おれは締切日を明みょ日うにちに控えた今夜、一気呵かせ成いにこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。
―――――――――――――――――――――――――
神かん田だ神じん保ぼう町ちょ辺うへんのあるカッフェに、お君きみさんと云う女給仕がいる。年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大おと人ならしい。何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通りの美人である。それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪かんざしをさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹たけ久ひさ夢ゆめ二じ君の画中の人物が抜け出したようだ。――とか何とか云う理由から、このカッフェの定じょ連うれんの間には、夙つとに通俗小説と云う渾あだ名なが出来ているらしい。もっとも渾あだ名なにはまだいろいろある。簪の花が花だから、わすれな草。活動写真に出る亜ア米メ利リ加カの女優に似ているから、ミス・メリイ・ピックフォオド。このカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖。ETC. ETC.
この店にはお君さんのほかにも、もう一人年上の女給仕がある。これはお松まつさんと云って、器きり量ょうは到底お君さんの敵ではない。まず白麺パ麭ンと黒麺麭ほどの相違がある。だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀の収入が非常に違う。お松さんは勿論、この収入の差に平たいらかなるを得ない。その不平が高こうじた所から、邪推もこの頃廻すようになっている。
ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓テエ子ブルにいた外国語学校の生徒らしいのが、巻まき煙たば草こを一本啣くわえながら、燐マッ寸チの火をその先へ移そうとした。所が生あい憎にくその隣の卓テエ子ブルでは、煽せん風ぷう機きが勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓テエ子ブルの側を通りかかったお君さんは、しばらくの間あいだ風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止とめた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬ほおへ微笑を浮べながら、﹁難あり有がとう﹂と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、﹁あなた持っていらっしゃいよ。﹂と、嬌きょ嗔うしんを発したらしい声を出した。――
こんな葛かっ藤とうが一週間に何度もある。従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言の愛あい嬌きょうを売っている。あるいは業ごう腹はららしいお松さんに無言ののろけを買わせている。
が、お君さんとお松さんとの仲が悪いのは、何もお松さんが嫉しっ妬とをするせいばかりではない。お君さんも内心、お松さんの趣味の低いのを軽蔑している。あれは全く尋常小学を出てから、浪なに花わぶ節しを聴いたり、蜜みつ豆まめを食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。こうお君さんは確信している。ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこの賑にぎやかなカッフェを去って、近所の露ろ路じの奥にある、ある女おん髪なか結みゆいの二階を覗のぞいて見るが好い。何な故ぜと云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起おき臥ふししているからである。
二階は天井の低い六畳で、西にし日びのさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更さら紗さの布ぬのをかけた机がある。もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これも余り新しくない西洋綴とじの書物が並んでいる。﹁不ほと如とぎ帰す﹂﹁藤とう村そん詩集﹂﹁松まつ井い須す磨ま子この一生﹂﹁新朝顔日記﹂﹁カルメン﹂﹁高い山から谷底見れば﹂――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない。それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶ちゃ箪だん笥すの上には、頸くびの細い硝ガラ子スの花立てがあって、花びらの一つとれた造花の百ゆ合りが、手際よくその中にさしてある。察する所この百合は、花びらさえまだ無事でいたら、今でもあのカッフェの卓テエ子ブルに飾られていたのに相違あるまい。最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑かぶ木らぎ清きよ方かた君の元げん禄ろく女おんなで、その下に小さくなっているのは、ラファエルのマドンナか何からしい。と思うとその元禄女の上には、北きた村むら四しか海い君の彫刻の女が御隣に控えたベエトオフェンへ滴したたるごとき秋しゅ波うはを送っている。但しこのベエトオフェンは、ただお君さんがベエトオフェンだと思っているだけで、実は亜ア米メ利リ加カの大統領ウッドロオ・ウイルソンなのだから、北村四海君に対しても、何とも御気の毒の至いたりに堪えない。――
こう云えばお君さんの趣味生活が、いかに芸術的色彩に富んでいるか、問わずしてすでに明かであろうと思う。また実際お君さんは、毎晩遅くカッフェから帰って来ると、必ずこのベエトオフェン alias ウイルソンの肖像の下に、﹁不ほと如とぎ帰す﹂を読んだり、造花の百ゆ合りを眺めたりしながら、新派悲劇の活動写真の月夜の場面よりもサンティマンタアルな、芸術的感激に耽ふけるのである。
桜さく頃らごろのある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一いち番ばん鶏どりが啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後のちも、ついにお君さんには気がつかなかったらしい。すると窓から流れこんだ春はる風かぜが、その一枚のレタア・ペエパアを飜ひるがえして、鬱うこ金んも木め綿んの蔽おおいをかけた鏡が二つ並んでいる梯はし子ごだ段んの下まで吹き落してしまった。下にいる女髪結は、頻ひん々ぴんとしてお君さんの手に落ちる艶えん書しょのある事を心得ている。だからこの桃色をした紙も、恐らくはその一枚だろうと思って、好奇心からわざわざ眼を通して見た。すると意外にもこれは、お君さんの手しゅ蹟せきらしい。ではお君さんが誰かの艶書に返事を認したためたのかと思うと、﹁武たけ男おさんに御別れなすった時の事を考えると、私は涙で胸が張り裂けるようでございます﹂と書いてある。果然お君さんはほとんど徹夜をして、浪なみ子こふ夫じ人んに与うべき慰問の手紙を作ったのであった。――
おれはこの挿そう話わを書きながら、お君さんのサンティマンタリスムに微笑を禁じ得ないのは事実である。が、おれの微笑の中には、寸すん毫ごうも悪意は含まれていない。お君さんのいる二階には、造花の百ゆ合りや、﹁藤とう村そん詩集﹂や、ラファエルのマドンナの写真のほかにも、自じす炊い生活に必要な、台所道具が並んでいる。その台所道具の象徴する、世せち智が辛らい東京の実生活は、何度今きょ日うまでにお君さんへ迫害を加えたか知れなかった。が、落らく莫ばくたる人生も、涙の靄もやを透とおして見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害を逃のがれるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠した。そこには一月六円の間まだ代いもなければ、一升七十銭の米代もない。カルメンは電燈代の心配もなく、気楽にカスタネットを鳴らしている。浪子夫人も苦労はするが、薬代の工くめ面んが出来ない次第ではない。一言にして云えばこの涙は、人間苦の黄たそ昏がれのおぼろめく中に、人間愛の燈火をつつましやかにともしてくれる。ああ、東京の町の音も全くどこかへ消えてしまう真夜中、涙に濡れた眼を挙げながら、うす暗い十燭の電燈の下に、たった一人逗ず子しの海かい風ふうとコルドヴァの杏きょ竹うち桃くとうとを夢みている、お君さんの姿を想像――畜生、悪意がない所か、うっかりしているとおれまでも、サンティマンタアルになり兼ねないぞ。元来世間の批評家には情味がないと言われている、すこぶる理智的なおれなのだが。
そのお君さんがある冬の夜、遅くなってカッフェから帰って来ると、始はじめは例のごとく机に向って、﹁松まつ井い須す磨ま子この一生﹂か何か読んでいたが、まだ一頁ページと行かない内に、どう云う訳かその書物にたちまち愛想をつかしたごとく、邪じゃ慳けんに畳の上へ抛ほうり出してしまった。と思うと今度は横よこ坐ずわりに坐ったまま、机の上に頬ほお杖づえをついて、壁の上のウイル――べエトオフェンの肖像を冷淡にぼんやり眺め出した。これは勿論唯事ではない。お君さんはあのカッフェを解かい傭ようされる事になったのであろうか。さもなければお松さんのいじめ方が一層悪あく辣らつになったのであろうか。あるいはまたさもなければ齲むし歯ばでも痛み出して来たのであろうか。いや、お君さんの心を支配しているのは、そう云う俗臭を帯びた事件ではない。お君さんは浪子夫人のごとく、あるいはまた松井須磨子のごとく、恋愛に苦しんでいるのである。ではお君さんは誰に心を寄せているかと云うと――幸さいわいお君さんは壁の上のベエトオフェンを眺めたまま、しばらくは身動きもしそうはないから、その間におれは大急ぎで、ちょいとこの光栄ある恋愛の相手を紹介しよう。
