源泉小学校は大おお伝でん馬ま町の裏にあって、格子戸がはまった普通の家造りで、上って玄関、横に二階をもった座敷と台所。たぶん台所と並んだ玄関の奥へ教場の平屋を建てましたのであろう。玄関の横の八畳には通りにむかって窓があった。ここの畳へ座る人種は我々と違っていた。特別の机が配置してあって、手てあ焙ぶりが冬は各めい自めいについている。窓の下のところには、紙だとうに針山もおいてあった。
お午ひる近くなると女中さんや小僧さんがお供ともをして、この八畳間の御ごも門んて弟いたちがやってくる。お嬢さんたちは、芝居の八百屋お七や油あぶ屋らやお染だと思えばまあ間違いはない、御大層なのは友ゆう禅ぜんの座ぶとんを抱えさせてくる。お手習だけしているのもあれば、読よみものをしにくるのもある。お針仕事をしにくるのもある。息子さん連もまじっていたようだが、子供心にも、そんな青い、ウジョウジョしていた男の子は軽けい蔑べつしたからよく覚えていない。
校長秋山先生は、台所口の一枚の障子のきわに納まって、屏びょ風うぶをたて、机をおき――机の上に孔くじ雀ゃくの羽根が一本突立っていた。火鉢の鑵かん子すの湯をたぎらせお茶盆をひきよせて、出来上った人の格好を示してた。山さざ茶ん花かの咲く冬のはじめごろなど、その室の炭の匂においが漂って、淡い日が蘭らんの鉢植にさして、白い障子に翼はねの弱い蚊あぶがブンブンいっているのを聞きながら、お清書の直しに朱しゅ墨ずみの赤丸が先生の手でつけられてゆくのを見ていると、屏風の絵の寒かん山ざん拾じっ得とくとおんなじような息いぶ吹きをしているように、子供心にも老人の無為の楽境を意識せずに感じていた。
さて教場の方は? これは区役所の控所とも、授産場とも、葬儀場ともいえる。後には六人一並びぐらいの板張り机になったが、各めい自めい寺小屋式の机を持っていたころ、あたしが一年生時分は放り出しておく幼稚園といってよかった。しかし別段庭も空あき地ちもないので机お場ざにおさまって遊んでいるのだが――まず硯すず箱りばこからしておもちゃ箱に転化させて、水みず入い器れにお花をさす。硯箱一ぱいに千代紙をしいて、硝ガラ子スを――ガラス屋がそうはなかったから、機から械くりの亀かめの子こやその他の玩おも具ちゃの箱の蓋ふたを集めて具合よく敷きこんで、金、銀の丈たけ長ながや、金銀をあしらった赤や緑の巾はば広ひろの丈長を、種々の透しを切り込んで屏風をこしらえて、姐あねさまを飾りはじめる。姐様は、半紙で小さな坊主つくりを作って、千代紙の着物をきせることもあるが、多くは、絵えぞ双う紙し店やで売っているのを切りぬく。自分ひとりではつまらないが、向側も隣とな席りもみんなしてするのだから面白い。さて、このアンポンタンがどんななりをしていたかというと、黒毛繻じゅ子すがはやりだした時分なので、加賀紋もん︵赤や、青や、金の色糸で縫った紋︶をつけた赤い裏の羽織、黒羅ラシ紗ャのマントル︵赤裏︶を着て下駄は鈴のはいったポックリだ。
学校と露路を間あいにして、これも元げん禄ろく年間に建った表町通りの紙かみ店やの荷蔵がある。その裏の何かを取りはらって空地が出来た時、どんなに児童たちはよろこんだかしれない。向うの方に青い樹きが五、六本、教室の窓の竹格子にむかって柘ざく榴ろの花がまっかだった。両側が土蔵と土蔵で、突当りが塀で他よ家その庭木がこんもりしていた。
子供たちは鬼ごっこで無中になったが、なかで一番大おお童わらわなのが校長秋山先生だった。先生は運動場をもったことと、子供たちが悦よろこぶのとで欣よろこびが二倍であったと見える。お附つき合あいで困ったのが通いの先生だった。この通いの先生は――初め来たのは若い人で、この商業町に、というよりその頃はまだ法律家などは珍らしかったものと見えて、私がそういう家の子だと知ると、特別にあつかいはしなかったが、少し待ってお出いでといって、家の角まで送って来てくれた。何か家のことでも聞いたりしたのかも知れないが覚えていない。ある日秋山先生が訪ねてきて、父と長く咄はなしていたが、それは私を送ってくれる先生が書生にしてくれといったのだとあとで聞いた。
