﹁――黄こう大たい癡ちといえば、大癡の秋しゅ山うざ図んずをご覧らんになったことがありますか？﹂
ある秋の夜よ、甌おう香こう閣かくを訪たずねた王おう石せき谷こくは、主人の
南うん田なんでんと茶を啜すすりながら、話のついでにこんな問を発した。
﹁いや、見たことはありません。あなたはご覧になったのですか？﹂
大癡老人黄こう公こう望ぼうは、梅ばい道どう人じんや黄こう鶴かく山さん樵しょうとともに、元げん朝ちょうの画えの神しん手しゅである。南田はこう言いながら、かつて見た沙させ磧き図ずや富ふう春しゅ巻んかんが、髣ほう髴ふつと眼底に浮ぶような気がした。
﹁さあ、それが見たと言って好いいか、見ないと言って好いか、不思議なことになっているのですが、――﹂
﹁見たと言って好いか、見ないと言って好いか、――﹂
南田は訝いぶかしそうに、王石谷の顔へ眼めをやった。
﹁模もほ本んでもご覧になったのですか？﹂
﹁いや、模本を見たのでもないのです。とにかく真しん蹟せきは見たのですが、――それも私わたしばかりではありません。この秋山図のことについては、煙えん客かく先せん生せい︵王おう時じび敏ん︶や廉れん州しゅ先うせ生んせい︵王おう鑑かん︶も、それぞれ因いん縁ねんがおありなのです﹂
王石谷はまた茶を啜った後のち、考かん深がえぶかそうに微笑した。
﹁ご退屈でなければ話しましょうか？﹂
﹁どうぞ﹂
南田は銅どう檠けいの火を掻き立ててから、慇いん懃ぎんに客を促した。
＊ ＊ ＊
元げん宰さい先せん生せい︵董とう其きし昌ょう︶が在ざい世せい中ちゅうのことです。ある年の秋先生は、煙えん客かく翁おうと画論をしている内に、ふと翁に、黄こう一いっ峯ぽうの秋山図を見たかと尋ねました。翁はご承知のとおり画事の上では、大癡を宗そうとしていた人です。ですから大癡の画という画はいやしくも人じん間かんにある限り、看みつ尽くしたと言ってもかまいません。が、その秋山図という画ばかりは、ついに見たことがないのです。
﹁いや、見るどころか、名を聞いたこともないくらいです﹂
煙客翁はそう答えながら、妙に恥はずかしいような気がしたそうです。
﹁では機会のあり次第、ぜひ一度は見ておおきなさい。夏かざ山ん図ずや浮ふら嵐ん図ずに比べると、また一段と出しゅ色っしょくの作です。おそらくは大たい癡ち老人の諸本の中でも、白はく眉びではないかと思いますよ﹂
﹁そんな傑作ですか？ それはぜひ見たいものですが、いったい誰が持っているのです？﹂
﹁潤じゅ州んしゅうの張ちょ氏うしの家にあるのです。金きん山ざん寺じへでも行った時に、門を叩たたいてご覧らんなさい。私わたしが紹介状を書いて上げます﹂
煙えん客かく翁おうは先生の手簡を貰もらうと、すぐに潤州へ出かけて行きました。何しろそういう妙画を蔵している家ですから、そこへ行けば黄こう一いっ峯ぽうの外ほかにも、まだいろいろ歴代の墨ぼく妙みょうを見ることができるに違いない。――こう思った煙客翁は、もう一刻も西さい園えんの書房に、じっとしていることはできないような、落着かない気もちになっていたのです。
ところが潤州へ来て観みると、楽みにしていた張氏の家というのは、なるほど構えは広そうですが、いかにも荒れ果てているのです。墻かきには蔦つたが絡からんでいるし、庭には草が茂っている。その中に鶏にわとりや家あひ鴨るなどが、客の来たのを珍しそうに眺めているという始末ですから、さすがの翁もこんな家に、大癡の名画があるのだろうかと、一時は元げん宰さい先せん生せいの言葉が疑いたくなったくらいでした。しかしわざわざ尋ねて来ながら、刺しも通ぜずに帰るのは、もちろん本ほん望もうではありません。そこで取次ぎに出て来た小しょ厮うしに、ともかくも黄一峯の秋山図を拝見したいという、遠来の意を伝えた後のち、思しは白く先生が書いてくれた紹介状を渡しました。
すると間もなく煙客翁は、庁ちょ堂うどうへ案内されました。ここも紫した檀んの椅い子す机が、清らかに並べてありながら、冷たい埃ほこりの臭においがする、――やはり荒こう廃はいの気が鋪ほせ甎んの上に、漂っているとでも言いそうなのです。しかし幸い出て来た主人は、病弱らしい顔はしていても、人がらの悪い人ではありません。いや、むしろその蒼あお白じろい顔や華きゃ奢しゃな手の恰好なぞに、貴族らしい品格が見えるような人物なのです。翁はこの主人とひととおり、初対面の挨あい拶さつをすませると、早速名高い黄一峯を見せていただきたいと言いだしました。何でも翁の話では、その名画がどういう訳か、今の内に急いで見ておかないと、霧のように消えてでもしまいそうな、迷信じみた気もちがしたのだそうです。
主人はすぐに快かい諾だくしました。そうしてその庁堂の素そへ壁きへ、一いっ幀とうの画がふ幅くを懸かけさせました。
﹁これがお望みの秋山図です﹂
煙えん客かく翁おうはその画えを一目見ると、思わず驚きょ嘆うたんの声を洩らしました。
画は青せい緑りょくの設せっ色しょくです。渓たにの水が委い蛇いと流れたところに、村落や小しょ橋うきょうが散在している、――その上に起した主峯の腹には、ゆうゆうとした秋の雲が、蛤ごふ粉んの濃淡を重ねています。山は高こう房ぼう山ざんの横おう点てんを重ねた、新しん雨うを経たような翠すい黛たいですが、それがまた
を点じた、所しょ々しょの叢そう林りんの紅こう葉ようと映発している美しさは、ほとんど何と形容して好いいか、言葉の着けようさえありません。こういうとただ華かれ麗いな画のようですが、布ふ置ちも雄大を尽していれば、筆ひつ墨ぼくも渾こん厚こうを極きわめている、――いわば爛らん然ぜんとした色彩の中うちに、空くう霊れい澹たん蕩とうの古趣が自おのずから漲みなぎっているような画なのです。
