一
大正五年の三月二日、あたしは神かん田だあ淡わじ路ちょ町うの江え木ぎ家けの古風な黒い門をくぐっていた。
旧幕の、武ぶけ家やし邸きの門を、そのままであろうと思われる黒い門は、それより二十年も前からわたしは見馴なれているのだった。わたしは日本橋区の通とお油りあ町ぶらちょうというところから神田小おが川わま町ちの竹ちく柏はく園えんへ稽けい古こに通うのに、この静な通りを歩いて、この黒い門を見て過ぎた。その時分から古い門だと思っていたが、そのころから、江木氏の住すま居いかどうかは知らなかった。
﹁この古い門のなかに、欣きん々きん女史がいるのですかねえ。﹂
連つれ立だった友達は、度の強い近眼鏡を伏せて、独り笑えみをしていた。
﹁冷れい灰かい博士――そっちの方のお名には、そぐわないことはないけれど﹂
友達が言うとおりだった﹃冷灰漫筆﹄の筆は、風流にことよせて、サッと斬りおろす、この家やの主ある人じの該博な、鋭い斬れ味を示すものだった。だが、今を時めく、在ざい野やの法律大家、官途を辞してから、弁護士会長であり法学院創立者であり、江木刑法と称されるほどの権威者、盛大な江木衷ちゅう氏の住居の門で、美びぼ貌うと才気と、芸能と、社交とで東京を背し負ょっている感のある、栄子夫人を連想しにくい古風さだった。しかしまたそれだけ薄っぺらさもなかった。含みのある空気を吸う気もちであった。
たそがれ時だったが、門内にはいるとすっかり暗くなった。
梅が薫かおってくる。もう、玄関だった。
広い式台は磨かれた板の間で、一段踏んでその上に板戸が押開かれてあり、そこの畳に黒塗りぶちの大きな衝つい立たてがたっている。その後は三間げんばかりの総そう襖ふすまで、白い、藍あい紺こんの、ふとく荒い大形の鞘さや形がた――芝居で見る河こう内ちや山まゆすりの場の雲うん州しゅう松江侯お玄関さきより広大だ、襖が左右へひらくと、黒塗金紋蒔まき絵えのぬり駕か籠ごでも担かつぎだされそうだった。
﹁これはどうも――平民は土ど下げ座ざしないと――﹂
と、平いつ日もは口くち重おもな、横浜生れではあるが、お母さんは山さん谷やの八やお百ぜ善んの娘であるところの、箏ことの名手である友達は、小さな体に目めだ立たない渋いつくりでつつましく、クックッと笑った。
気持ちの好いい素すあ足しに、小こく倉らの袴はかまをはいた、と五分ぶ苅がりの少年書生が横手の襖の影から飛出して来て広い式台に駈かけおりて、
﹁どうぞ。﹂
と、招いた客の人相をよく言いきかされて、呑のみ込こんでいるように笑顔で先導する。
次の間には、女の顔が沢山出むかえた。
﹁さあ、こちらへ、さあこちらへ。﹂
招じられた客間は、ふかふかした絨じゅ毯うたん、大きな暖スト炉ーブに、火が赤々としていた。
春には寒い――日本の弥やよ生いよ宵いぜ節っ句くには、すこしドッシリした調子の一いっ幅ぷくの北欧風の名画があったともいえようし、立派な芝居の一場面が展開されるところともいえもしよう形容を、と見るその室内は有もっていた。
欣々夫人の座ざ臥が居住の派手さを、婦人雑誌の口絵で新聞で、三日にあかず見みき聞きしているわたしたちでも、やや、その仰々しい姿ポー態ズに足を止とどめた。
客へ間やの装飾は、日本、支那、西洋と、とりあつめて、しかも破はた綻んのない、好みであった、室の隅すみには、時代の好よい紫した檀んの四尺もあろうかと思われる高たか脚あしの卓だいに、木もく蓮れん、木ぼ瓜け、椿つばき、福寿草などの唐からめいた盛もり花ばなが、枝も豊かに飾られてあった。大きなテーブルなどはおかないで、欣々女史はストーブに近くなかば入口の方へと身をひらいて、腕うで凭かけ椅い子すのゆったりしたのにゆったりと凭よりかかっていた。
彼女は、驚嘆したであろう客の、四よつぶの眼の玉を充分に引きよせておいて、やおら身じろぎをした。立上って、挨あい拶さつをしようとするのだ。
それまでに、わたしたちは、充分に見た。長く曳ひいた引き裾ずその、二枚重ねの褄つまさきは、柔らかい緑色の上スリ履ッパの爪つまさきにすっとなびいている、紫の被ひ衣ふのともいろの紐ひもは、小高い胸の上に結ばれて、ゆるやかに長く結びさげられている。
胸の張りかた、褄の開きかた、それは日本服であって立派な夜イブ会ニン服グのかたちだ。肩から流れる袖のひだなど、実になめらかに美しい。そして、胸のふくらみから腰から脚へかけての線など、その豊ほう饒じょうな肉体の弾力のある充実を、めざましく、ものの美事に示している。
