西チベ蔵ットは世せか界いの屋や根ねといはれてゐるほどで、国くに全ぜん体たいが高たかい山やま々やまの連つらなりだ。その山やま々やまの中なかでも群ぐんを抜ぬいて高たかく、西チベ蔵ットの屋や根ねともいはれるのが、印イン度ドとの国こく境きやうに跨またがるヱヴェレスト山ざんである。その頂てう上じやうには古ふるい昔むかしから、大だい理りせ石きのやうに硬かたくて真まし白ろな雪ゆきが凍こほりついてゐて、壁かべのやうにそゝり立たつ、そこまで、まだ誰だれ一ひと人り攀よぢ登のぼつた者ものがない。さういふ天てんの世せか界いにとゞくやうな、空くう気きの稀う薄すいところでは、あれあれといふ間まもなく、千年ねん位ぐらゐの年とし月つきが流ながれてしまふさうだ。だから、ヱヴェレストは千年ねんも前まへの出でき来ご事とを昨ゆふ夜べの夢ゆめのやうにして話はなしてくれる。 随ずい分ぶん古ふるい昔むかしのこと、ヱヴェレストのはるか麓ふもとに、ラランとよぶ一羽はの鴉からすが棲すんでゐた。もの凄すごいほど暗くらい、こんもりと繁しげつた密みつ林りんの奥おくで、毎まい日にち歌うたつてる小こと鳥りや仲なかのいゝ虫むしなどを殺ころして喰た﹇#ルビの﹁た﹂は底本では﹁あ﹂﹈べてゐた。喰たべ飽あきると、密みつ林りんの上うへを高たかく気きま侭まに飛とぶのが好すきで、またその飛ひか行う振ぶりが自じま慢んの種たねでもあつた。ラランの悪わる知ぢ慧えは有いう名めいなもので、ほかの鳥とりがうまく飛とんでるのを見みると、近ちか寄よつては自じぶ分んの尖とがつた嘴くち先さきでチクリと刺さして墜つい落らくさせてしまふのだ。そして、相あひ手ての鳥とりが下したの方ほうへとだんだん小ちひさくなつて墜おちてゆき、見みえなくなつてしまふと、その時ときこそ得とく意いさうに羽はねを反そらして、カラカラと空そらのまん中なかで、笑わらふのだつた。けれどもあのヱヴェレストの頂てう上じやうだけは、見み上あげたゞけでも目めが眩くらんで、何なん度どもそこまで飛とんで見みようとしては、半はん分ぶんもゆかないうちに、疲つかれてしまつたラランはゾグゾクしながら、その度たびに羽はねを縮ちぢめて残ざん念ねんさうに顔かほをしかめるのだつた。 ﹃癪しやくにさわるけれど、誰だれか仲なか間まを誘さそつてやらう。仲なか間まと飛とぶなら楽らくなもんだ、何なにか饒しや舌べつてるうちには着つくだらうし。﹄ 柄がらにもなくこんなことを考かんがえて、西チベ蔵ットに棲すんでる仲なか間まの鴉からすを一いち々いちたづねて話はなしたが、皆みんなは日ひご頃ろラランの悪わる知ぢ慧えをよく知しつてゐるので、誰だれも一いつ緒しよに飛とばうとするものがなかつた。ラランは不ふき気げ嫌んだつた。ヱヴェレスト位くらゐがなんだといふ顔かほ付つきで、皆みんなを馬ば鹿かにしたやうに唾つばをやたらに吐はくのだつた。すると一番ばん最さい後ごにペンペといふ何なにも知しらない若わかい鴉からすが出でてきて﹃そいつはおもしろいな、ヱヴェレストのてつぺんまでは大だい飛ひか行うだ。僕ぼくは大だい賛さん成せいだ。ラランよ。僕ぼくでも大だい丈じや夫うぶか。﹄ ﹃そりや心しん配ぱい無むよ用うだ。ではすぐにでも出しゆ発つぱつしようか。