空には春が來るらしい底知れ無い青い光の反射の中に 星は紅色の魚のやうに 落ち相に低くたゞよつて居た。 自分は一人で烈しい霜解け道を惱んで歩いた まるで登山でもする樣に 二三寸の土の上を上つたり下りたりした。 自分は突然大地と爭つてゐる愉快を感じた 自分は可笑しくなつて笑つたり、怒つたりし乍ら 長い間かゝつて一つ道を歩いて行つた。 至る處で大地とこね合つた。 笑ひ崩れ乍ら、倒れたり、起き上つたり 格鬪し乍ら歩いた。 家へ歸つても尚自分は笑つてゐた。朝
朝だ。 重々しいものを優しく包んだやうな莊嚴な朝だ。 自分は山の上にでも居る樣に、 心は輕く歩いてゆく。體はそれに從つてゆく。 一日一日春らしく温くなる水蒸氣に包まれ 樹々はうねりを生じ輕快に高く空に立ち上り 靜かに道の上に枝を垂らして居る。 まるで空中から舞ひ下りた天使のやうだ。 このうねりの春らしい美くしさ、朝らしい靜かな喜び、 空は光りをはらんで霞んで居る。 眠りから覺めた許りの地面は しつとりと汗を掻いてゐた。 人通りは未だすくない。 空に消えてゆく水蒸氣の中から雄大な景色が目ざめ だん〳〵遠くの方がはつきりして そこから人が現はれて來る。人數も殖えて來る この大きな朝の世界に比べれば、 可笑しいほど小さい人間が 鳥のやうに、思ひ〳〵の方向へ歩いて居る 自分は擴大され、變化された 大きな祝福に滿ちた朝景色の中を 面白く嬉々として歩いてゆく。 ︵一九一八、三、使命所載︶夕暮
夕暮 天上は騷ぎだ。 太陽が沈む波動で 上騰して居た空氣が穴を明ける。 その中で空は青い眼を閉ぢる樣に 衰へ乍ら、幽かにふるへて此世から遠退く。 今見てゐるのは幻のやうに。 地上は靜かだ 擴大された道路の上に 人間は安らかに、靜かに歩いて居る。 佇んだり、しやがんだり、歩いたりして居る ある可き處にある樣に 眞實に美くしくいろ〳〵の形をして居る。 そこへ寒い風が落ちて來て至らぬ隈も無く吹き廻しては消えて行く。 攫れたやうに人が居なくなる。 空は見る見る燃えつきて暗くなり すつかり眼を閉ぢる。春の夜
春のやうな夜だ。 もの柔かな 自分の好きな春の夜だ。 自分は今夜も遲くまで眠ら無いで居る。 こんな晩には自分は眠られ無い者も不幸とは思はない。 他人の幸福も自分には羨やましく響かない 自分は空想をほしいまゝに刺撃して 小供の樣に勝手氣儘に遊んで居る。 時間はたつぷりと有り餘つて居る。 空想も有り餘つて居る。 妻子は一緒に書齋の隅に眠つて居る 健康に溢れて居る二人は 暖いので蒲團をはいで 不調ひな鼾をかいて居る。 只時々小供が咳をするのが氣になる限り 自分はこの靜かな春の夜を 誰にも邪魔をされずに 小供が眠るのを厭がる樣に 用も無いのに眠るのが惜しくて起きて居るのだ。 こんな時、 母が居たらば きつと、﹁もう御休みなさい﹂と心配するに違ひ無い。 その癖後では人に向つて ﹁勉強家ですよ﹂と話して居る あゝ春の夜だ。 四五年前の、十年も前のあの春の夜と同じ春の夜だ。 こんな晩には 幼稚な古臭い情緒にすら 自分の心は素直に動かされてわけも無く感激する涙すら浮んで來る。 じつと耳を澄すと 戸外ではそれでも少しづゝ動搖がある。 遠くでは犬が吠えて居る。 工場か何かの濕つぽい汽笛が ふくろのやうに一つ二つ呼び交し 機關車が蒸氣を吐き 風がザワ〳〵と空地で起り 然しすぐあと方もなく皆んな消えてしまふ。 矢張り靜かな春の夜だ。 時間はたつぷりあり餘つて居る。 自分はプシキンの﹁大尉の娘﹂を讀んで居る。 花やかでどこか氣味が惡い 豐富な興味と教訓に滿ちた この變つた小説に先刻から夢中だ。 感嘆する 實に感嘆する 流石にプシキンだ。 簡潔な言葉の中に 無限の人情の世界を現出させ 少しもあせらずに單調に落着いて 然し不思議な波瀾を生んでゆく 數奇な運命を卷き起す筆の魔力には感嘆する 日本人の書いたものはこんなものに比べると實に貧しい、 色彩が薄い、 事件に都合のいゝところはあつても人情が豐かだ、リズムがある。 こんなものが書けたらば氣持がいゝだらうな 想像が刺撃されて心は苦るしくなる。 然し側から小供が咳をする その方へ注意が集る 小供はピチヨ〳〵と舌を鳴らし鼻を鳴らす。 泣くかと思つて待つてゐるが眼は覺さない。 思はず﹁いけないね、咳をして﹂と云ふと 果して妻は今眼がさめたところ 同じ返事をして又眠り込む 自分は溜息をついて又本を讀みつゞける。 自分の母がかうだつた。 俺の事心配したが、この俺に感化されたのか 家中が寢鎭つてから 小供の襤褸布を取り出しても 仕事は明日の晩にして本をよむ事にする どうかすると曉方まで もう此頃はあの癖は止まつたらしい 然しあの頃の事は矢張り思ひ出すだらうな あの頃は自分にも一番よかつた 善惡の觀念が單純にはつきりして居て 今程思想は混亂しないで 心の儘に振舞つて、少しの悔いも殘す事がなかつた。 又小供が咳をする。 が大した事はあるまい 明日もこの分なら暖いいゝ天氣に違ひない 一日、陽に當つたら癒るだらう。 未だ眠るのは惜しい もう一章先きを讀むか。春の夜