切きり子この壺つぼのような女ひ性とだ、いろんな面を見せてふくざつにキラキラしている。
気の弱い男だったらあがってしまうだろうな。と、その個性の高い香気を讃美しながら、ひきつける魅力の本尊は何ど処こかと、彼女の眼を見た。
彼女の双眼は、叡えい智ちのなかに、いたずら気ぎを隠して、慧さかしげにまたたいていた。引き緊しまった白い顔に、黒すぎるほどの眼だった。もとより黒く墨を入れているのでもなければ睫まつ毛げに油をうけているのでもなく、深い大きな眼に、長すぎるほどな睫毛が濃かった。眉まゆがまた、長くはっきりとしていて、表情に富んでいる。
――晴れ曇る、雨あま夜よの、深い暗やみの底にまたたく星影――そんなふうに、彼女の眼はなんにも、口でいわないうちに何か語りかけている。
彼女が立ったとき、椅子のふちにかけた手は、妖あやしく光った。指輪にしてはあまりにきらめかしいと見ると、名も知らないような宝た石まが両の手のどの指にも煌きらめいているのだ、袖口がゆれると腕輪の宝い石しが目を射る、胸もとからは動くとちらちらと金の鎖がゆれて見える。
彼女の毛は、解いたならば、昔の物語に書いてある、御み簾すの外へもこぼれるほど長いに違いないほどたっぷりと濃いのを、前髪を大きく束そく髪はつも豊かに巻いてある。
﹁こうして、ちゃんとしてお目にかかるのははじめてだけれど、あなたはあたくしのことはよく御存じだから――たったひとつあなたには聴いておいて頂きたいことがあるのよ。﹂
彼女はあたしの友達の、箏ことの名人の浜はま子こを見てつけたした。
﹁折せっ角かくお招き申してもおさびしいといけないと思って、一番仲のよいお友達と御一緒にと申しあげましたの。﹂
一風も二風もある浜子は、その光栄を、軽く頭をさげておいて先さっ刻きのふくみ笑いをまだつづけている。
合あい客きゃくは、ある画伯の夫人と、婦人雑誌で名の知れた婦人記者磯いそ村むら女史だった。その人が、欣々さんからの使者にたってて、出ぎらいだったわたしを引出したのだった。
﹁美人伝は、こちらがお書きになってらっしゃるから、いけないけれど――﹂
と、画伯夫人は、列伝体のものを、欣々女史の名で集めて残したらよかろうということを、しきりに勧めた。
﹁そういえば――﹂
と、それが言いたい、今夜の招まね待きだとも知れぬように知れるように彼女は言いだした。
﹁あたしのように、血縁のものに縁の薄いものがありましょうか、あたくしの母は、十六歳であたくしを生んだといいますが、物もの心ごころづいてからは、他人に育てられましたのよ、だから、生うみの母にも逢わずに死なせ、その実ひ母との父親――おじいさんですわねえ、その人は、あたしが見たい、一目逢いたいと、それだけが願望だったというのにこれも隔てがあって逢わずに死なせてしまいましたわ。実父の家とは、父の死後に、義母姉きょ妹うだいの交わりをするようになりましたけれど――﹂
その、哀れなはなしは、わたしの小さな美人伝に書いたことなのでみんな知ってはいたが、いたましい思いに眼を伏せていた。
悲しい事実も、盛さか時りの彼女には悲話は深刻なだけ、より彼女が特異の境遇におかれるので、彼女は以も前とから隠そうとはしなかった。ただしんぼうのならないのは、子供があるといわれることだと彼女はいった。
﹁私に、子供があってくれればですが、でも、ないものをあるといわれるのは、嫌いやなものねえ。ある時、あなたの子だと、名乗っているものがある、それが誠に美しい容よう貌ぼうの男の子なので、誰しもそれを疑わずにその者のいう通り、あなたの隠し児ごであるのかと信じている。という、便りをきかせてくれたものがあったのです、ええ拵こしらえものですもの、でも、驚きました。﹂
さまざまな手配をして、ようやく分ぶん明みょうにしたのだといって、
﹁美しい人に似ているといわれた心ここ地ちよさから、つい名を騙かたったというのですの。その子供も、別段わるい心でではなかったが、ふと欣々の子だといったら案外大切にされたので、一度口にした効果がわすれられなかったからだと言う訳なの。﹂
けれど、厭いやな思いもしたし、かなり迷惑もした。人をもって警察の力も借りて、後のち々のちそういうことのないようにしてもらいはしたが――
