青銅鬼
柳川春葉
何(い)日(つ)だったか、一(ちょ)寸(っと)忘れたが、或(ある)冬の夜のこと、私は小(こい)石(しか)川(わく)区(きん)金(とみ)富(ちょ)町(う)の石(いし)橋(ばし)思(しあ)案(ん)氏の家(うち)を訪れて、其(そ)処(こ)を辞したのは、最(も)早(う)十一時頃だ、非常に真(まっ)暗(くら)な晩なので、全く鼻を撮(つま)まれても解らないほどであった、ふいと私は氏の門を出て、四五間(けん)行くと、その細い横町の先(さ)方(き)から、低く草(ぞう)履(り)の音がして、道の片(かた)隅(すみ)を来るものがある、私は手に巻(まき)煙(たば)草(こ)を持っていたので、漸(よう)々(よう)二人が近寄って遂(つい)に通(とお)過(りす)ぎる途端、私は思わずその煙(たば)草(こ)を一服強く吸った拍子に、その火でその人の横顔を一(ちょ)寸(いと)見ると驚いた、その蒼(あお)褪(ざめ)た顔といったら、到(とう)底(てい)人間の顔とは思われない、普通病気などで蒼(あお)褪(ざめ)るような分(ぶん)ではない、それは恰(あだか)も緑(ろく)青(しょう)を塗ったとでもいおうか、まるで青(から)銅(かね)が錆(さび)たような顔で、男ではあったが、頭(かみ)髪(のけ)が長く延びて、それが懶(もの)惰(ぐさ)そうに、むしゃくしゃと、顔のあたりに垂れているのであった、私はそれを見ると、突然何かに襲われた様に、慄(ぞ)然(っ)として、五六間(けん)は大(おお)跨(また)に足(あし)取(どり)も頗(すこぶ)る確(たしか)に歩いたが、何か後(うし)方(ろ)から引(ひき)付(つ)けられるような気がしたので、それから先は、後(うし)方(ろ)をも振(ふり)向(む)かず、一(いつ)散(さん)走(ばし)りに夢中で駈(かけ)出(だ)したが、その横町を出ると、すぐ其(そ)処(こ)が金(こん)剛(ごう)寺(じざ)坂(か)という坂なので、私はもう一生懸命にその坂を中途まで下りて来ると、その時刻にまだ起きていた例の﹁涙(なみ)寿(だす)し﹂の前(まえ)まで来て、やっと一息ついて、立(たち)止(どま)ったが、後(うし)方(ろ)を見ると、もう何者も見えないので、やれ安心と思って漸(ようや)くに帰宅をした、これは或(あるい)は私の幻覚であったかもしれぬが、その蒼(あお)褪(ざめ)た顔の凄さといったら、その当時始(しじ)終(ゅう)眼(めさ)先(き)にちらついていて、仕方が無かったが、全く怖い目に会ったのであった。
底本‥﹁文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会﹂ちくま文庫、筑摩書房
2007︵平成19︶年7月10日第1刷発行
底本の親本‥﹁怪談会﹂柏舎書楼
1909︵明治42︶年発行
入力‥門田裕志
校正‥noriko saito
2008年9月25日作成
青空文庫作成ファイル‥
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫︵http://www.aozora.gr.jp/︶で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
●このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。