一
雪の降る日でした。
吉よしちやんは机について学課のお浚さらへをしてをりました。障子の立つてゐる室の内は、薄暗くて、まるで夕暮の様でした。外にはまだ盛んに雪が積るらしく、時々木の枝からさら〳〵と雪の落ちる音が聞えました。
﹁アヽ〳〵〳〵﹂
吉ちやんは大きな口をあけて、欠あく伸びをしました。ふと誰だれやら自分を呼ぶ声がしますから、振り返つてみますと、暗い片かた隅すみに、白いお鬚ひげの長く垂れたおぢいさんが、蝙かう蝠もり傘がさを手にもつて、立つて居りました。
﹁僕ぼくを呼んだのは、あなたですか。﹂
吉ちやんは不思議さうにきゝました。
﹁あゝわしが呼んだ、お前は大変勉強するね、少し休まないか、面白いものを見せてあげるよ。﹂
吉ちやんは変なおぢいさんだ。一体どこから、いつ来たのだらうと思ひました。けれども全然見知らぬ人でもないやうでした。
﹁あゝさう〳〵。﹂
と、吉ちやんはその時不意に思ひつきました。
﹁あなたは去年のクリスマスに、青年会館に出てゐらした、サンタ・クロースですね。﹂
おぢいさんは、につこり笑ひました。
﹁似てゐるかも知れないが、ちがふよ。わたしはねえ、オレ・リユク・ウイといふ名さ。﹂
﹁へえ、やはり西洋人ですね。﹂
﹁いや、西洋人でもなければ、支しな那じ人んでも日本人でもない。夢の国にゐるものだよ。﹂
﹁夢の国? そんな国がありますか。﹂
﹁あるとも〳〵、わしの名はそれに因ちなんだものだ。オレ・リユク・ウイといふのは、日本の言葉で言へば、眼めをつぶれ、といふことだよ。お前もちよつと、わしの国へ行つてみないか。﹂
﹁えゝ有難う、でもこんなに雪が降つちや、外は路みちが悪いでせう。﹂
﹁いゝえ、外へ出なくてもいゝのだよ、只ただそこへ坐すわつたまゝ、この傘の下に入れば、直すぐ行かれるんだ、いゝかね、ほうれ。﹂
オレ・リユク・ウイのおぢいさんは、さう言つて、手にもつた蝙蝠傘をひろげて、吉ちやんの頭の上にさしかけました。
それは綺麗な不思議な絵をかいた傘でした。子供の顔をした花やら、人間のやうに歩く動物やら、まだみたこともない形や色をしたものが、沢山にかいてありました。しかも、それが活動写真のやうに、動くのでした。
﹁これが夢の国ですか。変なところですねえ。日本とはまるでちがつてゐる。﹂
吉ちやんが言ひますと、オレ・リユク・ウイは、
﹁日本のやうなところもあるよ。そこが見たければ、つれて行つてあげるよ。ちよつと眼をつぶりなさい。﹂
と、言ひました。
二
﹁あゝ本当に不思議々々々。﹂
と、吉よしちやんは叫びました。
﹁おぢいさんこゝはどこ? えゝ? 浅草の観音様?﹂
﹁さあ、さうかも知れない。夢の国の処ところの名はむづかしいから、言はないで置かう。﹂
﹁あれ、あすこに石の鳥居が見えますよ。けれども仲なか見み世せはありませんね。﹂
﹁うん、そんなものはない、けれどもね、一つお前に言つて置くことがある。それはお前にどつさりお土産をやらうといふことだ。併しかし、わしのいふとほりにしなければいけないよ。いゝか、あの鳥居が三つあるから、そのうちの一番目のでも二番目のでも、そこにあつたものは、お前が取つてもいゝ。けれどもそんなものは本当に、お前のためにならんから、欲しくても取らないで、三番目の鳥居に行つてから、始めて取るのだよ。それではわしはこゝで失敬する。日本へ帰るのはわけはない。お土産さへ取れば、あとは独りで帰れるから。﹂
オレ・リユク・ウイはさう言つたかと思ふと、ふとその姿を消してしまひました。
一番目の鳥居に来てみますと、果して、そこに一つの豆自動車がありました。けれどもその自動車は、あたり前の形をしてゐませんで、前の方が竜の首になつて、乗るところは丁度その背中に当るところでした。そして金と銀とで全体ができて、いろ〳〵の宝石、ダイヤモンド、紅ルビ玉ー、碧サフ玉アイヤ、エメラルドなどでかざつて、ぴか〳〵光つてをりました。
﹁おや、珍らしい自動車だなあ。﹂
吉ちやんは思はず、足をそこに止めて、見とれてをります。
﹁僕ぼくもこんな自動車が一つ欲しいな。﹂
