みごとな女

森本薫




  





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調()()()
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真紀 (縁づたいにきて通り過ぎそうになって気がつき)おや。あさ子、あなた何時いつ帰ったの?
あさ子 たった今よ。薬局ん中でみてたんじゃないの。
真紀 いいえ、ちっとも知らなかった、母さん。
 
真紀 それはいいけれど。また行かなかったのね。(にやりとする)
あさ子 あら母さん、行ったわよ。
真紀 お弁当を届けさせたら、おいでになりませんって、変な顔して帰ってきたよ。ほんとは何処どこかで遊んでたんだろう。
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真紀 お裁縫は厭だし、丁度幸いと言うところね。
あさ子 でもお友達がそう言うもの仕方がないわ。おつきあいよ。
真紀 此の間お師匠さんにお目にかかったら、何て仰言おっしゃったと思う? あなた。
あさ子 なんて?
真紀 そう。可哀そうだから。
  
真紀 何です? それは。あなたいくつ?
あさ子 だって。じゃ言って呉れる?
真紀 薬学校の方じゃ優等生だったそうですが、お裁縫の方じゃ劣等生です、って。卒業の見込無いそうですよ。
あさ子 まあ! 嘘でしょう。
真紀 自分でいてみるといい。
あさ子 あたしが訊いたら、そのとおりって仰言るにきまってるわ。
真紀 自分でわかってれば、それでいいさ。
あさ子 そうじゃないの。
真紀 あなた、自分で、いけないって言われることがわかってれば、少しは精を出すものよ。
あさ子 違うんだったら、母さん。お師匠さんはあたしを揶揄からかうのよ、そんな風に言って。
真紀 あきれたひとだ。それで、あなた自分では一人前の腕のつもり?
あさ子 卒業の見込み無し、ってほどではないと思うわ。
真紀 (あきれた感じで)ふむん!
あさ子 何よ、母さん。
真紀 だってあなた。(笑う)
あさ子 厭な母さん。
真紀 あなたのお裁縫は、私が見たって、到底とうてい卒業の見込みはありゃしないよ。
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真紀 そうかな、女学校の時分だって、大概母さんが代ってやっていたようよ。
あさ子 そうだったかしら。
真紀 厭だよ、のひとは。そうだったかしらもないわ。
あさ子 でも、古い話だから憶えてやしない、あたしは。
真紀 させられた方で忘れないからいい。
あさ子 母さんは物憶えのいい方よ、どっちかって言うと。
真紀 あなたにはかなわない。
あさ子 どうして?
真紀 どうしてでも。(笑う)
あさ子 (わけわからずに笑う)
間。
真紀 もう出来るの? それ。(あさ子の持っている人形をあごで示す)
あさ子 も少し。
真紀 今、何処をやってるの?
あさ子 裾廻すそまわしんところ。
真紀 此の間中のと、また違ってるの?
あさ子 ――。
真紀 ねえ。
あさ子 え?
真紀 また違うのをやってるのかい?
 
真紀 だってあなた、さんざんひとにしゃべらせといてちっとも聴いてやしないじゃないの。
あさ子 だから、何よ。なに言ってたの、今。
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真紀 だからさ、一体どうする考え? そんなに次から次へお人形の着物ばかりこしらえて、お人形屋でも出すつもり?
あさ子 出来たら、そうしたいわ。
真紀 そんなこと言って、母さんを揶揄うんじゃないでしょうね。
あさ子 どうして?
真紀 どうしてって、そうじゃないか。
あさ子 でも、あたし、することがないんだもの。
真紀 することならいくらでもあるじゃないの、他に。
あさ子 どんなこと、じゃあ?
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あさ子 そうかしら。
真紀 贅沢ぜいたくよ、あなた。
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真紀 ――。
 
真紀 お嫁入りなすった方かい。
あさ子 医学部の研究室にいるひとよ。
真紀 ――。
あさ子 あたしもしばらく、あそこにいたわね。あたしが家へ帰ることにきまったので、代りにあのひとが行ったのよ。
真紀 あなたは、今でもやっぱり、あの、理化学研究所に入らなかったことを、何とか思ってるんじゃない?
あさ子 ――。
真紀 そりゃ、惜しいには惜しいだろうけど、先生方もあんな風に言って下すったのだし。
あさ子 (笑って)母さん、あたしもう何とも思ってやしない、それなら。
真紀 そう、そんならいいけど。
間。
 
