木もく魚ぎょの顔の老おじ爺いさんが、あの額の上に丁ちょ字んま髷げをのせて、短い体に黒ちりめんの羽織を着て、大小をさしていた姿も滑こっ稽けいであったろうが、そういうまた老おば妻あさんも美事な出でき来ば栄えの人ひ物とだった。顔は浜口首相より広く大きな面積をもち、身みの丈たけも偉大だった。
うどの大木という譬たとえはあるが、若いころは知らず、この女ひとはとても味のある、ずば抜けたばかげさを持った無類の好人物だった。
湯川氏うじが硫黄にこりだして、山さん谷やを宿とし、幾年か帰らなくなってから、老おば妻あさんはハタと生活にさしせまった。江戸人は瓦がか解いと一口にいうが、その折悲みじ惨めだったのは、重に士族とそれに属した有閑階級で、町人――商人や職人はさほどの打撃はなかった。扶ふ持ちに離れた士族は目なし鳥だった。狡こすいものには賺だまされ、家禄放還金の公債も捲まきあげられ、家財を売り食ぐいしたり、娘を売ったり、鎗やり一筋の主が白昼大道に筵むしろを敷いて、その鎗や刀を売ってその日の糧かてにかえた。
木魚のおじいさんの奥方も、考えたはてに、戸とい板たをもってきて、その上でおせんべを焼いて売りだした。一文のお客にも、
﹁まあまあ私あたくしのをお求め下さいますのですか。それは誠に有難いことでございます。﹂
という調子で、丁寧に手をついてお礼をいうのと、深しん切せつな焼きかたなので一人では手が廻りきれないほど売れだした。
あまり皺しわのない、大きな顔に不似合なほど謙けん遜そんした、黒ほく子ろのような眼で焼き方を吟味し、ものものしい襷たすきがけの、戸板の上の、道ばたのおせんべやの、無愛想なのも愛あい嬌きょうになったのかも知れない。すると、おなじ難なん渋じゅうをしていた姉娘が一日手伝いに来て見ていて、翌日からすぐ隣りあって、おなじ戸板の店を出した。もうその時は、はじめの縁に、遠州で仲人になった旗本――藤木前さきの朝ちょ散うさんの太だい夫ぶの子か孫かが婿で、その若い二人組だった。お客がくると、湯川氏の奥方がお辞じ儀ぎをしているうちに、
﹁いらっしゃい、こちらが焼けていますよ。﹂
といったふうに浚さらってゆく。客は売れるから焼手をふやしたおなじ店だと思っている。老おば奥あさ方んのお辞儀は段々ふえて、売れ高はグングン減ってゆくが、そんな事に頓とん着じゃくのない老おば媼あさんは隣とな店りの売行きを感嘆して眺め、ホクホクしていう。
﹁お前さん方、もっと此方へお出なすったらよい。どうも私あたくしの店がお邪魔なようだ。﹂
全くお邪魔だといわれたかどうか、とにかく元祖戸板せんべいの店は取りかたづけられた。
真ま面じ目めな会はな話しをしている時に、子供心にも、狐きつねにつままれたのではないかと、ふと、老おば媼あさんを呆あきれて見詰めることがあった。
﹁祖おじ父いさんも何い時つ帰りますことかねえ。﹂
そこまでがほんとの話で、突いき然なり、まつは愁つらいとみな仰おしゃんすけれどもなア――とケロケロと唄うたいだすのだった。そして小首を傾かしげて、
﹁あれはたしか、長なが唄うたの汐しおくみでしたっけかねえ。あの踊りはいいねえ、――相あい逢あい傘がさの末かけて……﹂
と唄いながら無器用な大きな手を振りだす。私あたしが吃びっ驚くりしていると、その手でひとつ、招き猫のような格好をしておいて、鼻の下へもっていって差はに恥かんだように首を縮めて笑う。
布ぬの子この下の襦じゅ袢ばんから、ポチリと色褪さめた赤いものが見えるので、引っぱりだして見ると、黒ちりめんに牡ぼた丹んの模様の古いのだった。綴はぎ綴はぎで、大きな二寸もある紋があった。
おばあさんの父親安あき芸のか守みは、白河で切腹したとき、上野の法親王にはお咎とがめのないようにと建白書のようなものを書いたのだときいていたが、おばあさんに正すと、遠い昔の物語りでも聞くように目を細めて、そうですよそうですよというきりだった。