煙客翁はまるで放心したように、いつまでもこの画を見入っていました。が、画は見ていれば見ているほど、ますます神妙を加えて行きます。
﹁いかがです？ お気に入りましたか？﹂
主人は微笑を含みながら、斜ななめに翁の顔を眺めました。
﹁神しん品ぴんです。元げん宰さい先せん生せいの絶賞は、たとい及ばないことがあっても、過ぎているとは言われません。実際この図に比べれば、私わたしが今までに見た諸名本は、ことごとく下かふ風うにあるくらいです﹂
煙客翁はこういう間あいだでも、秋しゅ山うざ図んずから眼を放しませんでした。
﹁そうですか？ ほんとうにそんな傑作ですか？﹂
翁は思わず主人のほうへ、驚いた眼を転じました。
﹁なぜまたそれがご不審なのです？﹂
﹁いや、別に不審という訳ではないのですが、実は、――﹂
主人はほとんど処しょ子しのように、当惑そうな顔を赤めました。が、やっと寂しい微笑を洩すと、おずおず壁上の名画を見ながら、こう言葉を続けるのです。
﹁実はあの画を眺めるたびに、私わたしは何だか眼を明いたまま、夢でも見ているような気がするのです。なるほど秋しゅ山うざんは美しい。しかしその美しさは、私だけに見える美しさではないか？ 私以外の人間には、平凡な画が図とに過ぎないのではないか？――なぜかそういう疑いが、始終私を悩ませるのです。これは私の気の迷いか、あるいはあの画が世の中にあるには、あまり美し過ぎるからか、どちらが原因だかわかりません。が、とにかく妙な気がしますから、ついあなたのご賞讃にも、念を押すようなことになったのです﹂
しかしその時の煙客翁は、こういう主人の弁解にも、格別心は止めなかったそうです。それは何も秋山図に、見み惚とれていたばかりではありません。翁には主人が徹てっ頭とう徹てつ尾び、鑑かん識しきに疎うといのを隠したさに、胡うろ乱んの言を並べるとしか、受け取れなかったからなのです。
翁はそれからしばらくの後のち、この廃宅同様な張ちょ氏うしの家を辞しました。
が、どうしても忘れられないのは、あの眼も覚めるような秋しゅ山うざ図んずです。実際大たい癡ちの法ほう燈とうを継いだ煙えん客かく翁おうの身になって見れば、何を捨ててもあれだけは、手に入れたいと思ったでしょう。のみならず翁は蒐しゅ集うし家ゅうかです。しかし家蔵の墨妙の中うちでも、黄おう金ごん二十鎰いつに換えたという、李りえ営いき丘ゅうの山さん陰いん泛はん雪せつ図ずでさえ、秋山図の神趣に比べると、遜そん色しょくのあるのを免まぬかれません。ですから翁は蒐集家としても、この稀きだ代いの黄こう一いっ峯ぽうが欲しくてたまらなくなったのです。
そこで潤じゅ州んしゅうにいる間あいだに、翁は人を張氏に遣つかわして、秋山図を譲ってもらいたいと、何度も交渉してみました。が、張氏はどうしても、翁の相談に応じません。あの顔かお色いろの蒼あお白じろい主人は、使に立ったものの話によると、﹁それほどこの画がお気に入ったのなら、喜んで先生にお貸し申そう。しかし手離すことだけは、ごめん蒙こうむりたい﹂と言ったそうです。それがまた気を負った煙客翁には、多少癇かんにも障さわりました。何、今貸してもらわなくても、いつかはきっと手に入れてみせる。――翁はそう心に期ごしながら、とうとう秋山図を残したなり、潤州を去ることになりました。
それからまた一年ばかりの後のち、煙客翁は潤州へ来たついでに、張氏の家を訪れてみました。すると墻かきに絡からんだ蔦つたや庭に茂った草の色は、以前とさらに変りません。が、取次ぎの小しょ厮うしに聞けば、主人は不在だということです。翁は主人に会わないにしろ、もう一度あの秋山図を見せてもらうように頼みました。しかし何度頼んでみても、小厮は主人の留る守すを楯たてに、頑がんとして奥へ通しません。いや、しまいには門を鎖とざしたまま、返事さえろくにしないのです。そこで翁はやむを得ず、この荒れ果てた家のどこかに、蔵している名画を想いながら、惆ちゅ悵うちょうと独ひとり帰って来ました。
ところがその後ご元げん宰さい先生に会うと、先生は翁に張ちょ氏うしの家には、大癡の秋山図があるばかりか、沈しん石せき田でんの雨うや夜しし止ゅ宿く図ずや自じじ寿ゅ図ずのような傑作も、残っているということを告げました。
﹁前にお話するのを忘れたが、この二つは秋山図同様、※かい苑えん﹇＃﹁糸＋貴﹂、174-下-19﹈の奇観とも言うべき作です。もう一度私が手紙を書くから、ぜひこれも見ておおきなさい﹂
煙客翁はすぐに張氏の家へ、急の使を立てました。使は元宰先生の手しゅ札さつの外ほかにも、それらの名画を購あがなうべき
金たくきんを授けられていたのです。しかし張氏は前のとおり、どうしても黄こう一いっ峯ぽうだけは、手離すことを肯がえんじません。翁はついに秋しゅ山うざ図んずには意を絶つより外ほかはなくなりました。
＊ ＊ ＊
王おう石せき谷こくはちょいと口を噤つぐんだ。
﹁これまでは私わたしが煙えん客かく先せん生せいから、聞かせられた話なのです﹂
﹁では煙客先生だけは、たしかに秋山図を見られたのですか？﹂
南うん田なんでんは髯ひげを撫ぶしながら、念を押すように王石谷を見た。
﹁先生は見たと言われるのです。が、たしかに見られたのかどうか、それは誰にもわかりません﹂
