薄暗き硝ガラ子ス戸棚の中。絵画、陶器、唐から皮かは、更さら緲さ、牙げぼ彫り、鋳ちう金きん等とう種々の異国関係史料、処狭きまでに置き並べたるを見る。初しよ夏かの午後。遙にちやるめらの音聞ゆ。
久しき沈黙の後のち、司しば馬かう江か漢ん筆ひつの蘭人、突然悲しげに歎息す。
古こ伊い万ま里りの茶碗に描ゑがかれたる甲かぴ比た丹ん、︵蘭人を顧みつつ︶どうしたね? 顔の色も大へん悪いやうだが――
蘭人、いえ、何なんでもありませんよ。唯ちつと頭づつ痛うがするものですから――
甲かぴ比た丹ん、今日は妙に蒸暑いからね。
唐から皮かはの花の間あひだに止まれる鸚あう鵡む、︵横あひより甲かぴ比た丹んに︶﹇#﹁﹂は底本では﹁謔﹂﹈ですよ。甲比丹! あの人のは頭痛ではないのです。
甲かぴ比た丹ん、頭痛ではないと云ふと?
鸚あう鵡む、恋愛ですよ。
蘭人、︵鸚鵡を嚇おど﹇#﹁嚇﹂は底本では﹁嘛﹂﹈しつつ︶余よけ計いな事を云ふな!
甲比丹︵蘭人に︶まあ黙つてゐ給へ。︵鸚鵡に︶さうして誰に惚れてゐるのだい?
鸚鵡、あの女ですよ。ほら、あの阿オラ蘭ン陀ダ出で来きの皿の中にある。――
甲比丹、何い時つも扇を持つてゐる女か?
鸚鵡、ええ、あれです。あの女は顔こそ綺麗ですが、中々気きぐ位らゐが高いものですからね。
蘭人、︵再び鸚鵡を嚇しつつ︶こら、失礼な事を云ふな!
甲比丹、さうか? それは気の毒だな。︵金きん象ざう嵌がんの小こづ柄かの伴ばて天れ連んに︶どうしたものでせう? パアドレ!
伴ばて天れ連ん、さあ、婚礼はわたしがさせても好いいが、――何しろ阿オラ蘭ン陀ダ生れだけに、あの女の横わう柄へいなのは評判だからね。
蘭人、どうかもう御心配なさらずに下さい。︵やけ気味に︶いざとなればあの種たねが島しまに、心臓を射い抜ぬいて貰ひますから。
種が島、︵残念さうに︶駄だ目めだよ。僕は錆さびついてゐるから、――サアベル式の日にほ本んた刀うにでも頼み給へ。
牙げぼ彫りの基キリ督スト、︵紫壇の十字架上に腕をひろげつつ︶無むふ分んべ別つな事をしてはいけない。ふだん云つて聞かせる通り、自殺などをしたものは波は群ら葦ゐ増その門にはひられないからね。︵麻マ利リ耶ヤ観くわ音んのんに︶お母かあ様さま! どうかしてやる訳には参りませんか?
麻マ利リ耶ヤ観音、さうだね。ではわたしが頼んで見て上げようか?
伴天連、さう願へれば仕合せでございます。
甲比丹、どうか御尽力を願ひたいと存じますが、――︵蘭人に︶君からもおん母に御頼みし給へ。
蘭人、︵恥しげに︶何なに分ぶんよろしく御願ひ申します。
鸚鵡、御おめ恵ぐみ深い麻マ利リ耶ヤ様! わたしからもひとへに御願ひ致します。
麻利耶観音、︵阿オラ蘭ン陀ダの皿に描ゑがかれたる女に︶あなた!
阿オラ蘭ン陀ダの女、何か御用ですか?
