角の荒物屋が佐野吾八さんの代にならないずっと前――私たちまだ宇宙にブヨブヨ魂が漂ただよっていた時代――そこは八人芸の○○斎という名人がいたのだそうで、上あげ板いたを叩たたいて﹁番頭さん熱いよ﹂とうめ湯をたのんだり、小こう唄たをうたったりすると、どうしても洗おゆ湯やの隣りに住んでる気がしたり、赤こど児もが生れる泣声に驚かされたりしたと祖母がはなしてくれた。 この祖母が、八十八の春、死ぬ三日ばかり前まで、日ひが髪み日ひ風ぶ呂ろだった。そういうと大変おしゃれに聞えるが、年寄のいるあわれっぽさや汚きたならしさがすこしもなく、おかげで家のなかはすがやかだった、痩やせてはいたが色白な、背の高い女で、黒じゅすの細い帯を前帯に結んでいた、小さいおちょこで二ツお酒をのんで、田所町の和田平か、小こで伝ん馬ま町三丁目の大和田の鰻うなぎの中串を二ツ食べるのがお定きまりだった。 祖母のお化粧部屋は蔵くらの二階だった。階し下たは美しい座敷になっていたが、二階は庭の方の窓によせて畳一畳の明りとりの格こう子しがとってあり、大おお長なが持もちやたんすその他の小引出しのあるもので天井まで一ぱいだった。中央の畳に緋ひも毛うせ氈んを敷き、古風な金かねの丸鏡の鏡台が据すえてあった。 三階の棟むな柱ばしらには、彼女の夫の若かった時の手しゅ跡せきで、安政三年長谷川卯兵衛建之――と美みご事とな墨色を残している。その下で八十の彼女は、日ごとに、六ツ折りの裾すそに絵をかいた障しょ子うじ屏びょ風うぶを廻めぐらし黒ぬりの耳みみ盥だらいを前におき、残っている歯をお歯黒で染めた。銭ぜに亀がめほどのわりがらこに結って、小こよ楊う子じの小々太い位なのではあるが、それこそ水の垂れそうな鼈べっ甲こうの中なか差ざしと、みみかきのついた後うし差ろざしをさした。鏡台の引出しには﹁菊きく童どう﹂という、さらりとした薄い粉こな白おし粉ろいと、しょうえんじがお皿に入れてあった。鶏たま卵ごの白味を半紙へしいたのを乾かして、火をつけて燃して、その油ゆく燻んをとるのに、元もと結ゆいでつるしたお小皿をフラフラさせてもたせられていたことがあった。ある時、お皿の半分だけしか真まっ黒くろにならなかったが、アンポンタンらしい理屈を考えた。どうせ、毎日おばあさんが拭ふいてゆくのだからと――今思えば、それが眉まゆ墨ずみであったのだが―― 祖母は身だしなみが悪い女ひとを叱った。 ﹁おしゃれではないたしなみだ、おれは美女だと己うぬ惚ぼれるならおやめ。﹂ 文化生れのこの人は、江戸で生れはしなかったが、江戸の爛らん熟じゅ期くきの、文化文政の面影を止とどめていた。万事がのびやかで、筒っぽのじゅばんなど、どんなに寒くても着なかった。 ある年九月廿日、芝の神しん明めい様さまのだらだら祭りに行くので、松蔵の俥くるまに、あたしは祖母の横に乗せられていた。紺こんちりめんへ雨雲を浅あさ黄ぎと淡ねず鼠みで出して、稲妻を白く抜いた単ひとえに、白しら茶ちゃの唐から織おりを甲か斐いの口くちにキュッと締めて、単ひと衣えには水みず色いろ太たい白はくの糸で袖口の下をブツブツかがり、その末が房になってさがっているのを着ていた。日ひか陰げち町ょうのせまい古着屋町を眺めながら、ある家の山のように真黒な、急な勾こう配ばいをもった大屋根が、いつも其そ処こへ来ると威圧するように目にくるのを避よけられないように、まじまじ見み詰つめながら通った。 祖母は伊勢朝あさ長おさの大庄家の生れで、幼少な時、童わらべのする役を神宮に奉仕したことがあるとかで神明様へは月参りをした。