﹁しかしお話の容よう子すでは、――﹂
﹁まあ先をお聴ききください。しまいまでお聴きくだされば、また自おのずから私わたしとは違ったお考が出るかもしれません﹂
王石谷は今度は茶も啜すすらずに、
々びびと話を続けだした。
＊ ＊ ＊
煙客翁が私わたしにこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星せい霜そうを経過した後のちだったのです。その時は元げん宰さい先生も、とうに物ぶっ故こしていましたし、張ちょ氏うしの家でもいつの間まにか、三度まで代が変っていました。ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、未いまだに亀きぎ玉ょくの毀やぶれもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。
﹁あの黄一峯は公こう孫そん大たい嬢じょうの剣けん器きのようなものでしたよ。筆墨はあっても、筆墨は見えない。ただ何とも言えない神しん気きが、ただちに心に迫って来るのです。――ちょうど龍りょ翔うしょうの看かんはあっても、人や剣つるぎが我々に見えないのと同じことですよ﹂
それから一ひと月つきばかりの後のち、そろそろ春しゅ風んぷうが動きだしたのを潮しおに、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこで翁おうにその話をすると、
﹁ではちょうど好いい機会だから、秋しゅ山うざんを尋ねてご覧らんなさい。あれがもう一度世に出れば、画がえ苑んの慶けい事じですよ﹂と言うのです。
私ももちろん望むところですから、早速翁を煩わずらわせて、手紙を一本書いてもらいました。が、さて遊ゆう歴れきの途とに上ってみると、何かと行く所も多いものですから、容易に潤じゅ州んしゅうの張氏の家を訪れる暇ひまがありません。私は翁の書を袖そでにしたなり、とうとう子ほと規とぎすが啼なくようになるまで、秋しゅ山うざんを尋ねずにしまいました。
その内にふと耳にはいったのは、貴きせ戚きの王おう氏しが秋山図を手に入れたという噂うわさです。そういえば私わたしが遊歴中、煙えん客かく翁おうの書を見せた人には、王氏を知っているものも交まじっていました。王氏はそういう人からでも、あの秋山図が、張ちょ氏うしの家に蔵してあることを知ったのでしょう。何でも坊ぼう間かんの説によれば、張氏の孫は王おう氏しの使を受けると、伝家の彝いて鼎いや法書とともに、すぐさま大たい癡ちの秋山図を献じに来たとかいうことです。そうして王氏は喜びのあまり、張氏の孫を上座に招じて、家か姫きを出したり、音楽を奏したり、盛な饗きょ宴うえんを催したあげく、千金を寿じゅにしたとかいうことです。私はほとんど雀じゃ躍くやくしました。滄そう桑そう五ごじ十っさ載いを閲けみした後のちでも、秋山図はやはり無事だったのです。のみならず私も面識がある、王氏の手中に入ったのです。昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再び看みることは、鬼きじ神んが悪にくむのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。が、今は王氏の焦しょ慮うりょも待たず、自然とこの図が我々の前へ、蜃しん楼ろうのように現れたのです。これこそ実際天縁が、熟したと言う外ほかはありません。私は取る物も取りあえず、金きん
にある王氏の第てい宅たくへ、秋山を見に出かけて行きました。
今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡ぼた丹んが、玉ぎょ欄くらんの外そとに咲き誇った、風のない初夏の午ひる過すぎです。私は王氏の顔を見ると、揖ゆうもすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。
﹁もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図では、ずいぶん苦労をされたものですが、今度こそはご安心なさるでしょう。そう思うだけでも愉快です﹂
王氏も得意満面でした。
﹁今きょ日うは煙客先生や廉れん州しゅう先生も来られるはずです。が、まあ、お出でになった順に、あなたから見てもらいましょう﹂
王氏は早速かたわらの壁に、あの秋山図を懸かけさせました。水に臨んだ紅こう葉ようの村、谷を埋うずめている白はく雲うんの群むれ、それから遠おち近こちに側そば立だった、屏びょ風うぶのような数峯の青せい、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸を躍おどらせながら、じっと壁上の画を眺めました。
この雲うん煙えん邱きゅ壑うがくは、紛まぎれもない黄こう一いっ峯ぽうです、癡ちお翁うを除いては何なん人ぴとも、これほど皴しゅ点んてんを加えながら、しかも墨を活いかすことは――これほど設せっ色しょくを重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たという図と、たしかに別な黄こう一いっ峯ぽうです。そうしてその秋しゅ山うざ図んずよりも、おそらくは下位にある黄一峯です。