﹁戦争なんて、もうもういやなこと、いやなこと、真っ平さね。﹂
プツリと言いきって、狐きつねつきのようにだまり込んでいる。背を丸く首を傾かしげた姿を見るとどんなに世の荒波がこの善人を顛てん動どうさせ、こうも呆ぼけさせたかと痛ましかった。
私はこの老ひ女との生はは母おやをたった一度見た覚えがある。谷やな中か御ごい隠んで殿んの棗なつめの木のある家で、蓮はす池いけのある庭にむかった室へやで、お比び丘く尼にだった。
老年になってからこの夫妻は一緒に暮す日が多くなった。
ある日空あき巣すねらいがはいった。おばあさんはキョトンとした眼で見ていたが、立っていって座ざぶ布と団んを出した。盗どろ棒ぼうはびっくりして、落つかないお尻しりを布団の上にのせたが、お茶を出されてモジモジした。
﹁あいにく留守にしたあとで、私あたくしでは何のお役にもたちませんで――どうぞ、ごゆるりとなさって下さいまし。﹂
盗どろ人ぼうは飛上って次の間へゆき、グルリと見廻して出て来た。
おばあさんはいよいよ真面目で、
﹁ただいまお菓子をとって参りますから、ちょっとどうぞお待ちを――﹂
盗人は狼あ狽わてた。外へ出られてはたまらない――彼の方が一いち目もく散さんに飛出すと、おばあさんが後から、
﹁もしもし貴あな下た、おわすれものですよ、なんておそそうな――﹂
そう言って着せてやったのは、毛皮のついた外がい套とうだった。
湯川氏が帰るとこの老妻は、盗人を笑った。
﹁なんてまあ、狼あわ狽てたお客さんなのか。ねえおじいさん。﹂
﹁その人は何の用で、何ど処こから来た?﹂
﹁それを私あたくしが知りますものかね。老おじ父いさんが御存じじゃありませんか。﹂
﹁私わたしがなんで知るものかね。﹂
﹁へえ? それは不思議だ。私あたくしはまた、貴あな夫たのお客さまだから、あなたが御存じだと思いましたよ。﹂
老人は壁を見ていった。
﹁私わしの外がい套とうがないよ。﹂
﹁おやまあ嫌だ、あなたが着てお出いでになったのに――おじいさん老ろう耄もうなさった。﹂
﹁ばか言え、わしは着てゆかない。﹂
ふと老父さんは、老妻が丁寧にお辞儀をしている頭のさきを、盗どろ人ぼうが、自分の外套をきて出てゆくのを思いうかべた。そして淋さびしい顔をして、私あたしのところへいつけに来た。
誰かが、不用だといっていたインバネスが、身た長けの短ひくいおじいさんの、丁度よい外套になりはしたが――
私の父は晩年を佃つく島だじまの、相あい生おい橋ばし畔のほとりに小松を多く植えて隠いん遁とんした。湯川氏夫妻もおなじ構かま内えうちに引取られた。七十代の婿むこと八十代の舅しゅうととは、共に矍かく鑠しゃくとして潮風に禿はげ頭あたまを黒く染め、朝は早くから夜は手ても許との暗くなるまで庭仕事を励んだ。二人ともに、何が――と。
一人が嶮けわしい山やま谿あいを駈かける呼吸で松の木に登り、桜の幹にまたがって安あ房わ上かず総さを眺めると、片っぽは北ほく辰しん一刀流の構えで、木の根っ子をヤッと割るのである。寒中など水みず鼻っぱ汁なをたらしながら、井戸水で、月の光りで鎌かまを磨といでいたり、丸太石をころがしていたりする。日ひよ和りのよいころ芝を苅るときは、向うの方と、此方のほうで向いあいながら、
﹁いや、手前一向に武芸の方は不得手でげしてな。﹂
﹁いや、剣法でもなんでもあのコツだ。どうして、霧にかくれるというが、あなたの豁た谷にを渡るあれだ、あの※﹇#﹁口+息﹂、159-10﹈吸といったら、実際たいしたものだ。﹂
﹁いやどうも、そう仰おっしゃられては汗顔のいたりだ。﹂
――だが、私が松の木の上にいる父を、老とし人よりの冷ひや水みずだとよびにゆくと、小さな声で、
﹁じいさんはやめたか?﹂