その次に来た先生が、鬼ごっこで恐縮していた人で、このおとなしい先生を子供たちまでが、校長と一緒になって気持ちでさいなんだ。士族上りの先生は弱げで、細い鼻のさきが、いつも冷たそうに赤ばんで、水鼻がうるんでいた。色白の女のように色の白い人で、お能役者のような摺すり足あしで歩いて、小こく倉らの袴はかまを引きずり、さほど年もとっていないのに背中を丸くしていた。よほど困窮していたと見えて、初めての日の中ちゅ食うじきに、竹の皮へ包んできた握おに飯ぎりと梅干をつまんで食べたので侮ってしまったのだった。千せん住じゅから歩いて来るので、朝早くから出るのに、雨が降ると草わら鞋じを穿はいていた。秋山先生の弟子煩悩は大変なもので、ある折、市の聯合の大運動会が、桜の盛りの上野公園で催された。小さいながら代用学校と認められて参加を許されたのだから、先生は宇うち頂ょう天てんなほど悦んで、一層空地の鬼ごっこや旗とりが奨しょ励うれいされた。その日は区内の細かい学校が一かたまりになって、大きな公立小学校に対抗するので、源泉学校と染めた旗も出来上った。女の子は赤い緒おの草ぞう履り、男の子は白い緒の草履、お弁当はみんな揃えてお寿す司しの折詰を学校からあつらえ、お菓子や飲のみ料もののことまで世話人を定きめたところが、あいにくその日は朝から曇って、八時ごろには地じあ雨めになってしまった。無論子供たちも落胆して泣いたが、附添いや何かに慰められて帰ろうとした。すると先生は帰ってはいけないと叫び出した。といって雨が降りやんだからとて、その日運動会が催うされるはずはないし、もう何ど処この学校でも子供は帰したからと、誰がいっても先生はきかなかった。それでも、一人二人と帰ってしまって、教場はガランとなる、其そ処こ此こ処こに赤や白の鼻緒の草履の山があって、おすしをもっていったものも、食べたものもあるので残りすくなになって、残った手伝いが跡片附けをはじめても、先生は竹格子の窓に両手で顔をはさんだまま空を見詰めていた。さようならをしにゆくと、急に先生はたまらなくなったように涙をこぼしだして激しいすすりなきになった。
また、こんな事もあった。丁ちょ字んま髷げに結いったお侍さむらいと男の子のむきあっている絵の読本の時間だった。なんでも大変吝りん嗇しょくな武士で金銭ばかり数えている者で人に嘲あざけられていたが、ある事変が起って、人を助けなければならない時、日頃愛する金銭を、すこしもかえりみなかったので、前に罵ののしった者どもも讃ほめたというところで質問した。割合金銭のことに興味を持つ――店の買物の代価を、客から受取って銭箱へ入れることや、売上げの勘定に馴なれている子たちも多かったので、話はよくきいていたが、なぜ褒ほめたかという質問には答えが満足でなかった。先生はジリジリして褒めたくってたまらないのが褒められないので機嫌がわるくなりかかっていた。先生の底の方に光る眼が私の上にギョロリときたが、暫しばらくたゆたってから、
﹁ヤッちゃん。﹂
と指さした。子供は率直だ、あたしの家ではあまり金おか銭ねの顔を見せない、あたしに金銭の貴さを知らせるには無理だった。だからこの場合、あたしはその武士がお金をならべて楽しむのは、あたしが姐あね様さまを飾るのとおなじ位にしか見えなかった。だから皆が考えかねているのが不思議でかえって自分の考えが間違ってるのかも知れないとさえおそれた。それでも言った、