﹄ ラランはかう答こたへるや否いなや、もう、羽はねをひろげた。ほかの鴉からすたちはペンペを馬ば鹿かなやつだと思おもひながらもヱヴェレストの頂てう上じやう目め指ざして飛とびだす元げん気きに打うたれた。ラランに続つづいてペンペがサッと密みつ林りんの上うへに飛とび出だした。やがて羽はねを整ととのへて、頭あたまを高たかくあげた。だんだんと下し界たを離はなれる。もう千メートルだ。二羽はの鴉からすはそこで初はじめて口くちをきいた。 ﹃おい、ペンペ、下し界たを見みろ。すばらしい景けし色きじやないか。お前まへなんぞこゝらまで飛とんで来きたこともあるまい。﹄ ﹃もちろん僕ぼくは初はじめてだ。こんなに飛とべるとは思おもはなかつたよ。愉ゆく快わい々ゆく々わい。そりやさうと大だい分ぶん寒さむくなつて来きた。ラランよ、ヱヴェレストのてつぺんはまだ遠とほいか。﹄ ﹃ああまだ膝ひざ小こぞ僧うにもとゞいてないよ。さうさな、休やすみなしの直ちよ行くかうで夕ゆふ方がたまでには着つけるだらう。これからが大だい飛ひこ行うになるんだ。﹄ ﹃うう寒さむい寒さむい﹄ ペンペは少すこし首くびを縮ちぢめた。二千メートルの雲くもの中なかだ。ペンペは息いきをはづませてゐる。 ﹃ラランよ。この雲くもを出でてしまへば、もうすぐだらうな。﹄ ﹃まだまだ。こんな雲くもはこの先さきいくらでもあるんだ。元げん気きを出だせよ、元げん気きを。﹄ ﹃腹はらが減へつてきたんだ。ラランよ、何なにかたべるものはないか。﹄ ﹃戯じや談うだんいふな。三千メートルのまつたゞ中なかだぞ。辛しん棒ぼうしろ、気きの弱よわいやつだ。﹄ もう下し界たを見みても、なにもかもわからないほどだ。初はじめの元げん気きもどこへやら、ペンペは胸むねがドキドキする。フト気きがつくと、先さきに飛とんでゐるラランが何なにが旨う味まいものでもたべてゐるやうな音おとをたてゝ、喉のどを気きも持ちよく鳴ならしてゐる。ペンペはもう我がま慢んができないで、 ﹃ラランよ、たべるものがあるなら分わけてくれ。ずゐぶん旨う味まさうな音おとだ。頼たのむよ。少すこしでいいから。﹄ と、疲つかれてきた羽はねにバサバサと力ちからを罩こめて、追おひつかうとするけれど、ラランのやつはさつさと先さきへ飛とびながら、着おちつついた﹇#﹁着おちつついた﹂はママ﹈もので、 ﹃おい、ペンペよ。いまごろ気きがついたか。おれも腹はらが減へつてきたので、自じぶ分んの眼めだ玉まを片かた方ほう抉えぐりだして喰くつてるのだ。それにしばらくすると、また元もとどほりに眼めだ玉まがちやんと出で来きてくるから奇きめ妙うなものさ。﹄ そして格かく別べつの味あぢだと言いはんばかりに喉のどを鳴ならした。寒さむさも寒さむさだが、自じぶ分んの眼めだ玉まがたべられるなんて聞きいたので、思おもわずブルルッと身みぶ震るひしたペンペは、さつそく片かた方ほうの眼めだ玉まをたべてみた。なるほど旨う味まい。いくらか元げん気きも出でてきたので、ラランについて上うえへ上うえへと飛とんでゐた。すると間まもなく先さきにゆくラランが前まえのやうに喉のどを鳴ならしはじめた。ペンペは気きが気きでない。 ﹃ラランよ、今こん度どは何なにをたべてるのか。