と訊きく、湯川老人の方へゆくと、
﹁や、もう、お父さんの若いこと若いこと、感服のいたりだ。﹂
と腰をのばす。この、老おいたる婿と、舅しゅうとと姑しゅうとめが、どうした事か、毎日の、どんな些ささ少いな交渉でもみんな私のところへ、一々もってくるのだった。三人の老人が、年寄らしいイゴで三すくみのかたちで、不平も悦よろこびも感謝も、みんな私のところへもってくる。
﹁婆さんが腰をぬかして――なんともうす腑ふ甲が斐いない女やつか。﹂
湯川老人がそう言ってゆくと、入いれ代かわりに父が来て告げる。
﹁祖ば母あさんが築つき山やまに座って、祖じ父いさんに小言をいわれている。早く行ってやれ。﹂
おばあさんは私の顔を見ると言った。
﹁あたくしはね、あたくしのお墓を見てびっくりいたしましたのですよ。私は生きてるのか、死んでるのか分りませんでね。﹂
やっと分った。苳ふきを摘つみに来たおばあさんは、寒かん竹ちくの籔やぶの中に、小犬を埋めたしるしの石を見て呆ぼう然ぜんとしてしまったのだった。
またある日、湯川老人が私の前に言いわけなさそうに立った。
﹁ばあさんを、ちと、悪くしてしまいましてな。﹂
小さな眼をパチパチと伏せた。あとから離れの住居へいってみると、身寄りの男たちが二、三人いた。彼らは具合わるくモズモズした。
おばあさんの体が生しょ体うたいなくグニャグニャになったというのだ。レウマチで関節の自由がよくなかったので、台湾からよい薬を持って来たから飲ましたのだといった。それならば暗い顔をする訳はないがと思うと、効ききすぎたのだとまた言った。それは湯川氏の婿の一人の士族で、官吏をやめて日清戦争に台湾に従軍し、そのまま居ついてしまった土佐弁の、日本人ばなれのした人だった。
﹁台あ湾ちでは、チトチトやってもよく効くのを、おばアさん一いっ時ときに飲んだでナア、いや、別に、悪いもんでも、叱られるよな薬でもないが、チト強いでナア。虎の血と、蛇と――もひとつ……﹂
猛獣の血と蛇の何かと、もひとつのものを乾し固めて粉にしたのを持って来て、分量はとにかく、八十上の老女に飲ませようとしたガムシャラな勇気におどろいてしまった。
肝心なおばあさんはモガモガこんなことを言った。
﹁とろけてしまうなんて、まるで惚ほれたようで意気ですこと。おやっちゃん、あたくしゃ葡ぶど萄うし酒ゅでのみましたよ。﹂
なにしろ死んだら牛ぎゅ肉うのおさしみを仏壇へあげてくれという人だったから、私は驚きもしなかった。
一年ばかりたった夏の朝、私の寝ている茶座敷の丸窓を、コツコツ叩たたくものがある。戸を一枚ひくと、老人が、
﹁ばあさんがどうも変で――﹂
そう言ったなり、竹たか箒ぼうきをひいて、さっさと木この間まにかくれて去いってしまった。
暁ぎょ闇うあんが萩はぎのしずれに漂っていた。小蝶が幾いく羽つもつばさを畳んで眠っていた。離はな家れの明けてある戸をはいってゆくと、薄暗い青あお蚊が帳やの中に、大きな顔がすっかりゆるんでいた。
も一足早ければ、何か秀逸な遺言を残したであろうに――枕まく許らもとに、まだよく色つかぬ柿が、枝のまま籠かごに入れてあった。おじいさんの心づくしであったろう。
老おば妻あさんが歿なくなると、老おじ爺いさんの諦あきらめていた硫黄熱がまた燃てきた。次の間にはもう寝ているもののない、広々した住居に独りでポツネンと机にむかって、精密な珠算と細字とが、庭仕事の相あい間まに初まり、やがて庭仕事の方が相間にされるようになった。薄すすきの穂が飛んで、室へや内のなかの老爺さんの肩に赤トンボがとまろうと、桜が散り込んで小こと禽りが障子につきあたって飛廻っても、老爺さんには東京なのか山の中なのか、室内なのか外おもてなのか、ムツリとして無愛想になってしまった。