お君さんの相手は田たな中か君と云って、無名の――まあ芸術家である。何な故ぜかと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾ひく、油絵の具も使う、役者も勤める、歌うた骨がる牌たも巧うまい、薩さつ摩ま琵び琶わも出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るものは一人もいない。従ってまた人物も、顔は役者のごとくのっぺりしていて、髪は油絵の具のごとくてらてらしていて、声はヴァイオリンのごとく優しくって、言葉は詩のごとく気が利きいていて、女を口く説どく事は歌骨牌をとるごとく敏捷で、金を借り倒す事は薩摩琵琶をうたうごとく勇壮活溌を極めている。それが黒い鍔つば広びろの帽子をかぶって、安やす物ものらしい猟りょ服うふくを着用して、葡ぶど萄うい色ろのボヘミアン・ネクタイを結んで――と云えば大たい抵ていわかりそうなものだ。思うにこの田中君のごときはすでに一種のタイプなのだから、神かん田だ本ほん郷ごう辺のバアやカッフェ、青年会館や音楽学校の音楽会︵但し一番の安い切符の席に限るが︶兜かぶ屋とやや三さん会かい堂の展覧会などへ行くと、必ず二三人はこの連中が、傲ごう然ぜんと俗衆を睥へい睨げいしている。だからこの上明瞭な田中君の肖像が欲しければ、そう云う場所へ行って見るが好いい。おれが書くのはもう真まっ平ぴら御ごめ免んだ。第一おれが田中君の紹介の労を執とっている間に、お君さんはいつか立上って、障子を開けた窓の外の寒い月夜を眺めているのだから。
瓦かわ屋らや根ねの上の月の光は、頸くびの細い硝ガラ子スの花立てにさした造花の百ゆ合りを照らしている。壁に貼ったラファエルの小さなマドンナを照らしている。そうしてまたお君さんの上を向いた鼻を照らしている。が、お君さんの涼しい眼には、月の光も映っていない。霜の下りたらしい瓦屋根も、存在しないのと同じ事である。田中君は今夜カッフェから、お君さんをここまで送って来た。そうして明あ日すの晩は二人で、楽しく暮そうと云う約束までした。明日はちょうど一月に一度あるお君さんの休やす日みびだから、午後六時に小おが川わま町ちの電車停留場で落合って、それから芝しば浦うらにかかっている伊イタ太リイ利じ人んのサアカスを見に行こうと云うのである。お君さんは今きょ日うまでに、未いま嘗だかつて男と二人で遊びに出かけた覚えなどはない。だから明日の晩田中君と、世間の恋人同士のように、つれ立って夜の曲きょ馬くばを見に行く事を考えると、今更のように心臓の鼓こど動うが高くなって来る。お君さんにとって田中君は、宝ほう窟くつの扉を開くべき秘密の呪じゅ文もんを心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽あおられた海のごとく、あるいはまた将まさに走らんとする乗合自動車のモオタアのごとく、轟く胸の中に描いているのは、実にこの来るべき不ふ可か思し議ぎの世界の幻であった。そこには薔ば薇らの花の咲き乱れた路みちに、養殖真珠の指ゆび環わだの翡ひす翠いまがいの帯止めだのが、数限りもなく散乱している。夜ナイ鶯チンゲエルの優しい声も、すでに三みつ越こしの旗の上から、蜜を滴したたらすように聞え始めた。橄かん欖らんの花の
いの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・フェアバンクスと森もり律りつ子こじ嬢ょうとの舞踏が、いよいよ佳境に入ろうとしているらしい。……
が、おれはお君さんの名誉のためにつけ加える。その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い雲の影が、一いっ切さいの幸福を脅おびやかすように、底気味悪く去来していた。成程お君さんは田中君を恋しているのに違いない。しかしその田中君は、実はお君さんの芸術的感激が円光を頂いただかせた田中君である。詩も作る、ヴァイオリンも弾ひく、油絵の具も使う、役者も勤める、歌うた骨がる牌たも巧うまい、薩摩琵琶も出来るサア・ランスロットである。だからお君さんの中にある処しょ女じょの新鮮な直観性は、どうかするとこのランスロットのすこぶる怪しげな正体を感ずる事がないでもない。暗い不安の雲の影は、こう云う時にお君さんの幻の中を通りすぎる。が、遺憾ながらその雲の影は、現れるが早いか消えてしまう。お君さんはいくら大おと人なじみていても、十六とか十七とか云う少女である。しかも芸術的感激に充ち満ちている少女である。着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画えは端が書きに感嘆の声を洩もらす時のほかは、滅めっ多たに雲の影などへ心を止とめないのも不思議ではない。いわんや今は薔ば薇らの花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通りだから、そこを読み返して頂きたい。