﹁ふだんはお金が好きだが、人を助けるためには……﹂
そこだ! と先生は飛上って卓つくえを打った。堪えかねるほど待まち兼かねた答を、予期しないアンポンタンから得たので、先生の褒めかたは気狂いじみてたほどだった。
﹁傑えらい、傑い。その武士も傑いが、ヤッちゃんも負まけずに傑いぞ。小こに錦しき関ぜきだ、やがて日ひの下した開かい山さんの小錦関だ。﹂
小錦という力士は後に横綱になったが、まだそうならないうち、新進気鋭で売出しかけてでもいたのであろう。そういって褒ほめあげた末に、人間は大将を望んでやっと兵卒位にしか出世をしないものだという事や、恐らく○○先生も世が世であれば大名を志ここ望ろざしてお出いでだったであろうがなぞと、呆あきれ顔に佇たたずんでいた、例の助教師の方へ嫌味をふりかけて、そのくせ人の好い笑顔をむけたりするのだった。
この教室の窓の格子のところへ、夏になるとお弁当をみんなが並べておいた。運動場へは台所口から出るのだった。台所には、みんなが持ってきてある小さい土どび瓶んが、せとものやのように幾段にも釘くぎにかけてずらりと並んでいた。お午ひるになると御新造さんが、番茶を酌くみ入れてくれるのをみんながとりにゆくのだった。
ところがこの二、三日、午おひ飯るど時きになると、きっと誰かしらのお弁当が紛なく失なっている。今日も眼玉の廂ひさしとあだなされている、あたしの妹の分がなくなった。
年とし子ごのようなあたしの妹は、一年ばかり間をおいて学校へ上った。色の白い涼しい眼の子だが出おで額こなので前髪を深くきってさげていたので、眼玉の廂といわれていた。男の子なんぞに負けないので憎まれっ子でもあった。
お附きの女中のついてくる、八畳の間の方のお嬢さんは、下駄箱も特別なら、課業も午おひ前るまえぎりでお迎えがくるので、お前もまだ年がゆかないから午おひ前るまえだけにしろと祖母にいわれたのにきかないで、お弁当にしてもらったばかりの、初の日に奪とられたのだった。
おまっちゃんは糸で編んだ網に入れてある、薄い硝ガラ子スの金魚入れから水が洩もって廻るように、丸い大きな眼に涙を一ぱい溜ためて堪こらえていた。奪られたお弁当箱は、祖母が根負けして買ってくれた朱しゅ塗ぬりの三ツ重ねの、小ちいさい丸いので、女中が持ってきて置いていったばかりのだった。中身には御飯の上に煎いり鶏たま卵ごと海の苔りをかけて、隠いん元げん豆まめのおかずに、味噌漬がはいっている約束になっていたのだ。お弁当の袋をとるのが待遠しくってならなかったのだった。となりにならんでいる女の子と、副お食か物ずの分わ配けっこの相談までしてあったのに――机の上には、新らしい小さな箸はし箱ばこと茶ちゃ呑のみ茶碗が出ている――
おまっちゃんは露路の方を睨ねめて泣きたいのを堪えていた。大紙屋の白壁蔵の壁には大きな亀ひび裂あとがあって、反対の算そろ盤ばん屋やの奥蔵は黒壁で、隅の方のこんもりした竹が冷すずしく吹いている。石ざく榴ろの花は赤く散りこぼれている。
女中がお弁当を持ってきた時に、
﹁御飯が炊たきたてですから、悪くならないように、風通しのよい場処へお置きなさいまし。﹂
と念をおしていった。それでおまっちゃんは竹の風の吹く、窓の敷居の上へのせておいたのだった。昨日奪とられた子も、一おと昨と日い奪られた子も、窓に近いお座ざだった。
あたしは自分のお弁当をおまっちゃんに持っていってやったが、おまっちゃんは見向きもしないで、窓に石せき盤ばんをのせて、色いろ石せき筆ひつであねさまを絵かいていた。あたしも仕方なしに佇たたずんでいた。すると、窓に並んだ勝手口の方で、カタンと金かな属ものの音がした。あたしも見た。おまっちゃんも見た。
露地の出口を乞こじ食きのような老とし人よりが出てゆく後姿が見える。その老人のさげてゆくものがカタンカタンと鳴る。
