昔、支シ那ナの或ある田舎に書しょ生せいが一人住んでいました。何しろ支那のことですから、桃の花の咲いた窓の下に本ばかり読んでいたのでしょう。すると、この書生の家うちの隣に年の若い女が一人、――それも美しい女が一人、誰たれも使わずに住んでいました。書生はこの若い女を不思議に思っていたのはもちろんです。実際また彼女の身の上をはじめ、彼女が何をして暮らしているかは誰一人知るものもなかったのですから。
或風のない春の日の暮、書生はふと外へ出て見ると、何かこの若い女の罵ののしっている声が聞えました。それはまたどこかの庭にわ鳥とりがのんびりと鬨ときを作っている中なかに、如い何かにも物ものしく聞えるのです。書生はどうしたのかと思いながら、彼女の家いえの前へ行って見ました。すると眉まゆを吊つり上げた彼女は、年をとった木き樵こりの爺じいさんを引き据え、ぽかぽか白しら髪があ頭たまを擲なぐっているのです。しかも木樵りの爺さんは顔かお中じゅうに涙を流したまま、平ひらあやまりにあやまっているではありませんか!
﹁これは一体どうしたのです? 何もこういう年よりを、擲らないでも善いいじゃありませんか!――﹂
書生は彼女の手を抑え、熱心にたしなめにかかりました。
﹁第一年上のものを擲るということは、修身の道にもはずれている訣わけです。﹂
﹁年上のものを? この木樵りはわたしよりも年下です。﹂
﹁冗談を言ってはいけません。﹂
﹁いえ、冗談ではありません。わたしはこの木樵りの母親ですから。﹂
書生は呆あっ気けにとられたなり、思わず彼女の顔を見つめました。やっと木樵りを突き離した彼女は美しい、――というよりも凜り々りしい顔に血の色を通わせ、目まじろぎもせずにこう言うのです。
﹁わたしはこの倅せがれのために、どの位苦労をしたかわかりません。けれども倅はわたしの言葉を聞かずに、我わが儘ままばかりしていましたから、とうとう年をとってしまったのです。﹂
﹁では、……この木樵りはもう七十位でしょう。そのまた木樵りの母親だというあなたは、一体いくつになっているのです?﹂
﹁わたしですか? わたしは三千六百歳です。﹂
書生はこういう言葉と一しょに、この美しい隣の女が仙人だったことに気づきました。しかしもうその時には、何か神々しい彼女の姿は忽たちまちどこかへ消えてしまいました。うらうらと春の日の照り渡った中に木樵りの爺さんを残したまま。……
――昭和二年二月――