﹁ほんとの子ならばしかたがないが誤伝て、いやなものねえ。﹂
白い袖の振りを、指輪の手でしごきながら話していたが、突いき然なり白い襦じゅ袢ばんの袖をひっぱりだして、急いで眼にもっていった。その瞬間、たもちかねたような、大つぶの雫しずくがこぼれるのを見た。
まあと、深く息をのんで、感動を現わし示したのは合客たちだった。浜子は黙して眼めが鏡ねをずりあげていた。わたしも気の毒さに面おもを伏せているよりほかなかった。
その間に、電話の鈴ベルがひびいて取次がれた、彼女は輝く手でまぶたをおさえながら、
﹁あ、大臣の、尾崎さんの夫おく人さまからなら、どうか明みょ日うにち御覧にお出いで下さいまして。﹂
眼は濡ぬれていて、声は華やかだった。
﹁折角の夜よるを、こんな話をしてしまって――お雛ひなさまがおむずかりになるわ。﹂
用はもう済んだのだ、彼女は立って広間へ案内した。
広い客間の日本室を、雛段は半なか分ばほども占領している。室の幅一ぱいの雛段の緋ひも毛うせ氈んの上に、ところせく、雛人形と調度類が飾られてあった。
﹁御覧あそばせ。まるで養子のように、誰も彼も、これは僕のだこれは私のだと、場所を占領して飾りますの、みんな一揃そろいずつですもの。いまに、室いっぱいになってしまいますのでしょうよ。あんまり見ごとだって、それをまたいろいろの方が御見物にいらっしゃるので――明あし日たは大勢さんをお招き申しましたわ。こんやは、あなたのためにだけよ。﹂
お雛さまの前に食卓がつくられてあって、みんな席へついた。
﹁あたくしねえ、給きゅ仕うじは、年の若い、ちいさい綺麗な男の子がすきです。汚ない、不ぶこ骨つな大きな手が、お皿と一緒につきだされると、まずくなる。﹂
ほんとに、その通りの少年が、おなじ緑の服を着て、白い帽子を頭において三、四人出て来た。
キュラソウの高グ脚ラ杯スを唇にあてて、彼女はにこやかに談笑する。
﹁今晩は、お雛さまも御洋食ですの。わざと、洋食にいたしましたのよ、自慢の料理人でございます。軽かる井いざ沢わへゆきますのに連れてゆくために、特別に雇ってある人ですの。﹂
その、御自慢の料理人が、腕を見せたお皿が運びだされた。
﹁明あし日たは泉鏡花さんも見えるでしょうよ、あの方の厭いやがりそうなものを、だまって食べさせてしまうの、とてもおかしゅうござんすわ。﹂
泥すっ鼈ぽんぎらいな鏡花氏に、泥鼈の料理を食べさせた話に、誰も彼も罪なく笑わせられた。
あたしは、鏡花さんが水がきらいで私の住んでいた佃つく島だじまの家うちが、海つな
に襲われたとき、ほどたってからとても渡わた舟しはいけないからと、やっとあの長い相あい生おい橋ばしを渡って来てくださったことを思出したり、厭きらいとなったら、どんな猛暑にも雷が鳴り出すと蚊か帳やのなかでふとんをかぶっていられるので、ある時、奈良へ行った便つい次でに、唐とう招しょ菩うぼ提だい寺じの雷除よけをもっていってあげたことを、思出したりしていた。泉さんは、厭きらいといえば、しんから底から厭いな方かただったのだ。鏡花愛読者が鏡花会をつくって作者に声援していたころだった。欣々女史も鏡花会にはいって、仲間入りの記しる念しにと、帯おび地じとおなじに機おらせた裂きれ地じでネクタイを造られた贈りものがあったのを、幹事の一人が嬉しがって、
﹁此こ品れ、欣々女史の帯とおなじ裂きれだそうです。﹂
とネクタイをひっぱって見せたのを、微ほほ笑えましくこれも思出していた。
すると彼女はこういっていた。
﹁ええ、ええ、たいへんでしたわ。おいしいおいしいって食たべてしまってから、たねを明あかすと、嗽うがいをなさるやらなにやら――﹂
介かい添ぞええに出ている、年とし増まの気のきいた女中が、その時の様子を思い浮べさせるように、たまらなくおかしそうにふうッといって、袂たもとで口をおさえた。
食後はもうひとつの広間へ移った。そこはばかに広かった。琴が、生いく田た流のも山田流のも、幾面も緋ひも毛うせ氈んの上にならべてあった。三しゃ味みせ線んも出ている。
﹁こちらに、近この衛え家けからか出た大層お古い、名めい箏そうがあるようにうかがっておりましたが――﹂
と、はじめて浜子が声を出した。
﹁ああ、あれ御承知？ すぐ出させましょう。﹂
パチパチと手を打った。女中たちが顔を出した。浜子はちいさな声で、