よくこの人の言ったのに、五い十す鈴ず河は末す流えの方でもはいってはいけない、ことに女人はだが――夏の夜、そっと流れに身をひたすと、山の陰が抱いてるように暗いのに、月つ光きは何ど処こからか洩もってきて浴あびる水がキラリとする。瀬せが動くと、クスクスと笑うものがあるので、誰と低くきくと、あたしだよと答えるのは姉さんで、そっと這はうようにして上あ陸がる―― その折こうも言った。香あ魚ゆは大きい、とってきてすぐ焼くと、骨がツと放れて、その香かのよいことと―― あたしは先年、神かみ路じや山まが屏風のようにかこんだ五十鈴河のみたらしの淵ふちで、人をおそれぬ香魚が鯉より大きく肥ふとっているのを見た。昔は、そのおちこぼれが、伊勢の人に香よき自慢の香魚を与えたのであろう。 帰かえ途りは、めっかち生しょ芽うがとちぎ箱ばこがおみやげ、太だい々だい餅もちも包まれている。で、この祖母の道楽は、彼女の掴つかんでいた道徳は、一視同人ということで、たまたまの外出はその点で彼女を自由にさせくつろがせたものと見える。また、彼女の気性を知っている者たちは、逆らわずにそのままに彼女の厚意をうけいれた。 ﹁御隠居さん、今日は松田ですか?﹂ 俥くるまの上と下で、帰りのお夜食の寄りどころが定きまった。お夜食といっても五時になるやならずであろうが――そこで。京橋ぎわの︵日本橋の方からゆけば京橋を渡って︶左側、料理店松田へ寄った。巾はばの広い階はし子ごだ段んをあがって二階へ通った。 ﹁松さんはよいものをおとり。﹂ 顔かお馴なじ染みの女中さんは、ニコニコしてなるたけ涼しいところへ座らせようと、茣ご座ざの座ぶとんを持ってウロウロした。どの広い座敷も、みんな一ぱいなので、やっと、通り道ではあるが、縁側についたてで垣をつくってくれた。 八十に近い祖母と、六ツ位の女の子と、松さんとは親密に車くる座まざになった。祖母のお膳ぜんには大きな香あ魚ゆの塩焼が躍おどっている。松さんは心おきなく何か一生懸命に話したり願ったり、食べたりしている。あたしが所在なくしていると、若い女中が来て、噴水の金魚をごらんといった。 松田はいろんなことで有名になっているが、噴水と金魚もたしかによびもののひとつであったのであろう。あたしは余念なく眺めていたが、 ﹁嬢じょっちゃん、早くこちらへ来て――﹂ と顫ふるえた声で言った女中さんに引っぱられて祖母のいる場処へかえった。 と、どうしたことか、他の女中がお膳をはこんで裏二階の隅の方の室へやへ席をうつそうとしているところだった。近くにいた支那人の一ひと団かたまりが、喧やかましくがやがや言って席を代えさせまいとしたが、祖母はグングン傍そばを通っていった。 別の部屋へかわってからも、隣席の人たちが妙にあたしを見て、首をひねったり、何かいったり、うなずいたりした。帰りには、松田の人たちに守られて、俥のおいてある裏口の方から出された。 ﹁大丈夫です。みんな表梯ばし子ごの方ばかり見張っていますから。﹂ と送り出した人たちは言った。松さんは大急ぎで俥をひいて駈かけ出だした。 ﹁おそろしやおそろしや、この子を支なん那き人んが浚さらおうとして――﹂ と、俥をおりると祖母は家の者に言った。 赤ん坊のころ、若い母親の不注意から、釣つりらんぷの下へ蚊か帳やを釣って寝させておいたら、どうした事か洋ラン燈プがおちて蚊帳の天井が燃えあがった。てっきり赤ン坊は焼け死ぬものと誰もが思ったが、小さい布ふと団んのまま引ひき摺ずり出されて眠っていたという子は、支那人の人浚いの難からも逃れたのだった。