お君さんは長い間、シャヴァンヌの聖サン・ジュヌヴィエヴのごとく、月の光に照らされた瓦屋根を眺めて立っていたが、やがて嚏くさめを一つすると、窓の障子をばたりとしめて、また元の机の際きわへ横坐りに坐ってしまった。それから翌日の午後六時までお君さんが何をしていたか、その間の詳しい消しょ息うそくは、残念ながらおれも知っていない。何な故ぜ作者たるおれが知っていないのかと云うと――正直に云ってしまえ。おれは今夜中にこの小説を書き上げなければならないからである。
翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫しこ紺んの御おめ召しのコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔つば広びろの黒い帽子を目まぶ深かくかぶって、洋銀の握りのついた細い杖をかいこみながら、縞の荒い半オオヴァの襟を立てて、赤い電燈のともった下に、ちゃんと佇たたずんで待っている。色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水のまでさせている容よう子すでは、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。
﹁御待たせして？﹂
お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。
﹁なあに。﹂
田中君は大おお様ような返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
﹁歩こう、少し。﹂
とつけ加えた。いや、つけ加えたばかりではない。田中君はもうその時には、アアク燈に照らされた人通りの多い往来を、須すだ田ちょ町うの方へ向って歩き出した。サアカスがあるのは芝しば浦うらである。歩くにしてもここからは、神かん田だば橋しの方へ向って行かなければならない。お君さんはまだ立止ったまま、埃ほこ風りかぜに飜ひるがえるクリイム色の肩掛へ手をやって、
﹁そっち？﹂
と不思議そうに声をかけた。が、田中君は肩越しに、
﹁ああ。﹂
と軽く答えたぎり、依然として須田町の方へ歩いて行く。そこでお君さんもほかに仕方がないから、すぐに田中君へ追いつくと、葉を振ふるった柳の並なみ樹きの下を一しょにいそいそと歩き出した。するとまた田中君は、あの何とも判然しない微笑を眼の中に漂わせて、お君さんの横顔を窺うかがいながら、
﹁お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨ゆう夜べでおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家うちへ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。﹂
﹁そう、私わたしどっちでも好いわ。﹂
お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕とらえたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。と同時にまたお君さんの眼にはまるで﹁不ほと如とぎ帰す﹂を読んだ時のような、感動の涙が浮んできた。この感動の涙を透とおして見た、小川町、淡あわ路じち町ょう、須田町の往来が、いかに美しかったかは問うを待たない。歳せい暮ぼ大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁じん丹たんの広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾かざり、蜘く蛛も手でに張った万国国旗、飾かざ窓りまどの中のサンタ・クロス、露店に並んだ絵えは葉が書きや日ひご暦よみ――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦きらびやかに続いているかと思われる。今夜に限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃ほこ風りかぜも、コオトの裾を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……