真紀 どうして、そんなのを持って帰るのだい、あの人。
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真紀 変梃へんてこな所はあなたの感じが出てるんだろう、きっと。
あさ子 ひどいわ、母さん。
真紀 あれで、いろんなことをやってみるらしいね。
あさ子 収さん? 建築の写真なんか集めてるのよ。
真紀 文学部なんだろう。
あさ子 ほんとは芝居の勉強がしたいんだって。
真紀 芝居って。あの芝居かい、歌舞伎やなんかでやっている。
あさ子 さあ、あたしにもよくわからないんだけれど。
真紀 変なものをやるんだね。他にすることがありそうなものを。
  
 
あさ子 文学?
真紀 あんまり好きじゃないね。
あさ子 あたし達は解らないのよ。家じゃ、みんな化学なんだもの。
真紀 それで、あなたにも始終しょっちゅうそんな話をするの文学とか、芝居とか。
あさ子 ちっともよ。あたしがそんな話をし出すと妙な顔をするのよ。
真紀 解からないときめてるんだね。
あさ子 きまりが悪いのよ、きっと。あかい顔するのよ。
 
あさ子 話なんてしやしない。
真紀 でもピアノのお稽古が済んだらぐ帰っちまうってわけじゃないでしょう。先生がお帰りになってからだってあなた達、随分、調子にのってお喋りしてるようよ。
あさ子 母さん大概そばにいるじゃないの。
真紀 いない時のことよ。
あさ子 いない時だって、おんなし。
真紀 昨日はお天気だったが明日は雨だろう、とか、家の二階の梯子段はしごだんは十二段だけれどあんたんところは何段ですって話だの、そんな話ばかりかい。
あさ子 そんなに何時も何時もお天気の話ばかり、しやしない。
真紀 あなたのは、大概そのへんよ。
あさ子 (睨む)まあ。

あさ子 母さん!
真紀 私が言うのよ、それは。わるい癖よ。
あさ子 はばかりさま。
真紀 いくつだい、収さん。
あさ子 (ねて)しらない。
真紀 二十、四?
あさ子 三。
真紀 じゃ、一つ下ね、あなたより、そうは見えないねえ。
あさ子 けてみえる方ね。
真紀 男はその方がいいんだよ。
あさ子 女は?
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あさ子 え。
真紀 あの時、何方どなたかに会ったあすこで。
あさ子 いいえ。
真紀 そう。
あさ子 よし子さんのお兄さんって、あんな方あたししらなかった、あの時迄。
真紀 会ったのかい。その方に。
あさ子 鈴木内科へ出てらっしゃるんですって。
真紀 弘さんて方だね。
あさ子 あら母さん知ってるの?
真紀 そりゃ……あなたの知らないことで私の知ってることだってあるさ。
間。
真紀 (何か云いそうにする)

あさ子 来た来た。
真紀 (驚いて振返る)あら。
収、笑って一寸頭を下げる。
真紀 なんです、あさ子。来た来たって何?
収 兎を追い出してるつもりですよ、おばさん。
真紀 ほんと。失礼よ。
あさ子 (大きな声で笑う)
収 しからんね。他人が入ってくると、いきなりげらげら笑うって法があるかい。
あさ子 今ね、今、あんたのことを言ってたの。
真紀 あさ子。
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真紀 嘘よ、あさ子がそう言ったの。
あさ子 あら、あたしじゃないわ。自分こそ。
収 どうも大変な所へ入って来たらしいなあ。逃げ出した方が無事かな。
あさ子 大丈夫よ。そんなにいけないことじゃないの。
収 どうだか。
真紀 ほんとに、どうだかしれやしない。(笑う)
収 (あさ子に)あなただね。悪口言ったのは。
あさ子 違うったら。
収 そうに違いない。わかってるさ。
あさ子 (睨む)まあ。
収 睨んだって恐くないよ。
真紀 (あさ子に)ほら、その次は。
収、指先で眉を内から外へ撫でつけてみせる。
真紀 駄目々々。たった今叱られたばかりよ。
 