そのアンポンタンが、どうした事か音に好ききらいが激しくって、蕎そ麦ば屋やのおばあさんを困らしたが―― 丁度ここに、いつぞや﹃婦人公論﹄へ書いた短文をはさもう。 隣家の蕎麦屋で粉こなをふるう音が、コットンコットンと響いてくると、あたしは泣出したものです。住居蔵の裏が、せまい露ろ地じひとつへだてて、そばやの飛離れた納な屋やがあったので、お昼過ぎると陰気なコットンコットンがはじまる。神経質な子供だったと見えて昼寝していても寝耳に聴附けて泣出したのです。両親や祖母が困ったと言っていたのは、後あ日とできいた思出でしょうが、そのふるいの音も厭いやだったに違いありませんが、その家全体が子供心にきらいだったのではないかと思われます。どうも暗い小さなそばやらしかったのです。﹁利久﹂といって、主人になった息子とお媼ばあさんだけで、そのお媼さんが、骨だった顔の、ボクンとくぼんだ眼玉がギョロリとしていて、肋あば骨らぼねの立った胸を出して、大おお肌はだぬぎで、真まっ暗くらなところに麺めん棒ぼうをもってこねた粉をのばしていると、傍に大釜がまがあって白い湯気が立たち昇のぼっていたり、また粉をふるっている時は――宅の物置のつづきのさしかけで、角かどの小さな納屋の窓から、そのお媼さんの皺しわがれた肩には、汚きたない濡ぬれ手てぬ拭ぐいが肩掛のように結びつけられてあって、白しら髪がまじりの毛がそそげ立って、斑まだらにはげた黒い歯で笑われると、とても泣かずにはいられなかったのです。夏の、重っくるしい風のない蔵座敷のなかに寝せつけられて、そのコットン、コットンをきくときっと泣出した覚えはあっても、それが火のつくような泣方で、手もつけられなかったときくと、今ではその媼さんに気の毒な気がしますが、じきにその媼ばばはコレラで死んでしまって、その店もなくなってしまいました。 ある時、祖母の従いと兄こだというおじいさんが伊勢から訪ねてきたことがありました。おじいさんはもう九十歳だといいました。祖母は八十ばかりでした。この二人は人世五十年以上逢わなかった様子で、しきりに懐しがっていました。わたしはそのおじいさんの赤とんぼ位のちょん髷まげが、光った頭にくっついているのを、西洋人を見るより珍らしく見ていました。二階の広間で御ごち馳そ走うをして、深川でもと芸者をしていたという二人の血びきのおたけさんという女を呼んで、人ひと交まぜしないで御酒を飲んでいましたが、やがておじいさんが太たい鼓こをたたき、女のひとが三味線を弾いて、祖母が踊りはじめました。子供は行くのでないといわれて、そっと梯はし子ごだ段んのところから覗のぞいていると、しまいには二人の老人が浮れて、伊勢音おん頭どを踊っているかげが、庭にむかった、そとの暗い廊下の障子にチラチラと動いていました。その手ぶりのよさ――わたしは最近伊勢の古ふる市いちまでいって、備前屋で音頭を見せてもらいましたが、とてもとても、幼おさ目なめにのこる二人の老人のあの面白さは、面影も見ることが出来なかったのです。 こんな事を書いたらまだいくらもあるでしょうが、町で生れた子には、自然からうけた印象のすけないことがものたりません。 利久の納屋はあたしの家の物置と一ツ棟むねで、二ツに仕切って使っていた。丁度庭裏の井戸のところに窓があって、井戸をはさんでの釜かま場ばになっていた。 激しいコレラの流は行やった最終だというが、利久はお媼ばあさんがコレラで死ぬとすぐに倒つ産ぶれた。万さんという息子は日ひよ雇う人と夫りになったが、そののち、角の荒物屋へ酔って来ていた。