﹇#ページの左右中央﹈ 芭蕉ハ無クシテレ耳聞イテレ雷ヲ開キ 葵花ハ無クシテレ眼随イテレ日ニ転ズ そめ色の山もなき世におのづから 柳はみどり花はくれなゐ ﹇#改ページ﹈
序
とかく道徳とか仁義とかいえば、高こう尚しょう遠えん大だいにして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生しょ涯うがいに一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶さ話わの料かてか、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼おそれがある。もちろん道徳の思想は高こう尚しょう、その道理は遠えん大だいであろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾ごじ人んの意識の中に浸しみ込こませるところにあると思う。古いにしえの賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の曰いうに、﹁言げん近くして旨むね遠きものは善ぜん言げんなり。守ること約にして施ほどこすこと博ひろきものは善道なり。君くん子しの言げんは帯おびより下くだらずして道みち存そんす﹂と。 これを思えば道すなわち道徳はその性せい高くしてその用よう低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田でん夫ぷや野じ人んも守り得うるものであるらしい。 わが邦くににおいては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修おさめ得えぬ心地す。仁じん義ぎれ礼い智ちなどとは斯しど道うの人にあらざれば解かいし能あたわぬ倫りん理りとして、素しろ人うとのあえて関せざる道理のごとくみなす風ふうがある。これもそのはずであって、むかしは堅かた苦くるしき文字を借かりて、聖せい人じんにも凡ぼん人じんにも共通なる考えを言い現す癖くせがあった。これはただに儒じゅ学がくのみでなく、仏教においても同然で、今こん日にちもなお解とき難がたき句あれば﹁珍ちん聞ぷん漢かん﹂とか、あるいは﹁お経きょうの様よう﹂なりという。また、かくのごときは独ひとり本ほん邦ぽうばかりでない、西洋においても一時は解わかりきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排はいしてラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ効こう能のう多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊へいに陥おちいりやすい。 なるほど、なにごとにしても、理を究きわめんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、容よう易いならざる専門的研究となるが、吾ごじ人んの平常踏ふむべき道は藪やぶの中にあるでなし、絶ぜっ壁ぺき断だん巌がんを沿そうでもない。数千年来、数億の人々が踏ふみ固かためてくれた、坦たん々たんたる平たいらかな道である。吾ごじ人んが母の胎たい内ないにおいてすでに幾分か聞いて来た道である。孟もう子しの、﹁慮おもんぱからざる所にして知るものは人の良知なり﹂と言った通り、慮おもんぱからずして、ほとんど無意識に会えと得くしてある教きょ訓うくんに従うを道徳と称するものでなかろうか。 わが輩はいは決して道徳問題は、みなみな無むぞ造う作さに解するものと言うのではない。一生の間には一回二回もしくは数回腸はらわたを断たち、胸を焦こがすような争あらそいが心の中に起こることもある。しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本の指ゆびで数かぞえつくせるくらいなものである。これに反し、われわれの最も意いを注そそぐべき心ここ掛ろがけは平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。平常の鍛たん錬れんが成ればたまたま大々的の煩はん悶もんの襲おそい来る時にあたっても解決が案あん外がい容よう易いに出来る。ここにおいてわが輩はいは日々の心ここ得ろえ、尋じん常じょう平へい生ぜいの自じか戒いをつづりて、自己の記きお憶くを新たにするとともに同志の人々の考えに供きょうしたい。大正五年五月九日
南洋旅行の途上 、信濃丸 船中にて
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第一章 男一匹
神と獣類の間に立つ人
外国語では人という名めい詞しをただちに男おとこに代用するが、わが国くににおいて人というのは西洋のいわゆるペルソン︵人じん格かく︶を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。しかしてこの人なる語ことばはあるいは高こう尚しょうな意味に用いることもあれば、またすこぶる野や卑ひなる意味を含ふくませることもある。たとえば、 ﹁人と生まれてかかる事をするのは恥はじである﹂ という場合に用いられた人は、万物の霊れい長ちょうであり、したがって廉れん恥ちし心んも自然に備そなわっているものなれば、よろしく自みずから重おもんずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の尊そん重ちょうすべきを示したものである。しかるにこれに反し、 ﹁どうせ人にん間げんだもの、このくらいのことをするのは当然だ﹂ という口くち調ょうを放つときは、神かみならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの罪ざい業ごうをするのは免まぬかれぬと、半はん獣じゅ性うせいの欠点に富めることをいいあらわすに用もちいられる。かくのごとく人間といえば上は神、下は獣じゅ類うるいのあいだに介かい在ざいするものであるから、両者の性質を兼けん備びし、自分の勝かっ手てで都つご合うよきほうに較くらべ、ある時はみずから尊そん者じゃの敬称を甘あまんじて受け、またある時はみずから野や卑ひと称するほど謙へり遜くだる。信しん玄げんの歌に、
とあると同じく﹁人ひと﹂なる観かん念ねんを二つにしていることが明らかである。すなわち﹁人﹂なる字が善悪の二様ように用いられている。
女なる言葉に含まれた道徳的意味
この人間のうちには男もあれば女もある。しかして﹁女おんな﹂なる言葉はその用うる場合により、﹁人﹂の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを﹁女らしい﹂というときは、十に八、九まで誹ひぼ謗うする意い旨しであるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷ふうすることはしばしば見るところである。 たとえば、 ﹁女じょ子しと小しょ人うじんは養やしない難がたし﹂ という場合、単に女じょ子しという文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小しょ人うじんという語ことばと結むすびあわせると、女じょ子しを卑ひ下げする心持が現れている。ちょっと普通行わるる諺ことわざを見ても、 ﹁どうせ女の事だもの﹂ ﹁家の乱は女から﹂ ﹁七人の子は生なすとも女に心を許すな﹂ ﹁大だい蛇じゃを見るとも女にょ人にんを見るべからず﹂ などと女に関する悪あっ口こうがたくさんある。畢ひっ竟きょういかに男子が自己の愚ぐより婦人に迷ったかを自じは白くするに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を偏へんまたは旁つくりに含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。 たとえば女を三字集めた姦かん、両りょ男うだんの間に女をんだ嬲なぶる︵もっともこれは女のほうより左さゆ右うにある男のほうが罪あるに相違ない︶、奴︵やっこ︶、妄︵みだる︶、奸︵みだす︶、妨︵さまたげる︶、妖︵わざわい︶、妬︵そねむ︶、婪︵むさぼる︶、嫉︵ねたむ︶のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑いやしめるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲ちょ笑うし的ょうてきに用うる人多きを見て、不ふゆ愉か快いに感ずる。しかし女を卑ひ下げする思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。 かのシェークスピアの句に Woman, Frailty is thy name.︵女よ心弱きとは爾なんじの名なり︶といい、またテニソンの Woman is a lesser man.︵女は小さき男なり︶といえるなど、よほど女を見下げた言葉である。もしそれかかる例れい証しょうを文学中より拾い集めんとすればほとんど無数である。されば女という言葉だけで、いわゆる外げめ面んに如ょぼ菩さ薩つ、内ない心しん如にょ夜やし叉ゃという思想を含ませることは、世界を通じて広く行われることである。 しかし同時にまたこれと反対の意味を含ませて用うることもある。たとえば、 ﹁某ぼうはさすがに女だけありて﹂ といえば、もちろん弱いという意味にも用いらるるが、またしばしば柔にゅ和うわで従順で廉れん潔けつなるの意を含ませて使つかわるることもある。漢字を見ても好︵このむ︶、妥︵しずか︶などは善い意味である。西洋の文学にも女といえばただちに天てん使しと同一視する例も少なしとせぬ。かくのごとく女という字だけを用いる時は、単に男と性を異ことにする人なりという簡単な意味にとどまらないで、善とか悪とかいう道どう徳とく的てき評ひょ価うかで判断さるるものである。しかしてこの評価はその使用の場合によりあるいは高きことあれば、あるいは安きことありて、相そう場ばが一定しない。男一匹とは何を意味するか
しからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇きた態いに悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛ごう毅きとか、あるいは大だい胆たん不ふて敵き、あるいは果かだ断ん勇ゆう猛もう、あるいは任にん侠きょうというような一種の印いん象しょうを惹じゃ起っきす。 ﹁天あま川がわ屋や儀ぎ兵へ衛えは男でござる﹂ と一喝かつすれば捕とり手ての者も閉へい息そくする。 男一匹ぴきなる句は一種爽そう快かいなる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に優すぐれたる男子に応用するは、一見男子を侮ぶじ辱ょくせるかの疑ぎわ惑くを促うながすが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた勇ゆう猛もうとか任にん侠きょうとかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も微びみ妙ょうなる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって補おぎない、豺さい狼ろう虎こひ豹ょうも遠く及ばぬ力を逞たくましゅうするさまをいいあらわしたものであろう。 右のごとく考え来たれば一匹ぴきなる言葉には、やはり幾分か侮ぶじ辱ょくの意が含まれているごとく思われる。けだし聖せい人じん君くん子し高こう僧そう等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛もう獣じゅうの勇気に類したもので、孟もう子しのいうところの匹ひっ夫ぷの勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪ちょ勇ゆうと称し、深ふかく尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法ほう治ちの階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保ほし障ょうで、武勇なければ生命も財産も危険に瀕ひんするばかりである。今でも一朝ちょう事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所しょ為いに出る。沙さお翁うの言げんに、 ﹁ラッパの音ねのわが耳に響ひびく時は吾ごじ人んのまさに騎き虎この行動を倣ならうの時なり﹂ と。暴ぼう虎こひ馮ょう河がの徒とには孔こう子しは与くみせずといったが、世俗はいまだ彼らに敬けい服ふくする。昔せき時じ、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。勇ゆうすなわち徳とく、徳とくすなわち勇ゆうと考えられていた。かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹ひっ夫ぷの勇ゆう以上に昇のぼらずとも、それが尊とうとかった。しかして男子として褒ほむべきはこの種の勇ゆうを有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲きょ直くちょくを判はん別べつする時代にいたっても、依然としてなお匹ひっ夫ぷの勇ゆうが尊とうとばれ、男を褒ほむるに一匹の言葉をもってしたものであろう。尚しょ武うぶ思想
ヨーロッパでは耶やそ蘇きょ教うが普及して以来、人生観が一変した。したがって人間の評ひょ価うかもまた変わってきた。柔にゅ和うわなる者は幸いなりとは、基キリ督ストの教きょ訓うくんであるが、汝なんじに敵する者を愛せよとか、あるいは汝なんじを迫害する者に復ふっ仇きゅうするなかれとか、汝なんじに一里の道を強しうる者あらば二里を歩あゆめとか、右の頬ほおを打つ者あらば左をも叩たたかせよというがごとき、柔じゅ順うじゅん温おん和わの道を説き、道徳上の理想としてこれが一般社会に説かれたのである。しかしこれを実行する者はほとんど皆無であった。わずかに有志者があるいは世を去りあるいは山深く庵いおりを結び、あるいは市街にありても僧そうとなりて俗縁を断ったものが、文字どおりにこれを実行したるに過ぎなかった。 普通一般の人はみずから耶やそ蘇きょ教う徒となりと称しょうしながら、この柔にゅ和うわの道を守らなかった。すなわちニーチェが耶やそ蘇きょ教うを奴どれ隷いの道徳と悪あっ口こうしたのも無理ならぬことで、現げん時じの戦争にも現れているとおり、基キリ督ストの言葉が決してそのままに行われておらぬ、むしろその反対の勇ゆう猛もうなる教きょ旨うしが、耶やそ蘇きょ教う以前より一貫して欧おう州しゅうに盛せい行こうしている。これこそ実にニーチェのいわゆる治ちし者ゃの道徳である。これは前に述べた女らしく柔順なれという基キリ督スト教きょうに対し、男らしかれという教訓である。こんにちの世界はこの両者相あい俟まって始めて円満なるを得るものであるが、外そとに対して常にわれわれの眼を喜ばせるものは、男お々おしき男性的道徳である。男一匹の活動
しかしこの柔和なれと訓おしうるは独ひとり耶やそ蘇きょ教うに限ったことでない。道徳とさえいえば、マホメットの回フイ々フイ教きょうを除き、たいてい柔にゅ和うわの徳を主として教えざるものはない。孔こう子しの教えのごときは、よほど俗界に縁ゆかりの近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。またこの宗教の旨をそのままに遵じゅ奉んぽうすれば、とかく柔にゅ弱うじゃくに流れ、かえって開祖の主旨に反する虞おそれもある。現に基キリ督ストのごときは前にも述べたごとく柔にゅ和うわ主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いに憤いきどおり、綱をもって神殿を汚けがした商人を放ほう逐ちくしたことがある。 この事実に徴ちょうすれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても唯いい々だく諾だ々く、これに盲もう従じゅうせよとの意ではなかったことがわかる。ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の主しゅ旨しにも適かなわなくなる。人は軟骨動物ではない。愛とは単に老牛が犢こうしを舐なむるの類に止とどまらぬ。しかしてこれは啻ただに男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。 今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに基キリ督スト教きょうの柔にゅ弱うじゃくに流るるを憤ふん慨がいして、いわゆる腕マス力キュ的ラー基クリ督スチ教ャニーチーを主張したものがあった。この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、﹃トムブラオン﹄の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。もちろんこれら一派の紳しん士しは腕力を縦ほしいままにしたのでなく、基キリ督ストの仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき猫可愛がりでないと説いた。そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに喧けん嘩かがあると、職務柄がらの礼状を発することなく、みずからその渦かち中ゅうに飛びこみ、﹁サアここにヒュースが来た、ヒュースの拳げん骨こつを知らぬか﹂と名な乗のり、もってしばしば喧けん嘩かを仲裁したという。彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。わが国にていえば、まず男伊だ達ての趣おもむきを備えた人である。男伊だ達ての行為よりもその精神を酌くめ
わが輩はいはつねに男伊だ達ての制度を景けい慕ぼする者である。なかでも幡ばん随ずい院いん長ちょ兵うべ衛えのごときは、これを談話に聞いても、書籍に読んでも、じつに我が意を得たものとして尊そん崇すうせざるを得ぬ。任にん侠きょうの標ひょ榜うぼうするところには、些ささ細いなる点においてまことに児じ戯ぎに似たることも少なくない。たとえば手てぬ拭ぐいはどう持つものとか、尺八はどうすとか、帯はいかに結ぶとか、語尾はいかに発音するかというがごとき、愚おろかなことではあるが、その子分として用いた者が多くは無学の熊くま公こう八はち公こうの類るいであったから、かくのごとき紋コン切ヴェ形ンションを設もうけ、これによりて統とう御ぎょの便べんを計はかったのも、あるいは止むを得なかったことであろう。これらの些ささ細いの事柄は笑うべきではあったが、まただいたいにおいて彼らのなすところ、物ぶっ騒そうの傾向なきにあらざりしも、その動機においてはいかにも男性的で、子分の顔を立てるためには自分に不利益なる喧けん嘩かを買かったこともあろう。 自分の命を投げ出したこともあり、強きを挫くじき弱きを扶たすくるを主義とし、義ぎを見ればいかなることにも躊ちゅ躇うちょしなかった。この任にん侠きょうな勇猛な性質は、勘かん定じょう高き現げん今こんの社会においておおいに珍ちん重ちょうすべきものと思う。されとてわが輩は、法律もろくろく備わらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治のもとにそのままに実行することは、断だんじて非なりと信ずるゆえに、たとえ当とう年ねんの男伊だ達ての意気を思し慕ぼするとはいえ、こんにちの男一匹は長兵衛そのままを写して可かなりとは思わぬ。争議起これば、今こん日にちはこれを治おさむるために相そう応おうの法定機関がある。これによりて是ぜひ非きょ曲くち直ょくを判断すべく、みだりに腕力を用うることを許さぬ。ゆえにわが輩はいは外部に表れた男伊だ達ての行為よりも、むしろこの行為を生み出した任にん侠きょうの心持が欲ほしいのである。すなわち、 ﹁男は気で食え﹂﹁男おと前こまえよりは気きま前え﹂ などいうところの男性的気象が欲ほしいのである。勇は男一匹たるの要素
人にまけ己 れにかちて我 を立てず義理を立つるが男伊達 なり
の一首まことに深しん重ちょうの味がある。ことに上かみの句の﹁人ひとにまけ﹂のごときは前に述べたもろもろの宗教の教うるところで、右の頬ほおを打たるれば左の頬ほおを出すがごとき意を含んでいる。またそのつぎの﹁己おのれにかちて﹂などは勇の最も洗練されたるものである。勇気もこの階段に達すればもはや猛勇でなく、匹ひっ夫ぷの勇でもない。孟もう子しのいわゆる大勇なるもので、西洋の学者のいうモーラル・カレッジ︵道どう徳とく的てき勇ゆう気き︶である。
男一匹たるの資格は第一に勇を揮ふるうて己おのれに克かつにありと思う。己おのれに克かつものはほかに勝つこともさほど難事でない。己おのれに克かつものは世せか界いに勝かつことを得うと古人の言いえるのはこのことである。なお古い漢書に曰いわく、
﹁善く身を処しょする者は、必らず世に処す。善く世に処せざるは、身を賊ぞくする者なり。善く世に処する者は、必らず厳げんに身を修む。厳げんに身を修めざるは世に媚こぶる者なり﹂
と。決して女子は勇気なくともよいというのではないが、女子の強きところは耐たい忍にんにありとせば、男子の特長は猛もう進しん的てきなる奮ふん闘とうの力にある。このことを論ずるには多たげ言んを要せぬ。動物を見てもすみやかに天意のどこにあるやは察さっしられる。
孔こう子しの弟で子しなる子し路ろは勇いさましい男性的の者であって、つねに勇を好んだ。ある日孔こう子しにたずねた、
﹁君くん子しは勇を尚とうとぶか﹂
と、孔子は答えて、
﹁君子は義をもって上じょうとす。君くん子し勇ありて義なければ乱らんを為なす。小しょ人うじん勇ありて義なければ盗とうをなす﹂と。
じつにそのとおりで、古人の語に、
﹁深しん沈ちん厚こう重ちょうは是これ第一等の資しし質つ、磊らい落らく雄ゆう豪ごうは是れ第二等の資質、聡そう明めい才さい弁べんは是れ第三等の資質なり﹂と。
男一匹になるには推理の力が要いる
しからば男一匹たるの資格は、勇気の有う無むのみをもって定むるかというにそうは行かぬ。勇気なるものは目的に達する方法であって目的でも動機でもない。なんのために勇を揮ふるうかといえば、義のためにするのである。義を見てなせばこそ勇と称しょうすれ、不義と知りながら行えば、いかに奮闘してもそれは怯きょうたるを免れぬ。ここにおいて男性として欠かくべからざる要素は事の本ほん末まつ物の軽けい重ちょうを分別する力である。テニソンが﹁女は小さき男なり﹂といったのは、むろん形の大小を意味したのでなく、知能の多少を指したのである。 わが輩は脳のう髄ずいにおいて女性が必ずしも男性に劣るとはいわぬ。女性にして学者や芸術家や宗教家を出しているに見れば、両性のあいだにおいて脳のう髄ずいの作用が種類を異ことにするとは思わぬ。今までは西洋においても女性は男性ほどに教育の恩典に与あずかるの便がなかったゆえ、その頭脳もまた思う存分に啓発されなかった。しかし女子教育の便も進みたれば、今後女性の智力の発展は男子のそれに比べてますます大なるものであろう。もっとも普通に女子は男子に劣るという言葉のうちには、腕わん力りょくの差違を含めることはいうまでもないが、思しり慮ょにおいて男子の女子に優ゆう越えつなることを述べたのである。 ﹁女賢さかしゅうして牛売り損そこなう﹂﹁女の鼻はなの先さき思案﹂ などいうは、こんにちの女子に対してははなはだ侮ぶじ辱ょくの言げんに聞こゆるも、女学校の設置なかりし時代においてはさもありしなるべしと思われる。否いな、女学校に通う学生のあいだにおいてさえも、なお往々にしてこの謗そしりを免まぬかれないものもある。わが輩はいのいう思しり慮ょとはいわゆる﹁ロジカル・マインド﹂で、推理の力の謂いいである。かくすればかくなると直接に起こる因果の関係は何ぴとでも測はかりやすきことであるが、その先は? なおその先は?と先の先までも推論を下して遠き慮おもんぱかりを凝こらす力は、今日では︵将来はいざ知らず︶なお男子の特長︵もちろん男子にも無むし思り慮ょの者多きはいうまでもなけれど、女子に比すれば少なかるべく︶とも称すべきものであって、男一匹ぴきと誇ほこるものはものごとの利害、曲直について篤とくと思しり慮ょする要素を備えねばならぬ。男一匹には判断実力の力が要いる
思しり慮ょのただ胸きょ中うちゅうにあるのみにては、まだ男性の資格を充分に発はっ揮きしたとは言い難がたい。なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉ほまれとするも、女子の働きは内ない助じょにある。しかしてこの内ない助じょはただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。 ゆえに一家に事あり、これに処しょするは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。 キングスレーの詩しに、
Men must work and women must weep.
(かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身)
(かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身)
という一句くがある。詮せんじつめれば男子の力は思しり慮ょに止とどまらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。女子の力は判断するについてははなはだ弱い。しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子に劣おとるものでない。
かつてある学者の言げんに男子の脳のう髄ずいは帰きの納うて的きなるも、女子は演えん繹えき的てきなりとあったが、女子は感情が勝まさっているから冷静に事物に接することが難かたい。しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。昔の男一匹は動物的に猛勇を揮ふるうを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは思しり慮ょと判断の力が優すぐれていたであろう。
こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに昔せき時じのごとき蛮ばん勇ゆうの必要はいちじるしく減げん少しょうしたけれども、思しり慮ょと判断力とにおいて多た々たますます進むにあらざれば、男一匹として女子に優まさるの理由を失うにいたる。
男女両性の接近し競争する傾向
近来、人類の進歩を考うるに、女子の進歩は男子にくらべて速度が早いと思われる。知識上のことはいうまでもなく、その身体のうえにおいてさえも、近時、男子の体格上に起こる変動よりも、女子の体格に起こる変動が多い。 ある学者はかくのごとき有様が続いたならば、世は遠からず蒲ほり柳ゅうの美人がなくなるだろうというている。思慮、学問、決断において女子が男子のごとくなれば、身体までも相あい類似してくる。かくなればもはや男一匹などいうことは決して男子の誇りの言葉でなくなる。昔せき時じの得意を夢み、油断していると、男子はその長所を失うて粗雑な荒くれ男のごときものとなり、さらに一歩を進めて道徳上に退化を来たしたならば、いよいよ一匹の匹が動物的男性なることを示すにいたりはせぬか。 ある人は今後の戦争は女性との対戦ならんといった。もちろんこれは腕わん力りょくの戦いでなく、経済的の戦いである。この戦いはすでに開始せられ、工場において、学校において、商店において、事務所において、女性は一部男性に代って仕事しつつある。この競争は今後急に終るまいと思うが、今やまた知識上の競争も始まらんとしている。これを思えば男一匹の将来ははなはだ危ぶまるる。この戦争が将来いかに成りゆき、いずれが勝つか、いずれが負けるか、はたまたいずれも勝負なしに円満なる平へい和わをもって解決さるるか、それは未来の事とし、吾ごじ人んの目下の務めは、男子は男子だけの性質を忌きた憚んなく発揮することにある。 競争とか勝負とかいえば、両性のあいだに利害を異ことにするように聞こゆるし、また現げんに経済上の競争においては利害を異にしているが、この利害を異にする関係は永遠に続くものであるか、あるいはまた男女は単に性の相違するのみで、その他の利害はことごとく共通するものではないかという問題も起こってくる。弱者の保護は男一匹の要素
従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを愉ゆか快いとした。がこの点についても今後両性が相あい類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により推すい測そくするに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女は藤ふじである。 今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に乳ちぶ房さが加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。この一時に鑑かんがみても男子は女子を保護するの義務が天てん然ねんに備わっていると思われる。ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。女性の弱きに乗じて彼らを弄もてあそび、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を濫らん用ようするのはなはだしきもの。力ある者が力なきものを養いかつ護まもるこそ、生物界における永遠不ふえ易きの法則である。 むかしの任にん侠きょうと称する者を見ても、彼らは外見上放ほう蕩とう三昧まいに身を持ち崩くずすようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊ゆう里りに踏み込んでも、女子を弄もてあそぶがごときことは少なかったようである。この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。男は強かるべし強がるべからず
女子の保護者たる役目を全まっとうするには猛もう勇ゆうでは叶かなわぬ。やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。血も涙もあってこそ真の男と称すべし。今後の男伊だ達ては決して威い張ばり一方では用をなさぬ。内心剛かたくして外部に柔やわらかくなくてはならぬ。むかしの賢者も教えて曰いわく、 ﹁人ひと剛ごうを好めば我われ柔じゅうをもってこれに勝つ﹂ と、また曰いわく、 ﹁柔じゅう能よく剛ごうを制す、赤せき子しに遇あうて賁ほん育いくその勇ゆうを失うしなう﹂と。 男子は須すべからく強かるべし、しかし強がるべからず。外そと弱きがごとくして内うち強かるべし。
とは、真しんの男子の態度であろう。男もこの点まで思しり慮ょが進むと、先きに述べたる宗教の訓おしうる趣旨に叶かのうてきて、深しん沈ちん重じゅ厚うこうの資しと磊らい落らく雄ゆう豪ごうの質しつとの撞どう着ちゃくが消えてくる。かくなると羊ひつじのようにおとなしい性と虎とらのごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。漢学者の使用する一句に、﹁羊よう質しつ虎こ皮ひ﹂というのがあって、外面虎こ皮ひをかぶりて虚きょ勢せいを張り、内ない心しん卑ひき怯ょうきわまる偽にせ物ものを指さす成語としてあり、楊よう雄ゆう︵前五八―後一八︶の文に、
﹁羊よう質しつにして虎こ皮ひ、草くさを見て悦よろこび、豺さいを見て戦おののく、其の皮の虎とらなるを忘るるなり﹂
とあるが、草を見て悦よろこぶになんの悪きことがない。悪きことは豺さいを見て戦おののく臆おく病びょ心うしんにあるのだから、その温順寡かよ慾くなる羊質をもちながら、なお虎とらの驍ぎょ悍うか勁んけなる質を修めたら、すなわち廉れん毅きち忠ゅう果かの性格となりてこれに超こゆる人格はなかろう。政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩に曰いわく、
The bravest are the tenderest, ――
The loving are the daring.
(勇深 なる者は温柔 なる者、愛情 深き者は大胆 なる者なり)
The loving are the daring.
(
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第二章 一人前の人と一人前の仕事
一人前とは何を標準とした言葉か
永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは老ろう若にゃくを問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例に違たがわず四十歳前後のころよりしばしば、 ﹁己おのれは一人にん前まえの仕事を為なしたであろうか﹂ を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなる量りょうを指すかということである。 一人にん前まえ、一人にん分ぶん、一と通とおり、人ひと並なみ、十人にん並なみ、男一匹ぴきの任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。反たん物もの一反あれば一人前の衣服が出来る。五合ごうの米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。 独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。 料理屋で飯めしを注文すれば一合ごう二、三勺じゃくを一人前という。 牛肉屋に肉を注文すれば二十五匁もんめより三十五匁もんめまでをもって一人前とする。 一人前に対たいしてかくのごとき標準を設もうけたのは何より起こったのであるか。 四尺しゃくに足らぬ小こ男にも、六尺しゃくちかい大だい兵ひょうにも、一反たんの反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、丈たけの長短を斟しん酌しゃくせず一人前は一反たんと定めてある。 また小食の人も健けん啖たん家かも、肉にくを注文すれば同じ分量を授さずけられる。ほとんど個性を無視して男おとこ一匹ぴきの食しょ物くもつは何なん合ごう、衣類は何なん尺じゃくと、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。 日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚要いるかから割り出したものでもない。 それと同じく人の容よう貌ぼうを評するにも、よく十人並なみという言葉を使う。これはすなわち美びし醜ゅうの一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、眼めは鼻なや顔かお形かたちの寸法を計はかって出来得るものでない。まして芸などについては算そろ盤ばんにかけることは絶対的に不可能のことである。 これによりてこれを見れば一人前あるいは一人分ぶんと称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶ趣おもむきを異にしているように思う。一人前と統計学者のいうノルム
大おお槻つき先生はその著﹃言げん海かい﹄において、人並みという言葉を説明して、世の常の人の列つらなること、尋じん常じょうと説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム︵norm︶というがある。通常これを標準、規範、型かたなどと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同する虞おそれがあるから、僕は原げん語ごのままにノルムという字を用もちいたいと思う。ノルムはその語ごげ原んを調べると大だい工くの使用する物もの指さしすなわち定じょ規うぎである。この定規に適かなったものがノルム的てきすなわち英語にいうノーマル︵normal︶である。一人前の人ひとというのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり具そ備なわっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。 これすなわちその国のノルムに適かなうというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸に陥おちいる。ゆえに同じ国こく人じんのうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムに適かなわぬ。 ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は実じつ在ざい的てき現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、誰たれいうとなく、十目もくが見、十指しが指ゆびさして、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであると思おもう。老ろう子しの有名なる語に、 ﹁道みちの道みちとすべきは常つねの道みちにあらず﹂と。 これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一法ぽうとなし得はせぬか。人が普通に道みちというのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが出で来きようか。僕はかくのごとき問題で長く頭ずの脳うを痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。一人前の人と一人前の業
この問題を提出したならば、何なん人ぴともそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に当あつることは出来ぬというであろう。一人前の業ぎょうを客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても諺ことわざにあるごとく、 ﹁田いな舎かの一升しょうは江え戸どでも一升しょう﹂ というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁でっ稚ちぼ奉うこ公うの職にあるものならば丁でっ稚ちの一人前のことをなしたか、一国の宰さい相しょうなら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚ぐせ説つを述べてみよう。 一人前の仕事という分量は何なん人ぴとが定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく譬たとえれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は授さずけられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結けつ了りょうすることであり、一家の主婦なれば一日のあいだに為なすべき掃そう除じなり料理なりその他夫おっとに対する義務、子供に対する世話をも首しゅ尾びよく為なしとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを完まっとうし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、 ﹁世よに在あること一日ならば、一日の好こう人じんと做なるを要す﹂ との心掛けを連日実行して、一生を貫つらぬけば、その人は実じつに好人である。測る標準は内にあるか外にあるか
しかるにこの例について起こる疑問は、定じょ規うぎとして用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を完まっとうするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定じょ規うぎなりといったが、この定規は自己以外に、世せじ人んがわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が為なしつつある分量であって、甲も乙も丙へいも丁ていもやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世せけ間んの勤めとはこのことをいうらしい。 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし俺おれは一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝かっ手てにならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、俺おれは人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十匁もんめなり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十匁もんめである。己おのれは碌ろくな教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ業ぎょうをすれば世間は斟しん酌しゃくせぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや否いなやはおのずから別問題である。職業上の一人前と全オー人ルメンとしての一人前
故に人を測はかるについて、目めか方たをもって某それがしは何なん貫がんときめることは出来る。丈たけをもってして某は何尺じゃく何寸ずんと定むることも出来る。そしてこの人の貫かん目め、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並み優すぐれて高いとか低いとか、かく別々に測はかることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの寸すん尺しゃ貫くか目んめを測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは脳のう髄ずいもよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして肉にく附づきもよく大きいという関係があるかも知れぬ。 しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には頭ずの脳うの透明鋭えい利りな者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が世せじ人んよりたっとばるるのもこれがためである。 専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習を加くわえ優すぐれた者は世に貢こう献けんすることが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっとも能よく当たることであるが、これはいわば人を幾いく多たの片へんに切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。 しかるに専門家中には、その専門に熱ねっ中ちゅうし、他の天てん稟ぴんの力を発達せしめない者がたくさんある。その怠おこたりたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も間ま々まある。すなわちかかる人は全オー人ルメンとして見れば一人前に足らぬ人である。己おのれの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。むかし孔こう子しは、 ﹁君くん子しは器きならず﹂ といったが、学者はとかく器械化しやすい。ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。しかし実じっ地ち家かの中にも同じ過あやまちに陥おちいるものが多い。すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに鋭するどく、その成功のためにはほとんど人倫を紊みだすも恬てんとして恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。かかる風ふうあるものは人間失格者としか思われぬ。 おそらく人間として平均の調和を失うしなえるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。譬たとえていえば、人の腕うでは身しん幹かんに比して何なん分ぶんとか、たいてい一定した割合がある。この割合を越こえても不ふ具ぐであり、不足しても不具である。いわゆる世の実務家あるいは実業家などには手ての長過ぎる人があるとすれば、学者間かんに短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとの譏そしりはまぬがれまい。要は人は業ぎょうなり
かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一人にん並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に昇のぼらばよろしく室しつにも入るを要する。しかして甲こうがその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造ぞう詣けいは深さ高さによりて測り、たしかに某それがしは何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを為なしたとしても、その人はやはり専門については一人前の分ぶんをなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一人にん並みであるや否いなやにいたっては疑問であるといわねばならぬ。 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして衆しゅうに優すぐれたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大だい分ぶの相違があるであろう。今こん日にちのごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効こう果かさえ挙あぐるを得ば人として生まれ来た甲か斐いありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧かえりみぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕しご事と師しは、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。 ﹁文は人なり﹂ というが、人格を示すもの豈あに独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措おいては事もなく業ぎょうもない。一人前の仕事を為なし遂とげんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し難がたきものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。 これを譬たとえていえば、ここに数あま多たの器うつわがあるとする。これらの器うつわ――仮りに徳とく利りとすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一石こくも容いるれば小さきものは一勺しゃくも容れ得ぬ。しかしいかに小しょうなるも玩がん具ぐにあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び做なす。してみれば徳利の徳利たる所ゆえ以んはある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多た寡かには大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白はく痴ちでなければ、みな一人前と算かぞえらるるであろう。 しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるや否いなやの問題である。四斗とだ樽る大だいを備そなえても空からなれば四升しょ樽うだるにも劣る。二合ごう徳どく利りでもいっぱいに満みつれば一斗と入りの空から徳どく利りに優まさる。人もどれほど﹁王おう佐さと棟うり梁ょう﹂の才であっても、これを利用もせず懶らん惰だに日を送れば、小しょ技うぎ小しょ能うのうなるいわゆる﹁斗とその人ひと﹂で正直に努つとめる者に比して、一人前と称しがたく、ただ大だいなる﹁行こう尸しそ走うに肉く﹂たるに過ぎぬ。してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい天てん賦ぷの才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、己おのれ以外に求むべきものでなかろう。すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。英国の大詩人テニソンの句に、
Self-reverence, self-knowledge, self-control, ――
These three alone lead life to sovereign power.
(自尊 、自知 、自治 の三路 は、一生 を導 いて王者の位に達せしむるなり)
These three alone lead life to sovereign power.