あさ子 いいわよ。君とは今日はもう口をきかないから。
 
 
収 用じゃないんです。(包を出して)礼儀上到来物とうらいものですって言うんだって、中味は「藤屋」の……。
あさ子 羊かん?
収、真紀、「おや」と云う顔。
真紀 (あさ子に)何か言って?
あさ子 (笑って)いいえ。
真紀 母さん、相変らずお忙がしい?
収 そう云ってますね。口癖です。
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収 向うでも、そ言ってましたよ。あちらは閑人ひまじんだからって。
真紀 閑人? ひどい事言うね。家は商売があるから……何と言ってもあなたのお家の方がやっぱり閑よ。
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あさ子 収さん。坐らないことに決めたの?
収 う……うん。僕もそう思ってるんだが、一向いっこうお許しが出ないし、それに場所も(あたりを見廻す)
真紀 御免々々。うっかり。(立ち上る)
収 よろしよろし。(ピアノの前に行き、その椅子をげてくる)
奥さん奥さん、と外でよぶ声。
あさ子 母さん、よんでる。
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収 (人形をみて)相変らずだな。
あさ子 楽譜持って帰ったでしょう、此の前の時。
収 そうそう。言わなかったかな。
 
収 使い道は一つじゃないよ。あれ無しじゃ弾けないのかい? まだ。
あさ子 自分だってそうのくせに。
収 冗談だろう。
あさ子 弾ける?
収 ああ。
あさ子 ほんと?
収 あなたとは、少し違うね。
あさ子 まあ。
収 まあ、って何だ。
あさ子 だって、まあだわ。
収 おやおや。
あさ子 おやおやでもないわ。
収 まあ、なんだね。(二人笑う)
真紀。
真紀 あさ子、あなた分ってるんでしょう、小宮さんの風邪薬。
あさ子 アミノピリンを抜くのよ。
真紀 それだけじゃ、わかりゃしない。
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真紀 (坐りながら)あれだけがあの人の取柄とりえ
収 一つ、身についた取柄があれば、大したものじゃありませんか。僕みたようなのもいるんだから。
真紀 あなたはそうでもないらしい。
収 何故?
真紀 あさ子なんか、始終しょっちゅうめてますよ。
収 あれは言えないんだ。悪口なんか、考えつかないんですよ。
真紀 悪口さえ一人前言えないってことになるじゃないの。
収 自慢してもいいと思うけれど……。
真紀 そうだろうか、どうして。
収 理由なく。いや、有りますよ、理由は。
真紀 好みの問題ね。
収 そうとばかりは言い切れないな。
真紀 他人事だからよ。あんたは。
収 まあ、そう言って言えないこともないけれど。
真紀 世間ひととおりの事をさ、あんまり知らなさすぎると思うの。それが……。
収 しかし、何処へ出してもそのままで押しとおせる世間知らずってのはねえ……。
真紀 ああ。
収 いいんですよ、そりゃ、素的すてきじゃありませんか。
真紀 そう言うと、あなたは知ってるように聞えるけれど。
収 知りません、僕は。
真紀 お話にならない、それじゃ。
収 おばさん知ってそうですね。
真紀 そうね、年のひらきだけは。
収 案外簡単なものなんだな、それじゃ。
真紀 莫迦ばかにするんじゃない。
収 どんなものです?
真紀 世間?
収 ええ。
真紀 世間は……
収 世間でしょう。
真紀 まあ(そうさ)。
収 苦しくって。
真紀 ふん。
収 悲しくって。
真紀 ふんふん。
収 醜くって。
真紀 ――。
収 下品で。
真紀 時々はいいこともあるさ。
収 いいこともね。それだけ?
真紀 まだまだあるねえ。追々おいおい分かる。
収 やっぱり、予備知識はりませんね。
真紀 追々って言うのは……。
収 要る時が来ればわかる、と言う意味でしょう?
真紀 その時が来てもわからないと言う人間は?
収 要らない人か、莫迦か、どちらかでしょう。
真紀 あさ子は莫迦の方なの?
収 前の方じゃないですか。
 