その内にふとお君さんが気がつくと、二ふた人りはいつか横よこ町ちょうを曲ったと見えて、路幅の狭い町を歩いている。そうしてその町の右側に、一軒の小さな八や百お屋やがあって、明あかるく瓦ガ斯スの燃えた下に、大根、人にん参じん、漬つけ菜な、葱ねぎ、小こか蕪ぶ、慈くわ姑い、牛ごぼ蒡う、八やつ頭がしら、小こま松つ菜な、独う活ど、蓮れん根こん、里芋、林りん檎ご、蜜柑の類が堆うずたかく店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍ひょ子うしに、葱の山の中に立っている、竹に燭つけ奴ぎを挟んだ札ふだの上へ落ちた。札には墨すみ黒くろ々ぐろと下へ手たな字で、﹁一ひと束たば四よん銭せん﹂と書いてある。あらゆる物価が暴騰した今こん日にち、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至しれ廉んな札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間かん髪はつを入れずとは正にこの謂いいである。薔ば薇らと指環と夜ナイ鶯チンゲエルと三みつ越こしの旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。その代り間まだ代い、米代、電燈代、炭代、肴さか代なだい、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰あたかも火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群むらがって来る。お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆あっ気けにとられている田中君を一人後に残して、鮮あざやかな瓦ガ斯スの光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華きゃ奢しゃな指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、﹁さすらい﹂の歌でもうたうような声で、
﹁あれを二ふた束たば下さいな。﹂と云った。
埃ほこ風りかぜの吹く往来には、黒い鍔つば広びろの帽ぼう子しをかぶって、縞しまの荒い半オオヴァの襟を立てた田中君が、洋銀の握りのある細い杖をかいこみながら、孤影悄しょ然うぜんとして立っている。田中君の想像には、さっきからこの町のはずれにある、格こう子しど戸づく造りの家が浮んでいた。軒に松まつの家やと云う電燈の出た、沓くつ脱ぬぎの石が濡れている、安やす普ぶし請んらしい二階家である、が、こうした往来に立っていると、その小ぢんまりした二階家の影が、妙にだんだん薄くなってしまう。そうしてその後あとには徐おもむろに一束四銭の札ふだを打った葱ねぎの山が浮んで来る。と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃ほこ風りかぜが過ぎると共に、実生活のごとく辛しん辣らつな、眼に滲しむごとき葱のが実際田中君の鼻を打った。
﹁御待ち遠さま。﹂
憐むべき田中君は、世にも情なさ無けない眼つきをして、まるで別人でも見るように、じろじろお君さんの顔を眺めた。髪を綺麗にまん中から割って、忘れな草の簪かんざしをさした、鼻の少し上を向いているお君さんは、クリイム色の肩掛をちょいと顋あごでおさえたまま、片手に二束八銭の葱を下げて立っている。あの涼しい眼の中に嬉しそうな微笑を躍らせながら。
―――――――――――――――――――――――――
とうとうどうにか書き上げたぞ。もう夜が明けるのも間はあるまい。外では寒そうな鶏にわとりの声がしているが、折せっ角かくこれを書き上げても、いやに気のふさぐのはどうしたものだ。お君さんはその晩何事もなく、またあの女おん髪なか結みゆいの二階へ帰って来たが、カッフェの女給仕をやめない限り、その後ごも田中君と二人で遊びに出る事がないとは云えまい。その時の事を考えると、――いや、その時はまたその時の事だ。おれが今いくら心配した所で、どうにもなる訳のものではない。まあこのままでペンを擱おこう。左さよ様うなら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退たい治じされて来給え。
︵大正八年十二月十一日︶
いの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・フェアバンクスと森もり律りつ子こじ嬢ょうとの舞踏が、いよいよ佳境に入ろうとしているらしい。……