(
と。太古ギリシアの神しん託たくに、
﹁己おのれを知しれ﹂
とありしは自己の性質能力を覚さとり、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人を知しらざるを患うれうる者がある。人の己おのれを知らざるを患うれうる者はさらに多いが、己おのれを知らざるを患うれうる者ははなはだ少ない。
冒ぼう頭とうにいうがごとく僕は永く自分の身に顧かえりみて、我は果たして一人前の仕事を為なし終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は遺いか憾んながらいまだ述ぶることは出来ぬ。恐らくは何なん人びとといえども、己おのが身に顧かえりみてこの問題を提出したならば、確かっ固こたる答えを為なし得るものはあるまいと思う。もし為し得る人があるとすればもって世せじ人んに示して欲しい。僕がここに自分の迷まよいの径けい路ろを述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考に供きょうしたいからである。
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第三章 強き人
﹁克かつ﹂に含まれた二種の考え
克かつといえば誰たれしもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに克かつことについても、この二種しゅの考えが含まれている。字じび引きを見ると、克かつの字はもと家を支ささうる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷になって堪たえる意を含ませてあると聞きくが、これはいわゆる勝つ所ゆえ以んを最もよく表したものと思う。 克かつ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃そうする人、もしくは破はか壊いする人と思われる。また野やば蛮んじ人んの社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞たくましゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが輩はいが往年塾じゅくにあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴やつと思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋ラン燈プでも叩たたきこわすと、強い奴やつと賞ほめ讃たたえられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克かつことをもって偉いこととみなすのである。独り相ずも撲うで強い人
つまらぬことではあるが、今もなおわが輩はいの記憶に残れることがある。十余年以前であった。あるところに宴えん会かいが開かれ、当時議会で羽はぶりのよい有名な某ぼう政治家が招待せられ、わが輩もその末まっ席せきについたことがある。酒数すう行こう、主しゅ客かくともに興酣たけなわとなり、談論に花が咲き、元気とか勝かち気きとかいさましい議論の風発せるあいだに、わが輩は退席せんとして玄関に出た。某政治家も爛らん酔すいして前後もわきまえず女中の助けをかりて蹣まん跚さんとして玄関に来たが、自分の強さ加減を証拠だてるため、女中が冠かぶらせた帽子を、戦おののく手より奪いとり、玄関の柱に叩たたきつけ、意気揚々として車で帰ったことがある。この時までわが輩はおおいにこの政治家の人物を尊敬したが、このいわゆる強さを見て、 ﹁ハハア、かねて聞き及べる某ぼうの硬こう骨こつとはこのへんが程度かな。この人は古シャッポを相手に克かつ人だナア﹂ と思い、爾じら来い大いに尊敬の念を失ったことがある。この前にもその後にも、他人についてこれに類した事じじ実つをしばしば目撃したが、こういうことが果たして強い証拠であろうかと思うと、何となく人を動物視したくなって来る。 またこれに類する話であるが、われわれがしばしば出会わすことは自分の勝った手てが柄ら自慢話である。俺おれはこういったら先方は一言もなかったとか、向うを大いにへこましたとか、最もしばしば耳にする語はこうこういってやったなどと、語る人の言によれば、いかにも先方は恐れ入ったように聞こゆるけれども、さて先方に質ただしてみると、一向こうやられたともなんとも歯し牙がにかけないでおることがある。これらは独り相ずも撲うで力りきんでおる人である。文明時代の強き力
世には、かくのごとき児戯に類した示し威い運動により怖おそれたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。論より証拠、おりおり日ひ比び谷やの近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。自分から進んで他を威いか赫くしたり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の鞏きょ固うこなることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。 かつまた人を威おどして克かつのは、みずから恥はずべき下げれ劣つなる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。 いわゆる強さの形が変化するというは、克かつの字について前の﹁説せつ文もん﹂にいえるがごとく、重荷を荷になうて堪えること、すなわち辛しん苦くか艱んな難んに堪える、耐たい忍にんの力あることをもってその強さが計られる。他人より侮ぶじ辱ょくをうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者より見みてにぎやかにおもしろく、見物としては誂あつらえ向きである。これに反し打たれても蹴けられてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で卑ひく屈つのごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。韓かん信しんが市しせ井いの間あいだに股またをくぐったことは、非凡の人でなければ、張ちょ飛うひが長ちょ板うば橋んきょう上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。進歩したる人にあらねば真の強さは忍にん耐たいにあることを会えと得くし得ぬ。外に強き人と内に強き人
僕は好んでプルタークの﹃英雄列伝﹄を読む、読んでいるあいだに古代の英雄豪傑の勇気凛りん然ぜんたること、いわゆる強いことに何もかも忘れて震ふるい上がるごとく感ずることがある。しかるに﹃新約聖書﹄を見ると、その説くところはなはだ柔にゅ和うわにして強みがさらになきにかかわらず、読んで行くあいだに犯すべからざる力を感ずる。百万人が襲来しても、毫ごうも動かざる心の強みを与うること、﹃英雄列伝﹄の遠く及ぶところでない。もっともこれは誰れしもかく感ずるとは断言することを憚はばかるし、あるいはわが輩一人の所感であるかも知れぬけれども、同感の人も必ずあろうと思う。わが輩の信ずるところによれば、いわゆる世人の強いと称する匹ひっ夫ぷ的の勇と、霊的に強い沈勇とのあいだには大だいなる差違がある。 絵草紙や講談師の筆記にある木きむ村らな長がと門のか守みが茶坊主のために辱はずかしめを受けたとき、起たってこれを斬り捨すつることは、なんらのめんどう手数もなかったであろうし、また女子供らの喝かっ采さいを博するためには、たちどころにこれを切り捨てたほうが勇ましくも思われたであろう。しかるに彼の精神を酌くみ得るものは、彼が眉みけ間んに傷をうけ、しかもそれを茶坊主輩の手よりうけながら、なお泰たい然ぜん自じじ若ゃくとしていたのを見て、心ある者は泣かずにおられぬ。かつこの若貴公子は真に強い人であると賞嘆するを禁じ得ない。よく耐うる人は強き人
ドイツの先帝フリードリヒ陛下が不治の病気に罹かかりて数日間病床に呻しん吟ぎんし、しかもその病気は苦痛の最もはげしいものであったので、かたわらに侍じするもののみならず、国民全体がふかき同情をよせ、一日も早くご平へい癒ゆあらんことを祈った。あまりに苦痛のはげしいときは、呻うなりでもすれば、幾ぶんか苦痛の気休めにもなり、また世人はよく覚えず呻うなりやすきものであるが、帝は決して呻うなられたことなく、またかつて苦しい顔色を示されたこともなく、つねに莞かん爾じとして左右に接せられた。ほとんど病苦のその身にあることを知られなかったようであった。崩ほう御ぎょの数日前、今のカイゼルを枕ちん頭とうに召され、 ﹁小こご言とを言わずに、堪うることを学べ﹂︵Lernen zu leiden ohne Klagen︶ と訓おしえられたが、フリードリヒ帝の強さは相応に解わかった人でなければ図はかり得ぬことである。ドイツの植民地よりまっ裸ぱだかの黒人を連れて来て先帝の病床に侍じせしめ、あるいは子供を左右に侍せしめたならば、彼かれらはおそらく先帝はなんらの苦痛もなく、やわらかい布ふと団んに横おう臥がしニコニコと喜べるものと思い、しかしてかくまでにうれしそうな顔しておらるるなら、何ゆえに外出して馬にも乗り、観兵式にでも出られぬと疑ったであろう。 桂かつら公爵の人格もしくは政見等については人々の考えは種々に分かれているようであるが、公のただ人びとならざりしことは、何なん人ぴとも同意であろう。して辛しん抱ぼうづよい点は公の長所であった。長ちょ日うじ月つげつ病床に臥ふしながら、公の身辺に侍はべる者にさえ苦しき顔を見せなかったという。公に知しられぬようにこっそり覗のぞいて見るとさも痛そうな顔色をして痛みある局部をみずから摩さすっていても、誰か病室に入れば、ただちに面めん相そうを変え、痛みなき風ふうをよそおったという。 戦場に死するはことの外たやすい、何故なれば死ぬように万事仕向けてある。すなわち周囲が死を促うながす、ゆえに見事に死しぬ。しかし長らく病びょ疾うしつにかかりてなお帰るがごとく斃たおるるは容易の業ではない。強き人はよく耐える。よく耐える人を強者という。いよいよという時に発する強さ
我々の交われる人々の中にも、つくづくその人物を窺うかがうと心しん底てい強いものがたくさんある。 残念なことには我々はそういう人物をつくづく見ることを勤めない。
知らざりき仏 と共におきふしてあけくらしける我が身なりとは
とは光みつ俊とし朝あそ臣んの述懐であるが、歌の﹁仏ほとけ﹂という代りに武士なり丈ます夫らおなりの強つよい人格の文字を用いても同じことになる。しかつめらしく具足をつけ威い張ばるものは、古来猪いのしし武士と呼ばれている。
これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦たん事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。この前英国の巨船タイタニック号が大西洋に沈没したときの話を聞くに、最後にいたりながら泰たい然ぜん自じじ若ゃくとして落着きはらい、死を見ること帰するがごとく、従しょ容うようとして船と共に沈めるもの数十名の多きに達したという。かくのごときは大なる勇気、強き力あるものでなければ出来ぬ業わざである。平生は威い張ばったこともなく、おだやかに算そろ盤ばんを弾はじける実業家でありながら、かくのごとくなるは実じつに見上げた人々である。人の強みもここまで来なければならぬ。
戦場における日露兵の比較
かつてある軍人に満州の戦場において日露両国兵の優劣如いか何んを問いしに、その人の言に、 ﹁ロシア人は死するも活いくるも神の力により、働くも働かぬも神のためなりと、こう考えていたらしい。ゆえに卑ひき怯ょう者もたくさんあったが、何ごとなりとも命令を受くると、人が居おろうと居るまいとを問わず、神のためと思ってその任務を果たすことにつとめた。しかるに日本兵は煽おだてなければ働かない。決死隊と称するものも、何なん人ぴとか彼らの花のごとく散るありさまを目撃する者がなければ、ことに将校が現場に居る場合でなければ、士気はなはだ振わなかった﹂ と物語ったが、あるいはそうであったかも知れぬ。いまだ一般民衆の中には強いという観念ははなはだ幼稚である。むしろ猛獣的の一見して人が己おのれを怖れるとか、あるいはいつでも人に噛かみつかんとする気が顕あらわれねば強いと思わぬものもあるが、これがそもそも人を弱からしめる手段ではあるまいかと思う。議論をしても、理屈を述ぶるよりは声の高いほうが勝つと思い、あるいは悪口でも吐はくを元気と思うごとき世の中では、真の強さはちょっと解わかりかねるであろう。己おのれに克かつものが世界に勝つ
昔のスパルタ人の教育法は無やみに武ぶ張ばって、勇ましくいさましくとのみ教えた。わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。ただあれだけではいかぬというのである。すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。これは今日もなお同じことである。ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、 ﹁某県より来る学生は、上京当時はすこぶる硬かたい、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。しかして最も早くかつ烈はげしく堕だら落くするのは彼らの仲間である。なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり﹂ といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に克かつ者は己おのれに克かつを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。
栗くりのいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪たえる意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。
真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内に貯たくわえられ、内より溢あふれて外に流れるから、十分余裕がある。ゆえに内、己おのれに克かつものは外、世界にも勝つことが出来る。己れに克つこと能あたわずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。古人の書に曰いわく、
﹁自責の外に、人に勝つの術すべなく、自強の外に人に上たるの術なし﹂
と。太古、禹うお王うが、﹁一に能よく予よに勝かつ﹂といったが、後の学者はこの言を評して、﹁君子この小心なかるべからず﹂といっている。
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第四章 外は柔、内は剛
英雄に現れた内外の差違
西さい郷ごう南なん洲しゅうが始めて橋本左さな内いに会うたとき、こんな柔しい男が何で国事を談ずるに足るだろうかと、心ひそかに軽けい蔑べつしたことを、後にいたって自白している。さもあったろうと思う。聞きくところによれば橋本という人は、外見はまことに温和に柔順な好男子であったから、この人の心情を知らぬものは、この柔順らしい皮の下に、いかに燃ゆるがごとき熱血が流れつつあったかを悟さとることが出来なかった。また同じ西郷が藤田東とう湖こに会った後、人に向い、 ﹁追おい剥はぎみたいな人物だ﹂ と評したという。これもさもあったであろう。氏は躯くか幹ん長大にしてたくましく、色が黒かったそうであるから、外観を見ては、その血管にいかに柔和な心があり、しかして母の危急を救うためには自分の生命までも投げ出すことを常人は察し得ぬであろう。また南なん洲しゅう自身についていえば、見みようによりては外がい貌ぼうが怖おそろしい人のようにも思われ、あるいは子供も馴な染じむような柔にゅ和うわな点もあった。ちょっと見ても、その烱けい々けいとして大きくかがやく眼は怖ろしいが、その奥底にはいうべからざる愛情がこもり、近づくものをみな惹ひきつけねばやまぬ趣おもむきがあったという。 こういうことは決して世に稀まれでない。ちょっと会っては虫も殺さぬような柔和な、ほとんど女のごとき人でも、だんだん交つき際あってみるにしたがい、なかなか硬こう骨こつで、一たび言い出すと決してあとへ退ひかぬ人もあるし、また外部から見るといかにも凛り々りしく、衣ころもは骭かんに至り袖そで腕わんに至り、鬼とも組打ちしそうな風ふう采さいをなしていても、内心柔和な女のような人を往々見受ける。 外がい貌ぼうと内実との相反することは稀まれでない。この柔と剛とは善い意味にも悪い意味にも解される。いま述べた女のごとくというのも、また同じく善悪両様に解される。女め々めしいとか、意い気く地じなしにも解とれるが、僕のここに用いた女らしいというは善意に解といたので、温おん和わ柔じゅ順うじゅんの意味である。怖ろしがらせるのが偉いか
日本従来の教訓によれば、他人に怖おそろしく思わせるのを偉いとする風ふうがあった。威いふ風うあたりを払うというを豪ごう傑けつの理想とし、人の近づき得ざるところを偉いと做なしたから、偉がるものは、なるべく人を近づけぬ工夫をなし、あるいは傍ぼう若じゃ無くぶ人じんにして人を馬鹿にして独りで偉がった。世人もまたかかる人物を褒ほめる傾向があったゆえ、もし肩でも怒いからして往来を濶かっ歩ぽするか、あるいは人の気にさわることでも大声にしゃべり、相手の人が、病犬が吠ほえるかと疑い避さければ、これは怖こわくて近づかぬのだと解してますますこれを行う。 文化の進むにつれて近頃はだんだんこの豪傑気取り連れんが減って来たようであり、また今後もますます減るであろう。ことに洋服でも着るようになれば、減らざるを得ない。はなはだつまらぬことながら、洋服では衣ころもは骭かんに至り袖そで腕わんに至る筆法は行われない。シャツを着たり、靴を穿はいたりすると、行儀も改っておとなしくなる。しかし洋服を脱ぬいで日本の浴ゆか衣たにでも換えると、従来の筆法が最もあざやかに現れて来る。汽車や電車に乗ると、胸むな毛げを曝さらし太ふと股ももを現すをもって英雄の肌を現すものと心得て、かえってそれを得意とするものがある。曲解されたる教訓
なおこれと関連して世に誤解された教訓は、﹁巧こう言げん令れい色しょく鮮すくないかな仁じん﹂ということである。言語を鄭てい重ちょうにしたり温和にすれば、すぐに巧こう言げんと解し、威儀をもって語れば令れい色しょくと曲解し、すぐに鮮すくないかな仁じんと結論をくだす。この苛かこ酷くなる判決を避さけるために、言げんを巧たくみにし色いろを令よくせんとする者も、つとめて荒あらあらしくする風ふうがある。心の内と外の風ふう采さいと一致せぬことは、西洋よりも日本において最も烈はげしい。 僕は今このことについて善悪を議論せんとするものでない。事実がかくあると単純に剛ごう柔じゅうの区別につき一言したいのである。往事の書生が、なるべく外がい貌ぼうを粗暴にし、衣はなるべく短くし、髪かみはなるべく梳くしけずらず、足はなるべく足た袋びを穿はかなかったような、粗暴の風ふう采さいはなさぬ人が多かろう。ゆえに外貌のことにつきここにかれこれいう必要はなかろうと思う。僕がここに剛柔を説くにも、外貌に現れた剛柔と説かんとしない。ことに実業に従事する者のうちにも、 ﹁商あき人んどの、道に賢き笑い様よう﹂ 商業のごとく客を相手にする職業にある人は損得の関係上からも外貌をなるたけ柔和にし、もって人を惹ひきつけるにつとめるから、なおさら外貌のことを述ぶる必要はあるまいと思う。これらの点に関してはむしろ学生に述ぶべきことゆえ、今はここにこれを見合わす。剛ごう柔じゅう、分を守りて人格が円満
さて心の剛ごう柔じゅうとは、すでに前に女という字についていえるごとく、善意にも悪意にも解せられる。剛が過ぎれば剛情となり、頑がん固ことなり、意い気き地じとなる。柔に過ぐれば木で偶くとなり、薄はく志し弱行となる。極端に失すればいずれも悪あしくなるが、度どに過ぎぬ以上は、すべからく剛ごう毅きでなければならぬ。 自分の所信を貫徹するためには、一たび固かためた決心を抂まげぬ、あくまでも、左右の言にも耳を借かさずに猛進するくらいの強いところが必要である。さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽すわけに行かぬから、つねに不幸を感ずる。剛柔が能よくその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。心の持方は剛柔いずれとすべきか
僕は近ごろある人が僕の知人を批評するのを聞いた。その言に曰いわく、 ﹁あの男おとこはまことによい男だが、惜しいことには、宗教家であるため、弱くて不い可かぬ。あれにいっそう骨ほねっぽいところがあれば、実に見上げた人間だのに﹂と。 この知人は耶や蘇そ教信者たることを思うて、僕は、この批評が一部あたれることを考えた。一部あたれるというは、この知人は言葉遣づかいと言い、行動と言い、まことに柔和なところがあるゆえである。氏しがかつて心を宗教に寄せる前には、剛情で始末におえぬ硬こう骨こつ漢かんであったが、ひとたび信者となってからは手を覆くつがえしたごとく温和な柔順な、涙もろい人に変った。この点より見れば彼に対する某氏の批評は一部あたれるものであるが、さるにても宗教なるものが人を柔化するの力あるも、剛化させる力はないものであろうかという問題が浮び出る。 かつこの問題は一歩を進めると、彼のいう骨ほねっぽいとは何を意味するかという疑問も起こり、延ひいては近ごろ称せらるる硬教育もいかなるものであるか、疑問として胸に浮ぶ。しかしこれらは余談に流れるからしばらくこれを措おき、お互いにその心の持ち方を果たして剛に向けるか柔に向けるか、いずれに重きを置くべきかは、重大なる問題で、各自が慎重なる判断を下すべきことと思おもう。身を処するには剛柔がおのおの必要
先天的に剛に出来ている人と、同じく先天的に柔に出来ている人とあるは、あたかも動物にも亀かめもあれば海くら月げもあり、植物にも栗くりもあれば苺いちごもあるがごとくである。すでに先天的に出来ているものを、強しいて俺おれはこれから剛にする、俺はこれから柔にすると、天てん賦ぷの性質を矯ため、束そく縛ばくすることはすこぶる難事であるが、しかし俺はあくまでも剛である、俺は何事にも柔であると一貫して遂すい行こうすることも出来ぬ。これは矛盾するようであるが、人がこの世に処するあいだには、あるいは剛に出ねばならぬことあり、あるいは柔ならねばならぬことがある。 人間の体たい躯くも骨ばかりでは用をなさぬ、筋肉もあれば脂しぼ肪うもある、腹や股ももが柔であるから、人体は柔であるといえぬ。爪つめや歯し牙ががあるから剛だともいわれぬ。ゆえに剛だとか柔だとかいって、いずれか一方を主義とすべきものでなく、事に触れ機に接して、身を処するにこれは剛にすべく、是は柔にすべく、その場合に応じて二者の調和よろしきを得て、人間は始めて円満となるのである。事によってあるいは剛となりあるいは柔となるというも、それは決して矛盾でない。前にいった橋本にしても藤田・西郷にしても、両方の性質があったから、外見と性質とがちがうように見えたのであろう。やわらかく握るところに人生の真味あり
たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡わた船しぶねのごときものである。人とともにこの世よを渡るには、おだやかに意い気き地じばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。僕のしばしば引用する﹃菜さい根こん譚たん﹄には、 ﹁径けい路ろ窄せまきところは、一歩を留めて、人に行かしめ、滋じ味み濃こまやかなるものは、三分を減じて人に譲ゆずりて嗜たしなましむ、これは是これ、世を渉わたる一の極ごく安あん楽らく法ほうなり﹂と。 また、 ﹁世に処するには一歩を譲ゆずるを高しとなす、歩ほを退しりぞくるは即ち歩を進むるの張ちょ本うほん﹂ といい、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを繰くり返かえしてあるが、実にその通り。自分の権利を最大限度に要求することははなはだ卑劣に陥おちいる所ゆえ以んと思う。不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。沙さお翁うの言にも、 ﹁世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い﹂ と、昔せき時じの物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。やわらかく握るほうがかえって多く握れる。これはむろん攫つかむ工合いにもよりけりであるが、ここに述べたのは粟あわとか米とかの例に用いたものである。鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの世よにおける幸福なるものは粟あわ、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に攫つかみ得るものではあるまいか。権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙みょ味うみとか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度でなるべく人に譲るをもって人生の真味を味わい得るものと思う。 前にいった宗教家なる知人が、おとなし過ぎて惜しいと批評を受けたのも、もっともなことである。基キリ督スト教のごとく、柔にゅ和うわを旨むねとする宗教にては、はでなことがはなはだ少ない、喧けん嘩かも少なければ、議論も少ない。ドラマチックのことがはなはだ稀まれなるゆえ、世の見物人より喝かっ采さいを受けることなくして世を過ごすが、しかしなお華麗に世を渡るよりはこの方がかえって人生の真味を味わわれると思う。柔にゅ和うわの心は相手の柔和の心を抽ひき出す
かく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。なんとなれば諺ことわざにも、﹁世よは情なさけ﹂という通り、人情が敦とん厚こうなれば、――もっと砕くだいていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世は美うるわしきもの、生ける甲か斐いあるもののように思われる。しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。いわゆる売りことばに買いことば、こちらが柔にゅ和うわにおだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。鐘もうちよう、人の心も触さわりようである。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、 ﹁ありがとうございます。まあどうぞおかけ下さいまし﹂ と遠慮の心も起こる。しかし無理に押し込んで入れば、なに此こや奴つがという気が起こりやすい。世を渡るには、 ﹁御ごめ免んなさい御ごめ免んなさい﹂ と遠慮がちなることは、必ずしも卑ひき怯ょうとはいわれぬ。あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫を被かぶるとか、猫なで声で人を瞞まん着ちゃくするとか、西洋でいう羊ひつじの毛を被かぶる狼おおかみのごとく、偽善の最も甚はなはだしきもののように思うものもある。むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。柔和を偽善と誣しうるならば、それと同じく剛ごう毅きもまた偽善に供することが出来る。決して偽にせものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。悪い者なれば偽にせが出来るはずはない。善ければ善いほど種々の偽にせも出来る。猫ねこ被かぶりが多いというは、取も直さず柔和は何なん人ぴとでも重んずる証拠である。柔にゅ和うわなる者はこの世を嗣つぐ
﹁憎にくまれ子こ世にはびこる﹂という俗ぞく諺げんがあるが、これは原因と結果とを顛てん倒とうしたことである。世にはびこるものは憎まれる、はびこらずに謙けん遜そんに柔順なるこそ真に世に処する妙法である。かつこれが持久の基もといと思う。聖書に、 ﹁柔和なる者はこの世を嗣つぐべし﹂ とある。この世を承うけて引き継ぐ者は柔和なる者なりとは、柔順なる人は永久にこの世の継続者である。 換言すれば柔順は永久の徳なり、剛こわいもの、力をもって世を圧倒するものは、たとえ一時の効はあるとも、永久には継続せぬ。獣けものを見ても分かる、虎とら、獅し子し、熊くまなどのごとき猛獣は年々その数が減じつつある。もし統計を取ることが出来れば、彼らの減少率のはなはだ迅じん速そくなることを示すであろう。こんにちの状態にて進行すれば、数年ならずしてこれらの猛獣はこの世に跡を絶つであろうと、動物学者はかえって心配し、彼らの保存法を講じている。 しかるにこれらの猛獣より見れば、卑ひく屈つらしく女々しく思わるる牛馬羊のごときはかえって年々増殖する。すなわち柔和なる動物がこの世を継いで、烈しい猛獣は年々歳々にその跡を絶ちつつある。人間においてもまたそうと思う。野蛮時代には武ぶばる一方で、永久に続くことは出来ぬ。喧けん嘩かして世を渡るものは喧嘩両成せい敗ばいで共倒れして後がつづかぬ。
相互に殺し合うゆえに永続せぬのである。猛烈をもって勇気なりと思う時代はまだまだ野蛮時代たるを免まぬかれぬ。武骨で強そうなるをもって武士道の教訓のごとく思うははなはだ幼稚なる武士道である。理想に富める武士はものの哀れを知り、仁の徳に長たけ、温和に柔順なものである。
かつて英国のある子供が、その父に gentlemanly とはなんの意味かと問とうたとき、父は通例の書籍に書いてある文句の切り方は違ちがう、ふつにはジェントルマンとリーとに切る、と思うであろうが、これは文法上正しいだけで、その内容はジェントルで切り、マンリーを加え、柔和で男らしいという意味であると答えたという。
世の中には譲って差さし支つかえないことが多い
柔和というと、いかにも自分に意志なく、人の意志に脆もろく服従するごとく思うものあるが、しかし決してそうでない。柔和は意志の弱き謂いいでない。もっとも一方より考えれば、かく思うも無理はない。僕の考えでは世には抂まげてもよい意思がたくさんにあり、また意思を表示するに及ばぬものもたくさんあり、あるいは意思を明らかにする必要なきものもたくさんあると思う。 意志というと言葉がはなはだよく聞こゆるも、何ごとについても明白なる意思を発表するものは神経質かあるいは小心なる厄やっ介かい者ものである。たとえば衣ころもを着るにも、縞しま柄がらから縫ぬい方から着きようにいたるまで一々明はっ白きりした意思を表示し、かつこれを貫つらぬかんとすれば、たいていの仕した立て屋やまたは細さい君くんは必ず手に余すであろう。三度食う飯めしさえも強こわい柔かいがある。この浮世を渡るに飯めしの炊たきようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。 僕の信ずるところでは、世の中のことは判然たる意志をもつ必要のないことが多い。換言すればどちらでもよいことが多い。物を食うにも鮭さけでも鰌どじょうでもよい、沢たく庵あんでも菜なっ葉ぱでもよく、また味みそ噌し汁るの実にしても芋いもでも大根でもよい。ただ特別なる場合、たとえば来らい客きゃくとか病気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて遂すい行こうするも必要だが、たいていの場合にはどちらでも差支えないことが多い。しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が頓とん着じゃくしなくとも善いことが多くありはせぬか。相手には非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。かく思うと無むと頓んじ着ゃくというは語ごへ弊いもあるが、自分から関係せず、関係深い人に譲りて差支えないことが数あま多たある。ここがすなわち僕の、﹁世を譲って渡れ﹂という所ゆえ以んである。譲られぬところはあくまで固守せよ
譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩も抂まげられぬこともある。しかしてまたかく大切な事柄については一歩だも決して抂まぐべきことでないと思う。僕はどこまでも抂まげよとはいわぬ。出来るだけは譲り譲りして、どうしても譲られぬところに行けば飽あくまでもこれを固守すべきである。 とかく人は表面に現れたことのみで測はかるから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝みぞの中に叩たたき込まれんとする。溝の縁ふちまでは譲ろう。しかし溝みぞに叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることが出来ぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御ごめ免んを蒙こうむって、あべこべに溝みぞに叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の強つよみが発揮される。こういう強みを処世上に持ちたい
これは婦人などによく見ることである。柔和にして他のいうことを聴きき容いれ、いくら無理をいうてもハイハイと忍ぶ。どこまでもそれに付け込んで彼女の名誉や生命にまで関かん渉しょうせんとするときには、どっこい、それは不いか可んと毅然としてこれを斥しりぞける。 むかし袈け裟さが遠藤盛もり遠とおに挑いどまれたときには、無理を忍んでハイハイと返事し、もって母の危急を防いだが、いよいよ最後の守らねばならぬ点にいたっては、身を殺してまでも毅然として自己を操そう持じした。この点にいたると婦人は侮あなどるべからざる強いところがある。日ごろは一つの柔やさしき飾りに過ぎぬ﹁簪かんざしも逆さか手てに持もてば恐ろしい﹂。こういう強味は世に処する上において、どうしてももたなくてはならぬ。 僕は種々なる人のなすところを見るに、とかく表面には剛毅を装うているものが、何か事に当たると、たちまち脆もろく倒れる、松の木が風に折れると同じである。これに反し風のまにまに動く柳やなぎは動きながらも本ほん性しょうを失わず、かつ折れることなくして、その一生を完まっとうする。 ﹇#改ページ﹈第五章 心強くなる工夫
同病相憐むに出でたる余の気きよ弱わ
前章に僕は外がい柔じゅ内うな剛いごうにつき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ竭つくさぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工くふ夫うはあるまいかと尋たずねられることがしばしばある。 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯ためたいと思っているくらいなれば、世せじ人んに対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病相あい憐あわれむという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年ねん来らい少しく工夫を凝こらしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯きょ正うせいせんと努つとめるものがあるかと思って、新たに工夫を運めぐらすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を提ひっさげたのである。盲者蛇を怖おそれぬ豪ごう胆たん
僕の友人に僕と同じように気の弱い、いわば臆おく病びょうの人がある。子供のときに、その親が当時有名なりし某ぼう将軍につれて行き、 ﹁どうかこの子の胆力を練らせていただきたい。今のように気が弱くては、その将来が案ぜられます﹂ といったとき、将軍より、 ﹁いや臆おく病びょうなるはさほど心配が要いらぬ。怜れい悧りなる証拠である﹂ といわれ、当人はかえって得意になり帰ったことがある。臆病者は怜れい悧りなのか、怜れい悧りなものが臆病なのか、いずれが原因で、いずれが結果であるにしても、ともかくこの二者の間には何らかの関係があるように思われる。といって僕もあながち自分が臆病なるゆえ怜悧なりという考えはないが、世にいわゆる盲者蛇で、周囲のことも、前後のことも、いっさい分からぬものはその行動がちょっと豪胆らしく見える。しかしこれは豪胆にあらずして前後左右が見えぬのである。危険あるを知って豪胆に振舞うのでなく、危険あるを知らぬゆえに豪ごう胆たんらしく振舞うのである。 そもそも人生には明らかに顕あらわるる危険もあれば、両側あるいは地下に潜せん伏ぷくせる危険もまた多い。この危険を幾分なりとも見得るものは、怖おそれざらんとしても怖れざるを得ない。すなわちある意味において臆病にならざるを得えないゆえに想像力の強きものはいよいよ臆おくする。したがって臆病すなわち気の弱きを矯きょ正うせいするには、盲者になったら、あるいはその目的を達するかも知れぬが、むろん我々が気きよ弱わを矯正せんとするのは、各自の本体を捨て消極的に改めんとするのでない、見えることならますます能よく見、その危険をも見透してなお臆おくしないところにまで到達するが主意である。盲者になって豪胆らしく振舞うはもとよりその主意に反する。身体より来る気きよ弱わの原因
気の弱いことを矯たむるには、その弱い理由を考え、その理由からこれに処する方法を案出せねばならぬ。しかしてその第一の理由は身体にありと思う。しかし身体が大きく強健であるとも、必ずしもその人が強いとは限らぬ。大男にしてすこぶる健全なもので、人の前に出ると、声が顫ふるえ、碌ろく々ろく物を言えぬものもある。吹けば飛ぶような華きゃ奢しゃな姿したものでも、さらに物に動ぜぬものもある。ゆえにひろく身体といわないで、狭く神経質の人はとかく気きよ弱わ勝ちであるといわれると思おもう。これが前にもいった怜れい悧りなことと気弱なこととが結むすびつく理由であろう。 神経過敏にして周囲の事物に感じやすい人は、人の顔色など最も早く見分け、人のいうことの表裏をも察知する。かく神経作用の鋭いものは、すなわち怜れい悧りなるものは、目先きがよく利くため、とかく人ひと負まけするように思われる。この事も一見矛むじ盾ゅんの感なきにしもあらぬ。すなわちそれほど物の分かるものなれば、何物も怖るるに足らぬではないかというものもあろう。しかし、ここがすなわち智能ばかりでは事足らぬ証拠である。いわゆる鋭えい敏びんにして頭脳の明めい晰せきなるものは、この事はこうなっているから、こんどはこういうことになろう、さてそうなれば俺おれはここに処するにいかにせばよきかと案じ出す。 この解決が出来れば物が分かるだけ、それだけ多く臆おく病びょ気うけがつく、この解決が出来なければ出来ぬで、またそれだけ多く心配の種た子ねがふえるわけである。しかるにいかに怜れい悧りに物ごとに解決を下しても、未来に属することは、自分の見込み通りに行かぬゆえ、必ず危険の分子が潜ひそんである。すなわち心配の種た子ねが存在する。かくいえば怜れい悧りなるものは必ず気弱でなければならぬという結論に達するらしく思おもわれるが、決してそう一定せるものとは思われない。意志さえ堅けん固ごなれば、賢けん愚ぐを問わず、百難前に迫せまっても、これを冒おかして断行する。
かくすればかくなるものと知りながら止 むに止まれぬ大和魂
己おのれの行為の結果が容易ならぬものとは知りながら、なお、﹁やっつけろ﹂という強いところが欲しい。この強いところがあれば、いかに怜れい悧りなるものでも、決して臆病とならぬ。ところが一方の意志が薄弱なるときは、頭脳が明めい晰せきなれば、先の先までも見えて心配の苦を増し、はなはだしく人を臆病ならしめる。しかるに人はその身体、ことに神経の構造により、一方の智力がことさらに発達し、その他の力たとえば意志がこの智力と権けん衡こうがとれぬときは気きよ弱わになる。なお身体の発育上、何歳より何歳ごろまでが智力のことさら伸張する時代であろう。そのころは臆おく病びょ風うかぜの最も強く吹く期きせ節つとなろう。
身体局部の故障より来る気弱
気きよ弱わは生理的原因に由来することがあるゆえ、これを矯きょ正うせいするには、生理的方法によらねばならぬ。すなわち冷水浴を実行するとか、睡すい眠みんが不足するものであれば、充分にこれを取るとか、あるいは営養が不足するの虞おそれがあれば、食しょ物くもつを改良するとかせねばならぬ。一般の健康状態はさて措おき、ある局部が不良なるために卑ひく屈つとなり引ひっ込こみ勝ちとなり、憂ゆう欝うつにに沈む傾向がありはせぬか。これは僕の推測で、あるいは誤っているかも知らぬが、多くの事実よりかく帰きの納うしたく思う。 たとえば目の不良なる人はつねに欝うっ陶とうしく感じ、したがってますます不ふゆ愉か快いを覚え、人の前に出るのを厭いとうにいたる。それが一歩を進めると、衆しゅ人うじんの前に出るのを恐れるようになり、いわゆる気きよ弱わとなる。また胃いじ弱ゃく者しゃのごときもまた同じく、気が始終苛いら々いらし、つねに人と交際するのを煩わずらわしく思う。煩わずらわしいのが進むと、怖おそれを生じて気弱となる。要するに生理的状態より来る不快の観念を除くを得ば、気がさわやかになり、人に逢うても快楽を感かんじ、したがってますます衆人のあいだに出入し、気弱とか怖おじ気けとかが取去られてしまう。 例により僕は自分の恥はじ曝さらしの経験を述べて参考に供したい。僕は少年のころ、物に怖おじ気けない、大胆不敵、あまりに無遠慮であった。両親の友人などが来ても、臆おく面めんもなくその前に出て、しゃべりたいことをしゃべり、家うちの人々の手にもてあまされた。それが二十歳前後になると、処女も及ばぬように引ひっ込こみ勝ちになり、人の前に出るを嫌きらい、人に顔見られるのを怖おそれた。いまになってその理由を顧みると、身体の工ぐあ合い、ことに目に関係したのではないかと思う。かくいわばあるいは一つの笑話のごとくに聞き捨すつるものもあろうが、若い人々の参考のために一言したい。しかるにその後七、八年のあいだに、また幾分か逆ぎゃ戻くもどりして、怖おじ気けがなくなったのは、その間に日常心懸けたこともあるが、一つには身体の工ぐあ合いがよくなったためと思う。弱点の自覚より起こる気弱
自分の弱点を自覚するために怖おじ気けることがある。これは世間に多く見ることで、笑われはせぬか、憎にくまれはせぬか、嘲あざけられはせぬかと、つねに心に憂うれうるゆえに、かかる虞おそれある場所には成るべく欠席せんとする考えが起こる。そうでなくてさえ、人にはいかなる人にても、秘密はあるものである。もっとも秘密だからといって、決して悪いものとは限らぬ。何なんらの秘密なしと称する人こそ怪しむべきである。何なん人びとも隠すべきものをもっている。秘密といえば何か悪事するごとく思い疑わんが、決してそうでない。 処しょ女じょの羞はずかしがるは何が一番甚はなはだしきかというに、自分の体からだにありて、親にも示すべからざるものあるがためである。これは秘密にすべきものではあるが、善悪の標準をもって論ずる限りではない。いな解かい剖ぼう上よりいえば、婦人が婦人としての身体を有せぬが恥ずべきことである。ゆえに各人が秘密を有すればとて決して怪しむに足らぬ当然なことである。この秘密を発見せられはせぬかという観念が人をして怖おじ気けさせるのである。 京都の人ひとは、﹁晴はれがましい﹂という言こと葉ばを使う、すなわち東京のいわゆる、﹁きまりが悪い﹂の意で、目立つ所に立ち、多数の環かん視しのもとに出ることを晴はれがましいといって引ひっ込こむが、これは何か秘密とすることを発見されはせぬかというに起こる。しかしてこの秘すべきことに、何らかの弱点があれば、この念がいっそう深くなる。 前にも僕は子供時代の感情を自じは白くして恥を曝さらしたが、子供のときから顔の醜みにくいことをつねに笑われ、顔がお盆ぼんのようだとか、鼻が低いとか、色が黒いとか、眼ばかり大きいとか、お出で額こがどうとか何とか、つねに人にいわれたために、人の前に出ても、またなんか言われはせぬかという気になり、怖おじ気けたのである。公然開放的の顔のことゆえ何なんぴとも見るのであるが、その見られるのが怖おじ気けを促うながす。かく何か弱点があって、自じぶ分んに控ひか目えめになることの自覚があると怖おじ気ける。しかし容貌のごときは腕わん白ぱく小こぞ僧うにはさほどの感じもないから、幼少のころは平気に聞き流して意に介せなかった。しかるにそれが年とし頃ごろになると、この自覚を感じ、人の前に出ると恥かしくなり、ことに婦人の前に出ると、前に述べたる生理上の関係のみならず、容よう貌ぼうの醜しゅうなるを恥じて気が弱くなる。 かくのごときは歯し牙がにだもかくる値あたいのなき、まことに些さ々さたることではあるが、世には僕と同じく気の小さなものがあり、あるいは容よう貌ぼうとかあるいは身体の一部に何かの欠点あることを自覚して、羞はにかむものがあるように見受けるから、掲げて参考に供する。容貌や秘密の暴露は恥とならぬ
これが矯きょ正うせい策としては、顔が醜みにくいとても美びが顔ん術をほどこす必要もなかろう。蓼たで食くう虫もある世の中にはまったく棄すてる物はない。いかに顔が醜いとても、またそれ相応の天職もあろう。ことに容よう貌ぼうは解かい剖ぼう的のものでなく、心の作用によりては、少なくともその表情を変えることが出来る。そして人の顔色を読むには、骨こっ格かく肉付きの如いか何んよりも、むしろその表情によることが多い。米国の大統領リンカーンは有名な醜しゅ男うだ子んしであった。しかるに親しくこの人に接したものは、彼かの青ざめた顔、大きな口、凹くぼんだ眼を忘れてその慈愛に富んだ表情にのみチャームされた。 顔の改造は出来なくとも、心の改良は出来る。また心を改良すればただちにそれが顔に現るることなくとも、またその見分けのつかぬぐらいの人から親しみを受ける価値もないように思わるるが、何を苦しんでか外部の顔のために進取の気象を奪うばわれ、いたずらに卑ひく屈つに引ひっ込こみ勝ちになろう、と思えば心も晴々しくなって来る。 また外部に現れぬ秘密の事にしても、道徳上恥ずるに足らぬ秘密ならば、すなわち人には明あかせられぬが、己おのれが心に明あかし、あるいは天に明あかして恥ずべきことでない秘密ならば、暴ばく露ろしたところでこれまた一場の笑話となるか、愛あい嬌きょ談うだんとなるにとどまり、これがために心を痛め、胸を苦しめ、人に顔見らるるを怖おそるるにあたらない。 田いな舎かから上京した人は東京風ふうを知らぬゆえに、何かにつき無礼を振舞いはせぬかとどきどきする。自分の心に尋たずねて人に無礼を加うる念が毛もう頭とうなければ、動作の調ととのわぬことなどは、人も宥ゆるすであろう、また自分の良心も必ずこれを宥ゆるすものである。自分の心ここ得ろえの最善を尽つくせば無作法も宥ゆるされる
事の真しん偽ぎは知らぬが、明治の初年ごろに西さい郷ごうはじめ維新の豪ごう傑けつ連れんがはじめて御ごば陪いし食ょくを仰おお付せつけられたことがあったという。いずれも田いな舎かざ侍むらいで、西洋料理などは見たことのない連中のみで、中には作さほ法うを知らぬゆえ、いかなるご無ぶれ礼いをせぬとも限らぬと、戦せん々せん兢きょ々うきょうとし、むしろ御陪食の栄えいをご辞退申し上げんとしたものもあった。 いよいよ当日になり、玉ぎょ座くざに近き食卓につくと、ろくろく落着いて手を出すものも、口を開くものもなかった。そこで西さい郷ごうは起たって口を開き厚くご陪食の御礼を申し上げ、かつこれに加えて、 ﹁小臣らはいずれも田いな舎かざ侍むらいで、九ここ重のえの御ごさ作ほ法うにははなはだ心得が薄うすいもののみでござりまする。ただ一身をもって陛へい下かの御おんために捧ささげ奉たてまつることのみを心得、他には何らの心得なきものであれば、今この席においてもあるいは御ごさ作ほ法うに背そむくごときことがあるかも存じませぬ。ただ陛へい下かに対たいし奉たてまつる至誠に免めんじてお許しを願う﹂ と挨あい拶さつして席につき、スープを飲むに、両手を皿さらにかけて捧ささげグイと飲んだという。 もしこれが知っておりながら、少しく奇人を衒てらい、英雄を真似たとすれば、無礼の誹そしりをまぬかれぬが、自分の心得の最善を尽している以上は、行ぎょ儀うぎ作さほ法うに多少の欠点ありとするも、人はこれを宥ゆるすものである。自分は行ぎょ儀うぎを知らず、作さほ法うが分からぬと、自分の弱点を知ったとても、人の前に出て、決して臆おくすることはない。またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際する価ねう値ちなきものと思う。 後ごと藤う男爵が少年のころ、何かの折りに、岩いわ倉くら公こうの前に召めされ、菓子を饗もてなされた。地方からポット出での男は怯おめず臆おくせず、その席上でムシャムシャと菓子を食った。しかし決して岩倉公に無礼を加くわうる考かんがえなく、ただ食くえといわれたから食ったまでで、いわば至当のことをなしたに過ぎぬ。しかるに後になって、かかる饗きょ応うおうの前で妄みだりに食うものでないと言い聞かされ、男だんは定さだめし岩倉公の御ごふ不きょ興うを受けたであろうと思いしが、翌日にいたり公こうより昨さく日じつ来た青年は菓子が嗜すきだと見えるというて、かえって一箱の菓子を送られたという。しかし僕は繰り返していう。かくのごときことを聞き、豪ごう傑けつ才さい子しを気取って、わざと礼儀作法を破るものがあれば、これすなわち自己と他人を欺あざむくものであるが、この欺あざむく心がなければ、たとえ自己の弱点を見られたところで、たいした恥にならぬ。したがって一向怖おそるべきこともない。﹁心に忌いまわしい点あるか﹂と反問せよ
またこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末まで隠かくし得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。﹁人ひと焉いずくんぞさんや﹂で、さんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。またさんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の爪つま先さきに至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。これをさんとするも、これらの機関はほとんど裏うら切ぎりするかのごとく、我々の心情を現すものである。かく考えると齷あく齪せくとして、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。早晩その真相は暴ばく露ろされるものである。 ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、 ﹁我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、疣いぼも何も﹂ といった主義に従いたいと思う。むろんこれがために迷めい惑わくを受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。しかし常に心に戸と閉じまりし、つねに隠かくさんとする重おも荷にがないだけ気軽で、大なる利益がある。要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事に逢あっても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。ゆえに人の前に出るにあたり怖おじ気けが起こったならちょっと退しりぞいて、 ﹁己おのれの心に忌いまわしい点があるか﹂ と反問するが肝かん腎じんである。臆おく病びょうなる僕に一大興奮剤となった教訓は沙さお翁うの Be just and fear not の一言である。 ﹇#改ページ﹈第六章 怖おじ気けの矯正
始めて試みた英語演説
怖おじ気けは自信力のとぼしい場合に起こることが多い。﹁自分はとうていこの任にんに堪たえられぬ﹂と思えば、手を出すことも怖こわくなる。 僕がはじめて外国で外国語の演説をしたときは、草稿を携たずさえて行ったが、慣なれぬことばで語ることでもあり、かつ聴衆は千有余人もあり、しかも燕えん尾びふ服く着用で聴講料を払って入場した紳しん士しや淑しゅ女くじょ――一目もくしても一片ぺんの書生たる僕以上の人と見受けられ、加しか之のみならずこの時は僕の独り演説であったから、これらの聴衆を見ると、思わず慄りつ然ぜんと震ふるえた。 やがて司会者は起たって五、六分間、紹介の辞ことばを述べた。この間かんは僕にとって、生しょ涯うがい忘れられぬ苦痛の瞬しゅ間んかんである。場じょうの中央には演壇と椅い子すがあり、その両側には市の有名なる人々が十人ばかりずつ控ひかえ、その壮厳なる光景を見ては、なおさら怖おじ気けて、手足はブルブルと戦せん慄りつした。幸いにして明るくなかったからよかったものの、もし電燈の下にでも立ったなら、いかに顔が青ざめていたであろう。とにかくも、戦おののきを抑おさえられぬ。愚かなことをしたものかな、こんな演説を引受けねばよかった、いっそ急病と称して御ごめ免んを蒙こうむろうか、何か他の理由をつけて退席せんかと思い煩わずらっている時、ふと浮いた考かんがえが二つあった。一つは、 ﹁ナニ此こや奴つら、服な装りこそ美うるわしけれ、金持ちでこそあれ、高たかの知れたもののみである。ことに自分の今演のべんとすることは、日本に関することではないか、この点については僕は確かに彼らに優すぐれている。少なくとも日本に関する知識においては、彼らはゼロ同然である、否いなゼロよりもかえってマイナスであろう。僕が今述ぶる問題の範囲内においては、彼らは取りも直さずまったく無知同様である。かかる人を相手として演説するに、何の怖おそるることかあらん、この馬ばか鹿も者の奴めらがッ﹂ としきりに彼らを呑のんでかからんとつとめたが、なかなか呑のめない。いかに心中では豪傑を衒てらわんとするも、真しん底そこよりの豪傑でないから、ますます怖おじ気けてガタガタ戦ふるえる。演説の顫ふるいを止めた経験
すでにしてまた一つの考えが起こった。 ﹁この席に来た人々は日本に関する知識を求めに来たので、決して雄ゆう弁べんや能のう弁べんを聴くつもりで来たのでない。日本人が英語を操あやつるのであれば、定さだめしブロークンな英語であろう。演説の良否よりも、内容が半分も解わかれば、それで足たるくらいに思うであろう。また恐らくは傍ぼう聴ちょうの半数以上は聴くよりも日本人を見に来たのであろう。僕の演説を充分に解することはその期待せぬところであろう。もし彼らが僕の演説を半なかばなりとも了解し得たならば彼の人は感心によく英語を話したと思ってくれるだろう。発音の訛なまりや、文法の誤ごび謬ゅうなどはかえって愛あい嬌きょうの種た子ねになるくらいのものだ。なるほどこの演説は自分にとっては責任が重い。しかし聴衆にして心あらば、任の重きに対して同情してくれるだろう。ゆえに演説中に誤りを笑うものがあるとも、その笑わらいは冷笑でない。また出来損そこねたからとて、あながち国名を汚けがすことともなるまい。ブロークンながらも怯おめず臆おくせず元気よくやるがよい﹂と。 かく自分勝手の理屈を考えて、覚悟をしたら、今までの顫ふるいがとまった。わずかに五、六分間であったが、その間に頭あた脳まの考えは二回変った。しかしていよいよ起たった時には平然として何のこともなく、草稿にない戯じょ談うだんなども臨時に入そうにゅうし、幸いに案外の喝かっ采さいをうけた。怖おじ気けに処する二種の考え
その後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英えい雄ゆう豪ごう傑けつならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍ぼう若じゃ無くぶ人じんを衒てらい、なに彼きゃ奴つらがという態度を持じすることは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚おろかなる方法であると思った。恐らくは他ひ人とにも、かかる借かり元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己おのれを欺あざむき、人を欺く芸げいであるから、なかなか骨が折れよう。 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優すぐれた力がある。しかし彼らはこの力を濫らん用ようせぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに酬むくゆるに相手を軽けい蔑べつしあるいは馬ばか鹿も者の視ししたりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖おじ気けが起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。信じてかかれば怖おじ気けない
そこで僕が自分の恥を晒さらして物語り、怖おじ気ける人の参考に供したき要点は、相手を信しんじてかかれということである。渡る世間に鬼おにはない、鬼でさえ頼めば人を食わぬ。窮きゅ鳥うちょう懐ふところに入れば猟りょ夫うふもこれを殺さぬ。怖おじ気けたり臆おく病びょうな人も、他に信じてかかれば怖おそるることがなくなる。僕はこの一時の経験により、自分の心理状態に一大改革を経へたように思う。あるいは読者中には、粗雑にしてかつ乱雑なる僕の演説を聞かれた人もあろうが、こんにち日本においても聴衆の前に立ち、何らの腹案もなく述べ出す。 学術上のことはさて措おき、日ごろ思っている考え、日ごろ懐いだける感情を述ぶるに、何の怖おそれることもない。ありのままに口を開け、﹁腸はらわた見せる柘ざく榴ろ﹂同然にやる。隠したところが、数百の聴衆は僕よりもいっそう鋭敏なる眼をもって見つつある。隠さんとしても隠しきれぬ。急に君子顔を装ったとて、また言葉だけに珠たまをつらねたとても、音調に得た所がなければ、聴衆の嘲ちょ弄うろうを招くばかりである。またその場に急に英雄豪傑を真ま似ねたとて、その腹の底に胆たん力りょくがなければ、話しているあいだの姿勢にて暴露する。聴衆は自分よりも具ぐが眼んの士であると、彼かれらを信じてかかれば、かえって怖おそろしくなくなる。同じ獅し子しの穴あなに入るにしても、相手が己おのれを食らうなど思えばおそろしくなるが、この獅し子しは妄みだりに人を食くわぬことが分かれば、恐怖の念が去る。ゆえに僕は怖おじ気ける人に対し特筆して注意したきことは、相手の人を疑うことなかれ、相手の人に好意をもってすれば、彼かれらもまた君に対し好意を懐くものであると。怖おじ気けの根本的矯きょ正うせいは自信自重にあり
