藪の中
芥川龍之介
さやうでございます。あの死(しが)骸(い)を見(み)つけたのは、わたしに違(ちが)ひございません。わたしは今(け)朝(さ)何(い)時(つ)もの通(とほ)り、裏(うら)山(やま)の杉(すぎ)を伐(き)りに參(まゐ)りました。すると山(やま)陰(かげ)の藪(やぶ)の中(なか)に、あの死(しが)骸(い)があつたのでございます。あつた所(ところ)でございますか? それは山(やま)科(しな)の驛(えき)路(ろ)からは、四五町(ちやう)程(ほど)隔(へだ)たつて居(を)りませう。竹(たけ)の中(なか)に痩(や)せ杉(すぎ)の交(まじ)つた、人(ひと)氣(け)のない所(ところ)でございます。
死(しが)骸(い)は縹(はなだ)の水(すゐ)干(かん)に、都(みや)風(こふう)のさび烏(ゑば)帽(う)子(し)をかぶつた儘(まま)、仰(あを)向(む)けに倒(たふ)れて居(を)りました。何(なに)しろ一(ひと)刀(かたな)とは申(まを)すものの、胸(むな)もとの突(つ)き傷(きず)でございますから、死(しが)骸(い)のまはりの竹(たけ)の落(おち)葉(ば)は、蘇(すは)芳(う)に滲(し)みたやうでございます。いえ、血(ち)はもう流(なが)れては居(を)りません。傷(きず)口(ぐち)も乾(かわ)いて居(を)つたやうでございます。おまけに其(そ)處(こ)には、馬(うま)蠅(ばへ)が一匹(ぴき)、わたしの足(あし)音(おと)も聞(きこ)えないやうに、べつたり食(く)ひついて居(を)りましたつけ。
太(た)刀(ち)か何(なに)かは見(み)えなかつたか? いえ、何(なに)もございません。唯(ただ)その側(そば)の杉(すぎ)の根(ね)がたに、繩(なは)が一(ひと)筋(すぢ)落(お)ちて居(を)りました。それから、――さうさう、繩(なは)の外(ほか)にも櫛(くし)が一(ひと)つございました。死(しが)骸(い)のまはりにあつたものは、この二(ふた)つぎりでございます。が、草(くさ)や竹(たけ)の落(おち)葉(ば)は、一面(めん)に踏(ふ)み荒(あら)されて居(を)りましたから、きつとあの男(をとこ)は殺(ころ)される前(まへ)に、餘(よほ)程(ど)手(てい)痛(た)い働(はたら)きでも致(いた)したのに違(ちが)ひございません。何(なに)、馬(うま)はゐなかつたか? あそこは一體(たい)馬(うま)なぞには、はひれない所(ところ)でございます。何(なに)しろ馬(うま)の通(かよ)ふ路(みち)とは、藪(やぶ)一(ひと)つ隔(へだ)たつて居(を)りますから。
あの死(しが)骸(い)の男(をとこ)には、確(たし)かに昨(きの)日(ふ)遇(あ)つて居(を)ります。昨(きの)日(ふ)の、――さあ、午(ひる)頃(ごろ)でございませう。場(ばし)所(よ)は關(せき)山(やま)から山(やま)科(しな)へ、參(まゐ)らうと云(い)ふ途(とち)中(う)でございます。あの男(をとこ)は馬(うま)に乘(の)つた女(をんな)と一しよに、關(せき)山(やま)の方(はう)へ歩(ある)いて參(まゐ)りました。女(をんな)は牟(む)子(し)を垂(た)れて居(を)りましたから、顏(かほ)はわたしにはわかりません。見(み)えたのは唯(ただ)萩(はぎ)重(がさ)ねらしい、衣(きぬ)の色(いろ)ばかりでございます。馬(うま)は月(つき)毛(げ)の、――確(たし)か法(ほふ)師(しが)髮(み)の馬(うま)のやうでございました。丈(たけ)でございますか? 丈(たけ)は四(よ)寸(き)もございましたか? ――何(なに)しろ沙(しや)門(もん)の事(こと)でございますから、その邊(へん)ははつきり存(ぞん)じません。男(をとこ)は、――いえ、太(た)刀(ち)も帶(お)びて居(を)れば、弓(ゆみ)矢(や)も携(たづさ)へて居(を)りました。殊(こと)に黒(くろ)い塗(ぬ)り箙(えびら)へ、二十あまり征(そ)矢(や)をさしたのは、唯(ただ)今(いま)でもはつきり覺(おぼ)えて居(を)ります。
