良りょ平うへいはある雑誌社に校正の朱しゅ筆ふでを握っている。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さえあれば、翻ほん訳やくのマルクスを耽たん読どくしている。あるいは太い指の先に一本のバットを楽しみながら、薄暗いロシアを夢みている。百ゆ合りの話もそう云う時にふと彼の心を掠かすめた、切れ切れな思い出の一いっ片ぺんに過ぎない。
今年七しち歳さいの良平は生まれた家の台所に早い午ひる飯めしを掻かきこんでいた。すると隣の金きん三ぞうが汗ばんだ顔を光らせながら、何か大事件でも起ったようにいきなり流し元へ飛びこんで来た。
﹁今ね、良ちゃん。今ね、二にほ本ん芽めの百ゆ合りを見つけて来たぜ。﹂
金三は二本芽を表わすために、上を向いた鼻の先へ両手の人さし指を揃そろえて見せた。
﹁二本芽のね?﹂
良平は思わず目を見張った。一つの根から芽の二本出た、その二本芽の百合と云うやつは容易に見つからない物だったのである。
﹁ああ、うんと太い二本芽のね、ちんぼ芽のね、赤芽のね、……﹂
金三は解けかかった帯の端に顔の汗を拭きながら、ほとんど夢中にしゃべり続けた。それに釣りこまれた良平もいつか膳ぜんを置きざりにしたまま、流し元の框かまちにしゃがんでいた。
﹁御飯を食べてしまえよ。二本芽でも赤芽でも好いいじゃないか。﹂
母はだだ広びろい次の間まに蚕かいこの桑くわを刻きざみ刻み、二三度良平へ声をかけた。しかし彼はそんな事も全然耳へはいらないように、芽はどのくらい太いかとか、二本とも同じ長さかとか、矢つぎ早に問を発していた。金三は勿もち論ろん雄弁だった。芽は二本とも親指より太い。丈たけも同じように揃っている。ああ云う百合は世界中にもあるまい。………
﹁ね、おい、良ちゃん。今いま直すぐ見にあゆびよう。﹂
金三は狡ずるそうに母の方を見てから、そっと良平の裾すそを引いた。二本芽の赤芽のちんぼ芽の百合を見る、――このくらい大きい誘惑はなかった。良平は返事もしない内に、母の藁わら草ぞう履りへ足をかけた。藁草履はじっとり湿しめった上、鼻はな緒おも好いい加減緩ゆるんでいた。
﹁良平! これ! 御飯を食べかけて、――﹂
母は驚いた声を出した。が、もう良平はその時には、先に立って裏庭を駈かけ抜けていた。裏庭の外そとには小こう路じの向うに、木の芽の煙けぶった雑ぞう木きば林やしがあった。良平はそちらへ駈けて行こうとした。すると金三は﹁こっちだよう﹂と一生懸命に喚わめきながら、畑のある右手へ走って行った。良平は一ひと足あし踏み出したなり、大おお仰ぎょうにぐるりと頭を廻すと、前こごみにばたばた駈け戻って来た。なぜか彼にはそうしないと、勇ましい気もちがしないのだった。
﹁なあんだね、畑の土ど手てにあるのかね?﹂
﹁ううん、畑の中にあるんだよ。この向うの麦畑の……﹂
金三はこう云いかけたなり、桑畑の畔あぜへもぐりこんだ。桑畑の中なか生てじ十ゅう文もん字じはもう縦たて横よこに伸ばした枝に、二銭銅貨ほどの葉をつけていた。良平もその枝をくぐりくぐり、金三の跡あとを追って行った。彼の直すぐ鼻の先には継つぎの当った金三の尻に、ほどけかかった帯が飛び廻っていた。
桑畑を向うに抜けた所はやっと節ふし立だった麦畑だった。金三は先に立ったまま、麦と桑とに挟はさまれた畔をもう一度右へ曲りかけた。素早い良平はその途とた端んに金三の脇わきを走り抜けた。が、三間と走らない内に、腹を立てたらしい金三の声は、たちまち彼を立止らせてしまった。
﹁何だい、どこにあるか知ってもしない癖に!﹂
悄しょ気げ返った良平はしぶしぶまた金三を先に立てた。二人はもう駈かけなかった。互にむっつり黙ったまま、麦とすれすれに歩いて行った。しかしその麦畑の隅の、土手の築いてある側へ来ると、金三は急に良平の方へ笑い顔を振り向けながら、足もとの畦うねを指さして見せた。
﹁こう、ここだよ。﹂
良平もそう云われた時にはすっかり不ふき機げ嫌んを忘れていた。