﹁鍋なべが――鍋が、鍋が。﹂
おまっちゃんは出来るだけの声をだした。
秋山先生は御飯後の苦いお茶を喫のんで、蘭らんの葉色を眺め入っていた。
老人は溝どぶ板いたをドタドタと駈かけ出だした。鍋がガチャンとぶつかった音がした。台所からも御新造さんが怒鳴りだした。生徒たちもワーッと声をあげた。
秋山先生は袴はかまの股もも立だちをとって飛出した。生徒もみんな加勢に飛出した。表通りからも、裏通りからも、番頭さんや小僧や、権ごん助すけさんまでが火事と間違えて駈けつけてきた。
泥棒はあわてて、向う裏へ逃げこんだが、それでも鍋はさげているので、逃げだした道筋には味噌汁がこぼれていた。老とし人よりの泥棒はまごついて外そと後ごう架かへ逃込んで、中から戸を押おさえていた。先生は持っている鞭むちで、戸をはたいて、
﹁出ぬか、出ぬか。﹂
と怒鳴った。見物の弥やじ次う馬まは笑ったが、生徒たちは真ま面じ目めで先生のいう通りに怒鳴った。そうすると泥棒は体をかくしたまま、戸の上から鍋だけさしだした。先生はその手首をグイとひいたので、味お噌つ汁ゆを肩から浴びてしまったが、カッとした勢いで引出したので、汚い老人はブルブル顫ふるえながら出てきた。
先生は勝誇って揚よう々ようと、片っぽの手に鍋をさげ、片っぽの手で老人の肩をひっつかんで引ひき摺ずった。大得意で先生は大通りを人形町の交番へと、老人を引渡しにいった。生徒も弥次馬も後からぞろぞろとつづいた。
おまっちゃんもあたしもその時だけは先生を憎んだ。なにをきかれても答えなかった。
祖母は秋山先生一家を信頼しきっていた。時折訪問したが、孫たちの方へは目もかけずに帰った。台所口から家の使つかいが、お盆へ乗せてふくさをかけたものを持って来ていたが、厳きびしくしてくれと頼んでいる様子だった。
おまっちゃんは強情だった。二人がお灸きゅうを据えられるとき――私の家では、一日に二度も三度もお灸の出る時があった。甚はなはだしい時は、お灸を据えられて後あと泣なきをいつまでもしているからといってはまた据えられた。灸は薬だからと、灸好きの祖母が許すので、疳かん癪しゃくもちの母は、祖母へ対して不服な時も、父へ対して不満なときも、子供の皮膚を焼いた。痩やせた女ひとの股ももほどもある腕をもっている体格の、腕力の強い母親だった。ドサリと背中へ乗りかけられてしまうと、跳はね返かえすことなどは出来なかった。妹は秘蔵っ子だったが、それでも仕置の時だけは別で、強情な彼女は腕を脱ぬいたりして、小伝馬町の骨ほね接つぎの百も々も瀬せへ連れてゆかれた。ある夏の夕方、彼女が麦むぎ藁わら帽ぼうをかぶって、黄こう麻まの大がすりの維かた子びらを着て、浅黄ちりめんの兵へこ児お帯びをしめて、片腕ブラリとさせて俥しゃ夫ふの松さんに連れられて百々瀬へ行く姿を、あたしは町の角で、夕ゆう霧もやにうすれてゆくのを見送りながら大声で泣出したくなったのを覚えている。そんな風なので、お灸の時、あたしは滝にうたれたように、全身の膏あぶ汗らあせにヘトヘトになってしまっているが、おまっちゃんは何ど処こまでも反はん撥ぱつした。お小用だというのが癖で、それで手をゆるめると逃るので、出たければしてもよいというと、小さな彼女はもうお灸の熱さも、乗っていられる苦しさも忘れて、出もしないお小用を絞りだそうと一生懸命になり、目的通りにやると、も一層激しい憤いきどおりを母から受けるのであった。
だから学校でもよく残された。あたしもお相しょ伴うばんをさせられる。課業のあるうちは、黒板の下へお線香と茶お碗みのず水をもってたたされるのだが、彼女は笑いながら水の中へ線香を突込んで火を消した。お残りは、広い教場へ二人だけ残されるのだ。机を積み重ねた上を渡ったりして二人は仲よく遊んだが、臆おく病びょうだったあたしは、夕暮ぢかくなると悲しくなりだした。あたしは別に残っていなくてもよいのだが、どうしても妹を残して帰れないので――そんな時、意地悪く家からはお礼を言いに使いが来たりした。