収 それは悪者ですよ、そう言う奴は。(笑う)
真紀 随分いるじゃないの、そう言うのが。
収 そりゃ仕方がないな。それに悪者だとか悪運だとか言う奴は気を配ってる人ほどつかまり易いんじゃないんですか。
真紀 理屈を言ってるのよ、あなたは。
 婿
真紀 貰い手があればねえ。
収 ありますよ、いくらでも。おばさんの方で惜しがってるだけじゃないの。
真紀 お裁縫ひとつさせてもね、あたしが気をつけないで放っとくと、袖口迄縫いつめてしまうの。そんなのよ。
収 まさか。
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収 そういう所へやればいい。それを承知の……と言うより、そう言う所を買ってくれる。
真紀 ないでしょう、そんなの。生煮えの御飯を食べさせられてにやにやしてるなんて……しあったとしたら、少し気味が悪いわね。
収 そんなこと言ってて、じゃ一体どうするんです。放っといたらだんだん遅くなるばかりじゃありませんか。
真紀 さ、だからさ……。
間。
真紀 あれで、理化学研究所だけは、当人よくよく這入はいりたかったらしいのね。
収 そうでしょう、そりゃ。
真紀 何か言って? あなたに。
収 いいえ。
真紀 口を合わせてるようね。
収 ?
真紀 あなたが文学の話をするのかって訊いたら、やっぱり、いいえ、って。
収 だってほんとだもの。気になるんですか、それが。
 
収 僕はやはり、これでいいのだと思うけど。
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収 一々押し切るようだったら、一層困るんでしょう。
真紀 そうかもしれない。でも、あんなのも、今時ねえ。
 
真紀 なに? 独合点ひとりがてんじゃわからない。
収 研究所へ入っておいた方が、おばさんの、ほら、世間知らずで押しとおれたかもしれないと思うんだけれど。
真紀 そこが難しいところね。女ってものは結局、あれだ、つまり……。
収 そう、それなら同じことです。これでいいんですよ。
真紀 どうするつもりだろう。あんなに人形ばかり慥えて。
収 含む所有るように見えるんですか。
真紀 まさか。でも何にも言わないから。
収 言うことが無いからでしょう。
真紀 簡単ね、あなたのは。
収 そんなに気になるかなあ。
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収 何とも思ってやしませんよ。そんなんじゃない、あれは。
真紀 あさ子の理解者ね、あなたは。
収 あのひとのすることならすべて賛成しますよ。
真紀 大変ね。
収 少しファンの方かな。
真紀 お嫁さんに貰って呉れるかしら?
間。
収 (静かに)おばさん。
真紀 え?
収 いや。
 
収 (笑いながら)なかなか、うまいや。
真紀 私も、そろそろ決心しなくちゃいけないかねえ。
収 ――。(笑っている)
真紀 早すぎやしないわね。二十四。
収 そうですとも。どこかお話があるんですか。
真紀 ええ、まあ。
収 いいですね。医者、やはり。
真紀 ああ。
収 あのひとの知ってるひと?
 
収 それならいい。
真紀 鈴木内科へ出てる方なのよ。
収 そうですか。それで……。
あさ子。
あさ子 母さん、電話。
真紀 (立上り)そう、何方どなた
 
真紀 そうかい。(去る)じゃ。
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収 ――。
あさ子 (椅子を卓の方へ寄せ)此の間持って帰った人形、どうして。おばさん笑ってたでしょう?
収 ――。
あさ子 厭だわ、聴いてないのね。(眉を撫でる)
収 ――。
あさ子 どうかした?
収 (思い出したように)いいえ。
あさ子 そう。だったらいいけれど。
収 あなたは何時来ても人形を慥えてるね。
あさ子 そう言う時ばかり、やって来るのよ。
収 明日お嫁入りって言う日でも、そうしてるんだろうな。
あさ子 いやだお嫁入なんて。
収 どうするんだ? 出来上ったのは。
あさ子 売りに行くの。みんな同じことを言うのね。
収 おばさんもそう言った?
あさ子 たった今よ。
収 ふ。人間の考えてることなんて、大概同じようなものだな。
あさ子 あたしは違う。
収 違う? どう違うの。
 
収 そう言う気持だけが嬉しいんだね。
あさ子 そう言うことになるのかしら。そうばかりでもないんだがな。
収 何言ってるんだかわかりゃしないじゃないか。
あさ子 そんな風に、ちゃんと考えてみたわけじゃないの。でもそう言うことになるわけね、結局。
収 結局じゃない。始っからそうだ。
 