焼しょ酎うちゅうをうんと飲んで死んだと、荒物屋佐野さんの十三人目の、色の黒い、あぶらぎった背虫のように背を丸くしたおかみさんが宅うちへ知らせに来た。佐野さんは時々面白い話をした。おかみさんをとりかえるたんびに、だんだん悪くなって、こんな汚ない女にとうとうなってしまったといった。そういわれても怒らずに、おかみさんは、糊のりを煮ていた。お天気のよい日、朝の間まに、御ごふ不じょ浄うの窓から覗くと、襟の後に手拭を畳んであててはいるが、別段たぼの油が着物の襟を汚すことはなさそうなほど、丸くした背中まで抜き衣えも紋んにして、背中の弘こう法ぼうさまのお灸きゅうあとや、肩のあんま膏こうを見せて、たすきがけでお釜の中のしめ糊を掻かき廻していた。※﹇#﹁の<小さい﹁り﹂﹂、屋号を示す記号、48-11﹈とした看板がかけてあって、夏の午あ前さは洗濯ものの糊つけで、よく売れるので忙しがっていた。平ふだ日んでも細い板切れへ竹づッぽのガンクビをつけたのをもって、お店から小僧さんが沢山買いに来た。 コレラは門かど並なみといってよいほど荒したので、葛くず湯ゆだの蕎そ麦ばがきだの、すいとんだの、煮そうめんだの、熱いものばかり食べさせられた。病人の出た家の厠かわやは破こわして莚こもをさげ、門口へはずっと縄を張って巡査が立番をした。 深川芸妓だったおたけさんもコレラで死んだ。背の高い、反そり身な、色の白い、額の広い女で祖母の姪めいだけに何ど処こかよく似ていた。辻車に乗って来て、気分がわるいと言った。それなら早く帰る方がよいだろうと、その車で出たが、車屋がすぐ引ひっ返かえしてきて、お客様が変だとおろした。 門から這は入いって、庭を通って来て、渡り縁に腰をかけたが、今出ていった時とは、すっかり相そう恰ごうが変って、額を紫っぽく黄色く、眼はボクンと落ちくぼみ、力なく見開いている。なぜ引返したといっても辻車では仕方がなかった。住居は遠くもない鉄砲町なので、車夫は沢山のお礼をもらって病人を送っていった。 幾日かたった。おたけさんの開いていた氷屋の店は、ガランとして乾いていた。軍しゃ鶏も屋やをはじめたのがいけなくなって氷店になったのだった。道楽ものの兄が二人いたが、その一人と母親とが伝うつ染って、二、三日のうちに三人もいなくなってしまった。 この西川屋一家も以も前とは大門通りに広い間口を持っていた。蕎麦屋の利久の斜すじ向むかいに――現い今までも大きな煙タバ草コ問屋があるが、その以前は、呉服用よう達たしの西川屋がいたところである。そこの主ある人じはあたしの祖母の兄で、早くから江戸に出ていた。先妻に縹きり緻ょうよしの娘を生ませたが、奥女中上あがりの後妻が継まま児こいじめをするので、早くから祖母の手にひきとられ、年下のあたしの父の許いい婚なずけとなった。 後妻は由次郎、鉄五郎、おたけさんを生んだ。父親が歿なくなると、男振りのよい忰せがれたちは直じきに店をつぶしてしまった――尤もっともそれには御維新の瓦がか解いというものがあった故せいもあろうが――二人の忰はありったけの遊びをして、由次郎はコレラでなくても長くは生きないようになっていた。 鉄さんが鉄公になったころは散々で、もう仕たい三ざん昧まいの果だった。賭ばく博ち場ばを軽ころげ歩き、芸妓屋の情に夫いさんになったり、鳥と料り理やの板前になったり、俥宿の帳附けになったり、頭かしらの家に厄介になったり、遊おい女らんを女房にしたりしているうちに、すっかり遊人風になり金がなくなると、蛆うじ虫むしのように縁類を嫌がらせた。 この男、あたしの目に触れだしたのは、越えち前ぜん堀ぼりのお岩稲いな荷りの近所に何なにかに囲われていたころだった。