自分は春が好きだ。 夜更けて闇の中を家へ歸つて來ると 室で澤山人が話して居る。笑ひ、囁いて居る 上つて見ると誰も居ない 妻も子ももう眠つて居る 今のはあれは幻か、 たしかに誰か五六人居た氣がする。 がそんな事も永く不思議とは思はない じつとして居ると どこかで二三人の女の靜かな話聲がのろくさく 夜更けまで小聲でして居る。 陰氣なところがない。 自分の眼や心はすぐ生々して來る 涙ぐんで來る こんな夜を過す人間は幸福だと思ふ。勿體ないと思ふ。 とても眠る氣にはなれない 一人で起きてゐる いろ〳〵の過ぎ去つた事や未來の事を思ふ どんな悲しみも苦しみも力なく消えて 只喜び許り感じられる。 隣りの室では妻も子も 自分のかへつたのも知らずに、晝間の疲れで眠つてゐる。 幸福な息使ひ じつと聞いて居ると狹い室の中を 天使が羽ばたいてゐる樣だ。 夢ではないかと思ふ樣に 精神が何も彼も活氣づける。 然うして自分はいつまでも起きて居る 疲れて來るのも知らずに 疲れて來ると天使の羽ばたきは絶えてしまふ ばつたり心が靜まる 今まで騷いで居た頭の中が空になる。 然しすぐ外で吹く風の音が活氣を誘つてくれる 明日の天氣を告げてゐるのだ。 風に向つて目のまはる樣な聲で鷄が啼く 聲が空にぶつかつて雄大にひろがつて消える。 天使の喇叭のやうだ、 窓から覗けばもう朝の訪れが見える 遠い星が消える樣に目を廻し初めて居る。 人が一人通つた。 鞋ばきで遠くへ行く人らしい 曉の寒さに咳をして ドスンドスンと歩いて行く。 明日が樂しみだ。 一日一日と樂しみになる 不思議な春よ、 涙ぐみたい春よ 自分は春が好きだ。 こんな天空の下に生きて居る幸福を味ふと 涙ぐみたくなる 或る晩四人の友達と 霜解けのひどい田舍道を歩いた。 晝間なら一人では淋しい處を 四人は興奮して饒舌り乍ら 黒ずんだ林の中や霜解けの崩れる田圃道を先きになり、 あとになり、ぐん〳〵歩いた。 空には星が綺麗に三つ位連つて並んだり、 横になつたり、斜になつたりしてゐた。 丘の上の寢鎭つた家の窓には灯がともつて靜かに射して居た。 自分達は希望に燃えては仕事の話をして歩いた。 自分達が死んでも尚生きてそこにあるにちがひない、 大きな樹の下を默つて通つたり、 道惡を山羊のやうに跳ねて飛び越したり 小便をして遲れた友を一人殘して 行き過ぎてからうしろから馳けて來るのに氣がついて待つたり その晩家へ歸つて來ても自分は 更くるまで一人で起きて居た。 未だ友達と話して居るやうに 内の騷ぎが鎭まらなかつた。 幸福で幸福でたまら無くて熱い涙が流れた。 友達の聲がほてつた耳にさゝやき 田舍の景色が眼に浮ぶ 永い間虐げられて居た感情が 美にふれて涙と溢れ流れるのを自分はとゞめる事が出來なかつた。 失つたと思つて居たものを見出した樣に 自分は有難くてたまらなかつた。雁
暖い靜かな夕方の空を
百羽ばかりの雁が
一列になつて飛んで行く
天も地も動か無い靜かな景色の中を、不思議に默つて
同じ樣に一つ一つセツセと羽を動かして
黒い列をつくつて
靜かに音も立てずに横切つてゆく
側へ行つたら翅の音が騷がしいのだらう
息切れがして疲れて居るのもあるのだらう。
だが地上にはそれは聞えない
彼等は皆んなが默つて、心でいたはり合ひ助け合つて飛んでゆく。
前のものが後になり、後ろの者が前になり
心が心を助けて、セツセセツセと
勇ましく飛んで行く。
その中には親子もあらう、兄弟※﹇#﹁女+︵﹁第−竹﹂の﹁コ﹂に代えて﹁ノ﹂︶、﹁姉﹂の正字﹂、U+59CA、44-下-1﹈妹も友人もあるにちがひない
この空氣も柔いで靜かな風のない夕方の空を選んで、
一團になつて飛んで行く
暖い一團の心よ。
天も地も動かない靜かさの中を汝許りが動いてゆく
默つてすてきな早さで
見て居る内に通り過ぎてしまふ
(一九一八、三、一一夕)
︵以下三篇、白樺所載︶