 
  
 
あさ子 それは、そう。女だものね。
収 そらみろ。
あさ子 なあに?(笑う)何、威張ってるの?
収 あなたは、どんな人と結婚したいんだ、医者か。
あさ子 さあ。
収 はっきりするんだ、法学士の外交官か。
あさ子 ――(笑っている)
 
あさ子 医学部の人って、遊ぶんじゃない?
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あさ子 概してよ。
収 概してなんか知るものか。そんな統計って見たことが無い。
  
収 しらんね。結婚しない間にそう言うことを考えられるのは女だけだろう。
あさ子 あたしのお友達なんか、全然反対の仕事をしてる人と、お互に助け合って行くのが、本当の生活だって言うんだけど。
 
あさ子 あんただったらうする? 若しも、あんたがあたしだったら。
収 何うしてそんなことが訊きたいんだ。
あさ子 訊くだけだったらいいでしょう。
収 参考のために?
あさ子 はは。
収 笑いごとじゃない。大変なことだ。
あさ子 だから訊いてるのよ。
収 そんなこと訊いたって仕方がないよ。
あさ子 どうして。
 
あさ子 子供じゃないもの、もう。
収 (感じ入って)ああ、成程。
あさ子 (わけがわからず)ほんとよ。(平気で)平凡ね、私の考。
収 大変いいと思うよ、それは。
あさ子 軽蔑するでしょう。
 
あさ子 え? 何て言ったの?
収 いいことだ。君の知らない……。
あさ子 変よ。
収 そうかな。
あさ子 変だわ。
収 (立上り)どら、帰ろう。
あさ子 もう帰るの。
収 話すことも無いらしいからね。
あさ子 いつもね、それは。来週月曜日は来るんでしょう、お稽古。
収 来られないだろうと思うんだ。
あさ子 再来週さらいしゅうは?
収 多分。
あさ子 じゃ、またそん時ね。
収 来られないだろう。その次も、それから後もずうっと。
あさ子 あら、どうして?
収 (れったく)どうしても糞もあるもんか。来られないと言ったら来られないんだ。
あさ子 (立上り、大きな声で)母さん母さん!
収 (驚いて)なんだ、そりゃ。
あさ子 母さんをよぶのよ。
収 よぶのさ、大きな声だからね、あなたの声は。よんでどうするのだ。
あさ子 よぶだけよ。
収 じゃ、よばなくたって、同じじゃないか。
あさ子 (笑って)なら帰るなんて言わないか。
収 ――。
あさ子 母さんは、あたしのしようと思うことは何でも、黙ってしてくれるから。
 
女中。
女中 よし子様のお兄様がいらっしゃいましたけれど……
あさ子 あたしじゃないでしょう。母さんいるんでしょう。
女中 ええ、でも奥さまが、そう……。
あさ子 そう。
女中、去る。
収 お客様らしい。やっぱり帰らなくちゃ。
 
収 だって、僕の知らない人だ。
あさ子 大丈夫よ。紹介したげるから。
収 して欲しくないよ。よく知ってる人?
あさ子 一度逢ったの。
収 紹介もすさまじい。一度逢った人か。(立上る、あさ子も)
真紀、弘。弘、三十三。
真紀 どうしたの? 立ちはだかって。
あさ子 帰るんだって、急に。何だか、怒ってるみたいよ。
 
収 しかし、遅くなると。
 
弘 いいじゃありませんか、ごゆっくりなさい。私が入ってもいいでしょう。
あさ子 そおら、言わないことじゃない。
収、あきらめて坐る。
女が[#「女が」はママ]椅子を持込んで去る。
 
あさ子 そうですか! やっぱりあたしの言ったとおりでしたの。(弘の差出す紙片を手にとって)まあ、ほんと。
 ()
あさ子 あたし忘れていましたわ。此の間は、どうも御馳走さまでした。
弘 や、どうも。
真紀 なあに、突然びっくりするじゃないの。
あさ子 (母を睨む)いいわ、母さん。(手が眉の所へ行く)
真紀 また。
あさ子 母さんこそ。
弘 ちっともわかりゃしない。
あさ子 母さん。
真紀 ん?
あさ子 先刻の電話、誰?
弘 (笑って)うまく誤魔化ごまかした。
 
