一
暑い暑い、どんな色の白い人でも、三日もおれば直すぐ黒ん坊になる程暑い南洋の島々には椰やし子が蟹にがおります。椰子蟹て何? 椰子の実を喰たべる蟹です。じゃ椰子て何? 椰子は樹きです、棕しゅ櫚ろに似た樹です。けれども実は胡くる桃みに似ています。胡桃よりも、もっともっと大きな、胡桃を五十も合せた程大きな実です。胡桃のように堅い核たねが、柔かな肉の中にあります。それを割ると中からソーダ水のような甘酸っぱい水と、豚の脂あぶらのかたまったようなコプラというものが出て来ます。土人はそれを喰べます。私わたくしどもはそれで石せっ鹸けんをつくります。椰子蟹はこのコプラを喰べて生きていますから、椰子蟹という名がつきました。
二
或ある島に一匹ぴきの椰子蟹がおりました。大変おとなしい蟹で、珊さん瑚ごい岩わの穴に住まっておりました。潮しおが退ひくと、穴の口にお日様の光りが覗のぞき込みます。すると宿やど主ぬしの珊さん瑚ごち虫ゅうはブツブツ言いながら身をちぢめますが、蟹は大おお悦よろこびで外へ出ます。青い青い広い海は、ところどころ白い泡あわを立てております。そこにはまだ一度もじかにお日様にあったことのない隠れ岩があるのです。又或ところには大きな輪を置いたように岩が水の上に突き出て、その上に椰子の樹がぼさぼさと羽はぼ箒うきを逆さにしたように立っております。輪の内は浪なみがなくて、どんよりと青黒い水が幾いく千ちひ尋ろという深い海の底を隠しております。椰子蟹はまだこの深い底に行ってみたことはありませんでしたから、何がそこにあるか知りませんでした。ただ時々その青黒い水のどこからか、小さな金、銀、赤、青、黄など、さまざまの美しい色のお魚が、あわてて逃げて来ますと、すぐ後から、眼の凄すごい、口がお腹なかの辺についた、途方もない大きな鱶ふかが、矢のように追いかけてきて、そこいらの水を大おお風かぜのように動かします。鱶は椰子蟹には害をしません。けれどもそんな時には穴へ引込むものだよと、小さい時から母さまにおそわっているのでした。とにかくそれでみても、深い底には、とても思いもつかぬ不思議なものがいることが分ります。けれども椰子蟹はそんな下へ行く用事はありません。ただ上に行きさえすればよいのです。
蟹は穴を出て珊瑚岩をつたわって上あがりますと、もうそこはマングロヴの林です。潮が満ちたときは半分は隠れますが、潮がひいたときでも腰から下はやはり水の中にあって、小さなお魚がその幹みきの間に遊んでおります。
水を離れた蟹はお日様の熱ですぐ甲こう羅らがかわいてしまいます。けれども口の中にはちゃんと水気があるような仕しか掛けが出来ていますから、目まいがすることはありません。
﹁お日様、お早うございます。今きょ日うも又また椰子の実をいただきに出ました。﹂と、蟹はお日様に御礼を言います。お日様はにこにこしてだんだん高く空にお昇のぼりになります。
その日も蟹は前の日に登った樹に、その長い爪つめをたてて登りました。枝から枝をたぐって実をさがしますが、どうもよい実がありません。
﹁はてな、今日はもう誰だれか他ほかの蟹が来たかしら?﹂と、見みま廻わしてみても、他に蟹は一匹ぴきもおりません。﹁人間が来たか知ら? だがこの島のなまけ者どもが、こんなに早く実を取りにくる筈はずがない。﹂と、言いながら、なお探さがしておりますと、たった一つ、どうやら熟しているらしい実を見付けました。
﹁うん、あったぞ。これなら甘うまいだろう。﹂と、蟹は、その大きな鋏はさみを伸べて、チョキンと切って落しますと、椰子の実はストンと下へ落ち、肉が破けて、核たねがあらわれました。蟹は急いで降りて、その鋏で、核をコンコンと叩たたきますと、美事に割れて、中から白いコプラが出ました。それをはさんで喰たべてみますと、渋くていけません。
﹁こりゃいけない。﹂と、蟹はブツブツ泡あわを立てました。
三
蟹かには今度はその隣りにある別の樹に登りました。けれどもやはりよい実がありません。どうしたものだろうと、なお探さがしているうち、ふと下の方で人の声がします。見れば半分裸のこの島の土人が四五人と、何か長い竿さおの先に丸い網をつけて、胴どう乱らんをさげた洋服姿の人が二人立って、木の上を見上げては指ゆびさして話しておりました。
﹁たしか、この木にいるに相違ありません。﹂と、一人の土人が申しました。
﹁そうかね。﹂と、長い柄えの網をもった人がきらりと眼めが鏡ねを光らせて、蟹の登っている枝のあたりを見上げました。
﹁成なる程ほど、あの葉のかげに妙なものが見えるようだね。﹂
すると、もう一人の洋服を着た人が申しました。
﹁じゃ誰だれか木に登って、つかまえて貰もらおうか。﹂
土人の一人は手でもって椰子の幹みきを抱き、足でもってそれを突つっ張ぱりながら、そろそろと登ってまいりました。