﹁その箏ことでなんか弾ひいて見ましょうか、真っ黒になってて、鰹かつ節ぶしみたいな古い箏だけれど、それは結構な音ねを出すの。﹂
虫の好いい話で、浜子は他ひ人とさまの名器でよき曲を、わたしの耳に残してくれようというのだ。わたしも横おう道どうにも、
﹁やってよ、箏こと爪づめはなくたって好いい。﹂
﹁いえ、それはあるにはある。﹂
浜子は、何ど処こからか、たしなみの箏爪の袋を出した。なるほど鰹節のように黒く幅のやや細い箏そうの琴が持ち出されると、膝に乗せて愛あい撫ぶした。毛氈の上では華やかに、もうはじまりだした。お対あい手ての弾ひき手てや三味線の方の女ひとも現れて来て、琴の会のような賑にぎわしいことになっている。
鼓つづみの箱も運び出されて来た。鼓と謡うたいは堂に入いっているといわれている彼ひ女とだった。
﹁おやおや、この分では、仕しま舞いまで拝見するのかもしれない。﹂
浜子は、むずとして、軽く古い箏ことの絃いとに指を触れながら、そんなしゃれを言った。
二
その名めい箏そうも、あの大正十二年の大震災に灰かい燼じんになってしまった。そればかりではないあの黒い門もなにもかも、一いっ切さい合がっ切さい燃えてしまったのだ。軽井沢の別荘から沓くつ掛かけの別荘まで夏草を馬の足あ掻がきにふみしかせ、山の初秋の風に吹かれて、彼女が颯さっ爽そうと鞭むちをふっていたとき、みな灰になってしまった。
﹁衷ちゅうが、あなたならお目にかかるというから、私の部屋に寄ってよ。﹂
と、あの時、大おお囲い炉ろ裡りに、大おお茶ちゃ釜がまをかけた前に待っていたむつむつしたような重い口の博士は諧かい謔ぎゃく家だったが、その人も震災後の十四年に亡なくなられた。
時代ははっきりと変ってしまった。欣々女史の栄華がなくなってしまったからとて、彼女の才能は決してにせものではない。だが、激しい世相の転回があった。世界的な思潮の動揺にも押しゆさぶられていた。
せわしさに、昨きの日うの人を思出していられないというふうな、世の中の目まぐるしさだった。
ある日、浜子が来て、
﹁そこまで、江え木ぎさんが来たのだけれど、急がしいといけないから、また来ますって。﹂
﹁あら、帰ったの。﹂
あたしは惜おしがった、それはいつぞや、帰りぎわに、淡路町の邸やしきで、静な室を二室抜いて、彼女の篆てん刻こくが飾ってあったのを見せられた時、どれか上げたいといったのを、またの時にと急いで帰ったばっかりに彼女の篆刻は、あすこに並べてあっただけは、一ひと個つも残らず焼失したことの惜おしさを、なぐさめてあげたい思いで一ぱいだったからであった。
欣々女史の書画――篆刻の技わざは、素しろ人うとのいきをぬけて、斯しど道うの人にも認められていたのだ。
丁度、私は牛うし込ごめ左さな内いち町ょうの坂の上にいて、﹃女にょ人にん芸げい術じゅつ﹄という雑誌のことをしている時だった。二階の裏窓から眺めると、谷であった低ひく地ちを越して向うの高たか台みの角の邸やしきに、彼女は越こして来ていた。浜子もあまり遠くないところに移って来ていた。
﹁もう直じきに、練ねり馬まの、豊とし島まえ園んの裏へつくった家うちへ越すので﹃女人芸術﹄のと、あなたのとの判はんをこしらえてあげたいって。﹂
そういった浜子は、何処かさびしげだった。自分も、横浜のとても好いい住すま居いも若い時から造らせた好い箏ことも、なにもかも震災の難にあって、命だけたすかった、身に覚えのある痛いた手でなので、
﹁江木さんもさびしいでしょうよ。﹂
と、たった一人の孤独なので、此処まで来るにも、手て提さげを二ツ、鍵かぎやら銀行の帳面やら入れてさげてこれは大切だといったと語った。あの女ひ性とが――と、聴くものも、いうものも、ただ顔を見合った。また、その次だった。もうその時分には、練馬の新築に越していたのだが、
﹁江木さんところから今け朝さ、真新らしい萌もえ黄ぎから草くさの大おお風ぶろ呂しき敷づつ包みがとどいたから、何がこんなに重いのかと思ったらば、土のついた薩お摩い芋もで。﹂
と、浜子はおかしがりながら、何か気にかかるふうでもあった。
それから間もなく、彼女は自殺したのだ。昭和五年の二月二十日、京都の宿で、紋服を着て紫ちりめんの定じょ紋うもんのついた風呂敷で顔を被おおって、二階の梁はりに首を吊つっていた。