私わたしの周囲には王氏を始め、座にい合せた食しょ客っかくたちが、私の顔かお色いろを窺うかがっていました。ですから私は失望の色が、寸すん分ぶんも顔へ露あらわれないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても、どこか不服な表情が、我知らず外へ出たのでしょう。王氏はしばらくたってから、心配そうに私へ声をかけました。
﹁どうです？﹂
私は言ごん下かに答えました。
﹁神品です。なるほどこれでは煙えん客かく先生が、驚きょ倒うとうされたのも不思議はありません﹂
王氏はやや顔色を直しました。が、それでもまだ眉まゆの間には、いくぶんか私の賞しょ讃うさんに、不満らしい気けし色きが見えたものです。
そこへちょうど来合せたのは、私に秋山の神趣を説いた、あの煙客先生です。翁は王氏に会えし釈ゃくをする間まも、嬉しそうな微笑を浮べていました。
﹁五十年前ぜんに秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今きょ日うはまたこういう富ふう貴きのお宅に、再びこの図とめぐり合いました。まことに意外な因縁です﹂
煙客翁はこう言いながら、壁上の大たい癡ちを仰ぎ見ました。この秋山がかつて翁の見た秋山かどうか、それはもちろん誰よりも翁自身が明らかに知っているはずです。ですから私も王氏同様、翁がこの図を眺める容よう子すに、注意深い眼を注いでいました。すると果かぜ然ん翁の顔も、みるみる曇ったではありませんか。
しばらく沈黙が続いた後のち、王氏はいよいよ不安そうに、おずおず翁へ声をかけました。
﹁どうです？ 今も石せき谷こく先生は、たいそう褒ほめてくれましたが、――﹂
私は正直な煙客翁が、有あり体ていな返事をしはしないかと、内心冷ひや冷ひやしていました。しかし王氏を失望させるのは、さすがに翁も気の毒だったのでしょう。翁は秋山を見終ると、叮てい嚀ねいに王氏へ答えました。
﹁これがお手にはいったのは、あなたのご運が好よいのです。ご家かぞ蔵うの諸しょ宝ほうもこの後のちは、一段と光彩を添えることでしょう﹂
しかし王氏はこの言葉を聞いても、やはり顔の憂ゆう色しょくが、ますます深くなるばかりです。
その時もし廉れん州しゅう先生が、遅おくれ馳ばせにでも来なかったなら、我々はさらに気まずい思いをさせられたに違いありません。しかし先生は幸いにも、煙客翁の賞讃が渋りがちになった時、快活に一座へ加わりました。
﹁これがお話の秋山図ですか？﹂
先生は無むぞ造う作さな挨あい拶さつをしてから、黄こう一いっ峯ぽうの画えに対しました。そうしてしばらくは黙もく然ねんと、口くち髭ひげばかり噛かんでいました。
﹁煙えん客かく先せん生せいは五十年前ぜんにも、一度この図をご覧になったそうです﹂
王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉れん州しゅう先生はまだ翁から、一度も秋しゅ山うざんの神しん逸いつを聞かされたことがなかったのです。
﹁どうでしょう？ あなたのご鑑かん裁さいは﹂
先生は歎たん息そくを洩らしたぎり、不あい相かわ変らず画を眺めていました。
﹁ご遠慮のないところを伺うかがいたいのですが、――﹂
王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
﹁これですか？ これは――﹂
廉州先生はまた口を噤つぐみました。
﹁これは？﹂
﹁これは癡ちお翁う第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気淋りん漓りじゃありませんか。林木なぞの設せっ色しょくも、まさに天てん造ぞうとも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布ふき局ょくがあのために、どのくらい活いきているかわかりません﹂
今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧かえりみると、いちいち画の佳かし所ょを指さしながら、盛さかんに感歎の声を挙あげ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
私はその間あいだに煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
﹁先生、これがあの秋山図ですか？﹂
私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬まばたきを一つしました。
﹁まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張ちょ家うけの主人は、狐こせ仙んか何かだったかもしれませんよ﹂
＊ ＊ ＊
﹁秋山図の話はこれだけです﹂
王おう石せき谷こくは語り終ると、おもむろに一碗の茶を啜すすった。
﹁なるほど、不思議な話です﹂
南うん田なんでんは、さっきから銅どう檠けいの焔ほのおを眺めていた。
﹁その後ご王氏も熱心に、いろいろ尋たずねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体幻まぼろしでもありますまいし、――﹂
﹁しかし煙えん客かく先せん生せいの心の中うちには、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の中なかにも、――﹂
﹁山石の青緑だの紅葉のの色だのは、今でもありあり見えるようです﹂
﹁では秋山図がないにしても、憾うらむところはないではありませんか？﹂