右に述べたのは相手を信用してかかれという意味であるが、これに相伴って必要な一つの覚悟があると思う。それは他人のことに関せぬ自分自身の態度である。いかに他人が自分に対して好意があるだろうと信ぜんとしても、自分の心に暗いところがあれば、みずから信ずる念が乏とぼしくなり、したがってまたみずから重んずる念が欠ける。しかしてみずから重んぜざる人がいかにして他人より重んぜられようか。人じん爵しゃ的くてきの軽けい重ちょうならばいざ知らず、心より発する尊敬などは自ら重んぜざる人に払うものはあるまい。 ゆえに人を信ずるに先だち、自ら信ずる念がなければならぬ。みずから信ずるというは自分に暗いところがない、よし他人が自分を信ぜなくとも、自分は独立しても世を渡る、またいかに他人が自分を疎うとんじても、我はあくまでも自ら重おもんじて、所信を貫つらぬくという、みずから潔いさぎよしとするところがなければならぬ。僕がしばしば引用する Be just and fear not︵正せいを守りて怖おそるることなかれ︶というはすなわちここをいったのである。 自分が正しいと信ずるものは、いかなる事があっても怖おそれない。したがって人の前に立っても怖おじ気けることがない。かの宗教改革を唱となえたルターが始めてその新説を発表し旧教家の反対を受けたときは、その生いの命ちの安全さえもはなはだ覚おぼ束つかなかった。そのころルターの友人は彼かれのある会合に出席せんとしたのを止め、 ﹁今日は家にあれ、一歩戸外に出れば生命は危険である﹂ と警いましめたが、ルターは昂こう然ぜんとして、 ﹁この町の家かお屋くの瓦かわらほどに敵が多くとも、心に疚やましきことなき以上は、何の怖おそるることかあらん﹂ と言い出席したという。おそらくは怖おじ気けの根本的矯きょ正うせい法は自身の正しきを自覚するにありと思う。暗いところがあると怖おじ気け出す
これに反はんし自分に最ベス善トを尽しておらぬものは、何かの時に退ひけを取りやすい。恥ずかしいが、僕もしばしば自分でこれを経験したことがある。かようなことは相手も知っておるまいと、思って大きな顔している間に、はしなくも話はな頭しがみずから犯した罪に、すこしでも触れると、すぐにビクつき、あるいは顔かお色いろが変わり、あるいは声が顫ふるえ、あるいはその言うことに辻つじ褄つまが合わなくなり、あるいは極ごく上等に出来たとしても、話はな頭しを漸ぜん々ぜんに曲まげて自分の痛いところより遠く離さんとし、然らざれば正反対に自分の弱点を弁護するごとき議論や物語をしたりする。 これは僕自身にそういう経験があるのみならず、また他人に逢っても、自分みたいなことをやっているわいと感じたことが間ま々まあった。たとえば前年僕を訪ねて、なかなか元気よく議論したある青年があった。その挙動を見るとすこぶる傍ぼう若じゃ無くぶ人じんで、室へやに入るや否いなやいきなり趺あぐ座らをかき、口角に泡あわを飛ばして盛んに議論する。僕はこれを見てなるほど彼は勇気精力に富むと感心した。彼が独りで暫ざん時じ議論したのち、僕にむかい、 ﹁今こん日にちの日本の青年に対し最も注意すべきものは何か﹂ と質問を発した。僕はあながち彼に対してあてつけ、皮肉をいうつもりはなかったが、あたかもそのころある地方の中学を巡廻し、生徒の不ふぎ行ょう儀ぎなることを、ことに痛切に感じていたから、僕は、 ﹁行儀を正すことが目下の一大急務なり﹂ というや、今までの豪傑は急に狼ろう狽ばいしはじめた。露出した膝ひざ頭がしらを気にして、衣きも服ので掩おおわんとしたり、あるいは趺あぐ座らをかいた足を幾分かむすび直し、正座の姿に移らんとした。僕はこれを見て、ハハア、この人が今までの大たい言げん壮そう語ごも、その磊らい落らくの行儀も、思いつかずになした業わざでなく、一時じの拵こしらえ気きえ焔んで人を脅おどかすつもりか、あるいは豪傑を衒てらっての業わざであったのだな。彼の英えい邁まい奇行は道具立ての小こざ細い工くたるを見て可お笑かしくなった。彼はその知れる限りの最美を尽しておらぬ。むしろ彼の最悪の行儀をなしていたのである。自分が為すべからざることと知れることを、ことさらに為していたのである。 ゆえに一言でも話はな頭しが彼の弱点に渉わたると、胸中幾分か狼ろう狽ばいするの風ふぜ情いが現れ、今まで頼たのもしい剛ごう胆たんなる青年と思われたものが、見すぼらしい凡人に立ち返り、勇将が一時に敗兵となった観を呈した。﹃失楽園﹄に現れた悪魔の姿勢
英文学に異彩を放はなつと称せらるるかの有名なるミルトンの﹃失パラ楽ダイ園スロスト﹄の主人公は、神を相手に謀むほ叛んの旗はたを翻ひるがえした悪魔の雄将サタンである。彼が戦いに敗れ地獄に堕おち、しばらく夢中に卒倒してあった後、たちまち息いきふき返して、わが身辺を見廻わすと、彼の同僚および彼の率ひきいたる軍勢は、何万となくいずれもあるいは疲つかれあるいは負傷して消ゆることなき地獄の青い火の中に、燃えもせず焼けもせず、苦しみながら横たわれるさまを見て、サタンは再び士気を鼓こ舞ぶして、天に逆らい再挙を計ることを、詩仙ミルトンが椽てん大だいの筆を揮ふるって描えがいている。 しかして書中に現れた悪魔の態度の実に凛り々りしく、彼の野心の実に偉大なる、彼の度量の広こう闊かつなる、読む者をして知らず知らず神よりも悪魔を尊敬する念を起こさしむる。ゆえに英文学を論ずるものは、﹃失楽園﹄を批評するにあたり、ミルトンの神をけなし、ミルトンの悪魔を崇あがめぬものはない。またこの悪魔の姿は実に堂々たる風ふう采さいで、吾ごじ人んの崇拝に値あたいするように写してある。ことに彼が天帝に反そむかんとする豪胆のこと、また大敗を受けても再び事を挙げんとする勇気のごときは、読者をしていよいよ彼かれに尊敬を払わしめる。 しかるに﹃失楽園﹄を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張ることの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。彼がこの考えを起こした後は、固有の偉大なる身から躯だがあるいは蛙かえるとなり、あるいは鳥となり、あるいは蛇へびとなり、種々なる形に変化している。しかしてその変化のありさまを見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、堕だら落くする順序が現れている。 僕はミルトンの﹃失楽園﹄を見るごとに、人格の堕だら落くの階段が秩序的に現れているがごとく感かんずる。すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見る。 しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと含がん蓄ちくされているものが、漸ぜん々ぜんに働くことを称すると同おなじく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき種た子ねが含まれているある一種の病原が存し、この種た子ねが年とともに蔓まん延えんするものである。ミルトンの悪魔もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からず受けていたが、一たび野心という病いの黴ばい菌きんが胸中に萠きざしたのちは、いかなる方法をもってするも、目的を遂げんと望んだため、最初堂々たる方法で戦ったに反し、後には目的を達するに急となり、目的のためにはいかに卑ひれ劣つな手段も辞せず、だんだんに堕だら落くし、ついに虫むし類けら同然のものに身を変えて幾分かその目的を遂げた。この詩を見る人はその堕落のさまの顕著なるに驚く。顧みて疚やましからずば怖おじ気けは起こらぬ
話はな頭しは岐わき路みちに入ったようであるが、自分の胸中に正しからざる種た子ねが潜せん伏ぷくする以上は、いかに最初は勇敢なるも、いかに初対面のときに豪傑風を装うとも、いかに人に接して偉大なる感を与うることあるも、年を経ふるにしたがい、その金きん箔ぱくがだんだんに剥はげると同時に、その人はますます小さく、臆病にかつ卑ひき怯ょうになる。ゆえに僕は何か人に逢ったり、多数の前に立つ時、怖おじ気けを覚ゆればすぐに自分を呼び出し、 ﹁これ稲いな造ぞう、汝きさまは近ごろ、何かバクテリアに罹かかりはせぬか、どこかで病いの種た子ねを宿しはせぬか﹂ と自問を発し、あるいは、 ﹁汝なんじは人の前に立ち、少しでもよく自分を思われたいと、自分の真価以上に看かん板ばんをかけたい了りょ簡うけんなるか、相手の人に褒ほめられたいと思っておりはせぬか、あるいは何か求むる所があって、相手の人にお世せ辞じを述べるか、あるいは妄みだりに自分を卑ひ下げして、なさずともよいお辞じ儀ぎをなし、みずから五尺しゃく四寸すんの体から躯だを四尺三尺に縮ちぢめ、それでも不足すれば、ミルトンの悪魔同然に鳥なり蛇へびなり蛙かえるなりの程度まで一身を引下げておりはせぬか﹂。 かく発問すると、なるほどもっともだ、自分は予かねての心がけよりも、この点において大いに堕だら落くしたと思いあたり、心を取とり直し、己おのれに帰る心ここ地ちする。して己れの心をそのまま存する者は怖こわがりもせぬ。怖おじ気けは自己の心を離るるより起こる。漢字で立りっ心しん扁べんに去る︵怯きょう︶布く︵怖ふ︶芒ふ︵※ぼう﹇#﹁りっしんべん+くさかんむり/氓のへん﹂、U+607E、99-7﹈︶をつけてこわがるの意を現すも故ゆえありというべし。 ﹇#改ページ﹈第七章 譏きぼ謗うに対する態度
人に最大不快を与うるは何か
人間社会で不愉快なる感を与うるものは数あま多たあるが、これを一々区別して、何が最も有力なるかを尋たずぬるに、貧困よりも疾しっ病ぺいよりも、失望よりも何よりも、他人から悪く批評されることが最も有力なものであろう。 ある人が人間の行為として最下等なる職業を営いとなむ数あま多たの醜業婦について、 ﹁お前たちはこの商売していて一番イヤなことは何か﹂ と訊ただしたら、お茶をひいて仲なか間まに笑われることだと答えたそうであるが、彼らは日々の飯さえ遠慮して食い、終夜一睡すいもせぬことしばしばなるに、身から体だの苦しきよりは、やはり四囲いの批評のほうがつらきものと見ゆる。 こういうと、あるいはそんな些ささ細いなことがと、言い流す人もあろうが、実際においては自分の悪口を言われても、これを心にかけず平然たるくらいまで進んだ人ははなはだ少ない。中にはそんなことは構かまわぬと称する人ひとも数あま多たあるが、なにかかにか言われると、まったく無むと頓んじ着ゃくに聞き流す人はほとんどない。誰しも必ず心に不愉快を感ずる。ことに少しく神経過かび敏んなものになると、なおさら不愉快を深く感ずる。無むと頓んじ着ゃくと称される豪ごう傑けつ肌はだの者でさえも、その実じつなかなか心を悩まし、自分に対する悪口に無頓着なることは出来ぬ。またズッと高く進んだ聖人さえも、全然これを無視するを得難いもののように思われる。英雄も聖人も悪口を気にかける
かつて故児こだ玉ま大将が生存中、僕は一夕せき大将をその邸やしきに訪ねたことがある。折から外出より帰った大将は、 ﹁大たい層そうお待たせした﹂ と挨あい拶さつし、 ﹁イヤハヤ、どうも元老の爺じじ連いれんがお互いに悪口言い合うを調和するは、一ひと方かたならぬ骨折りだ。今日も一日かかって、そんな骨折りをやって来た﹂ と歎ぜられた。僕は、 ﹁悪口って、どんなことを言われるのです﹂ ﹁どんなことって、まるで裏長屋の婆ばばあが井戸端ばたでグズるのと異ことなったことはないさ﹂ ﹁しかし天下を預かる英雄にはそんなこともありますまい﹂ ﹁英雄は英雄でも、豪傑は豪傑でも、俺おれのことをこんなこと言った、怪けしからぬ奴やつだ、あんなことをいったが不都合だと互いに陰かげ口ぐちきいたのを、怨うらむようにこそこそと他人の悪口をいうさまは、毫ごうも裏長屋の婆ばばあと異ちがうことはない﹂ と言われたが、磊らい落らくにして世評などに無頓着を衒てらう豪傑にしても、なおかつかかる人が多い。いわんや普通の凡人においてはなおさらである。 また僕はかつて次のごときことを読んだことである。ソクラテスは容貌の醜みにくい人で、世せじ人んが彼を誹ひぼ謗うするときは、必ずこの点を指摘した。しかし彼自身も容貌などは、どうでもよいと思うため、世人が自分の容貌の醜きを悪口すれば、自分もその仲間に加わり、一緒に笑い、己おのれの眼の飛び出しているは、四方八方をよく見るためであり、鼻の天井を向いているは、他人の嗅かげないものを嗅ぐためであると磊らい落らくに笑い流していたが、その死せんとするにあたり、ヘムロックの杯はいを取りながら、 ﹁いよいよ俺おれが死んだなら、もはや俺の容貌の醜きを笑う人もあるまい﹂ と一言ごんした。してみると、他人が彼の醜きを譏そしるのを気にしていたと思われると説といた人の論を聞いた。この論がはたして当を得たるや否いなやは別とし、いわゆる聖人なるものも他人より悪口さるれば、少なくとも不愉快の感を起こすものと思われる。まして凡人においてをや。世評は修養の補助
かれこれ相互の批評は人生の大部分を成しているかと思われる。むろんこれが刺激となって人生は進歩するものである。いかなる人でも、その備うる短所を批評せねばいい気になりますます得意となる。いかなる怪けしからぬ行為あるものも、これを発あばいて反省を促うながさねば、ますますその暴行を逞たくましゅうしやすくなる。 世間の批評が我々の行為を抑制することは、あたかも羊ひつじの群れを監督するために羊シェ犬ファードドッグを付けるがごとくである。おろかなる羊ひつじは草を食いながら、少しでも柔軟に、少しでも緑の草があるほうに進み、だいたいの方向も忘れて進み路を迷いやすい。このとき羊犬が迷った羊に吠ほえつき、各個の羊をその群れより離散せぬようにまとめると同じく、世評なるものは、我々が得意になり、あるいは岐き路ろに迷わんとするとき、これを抑おさえて軌きど道うに惹ひき着ける役目をするものと思えば、修養の一大補助ともみなされる。すなわち毀きぼ謗うは社会の要求の声ともいうべきものならん。 それについてはこれを濫らん用ようせぬよう心がけることが最も必要である。してその濫用とは、
一にはその悪口をいった人を怨 むこと、
二には自分の悪口されたのを聞き怒 ること、
三は悪口を耳にしてヤケとなること、
四には悪口に対する弁解に大いにつとむること、
五には悪口のために落胆し萎縮 すること、
二には自分の悪口されたのを聞き
三は悪口を耳にしてヤケとなること、
四には悪口に対する弁解に大いにつとむること、
五には悪口のために落胆し
等が、その主要なるものである。これらの弊へいに陥おちいらぬようにするには、まず悪口に対してはいかなる態度におらねばならぬか、その度胸を定めたい。
悪口そのものについては他所にも述べたから、ここに再び繰り返す必要はない。僕のここに言わんとすることは、悪口の目的物となり、すなわち悪口を受けるものの態度について一言ごんしたい。
悪口は一時的のものが多い
多くの悪口には一時的流りゅ言うげんに過ぎずして、ほとんど一顧この値いなきものがある。俗ぞく諺げんにいう、﹁人の噂うわさも七十五日﹂。その語るところを聞くと根底深いらしいが、その実は根も葉もないことが多い。これは我々がしばしば新聞雑誌に見ることによりてもよく分かる。すなわち新聞雑誌に掲げられる月げっ旦たんとか人物評論とかあるいはいわゆる三面記事を見ると、某ぼうはかくのごときことをなし、国賊であるとか、その肉を食くらってもたらぬとか、倶ともに天を戴いただくを恥じとするとか極端の言葉を用い、あるいは某が某女性と関係したる始しま末つを細こま々ごまと記してある。 これを読む者が真ま面じ目めに考えれば、とても読み流すことは出来ぬ。国のためにかかる人は一刀の下もとに刺し殺すべしとまで思うようなことが載せてあれば、三、四日もすると、そんなことも忘れ、翌月になると、同じ新聞雑誌がこの同じ人を恐ろしく褒ほめ立てることがある。いわゆる輿よろ論んなるものは実に軽薄なものである。また我々の友人中にも甲が乙の噂うわさをして、はなはだ怪けしからぬ奴やつだと罵ののしる。その語るところを聞くと、その間の関係が、絶交してもたらぬように思われるが、翌日甲乙が互いに話し合うところを見ると、前夜用いた罵ば詈りの言げんは、いずれにあったかを解するに苦しむことがある。誰しもまた必ずかかることを経験したであろう。譏きぼ謗うの大部分は介意の価なし
しかるに少し気の小さな人が、自分のことを噂うわさされ、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び起たつ能あたわざる窮地に陥おちいるごとく歎なげく。かくのごとき時には、少すこしく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言ことの葉はの、一ひと風かぜ吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって為ために一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難なん者しゃはいかなる人かと聞けば、怒おこったり怨うらんだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。 あの男が一ぱい機きげ嫌んで悪口するはアルコールの蒸じょ発うはつが喉のどを過よぎって来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういう言げんを弄ろうするは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠とお吠ぼえぐらいに聞こえる。ちょっとは耳に障さわっても、あとに残らない。 しかるにこれを一々真ま面じ目めに解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱を吐はくほうが多いから、為ために人を怨うらみ、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七分ぶは聞流しにすべきもの、意に介かいする価値なきものと僕は信ずる。 折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん知らぬ人の批評には弁解が要らぬ
もっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらに罠わなをかけ、あちらに垣かきを結び、もって他を陥おとしいれんとする、手配り広き悪口もある。 こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれを免まぬかれられぬものである。しかし五人かかろうが、十人かかろうが、知ち恵えを絞り出して吐はく悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵を運めぐらす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく脳のう漿しょうを絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。 僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀きぼ謗うの理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事こと々ごとしく弁解する労を取るだけの価値がない。加しか之のみならず時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。ことに自分をよく知らぬものが、彼かれ是これ批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮きゅ境うきょうに陥おちいり衣服にも窮している、どうか助力を乞こいたいと訴えたが、彼がその窮きゅ境うきょうに陥おちいったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼の談はなしを遮さえぎり、世間が君を誤解しても、君の知ち己きが誤解しなければよいではないか。 世間とは君を知らぬ人の謂いいである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意に介かいするに及ばぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛あい憎ぞうの念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。かかる悪口は自然に消える
世間だの世評だのということは、はなはだ漠ばくとしたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に由ゆ々ゆしき大事といわねばならぬ。 たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ非ひな難んしても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口を吐はき、その会社の信用を傷つけ、その店を顛てん覆ぷくさせる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。 西さい郷ごう南なん洲しゅう翁が慶けい応おう年間、京都に集まった薩さつ摩まの勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが鎮ちん撫ぶに取りかかったとき、日ごろ西郷に快こころよからぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の鎮ちん撫ぶに藉かるが、実はこれを煽せん動どうするものであると、島しま津づひ久さみ光つ公に告つげ口ぐちした。公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、何なに人ぴとでも差さし支つかえなきゆえ、手てう討ちにせよとの命令を下した。これを聞いた大おお久く保ぼはそもそも西郷を久ひさ光みつ公に推すい薦せんしたのは自分である。彼が不ふら埒ちを働いたとすれば、自分もまたその責せき任にんを分かたねばならぬと思い、西郷が来るや否いなや、ただちに彼を兵ひょ庫うごに引連れ、明日君が君公の前に侍じすれば、生命はないぞ。到底助からぬものと思えば、むしろここで刺し互ちがえて死する積りだといった時、西郷は、 ﹁ウン、二人死ぬのはつまらぬ。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人残るがよい。俺おれは罪を得たから死ぬが、汝きさまは生き残って俺の代りに君公に仕つかえ、二人前を働いてくれ﹂ といって出仕した。幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に奔ほん走そうしたが、世には随分念の入った讒ざん言げん悪口がある。しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨うらむことを要せぬ。ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。言語よりも実行をもって弁解せよ
かくいったならば、あるいは正直の人は、 ﹁人より受ける悪口はそう軽く見るべきものでない。汝なんじは軽い例ばかりを挙げたから、人をしてこれを軽い事のように思わせるが、これが歴史となって百年も二百年、千年も二千年の後までも残り、しかも誤りを伝え世に害毒を流すことが多い。 西洋歴史にていうならクロムエルのごときは、彼を憎にくむ人の言が世に伝わり、いかにも悪党なるかのごとく、数百年間英国の歴史を汚けがした。また我が国にても石いし田だみ三つな成りは徳とく川がわ家の御用史家により、成るべく悪あしざまに書かれたため、その人格および事業はすべて曲げて世に伝えられた。教訓よりしても、歴史よりしても、はなはだ望ましからぬ影響を世に及ぼしたように思う。ゆえにいたずらに人を悪口するものがあれば、根底よりその事実を明らかにし、誤ごび謬ゅうを改めしむべきが本分である。汝なんじの言のごとくどうでもよい、放任せよというは怪けしからぬ﹂ という人もある。歴史上の事実としては明らかなる証拠を世に伝うることは必要である。円形なるものを眼の悪い人が四角と伝えるものがあれば、確かに円形なりとの事実を証明することは望ましい。しかしこれを冷淡に考うれば、これは歴史上の事実を明らかにするに過ぎぬ。はたしてしからばこれ正邪の問題でなく、真しん偽ぎの問題である。道徳の問題でなく、歴史上の問題である。 歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの日ひ々びの心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。もし強しいて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。 白はく隠いん和おし尚ょうはその檀だん家かの娘が妊娠して和おし尚ょうの種た子ねを宿したと白状したとき、世人から生なまぐさ坊ぼう主ずと非難されても、平然として、 ﹁ああそうかい﹂ と言い、生まれた後は、自分でその子を懐だきなどしていたが、後、和尚の種た子ねでなく、娘は一時のがれに和尚の名を汚けがしたことが明らかになった時も、また、 ﹁ああそうかい﹂ といって世間の毀きよ誉ほう褒へ貶ん﹇#﹁毀誉褒貶﹂は底本では﹁毀誉貶褒﹂﹈に無むと頓んじ着ゃくであったという。僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。 僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。 ﹁何をもって謗そしりを熄やむる、曰いわく無むべ弁ん。何をもって怨うらみを止とどむる、曰いわく争わず﹂ と、また、 ﹁人の我を謗そしるやその能よく弁ぜんよりは、能よく容いるるに如しかず。人の我を侮あなどるや、その能よく防がんよりは、能よく化かするに如しかず﹂と。 実に尽せる言である。悪口に対する理想的態度
しかしこれについてはくれぐれも心得たきことがある。すなわち白はく隠いん和おし尚ょうの態度のごときは日ひごろの修養ある者でなければ、為すべきことでない。かく言えば、前に説いたことと矛むじ盾ゅんするらしく思われるがそうでない。日ごろこれらの修養を欠かく人が、ある一事にかかることを為すと、自分はともかく、他人に大なる迷惑をかけ、しかしてかえって悪事を為すことを奨しょ励うれいするに傾きがちである。白はく隠いんなりしゆえ、後日に至り疑いも解とけ、差し支えなかったが、しかし世間では、ややもすれば白はく隠いん以外の、しかも良からぬ人が、実際自分の私生児を引き取とり、白隠の言葉を借用して聖人の行為を真ま似ねる虞おそれが多い。 米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。法に従って彼らを罰ばっせんか、惜おしむらくは彼らの中には有名の士しく君ん子しが多く、かつこれらの人は日ひごろ社会百般の事柄に力を尽し、世間の信用と敬愛とを受けている。法に従い罰するに忍しのびぬ。ゆえに止むを得ず一時の権けん宜ぎとして、彼らには軍法を応用せず、兵役も免めんじ、納税の義務も免じた。 これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人の日ひごろの行状を審査し、たとえクエーカー宗に入れるものにしても、日ひごろその主義を完うせざるものは、無遠慮に罰し、日ひごろの行状が正しく、徳望高き人は特に穏便に取扱い、戦時だけ自分に都つご合うよき主義を唱えたとても、平生の行状がこれに伴わないものは、ただ一場の言い前に過ぎずとして採用されなかった。白はく隠いん和尚は日ごろ修養を積み、平へい生ぜいの言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。 ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、日ひごろの修養如いか何んによりてその価値が著いちじるしく違う。白はく隠いんの談はなしは美事であるが、僕はこの筆法をすぐに各自に応用するを憚はばかる。しからば何ゆえにこの例を掲げたかというに、日ひごろの行状を謹つつしみ、日常の信用を厚あつうするだけの慎みをなさねばならぬことを勧めたいからである。この点に謹きん慎しんし、修養していれば、一時いかなる非難非ひ譏きを受けたとても、何らの弁解を試みずして能よく晴天白日の身となり得ると思う。悪口に対する吾人の理想的態度は無むご言ん実行の弁解をもってすべきであると思う。いかに人はかれこれいうとも己おのれさえ道を蹈むことを怠おこたらずば、何の策を弄ろうせずとも、いつの間にか黒こく白びゃく判然するものである。要は﹁本ほん来らい清せい浄じょう﹂を守るにある。さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。
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第八章 世に蔓はび延こる者は憎まる
世に蔓はび延こる者は憎まる
﹁憎にくまれ児こ世にはびこる﹂という諺ことわざがあるが、わが輩はこれを顛てん倒とうして、世にはびこる者は憎にくまれるということも、また真まこ実とであると思う。いったいこの﹁はびこる﹂とはいかなる意味か、﹃言げん海かい﹄を見ると横行、強きょ梁うりょうなどいう漢字を充用し、這はいひろがる意とある。一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、延のびひろがり繁しげる意味である。米こめ麦むぎを蒔まいた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じくはびこるのである。一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は邪じゃ魔まになるゆえにこれを嫌う。喜ぶと嫌うとの差あるも、はびこるうえにおいては二者同一である。また豆を植えかつ豆を穫えんと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的に適かなわぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。すなわち悪い意味において麦がはびこるのである。 して見ると、はびこるという文字の意味を悪く解とるか解とらぬかは、これを用うる人の意によりて異ちがうので、豆を穫えんとする人には、麦が悪あしき意味にはびこるのであり、麦を穫えんとするところに豆が茂れば、豆が同じく悪あしき意味にはびこるのである。我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。しかるにはびこるほうからいえば、これ自己の天職を完まっとうし、伸のびるのである。ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。現に世にいわゆるはびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、否いなむしろすこぶる感服することがたくさんある。古今の事例はこれを示す
これ我が天職なり、これ我々がまさに履ふむべき道なりとの確信の下もとに働ける人、すなわち意志の強き人は世にはびこり、ために何なん人ぴとかの進路を妨さまたげ、人から邪じゃ魔ま視しされる。聖せい人じん君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず何だ人れからか邪じゃ魔ま視しされる。 孔こう子しの言いえることまたは為せることは、盗とう跖せきより見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。 キリストが無遠慮に自分の思想の実行を力つとめたから、時の官憲僧そう侶りょから邪じゃ魔ま視しされ、耶や蘇そほどにはびこる、嫌いやなものはないと思われたればこそ、十字じ架かの上にその一生を終わったのである。 またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の淫いん蕩とう浮ふ華かなる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。 ゆえに、﹁憎にくまれもの世よにはびこる﹂というに対照し、世にはびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。何だ人れにも可かあ愛いがられるものは世にないと思う。もしかかる人ひとがありとすれば、そは自己の意志なきものである。何だ人れにも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。 我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。米国の﹁ポリティシャン﹂という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる陣じん笠がさの意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で軽けい蔑べつの意を含んでいる。これに反はんして一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を﹁ステーツメン﹂という。しかるにいかなる政治家にてもその生ける間あいだは敵より政治屋と罵ばり詈ざん讒ぼ謗うせられる。ゆえにある人が﹁ステーツメン﹂の解釈を下して﹁死んだポリティシャン﹂なりといった。すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。意志の遂すい行こうと社交の遠慮はいかに調和するか
人がこの世を渡るに、人からかれこれと批評され憎まれるのは、何なん人ぴとも嫌いやである。嫌だからとて﹁瓢ひょ箪うたんの川かわ流ながれ﹂のごとく浮世のまにまに流れて行くことは志こころざしある者の快こころよしとせざるところ、むしろ愧はずるところである。ゆえにすでに自分に所信あれば反対を受くる覚悟をもってこれを実行するに力つとめねばならぬ。もちろんかくいったからとて何事につけても無ぶえ遠んり慮ょに勝手放題に傍ぼう若じゃ無くぶ人じんに行えというにあらぬ。独り孤立して世渡りの出来ぬ以上、他人に相当に遠慮することは、社会生存の必要条件である。 山から山に渡るには頂上より頂上まで行くのが最も近ちか道みちであるが、実際山より山に遷うつるには、一度麓ふもとの渓たに間まに降りてまたまた嶮けわしき峰をよじ登らねばならぬ。一直線に行けば近くとも、自分の前に人があらば迂うか廻いして行くだけの遠慮がなくてはならぬ。しかし迂廻の必要があるからとて、進むことを中止するのは卑ひき怯ょうである。かれこれ言われるからとて遠慮するのも卑ひき怯ょうである。 しからばどの程度まで遠慮せねばならぬか。この程度は概括的に定むることは出来ぬ。周囲の状態やら各自の性質やらあるいは為さんとする目的やらによりて度合いが異るので、我々の犠ぎせ牲いとして払うべき意志は我々が衣きも服のを買うときの代価のごときものである。いったい衣きも服のはなんぼするものかという質問に対しては何なん人ぴとも一ひと口くちに答えかねる。なぜなれば衣きも服のにも単ひと衣えあり綿わた衣いれあり、木もめ綿ん物もあれば絹織物もある。和服もあれば洋服もある。具体的に個々の衣きも服のについて始めて価あたいがきまるのである。単に衣きも服のというただけでは何とも決することが出来ぬ。それと同じく遠慮と遂すい行こうの程度は概括的に定めることはほとんど不可能である。 わが輩は折々知人や未知の人より相談を受けるが、その要点は己おのれの意志と親の意志と相い投合せぬとか、あるいは自分の望むところを世間が容いれてくれぬとか、かかる場合にいかなる態度にいずべきかということが多い。わが輩はこれらの相談に対しつねに答える、その事情を詳細に知るにあらざれば、到底門もん外がい漢かんの解決し得るところでないと。所信の貫かん徹てつに潜ひそめる大苦心
元がん来らい、義務と義務との衝しょ突うとつは根底においてあり得べきものでない。義務そのものは絶対的であるとしても、個人がこれに対すれば軽けい重ちょう、本ほん末まつ、主しゅ従じゅう、大だい小しょう、遠えん近きん等によりて関係的相違あり、決して絶対的に同等なものでない。したがって思想的根底において衝突せぬものであるが、実行にあたっては衝突する場合がたくさんある。 孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならずと歎なげくものは、独り平たい重らの盛しげもりに限らない。些ささ細いなることにおいても、少しく考うると必ず衝突の問題の起こらぬことはない。朝自分の家を出て事務所なり学校なりに通わんとするに、右のほうが道がよいか左がよいか、必ず問題として考え得る。右は近いが左のほうが歩きやすいとか、右は平へい坦たんだが左ひだ道りは清潔だとか何とか、たいがいのことには得失問題を起こす理由がある。そしてその判断には少なからず苦しむものである。 むかしの英傑の伝を見るに、果断だとか、﹁裁さい決けつ流ながるるがごとし﹂とかぞうさもなく出来るように書いてある。彼らが凡人よりも早く事物の要点を見る明めい晰せきの頭脳を有することは疑いなきも、また凡人の窺き知ちし得ざる苦労を経ふるのである。光みつ圀くに卿きょうの、
見れば只 何の苦もなき水鳥 の足にひまなき我 思 ひかな
である。
シーザーがその留守中にローマに乱らんの起これるを聞き、出征先より大軍を率ひきいて帰国し、自国に入ろうか入るまいかとルビコン河かは畔んに立ったときは、凡人の考え得られぬ苦心があったであろう。外部より見れば、さほどに苦心もなく一蹴しゅうしてルビコン河を越えたらしく見られるも、今もなお歴史上の分わか岐れ点めとして謡うたわれているほど彼の苦心の跡が世界の人心に印いんしてある。
また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜心しん魂こんを痛め、あるいは跪ひざまずいて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を往ゆき来きしたという。こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理に絆ほだされて南軍についた。その決心を固かたくするまでの苦心はいかに辛つらかったであろう。
また信のぶ長ながが寡かへ兵いを督とくして桶おけ狭はざ間まに突進するに先だち、いかほど心を労したろう。また西さい郷ごう南なん洲しゅうが廟びょ堂うどうより薩さつ南なんに引退した時の決心、また多数に擁ようせられ新政厚こう徳とくの旗はたを揚あぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像し能あたわぬ。
また某ぼう碩せき学がくがかつて那なす須のよ与い一ちの琵びわ琶う歌たを聞き、さめざめと泣き出したとき、傍かたわらの人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方も舷ふなばたをたたいて賞賛したこの勲いさおしを聞き、泣くとはその意を得ぬと詰なじったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全源げん氏じ軍の名誉をただ一身に荷になって弓を引いたときの心はいかであったろう。命中したればこそ敵も味方も賞しょ歎うたんしたものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に堪たえぬと。実に見る人が見れば、何だ人れの行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所しょ信しん、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。
善事の背後にも敵がある
ついでに加えて述べたきことは、与よい一ちの場合にも彼が扇おうぎを覗ねらうあいだには、必ず彼の失敗を祈ったものがあったであろう。しかもそれは平へい家けが方たのみでなかったであろう。また奥おう州しゅうより出て来たあの田いな舎か武ぶ士しが、御おん大たい将しょうの眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる果かほ報うも者のだと羨うらやんだものもあったろう。また彼の技ぎり倆ょうを疑える者は、彼が遣やり損そこなえばよい、自分が代って見事に遣やって見ようというものもあったであろう。あまり邪推をまわすようではあるが、ふつうの人情より考えてかくありそうに思われる。彼が成功したと同時に、大だい喝かっ采さいを受けたことは歌にも歴史にも記してある通りであるが、またその後においてただちに彼の名誉を傷つけんとしたり、彼を怨うらみ嫉ねたんだ者から見れば、彼が人ひと目めを惹ひき世にはびこったことを喜ばぬものがいかに多かったであろう。 わが輩は話にまぎれてとかく昔むか時しのことのみを述べたが、我々が今日においてしかも毎日、些ささ細いなことにおいてもそれぞれに所信と決心とをつらぬくにはどこかに喜ばぬ人あり、確かに自分と衝しょ突うとつしているものがあると覚悟する必要がある。僕は性来臆おく病びょうなるゆえ、僕自身の為すことにおいてこれは万まん遍べんなく済んだなと思うごとに、その結果、必ず不愉快なることを数あま多た聞かねばならぬと思わぬことはない。またたまたま善事を為したと心の底に喜ぶときに、これがためにいかなるところに、いかなる人が如何なることを企くわだて、この善事を覆くつがえさんとするものがあろうと、恐れを懐いだかぬことはない。 こういう考えが善いというのではない。聖人ならこんな考えなく、何の憚はばかるところなく善事を行やるであろうが、普通人はしばしば善事をするのでなく、たまたま衷ちゅ心うしんより世のためだと思うことをすると、一方に臆おく病びょうの考えが起こり、これを害する人も必ず起こると覚悟するを要す。僕自身のわずかの経験においてもそういうことが多い。しかしてまた世せじ上ょう聖人君子が少なき以上、同じ経験を履ふめるものが多いであろう。読者中にも必ずかかる経験あらん
仮りに読者中憫あわれな人に逢あいこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義ぎき侠ょうの心をもってしたとするも、一方にはその事ことたるや偽ぎぜ善んからやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙きょに出たのであろうと疑われたものもあろう。 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼きゃ奴つめ親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。 読者中病身の細さい君くんを親切に看かん護ごする者あれば、これを褒ほめる者があると同時に、彼きゃ奴つめ嚊かかあに惚のろいと批評された経験もあろう。 読者中もし小こど児もに何か教えることがあれば、褒ほめる者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。 また読者中繊せん弱じゃくなる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼あい奴つはチト怪しいと疑われたこともあろう。 公おおやけの事に奔走すれば野心家と疑うたがわれ、老後他人の厄やっ介かいになるまいと貯ちょ蓄ちくに志こころざせば吝りん嗇しょ奴くどと侮あなどられ、一挙きょ手しゅ、一投とう足そく、何事にしても、吾ごじ人んのする事なす事につき非難をむことのなきものはない。これが世の中である。 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒ほめられる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆ひっ鋒ぽうなり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局きょくに当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、
実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何なん人ぴとかに怨うらみを受けるものである。いわゆる人から邪じゃ魔まに思われるものである。
佐さと藤う一斎さい先生の語に、
﹁罪つみなくして愆あやまちを得る者は非常の人、身み一時じに屈くっして、名な後こう世せいに伸のぶ。罪ありて愆あやまちを免まぬかるる者は奸かん侫ねい人じん、志こころざし一時に得て、名後世に辱はず。古いにしえの天てん定まりて人に勝つとは是これなり﹂
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第九章 心の独立と体の独立
友人を擲なぐった少年時代の追懐
この問題は永く僕の心に蟠わだかまっているもので、今こん日にちもまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、愚ぐこ考うを述べて世人の教えを乞こいたい。 話の順序として自己の恥はじ曝さらしから始めたい。僕が十三、四のころであった。まだ東京英語学校に、下げし宿ゅくから通学していたとき、友人某ぼうが九州の親許もとより来る学資金が後おくれたために寄宿料、食料、月謝の支払いに滞とどこおりが起こり大いに当とう惑わくせるを見、僕は彼を自分の下宿につれて来たことがある。かくいうといかにも義ぎき侠ょう心しんありげに聞こえるが、実は日ごろ親しく交われる友人間のことゆえ、一時の急を救わんとする自然の友情より起こったことで、あながち誇るべきことではないが、これに反し僕が彼に対する態度は実に恥ずべきものがあった。 それはある夜同室に枕まくらをならべて眠りにつきながらの話に、ワシントンと楠くす正のき成まさしげとの比較論が始まり、僕が楠なん公こうを愛国者と称したのを、彼はこれを訂正し、楠なん公こうは愛国者でなく忠臣だといった。彼は僕より二歳年長であり、かつ漢学の素そよ養うも、より多くあったので、文字の遣つかい方も正しく、また彼の議論も今より顧かえりみれば正当であったが、なに思いけん僕は突然床とこよりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて鉄てっ拳けんを食くらわし、 ﹁俺おれの飯めしを食ってるくせに、なぜ反対するか﹂ と怒ど鳴なったことがある。彼は僕より躯くか幹ん長大にして、活かっ発ぱつにかつ短気の男であったが、この時ばかりは何も手て向むかいだもせず、擲なぐられたままにその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べ他の下げし宿ゅくに移ったことがある。心の独立と体の独立とは密着
今ここにかくのごとき愚かな子こど供もば談なしをし、しかも自己の恥はじを曝さらすのは、この経験が永ながく僕の頭に留まり、四十年後の今日もこれを追懐すれば、自分が生せい来らい短慮なりしことを明らかにすると同時に、種々の教訓を受くるのである。 表ひょ題うだいの心の独立と体の独立ということもその一つである。僕が友人に対して俺おれの飯めしを食いながら反対するのはけしからんという一喝かつは、たしかに僕の根こん性じょうの曲きょくを曝ばく露ろする。しかるにこれが十二、三歳の腕わん白ぱく小こぞ僧うの一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えが潜ひそめるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く潜せん伏ぷくする考えではあるまいか。また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。換言すれば俸ほう禄ろくをもって他人の身体を抑おさえる者は、心そのものをも制し得る考えをもってする者が多くありはせぬか。俸ほう禄ろくを受ける者は知らず知らずのうちに心まで自分の主人のために奪うばわれることはありはせぬか。 さらに具ぐた体い的にいえば知人の恩恵によりて位地を得、俸ほう給きゅうを受くる者は、その知人あるいはその上官・社長・重役らの説に心ならずも服従し、反対説あるもこれを述ぶることを憚はばかり、また彼かれらの行動をいさぎよしとせざることあるもこれを黙もく認にんし、あるいはかえって進んでこれを弁護することありはせぬか。 先般ある会社の重役が検挙せられたときの談はなしを聞くに、部下の者は始めて日ごろよりいだいていた重役に対する不満を述べたという。日ごろそれほどその人の人格手しゅ腕わんに対し疑いを有したならば、何ゆえに予あらかじめ警戒しなかったかと思えば、非難する人の人格そのものも疑うたがわしくなる。また役所などで上官が代れば部下の者が後任者を迎うるに前任者の棚たな卸おろしをもってするは常にあることで、それほど宜よくなければ交替前に何ゆえに前任者に注意しなかったかと思えば、陰かげ口ぐちをいう者の人格の下げれ劣つにして、些いささかの俸ほう禄ろくのために心の独立を失い、口に言わんと欲することを得え言わず、はなはだしきは心に思わんと欲することさえも、まったく思わず、機械的に否いな奴どれ隷い的に使われていたと思わざるを得ぬ。体の独立はなくとも、心にさえ独立していればよい、たとえ体は束そく縛ばくせられていても、精神が自じし主ゅて的きか観んね念んをいだいていればよいなどというが、心の自由と体の自由とは関係がすこぶる密着して離し得ぬ場合が多い。動機は立りっ派ぱでも年とともに堕だら落く
僕は子こど供もご心ころに、維いし新んのころ世に名高き遊ゆう女じょの談はなしを敬服して聞いたことがある。それは品しな川がわの遊女某ぼうが外人に落らく籍せきせられんとしたことで、当時は邦ほう人じんにして外人の妾めかけとなれるをラシャメンと呼び、すこぶる卑ひ下げしたものである。某ぼうは遊女ながらもひと廉かどの気きし象ょうがあったが、如いか何んせん、商売がら外人に落らく籍せきされたので、
と詠よんだと聞く。心と体とを別に考うることはすでに身を売る時より行おこなわるる議論で、良家の子しじ女ょが泥どろ水みずに入る時も、たとえ体からだは畜ちく生しょう同然になるも、心は親のため、主人のため、夫おっとのためあるいは家のためなりと称し犠ぎせ牲いとなった。
しかるに、身を売る時の動機はいかに正しくとも、一ひと度たび身の独立と自由とを失うしなった以上は、心もまた堕だら落くすることが多数の事実である。恐らく我が国の娼しょ妓うぎとなりし人の動機と理由とを統計上より数えなば、自己の淫いん奔ぽんよりする者は少なく、大多数は一家のために犠ぎせ牲いとなったのであろう。身を売る時はじつに憐あわれむべく、また尊敬すべき動機に基づくも、爾じ後ご三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは雲うん泥でいの差あるを発見するであろう。
僕の友人が洋行した時、ハンブルグに行ったことがある。ハンブルグは西洋に例の少ない公こう娼しょう制度の行わるる所である。ゆえに友人はその道に通つうなる人の案内でその制度を視みに行った。その時この通つう人じんは数あま多たの婦人を呼び出し、友人のためにその経歴を紹しょ介うかいしたが、かくするあいだについ三、四ヵ月前に来た新しき女があったが、あれはどうしたかと、通人は頻しきりに新しん参ざん者ものを求めたりしに、豈あに計はからんや新参者は数あま多たの列座中にあったので、それが分った時の通人の驚きは一ひと方かたならなかった。わずかに百日も経たたぬ間にこれほどに処しょ女じょと商売人とは変わるものかと、開あいた口がしばらく閉とじなかった。
僕は多く不浄の談はなしをならべるようではあるが、身を縛しばられた例は奴どれ隷い制度の廃止された今こん日にち、娼しょ妓うぎをもって例たとうるのほかなしと思い、ここに引例したのである。がしかしその実泥どろ水みずに居おらなくとも泥水よりいっそう深き穢けがれに心の染まれるものが世には多くありはせぬか。身は一見けん独立のごとくして、心は娼しょ妓うぎよりもなお独立なく他人に依頼し、しかも他人の愛あい憎ぞうによりその日を送れるものが多た々たありはせぬか。
独立とは何を意味するか
かつてある青年が僕の友人を訪とうて、どうぞ書生として寄きぐ寓うさせてくれと頼んだ。友人はすでに家には書生もおり新たに入れる余地がないと断ことわり、かつまた上京するときの目的がはなはだ明らかならぬゆえ、この青年に帰国を勧告したが、彼は旅費がないから帰国されぬという。友人も、 ﹁君とこうして談はなしするのも他たし生ょうの縁であろう。君が親もとに帰る考えがあるなら失敬ながら旅費は僕が手伝おう﹂ というや、青年は毅きぜ然んとして、 ﹁私は独立を重んじます。旅費などは貰もらいたくありません﹂ と立派にいいきった。これを聞いた友人は奇き異いの思いをなし、青年に、 ﹁君は独立をたいそう重んずるようで、まことに結構であるが、果たして独立の意味が分かっているか。一時旅費を立たて替かえてもらうのが独立を失うしなうと思うはあながち咎とがむべきでない。それくらいの考えはむしろ持ってもらいたい。しかるにそれほど独立を重んずる君が、すでに二、三日前より毎日二、三時間を費ついやして僕に求むることは、決して独立を重んずる精神とは受取りがたい。君が僕の家に置いてくれと要求する意味は、雨あめ露つゆを防ぐの方法を与え、三度の食事を今後一年二年ないし五年十年とも寄きし食ょくさせよというのではないか。仮りに一年としてもこれを金銭に換算したら君に提供した旅費の何倍かに当たる。少額を受取れば独立を害し、多額を受ければ独立自じち重ょうの心を害さぬ理由は解しがたい﹂ と説いたそうである。使わるる者必ずしも独立を失わぬ
僕は決して先輩の家庭に寄食するをもって独立を失うしなえるものとは言わぬ。僕の家うちにも書生はいる。この人をもって独立なきものとは思わぬ。なんとなれば書生が家うちにいることは僕の便利であり楽しみであり、否いな必要であるゆえ頼んでも家に居おらしむる。書生もまた同じく思うゆえ、互いに申合せて同どう居きょするのである。動物学者の sシyンmバbイiオoシsスisと称する生活を同じゅうする共きょ棲うせ的いてき現象である。ゆえに置く人も独立を失わず、置かるる人も独立を失う訳はない。そこで役所に使わるる者も会社に働く者も、俸ほう給きゅうを受けるからとて、必ずしもそれだけで身の独立を失うものでない。また実際の手続きとしては被ひよ傭うし者ゃは志願し会社に入る。しかして志願すといえば一方よりのみ頼み、会社の恩恵のみを受けているように聞こゆるも、実は会社は世の有ゆう為いなる青年に向かって入ってくれと頼むようにも思われる、いわゆる需じゅ要ようと供きょ給うきゅうとの相互に応じ合ったことである。 かくのごとき場合には契けい約やくの両者が依然として独立の心を失わぬのである。また身は一見縛しばられているようであるが、一方の嫌いやというのを縛るのでなく、自由の契約である。自分の心に面白くなしとあればその契約を解とくことも出来る。役人も国家の命令により身を縛しばられるとは論ずるものの、あくまでも心の盲もう従じゅうを要求されない。いかに国家の命令とはいえ、役人にして国家の為す所に腑ふに落ちぬことがあれば、その命令を拒こばむことは出来なくとも、自分より進んで職を辞じすることは出来る。身は縛しばられても心は独立
凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたる虞おそれがある。先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえ擲なぐらるるままに恥はじを忍しのんで去った。今にしてこれを顧かえりみれば気の毒だと思う。さりとてまったく余の奴どれ隷いにならなかったのは、翌日相当の礼を述べ下げし宿ゅくを代えたからである。彼に転宿する余よゆ裕うありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます根こん性じょうが卑ひく屈つとなる。折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が堅けん固ごなりと思うあいだは随分勝かっ手てな口をきき、いつ辞やめても天下を濶かっ歩ぽする意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことを噂うわさするにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。 かくいったからとて人間の心の中に唯ゆい物ぶつ的拝はい金きん的卑ひく屈つなる根こん性じょうがあって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。五斗とま米いのために身を屈くっしても身を枉まげても、心はどこまでも直立独歩する者もある。むかし耶蘇教の弟で子しパウロは新しき宗教を奉じた咎とがをもって捕ほば縛くせられ笞むちうたれ、獄ごくに投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、傷きずだらけの体からだを縛しばられたまま、 ﹁我は実にみずから幸福なものと思う。願わくは殿下もこの繩なわを除いてはまったく我の如ごとくあられんことを﹂ といった。この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。 またむかし武たけ田だか勝つよ頼りが三みか河わの長なが篠しの城じょうを囲み、城中食しょく尽つきもはや旬じゅ日んじつを支え得なかった時、鳥とり居いす強ね右え衛も門んが万ばん苦くを冒おかして重囲を潜くぐり、徳とく川がわ家いえ康やすに見まみえて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍に擒とらえられ、城に向かい、援軍来きたらぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主しゅ公こうの大軍すでに出発したれば来らい援えん三日を出いでぬであろう、諸君努力せよと叫さけんだ。ために、身は乱らん刀とう雨う下かに寸断せられたが、心の独立はついに侵おかされなかった。一指しだも動かされぬほど縛しばられながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口を塞ふさぐごとはできぬ。いわんや彼の心を屈するにおいてをや。心の独立と誤解しやすき考え