彼女は、愛えひ媛め県令関せき氏のおとしだねで、十六歳の女中の子に生れた。明治十年の出生であったが、もの心づいた時は、京橋区木こび挽きち町ょう、現い今まの歌舞伎座の裏にあたるところの、小さな古道具屋が養家だった。後のちに、養やし母ないおやは、江木家へ引きとられていたが、養家では、生みの男の子には錺かざ職りしょくぐらいしか覚おぼえさせなかったが、勝気な栄えい子こには諸芸を習わせた。
新橋に半おし玉ゃくに出たが、美びぼ貌うと才能は、じきに目について、九州の分ぶげ限んし者ゃに根引きされその人に死しに別れて下した谷やこ講うぶ武し所ょからまた芸げい妓しゃとなって出たのが縁で、江木衷博士夫人となったのだ。関家が東京に住み、令嬢のませ子さんが第一女学校に通学していた十五の時、江木衷氏の夫人はあなたの姉さんだといってると知らせてくれた友達があって、それが逢うきっかけとなった。けれど、もう父の関氏はこの世の人ではなかった。
今年の二月二十日、わたしはふと、ませ子さんに欣々さんの死ぬ前の様子がききたくなった。二、三日たって、相そう州しゅ片うか瀬たせの閑居に、ませ子さんの室へやにわたしは坐った。
ませ子さんも、清きよ方かた画伯が﹁築つき地じ河が岸しの女﹂として、いつか帝展へ出品した美しい人である。病後とはいえ、ふと打ちむかった時、欣々さんにこうも似ていたかと思うほど、眼と眉まゆがことに美しく、髪が重げだった。この女ひとが、大学出の子息が二人もあって、一人は出征もしていられるときくと、嘘うそのような気のするほど、古代紫の半はん襟えりと、やや赤みの底にある唐とう繻じゅ子すの帯と、おなじ紫系統の紺ぽいお召めしの羽織がいかにも落ちついた年頃の麗々しさだった。
﹁姉は惜おしい人でしたわ、育てかたと、教育のしようでは河かわ原はら操みさおさんのようなお仕事をも、したら出来る人だったと思います。
死ぬのなら、もっと早く死しなせたかった。あの通りの華は美でな気象ですもの。あの人の若いころって、随分異性をひきつけていました。私がはじめて淡路町へいったころは、毎晩宴会のようでした。あっちにもこっちにも客あしらいがしてあって――江木の権ちか力らと自分の美貌からだと思っていたから。だから顔が汚なくなるということが一こ番わ怖い、それと権力も金力も失いたくない。それが、震災で財産を失なくしたのと衷あにに死なれたのと年をとって来たのとが一緒になって、誰も訪たずねて来なくなったのが堪たまらなかったらしいのです。よく私に、夫に死なれて後のち誰も来なくなったかと聞きました。お姉さまの周まわ囲りの人と、私の方の人とは違うから、私の方は今まで通りですというと、変に考え込んでしまって――財産がすくなくなったっていつでも他ほかのものなら結構立派に暮してゆけるだけはあったのですし、今思えば、京都の方へ旅行するから一緒に来てくれないかといいました。そんなこと言ったことのない人でしたが、よっぽどさびしくなったのだと見えて、練ねり馬まの宅うちには離れも二ツあるから、一緒に住まないかとも言いました。二男を子にくれないかともいいました。けれどあんな気象の人ですからどこまで本気なのかわからないので誰も本気で聞かなかったので、あとでは強い人があれだけいったのには、いうに言えないさびしさがあったとは思いましたけれど――
そうそう、よく死ぬのは何が一番苦しくないだろう。縊くび死くくりが楽だというけれどというので、いやですわ、洟はなを出すのがあるといいますもの、水へはいるのが形かた骸ちを残さないで一い番好いと思うと言いますと、そうかしら、薬を服のむのは苦しいそうだね。と溜ため息いきをついたりして、変だと思った事もあったのですが、大阪へいっても死ぬ日に、たった一人で住すみ吉よしへお参まい詣りに行くといって、それを止とめたり、お供ともがついていったりしたら大変機嫌がわるかったのですって、それから帰って死んだのですが、あとで聞くと、住吉は海が近いのですってねえ。﹂
わたしは静にきいていた。故衷ちゅう博士がこの姉はら妹からふたりを並べて、ませ子は部屋で見る女、栄子は舞台で見る女といったというが、わたしは、老年の衷氏の前にいる欣々女史は孫、もしくは娘のような態度で無邪気そうに甘えていたことを言って見た。
ませ子さんは言う。