王うんおうの両大家は、掌たなごころを拊うって一笑した。
南うん田なんでんと茶を啜すすりながら、話のついでにこんな問を発した。
﹁いや、見たことはありません。あなたはご覧になったのですか？﹂
大癡老人黄こう公こう望ぼうは、梅ばい道どう人じんや黄こう鶴かく山さん樵しょうとともに、元げん朝ちょうの画えの神しん手しゅである。南田はこう言いながら、かつて見た沙させ磧き図ずや富ふう春しゅ巻んかんが、髣ほう髴ふつと眼底に浮ぶような気がした。
﹁さあ、それが見たと言って好いいか、見ないと言って好いか、不思議なことになっているのですが、――﹂
﹁見たと言って好いか、見ないと言って好いか、――﹂
南田は訝いぶかしそうに、王石谷の顔へ眼めをやった。
﹁模もほ本んでもご覧になったのですか？﹂
﹁いや、模本を見たのでもないのです。とにかく真しん蹟せきは見たのですが、――それも私わたしばかりではありません。この秋山図のことについては、煙えん客かく先せん生せい︵王おう時じび敏ん︶や廉れん州しゅ先うせ生んせい︵王おう鑑かん︶も、それぞれ因いん縁ねんがおありなのです﹂
王石谷はまた茶を啜った後のち、考かん深がえぶかそうに微笑した。
﹁ご退屈でなければ話しましょうか？﹂
﹁どうぞ﹂
南田は銅どう檠けいの火を掻き立ててから、慇いん懃ぎんに客を促した。
＊ ＊ ＊
元げん宰さい先せん生せい︵董とう其きし昌ょう︶が在ざい世せい中ちゅうのことです。ある年の秋先生は、煙えん客かく翁おうと画論をしている内に、ふと翁に、黄こう一いっ峯ぽうの秋山図を見たかと尋ねました。翁はご承知のとおり画事の上では、大癡を宗そうとしていた人です。ですから大癡の画という画はいやしくも人じん間かんにある限り、看みつ尽くしたと言ってもかまいません。が、その秋山図という画ばかりは、ついに見たことがないのです。
﹁いや、見るどころか、名を聞いたこともないくらいです﹂
煙客翁はそう答えながら、妙に恥はずかしいような気がしたそうです。
﹁では機会のあり次第、ぜひ一度は見ておおきなさい。夏かざ山ん図ずや浮ふら嵐ん図ずに比べると、また一段と出しゅ色っしょくの作です。おそらくは大たい癡ち老人の諸本の中でも、白はく眉びではないかと思いますよ﹂
﹁そんな傑作ですか？ それはぜひ見たいものですが、いったい誰が持っているのです？﹂
﹁潤じゅ州んしゅうの張ちょ氏うしの家にあるのです。金きん山ざん寺じへでも行った時に、門を叩たたいてご覧らんなさい。私わたしが紹介状を書いて上げます﹂
煙えん客かく翁おうは先生の手簡を貰もらうと、すぐに潤州へ出かけて行きました。何しろそういう妙画を蔵している家ですから、そこへ行けば黄こう一いっ峯ぽうの外ほかにも、まだいろいろ歴代の墨ぼく妙みょうを見ることができるに違いない。――こう思った煙客翁は、もう一刻も西さい園えんの書房に、じっとしていることはできないような、落着かない気もちになっていたのです。
ところが潤州へ来て観みると、楽みにしていた張氏の家というのは、なるほど構えは広そうですが、いかにも荒れ果てているのです。墻かきには蔦つたが絡からんでいるし、庭には草が茂っている。その中に鶏にわとりや家あひ鴨るなどが、客の来たのを珍しそうに眺めているという始末ですから、さすがの翁もこんな家に、大癡の名画があるのだろうかと、一時は元げん宰さい先せん生せいの言葉が疑いたくなったくらいでした。しかしわざわざ尋ねて来ながら、刺しも通ぜずに帰るのは、もちろん本ほん望もうではありません。そこで取次ぎに出て来た小しょ厮うしに、ともかくも黄一峯の秋山図を拝見したいという、遠来の意を伝えた後のち、思しは白く先生が書いてくれた紹介状を渡しました。
すると間もなく煙客翁は、庁ちょ堂うどうへ案内されました。ここも紫した檀んの椅い子す机が、清らかに並べてありながら、冷たい埃ほこりの臭においがする、――やはり荒こう廃はいの気が鋪ほせ甎んの上に、漂っているとでも言いそうなのです。しかし幸い出て来た主人は、病弱らしい顔はしていても、人がらの悪い人ではありません。いや、むしろその蒼あお白じろい顔や華きゃ奢しゃな手の恰好なぞに、貴族らしい品格が見えるような人物なのです。翁はこの主人とひととおり、初対面の挨あい拶さつをすませると、早速名高い黄一峯を見せていただきたいと言いだしました。何でも翁の話では、その名画がどういう訳か、今の内に急いで見ておかないと、霧のように消えてでもしまいそうな、迷信じみた気もちがしたのだそうです。
主人はすぐに快かい諾だくしました。そうしてその庁堂の素そへ壁きへ、一いっ幀とうの画がふ幅くを懸かけさせました。
﹁これがお望みの秋山図です﹂
煙えん客かく翁おうはその画えを一目見ると、思わず驚きょ嘆うたんの声を洩らしました。
画は青せい緑りょくの設せっ色しょくです。渓たにの水が委い蛇いと流れたところに、村落や小しょ橋うきょうが散在している、――その上に起した主峯の腹には、ゆうゆうとした秋の雲が、蛤ごふ粉んの濃淡を重ねています。山は高こう房ぼう山ざんの横おう点てんを重ねた、新しん雨うを経たような翠すい黛たいですが、それがまたを点じた、所しょ々しょの叢そう林りんの紅こう葉ようと映発している美しさは、ほとんど何と形容して好いいか、言葉の着けようさえありません。こういうとただ華かれ麗いな画のようですが、布ふ置ちも雄大を尽していれば、筆ひつ墨ぼくも渾こん厚こうを極きわめている、――いわば爛らん然ぜんとした色彩の中うちに、空くう霊れい澹たん蕩とうの古趣が自おのずから漲みなぎっているような画なのです。