ただ注意すべきはこの精神を誤解して扶ふ持ちをくれる人に背そむき、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりを発あばき、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。 孔こう子しも子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、隠かくすことが国家に危きが害いを与あたうるならいざ知らず、会社の内うち幕まくを語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。身は一定の国籍の下もとにありて、法ほう律りつの保護を受け、もって生命財産の安あん固こを保ちながら、その国の不ふた為めを謀はかるごときは、決して国民たる個人の独どく立りつ行こう為いといわれぬ。こんなことは売ばい国こく奴どの所しょ為いとして誰も卑いやしむ。それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、陰かげでかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を陳ちん述じゅつすべきである。 周しゅうの武ぶお王うが殷いんの紂ちゅ王うおうを伐うたんと出征したとき、民みな武ぶお王うの意を迎えたが、伯はく夷いし叔ゅく斉せいのみは独立行動に出いでて、武ぶお王うの馬を叩たたいて諫いさめた。左右の者ども両人を兵へいせんとした。すなわち輿よろ論んは伯はく夷いし叔ゅく斉せいを罪つみせんとした。このとき太たい公こう望ぼうは独特の意見を述べて、 ﹁此これ義ぎじ人んなり﹂ といって扶たすけて去らしめた。伯はく夷いし叔ゅく斉せいも太たい公こうも群衆に逆らった心の独立は好よみすべきであるが、もし二人の兄弟が武ぶお王うに反対して、密ひそかに出版物を播まき散らしたり、あるいは隠いんに徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実を曲まげて武ぶお王うや太たい公こうの政策やら人身を攻こう撃げきしたならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを乱らん臣しん賊ぞく子しと呼ぶであろう。なぜなれば、彼らの考えは輿よろ論んとは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることが判わかる。しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心に叶かなわぬ周しゅうの粟あわを食わずとて首しゅ陽よう山ざんに隠かくれ、歌を詠じて餓が死ししたところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。風俗習慣に逆らうは独立にあらず
なお心の独立と思い違いやすきことは風俗習慣に逆らいさえすれば心の独立を現すもののごとく思う一条である。通常の服より違った衣ころもを着れば、独特の人じん才さいにでもあるかのように思う人も少なくない。髪かみを長くしてみたり、赤い着物で外出したり、一本歯の下駄を履はいたりすることは、馬鹿でもやり得ることで、心の独立を崇あがめる値いはない。人が社会に住んでいるあいだは法律のほかに世俗の制裁を受けねばならぬ。もっとも世の要求することなら何でもこれに従えというではない。みずから反かえりみて縮なおからば千万人といえども、吾れ往いかんとの独立自じち重ょうの心は誰たれ人びとにもなくてはならぬけれども、いわばどちらでも好いことに角かど立だてて世俗に反抗するほどの要なきものが多い。風俗習慣の中には主義として争うに足らぬものがたくさんある。 佐さと藤う一斎さいの﹃言げん志し四録ろく﹄に曰いわく、 ﹁寛かん懐かい俗情に忤もとらざるは和わなり、立りっ脚きゃく俗情に墜おちざるは介かいなり﹂ と。この簡単なる一言をもってよく吾ごじ人んの世に対する関係を尽している。 心の独立を計るに身を世俗より去る必要はない。むしろ世に入り込んで独立の実を揚あぐべきこそ吾人も務めであれ。味わうべきは左の歌である。
山深く何かいほりを結ぶべき心の中に身はかくれけり
座禅 せば四条五条の橋の上ゆき来の人を深山木 と見て
[#改ページ]第十章 人生の成敗
米国南北戦争における名将
かねて米国に遊学していたころから、見物してみたいと思っておったいわゆる南サウ部ス地方に、四年前しばらく滞在し、かの南北戦争の舞台とも言うべき場所を視察し、また当時、事に当たった人々の子弟に交まじわって旧事を聞き、またなお今こん日にち戦争の傷きずの癒いえない情態を見て、種々なる感想を起こした。経済学者や社会学者・政治家・経世家の眼まなこをもって見たならば、学ぶべき廉かどが多々あろうと思う。しかし凡ぼん庸ようの眼をもって視察し、平凡の耳をもって歴史を聴く僕のことであるから、やかましい議論はしばらく措おいて、いささか個人的の教訓に資すべき事柄を談はなしたいと思う。 なかんずく僕の心を最も強く打ったものは、南軍の総司令官でありしリー︵R. E. Lee︶将軍の人格である。僕はこの人の名と性格とを青年時代より聞いて、彼の伝記を読む前に、すでに彼に対する敬愛の念が深かった。正しょ直うじきにいうと、僕はこの敗軍の将しょうに対する同情と敬愛の念は、彼かれの軍を敗り、彼をして軍門に降くだらしめたグラント将軍より、いっそう強く常に懐しく思っている。 彼が三十万の兵をもって、百万の兵に当たった古戦場に足を留め、彼の破れて北軍に降くだったのち、ほとんど名も無き田いな舎か中学の校長となって身を終ったその地方を巡回して、いよいよ同氏の人格の高朗なるを知って、いよいよ追つい慕ぼの念が深くなった。しかし今ここにリー将軍の伝記を述べる考えはない。僕は彼かれのいわゆる失敗せるに鑑かんがみて、そもそも失敗とはいかなるものであるかという事について、少しく感じたことを述べたい。彼は成せい敗はいよりも任務の遂行に力つとめた
歴史は彼をして失敗の人と命名する。みずからも敗軍の将たることを承認している。彼が前記の中学校の校長であったとき、不勉強な生徒を譴けん責せきする折があった。その節彼かれはこの青年に向かって、 ﹁君はもっと勉強しないと、やりそこなう︵fail︶から、大いに奮ふん発ぱつせんといかんぞ﹂ と言ったときに、この青年が、 ﹁将軍、あなたは、やりそこなった︵failure︶方かたではありませんか﹂ と答えた。これを聞いた将軍は、 ﹁君の言う通りだからわが輩のごとき経験を君にさせたくない﹂ と述べたという。この青年ははなはだ無礼な過かげ言んを述べたように見えるが、その実、将軍に対して同情と敬けい畏いの念を顕あらわす考えであったという。すなわちやりそこない、失敗なるものは、恥ずるものじゃありましょうが、あなたのごとき人でも、なお失敗は免まぬかれないではありませんかと言う意味であったという。どれほど深い考えをもって、この青年が自分の不勉強なることを言いわけする考えであったか判わからんが、とにかく世のいわゆる失敗なるものは、英雄にも聖人にも君子にも、免まぬかれ難きものであるという観かん念ねんは、彼の言葉の裏に顕あらわれている。リー将軍がこれしきの事が判わからぬではない。 ちかごろ出版になった有名なる文ぶん豪ごうページ︵W. H. Page︶氏のリーの伝記を見ると、幾いく度たびとなく戦場から、あるいは南みな方みがたのときの連邦大統領あるいは夫人に送った手紙の内に、 ﹁今まではとにかくに敗はいも取らずに来たが、次の戦いはどうであるか、数すうより推おせば、我が軍はとうてい北軍に比し難がたい。また兵へい站たんを考えれば、二ふつ日か以後の食糧は、どこに求むべきか当てもつかず、冬が近づくが、兵士に靴くつのなき者が数千人、この秋風を凌しのぐに毛布なき者が数万人である。しかし軍いくさの成せい敗はいは天に在ある。かくのごとく我々が苦しむのは、己おのれの求めて成なす事にあらざる以上は、何事か天意のある事ならん。天てん父ぷの慈愛に頼よって、各自の任務に忠実なるより為すべき事はない﹂ と言う口調を洩もらすことがしばしばであった。彼の考えには成と敗の区別が明らかでなかったように思われる。彼の心には勝負の考えがはなはだ弱かったごとくに思われる。ただ己おのれの義務と思うことを為した以上は、勝とうが負けようが、己おのれの関するところでないとの考えが充みちていたように思われる。 我が南なん洲しゅ翁うおうもややおなじ境遇にあるの時、同じ意志を吐と露ろした。翁が田たば原るざ坂かの戦いのころ、大おお山やま県けん令れいに寄せた書しょ翰かんに曰いわく、 ﹁もはや時勢も此ここに至り候そうろうてはさらに言語口こう舌ぜつをもって是ぜひ非きょ曲くち直ょくを争い難がたければ、腕力のほかこれなかるべし。しかし天下の事は成敗利りど鈍んをもって相あい判はんじ候そうろう訳わけにはこれなく、小生は正をもって起こり、正をもって斃たおるること始めよりの目的に候そうろう。ワシントン、那な波お翁う云うん々ぬんは中なか々なか小生輩はいの事にあらず、万まん一不ふこ幸う相あい破やぶれ屍かばねを原野に曝さらし藤ふじ原わら広のひ嗣ろつぐ等らとその品ひん評ぴょうを同じゅうするも足あし利かが尊たか氏うじと成るを望まざるなり﹂義務を完まっとうするところに成功あり
この思想はただ戦いくさのみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗を免まぬかれるためには、いかなる事をも憚はばからない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名めい利りである。この成功あるいは具体的に言えば名利を貴とうとぶの結果として、人格を測はかるにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、 ﹁あの人は近ごろたいそう成功しました﹂ という。 ﹁どう成功しましたか﹂ と押し返すと、 ﹁大だい分ぶ金かねが出来ました﹂ とか、 ﹁近ごろ大だい分ぶ名が聞こえて来ました﹂ という。 僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物を測はかる標準は、事業にあると言われた。この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に這は入いれば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、 ﹁うまくやった奴やつが偉えらい奴やつ﹂ ということになり了おわる。僕は決して名めい利りが悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒こばむべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀きずつけたり、また己おのれの本心に背そむいて得るものと、天より降くだる露つゆのごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己おのれの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓とん着じゃくすべきものではなかろう。真の成功なるものは、己おのれの本心に背そむかず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠おこたるにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解わかるものでない。リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。古人の教えたことにも富ふう貴き名めい誉よを必ずしも避さけない、その代りことさら迎むかえもしない。 ﹁富ふう貴き名めい誉よ、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ舒じょ徐じょ繁はん衍えん、功業より来たるものは盆ぼん中こうちゅうの花の如く、便たちまち遷せん徙し廃はい興こうあり。若し権力をもって得たるものは、瓶へい鉢はつ中ちゅうの花の如く、その根ね植うえず、その萎しぼむこと立って待つべし﹂ギリシアのソクラテスを見よ
むかしギリシアの哲学者ソクラテスのもとに、ある兇きょ漢うかんが来て、さんざん悪口を言って帰った。かたわらに聞いておった門弟が、哲学者に向かって、 ﹁先生あいつ奴め、いかにも憎にくい奴やつでございます﹂ といったときに、哲学者は泰たい然ぜんとして、 ﹁なぜにくい﹂といったら、 ﹁あんなに先生を恥ずかしめたのがにくい﹂ といった。彼は笑いながら、 ﹁お前は少し考え違いをしている。彼はわが輩を恥ずかしめた考えかも知れないが、俺おれはちっとも恥ずかしめられたとは思わない。自分が恥でも受けたような顔をしとったかね﹂ と答えたという。失敗もその通り、世の中で何なに某がしが大いに失敗したと四面めん楚そ歌かの声が聞こえても、本ほんの当人はどこを風が吹くかという顔をしていることがたまさかある。二千四百年前に、ソクラテスがアテネの裁判所に召しょ喚うかんせられ、有罪の宣告を受けて、獄ごく屋やに投ぜられたときには、アテネの者が皆々嘲あざけり笑って、とうとうあのおしゃべり爺じじいも、あの年になって、本ほん性しょう露見して畳たたみの上でくたばりそこなったわい、と評判を立てて、もし当時アテネに新聞があったものなら、いかに当時の記者が論説やら雑ざっ報ぽうに忙しく彼かれの罪状を書き立て、彼がその日まで口に唱えた教訓はまったく偽ぎぜ善んであったとか、彼の純潔なる素行はたくみに人を欺あざむくの方法であって、その実、彼がかくのごとき事もしたであろう、ああいう事もしたと、ありとあらゆる捏ねつ造ぞう説を書き立てたであろう。 基キリ督ストがゴルゴタの山上で、かの非ひめ命いの最期を遂とげたごときも、世せじ人んは、あの男もとうとう尻しっ尾ぽを現して、あのざまの死に方をしたとか、表向きには君くん子しが顔おをしておっても、蔭かげではだいぶ不ふし仕ま末つの事があったそうだ、社会主義も唱えたそうだ、某婦人と仲がよかったそうだ、謀むほ叛んの目もく論ろ見みさえしたそうだ、始しじ終ゅう下等な女や悪党の仲間につき合っておったそうだ、折々は魔法みたいな事をして愚ぐみ民んを驚かしたそうだ、始終猫ねこ撫なで声ごえをして女おん子なこ供どもを手なずけたそうだなど、その他あらゆる悪口をもって、彼は見事に失敗したなどといったであろう。いずくんぞ知らん敗まけたと思った人が最後の勝利者たることを。 負まけて退ひく人を弱しと思ふなよ智ち恵ゑの力の強き故ゆゑなり成敗は世人の眼に見えぬ
その他歴史に現れて失敗した人で、その実みずからは失敗せぬと思った人もたくさんあろう。成せい敗はいは実に世の眼には見えないものである。如いか何んとなれば当人の標準とする事と、世の標準とする事とたいそう違う。たとえば僕が朝起きて今日は天気もよいし、気分もいいから、一奮ふん発ぱつして十里先へ遠足する、とこう心の内に十里塚づかを目的として出発する。夕刻に目的地に達すれば、これすなわち僕が成功したのである。自分の心に期しただけの事を遂とげたのである。 しかるに世間はこれを見て成功と言うか言わぬか。世間ではこれをもって失敗と笑う人もある、また成功と褒ほむる人もある。しかして褒ほめる人のうちにもこれを僕と同じような考えをもって、まあまあ思っただけのことをやったと、平へい易いにいわばあたり前に考える人は少なかろう。如いか何んとなれば僕のその日の心持ちを知らんから、その日ことさら気分がよかった、天気が清朗であったなどということは考かんがえの内に入れてくれぬから、同じく成功とみなしても、僕が思う程度に成功と思ってくれる人ははなはだ少ない。 しかるに時には十里歩いたことをもって、非常なる成功と思って、僕は何か世に偉えらい奴やつであったごとくに賞賛する人もあろう。かくのごとき人は日ひごろ僕が歩き不ぶし精ょうであるから、一里行くのも珍めずらしいのに十里歩いたのはエライとほめる。しからざれば自分らが足が弱くてなかなか十里の道を遠しとしている連中ならば、これまたわが輩を誉ほめるであろう。そうでなければ、わが輩が歩いた道のことを詳くわしく知らぬ人が、よその人から聞いて、この道は非常に悪路である、嶮けん岨そだとか、危険の多い道だとか信じている人は、わずか十里ながらもえらいところを行ったと思って、わが輩は非常なる成功をしたごとく思う人がある。しかるに実際は平へい坦たんな道を、荷物もなく折々休みながら、鼻はな唄うたうたって通ったに過ぎぬ。 しかるに世人の多くは十里歩いた人の話を聞いて成功とはなかなか言わない。まず第一に十里ぐらいはなんだと嘲あざけりを心に催もよおす。この種類の人も僕が出しゅ立ったつするときに、今日は十里の散歩をしようと、心に定めたことを度外視してわが輩の遠足を測はかる。して十里の道ならば子供でもゆける、車くる引まひきなどは一日に三十里もゆく、普通の人間でもせめて二十里も歩かなければ、健脚を誇る権利はないなどという。わが輩は車くる引まひきでもなく、また健脚を誇る考えのないことなどは心のうちにおかない。 古人の言に、 ﹁燕えん雀じゃく安いずくんぞ鴻こう鵠こくの志こころざしを知らんや﹂ とて、小しょ人うじんが英雄の心事を解し得ぬに譬たとえたが、この句は独ひとり人物の大小の差を示すのみにあらで、小しょ人うじんと小人の間にも、大だい人じんと大人との間にも当たる言である。輿よろ論んを標準として成敗は測られぬ
リー将軍の治ちせ績きを顧みても、これに変わったことはない。彼に私しし淑ゅくする者は、彼の寡かをもって北方の衆に敵し得たとか、南軍の貧ひんをもって北軍の富とみに当たった、某ぼう戦場においては某将軍を破った、某ぼう月げつ某ぼう日じつには某所において漲みなぎる流れを冒おかして川越えをなしたとか、その他かくのごとき逸いつ事じがある、かくのごとき軍功があると、言を極めて彼の徳と彼の力を称しょ揚うようする。これらの賛辞が将軍の耳に入ったときは、十里歩いてほめられる僕の感とさらに変わった事はなかったろう。 またこれに反しなにゆえに彼が某戦場において、某将軍を某地に向けなかったか、なにゆえに某月某日に、北方軍を某地において衝つかなかったか、なにゆえに彼は某所の包ほう囲いの時に、かくかくの作戦をしなかったかと、岡おか目めは八ちも目くや、あとから出る下げ司す知ち恵えを振りまわして、彼を非難する声がさかんになった時は、彼かれの心に起こった考えは、恐らく僕が十里以上の遠足をしなかったと非難されると同じことであったろう。 世を渡るにはまったく輿よろ論んを無視するわけにはいかぬけれども、世せじ人んの考えをのみ標準として成敗を測はかることは、はなはだはかなき業わざである。勝つも敗くるも、失敗するも成功するも、その基もとは各自の心のうちに置いてこそ、真の成敗の味わいが分かるものである。成敗を慮おもんぱかるには立脚の地歩によりてどうとも考え得らるる場合が多い。これはしまったと思うことも静かに見つめ、自己の心に顧みて悪意なきを悟さとれば、いわゆる失敗は恥ずかしくもなければ、痛くもないことがしばしばある。自己の心の据すえどころこそ成敗を測はかる尺しゃ度くどであって、この尺度が曲まがらぬ以上は、いかなる失敗に遭そう遇ぐうしても心に憂うれうることがない、これ霊れい丹たん一粒りゅう、鉄を点てんじて金きんと成すものか。 ﹇#改ページ﹈第十一章 人生の決勝点
負けた時の用心
昔の、経験ある武士の言葉に、 ﹁勝つ事ばかり知りて負まくる事を知らざれば、害その身にいたる﹂ とある。戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に背そむく事あるときはかくかくすると予あらかじめ覚悟なくてはならぬ。連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦せん役えきにはあり得ない。そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。孫そん子しも、 ﹁兵に常じょ勢うせいなきことは、水に常の形かたちなきが如ごとし﹂ と繰くり返かえし教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。みずから手を下して自己の生命を短みじこうするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。何なん人ぴとも生命の長きを望む。しかしてこの望みの存する限り、人生の奮ふん闘とうもまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間は予あらかじめ負けた時の考かんがえを用意して置かねばならぬ。この考えある者は勝った時はなお慎つつしみて油断なく、負けた時にもみすぼらしい風ふぜ情いに陥おちいらぬ。勝った時には精神上に保険をつけよ
分かりやすく例を取りてみれば、商戦に従事する者はもくろみ通りに成功し、いわゆるトントン拍びょ子うしに身しん代だいをふやし、または営業を拡張することあるも、これは決していつまでもつづくものではない。よいほどに儲もうけてやめぬ以上は必ず営業上の困難を来たす時節の来ることは、何なん人ぴとも知るところである。艱かん難なんなしに成功した例はない。艱難とはある意味においては失敗である。もちろん全然の失敗ならなくとも、勝敗の怪しき謂いいである。ゆえにさかんに繁昌するとき、万一の場合を慮おもんぱかりてあるいは貯ちょ蓄ちくするなり、あるいは新事業に手を出すことを慎つつしむなり、あるいは繁昌に乗じょうじて驕きょ奢うしゃを極むることを矯ためたりすれば、不幸にして利あらぬ事ありとするも、右のごとき謹きん慎しんを加えなかった者に比すれば失態を演ずることが少ない。これは我々が社会を見ても、あるいは各自の友人の履りれ歴きに徴ちょうしても、必ずその例に乏とぼしからざるを感ずる。 勝てるあいだに負けた時の準備をすることは商事会社が準備金を積み立てるか、あるいは個人が火災なり、生命なりを保険するようなもので、勝ちつつある時に、﹁待てよ﹂と一歩を控ひかえることは、わが輩はこれを精神上の保険と名づけたい。勝つとは何を意味するか
勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。勝つとはなにかと尋たずぬると、おそらく世せじ人んは奇怪なる質問と思うであろう。勝負ほど明めい瞭りょうなものはないと思う人が世に多い。しかし相すも撲うを見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。また多年審判の任に当たれる行ぎょ司うじさえも判定を下すに苦しむことがある。まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。世せじ人んが決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが間ま々まある。 中には為ためにするところあって、人じん為いて的き形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。たとえば相すも撲うのごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは天てん然ねんに定まれる一定不ふえ易きの圏けんでなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。﹁鳳おおとり﹂と﹁朝あさ潮しお﹂とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいは地ところを換えることもあるであろう。 むかし淮わい陰いんの少年が韓かん信しんを侮あなどり韓信をして袴こ下かを匍ほふ伏くせしめたことがある。市まちの人は皆韓かん信しんの怯きょ懦うだにして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得とく々とくとしたであろう。しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓かん信しんの名を知らぬ者が果たしてあるか。
負けて勝 つ智恵 の力 の強 さにはたれも感心するぞ韓信
わが輩はしばしば思う、
負けて勝つ心を知れや首引 きのかちたる人の仆 るゝを見よ
ジャンケンで勝負を決するのも同様である。石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人に質ただせば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつ固かたいから、石が紙に勝つというであろう。
して見れば、勝つという語の定てい義ぎを下すことは至難であるが、普通の考えでは他人に優まさる、相手より超すぐ絶れるの意であろう。さらばただただ人ひとより偉いと嬉うれしがるために勝つかと問とわば、決して偉えらがるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。しからば勝つとは吾わが意を遂とげるなりと定義したい。
人生の勝利者
こんなもので世の中でいわゆる勝しょ負うぶを測はかる標準は、人の実力や努どり力ょくの標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮ふん闘とうのありさまを見れば、定めて可お笑かしきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準から測はかったならば、最も卑いやしむべきものとなりはせぬか。耶や蘇そがその弟で子しに説いた言葉に、 ﹁地ちじ上ょうにありて最大たりしものも、天てん国ごくにありては恐らくは最小なるものならん﹂ と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝しょ敗うはいを定める標準が追おい々おい違って来るかと思われる。 この前にも述べたごとく野やば蛮んの社会においては腕わん力りょくある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の秩ちつ序じょの下もとに治おさめられ、腕力のみをもって優劣を定めることを止やめて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち法ほう治ちこ国くにおいては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく図はかるものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到とう達たつしたならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番偉えらい勝者である。また同じく敵てきと称する者の中にも種類が数あま多たある。強きもあれば弱きもある。赤あか鬼おにもいれば青あお鬼おにもおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番偉えらい勝者である。時には敵とは称せずとも吾ごじ人んの勝つべき相手もある。それは親兄弟、妻さい子し、朋ほう友ゆうのごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に服ふくさぬことがあれば、その不ふふ服くの範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。楠くす正のき成まさしげの歌に、
とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。
一時の勝利と永久の勝利
こういう礼れい治ちて的き社会は、まだまだ前途遼りょ遠うえんなる今日の社会においては、勝利を得れば足れりと思う人も、単にいわゆる現代的なるをもって足れりとせば、これ一時の勝利者にして、ながき奮闘には負けるものと言わねばならぬ。なんとなれば世の中の思想は、我々一生しょ涯うがい中にも次第に変わるものである。ことに我が国のごときは十年を一期きとし、おそらくは七、八年中には、思想が一変しつつあるかと思わるるほどに変化が多い。昨日の非ひは今日の是ぜとなり、昨年の是ぜは今年の非ひとなることは、内閣の更こう迭てつごとに起こる事実に照らしても分かるくらいである。 またいわゆる思想に用いらるる用語を調べてみても、五年後には字じし書ょに現れなかったことが、こんにち日々の新聞に見ることを考えれば、今後五年にはいかなる新しん熟じゅ字くじ、新思想が世に行わるるかは想そう像ぞう出来ぬ。よし新熟語が必ずしも新思想を表さなくとも、旧思想が復ふっ活かつすることであるとするも、一たび死んだ思想が再び蘇そせ生いし来たりて人心を動かすのであることは明らかである。勝敗は長年月を経て始めて決定す
僕はつねに失望する人を慰なぐさめんとするとき、あるいは自みずから失望し落らく胆たんせんとするとき、みずから励まして、﹁マア十年待て﹂といっている。ついこの間もしばらく会あわなかった友人が来らい訪ほうし、こういうことをいった。 ﹁僕の友人で一時世にもて囃はやされ、名めい望ぼう一時に高まったものがある。僕は友人にそれを喜んだとき、なるほど僕を褒ほめる声があちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達したのであろう。二、三ヵ月経たてばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には犯はん罪ざい者しゃのごとき批ひひ評ょうを受けるであろう。しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。そのサイクル︵循じゅ環んか期んき︶は十年は出ない。七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五ヵ年になるが、彼のいったごとき傾けい向こうが現れんとしつつある﹂ と。これは尋じん常じょうの人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。もし非常の人物であるならば、彼に対する誤ごか解いも五年七年では済すむまい。あるいは百年二百年もつづくであろうし、また真価の充分に認めらるるには百年二百年を要することであろう。富ふじ士さ山んの測そく量りょうはいまだ綿めん密みつに出来ていないごとく、大人物であればあるほど、その高さも大きさも容よう易いに凡ぼん人じんの見分け得るものでない。 普通の人についてもその真価は即そく座ざに決することは出来ぬ。まずは七、八年はかかる。むかしの人のいったごとく人生は棺かんを覆おおうて始めて定まるものである。しかして勝敗も人の真価で計るべきものである。真の力ある人はいやゆる投げられても負けぬ。真の力がより以上の真の力のために圧あっ迫ぱくされて始めて負けたということになる。その時々に行わるる標準をもって勝敗を定むることはほんの一時的で、市中の屠とし者ゃが韓かん信しんに勝ったといって得とく々とくたると同じである。標準高き勝利
かく思うと負けたことを遺いか憾んとするははなはだ愚ぐなりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人じん為いて的き、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷きずつけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを招まねくことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快こころよしとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には善よかれ悪あしかれ、金さえ儲もうければ勝利者と思う風ふうがある。 今日普通に成功者と称する輩やからの中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗はい北ぼく者しゃと称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を妬ねたんで皮ひに肉くを吐はく考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能よくせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得えそ損こなった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを避さくるため心ならずも、標ひょ準うじゅんの決勝点を引下げ、潔いさぎよからずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝かち鬨どきを挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不ふほ本ん意いとするにいたる。しかし誰たれ人びとが不正の名めい利りを抱かかえて、心のうちに満足を覚ゆるか。世せじ人んに向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧かえりみてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて獲えた名利すなわち勝利は、己おのれの本当の心に背そむいているに違いない。 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂とぐるの謂いいであるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。勝敗の決勝点を高きに置け
わが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金を儲もうけるのも儲ける道を純白にし、卑ひき怯ょうな方法にて儲くれば、これ奮ふん闘とうの敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏ふみ台だいとしたり甚だしきは友人までも売って位地を占しめんとしたら、これまた勝利にあらずして敗はい北ぼくなりと心ここ得ろえ、よし名を挙げるにしても、卑ひれ劣つな賤いやしき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同どう僚りょう友人が潔いさぎよからざる手しゅ段だんを弄ろうして巨万の富を積み、高位に上るとも、また名めい声せいを海外に轟とどろかすとも、さらに恨うらむにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑ひ下げして小さくなる必要もない。 物質的利益に超ちょ脱うだつし、名誉、地位、得とく喪そうの上に優ゆう游ゆうするを得ば、世間に行わるる勝敗は児じ戯ぎに等ひとしきものとなる。真の勝利者は第一己おのれなる者を全然破り、己れに克かち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝しょ敗うはいなどのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗はい北ぼくのために歎なげかず、心つねに平々坦たん々たんとして、定めし幸福なることであろう。 孔こう子しのいわゆる、 ﹁君くん子しは坦たいらかにして蕩とう々とうたり、小しょ人うじんは長とこしなえに戚せき々せきたり﹂ とはこの心をいうならん。これで基キリ督ストは磔はりつけになりながら、 ﹁われ世よに勝かてり﹂ と叫んだ心をも幾分か理解し得る。 ﹇#改ページ﹈第十二章 人生表裏の判断
表と裏とは物の存そん立りつ条件
人生の言葉はとかく相対的になる。たとえ思想は絶対的であっても、これを言葉に発するときには、思想の上も下も、前も後も、表おもても裏うらも、ことごとく同時に言い現すことは出来ぬ。それゆえに口こう外がいに放はなつ言語が、胸中で考えることと正反対の意味にとられることも間ま々まある。私は花が好きですといっても、聞く人によりてはこれを悪意に解し、華美を好むという印いん象しょうを受けるものもあり、はなはだしきは物ものいう花と早はや合がて点んする人さえある。言葉尻じりを捉とらえたり揚あげ足あしを取る人ならば、花を好むというは、﹁戊ぼし申んし詔ょう書しょ﹂の華かを去り実じつに就つくというご趣旨に反そむく、違いち勅ょくの逆ぎゃ臣くしんなりなどいうこともあろう。世の中には実際この筆ひっ法ぽうをもって人を罪つみせんとするものがたくさんある。 また普通に甘あま党とうといえばいわゆる下げ戸こを指し、酒を好まぬことを意味するのであるが、実際社会においては両刀遣づかいする人もあり、甘党であると同時にまた酒を呑む、上じょ戸うご下げ戸こを兼ぬる人は決して少なくない。こういう例を挙ぐれば限りなきも、僕のここに述べたき要点は、人がある言葉を用うれば、ただちにその反対の意味を排除するものでないことを説くのである。 およそいかなる物でも物として表ひょ裏うりなきものはあるまい。いかに薄うすき平面にても苟いやしくも実物である以上は必ず表と裏とがある。表裏なき表面は、ただ幾きか何が学く上に現れた理想的の形たるにとどまる。幾何学上に称する点や線などは大きさなきものと説いてあるが、しかし針の尖さきでさえも一分ぶ一厘りんの何なん分ぶんの一というように必ず量はかり得る大きさを有するものである。線にしてもまた長さのみありて巾はばなしというは、幾何学上の理想たるにとどまり、実際目に見ゆるものであれば、必ず計り得るものである。ましてある面積を有する平面を備そなうるものは必ず両面がある。雁がん皮ぴ紙しのごとき薄うすい紙でも表裏はある。綿わた衣いれ、袷あわせはいうまでもなく、単ひと衣えさえも表裏がある。独り衣服のみに限らず一家においても表もあれば裏もある。人体においても表と裏とがあって脊せと胸とになっている。ゆえに表裏はあらゆる物の存立の必要条件なることは、あたかもなにごとにも内外の区別あると同然であって、むかしの人はなにものによらず必ず陰陽の二様に考えたると同じであると思う。表裏に善悪の区別を付する誤解
しかるに表ひょ裏うりという言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉とらわれ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是ぜ非ひ、曲きょ直くちょく、善ぜん悪あくの区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤あやまることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢きたない物なり悪き物なりを隠いん蔽ぺいしてあるものとみなす。また陽ようといえばよかれ陰いんといえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰いん陽ようの差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。 実じっ際さい世せけ間んの慣ならわしとしてはいかにも表おも門てもんをりっぱにし裏うら門もんを粗そま末つにする。表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が偽ぎく君ん子しなりと判断するは酷こくに過ぎたる批評である。表門と裏門とに区別を設もうくるは世の風俗である。ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。 表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。否いな区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。日ひ々び得意先を回る魚さか屋なや、八や百お屋や、豆とう腐ふ屋やの人々の中に裏門を通用する際、かく粗そま末つなる木き戸どをくぐらすは我々を侮ぶじ辱ょくするなりと憤いきどおる民主主義の人もあるまい。またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん毫ごう末まつもない。むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。板はん台だいを担にない笊ざるを携たずさえて出入する者が一々門番に誰すい何かされ、あるいは門を出入するごとに鄭てい重ちょうに挨あい拶さつされるようになれば、商売は煩うるさくなりはせぬか。むしろ彼らの便利を標準とすれば簡かん便べんなる裏門を設もうけ、面めん倒どうな礼を省はぶくのが相互の便利とするのではあるまいか。人生に表裏あるはむしろ当然
人間の生計あるいは生活あるいは品ひん行こうにおいていわゆる表ひょ裏うり︵ことにいわゆるなる文字を使うことに注意を促うながしたい︶あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを奨しょ励うれいせんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と非ひな難んする中には、往おう々おうにして非難に値あたいせぬものがある。むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば塩しお物ものと香こうの物ぐらいで済すまされるが、突然の来客でもあれば、急に刺さし身みとか茶ちゃ碗わん蒸むしとかを注文する。これは生計上の表裏ではないか。 また家庭にありて一家団だん欒らんしている際は、寒ければ綿どて袍らを着ても用が足り、主人も気きら楽くなれば細さい君くんも衣服の節せっ倹けんなりと喜ぶが、ふと客があれば急に紋もん付つきに取替える。これも生活上における表裏の一つではないか。かく時に応じてその態たい度どを改むることは、強しいて偽ぎく君ん子しの行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに綿どて袍らを着て行き、夏の日に真まっ裸ぱだかで行くものはあるまい。かくのごときは物に表裏あることを弁わきまえぬので、かえって世の秩ちつ序じょを紊みだすものである。 世にはとかく、天てん真しん爛らん漫まんなどと称し、世に行わるる作さほ法うに反するをもって快こころよしとするものがある。かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を振ふる舞まって得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提に捉とらわれたるより起こる誤解であって、幽ゆう明めいの区別を論ずる者が、幽ゆうとか暗あんとか称すれば、それだけで悪感をいだき、明めいといえばそれだけで善良と信ずるに等ひとしい。しかし暗夜は暗夜の徳あって、孟もう子しのいわゆる﹁夜や気き﹂は暗黒の賜たまものである。古いにしえの学者の言に、﹁好こう悪あくの良りょうは夜や気きに萠きざす﹂と。人の性質上の表裏
しからば表おもては礼れい儀ぎ、裏うらは礼を省はぶいた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。聖せい賢けんと言わるる人は家にありて、言葉遣いも苟いやしくもせず、﹁男女七歳にして席せきを同おなじゅうせず﹂の主義で、七歳以上は自分の娘むすめでも同座せず、しかして早朝より裃かみしもをつけて四角四面に端座しているか。かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に不ふび憫んなものであり、また父たるその人もゆるりと寛くつろぐ場所も時間もなく、さなきだに重おも荷にを荷になう人生において、かかる態度は重おも荷にの上にがらくた荷を一層積むようなものである。礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は無ぶれ礼い不ふ儀ぎなりとは言われぬ。裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。 人の性質においてもまた同じような表裏がある。しかしてこの人となりの表裏は、他の事こと柄がらと異って、一も二もなく卑いやしきもののように思われる。あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、あてにならぬ偽ぎく君ん子しなりと解せられる。これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。 我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。たとえば無ぶこ骨つ一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して追おい分わけを唄うたう、これも一つの表裏ではあるまいか。また髯ひげもやもやの鹿しか爪つめらしき爺おやじが娘の結婚の席上で舞を舞いて祝いわうことがある。無ぶこ骨つ一偏の者が測はからぬ時に優やさしき歌を詠うたうとか、石いし部べき金んき吉ちと思われた者に艶えん聞ぶんがあるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。しかしこれあるは決して矛むじ盾ゅんでない、あるこそ当然である。またこれあるところに人生の興味が深いのである。すなわちある意味においてこの類の表裏ならば奨しょ励うれいしたいくらいなものである。悪い意味における表裏
我々が各自の友人を一人ずつ挙げて考えたならすぐに両面あることを悟るであろうと思う。表と裏とは思想上においては反対と思われるも、実際においては同一物なりともいえる。反対と思えば表のなすことを裏で取消したり、裏の性質を表で消したり、相互に利益を異ことにするように聞こゆれども、そういうように意味を取ると、とかく性質が悪あしざまになりて、表向きでは一滴てきの酒を飲まぬと言いながら、裏面ではこっそりとちびちび飲む。外では勉べん強きょうに見せて内では怠なまける。表向きではすこぶる謹きん厳げんの風ふうを装いながら、裏面ではすこぶる放ほう蕩とうする。あるいはまた表面節せっ倹けんで裏面濫らん費ぴする。 こういう意味において表裏の差を生ずるはもちろん望ましからぬことで、いわゆる狼おおかみが羊ひつじの皮を被かぶるがごときもの、俗にいう猫ねこを被かぶるのである。これは前にいった一家に表門と裏門とある例とは事情を異ことにしている。つまり身分不ふそ相うお応うに力を表門に注そそぎて美びれ麗い宏こう壮そうに築き上げ、人目を驚かし、しかして裏門は柱が曲り、戸が朽くち、満足に開閉することも出来ず、出入りにも危きけ険んならしむるがごときものである。これでは裏門においてかえって人に迷めい惑わくを与うるものである。表門にのみかく力を用うることは悪い意味における表裏といわねばならぬ。 近ごろ我が国民全体が激げき昂こうしたことは、表向きでは愛国を口にし、一身の名利などは毫ごうも眼中にない、否いなむしろ名利を犠ぎせ牲いに供して国防の充実を計るという看板をかけた人が、裏面においてはこれによりて窃ひそかに私腹を肥こやすことがあったからである。かくのごとき事こそ悪い意味における表裏の最もはなはだしいものである。 またある党派のために一身を捧ささげるようなことを外部に標ひょ榜うぼうしながら、内部においてはひそかにを反対の党派に通ずることがあれば、これまた悪い意味における表裏のはなはだしきものである。こういうような実際矛むじ盾ゅんしている表裏的の事柄と、個人々々の性格なりあるいは生計なりにおけるいわゆる矛盾とは、よくこれを判別しなければ、人を判断するにおいて正せい鵠こうを失し、混乱を免まぬかれぬ。表裏の善悪を判断する標準
しからば表裏という文字を仮りに用うるとして、善き意味の表裏と、悪き意味――というのが過言であるならば、少なくとも自然的表裏とは、何を標準として区別すべきか。僕はこれは表裏を備そなうる人の意志によるものであると思う。僕のここにいう意志とは天てん性せいというにあい対して用いたのである。ただ堅かたい一方と思えるものが案外弱いところもあるというのは天てん性せい両面を備うるのである。もしこの同じ人が自己のやわらかいことを仮りに他人を欺あざむかんがために隠かくし、すなわち悪意をもって硬こう骨こつを衒てらったならば、これ悪い意味における表裏の初段である。 しかしもしこの人が己おのれの弱点を制せんとする意志に基づいて、これを隠かくしあるいは包むとすれば、さほどに咎とがむべきことではないと思う。むしろ場合によりては褒ほむべきで、消しょ極うき的ょく修てき養しゅうようの努どり力ょくであると思う。元がん来らい普通の人はすべて幾分かの弱じゃ点くてんを備うるものである。この弱点に打ち克かたんか、あるいはこれを包つつまんとするは、むしろ褒ほむべき努力であって、その人が果たして包みきれるか制しきれるかは別問題とし、ともかく己おのれの弱点を意識し、ために過失に陥おちいらざらんと心づくことは諒りょうとすべきことである。こういう目的であれば、表裏があっても、たいして咎とがむべき必要なきも、一歩を進めて、裏面あるのに、なきがごとくして相手を欺あざむくの意志あれば、悪い意味における表裏の罪の成立する時である。 しかしその当人が果たして欺あざむく意志であるかどうかは容よう易いに判断の出来るものでない。とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時案あん外がいの驚きに打たれて、その人が故こ意いに我を欺あざむけりと判断することがある。しかるに冷静にこれを考えると、欺あざむかんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが落おち度どで、彼はことさらに隠かくしもせねば包んでもいなかったが、吾ごじ人んがそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。人の衣服を見ても、裏をつぎはぎしているものもある。着ている人は裏につぎはぎしていると吹ふい聴ちょうすることもなく、また他人にそう思わせようとも力つとめず、自分の着物の裏は間に合せものである。おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表に優まさる裏をつけているだろうと推すい量りょうし、ことさら尋たずねもせずに独り合がて点んしている間まに、真相を始めて見て、彼は長日月間我々を欺あざむいた、表裏のはなはだしい奴やつだと詈ののしる者を多く見る。先方が欺あざむいたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。ゆえに一ひと口くちにいえば悪い意味における裏面の有う無むを判断する者は当とう事じし者ゃ一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。 近ごろ世間に海軍とやら本ほん願がん寺じとやら何なに々なに党とうとやらに関して、種しゅ々じゅ面おも白しろからざる表裏ばなしを聞くが、罪つみは悪にくむべきも、その関係者の人については、慈じ悲ひの心をもって当たりたい。いわんや吾ごじ人んは平へい素そ交まじわる人々について、図はからざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにも表おもてと裏うらと、外そとと内うちと、皮かわと肉にくとの別あるを心得ておきたい。 ﹇#改ページ﹈第十三章 広く世を渡る心がけ
好き嫌きらいと善悪とは違う
子供が事こと柄がらについて判断を下すを見るに、事の曲きょ直くちょく、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好き嫌きらいという立場から判断する。また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。﹁もちろん悪いとは知っていますが、どういう因いん果がでありますか、これが私の嗜たしなみです﹂ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し遠えん慮りょ斟しん酌しゃくする言葉に過ぎぬのである。 ﹁何なんの因いん果がで﹂とか、﹁前ぜん世せの約束﹂とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、己おのれの嫌きらうものこそ善ぜんである、またその順序を顛てん倒とうして善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の主しゅ観かん的てき作さよ用うと事じぶ物つの客きゃ観っかん的価か値ちと一致しないゆえである。この傾けい向こうは決して独ひとり婦人子供のみに限らない。大おと人なにもあり、しかも学者または識しき者しゃにもあることである。自然といえばそれだけで済すむようなものの、ややもすればこれがために人を害し、また己おのれをも傷つける危険がはなはだ多い。 婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を来きたす憂うれいはない。ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を経へたり、あるいは若い者でも少し思しり慮ょを深く用うる者であれば、この過あやまちに陥おちいることは少ない。必ずしも、世間通りに従う理由はない。もしなにもかも唯いい々だく諾だ々くと、世の風ふう潮ちょうによるならば、進歩することはなくなる。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推おし遷うつるのが、自分のためかつ世間のためであろう。すなわち社会の安あん寧ねいはそれで持って行く。
世の中の人に心を合せけん水と魚 とを見るにつけても
しかるに何事についても消極的に世に
世の中が四尺 五寸 になりにけり五尺のからだ置き所なし
と嘆なげくにいたるであろう。
好すき嫌きらいで人を判断する過か誤ご
刺さし身みの嫌きらいな者は医師よりいかに刺さし身みの消化よきこと、滋じよ養うぶ分んの多きことを説かれても、何とかけちをつけて毒でもあるかのごとくけなす。これに反し酒の好きな者は医師がいかにその害を説くも、百薬の長ちょうなりと頑がん張ばって聴かぬものが多い。心の好すき嫌きらいと物の善悪を混こん同どうする者は実際を見る明めいを失うしなう。 ﹁凝こっては思案に及ばず﹂というが、なにか一つを好むと、その好きなものの長所のみが映うつって短所は目に入らぬ。この好き嫌いをもって物を判断する標準にすると、とかく曲きょ直くちょくの分ふん別べつができなくなり、つまらぬことに争い、大きなことにも争いを起こす。はなはだしきは政治の問題についても有力なる某ぼう政治家は嫌いだと思えば、その人の政見がいかに正しくともこれを誤あやまれるがごとくに批評し、たまたまこれを攻こう撃げきする理論が発見されなければ、説せつそのものは善きも、その説を来きたす動機がはなはだ卑いやしいとか何とかいって、説そのものをも卑いやしむようになる。ある外人が日本人を評してかくのごとく感情に高い国民は憲法政治を実行し得るだろうかと疑ったことがある。測る物体と測る標準とが違う
わが輩はつねにこう信ずる。この世の中を渡るに嗜しこ好うはなるたけ人々により別べつなるが面おも白しろけれども、善悪の標ひょ準うじゅんは一様でなくてはならぬと。この一様なる善悪の標準をもって好き嫌いを測るべきものでない。好き嫌いを測るものは道徳的物もの差さしでない。しかるに好きなものは善い、嫌きらいなものは悪いというように、愛あい憎ぞうをもって曲きょ直くちょくを決することは、ちょうど物の軽重を計るに差さし金がねを用うるがごとくである。長いから重いというものでなく、また短いから軽いものでもない。測る道具と測る品物が往々にして異ことなるので、この二者を混同するとつまらぬことに争あらそいが起こり、互たがいに不ふゆ愉か快いの念を生しょうずるにいたる。ことに人に対して愛あい憎ぞうの念が起こる時は、いっそう注意してその人の性質の善悪や人格の高下等を批評することを慎つつしまねばならぬ。 僕のごときも今日まで幾度となくこの過あやまちを繰り返し来きたったもので、今にしてこれを顧かえりみると済すまぬことをしたと思うことがたびたびある。ちょっと始めて面会した人がなんだか虫が好かぬと思うと、すぐに悪人のごとく思い做なした。しかしてそう思えばその人のすること為すことが、一部始しじ終ゅう不正のように見ゆる。また自分はさほど悪く思わなかった人にして、自分のことを悪あしざまに非難したことを聞くと、その瞬間よりその人が善くなく思われたりするものである。これは人情だと思えばそれきりであるが、人情には違いなきも、矯たむべき人情、怪けしからぬ人情である。人は宜よろしくかくのごとき人情に甘んずるより、いっそう超ちょ然うぜんたる人情に達せねばなるまい。 甲が乙を評するにいろいろの悪あしき点を述ぶるのを聞くとき、その批評の過あやまてることを一々指摘し説明しても甲の偏へん見けんはなかなかになおるものでない。なにゆえかといえば、批評が客きゃ観っか的んてきであるものならば矯きょ正うせいされる望みもあるが、多くは主しゅ観かん的てきで批評する人が始めより曲きょ解っかいする精神でかかるのであるゆえ、どれほど反対の証拠を挙げてもなかなか心機一転しない。 たとえば某ぼうの衣服はよくないという。もしその悪い点が果たして衣服にありとすれば、衣服を代えればその非難はただちに消ゆるはずである。しかるに衣服を代えると、こんどはまた代えた新しき衣服を非難する。赤は派手すぎると悪くいう。白くすれば幽ゆう霊れいのようだと非難する。黄色にすれば坊ぼう主ずに似たりとか、紺こん色いろにすれば職工みたいだと言い、何を着ても批評する人の心が矯ためられぬ間は非難が尽きないものである。反対説にも耳を傾ける度どり量ょうを養え
衣服とか外形上のことならば、単に非難する人の心を不愉快ならしめ、非難される人の心を不愉快にするだけにてすむが、学術あるいは政治上の説が違う場合のごときは、自分の気に入りたる説なれば、大いに怪しい点があってもこれを是ぜとし、自分が承しょ引ういんしかねる場合にはまったくこれを異論なるかのごとく咎とがむるは、その害の及ぼすところ広くかつ大きい。 願わくは説が違ったときは、はてな、己おのれの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正せい邪じゃの判断を下す前に一応は取調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。少しく自分の説と異なればただちに曲きょ学くが阿くあ世せいだとか、俗ぞく論ろんだとか売国的説だとか異いた端んだとか議論はそっちのけにして、論者の動機やら人格までをかれこれ言うようなことは、度どり量ょうの狭きを示すと同時に、進歩する余地なきことを自白するのである。 前にもいった通り、説は成るたけ違うのが面白い。今日まで学問の進歩は種々の異ことなった説から、互いに討とう議ぎし批評して得た結果にほかならぬ。昔は異説あると宗教の教えに背そむくとかあるいは国家に危険なりとして圧迫を加えた。その時代は人知の最も進まぬときである。ちょっと聞いて自分の心にはなはだ嫌いやに思う説でも、一応は聞くだけの度量を養やしなうことを力つとめたい。さらに力つとめたきことは自分の嫌きらいと思う人の説なり行動なりを、冷静に客観的に考える心を養いたい。 昔より私わたくしなしという言葉は公平なる態度を現すに用いられるが、無む私しというは狭い量りょ見うけんのない、己おのればかりが正しいのでない、また己おのれの利益のためでないという意味である。たとえば孔こう子しが﹃春しゅ秋んじゅう﹄を書くに私しし心んをはさまなかったとは、﹃春秋﹄に出る人物を批評するに好きだから褒ほめる、癪しゃくにさわるから悪く書くというのでなく、好こう悪おは論外として、自分と性質は違うとも、正しい者は正しいと公平な判断を下したからである。狭き己おのれの好すき嫌きらいで世に処するは危険