だが、もうさびしい諦めはもっていたと見えて、山へ行くとは言いださなかった。たった一度そうした望みを洩もらしたおり、私は出してやりたかった。山で死ぬのが彼にはいいと思ったが、彼の親類は困ると言った。それから急に年と齢しの衰えが来た。離はな家れの垣根の隅でポッチリずつの硫黄を製煉し、研究している姿が蟇ひきがえるのように悲しかった。
私ひとりを便たよりにでもしているように、私がものを書いている窓に来て一言二言ずついった。野球のミットのような掌てのひらを広げると、土佐絵に盛りあげた菜の花の黄か――黄色い蝶をつかんできたのかと思うほど鮮かな色があった。
彼の試練からとれた硫黄だった。
﹁これをひとつ、お見せくださらんか。﹂
老爺さんの頭には、その時、時の知名の成功者たちの名がうかんでいたに相違なかった。
﹁実業家や学者にもお近づきがあるでしょうから。﹂
鮮かな黄色は、私の黒ぬりの机の上にこぼれた。老爺さんは懐ふところから部厚な書きものを出した。
硫黄採煉明細書と版に彫ったように正しく表おも書てがきがしてある。
﹁硫黄は釜かまが痛むものでしてな。﹂
と老爺さんはやっと発明した製煉釜のことを手真似で話した。私は老爺さんの心根を思って、駄目と知りながら知ち己きの鉱山所長にその明細書を見せたら、その人は首を振っていった。
﹁惜しいことにみんな外国で発明しられてしまっている。機械はもっと簡便に出来る。だが九十の老爺さんが、よく実地から此こ処こまで考えたものだ。﹂
私は九十の老爺さんが以下だけを使って、パスしなかった事はきかさなかった。彼は恐きょ悦うえつの至りだと言った。
明治四十三年の九月に佃島に津つな波みが来た。京橋の築地河が岸し一体にまでその水は押上げたほどで、洲すざ崎きや月島は被害が甚ひどかった。庭の眺めになるほどの距離にある相生橋から越中島の商船学校前には、避難して来ていた和おお船ぶねが幾いく艘そうも道路に座ってしまったほどで、帝都には珍らしい津波だった。私あたしの家うちは老人たちの丹精の小松が成長して、しっかり根をかためていたせいか防ど波て堤は崩れなかった。海み水ずが高いと案じ油断はしていなかったが、うとうと眠った夜中にチョロチョロと耳近く水の音をきいた。戸そ外との暴あ風ら雨しにはまぎれぬ音なのですぐに目が覚めた。潮入りの池は島中でたったひとつだから、これは池があふれたな、近所に気の毒だとその瞬間に思ったが、よく目を覚すとそれどころではなかった。何もかもが浮出して器物が活動している。ボンヤリしているのは人間だけだった。
電燈は断たたれた。幸さいわいに満月の夜ごろだから、月はなくても空は真暗というほどではない。
離家から、二階にいた中学生の弟が裸で、胸まで水に浸って、探険用の燈あか火りをつけてやってきた。二匹の犬がザブザブ泳いで後について来た。
﹁老爺さんをともかく二階へあげておくれ。﹂
というと弟が答えた。
﹁とても駄目だよ、おやっちゃんでも言わなければ動きゃしない。なんてったって、戸棚の前に座って、硫黄をいじくってる。﹂
﹁でも水で大変だろう。﹂
﹁うん、床が高いけれど、座ってる胸のところへ来ている。﹂
﹁硫黄をみんな二階へあげてあげるといっておくれ。﹂
﹁こっちへ連れて来たいが、老とし人よりだから流されるだろう、とても甚ひどいや、僕でもあぶない。﹂
私は突とっ嗟さに富士登山の杖つえが浮いてるのをとって、窓の外の弟にわたした。
水が引いたあと、ヘドロを掻かくのと、濡ぬれた衣きも物のや書籍が洗いきれずに腐って、夜になると川へ流して捨てた。壁は上までシケが浸しみ上あがっていった。額などは水につかりもしないのにパクパクして、何もかもが病気になった状態だった。私は二人の老人の健康を気づかった。