弘、真紀と顔を見合せて頭を掻く。
あさ子 あら。
弘 どうも。
あさ子 (困って)あらあら母さん、どうしましょう。あたし大変なこと言ってしまった。
真紀 しらない、私はしらない。
あさ子、両手で顔を蔽う。みんな笑う。
弘 (収に)学校は、何をおやりです。
収 ……。
あさ子 独文ですの。
弘 いいなあ、そいつは。
あさ子 怠け文学部。
収 笑われた仕返しかい。
 ()
 
弘 文学は、何を専門になさるんです。
収 何って、別にきまってやしないんです。
あさ子 仰言いよ。
収 言うことなんて、ないじゃないか。
あさ子 あるんですよ、ほんとは。
弘 そりゃ、あるでしょう。
あさ子 あのね。
収 (むっとして)お喋りは止せったら。一々余計なこと言うもんじゃないよ。(あさ子舌を出す)
間。
収 どうも唇が乾いて仕方がないのですが、あれは、やはり胃が悪い所為せいでしょうか。
弘 始終そうなんですか?
収 ええ、此の頃ずっと。
あさ子 運動不足よ。
弘 出来ませんね、そりゃ。
あさ子 閑で困ってるくせに。
弘 それは、あなたのことでしょう。
あさ子 あたしはとっても忙しいのですよ。毎日いろんなことで。
弘 お茶とか花とか。
あさ子 あんなもの。
弘 おやおや。
あさ子 どこがいいんでしょうねえ。あたしなんかちっとも面白くない。
弘 やってるうちに、わかるのでしょう。
収 わかる迄には止して了うのですよ。
あさ子 しないのと同じね、止そうかしら、あたし。
弘 止すことは一番に言いますね。
女中。
女中 (あさ子に)奥さまがちょっと。
あさ子 (立上り)待っててね。
女中 お仕事は片付けましょうか?
あさ子 仕事って、(卓の上の人形をみて)ふふ、いいの。(去る。女中去る)
弘 いいですね。
収 ?
弘 あの人、あさ子さんですよ。
収 綺麗ですね。
弘 美しいも美しいけれど。
収 それに頭も悪くない、どっちかと言えば優秀です。
弘 それはそうだが。
収 優しくって温かです。
弘 ええ……優しくって、温かでもあるけれど。
収 まだ言い足りないのですか?
弘 そんな気がします、なんだか。
収 少し変なんです。誰でもみんな持ってるはずのものを持っていない。
弘 いや誰もみんなが持っていないものを持っている、そう言った方がよくわかる。
 
 
収 そうでしょうか。
弘 その点じゃ私も負けない方ですよ。
収 なに僕だってそうだが。
弘 詩だとか小説だとか、そんなものは、読まないようですね、あまり。
収 雑誌だって読みゃしませんね。芝居や映画なんてのも、生れて此の方みたことのないひとです。
弘 雑誌もですか?
収 少しひどいですか?
 
収 自分じゃ、わからないんだと思ってるんです。
弘 ほう。
収 あなたも、あのひとが好きになりそうですね。
 
 
弘 構わないでしょう。あなたはいい人だと思いますよ。
収 益々ますます驚きますね、どうしてです。
弘 そう感じたからです、見た時。
収 至極しごく簡単ですね。そんな直感を信用なさるんですか?
弘 信じますね。医者ってものは一体そう言うものです。
収 妙ですね、そりゃ。一番科学的に物を見る筈の……。
弘 あなたはどうです。
収 さあ、僕は。
弘 私はあまりよくは思われていないようですね。
収 どうしようかと思って、考えてるところです。(笑いながら)
弘 私だって、これで悪い人間じゃありませんよ。そうはみえませんか?
収 ――。
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収 若し、そうだったら、どうなさるんです?
弘 困りますね。
収 困ったって仕方がない。
弘 しかし、やっぱり困るより他、仕方が無いでしょう。私だってあの人を愛しています。
収 そうし始めたところでしょう。
 