﹁どうね? どうね?﹂
彼はその畦を覗のぞきこんだ。そこには金三の云った通り、赤い葉を巻いた百合の芽が二本、光つ沢やの好いい頭を尖とがらせていた。彼は話には聞いていても、現在この立りっ派ぱさを見ると、声も出ないほどびっくりしてしまった。
﹁ね、太かろう。﹂
金三はさも得意そうに良平の顔へ目をやった。が、良平は頷うなずいたぎり、百合の芽ばかり見守っていた。
﹁ね、太かろう。﹂
金三はもう一度繰返してから、右の方の芽にさわろうとした。すると良平は目のさめたように、慌あわててその手を払いのけた。
﹁あっ、さわんなさんなよう、折れるから。﹂
﹁好いいじゃあ、さわったって。お前さんの百合じゃないに!﹂
金三はまた怒り出した。良平も今度は引きこまなかった。
﹁お前さんのでもないじゃあ。﹂
﹁わしのでないって、さわっても好いいじゃあ。﹂
﹁よしなさいってば。折れちまうよう。﹂
﹁折れるもんじゃよう。わしはさっきさんざさわったよう。﹂
﹁さっきさんざさわった﹂となれば、良平も黙るよりほかはなかった。金三はそこへしゃがんだまま、前よりも手てあ荒らに百合の芽をいじった。しかし三寸に足りない芽は動きそうな気けし色きも見せなかった。
﹁じゃわしもさわろうか?﹂
やっと安心した良平は金三の顔かお色いろを窺うかがいながら、そっと左の芽にさわって見た。赤い芽は良平の指のさきに、妙にしっかりした触しょ覚っかくを与えた。彼はその触覚の中に何とも云われない嬉しさを感じた。
﹁おおなあ!﹂
良平は独り微びし笑ょうしていた。すると金三はしばらくの後のち、突然またこんな事を云い始めた。
﹁こんなに好いいちんぼ芽じゃ球た根まはうんと大きかろうねえ。――え、良ちゃん掘って見ようか?﹂
彼はもうそう云った時には、畦うねの土に指を突つっこんでいた。良平のびっくりした事はさっきより烈はげしいくらいだった。彼は百合の芽も忘れたように、いきなりその手を抑おさえつけた。
﹁よしなさいよう。よしなさいってば。――﹂
それから良平は小声になった。
﹁見つかると、お前さん、叱しかられるよ。﹂
畑の中に生えている百合は野原や山にあるやつと違う。この畑の持ち主ぬし以外に誰も取る事は許されていない。――それは金三にもわかっていた。彼はちょいと未練そうに、まわりの土へ輪を描かいた後のち、素直に良平の云う事を聞いた。
晴れた空のどこかには雲ひば雀りの声が続いていた。二人の子供はその声の下に二にほ本ん芽めの百合を愛しながら、大おお真ま面じ目めにこう云う約束を結んだ。――第一、この百合の事はどんな友だちにも話さない事。第二、毎朝学校へ出る前、二人一しょに見に来る事。……
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翌よく朝あさ二人は約束通り、一しょに百ゆ合りのある麦畑へ来た。百合は赤い芽の先に露の玉を保っていた。金きん三ぞうは右のちんぼ芽を、良りょ平うへいは左のちんぼ芽を、それぞれ爪で弾はじきながら、露の玉を落してやった。
﹁太いねえ!――﹂
良平はその朝もいまさらのように、百合の芽の立りっ派ぱさに見み惚とれていた。
﹁これじゃ五年経っただね。﹂
﹁五年ねえ?――﹂
金三はちょいと良平の顔へ、蔑さげすみに満ちた目を送った。
﹁五年ねえ? 十年くらいずらじゃ。﹂
﹁十年! 十年ってわしより年とし上うえかね?﹂
﹁そうさ。お前さんより年上ずらじゃ。﹂
﹁じゃ花が十とお咲くかね?﹂
五年の百ゆ合りには五つ花が出来、十年の百合には十とお花が出来る、――彼等はいつか年とし上うえのものにそう云う事を教えられていた。
﹁咲くさあ、十とおぐらい!﹂
金三は厳おごそかに云い切った。良平は内心たじろぎながら、云い訣わけのように独り言を云った。
﹁早く咲くと好いいな。﹂
﹁咲くもんじゃあ。夏でなけりゃ。﹂
金三はまた嘲あざ笑わらった。
﹁夏ねえ? 夏なもんか。雨の降る時じぶ分んだよう。﹂