少すこしでいいから分わけてくれよ。腹はらが減へつて僕ぼくはもう目めが廻まは﹇#ルビの﹁まは﹂は底本では﹁まほ﹂﹈りそうだ﹄ ラランはすまして答こたへた。 ﹃さういふ眼めだ玉まを喰くつたまでさ。そのほかに何なにがあるものか。﹄ 馬ば鹿かなペンペは欺だまされるとも知しらずに、また片かた方ほうの眼めだ玉まをたべてしまつた。もう四千メートルに近ちかい霧きりの中なかだ。たうとう盲めく目らになつたペンペは、ラランの姿すがたを見みう失しなひ、方ほう角がくも何なにもわからなくなつて、あわてはじめたがもう遅をそかつた。 ﹃ラランよ、ラランよ、﹄と叫さけぶ。 ラランの奴やつは意いじ地わ悪る﹇#ルビの﹁いじわる﹂は底本では﹁いさわる﹂﹈く上うへへ上うへへとペンペの頭あたまの上うへを聞きこえないふりして飛とんでいつた。ペンペはすつかりベソをかいて、繰くり返かへしラランの名なを呼よんだが、その返へん事じがないばかりか、冷つめたい霧きりのながれがあたりいちめん渦うづ巻まいてゐるらしく、そのために自じぶ分んのからだはひどく煽あふられはじめた。︹ああ、ヱヴェレストはまだ遠とほいらしい。︺ペンペは悲かなしい聲こえを﹇#﹁聲こえを﹂は底本では﹁馨こえを﹂﹈あげて泣なきだしたが、自じぶ分んの聲こえを聴きいて救すくひに来くるものも無ないのかとおもふと、腹はらが立たつて、頭あたまの中なかが茫ぼうッとして来きた。ラランのやつに欺だまされたと気きづいても、可かあ哀いさうなペンペはその抉えぐられた両りや方うほうの眼めから血ちを滴したたらすばかりだつた。もうラランの名なも呼よばない。羽はば搏たく元げん気きもしだいに減へつて、たゞ疲つかれはてたからだは、はげしい霧きりのながれに乗のつて漂ただよつてゐた。そのとき、ラランの悪わるはずつとペンペを離はなれて、上うへの方ほうを飛とんでゐた。ラランはフト羽はねを休やすめて下したを見みた。 ペンペのからだが黒くろい小ちひさな點てんになつて、グーッグーッと錐きりを揉もむやうに下し界たに墜をちてゆくのがわかつた。やがてそれも見みえなくなつてしまつた。ペンペはどうなつたらうか。 ﹃ああ、いい塩あん梅ばいに墜をちやがつた。自じぶ分んの眼めだ玉まを喰くふなんて阿あほ呆うがどこにゐる。ペンペの邪じや魔まさえゐなけりや、もう後あとはをれのものだ。﹄ ラランはいつものやうに、カラカラと笑わらつた。五千メートル。いつもならこの辺へんへ来くるまでに疲つかれて墜をちてしまう筈はづなのに、今こん度どは莫ば迦かに調てう子しがいい。けれども鼻はな唄うた﹇#ルビの﹁はなうた﹂は底本では﹁はねうた﹂﹈まじりに頂てう上じやうを目め指ざしてるラランも、ひとりぼつちになると、やつと疲つかれが出でてきた。鼻はな唄うたもくしゃみになつてしまつた。︹ヱヴェレストは思おもつたより遠とほいな︺と独ひと言りごとしながら四あた辺りを見みま廻はすと、薄うすい日ひの光ひかりが美うつくしく妖あやしく漲みなぎつて、夕ゆふ暮ぐれ近ちかくなつたのだらう。下し界たを見みても、雲くもや霧きりでまるで海うみのやうだ。悪わるいラランも少すこしばかり寂さびしくなつてきた。今こん度どこそ腹はらも減へつてきた。