染こ物う屋やの張はり場ばのはずれに建った小家で、茄な子すの花が紫に咲いていた。白っぽくって四角い顔のお婆さんが、鉄の悪口をグショグショと祖母に語っていた。でも、その時分鉄さんは、父に用事を言いつけられると、ヘイ、と分はっ明きり返事をして、小気味よく小用をたしていた――尤もむずかしい仕事ではない、家のなかの雑用だが――彼は見かけだけは稜りょ々うりょうたる男ぶりだった。ちょっと類のすくない立派な顔と体をもっていた。面長な顔に釣合った高い鼻、大きなきれの長い眼、一口に苦味走った男だったが、心根は甘かったものと見える。母親が、夜になると忍ぶようにして勝手口からたずねてくると、祖母の膝ひざの前にうずくまって恵みを願っている。その女が帰ってしまうと祖母は溜ため息いきをついて、 ﹁えらい女ひとをもらってしまって、あの女ひとのために西川屋もつぶれた。あの女の心がけがわるいからだが――﹂ だが、奥女中姿の裲かい褂どりで嫁に来た時はうつくしかったと、不便がって貢みついでいた。 ある日祖母は、例によって私をつれて、山の手の坂のある道を行った。富坂というところだと松さんは言った。露路へはいりながら、しどい場とこ処ろですといって番地と表札をさがしたが、西川鉄五郎の家はどうしても知れないので空あき家やのような家で聞くと、細い細い声で返事をした。 ﹁此こ処こでございます、此処でございます。﹂ 祖母は松さんに手をとられてはいっていった。畳もなければ根ね太だも剥はいである。 ﹁御隠いん居きょさん﹂ 戸棚を細目にあけてそう言ったのは、二、三日前の晩、袢はん纏てんを紐ひもでしばって着てきて、台所で叱られていた女だった。 ﹁座るところはなくともよいから出ておいで。﹂ 祖母はそう言ったが、やがて、モゾモゾと半裸体の女が這はい出してきた。 ﹁やれやれ、まあ!﹂ 呆あきれた祖母は、俥に乗せてきた包みを松さんに取りにやった。 ﹁お前をそんなにして投ほうりだしておいて、鉄の人非人は何ど処こへいった。﹂ というと、褌ふんどしひとつで戸棚から、 ﹁面目も御ご座ざいません。﹂ と這出してきた。そして、祖母が救いに来たのだと知ると、一昨日の晩、女が死ぬような病気で、どっと寝ておりますといったのは、二ふた人りともすっかり忘れてしまって、裸でも元気な調子でともかくやりきれないという事を、子供のあたしにも面白くきかせるほど巧みにしゃべりたてた。 ﹁よし、よし。貴様はのたれ死しようと勝手だが、女おな子ごはそうはゆかぬ。﹂ 祖母がいるうちに、米屋からは米がはこばれ、炭屋からは炭がきた。松さんが運んだ包みから出た着物を女は着た。 鉄さんは景気よく根太のつくろいをして、戸棚の中に敷いていた花はな莚むしろをおき、松さんは膝ひざ掛かけを敷いて祖母とあたしのいるところをつくった。 こんな処へ来ても、人ぎらいをしない祖母は、てんやから食たべ物ものをとって、みんなで会食した。酒が廻ると鉄さんは、どんなふうにして大屋をこまらせてやったとか、畳は売ってしまって、根太は薪まきのかわりに燃したと雄弁にまくしたてて叱られた。 家にかえっても何にも言わないので、祖母はあたしを可愛がった。妹は外でおとなしく、帰るとすぐ告げ口をするので、猫かぶりだといって、いつもおいてきぼりにされていた。言いつけ口は嫌いだが、決してもの事を隠しだてするひとではなかったから、帰るとすぐその晩か、遅くもあくる夜は、松さんの俥が荷物ばかりを積んで、再びなまけ者の住居を訪れるのだった。 ﹁無駄だけれど――﹂ と言いながら母は布ふと団んやその他のものを積ませた。 だが、鉄さん自身が浅あさ間ましい姿で、地虫のように台所口につくばった時、祖母は決してゆるさなかった。同情の安売りはしなかった。取次ぎが、ぜひ御隠居様にお目にかかりたいと申もうしますと伝えたとき、台所の敷居に手をつくようなことをせず、表から来いと言わせた。 彼女は卑屈を嫌ったが、決して貧乏を厭いはしない。ところが、哀れな鉄さんは、卑屈をいやしまず貧乏を鼻はな白じろんだ。彼は何い時つまでもウジウジ屈かがんでいた。祖母は堪たまらなくなったと見えて台所口へゆくと柄ひし酌ゃくに水をくんで鉄さんの頭からあびせかけた。 ﹁とっととゆけ、用があらば伯お母ばの家うちだ、表からはいれ。﹂ そう怒ど鳴なった。ブツブツ口小言をいっていた母が、かえって気の毒がって小銭を与えたりした。 鉄面皮な甥おいは、すこしばかり目が出ると、今戸の浜金の蓋ふた物ものをぶるさげたりして、唐とう桟ざんのすっきりしたみなりで、膝を細く、キリッと座って、かまぼこにうにをつけながら、御機嫌で一杯いただいていた。そんな日にはいやに青い髭ひげだと思った。 この男、晩年に中ちゅ気うきになった。身みじ状ょうが直ってから、大きな俥宿の親方がわりになって、帳場を預かっていたので、若いものからよくしてもらっているといった。それでも若い衆におぶさって一度逢あいたいからと這は入いって来た時に、みぐるしくはなかった。大きな男が、ろれつの廻らぬ口で何か言いながら、はいはいした顔を出した時、みんなびっくりした。 ﹁お前なぞ、そんないい往生が出来るなんて――よく若い者が面倒見てくれるな。﹂ 父がそう言うと、 ﹁全く――裸で湯の帰りに吉原へ女郎買いにいったりした野郎が――全く、若いものがよくしてくれます。﹂ と言った。逢いたいにも逢いたかったが、世話になる部屋の若い者に礼をしてくれと頼むのだった。 さて、 イッチク、タイチク、タエモンドンの乙おと姫ひめさまが、チンガラホに追われて―― などと、大きな声で唄うたいつれていたアンポンタンも小学校へあがる時季が来た。そのころは勝手なもので、六歳でも許したものだった。尋常代用小学校といっても小さく書いてあるだけで、源泉学校だけの方が通りがよかった。重おもに珠しゅ算ざんと習字と読本だけ、御ごし新ん造ぞさんも手伝えば、お媼ばあさんもお手助けをしていた。 引出しが二つ並んでついた机を松さんが担いで、入門料に菓子折を添え、母に連れられて学校の格子戸をくぐった。先生は色の黒い菊あば石たづ面らで、お媼さんは四角い白っちゃけた顔の、上品な人で、昔は御ごゆ祐うひ筆つなのだから手しゅ跡せきがよいという評判だった。御ごし新んさんはまだ若くって、可愛らしい顔の女だった。 格子戸をはいると左に、別に障子を入れた半住居の座敷があって、その上の二階は客座敷になっていた。先生は怖こわいから大変年をとった人だと思ったが、多分三十位だったかも知れない。お媼さんは先生のことを秋山が秋山がと言った。 翌日からみんなと机をならべるのだった。お昼すこし前になると、おみやげのお菓子を配った。今朝登校のときに松さんがもって来た大袋四ツが持出されて、うまい具合に分配されてゆくのだった。世話やきの子供が幾人かで、全校の生徒の机の上に、落らく雁がんを一個二個ずつ配ると、こんどは巻せんべを添えて廻る。その次は瓦かわ煎らせ餅んべという具合にして撒まききるのだ。 母の覚え書きがあるから記しておこう。
金五十銭に砂糖折
そのほか覚。
一月年玉分 五十銭
七月盆 礼 五十銭
試験 七十銭