﹁姉は利口でしたものね、気むずかしい方かたに、実によく勤めていました。﹂
衷氏が歿なくなった時のお通夜や、仏事の日などは、ありとある部屋に、幾組といってよいかわからぬほどのお客をして接待した欣々女史、その新にい盆ぼんには、おびただしい数の盆ぼん燈どう籠ろうを諸方から手た向むけられたのを家中の軒さきから廊下から室へや内のなかの天井へずっとかけつらねさせたという、豪華なことのすきな彼女が、練馬の新築の家では、夜になるとピンピン、キシキシと、木材のひわれる音に神経を悩まして、いやだというように弱くなってしまったとは、美貌の誇りと、栄華の夢のさめぎわの、どんなにさびしいものかという底に、それよりほかの根はなんにもないであろうか？ あたしは否いいえといいたい。
それは派手な気質もあったであろうが、あれだけの珍しい才能の人に賑にぎやかしにばかり反それていった一面も見なければならない。あたしははじめてあったあの宵よい節ぜっ句くの晩の感想を、こんなふうに書きつけてある。
――まだ春寒い夜よ更ふけの風に吹かれて門を出ながら、しみじみと、この華やかな人の心のかげに潜む、どうしても払うことの出来ない、人世の果はか敢なさというものについて考えさせられた。
そしてまた想おもって見た。真の幸福をつかむものには寂しさがあろうかと――。
に襲われたとき、ほどたってからとても渡わた舟しはいけないからと、やっとあの長い相あい生おい橋ばしを渡って来てくださったことを思出したり、厭きらいとなったら、どんな猛暑にも雷が鳴り出すと蚊か帳やのなかでふとんをかぶっていられるので、ある時、奈良へ行った便つい次でに、唐とう招しょ菩うぼ提だい寺じの雷除よけをもっていってあげたことを、思出したりしていた。泉さんは、厭きらいといえば、しんから底から厭いな方かただったのだ。鏡花愛読者が鏡花会をつくって作者に声援していたころだった。欣々女史も鏡花会にはいって、仲間入りの記しる念しにと、帯おび地じとおなじに機おらせた裂きれ地じでネクタイを造られた贈りものがあったのを、幹事の一人が嬉しがって、
﹁此こ品れ、欣々女史の帯とおなじ裂きれだそうです。﹂
とネクタイをひっぱって見せたのを、微ほほ笑えましくこれも思出していた。
すると彼女はこういっていた。
﹁ええ、ええ、たいへんでしたわ。おいしいおいしいって食たべてしまってから、たねを明あかすと、嗽うがいをなさるやらなにやら――﹂
介かい添ぞええに出ている、年とし増まの気のきいた女中が、その時の様子を思い浮べさせるように、たまらなくおかしそうにふうッといって、袂たもとで口をおさえた。
食後はもうひとつの広間へ移った。そこはばかに広かった。琴が、生いく田た流のも山田流のも、幾面も緋ひも毛うせ氈んの上にならべてあった。三しゃ味みせ線んも出ている。
﹁こちらに、近この衛え家けからか出た大層お古い、名めい箏そうがあるようにうかがっておりましたが――﹂
と、はじめて浜子が声を出した。
﹁ああ、あれ御承知？ すぐ出させましょう。﹂
パチパチと手を打った。女中たちが顔を出した。浜子はちいさな声で、
﹁その箏ことでなんか弾ひいて見ましょうか、真っ黒になってて、鰹かつ節ぶしみたいな古い箏だけれど、それは結構な音ねを出すの。﹂
虫の好いい話で、浜子は他ひ人とさまの名器でよき曲を、わたしの耳に残してくれようというのだ。わたしも横おう道どうにも、
﹁やってよ、箏こと爪づめはなくたって好いい。﹂
﹁いえ、それはあるにはある。﹂
浜子は、何ど処こからか、たしなみの箏爪の袋を出した。なるほど鰹節のように黒く幅のやや細い箏そうの琴が持ち出されると、膝に乗せて愛あい撫ぶした。毛氈の上では華やかに、もうはじまりだした。お対あい手ての弾ひき手てや三味線の方の女ひとも現れて来て、琴の会のような賑にぎわしいことになっている。
鼓つづみの箱も運び出されて来た。鼓と謡うたいは堂に入いっているといわれている彼ひ女とだった。
﹁おやおや、この分では、仕しま舞いまで拝見するのかもしれない。﹂
浜子は、むずとして、軽く古い箏ことの絃いとに指を触れながら、そんなしゃれを言った。
二
その名めい箏そうも、あの大正十二年の大震災に灰かい燼じんになってしまった。そればかりではないあの黒い門もなにもかも、一いっ切さい合がっ切さい燃えてしまったのだ。軽井沢の別荘から沓くつ掛かけの別荘まで夏草を馬の足あ掻がきにふみしかせ、山の初秋の風に吹かれて、彼女が颯さっ爽そうと鞭むちをふっていたとき、みな灰になってしまった。
