芭蕉雑記

芥川龍之介




      

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人声の沖にて何をよぶやらん  桃鄰
 鼠は舟をきしる暁  翁
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須磨の鼠の舟きしるおと
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くじとりて菜飯なめしたたかす夜伽よとぎかな  木節
皆子なり蓑虫みのむし寒く鳴きつくす  乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな  丈艸
吹井ふきゐより鶴をまねかん初時雨しぐれ  其角
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  洗馬せばにて
梅雨つゆばれの私雨わたくしあめや雲ちぎれ
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 使調
  佐夜さよ中山なかやまにて
命なりわづかの笠の下涼み
  杜牧とぼく早行さうかうの残夢、小夜の
  中山にいたりて忽ち驚く
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
 ()()西()()()()()()()使()
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 調
 調調()調調調
夏の月御油ごゆより出でて赤坂あかさか
 これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套ちんたうそしりを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
年の市線香買ひに出でばやな
 仮に「夏の月」の句をリブレツトオよりもスコアアのすぐれてゐる句とするならば、この句の如きは両者ともに傑出したものの一例である。年のいちに線香を買ひに出るのは物寂びたとは云ふものの、懐しい気もちにも違ひない。その上「出でばやな」とはずみかけた調子は、宛然芭蕉その人の心の小躍こをどりを見るやうである。更に又下の句などを見れば、芭蕉の「調べ」を駆使するのに大自在を極めてゐたことには呆気あつけにとられてしまふ外はない。
秋ふかき隣は何をする人ぞ
 調()()()()

      

 西 Formal element  Musical element ()()()()()()
春雨やものかたりゆくみのと笠
春雨や暮れなんとしてけふもあり
柴漬ふしづけや沈みもやらで春の雨
春雨やいざよふ月の海半ば
春雨や綱が袂に小提灯こぢやうちん
  西の京にばけものみて久しく
  あれ果たる家有りけり。
  今は其沙汰なくて、
春雨や人住みてけぶり壁を洩る
物種ものだねの袋濡らしつ春の雨
春雨や身にふる頭巾づきん着たりけり
春雨や小磯の小貝濡るるほど
滝口たきぐちに灯を呼ぶ声や春の雨
ぬなはふ池のかさや春の雨
  夢中吟
春雨やもの書かぬ身のあはれなる
 この蕪村の十二句は目に訴へる美しさを、――殊に大和絵らしい美しさを如何にものびのびと表はしてゐる。しかし耳に訴へて見ると、どうもさほどのびのびとしない。おまけに十二句を続けさまに読めば、同じ「調べ」を繰り返した単調さを感ずるうらみさへある。が、芭蕉はかう云ふ難所に少しも渋滞じふたいを感じてゐない。
春雨やよもぎをのばす草の道
  赤坂にて
無性ぶしやうさやかき起されし春の雨
 ()調()()()()()

      

 ()西()()()()() ()()()()() ()()()()() ()()()()宿()()()
涼しさやすぐに野松の枝のなり
夕顔やゑうて顔出すまどの穴
山賤やまがつのおとがひ閉づるむぐらかな
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ちまきゆふ片手にはさむひたひ髪
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 ()()()西()()()()()
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西西()()
西()()
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黄鳥うぐひすや竹の子藪においなく
さみだれや飼蚕かひこわづらふ桑の畑
 斯く二句を作り侍りしが、鴬は筍藪たけのこやぶといひて老若らうにやくの余情もいみじくこもり侍らん。蚕は熟語をしらぬ人は心のはこびをえこそ聞くまじけれ。是はむしろの一字を入れて家に飼ひたるさまあらんとなり。」
 白楽天の長慶集ちやうけいしふは「嵯峨さが日記」にも掲げられた芭蕉の愛読書の一つである。かう云ふ詩集などの表現法を換骨奪胎くわんこつだつたいすることは必しも稀ではなかつたらしい。たとへば芭蕉の俳諧はその動詞の用法に独特の技巧を弄してゐる。
一声ひとこゑ横たふ時鳥ほととぎす
  立石寺りつしやくじ(前書略)
しづかさや岩にしみ入る蝉の声
  鳳来寺に参籠して
木枯こがらし岩吹とがる杉間すぎまかな
 是等の動詞の用法は海彼岸の文学の字眼じがんから学んだのではないであらうか? 字眼とは一字のこうの為に一句を穎異えいいならしめるものである。例へば下に引用する岑参しんしんの一聯にちようするがよい。
孤燈客夢 寒杵郷愁
 けれども学んだと断言するのは勿論頗る危険である。芭蕉はおのづから海彼岸の詩人と同じ表現法を捉へたかも知れない。しかし下に挙げる一句もやはり暗合に外ならないであらうか?
消えて花の香は撞く夕べかな
 僕の信ずる所によれば、これは明らかに朱飲山しゆいんさん所謂いはゆる倒装法を俳諧に用ひたものである。
紅稲啄残鸚鵡粒 碧梧棲老鳳凰
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殿()()   ()()
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※(「魚+檀のつくり」、第3水準1-94-53)()     

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※(「虫+璃のつくり」、第3水準1-91-62)()()()     


 是等の作品の或ものは滑稽であるのにも違ひない。が、「痩せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの感じは当時の怪談小説よりも寧ろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には縁をつてしまつた。しかし無常の意を寓した作品はたとひ鬼趣ではないにもせよ、常に云ふ可らざる鬼気を帯びてゐる。
  骸骨の画に
夕風や盆挑灯ぼんぢやうちんも糊ばなれ
  本間主馬しゆめが宅に、骸骨どもの笛、
  鼓をかまへてのうする所を画きて、
  壁に掛けたり(下略)
稲妻やかほのところがすすきの穂

(大正十二年―十三年)






底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月14日公開
2004年3月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について