﹁雨の降る時分は夏だよう。﹂
﹁夏は白い着物を着る時だよう。――﹂
良平も容易に負けなかった。
﹁雨の降る時分は夏なもんか。﹂
﹁莫ば迦か! 白い着物を着るのは土どよ用うだい。﹂
﹁嘘うそだい。うちのお母さんに訊きいて見ろ。白い着物を着るのは夏だい!﹂
良平はそう云うか云わない内に、ぴしゃり左の横よこ鬢びんを打たれた。が、打たれたと思った時にはもうまた相手を打ち返していた。
﹁生なま意い気き!﹂
顔色を変えた金三は力一ぱい彼を突き飛ばした。良平は仰あお向むけに麦の畦うねへ倒れた。畦には露が下おりていたから、顔や着物はその拍ひょ子うしにすっかり泥になってしまった。それでも彼は飛び起きるが早いか、いきなり金三へむしゃぶりついた。金三も不意を食ったせいか、いつもは滅めっ多たに負けた事のないのが、この時はべたりと尻しり餅もちをついた。しかもその尻餅の跡は百合の芽の直すぐに近所だった。
﹁喧けん嘩かならこっちへ来い。百合の芽を傷いためるからこっちへ来い。﹂
金三は顋あごをしゃくいながら、桑畑の畔くろへ飛び出した。良平もべそをかいたなり、やむを得ずそこへ出て行った。二人はたちまち取とっ組くみ合いを始めた。顔を真赤にした金三は良平の胸ぐらを掴つかまえたまま、無茶苦茶に前後へこづき廻した。良平はふだんこうやられると、たいてい泣き出してしまうのだった。しかしその朝は泣き出さなかった。のみならず頭がふらついて来ても、剛ごう情じょうに相手へしがみついていた。
すると桑の間から、突然誰かが顔を出した。
﹁はえ、まあ、お前さんたちは喧嘩かよう。﹂
二人はやっと掴つかみ合いをやめた。彼等の前には薄うす痘い痕ものある百姓の女房が立っていた。それはやはり惣そう吉きちと云う学校友だちの母親だった。彼女は桑を摘つみに来たのか、寝間着に手てぬ拭ぐいをかぶったなり、大きい笊ざるを抱えていた。そうして何か迂うさ散んそうに、じろじろ二人を見比べていた。
﹁相すも撲うだよう。叔お母ばさん。﹂
金三はわざと元気そうに云った。が、良平は震ふるえながら、相手の言葉を打ち切るように云った。
﹁嘘つき! 喧嘩だ癖に!﹂
﹁手前こそ嘘つきじゃあ。﹂
金三は良平の、耳みみ朶たぶを掴つかんだ。が、まだ仕合せと引張らない内に、怖い顔をした惣吉の母は楽らく々らくとその手を もぎ離した。
﹁お前さんはいつも乱暴だよう。この間うちの惣吉の額ひたいに疵きずをつけたのもお前さんずら。﹂
良平は金三の叱られるのを見ると、﹁ざまを見ろ﹂と云いたかった。しかしそう云ってやるより前に、なぜか涙がこみ上げて来た。そのとたんにまた金三は惣吉の母の手を振り離しながら、片足ずつ躍るように桑の中を向うへ逃げて行った。
﹁日ひが金ねや山まが曇った! 良平の目から雨が降る!﹂
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その翌日は夜明け前から、春には珍らしい大おお雨あめだった。良りょ平うへいの家うちでは蚕に食わせる桑の貯たくわえが足りなかったから、父や母は午ひる頃ごろになると、蓑みのの埃ほこりを払ったり、古い麦むぎ藁わら帽ぼうを探し出したり、畑へ出る仕した度くを急ぎ始めた。が、良平はそう云う中にも肉にっ桂けいの皮を噛かみながら、百ゆ合りの事ばかり考えていた。この降りでは事によると、百合の芽も折られてしまったかも知れない。それとも畑の土と一しょに、球た根まごとそっくり流されはしないか?……
﹁金きん三ぞうのやつも心配ずら。﹂
良平はまたそうも思った。すると可お笑かしい気がした。金三の家は隣だから、軒のき伝づたいに行きさえすれば、傘かさをさす必要もないのだった。しかし昨きの日うの喧けん嘩かの手前、こちらからは遊びに行きたくなかった。たとい向うから遊びに来ても、始はじめは口一つ利きかずにいてやる。そうすればあいつも悄しょ気げるのに違いない。………︵未完︶
︵大正十一年九月︶