収 そりゃ、そうですね。全く。
弘 しかし私は、あなたも好きです。
収 止しましょう、僕は年上の人に同情されるのは好まないのです。殊にその理由の無い場合。
弘 いや、まだそこ迄は行っていない。同情されるのは私かもしれない、私は……。
あさ子。
あさ子 (飲物を卓の上に置いて)どうぞ。
収 変に神妙だな。
あさ子 接待係り。
弘 いいものが出来てるでしょう、その腕で。
収 砂糖と食塩を間違えたりなんかして。
あさ子 大丈夫、みんな母さんがするんだから。
収 なんだ、運ぶだけか。
 
あさ子、笑い笑い去る。
間。
弘 万事あの調子ですね。
収 動かざること山のごとしって言う形です。ところが、あの顔がだんだん恐くなるのですがね。
弘 みてると偉いものだと言う気がするんでしょう、きっと。
 
弘 みる人にもよりますね、それは、あなたの神経ですよ、きっと。
収 あなたは?
弘 私は、ありふれた医学士ですよ。
 
 ()()
 ()
弘 そりゃ。どう言う意味です。
 
弘 私には、どうもよくわからない。なぜ、あなたは……。
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収 どうって何です?
  
 
弘 ?
収 眼中にはないのです、あの人の。僕は失恋ですよ。(笑う)
間。
 
 
弘 そうなりますね。それを押し切ることを、あなたの自尊心が許さないとすれば。
 
弘 あなたは、私のことを前から御存じだったのですか?
収 あなたのお出でになる少し前から。
弘 私があのひとと結婚したがっていると言うことも?
収 ええ。それからあのひとの母さんがそうさせたがっていると言うことも。
弘 ちょっと待って下さい。それは、また別の問題です。
収 今日、少くとも今日はそう心を決めている筈です。
弘 じゃ、あなたの気持は、もう動かないのですね。
収 ええ。
弘 若し、私がこのまま黙って帰って、二度と此処へやって来ないとしたら。
 
あさ子、少し遅れて、真紀。
あさ子 何の話、面白そうね。
収 あなたの悪口さ。言われた仕返しに。
あさ子 嘘でしょう。
収 (弘に)そうですねえ。
弘 ほんとですよ。
あさ子 ううん、あなたはあたしの悪口は言わないわ。
収 あれです。あんな気でいるんだから。
 
収 も少し、此処にいましょう。静かでいい。
 
あさ子 母さん、もう葭戸よしどを入れなくちゃ、駄目ね。
真紀 そうね。梅雨があがると、うんと暑くなるよ、きっと。
弘 入梅はいつでした?
真紀 十二日。
収 あがるのはいつです。
真紀 梅雨三十日って言うから。
あさ子 雷がなる迄よ。
真紀 此の頃は、雷が鳴ったって、なかなかあがりゃしない。
 
弘 ええ、是非一つ。
あさ子 駄目、あたし。
収 駄目だから聴きたいんだろう。巧いのなら他所よそで聴けるよ。
あさ子 自分がさきに弾けばいいでしょう。ホ短調が楽譜なしで弾けるんだから。
収 僕の後では尚更なおさら弾けなくなるよ。さあ愚図々々言ってないで。




真紀 (収に)ピアノの稽古を止すんだって?
収 ――。(笑っている)
真紀 止さなくって、いいんだろう。折角、母さんに頼んであげたんじゃないの。
 
調



弘 (笑ったまま)奥さん、あなたは今日、(収を指さし)このひとに大変いけないことをなさいました、御存知ですか?
真紀 (これも笑ったまま)知っています。でもそうするより、他に仕方がなかったと思います。
 
 
収 ほんとです。そのとおり。
真紀 何にも言わないでね、済んだことは。可哀想だから。
収 大丈夫ですよ、あのひとには責任の無いことです。
真紀 有難う。
収 僕は悪者じゃなかったでしょう。
弘 私には……どう言っていいのか……わからない。
 
あさ子 (ピアノを止めてふり返る)あら体操? 誰が体操をするの? 体操ってラジオ体操のこと?(ゆっくり眉を撫でる)あたしもしようかしらと思ってるの。

――幕――


(雑誌掲載は『劇作』昭和九年十一月、初演は昭和十三年三月)






83 
   197045451
   198156103013

   1934911


2002311
2011525

http://www.aozora.gr.jp/




●表記について


●図書カード