僕の友人に甲という人がある、この人のもとに同じ友人の乙が行き、 ﹁甲君、君は丙君と仲がよいか﹂ と聞く。甲は、 ﹁別に仲の悪いことはない、永い間の友人だから﹂ といえば、乙はやや驚いた顔して、 ﹁何のためだろう、丙はあちこちで君の悪わる口くちを言い歩くよ﹂ と告げたので、甲はいかにも意外に思い、しばしば会っているに丙は自分に対し別に悪意を懐いだかぬようだが、それでかれこれ自分を非難するのは合がて点んがゆかぬと思うと同時に、して見ると丙は余程、二ふた心ごころあるもので、僕に向かってはよい顔しながら、蔭かげにまわると悪口する、はなはだ卑いやしむべき人であると思って以来、丙を見てもロクに挨あい拶さつしなくなった。ところがあるとき丁より、丙はたいへん親切な男である、今これこれの人を世話しているが、まことに感心だと聞き、甲は始めて翻ほん然ぜんとして悟さとるところあり、ああ、やはり丙は善い人である。しかし己おのれを嫌きらっている。己おのれとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。 僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちをもってしたいと思う。よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。かく思えば世の中は広くなる。嫌いな者でも正しく見えたり、嫌いやな者でもかえって善く見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。 せまき己おのれの好き嫌いを標準として世を渡る以上は、さなきだにせまき世の中がますますせまくなり、さなきだに憂うき世の中がいっそう憂うくなって、人を恨うらみ己おのれを恨み、天を怨うらみ、晴天にわざと暗雲を作りて不愉快に一生しょうを送るようなものである。 ﹇#改ページ﹈第十四章 報酬以上の務め
愉快なる台湾旅行中の不快
しばしば台たい湾わんを旅行するに、その進歩の顕けん著ちょなるに驚く。昨年は宿やど屋やもなく、道路も悪く、旅行に不ふべ便んであったところが、今年は大いに改良され、車も通ずれば旅館もできるという風ふうで、台湾の旅といえば、難儀とのみ思うが、実は年々その観を改めつつある。俗ぞく諺げんにもある、 ﹁可かわ愛いい子には旅をさせよ﹂ というは、旅は辛つらい、難なん儀ぎである、可かわ愛いい子にはこの辛しん苦くを甞なめさせ、鍛たん錬れんさせよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛しん苦くという字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今こん日にちは旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出でかけ、老人は保ほよ養うに行き、壮者は新婚旅行する。 台湾の旅行も愉快であるが、その趣おもむきは他の旅行とちがっている。従来、台湾に一種の興味を有し、年々渡とだ台いするものは、行く度たびごとにその進歩が著いちじるしいから、旅行に肉体的安楽はなくとも、精神的にその進歩の速度を見て愉快とする。しかし強しいて何か不愉快はなきやと尋たずねらるれば、やはり往むか昔し、東海道を旅行した人が、雲くも助すけのために迷めい惑わくを受けた――程度は違うにしても――と同じように、轎きょ夫うふが分からぬことをいって賃ちん銭せんを強ね請だったり、この旦だん那なは重いとか、荷にが多いとか、轎かごの中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから御ごめ免んとか、その時々に応じて種々の苦情を持ち出すことである。言語が通ぜぬから、手て真ま似ねや顔色やにて不快の念を表すが多い。これが一番不ふゆ愉か快いに感かんずることである。余のために轎かごを担かついだ壮そう丁ていの好意
中国式の轎かごは不ふけ潔つではあるが、読書することもできれば、眠ることもできて、僕には最も都つご合うよいが、轎きょ夫うふのがやがや騒さわぐために大いに楽しみの程度を低ひくめられる。ことに天気が不良の場合に、轎きょ夫うふが絶対に働かないで、途中に轎かごを置き去りすることがある。これは独り台湾においてのみならず、朝鮮にもあると聞くが、その不快と心ここ細ろぼそさといったらない。 しかるに数年前、僕は台湾旅行の際さい同じ場合に逢あって、行くにも帰るにも動きのつかなかったことがある。警官に依頼し轎きょ夫うふの雇やと入いいれを命令的に誘ゆう導どう的に周しゅ旋うせんしてもらったが、しばしは一人の応ずるものもなく、雨あま曝ざらしになって進退谷きわまった。この時、村の青年が三、四人、みずから進み出て、 ﹁私どもが担かつぎましょう。もっとも轎きょ夫うふとしては御ごめ免んですが、壮そう丁ていとしてなら参りましょう﹂ といった。というは、轎きょ夫うふとして担かつげば、相当の賃ちん銭せんを受ける一つの商売である。しかし壮丁として行くのは公利公益のために力を尽すのである。職業として轎かごを担になうのでなく、また賃ちん銭せんを要求するためでもない。したがって仮りに賃銭を払われてもこれを受くるをいさぎよしとせぬ。ただ官職を帯おびて巡廻するものが、轎きょ夫うふなきために一歩も進めなくては公務のために憂うれうべきことである。ゆえに公務のために自分らの労力を提供したのである。 かかることはどこでも稀まれなることである。台湾においてもまた稀まれであるから、ことに強く僕の感激を惹ひき起おこさしめた。物の真価の誤れる計算法
ローエルの有名なる詩中に、 ﹁この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。生うまるるときは産さん婆ばに手数料を払い、死すときは葬そう儀ぎ屋やに桶おけ代だいを払い、死後遺いさ産んを譲ゆずれば租そぜ税いを払う、何ものか払わで済すまさるべきものかある。ただ自然の美のみは価あたいなしに得らるる恩おん恵けいである。三春しゅんの長のど閑かなる、咲く花に囀さえずる鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富ふし者ゃも貧ひん者じゃも共に享うけて共に喜ぶ権利は異ことならない﹂ と説き、さらにまた、 ﹁この世の悪あく魔まの店にあるものは何ものもみな相応の価あたいがあって売ばい買ばいされるが、価なしに得らるるものは独り神かみのみ﹂ と叫さけんでいる。実にその通りである。しかし情なさけないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの報むくいを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳のう髄ずいに深く染しみ込こんでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を懐いだくようになった。ちょうど我々骨こっ董とう品ひんに何らの心得なき者が、物品そのものの貴きせ賤んの程度はさらに分別つかぬが、道どう具ぐ屋やに欺だまかされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに滞たい留りゅうして、教師を雇やといフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、件くだんの教師に、 ﹁貴あな方たはスペイン語が読めるか﹂ と質ただしたとき、 ﹁うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽けい古こするに何百フランを費ついやした﹂ と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一場じょうの笑話であるが、活かつ世せか界いにおいては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算そろ盤ばんを採とるものがたくさんある。折々老人などが悴せがれの教育のために何千円費ついやしたというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手しゅ腕わん人格を含むような印象を与うる。この事は何なん人ぴとにもあることであるが、だれもまた快こころよく思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。報酬以上に務むる教育者
金銭を標ひょ準うじゅんとして人を計るの不当なることは、むろんいうまでもない。ゆえにこの標準にて人を計るべきではないが、世せじ人んはややもすれば教育に従事するものを計るにもこの標準をもってする。もっともかくいったからとて、僕は教育界以外にはこの標準を応用して差さし支つかえないというのでない。他にも応用されるが、ことに教育に従事する人には格別気の毒なりと思う。我が国の小学教師の俸ほう給きゅうは非常に低てい廉れんで、平均十五円内ない外がいである。 お互たがいの子して弟いを依頼するは、ただ文字や数学を教えらるるが目的でない。いわば霊たま魂しいの教育をお頼みするのである。かかる重大事を十五円の月給取りに頼むことはあまり心もとない。つい乳う母ばや子守を頼むような気になる。しからば教師たるものは何を標準として自己を律りっするか。自分は実に薄はっ給きゅうでありながらよく働く、俥しゃ夫ふさえも月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半額にだも足らぬ。低いものである。したがって自分は子守か乳う母ばの真似をしていればよいと思うか、あるいは自分の預あずかれるものは日本国を負おうて立つ後ごじ日つの国民である。中には貴族の子もあり富ふご豪うの愛嬢もあり、また学者の後こう裔えいもある。これらの人々を教育し、将来の日本の思想を一新するは自分の考えにあるぞという点に着眼し、俸給の多少、月給の高低などは一向顧かえりみないでやるべきか。 僕は従来地方に行き、よく教師の悪口を忌きた憚んなく吐はいた。また教師の中には悪口に値あたいするものも数あま多たある。しかしだんだん彼らと交つきあってみると、実に村そん夫ぷう子しの中に高い人格を備そなえた人が、到いたる所にいるのを見て、心ここ窃ろひそかに喜んでいる。おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業に比較したら、彼らほど俸給低き、彼らほど思想の高きものはなかろう。僕が彼らをかく賞賛するのは、彼らが報ほう酬しゅう以上の務つとめをなすからである。職業に当たる人の三段の区別
元がん来らいいかなる職しょ業くぎょうにありても、これに当たる人に三段の区別がある。報ほう酬しゅうだけの仕事をせぬすなわち曠こう職しょくの人。次は報酬に値あたいするだけの務つとめする人、いくら気きづいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬ばし車ゃう馬ま的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為なすものにあらざれば、払った金かねも多過ぎるように思う。 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書しょ記きを雇やとったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何だ人れが定きめるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定きめられるかと尋たずねれば、その標準ははなはだ漠ばくとして当てにならぬ。なんとなれば同級生が若じゃ干っかんで某ぼう所しょに務めているから若じゃ干っかんというのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入いれぬ。経済学者に言わすれば、これ需じゅ要よう供きょ給うきゅうの然らしむるところと、大おお雑ざっ把ぱに一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌はめると、人の問題は死んだ物ぶっ件けんの需要供給とは大いに異ちがう。 苟いやしくも人格を有するものには、経済学の教おしえる労ろう銀ぎん論ろんは決して当とうを得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。 ﹁僕は彼と同じく見られて困こまる﹂ とか、 ﹁彼らの仲間と同どう等とう視しされては迷めい惑わくである﹂ とかいうことはしばしば聞くところである。 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹ふい聴ちょうしたがるものがある。自分の学力は某ぼうと同じであるが、自分の字は子供のときより妙みょうに褒ほめられたといって筆ひっ蹟せきを誇り、あるいは自分の交こう際さい術じゅつにおいては、彼らに比べられては困る、硬こう骨こつなる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣おとらぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹ふい聴ちょうし、したがって高値に他に売らんとする考えがある。報ほう瓊けいの志
﹃詩しき経ょう﹄に、 ﹁我われに投ずるに木もっ瓜かを以もってせば、之これに報むくゆるに瓊けいを以もってせん﹂と。 瓊けいもも、玉たまの名である。人が我に贈おくるに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なる品しなをもってすべしとの意で、かえって出来難がたきことながら、この句は世を渡るに常に心ここ得ろうべきことである。 折おり々おり新聞に伝えられる某ぼう学者は何千円の俸ほう給きゅうを取るが、毎日教きょ場うじょうに臨のぞみ授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、字じび引きを引いてもちょっと分かるまい、俺おれが解といてやってもよいが、しかしそれは俺おれの月給では勿もっ体たいない問題である。俺おれ以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。俺おれの月給が三千円となれば答えるという。 これは一場じょうの戯じょ談うだんに過ぎぬが、ともかくそういう考えが何なん人ぴとにもある。もちろん今述べたごとく、露ろこ骨つなる形式に現れなくとも、如い何かほど地位ある人にも起こり得る思想である。しかし何事を為なすにも報ほう酬しゅうだけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも劣れっ等とうなる一部なる欲よくが入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。よく世間でいうことに、﹁欲よくと二ふた人りでぐ﹂というが、報酬のみを得る考えのものは、二ふた人りぐのでなく、いわば欲よくのみいで自分は何もせぬようなものである。 極ごく冷淡に事務に従事する人でも、親切に愛あい嬌きょうまたは好意を持つと持たぬので自おのずからその務めの捗はかどりも違う。まして近ごろ多くの人が従事する仕事には心尽しの温あた味たかみがあって、始めて完かん美びするものである。してこの好意だの温味だのという部分は、いわば人間の霊たま魂しいの一部であって、金銭で酬むくいるわけに行かぬ。すなわち僕のいう報酬を受けない務めがあって、始めて自分の得つつある報酬に値あたいするものと思う。 とかく献けん身しんとか犠ぎせ牲いとかいうと、いかにも高こう尚しょうに聞こえ、とても我々凡ぼん人じんの及ぶところでないように思われるが、この高尚なる心も我が物となすことができると思う。してその実行はここに述べた俸給以上の働きをするにある。五十円取る人が七十円の仕事を遂とぐれば、二十円は俸給以上の働きである。これを換かん言げんして説明すれば、七十円の働きある人が二十円だけ犠ぎせ牲いにし、すなわち二十円ほど献身的に尽したのである。 ただ、﹁己おのれを捨すつるには、その疑うたがいを処するなかれ。その疑いを処すればすなわち捨しゃを用もちうるの志こころざし多く愧はず。人に施ほどこすにはその報ほうを責せむるなかれ。その報ほうを責むれば、施すところの心を併あわせて、ともに非ひなり﹂。報ほう酬しゅう的思想なき夫婦の関係
人と人との交つき際あいに趣味のあるのとないのとは、金銭や物ぶっ件けんで差さし引ひき勘かん定じょうの出来ないところにある。いわゆる商売以外のところにある。しばしばいうことだが、世の中は法ほう治ちこ国くである、法律で治まるというものもあるが、世の中は法律だけで治まるものでない。法律以外の関係があればこそ、人間らしい生活が出来る。 英国の一紳しん士しにしてながく日本に滞在し、日本の婦人を妻とせる人がすこぶる日本贔びい屓きで、種々の著ちょ述じゅつもして日本を世界に紹しょ介うかいした。さて数年前、有力なる某ぼう外人が外国の有力な新聞に一書を寄せて、外国人と日本人との雑婚を論ろん難なんし、中にもっぱら夫婦間の法律上の不備ある点を述べて、財産の監かん理りけ権んあるいは遺いさ産んに関する条文を説いたに対して、この紳士が答えて長文を寄せた。 その最後の句において今まで述べたことは某に対する法律論に過ぎぬが、﹁他の人はいざ知しらず、余よが日本の婦人を妻とする理由は男女同権論とか財産権が如ど何うとか、こういう水みず臭くさい関係より偕かい老ろうの契ちぎりを結べるにあらず、夫婦間の関係は法律以外に属するものが多い。法律関係をまっとうするために同どう棲せいするものは真の夫婦にあらず﹂と。 この言を味あじわうと夫婦間の親密とか貞てい操そうなるものは、自分ら以外の者のほとんど知るべからざるものである。その間の務めは報ほう酬しゅうなしに、あるいは法律観念なしに行われる、すなわち温あたたかき愛情より溢あふれ出たもので、朝あさ夕ゆうこの間の関係をまっとうせんがために、こうすれば法に触ふれる、ああすれば﹁民法﹂何条に差さし支つかえないかといっていれば、一家存在の基き礎そがどうなるであろう。またよしかくのごとく冷淡に法律的制せい裁さいのみによりて動くほどに堕だら落くしなくとも、夫婦間に報ほう酬しゅう的思想をもって交つきあったとしたら、その間にいかなる社会が出来るであろうか。報酬を求むる手段としての務つとめ
僕の知れる某ぼう貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞てい淑しゅくをもって称しょうせられているが、あるとき僕に、 ﹁世間の人は芸げい妓ぎをたいそう卑いやしみ、悪く言いますが、私は芸げい妓ぎよりも卑いやしいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。芸げい妓ぎはお世せ辞じを売ばい品ひんとし、彼あな方たこ此な方たに振りまき、柔やさしいことをいうて、その報ほう酬しゅうにポチを貰もらおうとするが、彼らは明あからさまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。欺だまされる人は、招かん牌ばん見ないで店に飛び込こむようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは貞てい操そうを招かん牌ばんにかけ、むろんポチだの報酬だのを夫おっとより受くべきはずはないが、しかし随分それを強ね請だろうと思い、衣服を買って貰もらいたいがために、心にもないことを夫おっとに述べて目的を遂とげる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人を欺あざむくもので、神しん仏ぶつの目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに劣おとったものと思われましょう﹂ といわれたが、なになにの報ほう酬しゅうを得るがために、事を為なすくらい卑いやしいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官かん吏りでも、月給を得んがために、礼を貰もらわんがために、ボーナスに与あずからんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は聖せい人じん君くん子しの集会でない、否いな、十人中九人までは小しょ人うじんである。与うるに利りをもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、互たがいにその積つもりで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。報酬以上の務めの真義
各自の職務には分ぶん限げんがあって、その範はん囲いを脱だっするをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその手しゅ腕わんを揮ふるわんとしても職しょ権っけん以外に出られぬ。ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。 職務の分量に止とどまらずして職務の品ひん性せいをよくせよというのである。十貫かん目めの荷にも物つを荷になうものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。もっとも荷になっても身体に差さし支つかえなく、またために全体に悪あく影えい響きょうの及ぶ憂うれいがなければ、それも差さし支つかえあるまいけれども、なんらかの事じゆ由うのために各自の重おも荷には十貫目を超こえてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上を荷になえとは勧すすめぬ。しかし十貫目を荷うに苦にがい顔せず、喜んで荷にないたい。荷になうさまを綺グレ麗ースフルにし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目担かつげといえば、なるべく品ひんよいものを担かつげというのである。 かく比ひ喩ゆをもってしては、あるいは意味が解わからぬか知らぬが、譬たとえを変かえていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間には苦にがい顔せず、また叱しかったり不ふゆ愉か快いな風ふうに教えないで、愉快にこれを教えたいのである。また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。出しゅ勤っき簿んぼには、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、苦にがい顔して教えても嬉うれしい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。 この事は決して教員に限ることでない。役所や会社においても執しつ務む時間に、机つくえの前に腰こしかけるだけは誰も同様であるが、実際仕事を捌さばくについても、ぶつぶつ囁つぶやきながらすると、快活にやるとは仕事の分量において異ちがいはなくとも、その品ひん質しつと、同どう僚りょうに及ぼす感情には雲うん泥でいの差を起こす。仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。 ﹁施ほどこして必ず報ほうある者は、天地の定てい理りなり。仁じん人じん之これを述べて以もって人ひとに勧すすむ。施ほどこして報ほうを望のぞまざる者は、聖せい賢けんの盛せい心しんなり。君くん子し之これを存そんして以て世よを済すくう﹂。かかる心がけがあって人生の旅は幸福
建たて物ものを建築するに、出でき来か方たは同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師職しょ工っこうにいたるまで面白く快こころよく仕事すると、他の一方には軋あつ轢れきを生しょうじ同どう僚りょうを擲なぐれとか、某ぼうがこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって従じゅ事うじするのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。﹁細さい工くは流りゅ々うりゅう、仕しあ上げを御ごら覧ん﹂というが、物ぶっ件けんならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。細さい工くする間の心持ちが大たい切せつである。左ひだ甚りじ五んご郎ろうは恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、細さい工くしているあいだも精神を籠こめたればこそ、その霊たま魂しいが彫ちょ刻うこ物くぶつにも移ったのであろう。 人世のことは何なに事ごとにかかわらず微妙なる精神的作さよ用うがあって、始めて自分の目的が達せられる。かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると見みく絞びり、単に物質的方法のみによって目的が遂とげられるというのでは足らぬ。個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して意いし識きなく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。価あた値いなき仕事に目をつけねばならぬ。英語に vヴaァlリuュeーという字がある。近ごろの経済学者はこれを価か値ちと訳し、これに lレeッsスsを加くわうれば価あたいなきもの、二束そく三文もんの価あたいもない、つまらぬものという意になる。しかるに物の価あたいは pプrラiイcスeと称し、学者の価格と訳するものである。これは lレeッsスsを加くわえれば前例によれば価あたいなきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、その実じつ意味は正反対でとても金か銭ねに換算の出来ぬもの、あまり貴とうとくして金銭に見積もれぬものとの意である。 最初に掲げたローエルの神かみのみ価あたいなしに得られるというは、神かみは金銭で買うことが出来ぬというのである。前にいった轎きょ夫うふの賃ちん銭せんは金銭で計算されるが、壮そう丁ていの僕に対する好意は金銭をもって換かん算さんできぬものである。しかしてこれが一番貴きち重ょうなる務めである。こういう価あたいなしに務めるものがあればこそ、旅行中にも雨あま曝ざらしの難なんを免まぬかれる。こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる旅たび路じは真の快かい楽らく幸福を増すものである。 ﹇#改ページ﹈第十五章 逆上を警いましむ
世界の耳じも目くを集中さした共和党の大会
大たい正しょう元がん年ねんの夏のころ、僕は米国に滞たい留りゅうしていたが、そのころ日本の新聞通信にも顕あらわれたことで、シカゴ市における共きょ和うわ党とうの大会は近年にない大騒ぎで、独り米国の一大出でき来ご事とたるのみならず、世界の視しち聴ょうもことごとくシカゴ市に集中した。僕はシカゴまでは行かなかったが、直接または間接に関係ある人の話はなしを聞いたり、新聞の報道を読んだりして、いかに人じん心しんが荒あらやいでほとんど狂きょうするごときさまなるかを見て、これが日本であったならば抜ばっ刀とう騒さわぎになるであろう。 米国においてもせめて、拳げん骨こつぐらいの喧けん嘩かがあるであろうと、大会の閉会になるまで、好奇心をもって種々の新聞に眼をくばっておった。さなきだに犯はん罪ざいや自殺多き夏の季節に、一万四千の腕わん白ぱく者ものが大都会の一堂に会合したことであり、群集心理の特とく徴ちょうとして逆ぎゃ上くじょうしやすき時、出席者のうちの大多数は、自じし称ょう政治家、自みずから天下に我一ひと人りの気前の連中だからなおさらの事、一ひと芝しば居いの起こることを期待しておった。しかるになんぞ図はからん、開会の始めにあたり上院にその人ありと聞こえたルート氏が座ざち長ょうに選えらばれた。この人の手しゅ腕わんでも出席者の昂こう奮ふんを撫なだめ得ないであろう。なにしろ会場における不ふま満んれ連んの総大将兼けん黒くろ幕まくとしてはルーズヴェルト氏自みずから采さい配はいを取っているという始しま末つであるから、我々の考えでは珍ちん事じなしには終らぬと気きづ遣かったのも、今思えば杞きゆ憂うに過ぎなかった。 開会中ルート氏が座ざち長ょうとなって人ひと波なみを撫なだめた手腕は凄すさまじいもので、当時の記事を読んで僕がつくづく感かん服ぷくしたのは、かねがね聞いているアングロサクソン人種の秩ちつ序じょ的なる一点である。同氏の冷静にして、雷らいのごとく騒さわぎ立たつ数千の反対者を眼がん前ぜんに列ならべて、平然と構かまえて、いかに罵ばり詈ざん讒ぼ謗うを浴あびせても、どこの空そらを風が吹く底ていの顔付きで落着き払って議事を進行せしめたその態度と、彼に正反対の論ろん者しゃが発言権を求めたとき、場内において発言を妨ぼう害がいせんとした彼かれの同志に向かって、 ﹁我が党の歴史を顧かえりみるに、反対者の発言を圧あっ服ぷくして勝利を獲えたる例ためしなし﹂ との一言を放はなち、却かえって反対者の喝かっ采さいを獲えたところなどは、その公平無私かつ度どり量ょうの寛大なるところは、ほとんどドラマチックであった。しかしルート氏には一度しか面会したことはないけれども、一目もくして判わかることはその性格においてドラマチックの節ふしのなきことで、この点が同じ米国人でありながら、ルーズヴェルトとは大いに性格を異ことにしている。氏の演説であれ、氏の会話であれ、役人が平素執しつ務むの際にとる態度で、いわゆるビジネス・ライクである。これがフランス人じんの会合であったならば、雄ゆう弁べん能のう弁べんジェスチュアその他ドラマチックの動どう作さがさだめしみごとなものであったろうと想像さる。ボストン公園に見た言論の自由
同じころボストン市に逗とう留りゅう中、日曜日の夕方、かの有名なる歴史的の公園地﹁コンモンス﹂にぶらぶら散歩したところが、道みち傍ばたに二、三十人の労働者あるいは店の手てだ代い番ばん頭とうめかしい者が一群をなしていた。わが輩好奇心に駆かられて近づいて見た。喧けん嘩かであろうか怪けが我に人んでもあろうか、手てじ品な師しであるか物売りであるか、近づいて見ると年齢五十ぐらいの男が中心となって、地球は円形じゃない平面であるという新説を吐はいていた。しかも演説口くち調ょうをもってあるいは高々に説明するにあらずして、平生の個人と個人との会話のごとき調子で、 ﹁ネー、そうだろう、今まで僕の言ったことは君らも学理的だと認めるじゃろう云うん々ぬん﹂ と言いかけると、傍ぼう聴ちょう者の一人で職工と思わしい若い男が、 ﹁そりゃ君の説は勘かん定じょうが少し違うぜ、地球の曲カー線ブの度どは一マイルについて幾いくらいくらだぜ。君の先の例に取った何なんマイル以上にある船の帆ほば柱しらは云うん々ぬん﹂ と、僕は最後まで聞き取れなかったが、数字をもってこれを駁ばく撃げきすると、先の男が手てち帖ょうを出して何か計算する。その間にまた一方から、 ﹁君の説はちょっと面白いが、学理より実験に戻もとるじゃないか﹂ とやり込こめる奴やつがあった。僕はしばらく立って見ていたが、もの静かに思想を交換するさまは、昔むかしソクラテスがアテネの市場で道を説といたときは、かくもあったろうかと想そう像ぞうが浮かんだ。このときも我が同どう胞ほうであったならば、すぐに野やじ次う馬まが乗り込んで来て、 ﹁貴きさ様まの説はコロンブス以前の陳ちん腐ぷろ論んだい。ヤイ黙だまれ!﹂ とか、 ﹁小学校の二年級をやりなおせ﹂ とか、 ﹁ジジイ、おいぼれやがったナ﹂ くらいの罵ば詈りは必ず聞こえるであろうと、つくづく物思いに沈みながら、この群集を去って旅館に帰ろうとすると、同じ公園のむこう側がわに二、三百人もあろうかと思わるる群集がかたまっておったから、かたわらの青年に、むこうの群集は何をしているかとたずねると、 ﹁あれですか、あれは社会党の人たちです。今日は日曜日なもんですから、大勢集まっているんです﹂ とはなはだ尋じん常じょ茶うさ飯はん事じのごとき口くち調ょうで答えた。これが日本ならいろいろな嫌けん疑ぎも受けるであろうが、自由の天地は違うと思いながら、僕はそのほうに足を運んだ。すると二、三百人の連中は一かたまりになっていないで、二十人ないし五十人ぐらいずつ別々に群むらがっている。いずれも先の地理学新説の鼓こす吹いし者ゃと同じように、談話的に互たがいの説を交換し合っている。 いずれの群集を見ても少しも激げきしているものはない。大たい言げんする者もなく、哂あざけり嗤わらう者もない。すこぶる真ま面じ目めでさながら親の大病の診断を医者から聞いているような顔つきであった。僕も三、四十分のあいだ甲群から乙群、丙群から丁てい群と彷ほう徨こうして、その様よう子すを窺うかがったが、かたわらに巡じゅ査んさがいるでなし、しかもボストンのコンモンスといえば、市街の中央にしてかつマサチューセッツ州の州庁の鼻の先である。この時も先に述べたる共和党の大会と同じく、容よう易いに逆ぎゃ上くじょうせぬこの国民にして初めて言論の自由も思想の自由も享きょ有うゆうすべきものと思った。前二例より帰きの納うする感情の危険
もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の騒さわぎもなく、政治上の腐ふは敗いもなく、自治の精神が完全無むけ欠つに発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会においても、拳げん骨こつの撲なぐり合いが会場の戸とぐ口ちで二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高じて来て、罵ばり詈ざん讒ぼ謗うに終ったかも知れない。あらゆる犯はん罪ざいの多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分不ふて体いさ裁いはあり得ることである。して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は他たざ山んの瓦がれ礫きを捕とらえ来たって、自国の璞た玉まに比してみずから快かいとするの愚ぐなることを信ずるから、常に他山の石を藉かりて自分の玉を磨みがくの用に供したいと思う。 そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同どう胞ほうとともに顧かえりみたいことは、一時の激げき昂こうに駆かられて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情を交まじえることは危険である。むろん感情と一口に言っても高こう尚しょうな感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の客かっ気きである。とかくこの客気血けっ気きがあれば考えに誤あやまりを生じやすい。一ひと口くちに熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど己おのれを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気きし象ょうがさかんだとか、あるいは勇ゆう敢かんだとか、痛つう快かいだなどと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、御ぎょする人があればこそその方向に進んで行くが、御ぎょする者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の旺さかんであるのであるが、惜しいかな心を守り、気を抑おさえる力がないのである。古人の曰いわく、 ﹁この心を敬けい守しゅすれば則すなわち心定さだまる、その気を斂れん抑よくすれば則ち気き平たいらかなり﹂と。つまらぬ事に逆上する国民的弱点
先を見ずにその場にて一時の快かいを貪むさぼる極めて短慮な者には、内容のさらにない雄弁を揮ふるってみたり、あるいは大たい声せい一喝かつ、相手の人には痛くもない讒ざん謗ぼうや冷評を浴あびせかけて、ドラマチックに喝かっ采さいを受けて嬉うれしがるは我が国民性の一弱点である。言葉をかえて言うと、物にノボセ上がる、逆上する性質がはなはだ我が同胞の間には広がっていると思う。ゆえに何か大きな響ひびきのよい言葉を用いれば、己おのれを忘れて飛び上がる連中がはなはだ少なくない。たとえば仁じん義ぎのために死するとか、国家の責任を双そう肩けんに担になって立つとか、邦ほう家かのためには一身を顧かえりみず、知ちぐ遇うのためには命いのちを堕おとすとか、その他数多くの catchword のためにその用語の内容や真の意味を一時忘れる者がはなはだ多いのみならず、一身の上についても、実に詰つまらぬことに逆上する傾向が多いことを目もく撃げきもし、また恥ずかしながら自分が経験したことがたくさんある。 たとえば永く浪人しておった人が、仕官の途とにつき久しぶりに金かねを手にすると、金きん満まん家かになったような気がして、一月分の月給で友人を招いて一晩に飲んでしまう。来月分も来々月分も飲んでしまって、招待したお客の追つい従しょう言葉を聞いてますます得意になって、しばらくたつうちにかえって一身およびその位置に対して不ふめ名い誉よを来たしてしまうことは、わが輩知人のうちにも折々見た。あるいは会社員であると社長さんから大いに信頼のお言葉を頂ちょ戴うだいするか、役人であれば上官から重大な秘密を洩もらされでもすると、俺おれより信用厚あつき者はないような気がして、すぐにその態度が変わり昨きの日うまで同どう僚りょう交際であった者を急に見下したり、にわかに傲ごう慢まん尊そん大だいになる場合も僕はしばしば見た。あるいは学問をしている者でも、はじめのうちは謙けん遜そんに、あれも知らぬ、これも知らぬと思いつつ、研究三さん昧まいに暇いとまない時は最も尊敬すべきときであるが、あの学がく位いを得たとか、その学位を授さずけられたとかいうと、自分がいかにも偉い者にでもなったように、人の前でも何もかにも物知り顔をしておるさまは、傍ぼう観かんしても見苦しいものであるし、かつ近づく者にも、学問とはこんな厭いやな臭しゅ気うきのするものかと思わしむる場合もしばしばある。 あるいは道徳を語る人でも同じことである。あの人は品ひん行こう方ほう正せいの人だとか、まことに正しい曲まがった事のない人だとか言われると、すぐさま君子顔がおになって、他人を見るに小しょ人うじんをもってして、世ことごとく濁にごれり我独り澄すめり底ていの考えに逆上する。かく言う僕も他人より賛辞を受けたことはないが、上に挙げた例の一部にあたっているかも知れないと思えば、この辺が筆を止とめるところであろうか。僕にしてかくのごとき弱点はさらにないという自信がさらに鞏かたければ、もっと大胆に論じたいが、自分で顧かえりみて折々は逆のぼ上せそうになったこともあった。終りに述べる僕の実験談は普通に言う逆のぼ上せるのとは違うけれども、その性質においては同じであるし、かつ僕に取っては逆上の訓くん戒かいとしてしばしば記憶にのぼる経験であるから、恥はじを晒さらしてここに述べよう。一円の小遣いを一円の財布に投じた経験
僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。その節の土みや産げとして大だい枚まい金一円貰もらったことがある。そのころ僕の小こづ遣かい銭せんは一週間に二十銭と定きまっていたからして、一円紙しへ幣いを手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。そこで僕の頭に第一に浮かんだ問題は、この大たい金きんを入いるべき相当な財さい布ふを得ることであった。ただちに袋ふく物ろも屋のやに走って種々の財布や紙入れを見た。中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、それを取ることに定めて、値ねだ段んを糺ただすと一円ということであった。すなわち懐かい中ちゅうに持参の一円紙幣を払って空からの紙入れを家に持って帰ったことがある。 笑うにも及ばぬほどの愚ぐなる一場の話に過ぎぬが、その後四十余年のちの今日に至るまで、この経験が僕に教えた教訓ははなはだ少なくない。一身を顧かえりみてもあるいは他人を見ても、月給が入った、金を儲もうけたからとて、無む駄だの浪ろう費ひをしている人を見ると、彼きゃ奴つめ一円取って一円の財さい布ふを買っているわいと思う。大いに勢せい力りょくのある位置を獲えたと喜んで、その勢力を振りまわす人を見ると、彼きゃ奴つ一円の勢力を得て一円だけ威い張ばって、あとは空からになっているわいと思う。学問なりその他の名めい誉よを得て傲ほこる者を見ると、彼きゃ奴つも近ちかごろ一円貰もらったばっかりだな、ああいう風ふうにやっては明日の日の登る前に形かた無なしになるであろうと思う。とかく金に限らず、位置でも名誉でも己おのれに帰きするときは、油断をすれば逆ぎゃ上くじょうしてこれを利用するを忘れてただ濫らん用ように陥おちいりやすい。逆上は独りおおぜいの群集の内にあってのみ慎つつしむべき点でなく、ただ一人おっても、ただ一身を守るにも、なお慎つつしむべきものであると、かれこれの事について大いに感じたから件くだんの如し。 ﹇#改ページ﹈第十六章 富貴の精神化
弁士の富論
アメリカの習しゅ慣うかんで羨うらやましく思うものは、かの大学卒そつ業ぎょ式うしきを熾さかんにすることである。いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で︵シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども︶、して大たい概がい七月の初旬に行われる。卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生総そう代だいの答とう辞じとか、あるいは卒業生の演えん説ぜつとかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。その演説は翌日新聞に掲けい載さいされ、某ぼうが如何なる問題について如何なる説を吐はいたかが全国に行き渡る。ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もあれば、未来を卜ぼくする者もある。自じこ国くの名誉を誇ほこる者あれば、自国の短所を剔あばく者あり、実に勝手な説を吐はいて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。 またこの式場に臨のぞむ人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔を偲しのぶために出席し、地方の紳しん士しし淑ゅく女じょはいうまでもなく、遠方からもわざわざ集つどい来たる数ははなはだ少なくない。僕は先年の初夏、親したしく久しぶりで二、三の卒業式に臨のぞみ、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って過かご言んであるまいと思う。いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が主しゅ賓ひんになっている以上は、招まねかれる弁士はただ能のう弁べんだとか悧りこ口うだとかいうだけの資格では足りない。自おのずからその人と為なり、その品ひん性せいを斟しん酌しゃくして招待するからして、演説に自おのずから重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想に奔はしって実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形に顕あらわれるのはこの時であろう。物質的米国人と思想的米国人
例によって口こう上じょうが思いのほか長引いたが、先年僕の滞たい米べい中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。 誰も言う通り米国は拝はい金きん国こくで、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯ゆい物ぶつ主義に陥おちいりはせぬかとみずから虞おそれている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警けい戒かいを与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如いか何んとなればとかく何事にしても弊へい害がいあれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随ずい伴はんする事なれば何事によらず攻こう撃げきしやすいものである。﹁坊ぼう主ずが憎にくけりゃ袈け裟さまで憎にくい﹂というのは、また同時に袈け裟さを憎む者は坊ぼう主ず自身を憎むという弊へいに陥おちいりやすい。君くん子しはその罪つみを憎にくんでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君くん子しにして初めてなし得ることで、我々凡ぼん夫ぷ小しょ人うじんは、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼かれの親しん戚せき友人家かお屋く生しょ国うごくまでも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌きらい、進んでは学問そのものをすら罪つみする傾向がある。 ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく顕あらわれる。ゆえに実業を重んずる、否いな重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を尊たっとび金力を尊重する結果として、不正なる方法によって富とみを為なす者も許あま多たある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一ひと纏まとめに纏めて攻撃の的まととなし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私しさ産んを破はか壊いして共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高こう潔けつなる紳しん士しのごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によって富とみを為なす者ありとしても、不正と富とは必ずしも連れん帯たいするものではない。不正なる行こう為いは富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには律りち義ぎ一色しょくで金を拵こしらえる者もある。 ゆえに富ふう貴き必ずしも不正ならず、子夏が﹁富ふう貴き天てんに在り﹂と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも悪あくと言えず、むしろ天てんの賜たま物ものという意に取れる。袈け裟さと坊ぼう主ずが必ずしも伴うものじゃない。いわゆる僧そうにあらざる僧も世には許あま多たある。またその代りには袈け裟さを着た俗人もまた多い。﹁貯ためるほど穢きたないものは塵ちりと金かねなり﹂という諺ことわざがあるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵ちり芥あくたとても貯ちょ蔵ぞう法よろしきを得たなら、清くする工くふ夫うもあろう。黄こう白はくに至りては精せい励れい克こっ己きの報むくいとして来たるものは決して少なくなかろう。古こじ人んの言にあるごとく、 ﹁祖そそ宗うの富ふう貴きは詩しし書ょの中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる﹂と。 人の立身や家の興おこるを評するにはよほど注意せねば、とかく羨うらやむ心に曳ひかされて判断を誤りやすい。富貴は方法なり目的にあらず
また本題に還かえって卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富ふう貴きの危険を大いに警戒して、巨万の富とみを積んで己おのれの霊魂を埋まい没ぼつするなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発はっ揮きするために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金かね儲もうけを今日のごとく物ぶっ質しつ的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄たくわえても人の人たることを忘れぬ以上は、金かねは邪じゃ魔まにもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不ふじ仁んではない。また不ふじ仁んのみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名な付づけて、もちろん自由業は高こう尚しょうなものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊そん敬けいを払って、あるいは官かん吏りあるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博はくしていた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金かねにあるゆえに、ことさら名めい誉よをもって彼らを迎えなかった。これは強あながちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不ふ可かとするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素そほ封う家かはその人物の如何なるを問わず、単に金かねがあるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難がたきものになるであろう。富者の権利と義務
話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に位いか階いを授さずけらるるとか、あるいは叙じょ勲くんせらるべしという議論がさかんに行われる。詩人シラーのいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とその実みを選ぶ者とは別種の者に数えるが至当であろう。花も採とり実みも取る者はついに幹みきも根も取り尽し、その結果は社会の進歩も安あん寧ねいも危あやうくするものであろうと思う。 今こん日にちいずれの国においても財産の安あん固こを保ほし障ょうしない法律はない。法律にそむかぬ以上は如何なる方法によって、如何なる額に嵩かさまるとも富とみを蓄ちく積せき占せん有ゆうすることを許すがために、富む者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。この富む者はややもすれば己おのれの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、どこの法典を見ても財産の権利は明らかに載のっている。かつ偉大なものである。 しかるに財産の義務なるものは、わずかにその負ふた担んする税額ぐらいに止とどまって、その額も重い重いと言いながら権利に較くらぶれば、案外に軽いものと思われる。ことに法文の読みようによっては、義務を忌き避ひする道も随ずい分ぶんある。ゆえに世に勢力ある人の中には種々なる口こう実じつをもって財産の義務をことごとく負ふた担んしないものがある。現に我々が仮りに所得税の負担額を較くらべて見ればただちに判わかるであろうが、わずか二、三千円の俸給を受くる学校教師などが、先の何々大だい臣じん、あるいは何々爵しゃくにして市内市外に許あま多たの高こう甍ぼう宏こう閣かくを構かまえている人よりも以上の租そぜ税いを払っている例すらある。そんなら、彼ら大だい尽じんは地ち租その目もくの下もとに多額の負担ありやと尋たずぬれば、彼らの園えん邸ていは宅地にあらずして、山林と登とう録ろくしてあるから、税率もはなはだ少ない。かくのごときは財産の権利を享きょ有うゆうしながら、その義務を負担しないというものである。富とみが跋ばっ扈こするというと、いつも米国を例にとるが、焉いずくんぞ知らん日本にもその例に乏とぼしからぬを。 僕がかくのごとき言を述べたならば、あるいはいたずらに人を責むるように聞こゆるであろうが、わが輩はそれがし何なに某がしなる個人を攻こう撃げきする考えは毛もう頭とうない。法文の曲解を難ずる意であって、僕は君くん子しではないが、人の罪を憎にくんで、その人を憎まないように心がける積りである。ゆえに富める者が不正なことをし、あるいは人を苦しめてなお蓄ちく財ざいすることがあるにしても、その人よりも社会の制度が不完全ならびに輿よろ論んがまだ未みじ熟ゅくにして、富者といわんよりは富ふう貴きの義務を自覚しないことを難じたい。経済状態と道徳的態度の変化
昔の経済社会とは違って近代は一国内における経済現げん象しょうさえなかなか複ふく雑ざつになって来ているに、いわんや国家的経済現象に至ってはなかなか個人の力で如いか何んともできぬことがままある。したがって経済行為に対する道徳的態度は昔のように簡単に行くまい。 たとえば昔なら物を造る者とこれを用うる者が直接に出で会あって、相談のうえに物ぶつ々ぶつ交こう換かんを行った。こういう場合には値ねだ段んを定むるに両者間の承しょ諾うだくの上に成るから、互いの満足のもとに終わる。こんにちでは値段を定むるに造る者と用うる者は顔など会わすことは少ない。両者の間に仲なか買がいあり卸おろ売しうりあり小こう売りあり数人の媒ばい介かいを経へて、我々の最も簡単なる需じゅ用ようも供給せられる。なかでも株式会社のごとき大組織の製造場において産出せらるる物品のごときに至っては、物価を定むる分子はなおさら複雑を極めて来る。 なお進んでトラスト組そし織きの下に製作せらるる物ぶっ品ぴんは買い手の相談などは毫ごうも省かえりみらるるものではない。この一例をもってみても諸しょ色しきが上がるの下がるの、米価が騰とう貴きしたために貧ひん民みんが困くるしむの、あるいは暴徒が起こるの、あるいは犯罪が増すというごとき道徳的行為も昔の簡単なる組織時代と同どう筆ひっ法ぽうで解決が出来ぬから、我々は新時代の経済界の現げん象しょうに対する道徳的態度も新たにすることは免まぬかれないと思う。ストライキの動機でも英人と米人とは違う
世には労働問題とか経済問題とか社会問題などを、とかく道徳と別に考うべきもののごとく思っている人があるけれども、人たる観かん念ねんを除いて、これらの問題は解決出来まい。しかして人たる観念の内からは道義観念を排はい除じょすることが出来ない。 たとえば近来︵第一次大戦以前︶英国でしきりにストライキが流は行やる。アメリカにおいても近来あらゆる方面にストライキが行われる。しかるにある英国人の話に、英米のストライキの性質において大いに異なるものがある。米国では給料を増すことを主として要求するし、英国においては労働時間を減らすことを主とすると言った。この差の起こる所ゆえ以んは、アメリカ人はもっと金かねを欲しい、自みずから貯ちょ蓄ちくして後ごじ日つ安楽に暮らそうというのである。イギリス人はこんにちの制度ではほとんど家族の顔を見ることも出来ない。また人間としての娯ごら楽くを求めることも不可能である、金は要いらんがもっと人間らしい生活をしたいというところにあるという。両者とも根底にさかのぼれば労働者も人なりという観かん念ねんから来ているために、いわゆる人の道をはなれて労働その他経済の問題の解決は覚おぼ束つかない。 しからばとていわゆる社会党︵わが輩は敢あえていわゆるという文字を使う︶の主張するように、現今の社会を目めち茶ゃめ々ち々ゃに破はか壊いしようというごとき簡単な案では、労働問題も社会問題も解決できない。今後は富ふう貴きの義務、労働の権利をば、法律以上に研究解かい釈しゃくして、前に言ったようにこれらのことを精神化するにあらざれば、現世界の安あん寧ねいもまた真の進歩も望むべからざるものと思う。黄金は土どか芥いか宝ほう珠じゅか
いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区まち々まちに行われているが、なお最後の解決よりははるかに隔へだたっておることは誰しも感ずることである。その根本的理由は経済的現げん象しょうを人なる立りっ脚きゃ点くてんから見ないからである。 かく長たらしく書いたことを回かい顧こすると、僕の平生の筆ひっ法ぽうとは大だい分ぶん調子が異ちがっておる。国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力を籠こめたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。国家も社会もイニシアチブがあるものではない。人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。 我々も、よし富ふご豪うし者ゃにあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに僅きん少しょうであっても、その用法については大いに思しり慮ょを要することで、金を路ろぼ傍うの土どか芥いのごとくみなすのはいかにも欲よくがなく潔いさぎよく聞こえるが、また丁てい寧ねいに考えると金は決して己おのれの物ではない。社会共有のもので、自分の懐ふところに入っている間とても、なお一時社会から預あずかったようなものである。いわば依いた託くき金んのごときものであるからして、これを無意味に浪ろう費ひしすなわち土どか芥い同然に取り扱うことははなはだ怪けしからんこととも言える。あえて言葉咎とがめをするの意ではないが、金を土どか芥い視しするのも宝ほう珠じゅ視しするのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物ぶっ件けん所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安あん寧ねい進歩は覚おぼ束つかない。昭しょ憲うけ皇んこ太うた后いごうの御おん歌うたに、
持つ人の心によりてかはらとも玉 ともなるはこがねなりけり
[#改ページ]第十七章 実業を精神化せよ
米国実業家の人生観