樹の上で椰子蟹は、始めて自分をつかまえに来たものだとさとりました。一体これまで椰子蟹は誰からもつかまえられようとしたことはありませんでした。ただ土人の子供が時に追いかけるぐらいのことでしたから、今の今まで自分をおさえに来るのだとは思わず、安あん閑かんとしていたのですが、登ってくる土人は、だんだんと近づいて来ますから、それにつれて自分もだんだん、上へ上へとのぼって行きました。そして、とうとうこれでもうおしまいというところまで来たとき、土人の手が用心しいしい、少しずつ自分の体からだに迫ってきました。もう絶体絶命です。蟹は恐ろしく泡あわを吹きながら、その大きな鋏はさみを構えて、手を出したら最後、その指を椰子の実のようにチョン切ってやるぞと待っていました。そうなると人間の方でも、うっかり手が出せません。何やら大きな声で、下の方へ申しますと、洋服を着た男が、
﹁じゃこの網を君もって、のぼってくれ。﹂ともう一人の土人に言いつけました。そこでその土人は網をもって後から登ってまいりました。もう蟹は遁のがれることはできません。網を一打ち、バッサリとやられればそれでおしまいです。蟹はその時下を見ました。高い高い椰子の樹のてっぺんから見みお下ろしたのは、深い深い底も知れない海、怪物が住まっている海でした。蟹はその中に自分も住まっているのですが、こう高いところから見下すと、不思議にぞっとする程気味が悪いのでした。で、そっちを見ないようにして、上の土人が網を受取っている暇ひまを狙ねらって、鋏をあげ、えらい勢いきおいでそいつを目がけて飛びついて行きました。べつにはさんでやろうというのではなく、ただ脅おどかしておいて、そのひまに遁にげるつもりだったのです。
﹁アッ。﹂という人の声が聞えただけ、蟹はあとはどうなったか知りません。ただ自分の体が水にザブンと音を立てて入っただけ、そしてその次には深く深く沈んで行く自分の足が、何やらふわふわと柔かいものにさわり、それから又ぐんぐん元来た方へ引き戻されたことだけをおぼえています。本当に気がついたときには、狭い暗い箱の中におりました。椰子の樹から海へ落ちたところを、すぐ網で掬すくい上げられたのでした。
四
蟹かにはこうして箱のまま汽船の甲かん板ぱんに積み込まれ、時々汐しおにつけられ、時々蓋ふたを少しあけては古臭いコプラを喰べさされました。そこには夜もなく、昼もありません。いつも真まっ暗くらで、いつも変な臭においがして、そうぞうしい音や、人の声がしております。蟹は日本から来た学者たちに生きた標本として、捕とらわれたのでした。けれども自分ではそんなことは知りません。ただいつもいつも窮屈な思いばかりしておりました。けれども一番困ったのは暗いのよりも臭いのよりも、そうぞうしいのよりも、寒くなって来ることでした。が、暑いところで生れ、熱いところで育った蟹には寒いということは分りませんでした。
﹁何だか甲こう羅らの中で身が縮んでしまう。妙に熱くて、甲羅がピリピリ痛い。﹂と、蟹は思いました。熱いくるしみだけより知らない蟹には、寒いときの苦しさもやはり熱いからだと思ったのです。
こんなことが余よほ程どながく続きましたので、蟹はすっかり弱ってしまいました。甲羅の色も悪くなり、足も二本ばかりぼろぼろになってもげてしまいました。すると或あるときでした。人が箱の蓋をしっかり閉しめるのを忘れたと見え、いっもとちがって、蒼あお白じろい光りが上の方からさして来ます。蟹は不思議に思って、大だい分ぶ不自由になった足を動かして、その光の漏れる穴のところへ行ってみました。穴はかなりに大きくて、蟹はすぐそこから這はい出すことが出来ました。
外は十二月の夜で、月が真まっ白しろい霜にさえておりました。蟹の出たのは神こう戸べの或ある宿屋の中庭だったのです。あたりはしんとしております。蟹はふしぎそうに見みま廻わしますと、そこに一本の樹があって、それに実がなっております。
﹁椰子の実だ。椰子の実だ。﹂
蟹はわずかばかり泡あわを口の端はしに吹いて、うれしそうにその樹にのぼろうとしました。実はそれは椰子の樹ではなく、その幹みきはかたく、すべすべしておりました。その上に蟹は脚あしも二本少くなっておりましたからなかなかのぼるのに難儀でした。それでも自分の好きな椰子の実の新しいのを、久しぶりで喰たべられるという考えから、一生懸命に樹に登りました。そしてその実を鋏はさみでチョキンと切って落しました。蟹は又また難儀をして、樹から降り、その実を割ってみましたが、元より椰子の実が神戸にあろう筈はずはありません。まだ見たことのない妙なものでした。そこで又樹に登って、又一つ実をチョキンと切り落しては、降りて来て、喰べようとすると、やはり同じ喰べられない実です。もう一度登ってチョキンと切り落して、降りて喰べようとすると、やはり喰べられない実です、こうして幾度も幾度も登ったり、降りたりして、もう樹の上にはたった一つだけしか実が残らなくなったとき、無理をしていた蟹の力はすっかり尽きて、高い梢こずえからぱたりと下に落ちてしまいました。
夜よがあけました。宿屋の人が起きてみると、風も吹かなかったのに、どうしたものか庭には柘ざく榴ろが一ばいに落ちておりました。そうして靴くつ脱ぬぎ石いしの上に鋏の大きな蟹が死んでいるのを見ると、学者たちを呼んでまいりました。
﹁かわいそうに、柘榴を椰子と間違えたのだよ。﹂と、一人が言いました。
﹁潰つぶれてしまったけれど、まだ形だけは残っている。アルコール潰づけにしよう。﹂
可かわ哀いそうな椰子蟹はとうとう瓶びんに入れられて、或ある学校の標本室に今でも残っております。