﹁衷ちゅうが、あなたならお目にかかるというから、私の部屋に寄ってよ。﹂
と、あの時、大おお囲い炉ろ裡りに、大おお茶ちゃ釜がまをかけた前に待っていたむつむつしたような重い口の博士は諧かい謔ぎゃく家だったが、その人も震災後の十四年に亡なくなられた。
時代ははっきりと変ってしまった。欣々女史の栄華がなくなってしまったからとて、彼女の才能は決してにせものではない。だが、激しい世相の転回があった。世界的な思潮の動揺にも押しゆさぶられていた。
せわしさに、昨きの日うの人を思出していられないというふうな、世の中の目まぐるしさだった。
ある日、浜子が来て、
﹁そこまで、江え木ぎさんが来たのだけれど、急がしいといけないから、また来ますって。﹂
﹁あら、帰ったの。﹂
あたしは惜おしがった、それはいつぞや、帰りぎわに、淡路町の邸やしきで、静な室を二室抜いて、彼女の篆てん刻こくが飾ってあったのを見せられた時、どれか上げたいといったのを、またの時にと急いで帰ったばっかりに彼女の篆刻は、あすこに並べてあっただけは、一ひと個つも残らず焼失したことの惜おしさを、なぐさめてあげたい思いで一ぱいだったからであった。
欣々女史の書画――篆刻の技わざは、素しろ人うとのいきをぬけて、斯しど道うの人にも認められていたのだ。
丁度、私は牛うし込ごめ左さな内いち町ょうの坂の上にいて、﹃女にょ人にん芸げい術じゅつ﹄という雑誌のことをしている時だった。二階の裏窓から眺めると、谷であった低ひく地ちを越して向うの高たか台みの角の邸やしきに、彼女は越こして来ていた。浜子もあまり遠くないところに移って来ていた。
﹁もう直じきに、練ねり馬まの、豊とし島まえ園んの裏へつくった家うちへ越すので﹃女人芸術﹄のと、あなたのとの判はんをこしらえてあげたいって。﹂
そういった浜子は、何処かさびしげだった。自分も、横浜のとても好いい住すま居いも若い時から造らせた好い箏ことも、なにもかも震災の難にあって、命だけたすかった、身に覚えのある痛いた手でなので、
﹁江木さんもさびしいでしょうよ。﹂
と、たった一人の孤独なので、此処まで来るにも、手て提さげを二ツ、鍵かぎやら銀行の帳面やら入れてさげてこれは大切だといったと語った。あの女ひ性とが――と、聴くものも、いうものも、ただ顔を見合った。また、その次だった。もうその時分には、練馬の新築に越していたのだが、
﹁江木さんところから今け朝さ、真新らしい萌もえ黄ぎから草くさの大おお風ぶろ呂しき敷づつ包みがとどいたから、何がこんなに重いのかと思ったらば、土のついた薩お摩い芋もで。﹂
と、浜子はおかしがりながら、何か気にかかるふうでもあった。
それから間もなく、彼女は自殺したのだ。昭和五年の二月二十日、京都の宿で、紋服を着て紫ちりめんの定じょ紋うもんのついた風呂敷で顔を被おおって、二階の梁はりに首を吊つっていた。
彼女は、愛えひ媛め県令関せき氏のおとしだねで、十六歳の女中の子に生れた。明治十年の出生であったが、もの心づいた時は、京橋区木こび挽きち町ょう、現い今まの歌舞伎座の裏にあたるところの、小さな古道具屋が養家だった。後のちに、養やし母ないおやは、江木家へ引きとられていたが、養家では、生みの男の子には錺かざ職りしょくぐらいしか覚おぼえさせなかったが、勝気な栄えい子こには諸芸を習わせた。
新橋に半おし玉ゃくに出たが、美びぼ貌うと才能は、じきに目について、九州の分ぶげ限んし者ゃに根引きされその人に死しに別れて下した谷やこ講うぶ武し所ょからまた芸げい妓しゃとなって出たのが縁で、江木衷博士夫人となったのだ。関家が東京に住み、令嬢のませ子さんが第一女学校に通学していた十五の時、江木衷氏の夫人はあなたの姉さんだといってると知らせてくれた友達があって、それが逢うきっかけとなった。けれど、もう父の関氏はこの世の人ではなかった。
今年の二月二十日、わたしはふと、ませ子さんに欣々さんの死ぬ前の様子がききたくなった。二、三日たって、相そう州しゅ片うか瀬たせの閑居に、ませ子さんの室へやにわたしは坐った。