かつて米国フィラデルフィアにいたころ、資本額二百万円ばかりの中ぐらいな合資会社の社長をしておる四十五、六歳の男と親しく話をする機会があって、いわゆる拝はい金きん国こくの米国の実業家にもかくのごとき考えの者があるか、否いな一歩進めてこの国の実業家の中に少しく品ひんのよい者は、こういう考えで世を渡る者かと、つくづく感じたことがある。その談話の要領は彼かれの言葉のままに挙げれば、 ﹁二十年以来の知人のことであるから、君もいくらか察しられているだろうが、僕は大学の教育も受けず、幼少の時から会社に入って、今日までで三十ヵ年にもなる。その間、社務にあくせくしているのと、かつ視力の許さぬがために読書もできず、また美術の趣味を涵かん養ようすることもなく、すこぶる乾かん燥そう無味な人間になり果てて、朝から晩まで事業々々とばかり心がけて年を送った。その代りには僕が社長になってからわずか五、六年にしかならんけれども、事業の発展についてはいくらか見るべきところもある。今は四ヵ所に工場も起こし、販売係は諸所に出張さしており、配はい当とうもこの国においてはまず相当と思うだけのこともして、有難いことにはこの市内の銀行ならば僕の手紙でいくらでも金を出してくれるだけになっている。 しかし僕は学問や技ぎげ芸いに不案内であると同様に、金銭についても正しょ直うじきお話するとはなはだ無むと頓んじ着ゃくで、毎日金かね勘かん定じょうをしながら金持になってなんになるだろうと常に思わないことはない。子供の時から慣なれた職業であるから今いまさら転職するのも好まぬし、よしまた金が要いらぬというてわが輩が辞じしたならば、実際のところ社長にあたる人がない。して君の知らるる通り僕には妻もあり子供の二人もあることゆえ、自分は金がつまらないといって、山に引っ込んで妻子の苦労も顧かえりみぬというほど、僕はいわゆる神聖な人にはなりかねる。また妻子を苦しめて自分のみ潔いさぎよいということがほんとの神聖とも思わない。天が我に子供を与えた以上は、彼らをして僕以上の者にするだけの義務は僕にある。また自分の妻についても、自分が世を去ったあとで寡か婦ふとして暮らすばかりも気の毒であるに、衣食に不足のことがあるようでは、なんとも天に対し妻に対し妻の家族に対して申し訳がないと思えばこそ、金の貴とうといこともいくらか知るが、今日のところでは幸い後こう顧この憂うれいがないだけになったから、なんだこの金はと思う気が常に僕の頭を去らない。 もっとも君の見らるる通り、僕の家には、装飾品もなければ骨こっ董とう品ひんもないし、また僕の着る着きも物のは、家内のも子供のも同然、流行には添そわない。友だちにもたびたび、せめて時計だけは金きんのに代えよなどともいわれるけれども、この銀時計は子供のときから持った慕したわしい記念物だから、これを離すわけにはゆかぬ、もっとも二、三ヵ月前に自動車を買ったので、やはり流行にかかわると笑った人もあったが、笑う者に説明する必要はないけれども、僕の真しん情じょうを明あかしていうと、僕の息むす子こにだけは時勢に遅れさせたくない。して自動車はもはや贅ぜい沢たく品ひんではない。今後ますます発達するものと思えば、将来世に出て働く者はこれしきのことは心得ておらなければならぬし、かつ子供に器械だの物理だのの観念を養成さすには、何か彼が興味をもって当たる物を与えなければ、書しょ物もつの学問だけでは実際に迂うとくなると思うから、僕が要いるような顔をして実は子供に運転と使用とを馴ならさせるために買った云うん々ぬん﹂ と長時間、真情を打ち開あけて話した。個人的利益と国家社会の利益
僕はこの男とかねてより親しくしている。彼が教会において年に似合わぬほどの信用を受けておるのも、知人はことごとく彼を尊敬することも、かねて承知であるが、数時間に渡って彼の人生観、なかでも貨かし殖ょくに関する態度を初めて聞き知った。僕が彼の話を聞きながら、言葉がただの一度も社会のためとか、ましていわんや国家のためということに、わたらなかったことがあとで気がついた。 普通日本の実業家であれば、五万足らずの会社を設立するにも、その宣言には、己おのれの身を犠ぎせ牲いにして、社会に貢こう献けんするところあらんとするとか、あるいはこれ実に国家の事業なりとの意をほのめかす者がはなはだ多い。その多いのが必ずしも悪いとわが輩は言わぬ。己おのれを捨てて社会の利益を図はかるの望ましきことはいうまでもない。事ことを為なすに国こっ家かか観んね念んより打ださ算んするもはなはだ嘉よみすべきことである。 その宣せん言げんを非難するわけではないが、その実際は如いか何んと尋たずねられれば、ややもすると国家社会は言うまでもなく、己おのれの友人親しん戚せきにさえも迷惑をかけて自分のみ得とく々とくとして金を作ったり、あるいは自分一個の快かい楽らくのみに金を費ついやしている者もすこぶる多きに驚かざるを得ない。ゆえに僕は実業に志こころざす人に、社会国家を忘わすれろとは決して言わないけれども、口に出すことだけは遠えん慮りょするほうがよかろうと勧すすめたいくらいに思っている。いかなる事業でもおそらく社会に必要なる事業であれば、宣言もせずしても社会に貢こう献けんするのである。かつまたこの事業に関係する人も直接犠ぎせ牲いを払うの必要はない。仮りに何か事業を起こすとする。この事じぎ業ょうにして果たして社会に必要あるものならば、それ相応の需じゅ要ようが顕あらわれて、この会社も相応に繁はん昌じょうし、その結果相応の利益を得る。もし会社にして利益を得ないとすれば、その仕事を社会が要求しない証拠で、要求しないものを押売りしようと思えばこそ、国家事業であるから世間の人に私の品しな物ものを買えと叫さけんで押売りするようなことになりはせぬか。 社会の需要よりはるか進歩した事業でも、あるいは社会の指導者または模もは範んともなるような事業であっても、珠そろ盤ばんとなればいかに勘かん定じょうしても間に合わぬというごときものならば、かくのごときことは私しじ人んのなすよりは直接あるいは間接に国家そのものがなすのが至当であろう。もっともこの問題については経済学者、財政学者の起点より見れば、解決をするに許あま多たの考慮をせねばならぬことであるから、ここで論ずる範はん囲いでないけれども、だいたいにおいて個人なりあるいは私設会社がなすべき経済行動は、国家社会のためといわんよりは、その個人その会社の利益のためだと公言しても恥ずることはないし、また実際に当たっているのである。英米独仏いずれの先進国にしても、経済上発展を遂とげたのは個人の利益を主としたからである。個人の最良なる利益はすなわち社会国家の利益
かく言ったからとて僕は憎にくむべき意味における個人主義を唱えるものではない。西洋にいわゆる個人主義なるものには必ずしも悪い意味が入っておらぬ。すこぶる高こう尚しょうなる意味をふくましむることの出来るのは、ちょうど社会主義なる言葉の内にも必ずしもおそるべく憎にくむべき破はか壊いて的きなる思想をふくますべきものでなく、穏おだやかな高尚な建設的なる内容を、含がん蓄ちくせしむることが出来ると同じである。実業家がその業ぎょうにつくに、個人の利益を旨むねとして差さし支つかえないと断言するについても、読者の曲きょ解っかいなきことを切せつに望む。 国民が各おの個人的の最良なる利益を図はかったならば、その結果はおそらく社会と国家との利益になることであろう。僕はことさら最良なる利益なる文字に力をいれて言う。我がり利がり々も々う亡じ者ゃ連れんが他の者の事業を妨ぼう害がいしたり、競争者を中ちゅ傷うしょうしたり、人じん身しん攻こう撃げきをしたり、捏ねつ造ぞう説せつをはいたり、その他卑ひれ劣つな方法によりて得る利益は、僕のいう最良の利益とはあい反するものである。 最良の利益とは正々堂々と人の前でいって恥ずかしくないことをいうのである。この冒ぼう頭とうに話した米人の己おのれの一家のよろしきを図はかるごときは、人に対して何の恥はずるところもない。もしこの男にして一家の驕おご奢りを図はかり、その妻には流行の先駆者たらしめ、あるいは子女をしてだらしのない娯ごら楽くに耽ふけらしむることをもって、己おのれの利益とみなしたならば、これはまさしく恥ずべきことである。しかるに己おのれよりは一歩進んだ人に育てあげようという目的ならば、これまさしく国家のため善良なる市民を捧ささげるのであるから、国家のためといわないで、確かに国家の利益を図はかっておる。かつまた己おのれの事業にして繁はん昌じょうすれば、営業税も余計に収め、もって国家に対する負ふた担んも喜んで増し、また海外に輸出額がふえればこれまた国産に貢こう献けんすることであるからなおまた国のためになる。国家のためという誤解の危険
これに反し、しばしば我々が耳にするもので、しかじかの事業は己おのれには不利であるが国家的事業であるから、身を犠ぎせ牲いにしてこれに当たるなどいうことは、言葉を換えていうと、国家が個人に要求することのあまりに多きことを意味することになる。もちろん一旦たん事ある時は個人の利益や個人の財産生命も投げ出さねばならぬが、平へい生せい何事についても国民より重い犠ぎせ牲いを要求するような国家は、国家の一大目的に背そむいているもので、はたしてそういう国家が今日世界にあるならば、永続の覚おぼ束つかない国家といわねばなるまい。 幸いにして我が国では相当に税ぜいは重いとはいいながら、まだまだ個人の営業について、しばしば犠ぎせ牲いを要求するほどに弱いものでないのはお互いに慶けいすべきことである。僕の友人が地方に巡回して農民に勧めるときに、お前たちの仕事は実に国家的の事業であって、昔から農は国の本もとというたくらいであるから、いかに苦しくも、いかに利益が薄うすくとも、国家のために奮ふん励れいせよと説いて歩いた。かの意味は、多分農民みずからが奮ふん励れいして、農業を利益あるようにせよという意味であったろうけれども、普通農民の耳に入ったときは、やはり昔のごとく強制的に労働をして、ただお上かみに運うん上じょうを収める道具になるだけのことであるという観念を与えた。 晨あしたに星ほしをいただいて出いで、夕ゆうべに月を踏んで帰るその辛しん苦くも国家のためなりと思って甘あまんずればよいが、なかなか普通人情として甘あまんじてのみいるものでない。しかして甘んじないときは国家が己おのれを苦しめることのはなはだしいものである。こんな国家はないほうがいいという結論にも来たり得るし、また歴史上そういう結論をした国民も折々ある。﹁国家﹂というよりも健全なる個人思想が大切
僕はくれぐれも言うが、国家のために忠君愛国の観かん念ねんは貴とうとぶべきものにして、独ひとり教育のみならず実業においても涵かん養ようすべきものであると思う。この観念の涵かん養ようは漫みだりにくりかえすことによりて目的を果たし得るものでない。これを乱用すればかえって正反対の結果を来たすを恐れる。ちょうど欧おう米べいにおいて宗教の力の最もさかんな時には、何事についても上じょ帝うていやキリストを担かつぎ出して、その目的を果たそうとしたが、その結果を見るとかえって面白くないことが多かった。たとえば療りょ法うほうにも信しん仰こうだの加かじ持き祈と祷うだのを混合する。もちろん病気によってはいわゆる気きの病やまいもあるから、心の持ちようで癒なおる病気もあろう。してこの類の病気には信仰が著いちじるしく功を奏そうしたろうけれども、黴ばい菌きんから起こる病いのごときに至っては、宗教が入り込こんではかえって療りょ治うじの邪じゃ魔まになることが多い。 教育においてもそうである。僕自身は宗教なき教育は人の心しん髄ずいを動かすものでないと信ずるけれども、しからばとて学校の課目に宗教を入れることは、かえって教育の目的を阻そが害いするものと思う。と同様に実業にも国家や愛国を入れることは、︵僕は非常の時を言うのではない︶かえって実業の邪じゃ魔まにもなり、また国家愛国の観念にも疵きずをつける憂うれいがある。 かつて実業に従事する者は感情と実務とを混合してはかえって害あることを述べたが、今日ここに述べることも要するに同じ考えに帰する。さきに米人の言葉を取って話したうちに、感情がさらに入っていないかというと大いに入っている。すなわちその妻子を思うの感情、一ひと口くちにいうと自家の感情である。これは社会に対すれば私の感情であるけれども、その個人から見れば愛他的のものである。もし一国に危険でもあるときには、一家を愛する感情ではあるいは物足らぬ事もあろう。我が国の誉ほまれとして我々は親も捨て、はなはだしきは妻子を殺ころすまでして出しゅ陣つじんした例などを物語ると、今日の西洋人の耳には野やば蛮んに聞こゆるそうだが、かくのごとき例は幾たび聞いても、僕らの嘆たん賞しょうを買うものである。ゆえに我々は一家を捨てることをも重いことに思わない。ゆえに事あれば国のためとはいうけれど、一家のためとは絶ぜっ叫きょうしない。しかし西洋の人は戦いに出る時も炉ろへ辺んと家庭と for hearth and home を揚よう言げんする。ちょっと聞くといかにも個人的であるが、しからばとて国が仆たおれても自分の炉ろへ辺んに差さし支つかえなければ平気でいるかというとそうでない。 学者は社会の進歩の秩ちつ序じょとして、団体観念から個人関係に移って行くと説く人もあるが、欧おう州しゅうの進歩は果たしてそういう形跡を現している。日本の歴史にして果たして西洋史と轍てつを同じゅうするものならば、我々も近ちかごろ言う国家々々という声が今後いくらか弱りはせぬかと懸念に堪たえないと同時に、健全なる個人的思想に伸のびて行ったならば、国家なる語を公言することは少なくなっても、実際においてその力が強くなるであろうと信ずる。人生を甘からしむる心がけ
今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、冒ぼう頭とうに掲げた米人の言うごとく、おのおのが潔いさぎよい愛情から起算して、︵親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい情じょ合うあいに基づいて︶己おのれの日ひ々びの事務を怠おこたらず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と己おのれの預あずかっている職務に忠ちゅ実うじつにして、なおかつ思想は高く俗界を超ちょ越うえつして、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が肥ひり料ょうを施ほどこしても収しゅ穫うかく以上に目的を置き、教師が教場に出ても志こころざしを遠きに着つけ、役人が執務するに、俗務のために没ぼっ却きゃくされない、すなわち一言ごんに縮ちぢめると、吾ごじ人んが人格としてまったく世を隔はなれた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう垂すい直ちょ的くてき関係と平面的関係との調和を始しじ終ゅう図はかって行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにも顕あらわれて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。 ﹁軒けん冕べん︵高貴の人の乗る馬車︶の中におれば、山林の気味なかるべからず。林りん泉せん︵田いな舎かの意︶の下に処おりては、須すべからく廊ろう廟びょう︵朝ちょ廷うてい︶の経けい綸りんを懐いだくを要すべし﹂と。 吾ごじ人んは、いかなる低き、いわゆる卑いやしき職に従事しても心一つは高く持ちたい。 ﹇#改ページ﹈第十八章 知らぬ恩人に対する感謝
英国碩せき学がくの観みたる神しん道とうの要旨
先年交こう換かん教きょ授うじゅとして渡米するにつき、その準備の一つとして、研究というほどの深い事もないが、少しく調査したいことがあって、神しん道とうに関する書物を読んでみた。そのうちに英国の碩せき学がく、ことに日本の古代宗教および文学に精通せるアストン先生の書中に、神しん道とうは知ちお恩んと愛情の宗教なりという一句があった。これが僕の眼に大いにとまった。また同氏の説明を見てますますこの一句の味あじわいが理解せられた。 その後ごある友人が、日本の神道を研究するには、必ず黒くろ住ずみ宗むね忠ただの説を窺うかがわねばならぬと注意してくれて、懇ねんごろにもこの偉人に関する出版物を送ってくれた。これを読んでいっそうアストン氏のさきの言の誤らざると、否いな、誤らざるどころでない、実によく穿うがっていることを感じて、その後ますます恩おん誼ぎを知るの感を深めることについて、心のうちに努つとめている。知ちお恩んは日本民族の特長
古来、日本人は宗教と言い、学術と言い、中国、朝鮮をはじめ、外国から輸入して、ほとんど自国に起こった大思想、哲学、美術もないことは、誰しも承知しているが、何か日本に固こゆ有うな思想が一つでもありはせぬかと、鵜うの目鷹たかの目で、本ほん邦ぽうの制度やら歴史やらを調べると、神しん道とうだけは純じゅ粋んすいなる大やま和と民族の思想であることがわかる。 もっともこれとても、儒じゅ教きょうが入って以来、その説くところやら、その儀ぎし式きがたいそう違って来たし、ことに仏教輸入以来はその教きょ理うりさえも変化し、おそらくこんにち神しん道とうの名のもとに、世に説かるる説の少なからざる部分は、神しん道とうに固こゆ有うなものであるまいと疑う理由も確かにある。僕はさきのアストンの言げんおよび黒くろ住ずみ氏の所説を読んで、これを現げんに我が周囲に行わるるいわゆる神しん道とうに比すると、ちょうど﹃新しん約やく聖せい書しょ﹄の福ふく音いん書しょを見た目で、天てん主しゅ教きょうの儀ぎし式きを見たときに起こる感かんよりもさらに不ふゆ愉か快いなる思いを起こす。ゆえに僕は神しん道とうの純粋なる教えを重んずると同時に、その名を冠かぶっていろいろなる迷信を説といたり、あるいは頑がん冥めいな排はい他たて的き主張を恣ほしいままにする神しん道とうの宗派をいうのではない。アストンにしても、黒くろ住ずみにしても、その説くところ間違いなきを保ほし難いが、我が固こゆ有うの教えは知ちお恩んの念に満みてるものなりとの一条は過あやまちなしと信ずる。 しかして神しん道とうが日本民族固こゆ有うの観かん念ねんを代表するものならば、恩おん誼ぎを知るは取りもなおさず日本民族の特長であると断言してよかろうと思う。恩の観念は固有か輸入か
しかしここに奇きた態いに思うことは、古い言葉にはあるいはあって、僕の無むが学くのために知らぬのかは測はかられぬが、恩おんという字に和わく訓んのないことである。こういったなら、和わが学くし者ゃのお叱しかりを受けて、こういう訓よみがある、ああいう訓よみがあるという反はん証しょうが出るかも知れぬが、それにしても、これほどな大やま和と民族の特長が、普通一般に漢かん音おんで流通していることは情なさけない。 恩おんの漢音はすこぶる発はつ音おんに便利で、耳障ざわりもよいから、ながたらしい大やま和と言葉の代りに通用するにいたったかも知れないが、実際我々がこんにち外国の言葉を用うるは簡かん単たんであるからとて用いる。単語は何か新しい思想を含んだものであって、普通にある言葉をわざわざ西洋語を借りて言い表わすことは、よしあっても稀まれである。 マッチという詞ことばは今どんな田いな舎かでも用いている。しかるに僕の子供のときは早はや附つけ木ぎといったものだ。今はそんなことをいうものはほとんどない。早はや附つけ木ぎというよりもマッチというほうが簡単だからでもあろう。さらばとて単に簡単だという理由で、従来用い来たった詞ことばなら早はや附つけ木ぎをマッチと替かえることはない。従来は附つけ木ぎだけはあったが﹁早はや﹂なる形容詞を冠かぶせて通用させようとしても通用しなかった。﹁ランプ﹂を行あん燈どんとも手てし燭ょくとも翻ほん訳やくしない。ペンのごときは僕らが始めて洋よう学がくを修おさめるころには筆または金かねの筆と訳したものだ。しかるに今は日本のすみずみに行ってもペンで通る。金かねの筆というよりはペンというほうがむしろ簡便である。さればとてペンなる言葉をかりて、古来あった筆の文字に代用することはない。そこで恩おんという言葉も発音の易やすきからとて、従来あった思想に代えたものか少しく疑いが起こる。恩なる観念はやはり儒じゅ教きょう、仏ぶっ教きょうから入ったものでなかろうかと疑いが起こって来る。 僕は世の言語学者に望みたきは、いま用うる文字こそ漢かん音おんなれ、思想は大やま和と民族の特長なりということを、言語のほうからも証拠を明めい瞭りょうにする一条である。日本人ははたして恩知らずか
単に右のごとくいうたなら、僕がアストンの説に反対の考えでも持ち、あるいは黒くろ住ずみの教えが黒くろ住ずみという個人より起こったもので、大やま和と民族の代表的思想にあらざるとでも主張するごとくに聞こゆるだろうが、僕はあくまでも恩おんを知ることは神しん道とうの基礎、大やま和と民族の美風なることを信じたいのである。 西洋人はともすると、東洋人は恩おんを知らないという。また我々とても相そう互ごに、彼きゃ奴つは恩を知らぬ奴やつだといって悪あっ口こうする。恩を知るをもって大やま和と民族の特長などと誇ほこっても、しばしば自分に顧かえりみないと、人から受けた親切ほど忘れやすいものはない。否いな、人のしたことが、はたして親切であるか不親切であるか、その区別すらもなかなかしない。また人が我がためにしてくれたことの程度は、はなはだ鑑かん別べつしにくいものである。このへんの弁わきまえを誤ると、とかく他人の眼には、恩おん知らずの感を与える。 ことに西洋人が日本人は恩を知らない国民なりというのは、この辺から起こっているらしい。すなわち日本人は恩を知らないのではなく先方の人がどれほどの親切でしたのかが分からぬために、有難うというべきところを言わなかったりする。すなわち事情が判然せぬために、思想までが大変違うように思わしむる惧おそれがある。そこで外国人の書いた書物のうちに、折々日本人の短所の中についても、恩知らずの譏そしりあることは、これは仮りに誤解から起こったとみなしておいて、しばらくこれは預りとしてここには省はぶこう。ここではもっと手近ぢかい、お互いの間の交際上、恩おん誼ぎの観かん念ねんについて注意すべきことを述べたい。思わぬところに恩人が潜ひそんでいる
恩おんを説とくに当たって、いわば恩の部類について一言したい。四恩おんなるものはなにかとか、あるいは中には五恩おん六恩おんと数える人もある。けれどもこれは我々によきことをしてくれた相手によって分けたことで、たとえば向こうの人が君きみだとか親であるとか、天てんであるとか地ちであるとか、友ともだちであるとか、あるいは従じゅ僕うぼくであるとか、それぞれ恩おんを施ほどこしてくれた相手によりて区別したるに過ぎぬ。 受うけ身みの立場からいうたら、目めう上えの人から受けた恩おんよりも、目めし下たの者から受けた恩おんのほうが大きいこともある。自分の君くん公こうからお古ふるの裃かみしもを頂ちょ戴うだいするのは、昔では非常の恩おん誼ぎとみなした。しかし自分の従じゅ僕うぼくが一命を捨て自分の難を救うほうの恩おん誼ぎははるかに重いと僕は思う。 あるいは君きみなるものは自分に対して常に衣いし食ょくを給きゅうしていて日ひごろ生命の基もとである。ゆえにこれに報むくゆるに常に生いの命ちをもってすべきものを、自分の生いの命ちを取らずにかえって裃かみしもの一ひと組くみでもくれるというは、その物は僅わずかであっても、その心は我々の期待するよりはるかに以上であるから、その重きことは日ごろ給料を与えて、自分のために忠勤を擢ぬきんずべき義務をもっている従僕が、たまたま難に遇あって自分を救ったよりは、ものそのものはいかに軽くとも、君くん公こうの賜たま物もののほうをはるかに重しとすべき議論も一通り立つから、僕とてもあながち絶対的に君くん公こうの拝はい領りょ物うぶつは家けら来いの命いのちより軽いと一般にいう訳ではないけれども、君公だとか従僕だとか、社会的の区別をすればこそ、些ささ細いのことが大きく思えたり、重いことが軽く見えるが、自分のために宜よきを計り、自分に尽す親切の行為を計れば、思わぬところに僕の恩おん人じんが潜ひそんでいて、その人の恩おん誼ぎをさらに感知しないで、見当違いの方かたに無むや闇みに有難がっていることもあり得ると思う。 であるから、僕は如何なる人が、如何なるほどに、僕のために心や身を労ろうしてくれたか、つぶさに考えて、これを常に心に銘めいじておきたいと思うのである。人も知らず自身も知らずに受ける恩
ただこの事について心に記憶したきことは、明らかに我の耳に達したこと、あるいは我が目に映うつった行為のほかに、人も知らず、我れ自身も知らないでいる恩おんがたくさんあることである。かくのごとき恵めぐみが人生の中に数かず限りなくあることを常に記憶に存そんしておきたい。たまには誰が告つげるとはなしに、ふと心に有あり難がた味みを覚えて、ほとんど相手知らずに帽ぼうを脱だっし、跪ひざまずいて、有難さに、涙に咽むせぶこともある。誰しも必ずこの経験があるだろう。もしこの経験のない人あらば、そは不幸な人である。天の恩はいうまでもなく、朋ほう友ゆうや親などのすることに、とかく秘密にわたって、受ける本人は夢にも知らぬことがしばしばある。なにか面めん倒どうな事件があって、これを処理しに出かけると、案外にもすでに半分以上解決されておったなどということがある。 これは不思議と思って、だんだんその理由を質ただすと、前日友人が来て半なかば以上悶もん着ちゃくを解決しておいてくれたなどということが、数日あるいは時によっては数年経たって初めて発見されることを自みずからも経験したし、世には必ず同じことを感じた人が数あま多たあろう。今もなお不明なる僕の受くる恩
はなはだ事が私事にわたるようで、ことに小なことで、人に語るに価あたいもないか知らぬが、かほどな些ささ細いなことも、好意をもってすれば、かほどに人の心を感動せしむるものであるという証拠に、ここにこれを述べる。 僕が札さっ幌ぽろの郊外に一個この墓はかをもっている。札さっ幌ぽろの天地は僕の青年時代に学問したところで、さなきだに第二の故郷として慕したわしいが、この慕わしき念をいっそう深からしむるものは、この小さき墓ぼ地ちである。ゆえに折々かの石せき碑ひの周囲に雑草がはびこって、見すぼらしくなりはせぬか、石が倒れて見る甲か斐いなきようになっておるまいか、悪いた戯ずらの子供らが石の上に落らく書がきでもして不ぶさ作ほ法うになってはおらぬかと、折々心を痛いためることがある。それゆえ友人に頼み、ついでの時に見みま巡わってもらったが、彼が墓所へ行ったつど、報告してくれるに、いつでもいつでも草はきれいに刈かられ、周囲がすこぶる整然していると。ここにおいてあまりの不思議さに、同じ友人に依頼して誰が掃そう除じしてくれたるか、もし判わかったならば礼もしたいから、住職なり番人なりに質ただしてくれと、いって送るけれども、友人の穿せん鑿さくではなかなかかくも墓地に対して好意を示す人を探し得ない。 今もなお僕にはその人が知れない。しかるにこの事たる、事態は茶さ話わの話題にもならぬくらいなるが、僕にとっては人情のまことに柔かきところと深きところとを窺うかがわしめて、感謝と喜びの念を深からしむることが少なくないのである。 それにこの行為をなす人はおそらく唯ただ一人であろう。しかるに誰ということの判わからぬ間に、僕の心には果たして一人であるか二人であるか三人か、加しか之のみならず一人であるにしても、あの人であろうか、この人であろうかと推すい量りょうを運めぐらすのが大おお勢ぜいの人に関するから、つまり大勢の人が僕には恩人のごとき感を与えている。渡る世間に鬼おにはない。かれこれ僕は大勢の人に非難を受けるけれども、また世には心からしての友があるという自覚を強からしめて、折々不ふゆ愉か快いなことのあるあいだにも、かくのごとき小な事が、燈とう明みょうのごとく輝いて、人生の味あじを甘からしめる。惨さん憺たんたる一高の入学試験
僕が第一高等学校に在職中ことさらに僕の感じたことがある。それはある夏学校の入学試験の際であったが、今は名も知れているけれども、これを明かすの必要もなし、あかしたならかえって迷めい惑わくの種た子ねともなろうから、姓名を省はぶいて話そう。あるいは偶然にも話題の主の人の眼にこの書が触ふれたならば、あの時の男は彼であったかと思わるるであろうが、僕はこれを美談と思うから隠かくさずに話する。 七月の初め、一週間ばかり続いた暑あつさの強い日がちょうど全国の高等学校入学の試験の定てい日じつであった。中学を卒業した四月から、以来は三度の食事も省しょ略うりゃくするほどに時を惜おしみ、夜も眠らず、眠ねむ気けがさせば眼に薄はっ荷かまでさして、試験の準備に余念ない三千ちかくの青年が、第一高等学校の試験場に群むらがり来たり、いよいよ教室に入るその刹せつ那なまで、準備を怠おこたらぬくらいであるからして、試験以前の十日間の勉強は実に兵士の戦闘準備どころか、実戦にとりかかっていると同じ感がする。すなわち試験以前の一旬じゅ間んかんの惨さん憺たんたるさまは父兄友人はいうまでもなく、少しく今日の日本の教育並びに試験の制度を知るものは、察するにあまりありというくらいである。ゆえに中には試験の始まる前に、すでに根気がつきたり、病に罹かかったり神経衰弱あるいは脳貧血あるいは不消化不ふみ眠んし症ょう等に罹かかるものは、おそらく百をもって数えるであろう。入学試験中、俥くるまを待たした不思議の婦人
さきにいった、第一高等学校の試験の初日であった。僕が各教場を通って廊ろう下かに出て、玄げん関かんの側を歩あゆんで来ると、ちらりと眼に映うつったものは、分館の玄関のわきに一台の人力車の傍に立っている車くる挽まひきと、これを隔へだつること一間ばかり傍に、袋ふくろを手にしている四十ちかくの婦人であった。試験の最中の事であれば、三千になんなんとする青年を収容した学校も、百人ちかくの試験官の見み張はり監督していても、ただ水を打ったように静せい寂じゃくを極めて、廊ろう下かの板をふむ巡視の靴くつ音おとさえも聞こえないほど静かで、ほとんど人なきがごとき様さまであるところの玄関に、何用あって婦人のいることか、その理由もちょっと解し難かったから、僕は小こづ使かいに代って、この婦人に向い、その用を質ただして、 ﹁もし学校の事務所に御用ならば、あの玄関へ、もし生徒の寄きし宿ゅく寮りょうに御用ならば、そちらの玄関でお尋たずねなさい。ここにはちょうど試験の最中で人がおってもいないようなものです﹂ と心ここ附ろづけたが、その婦人はさもそのへんのことは承知のごとく、妙みょうな顔をして、 ﹁ハイ、ここで待っております﹂ というだけで、さらに動く様子も見えなかったから、 ﹁貴あな女たのお尋たずねになる方は、ここにいる人ですか﹂ ﹁ハイ、いま試験しております﹂ ﹁そんなら、先生ですか、生徒ですか﹂ ﹁生徒でございます﹂ ﹁生徒ならばまだ急に出る訳には行きますまい。試験は十一時までですから、もう二時間もあります﹂ ﹁ハイ、それも承知しております﹂ ﹁そんなら、もう二時間もここでお待ちになるのは非ひど道いですから、あちらに休む所があります。それとも急な事なら、私が取次いであげましょう。そうでなければ、十一時に出なおして、お出になったら宜ようございましょう﹂ と心ここ附ろづけたが、この婦人はさらに去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、 ﹁ただこちらで待っております﹂ というだけなので、僕はますます奇きた態いに思って、かつ側そばに俥くるまのあることゆえ、何か容易ならぬ仔しさ細いもあらんと察して、一しお念入れてその用向きの次第を質ただしたところが、 ﹁今試験をしておりますが、昨きの日う自う宅ちで眩めまいがしましたから、今日ももしやそんなことでもないかと思って、ここに待っております。まさかの時には連つれて帰るつもりで、俥くるまを頼んで参まいりました。それに今け朝さ飲む薬も、いそいでいて忘れましたから﹂ といいながらしきりに懐ふところの中に手を入れて、薬を出しそうにするから、 ﹁私がその薬を飲ましてあげましょう﹂ というたが、 ﹁これはご飯の後で、すぐ頂くのですから、もう遅くていけますまいし、またもしや私がここに参っていることでも知れると、試験のためにようございません﹂ ﹁それじゃ、名はなんといいますか﹂ ﹁…………﹂ ﹁何番ですか﹂ ﹁番号もハッキリしません、……英法です……もしや知れると、恥ずかしがりますから……﹂ ﹁ここの試験では、毎年三、四名ぐらい眩めまいする者ができたり、その他いろいろの病人が起こるので、監督の先生たちは、そういうことに始しじ終ゅう気をつけていられるし、また係りのお医者もあって、そんなことがあると、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうがゆきとどくだろうと思いますから、心配なさらずに、お帰りになっても大だい丈じょ夫うぶでしょう。しかし念のために番号だけわかったら知らせてお置きなさい﹂ ﹁…………﹂ ﹁イエ、御当人にわからないようにして、見はりをつけてあげますから、当人にはなにも知らないように、お医者さまと監かん督とくの先生に、ことさら注意をするようにお頼みしておきますから、安心なさい﹂ といったので、始めて何なに部ぶの何番ということを告つげたから、さっそくその教室に行って、入ってみると、なるほどその顔形がいかにも件くだんの婦人によく似た青年で、まさしく両者の関係が親子であることが判はん然ぜんした。彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念ない態さまであった。僕は係かか員りいんの先生やお医者さんにもことさら注意を頼んで、その教場を去って再び玄げん関かんに来たときは、母なる人の姿も俥くるまの影も跡が見えなかった。見る人毎ごとに有難からぬ人はない
十一時の鐘かねが鳴ると同時に彼も教室を出て、下げ駄たをはいて友人と笑いながら話をしているのを僕は認みとめた。これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったなら、母の安心はいかばかりであろうと思いつつ、彼の姿の門を出いずるを見送った。彼は友人と肩かたをたたいて談笑しつつ去ったが、おそらく彼の脳のう髄ずいはただ試験の答案をもってのみ満みたされて、母の苦心に考えを向ける余地はなかったろう。しかるに奚いずくんぞ知らん、彼が無難に何時間の試験を経へ、その翌日もまたその翌日も無難に経へたことは、彼の学力のみによると思ったなら、大いに見当がちがっておりはしまいか。 彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬ間まにとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を擁よう護ごする母の情愛があって、始めて無難な試験を経へたものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。 右はただ僕の実見にふれた一例に過ぎぬ。かくのごとき恩おん愛あいは人の眼を忍しのんで、世にあまたあると信ずる。いな、あまたどころではない、かくのごとき情愛は空中に満みちていると思う。ただこの満ちている情愛に触ふれていながら、これに感ずるに鈍にぶきわれわれの心情こそ、遺いか憾ん至極である。感応の力にして鋭えい敏びんであるなら、いたるところありがたからざる場所はなく、見る人ごとにありがたからざる人はない。 黒くろ住ずみ教の開祖宗むね忠ただ翁の歌に、第十九章 言葉の心
名は命名者の心を表わす
﹃荘そう子じ﹄に﹁名は実じつの賓ひんなり﹂とあるごとく、実じつは主しゅにして名なは客かくである。言葉も同じく考えの賓ひん、思想の客かくなりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉きっ凶きょうありとて、ことに近ごろ姓名判断など盛さかんに流は行やる。しかし名なと実じつとが相あい伴ともなわねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若しくはない。 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老ろう子しの言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語の用ようは思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が足たる。遊ばせ言葉は暇ひまつぶしでかつ煩わずらわしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も自おのずから物や思想の実じつを現すだけで用ようの足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに止とどまらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。古こじ人んの曰いわく﹁言げん者はみ身のぶ之ん文な也り﹂と。日本の諺ことわざにも﹁言葉は立たち居いをあらわす﹂というが、これはただ品しなや育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。 僕の知れる老人に滑こっ稽けい趣味に饒ゆたかなものがあった。封建時代には従じゅ者うしゃや出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者を冷ひやかしながら、 ﹁貴きさ様まが笑うときの顔はまるで猿さるのようだ。これから姓名を改めてはどうだ﹂ といい、真ま面じ目めになって猿さる嘉かという命名書を与えた。爾じら来いこの若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお猿さる嘉か氏を称している。また老人の親しん戚せき中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに半はん耳じと命名したという。これらの命名は客観的にその人々の特とく徴ちょうを言い現したものだといえば、名は体たいをあらわすといわれる、いわゆる名みょ詮うせ自んじ性しょうとやらである。しかし若者某ぼうのごときは、ただ笑うとき猿さるに似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。おそらく他にも種々な特とく徴ちょうがあったろうと推量する。彼が怒いかる時は鰐わにのごとく、酔よった時は河かっ童ぱのごとく、しかして睡ねむった時は仏ほと顔けがおであったかも知れぬ。また半はん耳じく君んにしても然りである。彼は耳に異状がありしとするも、口くちなり鼻はななり業なり平ひらをしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。 しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて指して摘きしたのである。彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。もし好意をもってすれば、猿さるだとか、耳じ朶だが半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、愉ゆか快いなる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。言葉はこれを用いる人の心を表す
用語においてはなおさらである。これは何なん人ぴとでも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲うん泥でいの差がある。優すぐれた人を評するにつけても、 ﹁あの男はエライ﹂という者あり、 ﹁エラそうだ﹂というもあり、また、 ﹁エラぶる﹂というもある。 ﹁まるい鶏たま卵ごも切りようで四角﹂。 ﹁物も言いようで角かどが立つ﹂。 俗に﹁糞くそも味み噌そも一緒しょにする﹂というが、味み噌そを見て糞くそのようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態たい度どに大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑えみを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 ﹁巧こう言げん令れい色しょくの人、阿あゆ諛てん佞ねいの人﹂ と評するし、乙は、 ﹁よいぐあいに世渡りする上じょ手うず者もの、愛あい嬌きょうを振りまく八方美人﹂ という。また丙へいは、 ﹁真に人に接して城じょ壁うへきを設もうけず一いっ視しど同うじ仁ん的の愛情の深い人だ﹂という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親しん戚せき関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見みようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒てらうと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇こん切せつによく説明してくれたと謝しゃする。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。 こういう例をあげきたれば、何なん人ぴとにもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一杯ぱい飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗そしる人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉ぎょ露くろを出す必要はない、彼は﹁戊ぼし申んし詔ょう書しょ﹂のご趣意をよく奉ずる、感心な乃のぎ木し式きの人なりと讃ほめる人もある。 また昔せき時じシナの妃きさきが庭園を散歩し、桃ももの熟じゅくしたのを食い、味の余りに美びなりしに感じ、独りこれを食くろうに忍びず、食くい残しの半分を皇帝に捧ささげ、その愛情の深きを賞せられ、寵ちょ愛うあいいよいよ厚きを加えたが、その後妃きさきの寵ちょう衰おとろえたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件けんによりて罰ばっせられたという。寸すん分ぶん異ならぬ同一事実のものでも、見みようによりては褒ほめることもできれば、誹そしることもできる。賞することも罰ばっすることもでき、殺すことも活いかすこともできる。同じことも見聞する人により霄しょ壤うじょうの差を生ずる。同じ事が弁解にもなり有罪にもなる
僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。彼は日ひならずして無罪を宣告せられたが、逮たい捕ほの理由は彼がある嫌けん疑ぎし者ゃに数千の金かねを与えたというにあって、裁判官が、 ﹁なにゆえに貴きさ様まはかかる大金を彼に与えたるか﹂ の尋じん問もんに対し、彼は、 ﹁彼が嫌けん疑ぎがましいことをなすにつけ、いついかなる運命に陥おちいるかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は繋けい獄ごくの身となるも悔くゆることがない、ついては若じゃ干っかんの金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一片ぺんの義ぎき侠ょう、これを否いなむに忍しのびず、彼のために出しゅ金っきんした﹂ と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を共きょ謀うぼ者うしゃなりとみなした。すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、憐あわれであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいと告つげた。友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中に湧わきいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一滴てきにだも値あたいせずと絶ぜっ叫きょうしたと聞いた。金を与えたという事実は同一なるが、これを叙じょするに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。かくの如き曲解も起こる
また僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真しん影えいに最敬礼して登とう壇だんし、今こん日にちの教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠おこたりがちである、ゆえになにごとに対しても﹁イエス﹂と﹁ノー﹂の区別さえもできぬものがある。自分が爾しかく思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾しかく思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯たわむれてくすぐる時は﹁叔お父じさんいやだ﹂といいながらも、止とめればまたからかってもらいたい風ふうをするごとく、真にいやなのであるか否いなかわからぬのと同じである云うん々ぬん、と述べた。 すると傍ぼう聴ちょ者うしゃのなかに、痛いたくこの演説が癪しゃくに触さわった者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚はばからず猥わい褻せつなる語ことばを用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。 講演者はいかなる点が猥わい褻せつであるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと﹁いやだいやだ﹂で始まる猥わい褻せつの歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥わい褻せつと思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑がん是ぜなきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自みずからしばしば唄った甚じん句くか端はう唄たを思い出したのである。いかなることでも揚あげ足あしをとり曲解することは容易なる業わざで、口の先は偉い力を有するものである。不快の感を与うる言語
我が邦くにには西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。そのなかに﹁何々しやあがった﹂というのは一つである。また﹁何々をしてやった﹂というも一例である。まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら﹁上あがった﹂というのでむしろ鄭てい重ちょうな言葉と思うであろう。しかし日本人間かんにありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。たとえば、 ﹁何なに某がしは死にやあがった﹂ ﹁誰は結婚しやあがった﹂ ﹁勉強しやあがった﹂ ﹁昇しょ進うしんしやあがった﹂ といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。これはおたがいに常に耳にすることである。僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に不ふゆ愉か快いに思い、また人を陥おとしいるる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想を懐いだく。 また﹁シテヤッタ﹂という言葉が広く行われる。むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少し癪しゃくに障さわったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手も凹へこんだようだったと。僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士を訪たずねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士は曰いわく、 ﹁それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、明めい瞭りょうにその言うところの意味がわからなかった﹂ といい、進んで滔とう々とうとしてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は﹁やっつけた﹂と大いに誇こち張ょうしていい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだ陋ろうかつ小であって、先方を困こまらす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来らい訪ほうを受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を訪たずねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかに某ぼうを重じゅ大うだ視いしし、某は彼に対して無むと頓んじ着ゃくなりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始しじ終ゅう起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。邦人間に行わるる嘘の原因
そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘うそをつくというが、悪意をもって嘘うそを言わなくとも、事実に違ったことを吐はく点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠かくためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて嘘うそをいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪りん廓かくが円まる縁ぶちであればただちに円いと言い、屈くっ曲きょくさえあれば円いというも、その円まるというのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真まん円まると解するゆえに円まるならぬものを円まると嘘うそをいうとする。 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に混こんじやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭いや味みを付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が曇くもれば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。 これに反して鄭てい重ちょうなものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。 手紙の文中に﹁恐縮の至り﹂﹁欣きん喜きの至り﹂などあり、西洋でも書しょ簡かん文ぶんには、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、 ﹁貴き下かの柔順なる忠ちゅ僕うぼく﹂ と直訳すると、邦ほう文ぶんの﹁頓とん首しゅ﹂、﹁再さい拝はい﹂よりひどく聞こゆれども、この句の源みなもとはさほど卑ひく屈つの意ではなく、 ﹁貴き下かに serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う﹂ の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が夥おびただしいから、人の葬そう式しきに悔くやみに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正しょ直うじきな人は惑まどわされる。古人の歎なげける一首に曰いわく、 偽いつはりのなき世よなりせばいかばかり人ひとの言ことの葉ははうれしからまし心から湧 き出たものが真の言葉
用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる
僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉えん曲きょく巧こう妙みょうなる言葉の下もとに骨ほねを銷しょうすることもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭いや味みたっぷりの文句や人を陥おとしいれる言い振ぶり、人に無ぶれ礼いする語を用いることはなはだ慎つつしむべきことである。僕自身が田いな舎か生まれではなはだ不ふき謹んし慎んの語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。
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第二十章 忠告の取捨
教訓を責せめ道どう具ぐに使うなかれ
こういう僕もこれより言わんと欲ほっすることについて、自みずから反対の例となるの恐れなきにしも非あらざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。 老人らが懇こん々こんと吾ごじ人んに身の治おさめ方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維いし新んぜ前んの話をしているわいと、馬ばじ耳とう東ふ風うに聞き流すことが多い。また吾ごじ人んの真情や実況を一通り心得ている友人が懇こん切せつに我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ俺おれの腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸むな底そこで笑いたくなることもある。 またわれわれが﹃論語﹄や﹃聖書﹄を読み万世不ふき朽ゅうの金言と称せらるる教訓に触ふれても、甘うまいことをいっている、この訓おしえは某たれそれに聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心ここ地ちすることがままある。 ゆえに、少しく油断すると聖せい人じん君くん子しの言葉を用いて他人を責せむる道具とする懼おそれがある。さればこそ、他人を偽ぎく君ん子しと呼び、不忠不義と罵ののしり、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を罪つみするごとき面白おかしいことがとかくありがちである。 こういうふうに他人が吾ごじ人んのために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先せん賢けんが血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境きょ涯うがいに達しない、すなわち自己の非ひを悟さとらず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が吾ごじ人んの境きょ遇うぐうを充じゅ分うぶん知らぬゆえである。教訓を味わう力が足らない
今しばらく第一の点について一言したい。これをいうについては例のとおり僕は自みずから経験した恥はじもさらさねばならぬ。 たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ不ふし始ま末つであった。不始末といえばあるいは他人を借り倒したり、人に迷めい惑わくかけたりするように聞こえるか知らんが、それほどにまでは不始末を実行したとは思わぬが、僕のいわゆる不始末は、小使帳をつけないとか、予算を立てないということである。これがために自分が知らないうちに懐ふところが空からになったり、旅行中に費用が不足したりすることが折々ある。このことについては親しん戚せき友人から折々忠告もされたが、しかし非常に行きづまって進退これきわまるときまで、その忠告のいかに懇こん切せつに、いかに穿うがっているかを味わうことができなかった。 ﹁子を持って知る親の恩﹂﹁孝行をしたい時には親は無し﹂ と諺ことわざにいうごとく、親が存ぞん命めいで孝行する機会のあるときに孝道の教訓を聞いても、なに分かりきったこと、百も承知と思いながら怠おこたるが、親無きあとで﹃孝こう経きょう﹄を読みかえすと、初めてその﹁経けい書しょ﹂の真意が明らかになる。これ故こじ人んの忠告が不足なるにもあらず、﹃孝こう経きょう﹄の悪いのでもない。ひたすら自分が訓戒あるいは忠告を理解するの力なく、これを受け容いれる襟きん度どのなかったためである。くどくどしく細かいことをいうようだが、具体的の例をあげると、酒好きの者に飲酒の害、禁酒の徳をどれほどくりかえしても、なかなか耳に入らぬが、いよいよその害毒が身におよんで病いにでもかかると初めて成るほどという観念が起こる。 また放ほう蕩とうにふけっている者も同じことで、耽たん溺できしているあいだは﹃論語﹄をもっても﹃法ほけ華きょ経う﹄をもってもなかなか浮かびきれない。説とけば説くほど自分に関係ないことのように心得て、﹁君の言うことは一々もっともだが、僕の場合は少し違う。君が心配するほどのことはないよ﹂底ていの考えでますます深みに陥おちいるのもわれわれはしばしば見る。しかるにこの人にして相手方が彼を欺あざむくか、あるいは自みずから飽あきてくると初めて目が覚さめる。かつて友人のいったことがテッキリ自分のことであった、﹃聖書﹄の文句の何章何節は、自分個人のために書かれたものであるごとく感じられてくる。聖哲の教訓はなにゆえ凡ぼん人じんに入り難きか
いったい聖人君子の教えと称するものは、長いかつ広い経験に基づいたことは多いとはいえ、抽ちゅ象うし的ょうてきのものが多くて具体的でない。いわば汎はん論ろん的てきで、各論的でない。万民に演のべた言で個人に述べた言でないからして、とかくわれわれ凡ぼん人じんの頭には入っても腹の底に沁しみることが薄うすい。 大ざっぱの教訓も、すなわち忠義でも、孝行でも、信義でも、いずれも抽象的で、いかなる国民にも、いかなる境きょ遇うぐうの者にも応用できるだけに、これは俺おれのことだと私の意味に取ることは薄くなる。それゆえに先に述べたように、こういう文字は人を責せむる道具に用いるほうがむしろ多いかと思おもう。彼は不忠者である、彼は不孝者であるという言葉はしばしば聞くが、俺おれは不忠である俺は不孝であると感ずることは少ない。またたまたま己おのれの非を自覚しても、すぐに俺おれはまだ某たれ々たれほどに堕だら落くせぬとか、あるいは俺おれの場合は特別であると自みずから義ぎ︵justify︶せんとしたがる。 実際僕が今こうしてこのことを書きながらも、僕自身が人を責めておりはせぬか、この文を草そうするよりは、むしろ退しりぞいて己れ、果たして忠なるか、己れ果たして孝なるかを考えるほうが筆取るよりも急務ではないかとまったく思わぬでもない。これを思うと同時にまた若い時につまらぬことながら僕がここに言わんと欲することを言ってくれる人があったなら、いくらか誤りも少なかったろうにと思いかえしてまた筆を取る。余らの学校時代には徳育が無い
決して誰たれ彼かれを怨うらむわけではないが、……もし怨むとすれば時勢を怨むというよりほかにないが、……明治十年前後、僕が学校ざかりの時分には、日本の国は教訓については︵道徳とは言わぬ︶沙さば漠くの時代であった。 僕の十歳代の時を顧みると年長者なり、先せん輩ぱいなり、親切に指導する者ははなはだ少なかった。有ゆう為いなる人物を育てるようには、心がけた人がたくさんあったが、正しい人間を造ろうということには心のうちには、いずれも思っていたろうけれども、これを形に顕あらわして自みずからこれを個人に及ぼすことのはなはだ少ない時代であった。ゆえに神しん経けい質しつなる僕のごとき者は、︵僕と同感の青年が何万とあったろう︶すがりよって、教えを求めようと飢うえ渇かわいていたものである。しかるに親切な人も正しい人も許あま多たあったが、時代の要求は少しは悪い奴やつでも役に立つ人じん才さいを要する傾向があったから、教育上道徳観念を養やしなう者はほとんどなかった。ゆえにこれを求むる者は勢いきおい書物に依よったのである。 しかるに残念なことには書物にあることは前述のごとく抽ちゅ象うし的ょうてきであるから、未熟の頭あた脳まには入りにくい。たまたま入れば自分を省かえりみるより他人を責むる道具となる。訓戒の値ねう打ちを知る法