おぢいさんの言つたことなんか忘れて、吉ちやんは、欲しいと思ひました。すると、直すぐに、
﹁さあ〳〵お取んなさい〳〵〳〵〳〵、お取りになれば、あなたのものですよ。誰だれも何とも言ひはしませんよ。﹂
と、竜の首になつてゐるところが、不意に口をきゝました。
吉ちやんはびつくりしました。
﹁おや、不思議な自動車だ、物をいふのねえ。﹂
﹁えゝ、この国のものは、何でも物を言ひますよ。﹂
﹁さうかね。――うん、僕欲しいね、この自動車が――。それでもオレ・リユク・ウイのおぢいさんが、一番目の鳥居のものは、取つちやいけないつていひつけたから……﹂
﹁なあに、あのおぢいさんの言ふことなんか当てになりやしません。早くお取んなさい。まあ乗つて御覧なさい、私わたしは一時間に千里走りますよ。﹂
﹁千里! 一時間に? うん、ぢや乗つてみよう。でも僕のものにするんぢやないよ。でないとおぢいさんに知れると悪いから。﹂
﹁只ただ乗るだけですか。﹂
と、自動車の竜は、ちよつと首を傾げました。
﹁困りましたなあ。そして乗つてしまつたら、あとは置いてけぼりにされるんですか。﹂
﹁だつて外にもつといゝお土産があるから、オレ・リユク・ウイのおぢいさんが、取つちやあいけないと言つたもの。﹂
﹁では仕方がありません。あなたが飽あきがくるまでお乗りなさい。どうせ私わたしはあなたのおうちまでは行かれないのですから。それに二番目の鳥居へあなたは行くんでせう。二番目の鳥居までは遠いですよ。﹂
﹁どのくらゐあるの、遠いつてのは。﹂
﹁十里あります。だからお乗りなさい。﹂
﹁でも、ハンドルが無いぢやないか。﹂
﹁はゝゝ﹂
と、自動車は笑ひました。
﹁この国ぢやハンドルなんて、面倒くさい馬鹿げたものは有りません。あなたが乗りさへなされは、自動車はひとりでに、どこへでもあなたのお好きなところへ行きます。飛行機のやうに空にでものぼります。﹂
吉ちやんはそのいふとほりに自動車にのりますと、自動車はふはりと宙に浮いて、またゝくうちに、二番目の鳥居の前にとまりました。
三
第二の鳥居には吉よしちやんの身のたけほどある大きな人形が、立派な洋服を着て立つてをりました。吉ちやんが自動車から出るのを見ると、
﹁あゝよく来てくれたね、君の来るのを待つてゐたのだ。﹂
と、声をかけました。
﹁おや、君は僕ぼくを知つてゐるのかい。そして君は人形ぢやないか。どうしてそんなに物が言へるの。﹂
﹁はゝゝ﹂
と、人形は笑ひました。
﹁この国ぢや何でも物を言つて、何でもひとりで動くのだよ。そんなことをきいてゐるよつかも、早くこの服を着てくれ給たまへ。僕困つてゐるんだ。﹂
吉ちやんは首を横にふりました。
﹁そんな追おい剥はぎなんか僕出来ない。それにオレ・リユク・ウイのおぢいさんが、二番目の鳥居のも、取つちやいけないと言つたんだもの。﹂
﹁あのおぢいさんの言ふことなんか、当てになるものかね。いゝから僕があげるといふのだ。追剥ぎぢやない。どうか取つてくれ給へ。﹂
吉ちやんも、洋服がとうから欲しかつたのでした。けれども吉ちやんの家うちは、お金のあるうちでなかつたので、それがなか〳〵出来さうにもなかつたのです。ですから吉ちやんはこの人形の洋服が、ばかに欲しくなりました。何しろ立派な服でしたから。吉ちやんは大臣や、陸海軍の大将の服でも、こんなに沢山金モールがついて、勲章がかざつてあるとは思ひませんでした。
﹁ではねえ、僕に貸してくれ給へ。きたないけれど、その間僕のきものを着てゐてねえ……三番目の鳥居に行くまでゝいゝのだよ。お土産ができたら、僕直ぐに家うちへ帰るのだから。﹂
﹁あゝいゝとも〳〵。さあ〳〵着給へ、着給へ。﹂
人形はさつさと立派な洋服を脱いで、吉ちやんに渡しました。そして裸になつたまゝ、吉ちやんの着物なんか着ないで、そのまゝよた〳〵といつてしまひました。
﹁まあをかしな人形だ。寒くはないかしら。﹂
﹁いゝえ。﹂
と、傍そばから竜の豆自動車が口を出しました。
﹁この国ぢや、寒いことも、暑いこともないのです。尤もつともあなたのやうな外国人は別ですがね。外国人だとそんなこともあります。けれどもさうなると、直ぐその国へ追ひ出されて、もう一度オレ・リユク・ウイのおぢいさんが、迎ひに来ないうちは二度とこゝへ来られません。さあ、そんなことはどうでもいゝです。早くお乗りなさい。三番目の鳥居に行きませう。﹂