が、おれはお君さんの名誉のためにつけ加える。その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い雲の影が、一いっ切さいの幸福を脅おびやかすように、底気味悪く去来していた。成程お君さんは田中君を恋しているのに違いない。しかしその田中君は、実はお君さんの芸術的感激が円光を頂いただかせた田中君である。詩も作る、ヴァイオリンも弾ひく、油絵の具も使う、役者も勤める、歌うた骨がる牌たも巧うまい、薩摩琵琶も出来るサア・ランスロットである。だからお君さんの中にある処しょ女じょの新鮮な直観性は、どうかするとこのランスロットのすこぶる怪しげな正体を感ずる事がないでもない。暗い不安の雲の影は、こう云う時にお君さんの幻の中を通りすぎる。が、遺憾ながらその雲の影は、現れるが早いか消えてしまう。お君さんはいくら大おと人なじみていても、十六とか十七とか云う少女である。しかも芸術的感激に充ち満ちている少女である。着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画えは端が書きに感嘆の声を洩もらす時のほかは、滅めっ多たに雲の影などへ心を止とめないのも不思議ではない。いわんや今は薔ば薇らの花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通りだから、そこを読み返して頂きたい。
お君さんは長い間、シャヴァンヌの聖サン・ジュヌヴィエヴのごとく、月の光に照らされた瓦屋根を眺めて立っていたが、やがて嚏くさめを一つすると、窓の障子をばたりとしめて、また元の机の際きわへ横坐りに坐ってしまった。それから翌日の午後六時までお君さんが何をしていたか、その間の詳しい消しょ息うそくは、残念ながらおれも知っていない。何な故ぜ作者たるおれが知っていないのかと云うと――正直に云ってしまえ。おれは今夜中にこの小説を書き上げなければならないからである。
翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫しこ紺んの御おめ召しのコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔つば広びろの黒い帽子を目まぶ深かくかぶって、洋銀の握りのついた細い杖をかいこみながら、縞の荒い半オオヴァの襟を立てて、赤い電燈のともった下に、ちゃんと佇たたずんで待っている。色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水のまでさせている容よう子すでは、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。
﹁御待たせして？﹂
お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。
﹁なあに。﹂
田中君は大おお様ような返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
﹁歩こう、少し。﹂
とつけ加えた。いや、つけ加えたばかりではない。田中君はもうその時には、アアク燈に照らされた人通りの多い往来を、須すだ田ちょ町うの方へ向って歩き出した。サアカスがあるのは芝しば浦うらである。歩くにしてもここからは、神かん田だば橋しの方へ向って行かなければならない。お君さんはまだ立止ったまま、埃ほこ風りかぜに飜ひるがえるクリイム色の肩掛へ手をやって、
﹁そっち？﹂
と不思議そうに声をかけた。が、田中君は肩越しに、
﹁ああ。﹂
と軽く答えたぎり、依然として須田町の方へ歩いて行く。そこでお君さんもほかに仕方がないから、すぐに田中君へ追いつくと、葉を振ふるった柳の並なみ樹きの下を一しょにいそいそと歩き出した。するとまた田中君は、あの何とも判然しない微笑を眼の中に漂わせて、お君さんの横顔を窺うかがいながら、
﹁お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨ゆう夜べでおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家うちへ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。﹂
﹁そう、私わたしどっちでも好いわ。﹂
お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕とらえたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。と同時にまたお君さんの眼にはまるで﹁不ほと如とぎ帰す﹂を読んだ時のような、感動の涙が浮んできた。この感動の涙を透とおして見た、小川町、淡あわ路じち町ょう、須田町の往来が、いかに美しかったかは問うを待たない。歳せい暮ぼ大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁じん丹たんの広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾かざり、蜘く蛛も手でに張った万国国旗、飾かざ窓りまどの中のサンタ・クロス、露店に並んだ絵えは葉が書きや日ひご暦よみ――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦きらびやかに続いているかと思われる。今夜に限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃ほこ風りかぜも、コオトの裾を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……