そこで僕は始しじ終ゅう思うに、個人の訓戒を実際に施ほどこすには、その抽ちゅ象うし的ょうてき教訓を具体的に翻ほん訳やくしなければならぬ。この翻訳をするには、一つには伝記を読んで、何だれ某だれがどういう誤りをして、どういう結果に陥おちいった。そしていかなる法によって、取り返しをしたかを知るが一つ。また一つには年ねん輩ぱいも境きょ遇うぐうも同じような親友とたがいに真情をうちあけて、俺おれはこういうことをした、あるいはこういう悪い考えが浮かんで困ると語り合い、また友人の実験を聞いて、実際の人生にいかなる誘ゆう惑わくのあるものか、自みずから知らぬ経けい験けんを具体的に他人から聞きただすも一つの法であろうし、また自みずから退しりぞいて想像して、己おのれがかくのごとき場合に陥おちいったならば、いかに身を処しょするかを、考えるもまた一法であると思う。 僕がいま最後に述べたことは、子供らしい方法で、世間の物もの笑わらいになるか知らぬが、少なくとも僕のごとき平凡なる青年にはすこぶる役に立った方法である。たとえば今に記憶に残っていることも少なくないが、十五、六のころ一人で想像して、もし俺おれがかくかくの困難に陥おちいったときは、自分はどうしよう、もし俺おれがかくかくの誘惑にさそわれたときには、こうしようと夢みるごとくに描いた仮定が、その後しばしば役に立った。今後も役に立つであろうと信ずる。事に当たって惑まどうときも苦しむときもちょっと一歩退しりぞいて、 ﹁ハハアこれはいつぞや夢に見たこういう場合に当てはまる。そのときにはこうしようと思ったが、今日その通りできぬはずがない﹂ と、こう思うと大概のことには、かねての準じゅ備んびがあるがごとき自信を抱いてくる。ゆえにこの想像がなかったならば狼ろう狽ばいすべかりし場合にも、うんこれは例の夢が実現せられているんだと、思いきりがつく。もっとも聖人君子ならざる身であれば、事に当たって一時惑まどうは遺いか憾んながらあっても、そのことをかねて期待しておったとおらぬとはたいへん違う。彼の有名な業なり平ひらの辞世を見ても、
とある。業なり平ひらという人は文芸に優秀なることは言うまでもないが、その人となりについてどれほど根底のたしかな人か知らんが、その臨りん終じゅうになって、﹁昨きの日ふけふとは思はざりしを﹂とのこの句はちょっと不ふ意い打うちをせられて、あわてたようにも聞こゆるけれども、もし彼にして﹁遂つひに行く道﹂を兼かねて聞いておらなかったならば、彼の狼ろう狽ばいは定めし見苦しかったものであろう。
抽象的の教訓も初めて具体的に会えと得くする
僕がさきに述べた、艱かん難なん誘ゆう惑わくを仮想的に描いて、これに対する方法を定めよとは、まことに子供らしいことはわが輩も承知である。これを読む諸君なかんずく聖人、君子、英雄、豪ごう傑けつらは、僕の言の幼稚なるにふきだすであろう。けれども僕はしばしば言いしとおり、僕の同どう僚りょうたる凡ぼん人じんに対して話をするのであるから、よろしく非凡の人々は諒りょうとしてもらいたい。 この仮想によって、抽ちゅ象うし的ょうてきの教えを具体的に翻訳して初めて意味が明めい瞭りょうにかつ実際的になり得る。明瞭に実際的にならなければ、いかなる金言もなんの値あたいもない。そのかわり明瞭に実際に自分の言行を支配する力があれば、いかなる卑ひけ見んも黄おう金ごんの値あたいを有するにいたる。それであればこそ路ろぼ傍うで耳じ朶だに触れた一言が、自分の一生の分ぶん岐きて点んとなったり、片かた言ことでいう小しょ児うにの言葉が、胸中の琴きん線せんに触れて、涙なみだの源泉を突くことがある。老ろう嫗おうの一ひと口くち噺ばなしが一生涯の基もといを固かためたり、おのれながらなんでそんなつまらぬことが、こんなに自分を刺激したろうと驚くことがままある。 釈しゃ迦かが東西南北の門を出いで、あるいは病める者あるいは死せる者、あるいは老いたる者あるいは貧まずしき者を見て、人生観に新しき立脚地を開いたが、病める者死せる者老いたる者貧しき者はわれわれも毎日眼にしておりながら、われわれはあえてこれがために新しき人生観も得ない。忠告を納むるべき肥ひよ沃くな畑
かの英国の誇りとするシャフツベリー卿きょうは、身は名流であり、一家は巨万の富を積み、娯ごら楽くに世を渡る資格をそなえておりながら、中学校時代乞こじ食きの葬式の途中棺かんから死しが骸いのおちるのを見て、十五分間に自分の生涯の方針を定めたと称している。 しかるにわれわれもよし乞こじ食きの葬式にあらずとも、これに類したることはしばしば見ている。世の憂うき事、人生のつらいことが毎日われわれの眼に映うつり耳に響ひびきながら、われわれの胸にはなんらの影をも落とさず、なんらの共鳴をも引き起こさない。しかるに世にいくらか仕事をなした人について質ただしたならば、十に八、九までは、私の立りっ志しはかくかくの時に発したと、なにか具体的な、しかも他人の耳にはつまらなく聞こゆる些ささ細いな出来事を指摘するであろう。これ蓋けだし、すでに腹の畑は肥こやしができ、掘り起こされて土どじ壤ょうが柔かになり、下かし種ゅの時晩おそしと待っているところに、空飛ぶ鳥が偶ぐう然ぜん一粒りゅう墜おとしたり、眼に見えない風が山の彼かな方たより種を抱いて吹き来たったりして、春に萠きざし、夏に花咲き、秋に実るのである。 人の心も先に言った想像なり、あるいはそれよりはるか以上の方法をもって、準備を整ととのえていさえすればいかに卑ひき近んな教えでも、いかに些さま末つな忠告でも、必ずこれを受け取って発はつ芽がして、花咲かせて実るものと思う。 他人の諫かん言げん忠告をいつでも容いれる心の態度を有する者は真の大たい人じん、君子、英傑である。シナ太古の聖人が世を治おさむる時代には朝ちょ廷うていに諫かん鼓こという太鼓のような物を備そなえおいて、誰たれ人びとにても当局に忠告せんとする者はこれを打つと、役人が出て諫かん言げんを聴いたと伝えるが、今日は諫かん鼓このかわりに新聞があるけれども、耳を傾ける度量は昔にくらべてどうであろう。正しき時に正しき言を放つは賢人
なお他人に忠告するについては、一いち言ごんしたいことがある。たびたび言うとおり聖人君子でないわれわれ凡ぼん人じんに訓戒を与えることははなはだむずかしいし、また与えたところが釈しゃ迦か、孔こう子し、耶や蘇その訓戒でさえもいちいち反応ないのに、われわれの訓戒が功を奏そうすることはおぼつかなく思う。 友人に忠告することは常にあることで、ある意味においては世にありすぎることである。こんなことまで忠告するにおよばんのにと思うことがままある。 しかし忠告する値あたいがあることについても、もっとも注意すべきは時を選ぶ一条である。友人の心の畑はたけが耕たがやされているや否や、英国の諺ことわざに賢人とは正しき時に、正しき言を放はなつ者なりとあるが、実にそのとおりで、どんな正しい言でも時ならぬ時に放てば愚ぐじ人んの言にも劣おとる。おそらく多くの人はみな経験があるだろう。 まじめになって、友人を諫いさめたためにあるいは友ゆう誼ぎを破り、あるいは他人の心に反抗心を惹ひき起こさせて、いっそう彼を堕だら落くせしむるの機きえ縁んとなることがある。時ならぬ忠告は有害ならぬまでも、無益におわる場合多ければ、葬そう式しきに祝しゅ詞くじを呈し、めでたき折に泣き言ごとを述ぶるに等ひとしきことは常識に任まかせて謹つつしみたい。 僕のたびたび引用する﹃菜さい根こん譚たん﹄に、 ﹁人の悪を攻せむるは太はなはだ厳げんなるなかれ、その受くるに堪たうるを思おもうを要す。人に教うるに善を以てするは、高きに過ぐるなかれ、それをして従うべからしむべし﹂ とある。功こうを奏そうする忠告と奏そうせぬ忠告
人を批評するにも、人を判断するにも、また人に忠告を与えるにも、先方の事情を深くかつ同情的に汲くむにあらざれば、われわれの批評がけっしてその当を得ない。かえってわれわれの判断が誤りやすい、すなわちわれわれの忠告は功こうを奏そうしない。 管かん仲ちゅうが戦場で遁にげたからとてただちにこれを卑ひき怯ょうと批評し臆おく病びょ者うものと判断し、しかして勇ゆう敢かんなれと忠告した者があったならば、おそらく彼は腹の底で笑うのみであったろう。彼を知る鮑ほう叔しゅくが彼を目もくして臆病者とも卑怯者とも言わなかったのは、彼の人となりと、彼の事情を知っているからである。 僕はずいぶん異なった境遇に遭そう遇ぐうしたあまたの人に接して考える。教訓も忠告も、その百分の一も功の無きはこれを受ける人の真情に当たらぬのと、これを受ける人に対する同情の薄うすきによると思う。約言すればとかくわれわれの忠告なるものには誠意誠心が欠けがちで、軽々しくするがゆえに、先方を動かさぬは当然のことである。人に忠告せんと思う者は口に言を発するに先だちて深く心に念ずるこそ順序であろう。また人より忠告を受くるものは先方の誠意を疑ってはならぬ。彼の言は長く心中に念じたる結果、やむなく口外に出いでたるものと思えば、これ実に天の声である。 貝かい原ばら益えき軒けんがものせる﹃大やま和とぞ俗っく訓ん﹄の中に、忠告に関するまことに穿うがった教訓があるから、左に抜ばっ萃すいする。 ﹁およそ人を諫いさむるには、人の気質によりて直ちょ諫っかん、諷ふう諫かんの二つの法あり。知らずんばあるべからず。その心和わじ順ゅんにて義理明らかなる人ならば直ちょ諫っかんすべし。直諫とは過あやまちをいいあらわし、理りをすぐにのべて、是ぜ非ひをまげず、つよく諫いさむるなり。かくのごとくなれば聞く人おそれて従う。孔こう子しの法語の言げんとのたまう是これなり。また気質和わじ順ゅんならず義理くらき人ならば、諷ふう諫かんすべし。諷ふう諫かんとはただちにその人の過かあ悪くをさしあらわしていわず、まずその人のよきところをあげて誉ほめ、その人を喜ばしめ、その人の心に従いてさからわず、ただその事の損そんなると益えきなるとを説きて得とく心しんせしむべし。あるいは他事によそえて善悪得とく失しつを述ぶべし。かくのごとくすれば聞く人、はらたたずしてよろこびて諫いさめを聞きしたがう。孔こう子しの巽そん与よの言げんとのたまえる是これなり。人をいさむる法はこの二つなり。その人の気質によりていさめの法かわるべし。直諫するこそ本意なれども、正直に強く諫いさめても聞く人の耳にさからいて受け用いざれば益なし。名めい君くん賢けん者じゃならでは直ちょ諫っかんによろしき人は稀まれなり。よのつねの人ならば諷ふう諫かんすべし、諷諫をよくして人のよく聞き入れたるためし多し。是いさめのよき手だてなり。いさめの道を知らで辞ことばをあらくして人にさからい、みだりにいえば人怒りて必ず聞きいれず。人に益なくしてわが身のわざわいとなる。ことにわが親に直諫して腹立たしめ、親よろこばざれば親子の中なかうとくなる。大なる不幸なり。親をいさむるには法あり。 易えきに曰いわく﹃納ムスレブヲ約イル自ルニレマド﹄、まどは明らかなるところなり。たとえば家の内にある人に外より物を言い入るるに、壁かべ越ごしにいえば聞こえず、よりいえば聞こゆ。諫いさめを言うも亦またかくの如し。いかなる愚おろかなる人も、必ずいずくにぞ片かたはしに道理開けて明らかなる所あり、或いは好む所の欲よくあり。その所をよく見つけて言い入るれば聞き入れやすし。この諫いさめようのよきこと古いにしえもさるためし多し。ふさがりたる処を知らずして、いかに忠ちゅうをつくして諫いさむとも、聞き用いざれば益なし﹂。 ﹇#改ページ﹈第二十一章 潔き感情と正しき思想
偉大なる思想が何ゆえに萎いし縮ゅくするか
いかなる文字でも、善き意味にも悪き意味にも用いらるるが、感かん情じょうなる言葉ほど、ときには善く、ときには悪く用いらるる言葉は少なかろう。人を讃ほめて言うときに、あの人は感情家であるから、言うことが活気があるとか、あるいは精神がこもっているなどという。これに反し、あの人は感情家だから、議論が学理の軌きど道うをはずれ、とかく横道に走るともいう。 いったい感情は読んで字のごとく、われわれの感かん覚かくといわゆる人にん情じょうとの二つを含むものであるから、善くもとれるし、悪くもとれると同じく、正しきにも走り、正しからざるにも走りやすい。感情はいわば一種の力であって、感情あればこそ思想も力を添そえ、感情の力なければ、人の考えはとかく冷淡にして働きに現れることは少ない。よし現れても、その運モー動メン量タムが弱い。 感情は意志や思想に力をつけるものであるゆえ、誤った思想に感情が混じると、その誤りがいっそう恐ろしくなる。ここにおいて、僕はしばしば感情の教育ということを口にするが、人の感情をして私を去って潔いさぎよからしめたならば、自おのずから正しき思想に結むすびついて、偉大なる力を惹ひき起こすものであるが、もし感情にして卑いやしい女め々めしいものであれば、することなすこと小さくなって、偉大なる思想さえも、小感情のために、大きなところを失って縮ちぢまってしまう。おたがいも折々見ることで、知り合いの人のなすことを傍ぼう観かんしても、思しり慮ょはたいそうよく、すなわち思想においては間違いはなくとも、これを実行せんとするにあたり小さな感情から割り出すがために、とかく卑ひれ劣つな穢きたない挙動に終ることがままある。あるいは人の思想をまたは行動を判断するについても、小さな感情をまじえてするがために、せっかくの大きなことも善きことも充分認にん識しきせられないでしまうことが多い。 イギリスの諺ことわざに﹁いかなる英傑も彼かれの側そばに侍はべる小こし姓ょうの眼めには偉大と映じない﹂とある。これ英傑が偉大ならざるにあらずして、小こし姓ょうが偉大ならざるがためである。それと同じく、小さなる感情を挾さしはさむ人には、いかに善きことも、いかに大だいなることも、けっして真の性質を会えと得くしえない。僕自みずから古今の英雄や豪ごう傑けつを批評するにつけて、小さなる感情よりすることをたびたび恥ずかしく思う。女め々めしい感情皮相の感情
僕が数年前、米国に留学していたころ僕の下宿屋の主婦とリンカーンの人じん物ぶつ評ひょうを試みたことがある。この主婦は、もとはその家柄は卑いやしからぬ者で、南北戦争のさいには南軍方がたであって、最もリンカーンの政策に反対した者であったためか、リンカーンの人物を評するにも、その時の感情をはさんで、彼に関することならば、なにごとも曲解する傾きがあった。してこの曲解に対して、わが輩が一々弁べん護ごしたところが、最後の反対論として、 ﹁だってもリンカーンという人は非常な醜しゅ男うだ子んしでしたもの﹂ とあたかも彼の容よう貌ぼうの醜しゅうなりしことが、最大の罪悪でありしがごとく述べた。 これほど明らかに口に出さなくとも、これに負まけないほどの不合理な理由から、人の批評をしたり、歴史の事実を判断するものは許あま多たある。なかんずく無学な者か、あるいは少しばかりの学問があってもことさら婦人の仲間に多いと思う。婦人が往々にして身を誤あやまつなどは、これと同じ筆ひっ法ぽうより、人を判断するからである。あるいは一席せきの歌を聴きいて、その声が善ければその音声のために感情を動かされて、他のことにはなにも眼をくれない、ついに蓄ちく音おん器きの代用たるべき者のために身を誤ったりする。一ひと口くちにいういわゆる﹁様よう子すがいい﹂人、すなわち木で偶く同然の者のために身を誤るのはすなわちこれである。 また相応なる位置にある立派な人でも、かたわらにいる者のために、おべんちゃらをもって、あるいは御おつ追いし従ょうをもって、その感情をやわらげられて、判断力を失うことは歴史にたくさんある。一身を誤る理由の多くあるうちにも感情ほど大だいなる力はおそらく少なかろう。 学者の説によれば人類の進歩は思想において発達するとともに、感情はいよいよ鈍にぶくなるという。ことごとくこの議論には敬けい服ふくはせられぬけれども、議論にあらずして実際において、劣れっ等とう人じん種しゅもしくは修しゅ養うようなき者は感情ことに小さな女め々めしい感情に左右せらるること多きを思って、僕みずから感情家たるゆえか、これこそいちばん改革すべきところであると思う。大統領改選に現れたる米人の感情と思想
米国においては四年ごとに大だい統とう領りょうの改選が行われる。一期ごとに選挙はさかんになり、党派もふえる。したがって候補者の数も増すために、世せじ人んの議論がなかなかやかましくなる。一家のうちでも二つに割れ三つに割れているところさえもある。 しかるに彼らの論ずるところを傍はたで聞くと、地ちし質つが学くし者ゃが化かせ石きを科学的に攻こう究きゅうするごとき調子がある。甲の候補者はかくのごとき長所があるから、よろしく選挙すべしというと、乙の候補者の特長は、甲に対してこう勝まさるとか、あるいは彼らのたがいの短所がどこにあるとか、すこぶる冷淡に論じて、たまたま議論が極きょ端くたんに走って、容よう易いならぬ結果に陥おちいるかと思えば、政治論はそれだけで、他の点において親したしく談話をする様よう子すは、わが国においてはなかなか見えないことで、このことは独ひとり政治にのみ関してしかるわけではない。日ひ々びの事業について、実業家がその職業を営いとなむにつけても同じこと、おのれが損そんしたからとて、みだりにその罪を他人にかぶせるようなことはない。むろんそのかわり大いに成功したからとて、他人に感かん謝しゃする感情もないように見受ける。我が商人は事業と人情とを混同する
西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の品ひん性せいすなわち商業道徳なるものを難なんじている。われわれとてもいかに讃ほめたくも、日本の商業道徳を西洋のそれに優まさるとはいいかねる。否いな大いに劣おとると言わざるをえない。その理由は許あま多たあるが、僕がここで言いたいことは唯ただ一点である。 すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情をはさむの欠点あることである。無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって高こう尚しょうらしくも聞こえるけれども、それは慈じぜ善んをなすときか、友人を祝うときか、霊れい前ぜんに供そなうるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の器きか械いである。ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。失しっ敗ぱいすると、失敗の本もとたりし理由を人パー格ソニ視ファイして、あの金かねのために祟たたられたとか、あの機械のために一身を亡ほろぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこの怨うらみを被きせ、何なんの某なにがしはあれほど老ろう練れんであるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩の倒たおるるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないように勧すすめたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。 また事業と感情とを混同する事についていうべきことは、外国ではたとえば注ちゅ文うもんの日にち限げんに品物ができなければ、むろん契けい約やく破は棄きとなる。日本とても法律上はそうであるけれども、東西の違うところは、西洋ならばおたがい知人のあいだでも Business is business で、私わたくしの交際と取引上のこととは別として考える。日本ではこれに感情をただちに入れるから、ことが縺もつれてくる。ゆえに前に述べた約束の時期に、品物ができなければ、感情に訴うったえて申し訳をすることを計る。自分が病気であったとか、あるいは親しん戚せきに不幸があったとか、子供が怪け我がをしたとか、出産したとか、取引にまったく関係なき一家のことをもって、申し訳に供しようとする。 借しゃ財くざいの返へん済さいも同じことである。もっとも借財が、一家の生計のために借りた金であれば、一家の都つご合うによって返済の能のう不ふの能うも定まることであるから、感情的の理由も通る場合もあまたあろうが、借財が事業のために負おったものならば、一身上あるいは一家上の都つご合うは言うべきものではないと思う。かく入るるべからざるところに、感情を入れるから、人の交際が面白くなくなってしまう。せっかくの親しい友達のあいだが破れることなどもよく目撃することである。感情濫らん用ようの弊へいを撓ためる必要
普通にいう癪しゃくに触さわるとか、虫が好かないとか、はなはだ漠ばくとした言葉をもって、われわれの感情的の作さよ用うをいいあらわしているが、この癪しゃく、この虫がわれわれ日常の生活をどれほど害しているのか、統とう計けいに積もると大したものであろう。 なにかの会合に出席しても、この虫がいなかったならば、有益にかつ愉ゆか快いに過ごしうるだろう。合理的の事故なくして不愉快に思ったり、途中歩いてもなんの理由なく、見ること聞くことが気に触さわったり、家へ帰ってきてもまた同じく一生世よを面白くなく渡るのは、とかく詰つまらぬことに感情の作用をたくましくするにあることを思えば、われわれは勉つとめてこの害を矯ためるようにせねばならぬと思うが、僕はけっして英米人をそのまま傚ならって彼かの風ふうに化かせよとはかつても言ったこともない。また今もなおそういう議論は主張しないけれども、彼らにくらべてわれわれが世渡りするに、少なからず損をしていることは確かである。 善悪正せい邪じゃはとにかく、損そん徳とくの点から打ださ算んしても、なんの必要もなきところに、感情を費ついやすことはおろかな業わざである。僕はかつて精力の貯ちょ蓄ちくなる題のもとに、精神の力も貯蓄すべきことを論じたことがあったが、感情の貯蓄についても同じような説せつをときたい。 ただ読者に誤ごか解いなきよう願いたいことは、高こう尚しょうまたは有益なる感情をも殺せという意は僕に更さらにない。すなわちさきに言うた感情を貯蓄せよなる言葉の内に、感情を有することの望ましきを含ふくましてある積りだが、ただ感情の入って邪じゃ魔まになるところに、感情を入いるるべからずというに過ぎぬので、さきにいった商業家の取とり引ひきあるいは政治の党派論のごときはもっともその適例と思う。学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。昔のシナの学者も道どう心しんと人じん心しんと区別して説いたそうである。道心は人じん心しんのその正を得たる心と王おう陽よう明めいは説いたが、正せいを得るとは、人じん欲よくのまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところであると思う。 すなわち客きゃ観っか的んてきに冷静にものの理を求むる心である。これに反し、人心とは道心のその正せいを失うしなったところで、我がで田んい引んす水い的に勝手しだいの理りく屈つを案ずる心理動どう作さで、自己の感情によりて万事を判断する心である。自己の希望がものの理りと符ふご合うすればよいが、なかなかそう甘うまくゆくことが少すくないから、結局感情に駆かられて為なすことは、理りに背そむくこととなりやすい。 さらに注意したきは、友人あるいは会合において討論するさいなどには、一層この点に注意しないと正々堂々たる議論はそっちのけになって、人じん身しん攻こう撃げきのごとき、あるいは卑ひき怯ょうなる言葉に陥おちいって、自己が弁護せんとする議題をもかえって損そこなわれ、加うるにおのれの人じん品ぴんまで下劣にすることは往おう々おうにして見ることである。理屈において負まけたならば、一本参まいったと綺きれ麗いに敗まければ男らしくもあり、かえって自分の主張に泥どろをつけないものとなるに、おのれの議論が弱いときには、その弁護に感情を含ふくまして、みすぼらしい論法など振りまわす。よし皮ひに肉くをもって一時勝利を得るにしても、その実は敵に敗まけたものである。 ことを論ずるにあたり、悪あっ口こう雑ぞう言ごんをはさむのは、理りは尽つきて、自己の主張の論拠のなきを自白すると同然である、つまり負けた証拠にほかならぬ。思想と議論はあくまでも冷静たるを要す。また実行と性せい情じょうはあくまでも熱烈たるべし。ことにあたるに果かだ断んなくてはならぬが、その果断も一時的感情より来たるものは誤あやまりやすいから、思しり慮ょの上にも思慮をめぐらして、定めねばならぬ。﹁果断義ぎより来たる者あり、智ちより来たる者あり、勇より来たる者あり。義と智を併あわせて而しかして来たる者あるは上なり。徒いたずらに勇のみなる者殆なし﹂ ﹇#改ページ﹈第二十二章 感情より出た職業選択
職業とこれに従事する者の不ふつ釣り合あい
世の中を見渡すと、職業とこれを営む者とのあいだの釣合いが当を得たものと得ないものとがあることは、何なん人ぴとも意外としないものはあるまい。両者の関係はちょうど夫婦のようなもので、世には、似にた者もの夫婦もあれば、いかにしても釣合いの説明できぬような場合も少なくない。昔の人も円きものが三角の穴に入らんとし、四角のものが円きところに箝はまらんとするといったが、実にそのとおりで、おそらくなんの職業にしても、これに従事せる人につきいちいちに調べたならば、もとよりその職業につく目的をもって進みきたり、かつ現在の職業に甘あまんずる人は百人に一人あるや否や我らは大いに疑わざるを得えない。 自分の知れる人について考うるも、現在の地位に甘んじ、かつ得意でいる者ははなはだ少ない。たまたまそういう人がありとするも、そは年来の予定の行動の一部をなしたのでなく、むしろ計らずその地位に箝はまったという場合が多い。 たとえば法学士にして某職にある者に質ただせば、中学時代よりその目的としたる位地に達したと答うる者は百人に一人もあろうか疑わしい。まして秩ちつ序じょ的てき教育を受けぬ人は、おのれが望むがままに今日の地位に進める人はほとんどあるまいとまで疑われる。難を求むる職業選定の依頼
少し年老った者は年若い者いわゆる後進者より職業選せん択たくについて相談を受けぬ者はほとんどあるまい。あるいはすでに一定の職業にある者よりしてなお他に活かつ路ろを求めたき希望を訴うったえられぬ人はなかろう。 わが輩もかくのごとき相談を、平均したら三日に一度ぐらいの割合に受けている。はなはだしきは簡単なる手紙をもって、自分の姓せい名めいと生年月日とを認したため、これに現在の職業を書き加えて、他に発展の途みちを講じたいが、何をなしたらよかろうかと、あたかも卜ぼく者しゃに尋たずねるがごとき信書がくる。わが輩も返事に窮きゅうし躊ちゅ躇うちょしていると、三銭切きっ手てを封入せる以上返事をうながす権利があると催さい促そくされたことも一、二度でない。 いったい自己の職業選定に、毫ごうも知らぬ他人に相談することがすでに大なる誤あやまりである。前述のごとき場合には、僕はつねに親はもちろん、その他親類、親友なりもしくは土地の先せん輩ぱいにしてよく当人の性質をわきまえる人に相談せよと返事する。いかに詳くわしく認したためても、一片ぺんの手紙におのれの性質をいい現すことは、とうていできることではない。よし筆はいかに達者でも、書くべき材料、すなわち自己の性質を客観的に記きじ叙ょすることはおそらく不可能であろう。したがって一面めん識しきだもなき人に自分の生しょ涯うがいを左右する職業の選定を相談しても、けっして満足な返事は得られぬと思う。 ある具体的の問題あり、かくすればかくなり、こうすればこうなると、理りづ詰めで判断はできるが、自分はだいたいの見けん地ちよりこの問題を見る力なく、取しゅ捨しゃ去きょ就しゅうに迷うゆえ、いわゆる先輩の判断を乞こうというならば、知らぬ人に対しても相当の考えを立て判断を下すこともできようが、その性質および周囲の事情に深き関係を有する職業選定は、日ごろ交際ある人にあらざればなかなか判断のできるものでない。 おそらく職業の選せん択たくは細さい君くんの選択よりもいっそう困難であろう。細君の選択には往おう々おうにして媒ばい介かい者しゃの言に一任し、しかして結婚の式を挙げたのち、始めて両者の気きし象ょうの合わぬことを発見し、離婚する場合がはなはだ多い。世界の文明国中で離婚数の多きこと日本のごときはなしというも、要するに選択に注意せぬためであろう。ましてさらに困難な職業を選ぶに、見ずしらずの他人を頼み、あるいは一時の感情にかられて決定することは危険のはなはだしきものである。感情よりする職業選択にも有利の場合あり
わが輩はいま感情にかられるといった。わが輩はあえて感情そのものが悪いというのでない。ことにあたるには熱するくらいになるがいい。熱するというのはすなわち感情の昂こう奮ふんする謂いいである。しかしことにあたるか否かを判断するときは、須すべからく感情を避さけ冷静に是ぜひ非きょ曲くち直ょくの判断を下すを要する。 折々青年にして時々の新聞を見て大いに憤ふん慨がいし、その日の感情により自分の将来の職業を定めんとする者がある。軍国の際のごときことに然しかり、将軍の凱がい旋せんを見て、おのれも軍人にならんと思い、某代議士が演説に大だい喝かっ采さいを得たるを聞いては、おのれもただちに代議士たらんことを思い、あるいは実業家が拝はい謁えつを賜わりたりと聞き、おのれも実業家たらんと思うように、一時の現象に眩げん惑わくされて終しゅ身うしんの方針を定むることは、必ず悪い結果をもたらすとは断言されぬが、危きけ険んが多いとはいいうる。 いったい﹁三つ子ごの魂たましい百までも﹂というがごとく、何なん人ぴとにも幼少の折、漠然とした職業選定の傾かたむきが心に備われるものである。いわゆる学者向きであれば研究的にできており、あるいは才子的のものもあれば、あるいは事務的のものもある。人はおのおのその心の構こう造ぞうを異にしている。ただ自分も判然とそれを自覚しなければ、世間の人は無論、親さえも明らかに観かん察さつすることはできない。しかるに、この混こん沌とんたる有あり様さまのなかにも、おのずから輪りん廓かくだけはぼんやりと現れている。 鶏けい卵らんにたとえていえばちょうど黄き身みも白しろ身みもまだ判然と分かれておらぬ程度である。それが月つき日ひを経ふるに従い、黄身は黄身、白身は白身と分かれ、さらに進んでは頭もでき、手も足もそなわり、一つの雛ひなに化かするように、きわめて幼少の折から自然的に各分業的の萠きざしあるものである。しかるにこの観かん念ねんははなはだ漠ばくとしているゆえ、前述のごとく自己の認識にのぼらぬのである。 しかるにある外部の刺しげ激きによってこの自覚が急に鮮明となることがしばしばある。天てん性せい軍人になるべき資格を孕はらめる者が一日じつ新聞を見て始めて自己の天てん職しょくのいずれに存するかを発見するがごときはそれで、かくのごとき場合においては一時的の感情と見ゆるものがけっしていわゆる一時的感情にあらずして、先天的感情の発はっ揮きである。ゆえに職業を選ぶにつき一見一時的感情とみゆる動機によりて定むることも必ずしも誤りなりとは言えぬ。伊藤公発はっ憤ぷんの動機を見よ
一日じつ、横よこ山やま健けん堂どう氏より故こ伊藤公に関する趣しゅ味み多き談はなしを聞いた。公こうがかつて吉よし田だし松ょう陰いん先生の塾じゅくにいたとき、一夜、他の塾じゅ生くせいとともに炉ろを囲んで談話しているあいだに、公は時の長ちょ州うし藩ゅうはんの家老が人を得ないことを憤ふん慨がいした。これを聞いていた松しょ陰ういん先生は、平生は女子のごとく柔やさしくしてめったに大声だも発せぬ人であったにかかわらず、この時にかぎり声を励はげまして、 ﹁貴きさ様まの言うごとく自みずから天下を料理する考えを真ま面じ目めに有するなら、長ちょ州うし家ゅう老かろうの適てき否ひのごとき歯し牙がにかくるに値あたいなきものである。しかるにいま貴きさ様まの言を聴けば、それはやはり家老どもの力を藉からねば、天下が治まらぬというごとき卑ひき怯ょうの意志あることを自白するにほかならぬ。そんなことで天下の大たい勢せいがわかるものか﹂ と叱しっ咤たした。つねになき激語を発したので弟で子しどもも一時はあっけにとられたという。伊藤公は多数塾じゅ生くせいの面前でかく叱しかられ、心に恥じたが、さすがに伊藤公だけあって深くこの教訓を心に銘じ、この時より自分のあらゆる能力をもって天下のためにつくさんことを決心したと、数年後帰きせ省いされたとき旧塾のなかでこの述懐談をしたことがあるという。 伊藤公が先生に叱しかられたその瞬しゅ間んかんに起こった一時の感情が同公をして政治家たらしめたかと質ただせば、その時始めて﹁寝ねみ耳みに水﹂のごとくこの教訓が公の耳じ朶だを打ったとは思われぬ。また松しょ陰ういん先生にしても誰にでもこの筆法をもって鞭べん撻たつされたとも思われぬ。日ごろ先生が公に見るところあり、この機に乗じて一針しんを加えたにすぎぬ。また伊藤公にとりてはこの一言を含がん味みしうるだけの素養がすでに胸中にあったから、その決心は一時の感情のごとく見えながら、しかもその実、数年来胸中にしらずに蘊うん蓄ちくされた熟じゅ慮くりょを引き出させたのである。余の友人にも同じ経験がある
しかしこれは独ひとり伊藤公のみでない。ときどき凡人の間においてもまた同様である。僕の友人にもまたこれを証明すべき適切の事例があるから、ここにこれを挙示したい。 彼は青年時代、学校にあるやいずれの学科も人並にできたためにかえって職業の選択に大いに迷った。ある時は実業家にならんと考えたこともあるが、子供のときには政治家になる望みがもっとも強かった。そののち世の中の腐ふは敗いを聞き宗教家にならんとまで考かんがえ込んだことあり、また学者となって身を立てようという考えを起こしたこともある。 しかるに彼が十九歳のころなりしと聞く。一夜北国にありて月明に乗じ独り郊外を散歩し、一軒けん立ての藁わら家やの前を通過せんとした。ふと隙すき漏まもる光に屋内を覗うかがうと、炉ろを囲める親子四、五人、一言だも交かわさずぼんやりとして安あんを貪むさぼっていた。そのころ彼は、宗教家たらんとの念が最高潮に達していたときであったが、この有あり様さまを見、この考えが急に一転した。というのは親子夫婦共きょ働うどうし、雪を踏ふんで家に帰れば身体すでに疲ひは憊いし、夕食を終ればたがいに物語るだけの元気も失うせ、わずかに拾った薪たきぎに身を暖あたため、安あんを貪むさぼるがごとき輩はいが、どうして教育や宗教などを考うる余よ地ちがあろう。彼らをして人間らしい精神をもたせるには、まずなによりも衣食足たるの道を講ぜしめねばならぬ。 さりとて衣食の充じゅ足うそくのみに進ましむればただ奢しゃ侈しに流るるのみである。衣食充足の道を講ずるとともに、精神的教訓を与うることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善するは、すべての改良の根本なりとの観念に打たれ、その翌よく日じつより倫理学、心理学の書をかたづけ、急に経済学の書を読み始めたという談はなしを聞いた。これだけの談はなしを聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決したようにも思われるが、また詳くわしくその事情を聞くとこの考えに到達するに順序があったようである。すなわち彼の先代の関係だとか、あるいは彼の北国における境遇とかいろいろさまざまの勢力が知らずしらず彼をある方面に向かわしめていたのを、この冬の一夜の出来事がいよいよ自覚的にこれを決定せしめたものである。一時の感情か否かを判断する道
以上例れい示じしたるごとく生しょ涯うがいを一貫する職業選定の決心は、能力の多少、位地の上下を論ぜず、一時の些ささ細いなることのために定められる場合は決して少なくないから、前述の一時の感情に迷わさるるなというに対し、この感情は果たして一時的なりや否やという問題を、自みずから提供しておのれに省かえりみ、しかも冷静に自己の真意を分析するを要する。 すなわち約言すれば熱情を冷静に考えよということになる。なにゆえにおのれはこのことにつき、かく熱するかを篤とくと攻究したいのである。凝こっては思案に能あたわずと、古こじ人んも教えている。凝こるとは熱するの謂いいである。ものを思い込むと他を顧みる余地も余裕もない、ゆえにとかく過あやまちを生じやすいのである。もっとも実際にことにあたるときは他を顧みず猛進せねばならぬが、ことにあたるか否かを考うるあいだは凝こることは禁きん物もつである。しかるに青年の一大特長はものに熱するにある。二十代前後は感情のもっとも旺おう盛せいなとき、三十代前後は手しゅ腕わんのもっとも発達するとき、四十前後は知識のもっとも発達するとき、しかして五十前後は思慮のもっとも深いときである。 青年は知識にも思慮にもまた手しゅ腕わんにおいても、まだまだ不足あるかわりに、ある命令のもとに仕事するときはもっとも熱してあたる。これが彼らの特長なると同時に、方向を誤ることもまたこれより起こる。彼らは思慮も熟せず判断力も固かたくないから、見るもの聞くものその他すべて五感に触るるものによりて心の底までも動どう揺ようされやすい。かく動揺されるときは、さなきだに思慮分ふん別べつの熟じゅくせぬ青年はいよいよ心の衡こう平へいを失い、些さ事じをも棒ぼう大だいに思い、あるいは反対に大事を針しん小しょうに誤る傾向がある。これも無理ならぬことで、実際のことにあたり責任の地位を踏めることなき者は、なかなかに自己の言行のおよぼす範囲を適当に計けい量りょうすることはできぬ。青年にこの弱点あることは青年自身も承しょ知うちしている。承知しているゆえ、いわゆる先せん輩ぱいの意見を叩たたき、職業を選定せんとするのである。 しかし先輩がいかに思慮あるとも、いかに判断力を備そなうるとも、青年がある事に熱するゆえんを容よう易いに判断しうるものでない。たとえば政治家たらんと熱する者ありとせよ、なにゆえに政治家たらんと熱するかと聞かば、必ずや天下人心の腐ふは敗いとか、政党宜よろしきを得ぬとか、ひととおり何なん人ぴとも首しゅ肯こうするような理由を述ぶるであろう。しかるにこういう漠ばく然ぜんとしたことでは、なかなか熱心ということは起こりがたい。ゆえにさらに深く立ち入りてその理由を質ただせば彼の熱心せる理由は必ずしも政治に関係するものでないようなことが出てくる。 某ぼうが自分の村に政談演説したとき熱烈なる拍はく手しゅ喝かっ采さいを得た。それが彼の心を動かしたという場合には、彼の熱心は政治のためにあらずして拍手喝采のためである。拍手は政治にあらず。また実業家を志望する人に聞けば日本は貧びん乏ぼうであるときまりきった議論を述ぶる。しからば今日急にそのことを思いつき、その方面に猛もう進しんせんとする志こころざしはなにより起こりしかと質ただせば、これまた実業になんの関係もなきことが導どう火かせ線んとなれることがある。 たとえば某ぼう令嬢を慕したいたるも実業家ならねば嫁かせしめぬというを聞き、実業を志望したというがごとき滑こっ稽けい的動機すらも現にわが輩の耳にしたところである。かくのごときはおそらくは自分も知らずに行えるので、滑こっ稽けいな動機に動けることに気づかずにいるのであろう。感情的誤解の根本原因
かくのごとき誤ごか解いを生しょうずるのは、要するに自分の一個に関する具体的の事実をば、抽ちゅ象うし的ょうてき文字をもって説明するから、その説明がかえって真情を離れ、世間に対する聞こえはよいが、実際にはあてはまらなくなるのである。抽象的の文字を使えば意味の範囲がひろくなり、高こう尚しょうに聞こゆるかわりに、また他の意味をも含んでき、したがって自己の場合にまったくあてはまらなくなることがある。たとえば飲みたい食いたい、それについては金を儲もうけたい、金を儲けるために何なに品しなを幾円で買い、これを幾円で売れば幾円を儲もうけるという具体的問題ありとする。この動機は飲食の欲よくである。これを満足する方法として商売し、商売の目的は何千百円を儲もうくるにある。ことを始むるときは爾しかく具体的に細密にもくろみするが、しかしこれを人に語るときは私は実業に従事するという。 実業といえば抽象的文字である。したがって意味が広い。そのなかには商売のみならず、工業農業も入る。保険、運輸の事業も入る。これに従事するとなると丁でっ稚ちこ小ぞ僧うとなり自転車で走ることも、炎えん天てんのもと、裸はだ足しで畑に草取りするのも、自動車で会社に出勤することも含まれ、範囲が非常にひろくなる。なにを商売して何円儲もうけるという具体的希望が、実業従事という抽ちゅ象うし的ょうてき言葉にいい現されると、実際から遠いものとなる。 物理学にいう固こけ形いた体いのものを流りゅ動うど体うたいに変じ、ガス体たいに変ずるがごとく、嵩かさは大きくなるけれども、つかみどころがなくなりがちである。ゆえに職業を選ぶにはそもそも自分がある職業を志願し志こころざしを立てたときの具体的境きょ遇うぐう、情じょ実うじつをしずかに考うると、その志望がいかに根底あることか、また一時の軽々しい動機に起こりしかわかるであろう。 すなわち抽ちゅ象うし的ょうてきのひろい意味の言葉を用うるにいたった本もとにさかのぼって、しずかに考えると思い半ばに過ぐるものがありはせぬか。大きなひろい意味の言葉を用うるときはしばしば自みずから欺あざむくことがある。わが輩はとくに職業を選定せんとする青年に自己の動機を回かい顧こせんことを勧すすむ。先人の言に曰いわく、 ﹁凡およそ人事を区くし処ょする、当まさに先まずその結局を慮おもんぱかり、而しかして後に手を下すべし、楫かじ無なきの舟を行やる勿なかれ、的まと無なきの箭やを発する勿なかれ﹂と。 して楫かじを執とるとき、箭やを放つときは心静かに落ちつけて、よくよくおのれの力先きの方向に留意するを要する。 ﹇#改ページ﹈第二十三章 若返りの工夫
いつも若い人
目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き気きし象ょうがなくなるのである。すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっとも尊とうとぶべき、高こう朗ろうなる性情が消えるのである。﹁大おと人なにしてなお赤あか児ごのごとし﹂という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の気きが概いを失うしなわずにあるを要する。﹁あの人は年とってもいつも若い気でいる﹂という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。かくのごとき人の心には余裕がある。すなわち生なま木きのようなる弾だん力りょくがあって、世の変へん遷せんとともに進む能力を保留している。﹁老ろう木ぼくは曲まがらぬ﹂とは邪じゃ道どうに迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。 およそ何事においても行きづまれるは見みに悪くきものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで枯かれ木きに弾力なきに等ひとしく実にみすぼらしい。また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。ところが誰でも少し油断すると小しょ成うせいに安やすんじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称し自みずから安心する。これあるいは成功であるかも知れぬ。しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだ当とうを得ないことではなかろうか。欲よく心しんと理想とはちがう。欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。
という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、﹁事ことたる身みこそ安やすけれ﹂というような、安心の時代はとうてい到とう来らいせぬであろう。
しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の形けい而じ下かのことをのみ欲するを理想と呼ぶのは大だいなる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは当とうを得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。
なんとならば月給とかその他の物質的形けい而じ下かの事こと柄がらについては不足を甘あまんずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに俸ほう給きゅうが上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感かん服ぷくできぬ。上がらなくとも喜んでいたい。否いな下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、﹁吾われは得たり、成功したり﹂と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の﹁精神の井い戸どが水みず枯がれした﹂のである、遼りょ遠うえんなるべき前途を放ほう棄きしたのである。
彼の﹁青年の前途は遼遠なり﹂とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ若わか死じにをすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長ちょ命うめいと呼ぶ、なんの不ふ可かか是これあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや等ひとしく遼りょ遠うえんなりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬ほう大だいなる理想をいだくべきである。
回顧反省
世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき凡ぼん人じん、あるいは凡人以下の者は、姑こそ息くかは知らんが、前途をして遼りょ遠うえんならしむることを努つとめ、われはたしてかかる大理想ありや否いなやを反省する必要があると思う。すなわち賢人君子の眼まなこよりせばあるいは児じ戯ぎに等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状を印いんしてこれを現今の実際と照合し、もって理想の規き矩くにあててみるのである。いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命めい日にち、あるいは自分になにか特別の意味のある日、退しりぞいて予よははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは逆ぎゃ戻くもどりせぬかと深く省かえりみるのである。しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。 して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人の勧すすめとか、時勢の変へん遷せんとか、娯ごら楽くの必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の溌はつ剌らつたる理想に遠ざかれるを発見するであろう。老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己に省かえりみるに如しくはない。省かえりみて退歩せる点あらばさらに理想に向かって奮ふん励れい努どり力ょく一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。これすなわち僕の若返りの工くふ夫うである。要するに脳のう髄ずいのうちに折々大おお掃そう除じを行って、煤すす、埃ごみ、芥あくた、枯かれ枝えだ等をみな払うことをしたい。心機一転
われわれの年寄るというは精力の枯れるの謂いいである。よし身体が弱り果てるも、心ばかりは老おい耄ぼれたくない。よし老おい耄ぼれても、愚ぐ痴ちだけはいいたくない。 僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、老おい行ゆくとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び色いろ香かを増すを見る。樹そのものは弱りても、その境遇を刷さっ新しんすれば、甦こう生せいするの勢いきおいを顕あらわす。死しか灰いさ再いね燃ん、人も同様、身体が弱れば食しょ物くもつを変えたり、転地療りょ治うじをしたり、温泉に浴ゆあみしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。
山深く何 か庵 を結 ぶべき心のうちに身はかくれけり
一身を物的境遇より退しりぞかせて、心的境遇に入らしむることも、これまた麒きり麟ん老ゆるも駑ど馬ばに劣るに至らざる工くふ夫う。木は根あればすなわち栄え、根壊やぶるればすなわち枯る。魚は水あればすなわち活いき、水涸かるればすなわち死す。燈ともしびは膏あぶらあればすなわち明めい、膏あぶら尽くればすなわち滅めっす。人は真しん精せいなり、これを保たもてばすなわち寿じゅ、これをえばすなわち夭ようす。
一年二回の花盛り
かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に the last of life for which the first was made とあるが、僕は日ごろこの句の津しん々しんたる興味に感嘆する。意訳すれば、 ﹁人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的﹂ 嗚あ呼あ実に然り。人生の起これる所ゆえ以んのものは終りを完まっとうするにあらざるか、事ことに始終あり、始めは終りのためにして、終りは始めのためならず、草木の発はつ芽がするは花咲き、実みを結ぶため、人の生まるるは熟じゅくして死するためなれば、幼少青年時代は準じゅ備んびの時代で、人生の目的時代はその後に存すると知れば、青年時代の活気を憧しょ憬うけいするは蝶ちょうを花を楽しむに異ならない。なるほど若年のころは花はなやかなるはいうまでもないが、頭の白きも、額ひたいの波も、華か化かすることはできぬであろうか。 俗の諺ことわざにいう﹁老おい木きに花はなを咲さかす﹂とは不可能なるか。僕は﹃古こき今ん和歌集﹄のなかにある菊に寄せたる一首を読んで、さすがに菊は長命のシンボルなりと少なからず趣味を感じ、なお老いてもよく菊のごとく老の花を咲かせ、老の香かを放ち、老華の若葉に劣らぬを示すこそ、老の身の使命であろう。
色変はる秋の菊 をば一年 にふたゝび匂 ふ花 とこそ見 れ
[#改ページ]第二十四章 全力と余裕
蛙かえるの筋肉の力を測はかりし学者の試験
かつてベルリンに在学のころヘルムホルツ博士の名が世界にひろく轟とどろいているので、僕の学問にはなんの関係もなかったけれども、好奇心にかられて先生の講こう釈しゃくを一度聞きにいったことがあった。医学の講義をドイツ語でされるから僕が聞いてはわからぬことは言うまでもないが、先生の試験がよく眼に見えておぼろげに理解しえた。講義の大意も多分こういうことであったろうと、その時深く頭脳に印いん象しょうし、今日もなお忘れない。 試験は蛙かえるの筋きん肉にくを取ってこまやかな糸のごとき一部分を秤はかりにかけて、この筋肉をもっておのれの重量の何倍ある物質を支ささえうるか。すなわち筋きん肉にくの力を証明する主意と心得た。この試験によると、蛙の筋肉はおのれの重量に何十倍︵何百倍?︶の重さをみごとに支ささえたので、学生が大いに拍はく手しゅ喝かっ采さいして、なおいっそう僕の印象を深めた。 たぶんこの簡単なる、また素しろ人うとにも理解しやすき試験は医科大学あるいは諸所の医学試験でも教授の材料となっていることであろうが、門もん外がい漢かんの僕には人体︵試験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変りあるまいと想そう像ぞうする︶の内に恐しき力の潜せん伏ぷくしていることを思った。この試験の割合であらゆる筋肉の力を用うるわけには無論ゆくまいが、もしその十分の一の力を発はっ揮きしえたなら、おそらく今日十五、六貫かん目めの我々の五体をもって、米の四、五俵ひょうは朝あさ飯めし前まえに二、三里の道を運うん搬ぱんすることができよう。 僕みずからたびたび感ずることなるが、あるいは神経衰弱だのあるいはリュウマチスだのあるいは胃いじ弱ゃくだのと、その他種々の故こし障ょうのために、天てん賦ぷの力の百分の一も利用せず発揮もせずに一生送る者は、この人体に潜せん伏ぷくせる力について深く考えたい。最善をつくしても余より力ょくあるように思う
たぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺おれは今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨うらまぬことはない。 文章を書いても同じことである。 ある問題について討とう議ぎしても同じことである。俺おれはも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自じふ負し心んであろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発はっ揮きするが、第三段の深さに潜せん伏ぷくする力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、 ﹁お前はまだ俺おれの力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ﹂ と物事につけて叱しかるような心地がする。潜伏せる余よゆ裕うを示す幾多の実例
たぶんこの知ちか覚くについてはわが輩と経験を同じくする人が許あま多たあることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯たくわえだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。 おたがい、世を見渡しても、一見優ゆう雅がなる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不ふき吉つであるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止とめるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋きん肉にくに力の潜ひそんでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛ひなを養やしなっている雌めん鶏どりの傍かたわらに、犬いぬ猫ねこがゆくと、その時の見けん幕まく、全身の筋肉に籠こめる力はほとんど羽はご衣ろもを徹てっして現れる。 あるいは今に忘わすれぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋ほう輩ばい三、四人と山やま遊あそびしたとき、森の内で火を焚たいた廉かどをもって、近所の百ひゃ姓くしょうに追われて命いのちからがら落ちのびたことがある。その後ごその場におもむき実地踏とう査さを遂とげたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳おどりつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜ひそんでいる力を出したかと思われる。余よゆ裕うを存することと全力主義
わが国従来の教えとして全力を出さぬことを賞ほめる。すなわち余よゆ裕うしゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が控ひかえているぞという態度である。 この態度は独りわが国ばかりではない。何なに国こく人じんといえども尊敬するところである。リンカーンの年を経ふるにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘うま味みを感ずる。 これに反し、張りきっておって、二十貫かん目めの力を二十貫目始しじ終ゅう手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾ごじ人んの深い尊敬に値あたいしない。 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を注そそぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁きん物もつだというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意に背そむく。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。種たねまでもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分のゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余よゆ裕うを貯たくわえておいてこれを種たねとして進みたいと思うのである。もっともこれは喩たとえの言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。人の力は出せば出す程ふえる
右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛むじ盾ゅんしないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁もんめも残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正しょ直うじきな男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見みなしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった俺おれは第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝まさる第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分ぶんの力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー︵わが国で普通にいう人格とは違う︶の大だいを知る。 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛むじ盾ゅんしないことも察せられるだろう。静せい坐ざ黙もく想そうは潜せん勢せい力りょくを増加す
昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤わらわんがために一夜墓地に散歩して石せき碑ひを叩たたいて幽ゆう霊れいがあるものなら顕あらわれよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚あ呼あ博士よ、君にして幽ゆう霊れいを見るの望みあるならば、なんぞ墓はか場ばに行くを要せん。おのれに顧かえりみれば霊魂のおのれに潜ひそんでいることが明らかでないかと論じたが、吾ごじ人んも少しく心静かにおのれを省かえりみると、銘々の内に潜ひそんである力の偉大なることを感ずる。 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省かえりみるだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没ぼっ頭とうする者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消しょ耗うもうするおそれあるをみる。努力奮闘を標ひょ榜うぼうする者も静せい坐ざ黙もく想そうをすることは潜せん勢せい力りょくを増加するのもっとも得たる策さくだと思う。一日に一回でも黙想せよ