あの男(をとこ)がかやうになろうとは、夢(ゆめ)にも思(おも)はずに居(を)りましたが、まことに人(にん)間(げん)の命(いのち)なぞは、如(によ)露(ろや)亦(くに)如(よで)電(ん)に違(ちが)ひございません。やれやれ、何(なん)とも申(まを)しやうのない、氣(き)の毒(どく)な事(こと)を致(いた)しました。
わたしが搦(から)め取(と)つた男(をとこ)でございますか? これは確(たし)かに多(たじ)襄(やう)丸(まる)と云(い)ふ、名(なだ)高(か)い盜(ぬす)人(びと)でございます。尤(もつと)もわたしが搦(から)め取(と)つた時(とき)には、馬(うま)から落(お)ちたのでございませう、粟(あは)田(だぐ)口(ち)の石(いし)橋(ばし)の上(うへ)に、うんうん呻(うな)つて居(を)りました。時(じこ)刻(く)でございますか? 時(じこ)刻(く)は昨(さく)夜(や)の初(しよ)更(かう)頃(ごろ)でございます。何(い)時(つ)ぞやわたしが捉(とら)へ損(そん)じた時(とき)にも、やはりこの紺(こん)の水(すい)干(かん)に、打(うち)出(だ)しの太(た)刀(ち)を佩(は)いて居(を)りました。唯(ただ)今(いま)はその外(ほか)にも御(ごら)覽(ん)の通(とほ)り、弓(ゆみ)矢(や)の類(るゐ)さへ携(たずさ)へて居(を)ります。さやうでございますか? あの死(しが)骸(い)の男(をとこ)が持(も)つてゐたのも、――では人(ひと)殺(ごろ)しを働(はたら)いたのは、この多(たじ)襄(やう)丸(まる)に違(ちが)ひございません。革(かは)を卷(ま)いた弓(ゆみ)、黒(くろ)塗(ぬ)りの箙(えびら)、鷹(たか)の羽(は)の征(そ)矢(や)が十七本(ほん)、――これは皆(みな)、あの男(をとこ)が持(も)つてゐたものでございませう。はい、馬(うま)も仰(おつ)有(しや)る通(とほ)り、法(ほふ)師(しが)髮(み)の月(つき)毛(げ)でございます。その畜(ちく)生(しやう)に落(おと)されるとは、何(なに)かの因(いん)縁(えん)に違(ちが)ひございません。それは石(いし)橋(ばし)の少(すこ)し先(さき)に、長(なが)い端(はづ)綱(な)を引(ひ)いた儘(まま)、路(みち)ばたの青(あを)芒(すすき)を食(く)つて居(を)りました。
この多(たじ)襄(やう)丸(まる)と云(い)ふやつは、洛(らく)中(ちう)に徘(はい)徊(くわい)する盜(ぬす)人(びと)の中(なか)でも、女(をん)好(なず)きのやつでございます。昨(さく)年(ねん)の秋(あき)鳥(とり)部(べで)寺(ら)の賓(びん)頭(づ)盧(る)の後(うしろ)の山(やま)に、物(もの)詣(まう)でに來(き)たらしい女(によ)房(うぼう)が一(ひと)人(り)、女(め)の童(わらは)と一しよに殺(ころ)されてゐたのは、こいつの仕(しわ)業(ざ)だとか申(まを)して居(を)りました。その月(つき)毛(げ)に乘(の)つてゐた女(をんな)も、こいつがあの男(をとこ)を殺(ころ)したとなれば、何(ど)處(こ)へどうしたかわかりません。差(さし)出(で)がましうございますが、それも御(ごせ)詮(ん)議(ぎ)下(くだ)さいまし。
はい、あの死(しが)骸(い)は手(てま)前(へ)の娘(むすめ)が、片(かた)附(づ)いた男(をとこ)でございます。が、都(みやこ)のものではございません。若(わか)狹(さ)の國(こく)府(ふ)の侍(さむらひ)でございます。名(な)は金(かな)澤(ざは)の武(たけ)弘(ひろ)、年(とし)は二十六歳(さい)でございました。いえ、優(やさ)しい氣(きだ)立(て)でございますから、遺(ゐこ)恨(ん)なぞ受(う)ける筈(はず)はございません。