ませ子さんも、清きよ方かた画伯が﹁築つき地じ河が岸しの女﹂として、いつか帝展へ出品した美しい人である。病後とはいえ、ふと打ちむかった時、欣々さんにこうも似ていたかと思うほど、眼と眉まゆがことに美しく、髪が重げだった。この女ひとが、大学出の子息が二人もあって、一人は出征もしていられるときくと、嘘うそのような気のするほど、古代紫の半はん襟えりと、やや赤みの底にある唐とう繻じゅ子すの帯と、おなじ紫系統の紺ぽいお召めしの羽織がいかにも落ちついた年頃の麗々しさだった。
﹁姉は惜おしい人でしたわ、育てかたと、教育のしようでは河かわ原はら操みさおさんのようなお仕事をも、したら出来る人だったと思います。
死ぬのなら、もっと早く死しなせたかった。あの通りの華は美でな気象ですもの。あの人の若いころって、随分異性をひきつけていました。私がはじめて淡路町へいったころは、毎晩宴会のようでした。あっちにもこっちにも客あしらいがしてあって――江木の権ちか力らと自分の美貌からだと思っていたから。だから顔が汚なくなるということが一こ番わ怖い、それと権力も金力も失いたくない。それが、震災で財産を失なくしたのと衷あにに死なれたのと年をとって来たのとが一緒になって、誰も訪たずねて来なくなったのが堪たまらなかったらしいのです。よく私に、夫に死なれて後のち誰も来なくなったかと聞きました。お姉さまの周まわ囲りの人と、私の方の人とは違うから、私の方は今まで通りですというと、変に考え込んでしまって――財産がすくなくなったっていつでも他ほかのものなら結構立派に暮してゆけるだけはあったのですし、今思えば、京都の方へ旅行するから一緒に来てくれないかといいました。そんなこと言ったことのない人でしたが、よっぽどさびしくなったのだと見えて、練ねり馬まの宅うちには離れも二ツあるから、一緒に住まないかとも言いました。二男を子にくれないかともいいました。けれどあんな気象の人ですからどこまで本気なのかわからないので誰も本気で聞かなかったので、あとでは強い人があれだけいったのには、いうに言えないさびしさがあったとは思いましたけれど――
そうそう、よく死ぬのは何が一番苦しくないだろう。縊くび死くくりが楽だというけれどというので、いやですわ、洟はなを出すのがあるといいますもの、水へはいるのが形かた骸ちを残さないで一い番好いと思うと言いますと、そうかしら、薬を服のむのは苦しいそうだね。と溜ため息いきをついたりして、変だと思った事もあったのですが、大阪へいっても死ぬ日に、たった一人で住すみ吉よしへお参まい詣りに行くといって、それを止とめたり、お供ともがついていったりしたら大変機嫌がわるかったのですって、それから帰って死んだのですが、あとで聞くと、住吉は海が近いのですってねえ。﹂
わたしは静にきいていた。故衷ちゅう博士がこの姉はら妹からふたりを並べて、ませ子は部屋で見る女、栄子は舞台で見る女といったというが、わたしは、老年の衷氏の前にいる欣々女史は孫、もしくは娘のような態度で無邪気そうに甘えていたことを言って見た。
ませ子さんは言う。
﹁姉は利口でしたものね、気むずかしい方かたに、実によく勤めていました。﹂
衷氏が歿なくなった時のお通夜や、仏事の日などは、ありとある部屋に、幾組といってよいかわからぬほどのお客をして接待した欣々女史、その新にい盆ぼんには、おびただしい数の盆ぼん燈どう籠ろうを諸方から手た向むけられたのを家中の軒さきから廊下から室へや内のなかの天井へずっとかけつらねさせたという、豪華なことのすきな彼女が、練馬の新築の家では、夜になるとピンピン、キシキシと、木材のひわれる音に神経を悩まして、いやだというように弱くなってしまったとは、美貌の誇りと、栄華の夢のさめぎわの、どんなにさびしいものかという底に、それよりほかの根はなんにもないであろうか？ あたしは否いいえといいたい。
それは派手な気質もあったであろうが、あれだけの珍しい才能の人に賑にぎやかしにばかり反それていった一面も見なければならない。あたしははじめてあったあの宵よい節ぜっ句くの晩の感想を、こんなふうに書きつけてある。
――まだ春寒い夜よ更ふけの風に吹かれて門を出ながら、しみじみと、この華やかな人の心のかげに潜む、どうしても払うことの出来ない、人世の果はか敢なさというものについて考えさせられた。
そしてまた想おもって見た。真の幸福をつかむものには寂しさがあろうかと――。