貝殼追放

愚者の鼻息

水上瀧太郎




 人をつかまへて親切めかして忠告するのは、人をつかまへて無責任に罵倒するのと同じ位いい氣持なものである。
 これは自分の座右の銘では無い。大正七年二月深川區猿江町吉村忠雄と封筒には署名し、半紙七枚に鐵筆で細かく書いた「水上瀧太郎君に與ふ」といふ文章に次郎生と名つた人から難詰状を受取つた時に、ふと自分の腦裡に浮んだ安價なる詭辯である。
 吉村忠雄氏事次郎生、若しくは次郎生事吉村忠雄氏、或はもつと正確にいへば吉村忠雄及び次郎生事某氏は、



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 と書出して、扨てその人は自分が「所謂文士の仲間入りをして居る」事を知り、
彼の子供がんな事を書くだらうとか、どんな文藝上の手腕をもつて居るだらうとか、或は題材は何んなものを捉へるだらうとか、それはそれは余の君に對する期待は蓋し豫想外に大きなものであつたのである。
 と稱してゐる。而して御苦勞樣にも「多忙な身ではあるが、三田文學に出た作品は一つ殘らず讀み」、先頃大阪毎日及び東京日日新聞に連載された「先生」といふ小品も毎日缺かさず讀んだのださうである。けれども、

 と殘念がつてゐる。
 以上が吉村忠雄氏又は次郎生の「水上瀧太郎君に與ふ」のはしがきで、自分及び自分の家をよく知つてゐて、水上瀧太郎を「なんの彼の子供が」と思つてゐると稱する大人は、次の如き詰問と慢罵に移つて行つた。


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 これは吉村忠雄氏又は次郎生の文藝觀で、如何に大人といふものは頭腦あたまの惡いものであるかを證明してゐる。最初に「彼是議論を戰はす程の素養も持つてはおらぬ」と公言してはゐるものゝ、續いて自己の文藝觀を説いて相手方の意見を伺ひ度いと云つてゐるのは、即ち「彼是議論を戰はし」度いのであつて「素養も持つて居らぬ」といふのは單に自らを低くし得たりとする習慣的禮儀に過ぎないので、實は存外自分の功利的文藝觀に滿足してゐるのである。かうして自分の立場を明かにして置いて、吉村忠雄氏又は次郎生は「先生」の一篇に對して批評を下した。
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 此の一節は吉村忠雄氏又は次郎生が、最もいい氣持で書いたものらしく、陳腐な形容詞を澤山持ち出して、見當違ひの議論を吹掛けてゐるところは、近代の文章特に「先生」の鼓吹したやうな進んだ文章に馴れた若い者には、到底吹出さないでは讀めない程愛嬌に富んでゐる。自分は非常なる興味を以て讀んだ。若しも低級なる興味でも敢へて構はず、讀む者を面白がらせるのが文章の第一義だと吉村忠雄氏又は次郎生が考へてゐるならば、期せずして人を失笑せしめる氏の文章なども「炳乎日月の如く後世を照らす」種類のものかもしれない。
 次に吉村忠雄氏又は次郎生は、自分に忠告して左の如く述べてゐる。故意か粗忽か今度は、
瀧太郎足下
 と君の一字が無くなつてしまつた。

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 論旨は益々亂暴になつて、攻撃されて居る筈の自分は寧ろ喜劇を見てゐるやうな笑ひを止める事が出來ないのである。

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 吉村忠雄又は次郎生と稱する「堂々たる男子」で、しかも匿名を用ゐてゐる人は、「先生」が新聞に出てゐる中に此の一文を寄せて掲載を中止させようと思つた程だと云つてゐる。さうして他人の雅號を用ゐる事を云云しながら、
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 といい氣なよたを飛ばした擧句に、
以上の問に對して日々紙上なり三田文學なりへ御答をして下さつたらば、余の頗る幸甚とするところである。(二月十八日夜)
 
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 稿稿
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   1940151215


2005119

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