煙客翁はまるで放心したように、いつまでもこの画を見入っていました。が、画は見ていれば見ているほど、ますます神妙を加えて行きます。
﹁いかがです？ お気に入りましたか？﹂
主人は微笑を含みながら、斜ななめに翁の顔を眺めました。
﹁神しん品ぴんです。元げん宰さい先せん生せいの絶賞は、たとい及ばないことがあっても、過ぎているとは言われません。実際この図に比べれば、私わたしが今までに見た諸名本は、ことごとく下かふ風うにあるくらいです﹂
煙客翁はこういう間あいだでも、秋しゅ山うざ図んずから眼を放しませんでした。
﹁そうですか？ ほんとうにそんな傑作ですか？﹂
翁は思わず主人のほうへ、驚いた眼を転じました。
﹁なぜまたそれがご不審なのです？﹂
﹁いや、別に不審という訳ではないのですが、実は、――﹂
主人はほとんど処しょ子しのように、当惑そうな顔を赤めました。が、やっと寂しい微笑を洩すと、おずおず壁上の名画を見ながら、こう言葉を続けるのです。
﹁実はあの画を眺めるたびに、私わたしは何だか眼を明いたまま、夢でも見ているような気がするのです。なるほど秋しゅ山うざんは美しい。しかしその美しさは、私だけに見える美しさではないか？ 私以外の人間には、平凡な画が図とに過ぎないのではないか？――なぜかそういう疑いが、始終私を悩ませるのです。これは私の気の迷いか、あるいはあの画が世の中にあるには、あまり美し過ぎるからか、どちらが原因だかわかりません。が、とにかく妙な気がしますから、ついあなたのご賞讃にも、念を押すようなことになったのです﹂
しかしその時の煙客翁は、こういう主人の弁解にも、格別心は止めなかったそうです。それは何も秋山図に、見み惚とれていたばかりではありません。翁には主人が徹てっ頭とう徹てつ尾び、鑑かん識しきに疎うといのを隠したさに、胡うろ乱んの言を並べるとしか、受け取れなかったからなのです。
翁はそれからしばらくの後のち、この廃宅同様な張ちょ氏うしの家を辞しました。
が、どうしても忘れられないのは、あの眼も覚めるような秋しゅ山うざ図んずです。実際大たい癡ちの法ほう燈とうを継いだ煙えん客かく翁おうの身になって見れば、何を捨ててもあれだけは、手に入れたいと思ったでしょう。のみならず翁は蒐しゅ集うし家ゅうかです。しかし家蔵の墨妙の中うちでも、黄おう金ごん二十鎰いつに換えたという、李りえ営いき丘ゅうの山さん陰いん泛はん雪せつ図ずでさえ、秋山図の神趣に比べると、遜そん色しょくのあるのを免まぬかれません。ですから翁は蒐集家としても、この稀きだ代いの黄こう一いっ峯ぽうが欲しくてたまらなくなったのです。
そこで潤じゅ州んしゅうにいる間あいだに、翁は人を張氏に遣つかわして、秋山図を譲ってもらいたいと、何度も交渉してみました。が、張氏はどうしても、翁の相談に応じません。あの顔かお色いろの蒼あお白じろい主人は、使に立ったものの話によると、﹁それほどこの画がお気に入ったのなら、喜んで先生にお貸し申そう。しかし手離すことだけは、ごめん蒙こうむりたい﹂と言ったそうです。それがまた気を負った煙客翁には、多少癇かんにも障さわりました。何、今貸してもらわなくても、いつかはきっと手に入れてみせる。――翁はそう心に期ごしながら、とうとう秋山図を残したなり、潤州を去ることになりました。
それからまた一年ばかりの後のち、煙客翁は潤州へ来たついでに、張氏の家を訪れてみました。すると墻かきに絡からんだ蔦つたや庭に茂った草の色は、以前とさらに変りません。が、取次ぎの小しょ厮うしに聞けば、主人は不在だということです。翁は主人に会わないにしろ、もう一度あの秋山図を見せてもらうように頼みました。しかし何度頼んでみても、小厮は主人の留る守すを楯たてに、頑がんとして奥へ通しません。いや、しまいには門を鎖とざしたまま、返事さえろくにしないのです。そこで翁はやむを得ず、この荒れ果てた家のどこかに、蔵している名画を想いながら、惆ちゅ悵うちょうと独ひとり帰って来ました。
ところがその後ご元げん宰さい先生に会うと、先生は翁に張ちょ氏うしの家には、大癡の秋山図があるばかりか、沈しん石せき田でんの雨うや夜しし止ゅ宿く図ずや自じじ寿ゅ図ずのような傑作も、残っているということを告げました。
﹁前にお話するのを忘れたが、この二つは秋山図同様、※かい苑えん﹇＃﹁糸＋貴﹂、174-下-19﹈の奇観とも言うべき作です。もう一度私が手紙を書くから、ぜひこれも見ておおきなさい﹂
煙客翁はすぐに張氏の家へ、急の使を立てました。使は元宰先生の手しゅ札さつの外ほかにも、それらの名画を購あがなうべき金たくきんを授けられていたのです。しかし張氏は前のとおり、どうしても黄こう一いっ峯ぽうだけは、手離すことを肯がえんじません。翁はついに秋しゅ山うざ図んずには意を絶つより外ほかはなくなりました。
＊ ＊ ＊
王おう石せき谷こくはちょいと口を噤つぐんだ。
﹁これまでは私わたしが煙えん客かく先せん生せいから、聞かせられた話なのです﹂
﹁では煙客先生だけは、たしかに秋山図を見られたのですか？﹂
南うん田なんでんは髯ひげを撫ぶしながら、念を押すように王石谷を見た。
﹁先生は見たと言われるのです。が、たしかに見られたのかどうか、それは誰にもわかりません﹂
﹁しかしお話の容よう子すでは、――﹂
﹁まあ先をお聴ききください。しまいまでお聴きくだされば、また自おのずから私わたしとは違ったお考が出るかもしれません﹂