いかに繁はん劇げきな生しょ涯うがいを送る人でも、折々いわば人生より退しりぞいて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。 僕の祖父はかつて禅ぜん僧そうについて、いったい禅ぜん学がくというのはどんなものですと藪やぶから棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は坊ぼう主ずであれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。すなわちただ敵を斫きろう、前に進もうという考えで齷あく齪せくするあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸退しりぞく余裕があれば、その突とっ嗟さに敵の隙すきがわかる。そこで勝てる。この一歩退しりぞくところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。とかく譬たとえは不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、分ふん別べつある読者は僕の真意を味わわれるであろう。 僕のいわゆる折々退け、折々冥めい想そうせよということは、単に不ぶし精ょうに寝ねこ転ろんでおれ、不精に構かまえろというのとは大いに違う。また折々という文字が漠ばくとしたことである。一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素︵ことさら重大なる問題のないとき︶少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかに忙いそがしい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、また希こいねがわくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき境きょ涯うがいに入ることができるならば、これに越すことはあるまい。といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に隠いん遁とんせよということではない。 おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど遁とん世せいのごとき心境がたもてると思う。われわれにその心がけさえあればいかなる境きょ遇うぐうにあっても平へい旦たんの気を養う機会のなきはない。松まつ平だい楽らら翁くおう公の書室銘めいに曰いわく、﹁寧ねい静せい是これ心を養やしなう第一法﹂と。 ﹇#改ページ﹈第二十五章 理想と実現
幼少時代の理想の回かい顧こ
毎まい春はる年の改まったについて、年ごとに起こる感じが再び湧わき出いで、俺おれはもう幾いく歳つになったなアと、年を数え二十年前、三十年前に比べて、どれほど進んだか思い較くらべると、ただ恥ずかしきことばかり多い。青年のとき描いた理想が、いわゆる世の中の実際に擦すれて摩まめ滅つしたこともあまたある。しかし年に較べれば、自分ながらまだ理想を割合い余計に抱いだいておるがごとくに信ずる廉かどもないではない。 僕が三十六のころ、ドイツ見物に数週間ベルリンに費ついやしたことがあったが、その際ある文士に会って、四よも方や山まの文談を聞いたときに、話がゲーテとシラーに移って、両氏の性格および文才と、後世に及ぼせる偉業を論じた。そのとき僕はその文士に尋たずねた。 カーライルが、かつてゲーテを賞ほめたなかに、青年はとかくシラーに憧あこ憬がれて、ゲーテを疎うとんずるの傾向があるが、三十歳に至れば、思しり慮ょもやや熟じゅくし、人生のなにものたるかもいくぶんか判明し、ここにおいてかゲーテの偉大なることを認めてシラーの若わか気げを捨てるにいたると説いてあるが、僕は今こん日にち三十よりむしろ四十に近い年になるが、ゲーテとシラーのいずれを好んで読むかといえば、まだシラーを選ぶの心ここ地ちする。おそらく僕の精神発達のいまだ幼稚なるを証するのではあるまいかと、自みずから疑うことが多いと告白したところが、かの文士は、それは君は心配するにおよばない、ドイツ人のうちにも、今日なおシラーを推おして、思想においてははるかにゲーテに優まさるものなりと称しょ嘆うたんする者はけっして少なくない。むしろシラーを好んで読む者は、精神未熟といわんより理想高き性格の高潔なるを証しょうするものだ、といって僕を慰なぐさめてくれたことがあったが、かくいえば、あるいは新に渡と戸べの奴やつめが自分の不足なるところを、態ていよき言葉を用いて隠いん蔽ぺいし、暗あんに自じま慢んするごとくに聞こゆるでもあろうが、正直に自白すれば、近来になって僕もゲーテを尊そん崇すうするの念が、十年前にくらべて増してきた。 しかしてゲーテ崇すう拝はいの念の増すのは、さきの某文士の言げんによれば、あるいは自みずから俗ぞっ化かして理想の光こう明みょうが追おい々おいに薄うすらぐの譏そしりを受けるかも知れぬ。僕がここに話をすることは譏そしりを受ける受けないが問題ではない。自みずから君子ぶるのを厭いとうがため、横道ながら注解的に右のことを述べて、再び本題に立ち返って話をすれば、年を追うに従って俗化する危きけ険んあるを思うがゆえに、努つとめて幼少の時に描えがいた理想を養やしなうことは年ねん々ねん歳さい々さい枯かれゆく心の色いろ香かを新たむるの道であろうと信ずる。米国で僕の深く印象された米人の理想
過かは般ん渡米の日、数あま多たの著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々に直接あって、その人物に触ふれ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。 いわゆる黄おう金ごん崇すう拝はい物質的の米国などと綽あだ名なされてあるこの国民が奢しゃ侈し贅ぜい沢たくの弊へい害がいに陥おちいる傾向が割合いに少ない。換かん言げんすれば一方には巨万の富とみを積みながらこれに安んじないで、なんなりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する気きま前えと精力は、この国民の大いに買ってやるべき気きし象ょうである。 わが同どう胞ほうはだいたいにおいて貧びん乏ぼうであるから、富ふう貴きの誘ゆう惑わくなるものを知らない。貧びん乏ぼう人にんが金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。自分で金を持ってみると、金持の心理的作用もその誘ゆう惑わくもよく理解しうると思う。しかして我が国において少しく金を持った人は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持に較くらぶれば、米国人は確かに日本人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。最も貴ぶべき青年時代の理想
世界を動かすものは思想である。暴力で一時国を建たてることもできるし、国を亡ほろぼすこともできる。産業で国を建たてることもできるし、産業で国が廃はい頽たいすることもある。学芸によって国の勃ぼっ興こうすることもある、学芸によって国が惰だじ弱ゃくに流れることもある。あるいは思想においても方向を誤あやまると、いかなる極端に落ちることがないともかぎらぬが、武力でも学力でも、芸術の力でも、健全なる思想が真まっ先さきに立って指導するにあらざれば、国家も社会も個人も、なんのために存在しておるかを解しないでしまう。 して思想と一口にいうものの、世の中の欲もすなわち名誉も富ふう貴きも知らない清浄無む垢くの青年時代に起こる思想が実に貴とうとい。ゆえに年とともに若い思想を強めたいと思う。あるイギリスの文豪もかつて言った、 ﹁偉大なる人物とは成熟せる脳のう髄ずいをいただいて、なお幼少の心を抱いだくものなり﹂と。 すなわち大人にして赤あか子ごの心を失わない者の謂いいに外ならぬ。今の青年会と昔の若い衆
とかくに若い者といえば、むしろ青年の弱点を指す意味合いがある。近ごろこそ各地方で青年会がさかんに行われて、その目的は実に嘉よみすべきであるが、同じく青年の会合でも、三、四十年前に行われたるものは、若い衆の寄合いと称して、若い衆といえば碌ろくでもないことをする者、思想も理想もなく、ただ放ほう埒らつに時を移す者のごとく見なして、老人もこれを許し、また青年自身もこれを許して、その言行の正しからざることがあっても、自みずからも世人も咎とがめなかった。 普通教育のいまだ一般にいき渡らないときは、かくのごときことも無理でない。教えてくれる設備もない時代と場所に生まれ育った者は、ただこの世に出てきたというのみで、もの言うからこそ人間に違いないが、その他の点においてはむしろ動物に近い。ゆえに動物的の行動をとっても無理ならぬことであった。 人の動物と違うところは思想あるがためで、この思想なるものを養わない以上は、禽きん獣じゅうに髣ほう髴ふつたるものである。そこで人を測はかるに、いずれの定じょ規うぎをもってするか、動物的の標準をもってするか、向上的すなわち思想の上下をもって測はかるか、用いる量はかりによって人に対する観念がちがってくる。すなわち動物的の定規をもってすれば、若い衆の飲酒にふけったり夜遊びするのは、普通一般のことで賞ほめるほどのことでなくとも、咎とがめることではない。しかるに思想の標準をもって図はかるときは、なにか一種の思しり慮ょを持たぬ者は、人間のごとくにみなさない。近ごろの青年会と昔の若い衆と違うのは、高いほうの標準を使うからである。幼年の理想は今いかに変へんじたか
ただ思想の発展にはとかくに障しょ害うが物いぶつがあって、挫くじけやすいもので、譬たとえて言うならば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のごときものである。外界の事情をよく知らない青年時代には、いかなることがあっても一と花咲かしてみせるという元気もあるが、年経ふる間には風も吹けば霜しもも降り、雨もあたれば旱ひでりもある。そのたびごとに根をはらすくふうをしなければ、とかく人生の半分も来こぬうちに花どころか葉も根もみな枯らしてしまう。すなわち種無しになってしまう。 僕が新年を迎えるごとにもっとも強く心に省かえりみることは、幼少時代の思想と今日と、どれほど隔へだったかという廉かどである。これをもっと具体的にいえば左のごとき問題が起こる。一、幼少の折おり、母を失ったときに、親に対して孝をつくすことができなかったが、せめて母の希望であった点は忘ぼう却きゃくせずして、遅れながらもこれを達しようと、こういう考えが浮んだ。年改まるごとにいま母に対するの観念と、および実行が幼少のときの思想とどれほど一致するか。
一、子供のときに飲んだくれの醜態 を見て、俺 は酒にふけることは決してしまいという考えを抱いた。して年経 るごとに、今日俺 のなすことがはたしてこの思想にかなっておるか。
一、幼少の折、学校で学問の大事なことを聴きいて、よし学者にならなくとも、勉学読書は暇いとまあるごとに怠おこたるまいと思った。年改まるごとに、今日のわがなすことが、この点においてどうであろうと対照してみる。
一、幼少の折、かつて、あるところで話を聞いたことによって、人を怨 み悪 み嫉 むことは、下品なものということを大いに感じたことがあったが、年経 るごとに今日ははたして俺 が人を怨 まないか悪 まないか嫉 まないかと昔にくらべてみる。
一、幼少のときにある放蕩息子 が身をあやまって、自分のみならず大勢の人に迷惑 やら心配をかけたのをみて、婦人関係は深く慎 しむべしと決心した。年経 たる今日において、はたしてこの思想どおり身を処 しておるか。
一、賭博 のよろしくないことはつくづく親の話によって承知し、いかなる誘惑 があるとも、賭博 などには手を出すまいぞという思想を抱 いた。年経 た今日において、はたして幼少の思想にかなう行いをするか云々 。
というように、問題を掲かかげていちいち実際と、思想というか理りそ想うというか、かつておのれの心の、向上したときに抱いた考えと引きくらべてみると、年経ふるにしたがって、むしろ堕だら落くしたことを発見する者が多くなかろうか。読者のなかには、僕のいうことがはなはだ子供らしい、迂うえ遠んなことだ、世渡りの道を知らぬとなじる人もあろう。僕も甘んじていわゆる世よわ渡たりの道に疎うときことを自信する。僕の世渡りの道と考えることは、低い標準の上に立って行くよりも、高い程度の所にぶら下がってゆくことにしたいと日ごろ念じている。
主義を抱ける者の世渡りの覚悟
一種の思想をもって世渡りを企くわだてる者は、同じ思想を抱いだいている人のうちにはもっともよく受けいれられて、いわゆる調子よく世渡りもできるが、異なった思想を抱いている者、あるいはなんの思想をも抱いだかずに世渡りをする者に対しては、はなはだ面白からぬ印いん象しょうを与えるがために、とかく彼ひ此しの批評を受けたり、あるいは、ときにはそれがために迫はく害がいも凌しのがねばならぬことは承知せねばならない。 普通にいう世渡りの上手だというのは、ただ無主義で無むて定いけ見んで無思想で、流るるままに浮かんでゆくを称するのであるが、いやしくもいずれかの主義を抱いた者は、一時調子よいことがあっても、浮き沈みのあることは覚悟せねばならない。またこの反対の勢力の風ふう波はに会わなければ、思想も練ることはできない。 僕がもっとも崇すう拝はいする人物はキリストのほかにソクラテスとリンカーンであるが、二人とも生きているあいだに名声さかんで、一時流はや行りっ児ことなって大いにもてはやされたが、ついにその最後は世人の皆知っているとおりである。理想家に対する世論の変遷
ルーズベルトに対する世評の動くこと、実に驚くべきものである。かつては同氏を攻撃し、ほとんど蹴けたおすばかりの語調が新聞や雑誌に表れ、また僕が直接話をした個人の言葉にもしばしば顕あらわれたけれども、そののち誰いうともなく、同氏の名望が再び回復されつつある。僕はまだ同氏に面会するの機会を得ないが、氏の人格と、ことに氏が思想の人であることは彼のいうことなす事こと々ごとによって明らかである。彼を嫌きらう人も、彼を賞ほむる人も、彼の人格より彼の思想について判断することを思えば、昔も今も思想家はその思想を天下に刻印するには、血をもってするの覚悟がなくてはならない。といって誤解のなきことを欲するが、われに思想あり、この思想を世に伝えんがために早くわれを殺せといわんばかりに、めざましきを好む演劇的な挙動を恣ほしいままにして、態わざと反動を招いて、かえってはなばなしく斃たおれることを望むのが宜いと言うのではない。できるだけ穏おん便びんに平凡に、自分の思想を実行することにつとめることが肝心なので、これがわれわれ日々の務めである。 偉大なる凡ぼん人じんとなるは平凡なる豪ごう傑けつとなるよりも、はるかに上じょ乗うじょうであると思う。米国に行きてことに感ずることは、この国には偉大なる凡人の多きことは、ほとんど日本において平凡なる豪傑の多きがごとくである。凡人をして偉大ならしむるのはそれ思想乎か。思想ほど恐しき力はない。人の動くのはみな思想の力によるのである。すなわち世の細事大たい業ぎょうも機械に譬たとうれば思想なる原動力の発現にほかならない。これを草木に譬たとうれば、緑みどりの柳やなぎ、紅くれないの花と現れる世の変化も思想なる根より起こるものであるから、なにはさておき根の培ばい養ようは怠おこたれない。根さえ確かなれば、幹みきなり枝なり葉なり花なり自然の結果として栄える。 誰たれ人びとも経験あることならんが、だんだん年とるについても、若きとき思い込んだ思想が、なにごとについてもヒョコヒョコと胸底に浮かび出いで、あるいは邪じゃ魔まし、あるいは手伝いし、われわれの今日の仕事に関係を絶たない。 ﹁三つ子ごの心は百までも﹂﹁老馬路みちを忘れず﹂という。青年時代に植えた種た子ねは、よかれ、悪あしかれ、いつまでも身辺に纒まといつく。 古き書にもあるとおり、﹁汝なんじ一ひと度たび水田に種た子ねを播まけ、数日を経へて収穫すべし﹂と。われわれひとたび播まける種た子ねの酬むくいは、われわれ自身が刈らねばならぬ。若い時に植える種た子ねは、後年植えるものよりいっそう深く根を張る。
植ゑし植ゑば秋 なき時 や咲 かざらんはなこそ散 らめ根 さへ枯 れめや
とあるごとく、単に植えさえしておけば、秋のない年はいざ知らんが、いったい一年間に秋のなきはずはないから、必ず秋がくるに相違ない。その秋がくれば、草木の性質として花を咲かす機会到来は必ひつ定じょう。けだし去年の花は縦よしまったく散り了おわっても、根さえ枯れずに健全なれば。
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第二十六章 理想の実現は何処
犬車の前に垂れ下げた肉片
僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大やま和とへ辺んあるいは東京でもときどき見る犬けん車しゃというものがある。すなわち犬に曳ひかせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその肩けん骨こつの構造から考えても、車を曳ひくようにできておらぬが、とにかく方ほう々ぼうで行われている。 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に曳ひかせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。擲なぐっても叩たたいても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで悪いた戯ずらの小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれを食くおうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。 われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。理想はどこまで行っても達せられぬ
カーライルはかつて、﹁いかなる卑いやしい者といえどもけっしてこれに絶対的満足を与うることはできない﹂といった。なんとなれば絶対的満足は理想がことごとく充実された暁あかつきにおいて始めて達せられるのである。 しかるにその理想はけっして満足されるということはない。またないはずである。人間は一を得ると第二が欲しくなる。第二段にのぼると第三段が欲しくなる。どこまで行っても人間の欲望の絶ゆるところがない以上は、けっして満足するものでない。いまのカーライルの言にあるとおり、いかなる賤いやしい、路ろぼ傍うの乞こじ食きでも、腹が空すいているときに握にぎ飯りめしを与えると、﹁三日も食わずにいたが、これは結構﹂といってありがたく頂ちょ戴うだいする。も一つ与やろうとすると今度はそうありがたく思わない。 ﹁塩加減が悪いから塩をまいていただきたい﹂﹁香こうの物をつけていただきたい﹂ という注文が出る。 三つめには、﹁握にぎ飯りめしばかりではなんですから塩しお引びきでも﹂という。 四つめには﹁塩物ばかりでは喉のどが乾かわく、刺さし身みを﹂といいだす。乞こじ食きのごとき者でさえも、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足せぬ。 ﹁八やお百ぜ膳ん﹂の料理を奢おごられても、三日続けて食わさるれば、不足を訴える。帝国ホテルの御ごち馳そ走うでも、たび重かさなればいやになる。食物だけのことを望めば、人間はいかなる酒しゅ池ちに肉くり林んに入いれても永く満足はせぬものである。 人間には絶対的幸福はけっして得られるものでない。また得られぬはずのものである。この乞こじ食きが三日も飯めしを食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものは胃いの腑ふである。握にぎ飯りめしでも食いたいというのが彼の理想である。彼の理想というが、これは彼の理想でなくしてその実胃いの腑ふの理想である。腹がいっぱいになり刺さし身みが食いたいというのは、腹の理想でなく、舌したの理想である。あるいは着物が着たいとか、高位につきたいとか、人に褒ほめられたいとか、世の中に大きな顔がしたいとかいうは、虚きょ栄えい心しんを充みたす理想である。同じく理想というも、その出所を異にするから、したがってこれを充みたす物体も変ってくる。自分の理想を絶対的に充たしえぬことは、あたかも犬の鼻の前にたれている肉のごとく、いかに肉に憧あこがれて進んでもけっしてその望みの全部を達するときがない。理想は早そう晩ばん実現せられる
あるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。 理想という以上は、合理的にして、分ぶん度どある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、吾ごじ人んの在世中実現のできるものであると思う。この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量で測はかるものでなく、品質で測るものではなかろうか。たとえば花を見たいと思うと、菊でも桔きき梗ょうでも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。あるいはそれは違う、桔きき梗ょうの花を見たいのでなく、花を見たいのである。花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。それがすなわち分量と品質の違うところである。 僕はつねに思う、一枝しの花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。昔から天てん女にょを見ると、羽はご衣ろもを着て自由自在に空中を飛び歩いている。おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。すなわち羽は根ねが交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの意いし匠ょうには羽根をつけている。しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。 これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、神かみや仏ほとけに祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが早そう晩ばん達せられると僕は確信する。なかには金が欲しく天から小こば判んの降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。それは理想でなく、欲よく想そうである。実現せられぬのは理想でなく空想である。理想を行為に翻ほん訳やくするが人生
理想は何なん人ぴとでも、活いきている者は必ずもっている。またこれがその生命である。耶やそ蘇きょ教うで教えているとおり、﹁人はパンのみにて生くるものにあらず﹂。 人はなんで活いきているかというに、理想で活きている。ただ呼い吸きするだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握にぎ飯りめしでも麦むぎ飯めしでもよいけれども、この世に生きている甲か斐いには、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活いきていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。 理想という原げん語ごを行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。誤って翻訳した実例
この翻訳はなかなか難かたい。原文を精確に会えと得くしなければ翻訳はできない。また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。ここにおいてわれわれは翻訳に拙まずい生活を送っている。 維新前に、どこかの殿様が行列を正して西にし丸のまる近所を通って登とじ城ょうするさい、外国人が乗馬でその行列の鼻はなを乗のっ切きった。殿様はもとよりその従者も一ひと方かたならず憤ふん慨がいし、殿とのはただちに通訳を召めし、 ﹁汝なんじは言語もわかることであるから、あの人の無礼を糺ただしてその場で切り捨ててこい﹂ と命じた。通訳は﹁かしこまりました﹂といって、その外人を呼びとめ、 ﹁私の主人なんの守かみという大名が登とじ城ょうの途中に、貴あな方たの馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋の鞍くらが面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また乗のり人ても見事に乗っている、あの外人にお頼みして鞍くらを見せてもらうことはできまいかと申します。途中でお止とめ申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。主人が駕か籠ごをおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、駕か籠ごの前に来て見せてくださらぬか﹂ という。外人は得意になって、駕か籠ごのそばに来たり鞍くらを見せんと下馬し脱帽して挨あい拶さつした。そのとき通訳官は、 ﹁この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にも命いのちだけはお許ゆるしを願ねがいたい﹂ と申し上げる。殿様も外人が下げ馬ばして脱だつ帽ぼうしわびることなら許してつかわせといわれた。そこで通訳は外人に向かい、 ﹁見事なお鞍くらを拝見してありがたい。駕か籠ごのなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております﹂ という。外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことは始はじめてで、名めい誉よなことであると喜び、再三脱だつ帽ぼうしたあとで去った。通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、 ﹁苦しゅうない、苦しゅうない﹂最大侮ぶじ辱ょくを最大敬礼とした誤訳
翻訳というものはこうもできるものだ。しかしさらにはげしい翻訳の仕方もある。幕ばく府ふ時代に使節が始めてヨーロッパへ派遣されたことがある。 髪かみをチョン髷まげに結ゆい、裃かみしもを着つけ、二本さし、オランダへ行った。これよりさき、外国で日本人が来るそうだ、毛が頭の半分だけ生はえ、その毛がつっ立っているそうだ。これは見ものだというので、子供も女も寄り集まって見に出た。使節の一行は幾台かの馬車をつらねてホテルから宮きゅ廷うていに拝はい謁えつに出かけた。何万という人々は沿道に立って異様な装なりした日本人を見、ぞろぞろとそのあとについてゆく。なかには吹き出すもあれば、あらゆる侮ぶじ辱ょくを使節に加うるもあった。おそらく日本の侮ぶじ辱ょく法ほうの最大なるものは﹁尻しりをまくって叩たたく﹂ことであろうが、西洋ではこの方法を実行することができない。そのかわりに双手を開いて鼻はなの前にならべて人を遇ぐうする侮辱法がある。日本人にはおかしくもなんとも思われぬが、西洋人はこれをもって極端なる侮辱の方法と見みなし、無礼の極とし、日本人が尻しりをまくって人を侮辱すると同じくらいの程度とみなしている。 使節が馬車に乗って行くと、両側の子供らが鼻はなの前へ手を当てワイワイいっている。使節はなんのことやら合点が行かぬので、通訳官にだたすと、 ﹁あれは日本でいうと三拝九拝にあたる、あの子供はあなた方に最敬礼を表しているのである﹂ といった。そこで日本の使節もよいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ宮きゅ廷うていに達し拝はい謁えつするとき、使節は玉ぎょ座くざの前でみな手を鼻に当てた。陛へい下かは大いに驚き、自分に侮ぶじ辱ょくを加うるのはなはだしきものであれば、ただこのままには棄すておかれぬ、そもそもこの儀はなにごとなるかとかたわらなる通訳に問われた。すると通訳官はこれが日本の最敬礼でありますといった。陛下もなるほどそうか、それでは朕ちんも遠来の大使を遇ぐうするに最敬礼をもってせんといわれ、使節も陛下もともに侮辱を最敬礼と心得て実行されたという話がある。 通訳というものはこういうこともできる。僕はこの話を思い出して一人で笑い出すことがある。笑うとともに思いあたることがある。すなわち理想を実行に翻訳するにあたり、翻訳を間違えたり、あるいは故意に曲解して実行することは、いまのオランダ語の通訳官と一寸すん一分ぶも違わぬことがありはせぬか。理想の翻訳を誤るものが多い
たとえば男女の心しん中じゅうのごとき、二人が夫婦になるのを理想とするが、不ふ義ぎの交際は親も許さず世間も認めぬ。この世で晴れて一緒になれぬなら、むしろあの世で蓮れん華げの上にということになる。 かくのごとくその理想なるものを実行するさいにその翻訳の任にあたる自分の考え一つで、勝かっ手て次第に意味をとる。ちょっと聞くともっともらしく思うこともあるが、翻訳のやり方によってははなはだもっともでない実行に現れることが間ま々まある。たとい商売人でも役人でも、書生でもいかなる職業の人でも自分の同業者の悪口をいう。はなはだしきは人じん身しん攻こう撃げきをする者もある。して彼らの理由を訊ただせば、人間が世の中にいる以上は、優ゆう勝しょ劣うれ敗っぱいの原則にしたがい競争するを要するがゆえ、かくすると弁解する。なるほど競争とか優勝劣敗とかいうと、学理的でよく聞こえるけれども、この理屈を実行に翻訳するにあたっては勝手なやり方をする。敵を殪たおすにはいかなる手段方法をも用いる、嘘うそをついてもかまわぬというは、優勝劣敗あるいは生存競争ということを読み違えていると言わなければならぬ。 僕はたびたび耳にすることであるが、学校で試験のとき、狡ず猾るをやる学生がある。それを呼び出して聞くと、なかなか相当の理屈がある。試験に不正を行ったのは一つの理想より出たことである、どうか早く学士になり、親に安心を与えたいと思うが、近ごろ親が病気でこうこうだとあわれげな話をする。してみると君が試験に狡ず猾るをしたのは、親孝行のためにしたというのか、﹁そうでござります﹂という。こういうことは間ま々まある。 愛国忠君などということを口くち癖ぐせにいう人にはこれが実行の翻訳を誤あやまる人が多い。愛国だといってみだりに外国人を悪口したり、戦争をしないでもよいのに、戦争を主張したりする人がある。 明治二十年ごろ、国こく粋すい主しゅ義ぎのさかんなとき、途中で外国人の婦人に唾つばを吐はきかけた学生があった。なぜそんなことをなしたかと訊じん問もんされたとき、国体を発はっ揮きするためだと答えた。愛国ということはよく聞こえるが、これを実行に翻訳するときは、オランダの通訳官と同じく勝手にする。 むかし英国の学者ジョンソンは愛国心ほど怪あやしげな心はない。いかなる悪党も愛国なる言葉を用うれば、犯罪をなすことができるといった。 明治十年ねんごろまでは強ごう盗とうしたり乱暴狼ろう藉ぜきした者に、なぜそんなことをしたかと聞くと、国を憂うれいて大いに旗はた上あげするつもりであるといった。また地ち租そ改正のとき、あっちこっちで騒さわいだ。このとき重税を課しては国のために憂うれうべき事であると、佐さく倉らそ宗う吾ごを気取ったまではいいが、佐倉宗吾のように命を捨てたかといえば、なかなか捨てるどころか、かえって強ごう盗とう強ごう姦かんしたものもある。これが愛国だということはちょっとわからぬ。とかく愛国とかあるいは何々の主義だといって議論して歩くあいだはよく聞こえるけれども、これを実地に行うときは、翻訳が間違いやすいゆえにわれわれがいやしくも理想をいだくという以上、その理想なるものを実現するにあたって、理想の品位を下げぬように行為に現すにあらざれば理想でなく、妄もう想そうであることを一言したい。理想の実行は位地の有無に関係せぬ
近時理想ということが一つの流行語になり、成せい功こうはいうにおよばず失敗をも理想に帰きする傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退しりぞいて、これは自分の理想を実行するのか否いなかと考えたいと思う。たとえば愛国の理想を描えがくならば、戦争のとき、馬ばは背いにまたがって功こう名みょう手てが柄らをするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を遂とげるみちはある。 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として嘉よみすべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。 教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく糺ただしてみると、真に教育のためにつくしたい志こころざしよりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育云うん々ぬんというのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大たい廈かに住すまいすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の馬ばて丁いになるのがこの人の理想にかなっている。 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと煎せんじつめると、実業家は美服を着つけ茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇ほう間かんでも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と高こう尚しょうらしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視しが学くか官んになる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとか叩たたくとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛てん倒とうし、下に肉にく月づきがついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨うまいものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて下げじ女ょ下げな男んの教育もできる。また自分の女にょ房うぼう子女を教育することもできる。 むかしの立派なる教育家貝かい原ばら益えき軒けん、中なか江えと藤うじ樹ゅ、熊くま沢ざわ蕃ばん山ざん等はみな塾じゅくを開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。藤とう樹じゅのごときは村を散歩することが教育であった。人ひとそのものが教育である。 人が真に教育家なら笑っても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙きょ手しゅ、一投とう足そく、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充みち満みち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。位地を選んで大臣、局長、課長にならねばならぬということはない。文教の職にあたった政治家は、たくさんあるけれども、なんらの功績を残さぬ者が多い。明治以来文部大臣となりし人のなかで、今日まであの人の時にこういうことをしたと記憶される人はきわめて少ない。僕は文部省を攻撃するのでなく、ただ説明の便宜に引例したのである。して僕のいうことは教育のみに限らない。他の官かん衙がにおいても同然である。 また西洋でも同じである。各国の教育史を見てもペスタロッチ、フレーベルなどは自身で鼻はな汁じるをたらした子供を集めて教えたということは残っているが、役人になったかどうか、世せじ人んは問わない。われわれの理想を翻訳するに、どの位地、どの椅い子すに坐すわらなければできぬというものでない。位地を得ればなお良いかも知らぬが、位地ばかりが理想を達するゆえんでない。否いな々いな位地を得たため、かえって理想を失する輩やからが多い。理想は椅い子すにあるものでないから、椅子を得たによってまっとうするとはいわれぬ。もし椅子によりてなしうるなら、人でなく椅子が働き、人は椅子の道具に化するようなものである。理想は所在に現れる
しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒ほめられたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤いやしむべき野や卑ひなる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚おわ穢いを掩おおうために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透とう徹てつするならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余よゆ裕うがありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心ここ地ちのよいことがある。西さい郷ごう隆たか盛もりのそばにいると心ここ地ちよく翁おうの身から体だから後ごこ光うでも出ているように人は感じ、翁おうは近づくと襟えりを正さねばならぬほど威いげ厳んがあった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎なれて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁おうの心のそとに顕あらわれたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。 理想があれば手なり足なりに現れる。かの椅い子すに坐すわらなければ理想が行われぬというは、下へ手たな職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。泥どろ棒ぼうするの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。盗ぬすむ気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。 聖書に﹁人を憎にくむは人を殺すなり﹂という意味が書いてある。人を憎にくむのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼きゃ奴つは嫌いやな奴やつだ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければ拾ひろうということは遠くとも従い兄と弟こ同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の誘ゆう惑わくに陥おちいらんとしたとき、かねて聞いていたことは﹁ここだな﹂と思い、ついに危険を脱だっしたということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、卑ひき近んな小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。ここに焚たく火の烟けむりなりけり
昔のある皇后の御歌に、
もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝに焚 く火の烟 なりけり
われわれはとかく理想は遠い所にあり、唐もろ土こしの山のかなたに立つ烟けむりのごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に憧あこ憬がれているという青年男女などは、日々学課をそっち退のけとし、月や星を眺ながめ、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。
﹁ここに焚たく火の烟けむりなりけり﹂で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき塵じん界かいを去らねばならぬものでない。われわれは山へ引ひっ込こむもよい、塵じん界かいを去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。理想は心の作さよ用うである、実際は身体の作用である。心と身から体だとは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。
実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。また真の理想なれば実際に行われぬものはない。いかに高き理想も実際に現すことができると信ずる。
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第二十七章 夢の実用
夢は迷信として排しりぞくべきか
年が明けて、来たるべき一年間の出来事を卜ぼくするためか、あるいはまた過ぎた年の厄やく払ばらいのためか、正月の二日に、宝たか船らぶねを枕まくらの下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの風ふうを行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世 にかさめんとすらん
とは古き人のよく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も
夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦 よりはまし
と猩しょ々うじ庵ょう原あん松げんしょうの狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる暁あかつきが人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを憚はばかるが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。
なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その﹃向上の詩﹄において、それ人生は夢ならずと謡うたったのも、もっとも至極の観察である。
夢もまた人生の一部
しかし夢もまた人生の一部である。ほとんど夢なきの人生はない。かりに﹁聖人夢なし﹂という句が本当なりとするも、世せじ人んことごとく聖人ならざる以上は、やはり夢は人生に添えるものである。もし実際ならざることを夢と称するならば、未来も理想もすべて夢であるといわねばならぬ。しかし折々はかえって夢のほうが、普通にいう実際よりも、なお実際なることがある。明らかに夢見ているときでも ﹁これは本当であろうか﹂ ﹁夢ではあるまいか﹂ と疑うことは、普通に人のいうところである。しかるに実際の場合にもことさらにその実際なることを感ぜしむるときは、﹁夢ではないか﹂と思う。 かりに日常普通に起こらぬ、人生のうわっつらでない事実が起こったとする。たとえば不幸の上に不幸が重なり、火災に罹かかった上に親を喪うしなうとか、子を失うしなうとか、あるいは自分が急病にかかるとか、すなわち人生のあらゆる苦しみが、一時に襲おそい来たるときはこれぞ人生の実際の実際たるゆえんであって、すなわち人生の蓋ふたを除のけて底に達したようなときである。人はかかる場合に会うと、これは夢ではないかと思い、夢であれかしと祈いのる。夢とはいかなるものか
普通にいう夢とは、自己の意いし識きの行われぬときに心に触ふるる現象である。しかして意志の行われぬときは、普通ならば睡すい眠みん中である。ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。 人間普通八時間睡すい眠みんし、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの作ファ用ンクションあるものであるか。僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。 農業に休田というがある。これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の作さく物もつを生育する力を増ぞう殖しょくするために休むのである。人間の睡すい眠みん時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。ゆえにこの間に結ばるる夢は徒いたずらに疲ひろ労うせる身体の幻まぼろしすなわち諺ことわざにいう五臓ぞうの煩わずらいでなく、精神的営養物となるものと思う。睡眠中の時間も向上に用いられる
かくのごとく意識の行わるるときのみが人生でない。また知覚の存するときのみが人生のすべてでない。空くう々くう寂じゃ々くじゃくに過したり、または睡すい眠みんする時もまた人生にとっては重大な時である。 長短よりいえば、前にも述べたごとく、人生の三分の一を成しているが、この時間だけは人間の力でいかんともなしえぬとか、あるいは睡眠中は死んだも同然なりなどとは、普通に聞くところである。通常、睡すい眠みんと死とは、同一物のように思われている。さればこそ沙さお翁うの悲劇﹃ハムレット﹄にも、﹁死ぬるは眠ねむるなり、眠るはことやすけれど、眠る間に夢という恐ろしきものあるなれば云うん々ぬん﹂と死と眠りとをほとんど同一視してある。ただ時間の差異のみとみなされている。 ゆえに人の一生を生と死との二者に分けて論ずれば、睡眠はむしろ死の部に含まれているがごとくに称となえられるが、僕は繰り返していいたい、睡眠の時間も、その間に結ばるる夢も、人生の一部をなすものであると。この間に直接の意識知覚が行われぬとしても、人生には重大なときであって、心がけによっては、この時間をも向上のために資することができると思う。古人の言に夢の魂たましいなどと称するものがある。
つらさのみまさり行 く幾 おもひやる夢 のたましひいかゞ行 くらん
などという歌があるが、これは睡眠中の心理的動作を指さすもので、今日の学者といえども捨すてがたい面白い詞しし章ょうであると思う。
夢は一種の潜在識
近ごろ心理学者が潜せん在ざい識しきということを説く。僕は潜在識とは学問上、いかなるものなるやを知らぬが、僕の平凡見解でわかりやすく俗語で説けば、心の奥底に潜ひそみ隠かくれ、自分がいっこう気づかぬとき、不ふ意い々ふ々いと現るる感想をいうように思わるる。たとえばわれわれが子供のとき、母の乳ちぶ房さにつけるころに見たり聞いたり、または感じたりしたことは、われわれの心の、いわば片かた隅すみに隠かくれ、忘わすれられているらしく思われるが、必ずしも消滅し去るものでない。 元来、人が事物を記憶するのは、たいがい四歳以上になって見聞したことにかぎる。しかして三歳、または二歳のころ、まったく無意識的に見たり聞いたりしたことは、根底より消え失せるかと問わば、けっしてそうでない。どこかに潜ひそんでいて、いつかことに触ふれ機に接して、何なん人ぴとにも聞いたこともないことを想い浮かべるのは、よく各人の実験し、また他人についても見聞することである。われわれがなにかするときに、こういうことはかつて前にもあった、いつであったか、その時を忘れたが、確かにあったと思い出すことがある。またあるいはまったく新しい所、――たとえば外国に行って、その風景などもなんとなしにかつてどこかで見たように感ずることもある。しかるに実際はいかに考えても、見たはずがないというがごとき類は一種の潜在識の作用であろう。この潜在識はわれわれ個人として経験したことばかりのものにかぎらない。われわれの祖先が経験したことまでも材料となる。 たとえば誰たれでも一度か二度は経験しない人はあるまいが、寝ておって、高い所から落ちる夢を見て、冷ひや汗あせをかいて目めざめることがある。かくのごとき夢はどこの国の人でも見る夢であって、おそらく人類共通の経験に基づいたことであろう。 さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまだ猿さるであったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、諺ことわざに違たがわず、折々は木から落ちることもあったに違いない。われわれの祖先にとってはこれほど怖こわいことはない。悪く落ちれば絶命は必ひつ定じょうであるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。したがってこのことは全身、全心に沁しみこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の潜せん在ざい識しきに化するにいたる。これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て冷ひや汗あせをかかせる理由となる。 これについて奇きた態いなことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。いつも夢の浮き橋で中絶するという風ふうである。なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。 一いっ斎さい翁おうの言に曰いわく、 ﹁およそ人じん心しんの裏うち絶たえて無なきのこと、夢む寐びに形あらわれず、昔せき人じん謂いう、男おとこ、子こを生うむを夢ゆめみず、女おんな、妻さいを娶めとるを夢ゆめみず、この言げん良まことに然しかり﹂と。 眠る時にもこの潜せん在ざい識しきはひそかに働きつつある。ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、無む垢くであるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。 ﹁夢ゆめは逆さか夢ゆめ﹂とか、 ﹁あたらぬものは夢ゆめとちょぼいち﹂ などいう諺ことわざは、夢をもって未来を卜ぼくする方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、逆さか夢ゆめということもなくなって、﹁思おもうこと寝ねご言と﹂なう諺ことわざこそ事実に適かなうなれ。 杜と甫ほの﹁夢りは李くを白ゆめむ﹂の詩に﹁故こ人じ入ん二わ我がゆ夢め一にい、明わが二なが我くあ長いお相もう憶をあ一きら﹂と詠じたのも、後ごに二じょ条うい院んの、
こひしさのねてや忘 ると思 へどもまたなごりそふ夢 のおもかげ
と歌われたのも、詩しせ仙んにかぎらぬ情である証拠は、われわれ凡ぼん人じんも折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。
宝たか船らぶね以上の夢見る秘ひけ訣つ
僕の素しろ人うと的の考えでは、潜せん在ざい識しきは知識を、心という土蔵の奥にある葛つづ籠らの中に入れて、しまいこんだように思われる。ゆえに日ごろよき考えと、しからざる考えとを蔵おさめ入るるによって、潜在識の性質に異同を生しょうずることはいうまでもない。潜在識はその本もとを質ただせば、意志にさかのぼって、自分の力のおよばざる方面より来たる知識もあるが、その大部分は自分の希望どおりのものを選んで入れることができる。 人に交わっても、その短所のみを見、ここが心に叶かなわぬとか、あの風ふうが気にくわぬとかいう、弱点のみを心の奥にある葛つづ籠らに詰め込むか、あるいは善良なる観かん察さつと思想を入るるかは、精神の持ちよういかんによってできるものと信ずる。しかしてこの貯蔵した意識が、眠るときに、葛つづ籠らより現れ出いで、不愉快なものは不愉快な夢となって祟たたり、善事は善く出て、愉ゆか快いなる夢となって、おのれの心を喜ばしかつ心を養うものである。伽おと話ぎばなしにある﹁舌した切きり雀すずめ﹂の葛つづ籠らにいかなるものが潜在してあるかは、もらう人の与あずかるところでないようなものの、その根本を質ただせばもらう人が入れ込むのである。欲よく張ばり婆ばあさんは、みずから化ばけ物ものを葛つづ籠らの中に潜在させたから、蓋ふたを開くとともに醜しゅ怪うかいなものが顕あらわれだし、正しょ直うじき爺じいさんは宝ほう物もつを潜せん在ざいさせたから、なかからあらわれ出たのがすべて財宝であった。 それと同じく宝たか船らぶねを枕まくらの下に敷いて眠っても、ただ欲よく張ばり考えで眠れば、よし宝船を夢みても遠い沖を帆ほば走しる光景を見たり、あるいはかえって宝船の難破を見たりするであろう。これに反し、得たる宝たからを慈じぜ善んて的き公共的その他の正当な使用に充あつることを日ひごろ念じながら夢をむすべば、おそらく宝船以上の宝たからの夢を得るであろう。しかしてかかる夢は普通にいう邯かん鄲たんの夢でなくして、理想とも称すべきものであり、また人生の実際の一部となるものである。僕が夢を一概に迷信として排はい斥せきすべからずといったのもこれがためである。夢と実際とは連絡することが多い
子供が眠るときに、怖おそろしい顔して叱しかると、子供はかつ泣き、かつふるえつつ眠ってしまう。かくのごとき夜にむすぶ夢のなかには、あるいは鬼おにに襲おそわれたり、あるいは化ばけ物ものに逢あったり、あるいは魘うなされたりして可か愛わゆかるべき顔にも苦痛または恐怖の念がありありと顕あらわれる。これに反し愛らしき物語を聞かせ、あたたかき愛情をもって、寝かしつけたときは、子供も天使に迎えられたり、あるいは極楽に連れられて楽しく遊んだりする夢を見、すやすやと眠る顔には笑えみをふくみ、いわゆる﹁子供の寝顔﹂となる。かく怖おそろしき夢をむすぶも、吉きつ夢むを見るのも、ともに子供にとっては︵大人にしても、同じであるが︶、一つの精神的経験を構成する分子となる。目がさめるとともにあるいはこれを忘れてしまうかも知れぬが、しかもどこかに、子供の意識となって残り、すなわちいわゆる潜せん在ざい識しきとなって、なにかにつけて記憶にのぼってくるものである。 僕もかつて病いにかかり、体温の四十度を越したとき、夢に怖おそろしき化ばけ物ものを見たことがある。眼がさめたのちも、化物は眼前にちらついて残っていた。けしからぬことであると、自分ながら自分を責せめ、これはまったく熱が高いためであると思い、試みに検温器をかけるとはたして高熱であった。かく精神は落ち着き、自覚したのちでも化ばけ物ものの形かたちがハッキリと目に映えいじていた。このとき僕は独り病室におったので、かたわらにあったランプをつけ、目をみひらき、ばかなものを見たものと思いつつ、空中をにらんだが、なおその姿が髣ほう髴ふつとして眼前に残っていた。むろん、これは病的であることを、僕はよく知っていた。しかしいかに病的とはいえ、みずから明めい瞭りょうに自覚しておるにかかわらず、夢に見たことが、さめたるのちまでも、その現げん象しょうの消え去らず、連続しておった。あるいは心理学者の一笑を招くかも知れぬが、いわゆる夢なるものといわゆる実際なるものとが連続しておることを考かんがえ、怪物の夢そのものよりかえっていわゆる実際のほうがおのずから怖おそろしくなったことがある。夢は人間の心の鏡
右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。ゆえに目覚ざめているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた下げひ品んな、紊みだれたことを見ぬものである。しかるに少し油断し、修養を怠おこたると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。孔こう子しは、 ﹁甚はなはだしいかな、吾わが衰おとろえたるや。久ひさしく吾われ復また夢ゆめにだも周しゅ公うこうを見みず﹂ といっている。孔こう子しが油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、周しゅ公うこうのことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。しからばすなわち白はく居きょ易いの詩に、 ﹁平へい生ぜい所あつレうす厚ると者ころのもの 昨さく夜やゆ夢めに見こレれを之みる﹂ とあるように、日ごろめざめているときに高こう尚しょうな善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。はたしてそうならば、睡すい眠みん中のいわゆる夢むこ魂んによっていわゆる醒せい覚かく中の真意が何いず処こにありしかを窺うかがうこともできる。昼ひる中なか働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。佐さと藤う一斎さいの﹃言げん志して耋つろ録く﹄に、 ﹁感かんは是これ心こころの影えい子しなり、夢ゆめは是これ心こころの画が図となり﹂と、また、 ﹁人ひとを知しるは難かたくして易やすく、自みずから知しるは易やすくして難かたし、但ただし当まさにこれを夢む寐びに徴ちょうし以もって自みずから知しるべし、夢む寐び自みずから欺あざむく能あたわず﹂と。 実にそのとおりで、良りょ木うぼくは良りょ果うかを結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。しからば夢はまた吾ごじ人んの平素識しらず識らずに思う心の鏡かがみと称してもよかろう。かく考えると、睡すい眠みんを利用して修養の用に供することができそうである。努力すれば高い境遇に登れる
わが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は偶ぐう然ぜんなる現象にあらず、まったく空くうのものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの、一歩進んでは大いに修養の資に供すべきものであるというにほかならぬ。わが輩のこの文を見る人のうちには定めし僕の思想の浅せん薄ぱくなるに驚おどろく人もあろう。 一般人士の踏ふむ境界を脱だっしていっそう高き境きょ界うかいに達したならば、夢相も夢物もみな同一の虚きょ妄もうにして、すべてあるところなしと悟さとらるるであろうことは、あたかも先に掲げた例のとおり、現時の人類がいまだ人間にならざりし時代、すなわち今日よりもなお低き境きょ遇うぐうにありしころの経験を、夢の中にあるごとく、折々繰り返すことあれば、荘そう子じは高き思想界に入ってのち、自己の経験をかえりみて百年があいだ胡こち蝶ょうとなって花の上に戯たわむれてのち驚き覚さめたるごとく言った。形けい而じ下かの世にあると、形けい而じじ上ょうの世にあるとは、物を夢と見なすのと、夢を物と見なすの差があろう。わが輩は凡人の情なさけなさに、形けい而じ下かの話をして夢を物とみなして長々しく弁じたが、形けい而じじ上ょうの思想の存在するをまったく心得ぬわけでもない。しかしわが輩のごとき考えをもって夢をも修養の用に供する工くふ夫うをし、まじめにかつ永く努つとめたなら、必ず一段も二段も高き境きょ遇うぐうに進入することを得るであろう。古人の歌に、
人間白日醒猶睡 人間は白日に
老子山中睡却醒
醒睡両非還両是
溪雲漠漠水冷冷
自警録終