すると突とつ然ぜん、ヱヴェレストの頂てう上じやうから大おほきな聲こえで怒ど鳴なるものがあつた。 ﹃ラランいふのはおまへか。ヱヴェレストはそんな鴉からすに用ようはないぞ。おまへなんぞに来こられると山やまの穢けがれだ。帰かへれ、帰かへれ。﹄ 山やま全ぜん体たいが動うごいたやうだつた。急きふに四あた辺りが薄うす暗くらくなり、引ひき裂さけるやうな冷つめたい風かぜの唸うなりが起おこつてきたので、驚おどろいたラランは宙ちう返がへりしてしまつた。そこへまた、何なにか雷かみなりのやうに怒ど鳴なる聲こえがしたかと思おもふと、小こう牛しほどもある硬かたい氷こほりの塊かたまりがピユーツと墜をちてきて、真まつ向こうからラランのからだを撥はね飛とばした。アッと叫さけぶ間まもなく、気きを失うしなつたラランは、恐おそろしい速はやさでグングンと下し界たに墜をちていつた。 もう夜よになつた頃ころだ。深ふかい谷たに間まの底そこで天テン幕トを張はつた回フイ々フイ教けうの旅りよ行かう者しやが二三人にん、篝かが火りびを囲かこんでがやがや話はなしてゐた。 ﹃まさか不ふ思し議ぎなもんだ。両りや方うはうの眼めだ玉まが無ない鴉からすなんて、どうしたこつた。﹄ ﹃猟れふ師しに撃うたれた様やう子すでもなかつたし。﹄ ﹃でもここいらの岩いは角かどに打うちつけられちや、なんぼでも生いの命ちは無ないにきまつてらあ。﹄ ﹃そりやさうだ。とにかく可かあ哀いさうなやつよ。﹄ これは多たぶ分んあのペンペの噂うはさに違ちがひない。すると元げん気きで正しや直うじきなペンペも死しんでしまつたのか。そんな話はなしの最さい中ちうにサァーツと音おとをたてゝ漆うるしのやうに暗くらい空そらの方はうから、直まつ逆さかさまにこれはまた一羽はの鴉からすがパチパチ燃もえてる篝かが火りびの中なかに墜をちてきた。もちろんそれはヱヴェレストの怒いかりに触ふれた、ラランの気きを失うしなつた姿すがたであつた。回フイ々フイ教けうの旅りよ行かう者しやたちはすつかり面めん喰くらつて、ラランを火ひの中なかから引ひき出だしたが、やつと正しや気うきづいたラランは舌したの自じゆ由うがきかないほど、口くちの中なかを火やけ傷どしてゐた。カラカラと笑わらふどころではなかつた。そこでペンペの話はなしを聞きいたラランは、深ふかく自じぶ分んの悪わるかつたことを悔くいて、ペンペを葬ほほむつてくれた旅りよ行かう者しやたちにすべてを懺ざん悔げした。翌よく朝てう、旅りよ行かう者しやたちは天テン幕トをたゝんで北きたの方ほうに発たつた。ラランはそのみにくい姿すがたのまゝ残のこされた。暫しばらくして、ラランはその﹇#﹁その﹂は底本では﹁そ﹂﹈弱よはつたからだを南みなみへ向むけて、熱あつい印イン度ドの方はうへふらふら飛とんでゐたが、ガンガといふ﹇#﹁といふ﹂は底本では﹁といふの﹂﹈大たい河かの上じよ流うりうで、火やけ傷どした口くちの渇かわきを湿うるほさうとして誤あやまつて溺おぼれ死しんでしまつた。 今いまでも世せか界いち中うの鴉からすの口くちの中なかには、その時ときの火やけ傷どのあとが真まつ赤かに残のこつてゐるといふ。人ひとに嫌きらはれながらも、あの憐あはれなペンペのために泣ないてゐるのだ。