王石谷は今度は茶も啜すすらずに、々びびと話を続けだした。
＊ ＊ ＊
煙客翁が私わたしにこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星せい霜そうを経過した後のちだったのです。その時は元げん宰さい先生も、とうに物ぶっ故こしていましたし、張ちょ氏うしの家でもいつの間まにか、三度まで代が変っていました。ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、未いまだに亀きぎ玉ょくの毀やぶれもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。
﹁あの黄一峯は公こう孫そん大たい嬢じょうの剣けん器きのようなものでしたよ。筆墨はあっても、筆墨は見えない。ただ何とも言えない神しん気きが、ただちに心に迫って来るのです。――ちょうど龍りょ翔うしょうの看かんはあっても、人や剣つるぎが我々に見えないのと同じことですよ﹂
それから一ひと月つきばかりの後のち、そろそろ春しゅ風んぷうが動きだしたのを潮しおに、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこで翁おうにその話をすると、
﹁ではちょうど好いい機会だから、秋しゅ山うざんを尋ねてご覧らんなさい。あれがもう一度世に出れば、画がえ苑んの慶けい事じですよ﹂と言うのです。
私ももちろん望むところですから、早速翁を煩わずらわせて、手紙を一本書いてもらいました。が、さて遊ゆう歴れきの途とに上ってみると、何かと行く所も多いものですから、容易に潤じゅ州んしゅうの張氏の家を訪れる暇ひまがありません。私は翁の書を袖そでにしたなり、とうとう子ほと規とぎすが啼なくようになるまで、秋しゅ山うざんを尋ねずにしまいました。
その内にふと耳にはいったのは、貴きせ戚きの王おう氏しが秋山図を手に入れたという噂うわさです。そういえば私わたしが遊歴中、煙えん客かく翁おうの書を見せた人には、王氏を知っているものも交まじっていました。王氏はそういう人からでも、あの秋山図が、張ちょ氏うしの家に蔵してあることを知ったのでしょう。何でも坊ぼう間かんの説によれば、張氏の孫は王おう氏しの使を受けると、伝家の彝いて鼎いや法書とともに、すぐさま大たい癡ちの秋山図を献じに来たとかいうことです。そうして王氏は喜びのあまり、張氏の孫を上座に招じて、家か姫きを出したり、音楽を奏したり、盛な饗きょ宴うえんを催したあげく、千金を寿じゅにしたとかいうことです。私はほとんど雀じゃ躍くやくしました。滄そう桑そう五ごじ十っさ載いを閲けみした後のちでも、秋山図はやはり無事だったのです。のみならず私も面識がある、王氏の手中に入ったのです。昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再び看みることは、鬼きじ神んが悪にくむのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。が、今は王氏の焦しょ慮うりょも待たず、自然とこの図が我々の前へ、蜃しん楼ろうのように現れたのです。これこそ実際天縁が、熟したと言う外ほかはありません。私は取る物も取りあえず、金きんにある王氏の第てい宅たくへ、秋山を見に出かけて行きました。
今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡ぼた丹んが、玉ぎょ欄くらんの外そとに咲き誇った、風のない初夏の午ひる過すぎです。私は王氏の顔を見ると、揖ゆうもすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。
﹁もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図では、ずいぶん苦労をされたものですが、今度こそはご安心なさるでしょう。そう思うだけでも愉快です﹂
王氏も得意満面でした。
﹁今きょ日うは煙客先生や廉れん州しゅう先生も来られるはずです。が、まあ、お出でになった順に、あなたから見てもらいましょう﹂
王氏は早速かたわらの壁に、あの秋山図を懸かけさせました。水に臨んだ紅こう葉ようの村、谷を埋うずめている白はく雲うんの群むれ、それから遠おち近こちに側そば立だった、屏びょ風うぶのような数峯の青せい、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸を躍おどらせながら、じっと壁上の画を眺めました。
この雲うん煙えん邱きゅ壑うがくは、紛まぎれもない黄こう一いっ峯ぽうです、癡ちお翁うを除いては何なん人ぴとも、これほど皴しゅ点んてんを加えながら、しかも墨を活いかすことは――これほど設せっ色しょくを重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たという図と、たしかに別な黄こう一いっ峯ぽうです。そうしてその秋しゅ山うざ図んずよりも、おそらくは下位にある黄一峯です。
私わたしの周囲には王氏を始め、座にい合せた食しょ客っかくたちが、私の顔かお色いろを窺うかがっていました。ですから私は失望の色が、寸すん分ぶんも顔へ露あらわれないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても、どこか不服な表情が、我知らず外へ出たのでしょう。王氏はしばらくたってから、心配そうに私へ声をかけました。
