大正元年の秋海外の旅に出いでしより余の永井荷風先生に見まみえざる事既に久しく、昨年十月歸朝以來常にお目にかかり度くおもひながら、機を得ずして遂に今日に及びたりしが、この度﹁文明一周年の辭﹂を讀みて更に痛切に余の先生に見えざる事久しきをおもへり。
﹁三田の文人中近く海外より歸來せしもの文明を一覽して甚しく余が藝術家としての態度の不眞面目なるを攻撃したりと聞く﹂といふ一事より出發して先生の﹁文明一周年の辭﹂は起草せられしものなりとぞ。
三田の文人中近く海外より歸來せしものとは余の事なりと聞く。果して然らば余の迷惑之に過ぎず、捏造は新聞記者の仕事なりと思ひゐたるに、慮はからざりき永井先生によりてかかる記事の捏造せられんとは。
余は曾て永井先生の藝術家としての態度を不眞面目なりと思ひたる事なければ從つて甚しく攻撃したる事あるべき理無し。先生は﹁攻撃するもの憚る處なく大に攻撃して可なり。吾人僅に破顏一笑せんのみ。﹂と云はるれど、曾て新聞記者の捏造記事に對しては破顏一笑したる余も、この度の捏造を基礎とする一文は、日頃我が尊敬する永井先生の草せられしものなるを以て如何に努力するも破顏一笑する事能はず、眞面目に申開きに及ばざれば心濟まず、無むじ實つの罪を負ひて默してあらんは余の堪へ得ざるところなり。
余が永井先生の御作を愛讀する事年を越えて變らず、﹁文明﹂創刊以來月の初は特に待たるる心地して、矢筈草、けふこのごろ、文反古、雨聲會の記、色なき花、支那人、腕くらべ等何れも三讀三誦し、人にむかつてこれを推稱したる事あれども不眞面目なる作品なりとて攻撃したる覺えなし。
頃日先生の所謂三田の文人、雜誌編輯の用件にて集りし席上、井川久米兩氏の間に﹁永井荷風論﹂あり、兩氏見解を異にして論爭せられし時、座に在りし余さし出口して﹁永井先生は自身に不眞面目がる興味をよろこべど遂に不眞面目になり得ざる事文明載する所の文章之を證して餘あり﹂と云へり。これ余の僞らざる感想にして、先生に此の特徴あるが爲、好んで戲文と呼ばるる文章のかへつて沈痛悲壯の調を帶べる事具眼の士の到底否み難き事實ならずや。世上先生の態度を不眞面目なりと攻撃する者はもとより多からん、然れども余は自みづから左迄に藝術批判の眼識低き者とは思はず、人の呼んで先生を不眞面目なりとなす時、先生の眞面目を叫んで誇らんとするものなり。然るを先生余を目して先生の態度の不眞面目なるを甚しく攻撃するものとなす、馬鹿々々しとて思ひ捨てんにはあまりに口くち惜をしく此の一文を草するに至りぬ。
乍しか併しながら余が﹁文明﹂を愛讀するは一に永井先生の文章あるが爲にして、忌憚なく云へば他の諸氏の文章の多くは余の最も好まざるところのものなり。或はこれらをさして不眞面目と呼ぶ事余も亦敢て辭せざるやもしれず、先生の御説の如く﹁人は時として不眞面目ならん事を欲して止まず、人相寄つて談ずるや必しも口角沫を飛ばすを要せず、同士相逢うて唯笑談時の移るを忘るる事あるも亦妨げなき事﹂を、寧ろ當然の事として認容する余も、これらの文章を讀みては祭日の農夫の如く戲れ笑うゲヱテを想起する事思ひも及ばず、我が愛讀の﹁文明﹂の爲常に遺憾とする事を正直に記して筆を止む。︵大正六年三月十日︶
――﹁文明﹂大正六年四月號