三番目の鳥居は木のぼろ〳〵にくさつた小さな鳥居でした。吉ちやんはがつかりしました。
﹁なんだ、こんな汚ない、ちいぽけな鳥居か。おまけにお土産になるやうな良いいものは、一つもないぢやないか。﹂
﹁だから私わたしが言つたでせう。﹂
と、竜の豆自動車は申しました。
﹁あのおぢいさんの言ふことなんか、当てになりやしませんよ……私わたしを拾つたからこそいゝのです。でなかつたら、お土産なんかありやしません。﹂
﹁本当だね、ぢや帰らう。﹂
吉ちやんは自動車にのりかけると、
﹁もし〳〵。﹂
と、呼びかけるものがありました。見ると、鳥居の根にポケツトの中に入れるぐらゐの、煤すすけた大黒様がありました。
﹁吉坊〳〵、お前わしを忘れちやいけないよ。わしを拾つていかなければいけないよ。﹂
大黒様は、かなりはつきりした声で申しました。吉ちやんは頭を掻かきました。
﹁あなたは汚ないね。取つたら、手がよごれるでせう。﹂
﹁よごれたつてかまはない。わしをポケツトに入れなさい。﹂
吉ちやんは困つて、竜の豆自動車にきゝました。
﹁どうだらう。大黒様をつれて行つたものだらうか。﹂
﹁さあ、どうでも。﹂
と、自動車は言ひました。
﹁あなたのお心まかせです。けれどもこの大黒様は、もう千年も年を老とつてゐますから、何でも物をよく知つてゐますよ。だからこの国を旅なさるんなら、つれて行つた方が便利です。﹂
﹁さう、ぢや仕方がない、つれて行かう。﹂
吉ちやんが大黒様を拾つて、ポケツトに入れると、手にも服にも真黒に煤すすがつきましたから、いやな顔をして、払つてゐると、大黒様はそつと頭をのぞけて、にこ〳〵笑ひ、
﹁そんなことを気にしなさるな。いまにもつといゝものをあげるから、それよつかも、お前は大事なものを拾はない。あれ、あすこにおしやもじが落ちてゐる。あれが大変な宝だ。早く、こゝへ持つて来なさい。﹂
そのおしやもじは、一方は焼け焦げになつてゐる汚ないものでした。吉ちやんは、馬ば鹿からしいとは思ひましたが、何でも知つてゐる大黒様のいひつけですから、仕方がないから、拾つて別のポケツトに入れました。
﹁さあ、今度はちつと、遠くへ行かう。﹂
と、大黒様は言ひました。
﹁おい自動車、一万里の速力になつて、千里さきへ行つてくれ。﹂
﹁へい、畏かしこまりました。﹂
自動車は、目にもとまらぬ速さで、プーンと空を飛びました。
四
千里さきは妙な国でした。
そこでは、みんな人でも物でも逆さまになつてゐました。両足を天にあげて、もが〳〵さして苦しさうなのです。そして人は口々に、
﹁あゝ苦しい〳〵、助けてくれ〳〵。﹂
と、言つてゐました。
﹁どうしたんでせう、大黒さん、なぜあんなに逆さまになつて歩くんでせう。﹂
吉よしちやんはびつくりしてきゝました。
﹁こゝか。﹂
と、大黒様が申しました。
﹁こゝは鏡の市といふところさ。やはり夢の国のうちなんだよ。だがね、こゝで一つ面白いことをして遊ばう。あの逆さまの人や物を、ひつくり返してみよう。お前あのおしやもじを持つてゐるね。﹂
﹁えゝ、こゝにあります。﹂
﹁それを出して、焼けてゐない方を前へ向けて、クウル、クリイル、ケーレと呪じゆ文もんをとなへるのだ。いゝか、やつてみなさい。﹂
吉ちやんはそのとほりにしますと、不思議〳〵、音もしないで、ピヨコリと、人でも物でも皆当り前になりました。するとそこいらにゐた人ひと達たちが、うよ〳〵と自動車のまはりへ集まつて来ました。
﹁有難うございます〳〵。あなたのお蔭かげでみんなが、ちやんとなつて助かりました。あなたは神様でございます。﹂
一人々々ぺこ〳〵とお礼を言ひます。そのうちに一人の立派な服を着た人が、その中から進み出て、丁寧にお辞儀をいたしました。
﹁私わたしは、この市まちの長をつとめてゐる者のところから参りました。あなたがみんなの難儀をお救ひ下さいましたから、お礼に御ごち馳さ走うをしたいと申してをります。どうぞおいで下さいませんか。﹂