麻利耶観音、はい、実はこの若い方かたがあなたを御慕ひ申してゐるのださうですが、――
阿蘭陀の女、まあ嫌いやです事。わたしはあの方かたは大嫌ひでございます。
麻利耶観音、それでも体さへ窶やつれる程、思ひ悩んでゐるやうですから、――
阿蘭陀の女、それはあの方の御ごか勝つ手てではありませんか? 一体わたしは日本出来や支那出来の方かたは虫が好かないのです。
麻マ利リ耶ヤ観くわ音んのん﹇#ルビの﹁くわんのん﹂は底本では﹁くわんの﹂﹈、そんな事を云ふものではありません。あの方もあなたと同じやうに、西洋文明の命の火を胸の中に宿してゐるのですもの。云はば兄弟のやうなものではありませんか? どうかわたしたち親子も願ひますから、少すこしは可かは哀いさうだと思つてやつて下さい。
阿オラ蘭ン陀ダの女、︵腹立たしげに︶余よけ計いな事は仰おつ有しやらずに下さい。第一あなたさへ平ひら戸どあたりの田ゐな舎か生れではありませんか? 硝ガラ子ス絵の窓だの噴水だの薔ば薇らの花だの、壁にかける氈かもだの、――そんな物は見た事もありますまい。顔もあなたはわたしの国のおん母麻マ利リ耶ヤとは大違ひです。ましてあの方かたを御覧なさい。成なる程ほどあの方もこの国では、阿オラ蘭ン陀ダ人と云ふかも知れません。しかしほんたうは阿蘭陀人どころか、日本人とも西洋人ともつかない、つまりこの国の画描きの拵こしらへた、黒ん坊よりも気味の悪い人です。
蘭人、ああ、何と云ふ情なさけない言葉だ!︵涕てい泣きふす︶
阿蘭陀の女、︵なほ怒の静まらざる如く︶それがわたしを慕つてゐる、――よくまあそんな事が云はれたものです。おまけにあの方の一家一族――長なが崎さき画ゑに出て来る紅こう毛まう人じんも皆同じ事ではありませんか? あたしはあの人たちの顔を見てさへ胸が悪くなつて来る位です。
長なが崎さき画ゑの英イギ吉リ利ス人、法フラ朗ン西ス人、露ロ西シ亜ヤ人等ら、︵驚きし如く︶おお! おお!
麻利耶観音、ではどうしてもあの方とは仲好く出来ないと云ふのですか?
阿蘭陀の女、当り前です。わたしはもう今け日ふ限り、あなたとも御つきあひは御ごめ免ん蒙かうむりませう。古こ伊い万ま里りの甲かぴ比た丹ん、小こづ柄かの伴ばて天れ連ん、亀かめ山やま焼やきの南なん蛮ばん女をんな、――いえ、いえ、それどころではありません。刀の鍔つばにゐる天使でさへ、二度と口を利きいて貰ひますまい。あの人たちとわたしとは生れも育ちも違ふのですから、――
麻利耶観音、︵蘭人に︶聞いてゐたらうね? わたしの言葉さへ通らないのだから、所しよ詮せんお前の願ひはかなはないよ。
蘭人、︵涕てい泣きふしつつ︶はい、もう仕方はございません。
甲かぴ比た丹ん﹇#ルビの﹁かぴたん﹂は底本では﹁かぷたん﹂﹈、男らしくあきらめるさ。︵亀かめ山やま焼やきの南なん蛮ばん女をんなに︶しかし憎い女だね。
南なん蛮ばん女をんな、ほんたうに高慢な人です事。――ようございますよ。これからはわたしがあの女の代りにこの方かたの世話をして上げますから。
伴ばて天れ連ん、お前さんは何い時つもやさしい人だ。
基キリ督スト、静かに! 静かに! 誰か人間が来たやうだから、――
鸚あう鵡む、しつ! しつ!
この家の主人、数人の客と共に戸棚の外に立つ。
主人、これがわたしのコレクション﹇#﹁ョ﹂はママ﹈です。
客の一ひと人り、大だい分ぶ沢たく山さんありますね。この江かう漢かんの蘭人は面白い。
主人、其そ処こにあるのは亀山焼です。これはわたしの自慢の品ですが、――
客の一人、南蛮女ですね。阿オラ蘭ン陀ダ出来の皿の女より、余よほ程ど美人ではありませんか?
主人、これですか?︵阿蘭陀の女のゐる皿を取り出す︶おや、何か濡れてゐるが、――
客の一人、まさか阿蘭陀の女が泣いたと云ふ訳でもありますまい。
客の他の一人、いや、悪わる口ぐちを云はれたから、口く惜やし泣きに泣いたのかも知れません。︵笑ふ︶
客の一人、一体日本出来の南蛮物には西洋出来の物にない、独得な味がありますね。
主人、其そ処こが日本なのでせう。
客の一人、さうです。其処から今こん日にちの文明も生れて来た。将来はもつと偉大なものが生れるでせう。
客の他の一ひと人り、この蘭人や南蛮女も亦以て瞑めいすべしですか。――おや!
主人、どうしたのですか?
客の他の一人、何だかあの基キリ督ストが笑つたやうな気がしたのです。
客の一人、わたしは麻マ利リ耶ヤ観くわ音んのんが笑つたやうに見えた。
主人、気のせゐでせう。
主しゆ客かく静かに硝ガラ子ス戸棚の前を去る。再びかすかにちやるめらの音。
︵大正十一年五月︶