月謝 三十銭
年暮 玉子折
年玉 五十銭
外に暑寒
なんと安価なものではないか。しかし、お豆腐は一丁五厘りんであったのを、お豆腐やの前で読んだから知っている。お米のねだんは知らないから書くことが出来ない。
試験が割合にかかるのは、試験ということは学校へお赤飯を食べにゆくことだと思ったほどだから、お手てか数ずだったと見える。近所の小学校の校長たちがむずかしい顔をして控えている前へいって試験されるので、なるべく級の中から出来そうなのが前の方にならび、他よ校その校長の眼の前でやった。前々日に下ざらいは出来ているのであるが、秋山先生の弟子煩ぼん悩のうは有名で、自分の方が終日ハラハラしていた。みんなその日はめかしていった。三枚重ねを着て、さしこみのついている鼈べっ甲こうの簪かんざしや、前がみざしをさしている娘は、褄つまを折返してキチンと座っていた。男の子は長い袖の黒紋附の羽織、袴はかまを穿はいていた。
黒いぬり盆へお赤飯とおにしめが盛りつけられた。出来ない男の子は、食べてしまうとそっと釣にいって、いつまでも帰って来なかったりした。校長さんたちの分は、大皿のお刺身などがとってあった。
洋算などは、大概なところで秋山先生が一人に答えをいわせ、
﹁出来たか。﹂
というとみんなが手をあげる。それで済すみなのだった。他よその老とし人よりの校長などは居ねむりをしていた。
暮くれのお席せき書がきの方が、試験よりよっぽど活気があった。十二月にはいると西にしの内うち一枚を四つに折ったお手本が渡る。下の級は、寿とか、福とか、むずかしくなると、三字、五字、七字――南山寿とか、百ひゃ尺くし竿ゃく頭かん更とう一さら歩にい進っぽをすすむとかいうのだった。
課業はすっかりやめてしまって、その手習にばかりかかる。そしてお墨すりだ。
――あたしのは丸八の柏かしわ墨だ。
――あたしのは高木のいろは墨だ。
――だめだ、いろは墨は、弘法様のでなくっちゃいけない。
そんな事を各てん自でに言って墨を摺する。短かくなると竹の墨ばさみにはさんでグングンと摺る。それを大きな鉢に溜ためてゆくと、上級の子がまたそれを濃こく摺り直す。
――こうやると好いい香においになる。と梅の花を入れる子もあった。早く濃くなるようにと、墨をつけて柔らかくしておくものもあった。
――ばりこになるよ。とそれを嫌がるものもある。
商しょ家うかの町なので年の暮はなんとなく景気がよい。学校へも、お砂糖の折だの、みかんの箱だの炭俵だの、供おそ餅なえだのが沢山もちこまれる。お席書がすめばその日から休みで、かえりには蜜みか柑んがもらえる。
二枚書いて、一枚は学校にずらりと張りつけ、一枚は家へもって帰る。親たちは、居間や、客間や、または、あたしの家などは玄関へ自慢で張る。
この秋山先生も書かきもらしてはならない人だ、学校そのものもまた! そして年の暮のことどもも――
柏墨の﹁丸八﹂は大おお伝でん馬ま町三丁目の老しに舗せで、立派な土どぞ蔵う造つくりの店だった。紀文に張りあった奈良奈の家うちだのなんのときいていた。﹁大おお晦みそ日かぞ草う紙し﹂とかいったように覚えているが、くさ双ぞう紙しに、若い旦だん那なの色いろ里ざと通いを、悪玉がおだてている絵があって、お嫁さんが泣いているのを見たとき、丸八の先代のことだとかいった。後に、春の絵の本を見たら、香字という大だい尽じんに張りあう高総という大尽のことがあった。それも多分﹁丸八﹂のはなしだとかきいていた。その事実は知らないがとにかく、そんなにまで豪ごう奢しゃな、派手なことがあったうちと見える。