大黒様はポケツトの中から、行くと言ひなさいと、すゝめますから、吉ちやんも、では行きませうといつて、その男に案内さして市長のうちへ行きました。
市長のうちは大変立派な、大きなお城でした。けれども不思議なことには、何だかごた〳〵してゐて、吉ちやんをうつちやらかしたまゝ誰も出て来ません。
﹁大黒様。﹂
と、吉ちやんはもう何でも大黒様にきゝさへすれば分ると思つてゐます。
﹁どうしたのでせうね、この騒ぎは。それに、お客様の僕ぼくを、誰だれもかまつてくれないぢやありませんか。﹂
﹁うん、これか。﹂
と、大黒様は申しました。
﹁これはいつもあることなんだ、世界がひつくり返つたときには。――いまに分るよ。﹂
言つてゐるうちに、立派な服に、左の腕に黒い布をまいた人が出て来ました。その顔は蒼あを醒ざめてをりました。
﹁私わたしが市長でございます。﹂
と、その人は丁寧にお辞儀をして申しました。
﹁あなたのお蔭かげで、私わたし共の世界が元どほりに、真まつすぐになりましたことは、誠に御礼の申さうやうもないことでございます。で、ほんのお礼のしるしばかりに、宴会を開きましておいでを願つたのでございますが、とんでもないことが一つ起つて、大変失礼いたしました。﹂
﹁はあ、さうですか……成程、あなたの顔はあをいですよ。一体どんなことが起つたのですか。﹂
と、吉ちやんはもつたいらしく大人ぶつて言ひました。
﹁えゝそれはあなたに申しかねますが、実のところ、私わたしの一人娘が、今度世界が元へもどる拍子に、どこか身から体だをぶつけたと見えて、死んでしまつたのでございます。﹂
吉ちやんが何かいはうとすると、大黒様がポケツトの中から小さな声で、
﹁そんなことなら、僕が直すぐよくしてあげますと言ひなさい。﹂
と、勧めました。
﹁さうですか、えゝと、では僕がよくしてあげませう。﹂
と、吉ちやんはえらさうに言ひましたので、市長は大変悦よろこびまして、吉ちやんをつれて娘のところへ来ました。大黒様はみんな人を去らしてしまへと、小さな声で吉ちやんに言ひますので、吉ちやんは、
﹁ではちよつとみんなこの室へやを去つて下さい。そして私わたしがよしといふまで、見てはいけません。﹂
と、いひつけました。
皆みんなが去つてしまふと、大黒様がまた言ひました。
﹁またそのおしやもじの焼けない方で、娘の顔を撫なでるのだ。クウル、クリイル、ケーレと三べんとなへて――。早くしなさい。﹂
吉ちやんがそのとほりにしますと、娘はすぐ甦よみがへりました。
五
そこで市長は吉よしちやんを大きな広間につれて行つて、沢山な御ごち馳さ走うをしました。電燈がぴかぴかと宝石にうつつて輝き、オーケストラの音楽が鳴りひゞく。それに綺きれ麗いに着かざつた紳士や、貴婦人が、よく活動写真で見るやうに、ダンスをしてゐます。吉ちやんは喜んで御馳走をたべながら、それを見たり聞いたりしてゐました。するとふと妙なことを考へ出しました。
それはこんな綺麗な人ひと達たちが、前のやうに、逆さまになつたら、どんなものだらうか。どんな顔をするだらうかといふことでした。よく子供は股またの間から、逆さまに世界を見るものです。吉ちやんは股の間からではなく、ちやんとしたまゝ、世界の逆さまになつたのを見たくて仕方がなくなりました。そこで、大黒様には内しよで、そつと、例のおしやもじを出し、今度は前とは反対に、焼け焦げた方を少し向けてみますと、果して考へたとほり、舟がゆれるやうにみんなが一方へ傾きました。
﹁うん、これは面白いぞ。やあ変な顔をしてゐる。そら元へ返してやるぞ。﹂
吉ちやんがおしやもじの焼けない方を向けると、また皆みんなが元気よく、踊つたり、跳ねたりします。焦げた方を向けると、皆な傾いて、心配さうな顔になる。吉ちやんは面白がつて、おしやもじをヒヨイ〳〵向けかへてゐるうち、ふと手に力が入りすぎて、焼けた方を向けますと、さあ大変、部屋も人もみんな宙がへりをして、それと一緒に吉ちやんもすてんとひつくりかへりました。びつくりして目がさめると、吉ちやんは自分の机に頭をつけて、眠つてゐたことが分りました。