その内にふとお君さんが気がつくと、二ふた人りはいつか横よこ町ちょうを曲ったと見えて、路幅の狭い町を歩いている。そうしてその町の右側に、一軒の小さな八や百お屋やがあって、明あかるく瓦ガ斯スの燃えた下に、大根、人にん参じん、漬つけ菜な、葱ねぎ、小こか蕪ぶ、慈くわ姑い、牛ごぼ蒡う、八やつ頭がしら、小こま松つ菜な、独う活ど、蓮れん根こん、里芋、林りん檎ご、蜜柑の類が堆うずたかく店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍ひょ子うしに、葱の山の中に立っている、竹に燭つけ奴ぎを挟んだ札ふだの上へ落ちた。札には墨すみ黒くろ々ぐろと下へ手たな字で、﹁一ひと束たば四よん銭せん﹂と書いてある。あらゆる物価が暴騰した今こん日にち、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至しれ廉んな札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間かん髪はつを入れずとは正にこの謂いいである。薔ば薇らと指環と夜ナイ鶯チンゲエルと三みつ越こしの旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。その代り間まだ代い、米代、電燈代、炭代、肴さか代なだい、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰あたかも火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群むらがって来る。お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆あっ気けにとられている田中君を一人後に残して、鮮あざやかな瓦ガ斯スの光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華きゃ奢しゃな指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、﹁さすらい﹂の歌でもうたうような声で、
﹁あれを二ふた束たば下さいな。﹂と云った。
埃ほこ風りかぜの吹く往来には、黒い鍔つば広びろの帽ぼう子しをかぶって、縞しまの荒い半オオヴァの襟を立てた田中君が、洋銀の握りのある細い杖をかいこみながら、孤影悄しょ然うぜんとして立っている。田中君の想像には、さっきからこの町のはずれにある、格こう子しど戸づく造りの家が浮んでいた。軒に松まつの家やと云う電燈の出た、沓くつ脱ぬぎの石が濡れている、安やす普ぶし請んらしい二階家である、が、こうした往来に立っていると、その小ぢんまりした二階家の影が、妙にだんだん薄くなってしまう。そうしてその後あとには徐おもむろに一束四銭の札ふだを打った葱ねぎの山が浮んで来る。と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃ほこ風りかぜが過ぎると共に、実生活のごとく辛しん辣らつな、眼に滲しむごとき葱のが実際田中君の鼻を打った。
﹁御待ち遠さま。﹂
憐むべき田中君は、世にも情なさ無けない眼つきをして、まるで別人でも見るように、じろじろお君さんの顔を眺めた。髪を綺麗にまん中から割って、忘れな草の簪かんざしをさした、鼻の少し上を向いているお君さんは、クリイム色の肩掛をちょいと顋あごでおさえたまま、片手に二束八銭の葱を下げて立っている。あの涼しい眼の中に嬉しそうな微笑を躍らせながら。
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とうとうどうにか書き上げたぞ。もう夜が明けるのも間はあるまい。外では寒そうな鶏にわとりの声がしているが、折せっ角かくこれを書き上げても、いやに気のふさぐのはどうしたものだ。お君さんはその晩何事もなく、またあの女おん髪なか結みゆいの二階へ帰って来たが、カッフェの女給仕をやめない限り、その後ごも田中君と二人で遊びに出る事がないとは云えまい。その時の事を考えると、――いや、その時はまたその時の事だ。おれが今いくら心配した所で、どうにもなる訳のものではない。まあこのままでペンを擱おこう。左さよ様うなら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退たい治じされて来給え。
︵大正八年十二月十一日︶