離れの二階が一番乾いていたのと通風がよいので、みんなが其そ処こに集って暮すと、二人の老人はまた互に強がりはじめた。しかし、二人ともどこか悪くしている様子が見えた。私は七十代の父の方に説いた。
﹁どうも老爺さんが悪いらしいが、医者をよぶというとかからないから、お父さんが風邪をひいたことにして――﹂
﹁よし。﹂
老父は至極簡単で、もの事を逆にいえば唯いい々だく諾だ々くなのである。
﹁なにしろ湯川老人は年と齢しだからな、医者に見せなければいけない。﹂
そして、その湯川老人はいった。
﹁ようごす、お父さんは頑固だからどうも強がっていけない。僕が医者にかかるというと、自分のためだとは知らずに、湯川もまいったなと言われるだろう。だが、なんぞ知らん、長谷川氏うじのために呼んだ医者だ。﹂
カラカラと笑ってつけたした。
﹁幸と硫黄はなんともなかった。書かき物ものをすこしやられたが、それはまた書けば書けるから、どうか御安心ください。﹂
だが、死期はせまっていたのだった。保もてるだけもった体は、ポクリと倒れるまで余命を保っていただけだつた。医者は言った。何ともないが死ぬだろうと、しかも十日はどうかと――
葬式にも間に合わないだろうがと、台湾から出て来た例の虎と蛇薬の婿は、蚊にさされながらブツブツ言った。
﹁こんな事なら、わしゃ言うとかにゃならぬことや、仕ておかにゃならんことが沢山沢山あったに――おじいさん、どこまで他ひ人とを困らせる人か、わしゃもう、若いころからこの人のためには、ほん、サンザンな目に逢うとるわ。﹂
医者も驚いた。こんな事はないがと――そのくせ死期は来ているのだが。
﹁おじいさん癌がんがあったのだね、驚いたなあ、何い時つころからなんだ。﹂
医者にもわからないものが、誰にも分りようはなかった。強い、しどい、刺しげ戟きのある臭気を、香を焚たき、鼻の穴へ香水をつけた綿を挿さして私が世話をすると、その時だけ意識が分はっ明きりして、他の者には近よらせなかった。そしてお世辞がよかった。
何に拘こだわっているのか――と私は考えた。
﹁おじいさん、お酒がほしい?﹂
ニコリとしたような表情だ、私は薬指のさきに、薄めた清酒をつけて嘗なめさせるとおちょぼ口をした。
﹁ほう、観音様だな。﹂
傍から首を出した妹を見てお世辞をつぎたした。
﹁イヨウ、綺麗になりやがあったな、弁天様だぞ。﹂
酒をもひとつというように口をあけた。そして露を吸うように、垂らされる雫しずくが舌のさきに辷すべると、
――富士の、白さけ……
と幽かすかな幽な声で転がすように唄うたった。正まさしく生ているおりなら、笑えみくずれるほどに笑ったのであろう。唇をパクリとした。
でも臨終ではない。ああ結構な、いい往生ですいい往生ですと寄って来たものはポカンとして当惑した顔をした。
私の心は暗かった。長い一生、一念を封じこめた硫や黄ま山に心を残しているのではあるまいかと。
﹁老爺さん、硫や黄ま鉱山が売れましたよ。﹂
﹁ほ。﹂
パッと、死んだ瞳ひとみに瞬間灯ひがともった。手を差出した。そこらにあった重いものを掴つかんだ手を私は老爺さんの手に触れさせた。
﹁有難い――みんなにやってくれ。﹂
私はほほえましくお伽とぎ噺ばなしのように言った。
﹁老爺さんの黄き金んの像を建ててあげましょう。﹂
﹁ほ。﹂
満足な瞑めい目もくだった。
厳粛にしゃちこばった人たちの方がすぐに悪口した。欲ばっていると――
私にはそう思えなかった。
初秋の風に竹がサラサラ鳴る暁、柩ひつぎは出てゆくのだった。戒名は硫黄居こ士じと私がつけたが、親類の望みで二字に離してくれというので、硫石黄竹居士になった。私は臨終に嘘をついたのを、今でもちっとも悪いと思っていない。私はみんなが、さまではというのに反対して、黄竹居士湯川老人の柩の中へ、標本になっていた硫黄の、ありったけの種類をすこしずつ入れてやった。これほどの供養はないと思っている。