﹁どうです？﹂
私は言ごん下かに答えました。
﹁神品です。なるほどこれでは煙えん客かく先生が、驚きょ倒うとうされたのも不思議はありません﹂
王氏はやや顔色を直しました。が、それでもまだ眉まゆの間には、いくぶんか私の賞しょ讃うさんに、不満らしい気けし色きが見えたものです。
そこへちょうど来合せたのは、私に秋山の神趣を説いた、あの煙客先生です。翁は王氏に会えし釈ゃくをする間まも、嬉しそうな微笑を浮べていました。
﹁五十年前ぜんに秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今きょ日うはまたこういう富ふう貴きのお宅に、再びこの図とめぐり合いました。まことに意外な因縁です﹂
煙客翁はこう言いながら、壁上の大たい癡ちを仰ぎ見ました。この秋山がかつて翁の見た秋山かどうか、それはもちろん誰よりも翁自身が明らかに知っているはずです。ですから私も王氏同様、翁がこの図を眺める容よう子すに、注意深い眼を注いでいました。すると果かぜ然ん翁の顔も、みるみる曇ったではありませんか。
しばらく沈黙が続いた後のち、王氏はいよいよ不安そうに、おずおず翁へ声をかけました。
﹁どうです？ 今も石せき谷こく先生は、たいそう褒ほめてくれましたが、――﹂
私は正直な煙客翁が、有あり体ていな返事をしはしないかと、内心冷ひや冷ひやしていました。しかし王氏を失望させるのは、さすがに翁も気の毒だったのでしょう。翁は秋山を見終ると、叮てい嚀ねいに王氏へ答えました。
﹁これがお手にはいったのは、あなたのご運が好よいのです。ご家かぞ蔵うの諸しょ宝ほうもこの後のちは、一段と光彩を添えることでしょう﹂
しかし王氏はこの言葉を聞いても、やはり顔の憂ゆう色しょくが、ますます深くなるばかりです。
その時もし廉れん州しゅう先生が、遅おくれ馳ばせにでも来なかったなら、我々はさらに気まずい思いをさせられたに違いありません。しかし先生は幸いにも、煙客翁の賞讃が渋りがちになった時、快活に一座へ加わりました。
﹁これがお話の秋山図ですか？﹂
先生は無むぞ造う作さな挨あい拶さつをしてから、黄こう一いっ峯ぽうの画えに対しました。そうしてしばらくは黙もく然ねんと、口くち髭ひげばかり噛かんでいました。
﹁煙えん客かく先せん生せいは五十年前ぜんにも、一度この図をご覧になったそうです﹂
王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉れん州しゅう先生はまだ翁から、一度も秋しゅ山うざんの神しん逸いつを聞かされたことがなかったのです。
﹁どうでしょう？ あなたのご鑑かん裁さいは﹂
先生は歎たん息そくを洩らしたぎり、不あい相かわ変らず画を眺めていました。
﹁ご遠慮のないところを伺うかがいたいのですが、――﹂
王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
﹁これですか？ これは――﹂
廉州先生はまた口を噤つぐみました。
﹁これは？﹂
﹁これは癡ちお翁う第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気淋りん漓りじゃありませんか。林木なぞの設せっ色しょくも、まさに天てん造ぞうとも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布ふき局ょくがあのために、どのくらい活いきているかわかりません﹂
今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧かえりみると、いちいち画の佳かし所ょを指さしながら、盛さかんに感歎の声を挙あげ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
私はその間あいだに煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
﹁先生、これがあの秋山図ですか？﹂
私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬まばたきを一つしました。
﹁まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張ちょ家うけの主人は、狐こせ仙んか何かだったかもしれませんよ﹂
＊ ＊ ＊
﹁秋山図の話はこれだけです﹂
王おう石せき谷こくは語り終ると、おもむろに一碗の茶を啜すすった。
﹁なるほど、不思議な話です﹂
南うん田なんでんは、さっきから銅どう檠けいの焔ほのおを眺めていた。
﹁その後ご王氏も熱心に、いろいろ尋たずねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体幻まぼろしでもありますまいし、――﹂
﹁しかし煙えん客かく先せん生せいの心の中うちには、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の中なかにも、――﹂
﹁山石の青緑だの紅葉のの色だのは、今でもありあり見えるようです﹂
﹁では秋山図がないにしても、憾うらむところはないではありませんか？﹂
王うんおうの両大家は、掌たなごころを拊うって一笑した。