もうよい頃と見ると、秋山先生が、まずあたしだけを部屋へよんで、お茶をくんでくれて、ぼた餅もちをとってくれたりする。すると、きっとあたしが泣き出すので、それからおまっちゃんを連れにゆく。おまっちゃんにもおなじようにぼた餅をとってやる。
暮れかかった町を、二人の幼い姉妹が連れだって帰ると、後の方から離れて、秋山先生がそっと送ってついてきてくださる――
秋山先生は女の子の仲間にいると女親のようにものをいった。ある春の日、山吹きのしんをぬいて、紅べにで染めて根がけにかけてきた小こむ娘すめが交って、あたしのお座をとりまいていた。あたしはいつもの通り石盤へ人間を2の下へリの字をつけたような形に描いて、昨日の続きの出たらめ話をしているときだった。
﹁金きん坊ぼう、沈ちょ丁う花じの油をつけてきたね。﹂
と通りがけに先生が言った。金坊とよばれたのは古帳面屋の娘で、清きよ元もとをならっている子だった。ニコリと笑った、前髪から沈丁花の花をだして見せた。
この学校の向うに、後ごに日ちあたしが生いけ花ばなを習いにいった娘の家で、針医さんがあった。もすこしさきへゆくと、塀ぎわに堀井戸があって、門内に渡り廊下の長い橋のある馬まご込めさんという家があったが、そこの女中がお竹大日如来だったのだといって、大伝馬町の神おみ輿こしの祭おま礼つりの時、この井戸がよく飾りものに用いられたが、ある時は団七九郎兵衛の人形を飾り、ある時はその家にちなんだお竹大日如来がお米を磨といでいて、乞こじ食きに自分の食をほどこしをしているのだった。
その隣とな家りに清元の太たゆ夫うとかいう瓢ひょ箪うたんの紋の提ちょ灯うちんをさげた駄菓子屋があった。石筆や紙や学校用品を売っていたが、売手のおかみさんが上手なので、近いところよりも、生徒はそこに集まった。おかみさんは学校用品よりも、青竹の筒にはいった砂糖蜜みつ入いりのカンテンや、暑くなるとトコロテンの突いたのをお皿に盛って買わせた。おかみさんはよく話した。清元のお師匠さんをしている自分の旦だん那なが、非常に声がよかったので仲間にねたまれて、水銀をのまされたので、唄うたう方が出来なくなったので、仕方なしに三味線の稽けい古こをしているのだと、芸人のかなしみを、子供が感じるようにしみじみというのだった。だから、品物を買っておくれといった。
そのすこしさきの町角に杯ちょ口こ屋やのおくんちゃんの家がある。お国くんちゃんはあたしとおみき徳どっ久く利りのように、長唄のおつきあい浚ざらいにお師匠さんに連れてかれた少ひ女とだから、そのうちに書かなければならない。
学校の一軒さきに大きな人くる力ま車や宿どがあって、お勘かんちゃんという、色は黒いが痩やせがたなキリリとした、きかない気の、少こむ女すめでも大人のように気のきいた、あたしのために、あたしの家へよく忘れものや、言こと伝づけを言いにいってくれた娘があったが、後に吉原で奴やっ太こた夫ゆうという名でつとめに出ているときかされたことがある。その手前に表通りの砂糖問屋の磨きあげた、黒塗りの窓のある住居蔵があって、お糸さんという豊かに丸っこい娘さんの琴の音がよく聞えていたが、隣りに、とてもみじめな乏まずしい母おや子こ二人の荒物屋があって、小娘のおとめさんもお婆さん見たいにうつむいて、始終ふるえているように見えた人だった。
その斜すじ向むこうに花屋があった。剥むき身みのように幅の広がった顔と体の妹と姉とがいた。二人がいるうちは花屋の店もよけい賑にぎやかに見えたが、馬ばく喰ろち町ょうの郡ぐん代だいの矢やば場おん女なになってしまった。