娘(むすめ)でございますか? 娘(むすめ)の名(な)は眞(まさ)砂(ご)、年(とし)は十九歳(さい)でございます。これは男(をとこ)にも劣(おと)らぬ位(くらゐ)勝(かち)氣(き)の女(をんな)でございますが、まだ一度(ど)も武(たけ)弘(ひろ)の外(ほか)には、男(をとこ)を持(も)つた事(こと)はございません。顏(かほ)は色(いろ)の淺(あさ)黒(ぐろ)い、左(ひだり)の眼(めじ)尻(り)に黒(ほく)子(ろ)のある、小(ちひ)さい瓜(うり)實(ざね)顏(がほ)でございます。
武(たけ)弘(ひろ)は昨(きの)日(ふ)娘(むすめ)と一しよに、若(わか)狹(さ)へ立(た)つたのでございますが、こんな事(こと)になりますとは、何(なん)と云(い)ふ因(いん)果(ぐわ)でございませう。しかし娘(むすめ)はどうなりましたやら、壻(むこ)の事(こと)はあきらめましても、これだけは心(しん)配(ぱい)でなりません。どうかこの姥(うば)が一生(しやう)のお願(ねが)ひでございますから、たとひ草(くさ)木(き)を分(わ)けましても、娘(むすめ)の行(ゆく)方(へ)をお尋(たづ)ね下(くだ)さいまし。何(なん)に致(いた)せ憎(にく)いのは、その多(たじ)襄(やう)丸(まる)とか何(なん)とか申(まを)す、盜(ぬす)人(びと)のやつでございます。壻(むこ)ばかりか、娘(むすめ)までも、………︵跡(あと)は泣(な)き入(い)りて言(こと)葉(ば)なし。︶
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あの男(をとこ)を殺(ころ)したのはわたしです。しかし女(をんな)は殺(ころ)しはしません。では何(ど)處(こ)へ行(い)つたのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待(ま)ちなさい。いくら拷(がう)問(もん)にかけられても、知(し)らない事(こと)は申(まを)されますまい。その上(うへ)わたしもかうなれば、卑(ひけ)怯(ふ)な隱(かく)し立(だ)てはしないつもりです。
わたしは昨(きの)日(ふ)の午(ひる)少(すこ)し過(す)ぎ、あの夫(ふう)婦(ふ)に出(で)會(あ)ひました。その時(とき)風(かぜ)の吹(ふ)いた拍(ひや)子(うし)に、牟(む)子(し)の垂(たれ)絹(ぎぬ)が上(あが)つたものですから、ちらりと女(をんな)の顏(かほ)が見(み)えたのです。ちらりと、――見(み)えたと思(おも)ふ瞬(しゆ)間(んかん)には、もう見(み)えなくなつたのですが、一(ひと)つにはその爲(ため)もあつたのでせう、わたしにはあの女(をんな)の顏(かほ)が、女(によ)菩(ぼさ)薩(つ)のやうに見(み)えたのです。わたしはその咄(とつ)嗟(さ)の間(あひだ)に、たとひ男(をとこ)は殺(ころ)しても、女(をんな)は奪(うば)はうと決(けつ)心(しん)しました。
何(なに)、男(をとこ)を殺(ころ)すなぞは、あなた方(がた)の思(おも)つてゐるやうに、大(たい)した事(こと)ではありません。どうせ女(をんな)を奪(うば)ふとなれば、必(かならず)、男(をとこ)は殺(ころ)されるのです。唯(ただ)わたしは殺(ころ)す時(とき)に、腰(こし)の太(た)刀(ち)を使(つか)ふのですが、あなた方(がた)は太(た)刀(ち)を使(つか)はない、唯(ただ)權(けん)力(りよく)で殺(ころ)す、金(かね)で殺(ころ)す、どうかするとお爲(ため)ごかしの言(こと)葉(ば)だけでも殺(ころ)すでせう。成(なる)程(ほど)血(ち)は流(なが)れない、男(をとこ)は立(りつ)派(ぱ)に生(い)きてゐる、――しかしそれでも殺(ころ)したのです。罪(つみ)の深(ふか)さを考(かんが)へて見(み)れば、あなた方(がた)が惡(わる)いか、わたしが惡(わる)いか、どちらが惡(わる)いかわかりません。︵皮(ひに)肉(く)なる微(びせ)笑(う)︶
しかし男(をとこ)を殺(ころ)さずとも、女(をんな)を奪(うば)ふ事(こと)が出(で)來(き)れば、別(べつ)に不(ふそ)足(く)はない譯(わけ)です。いや、その時(とき)の心(こころ)もちでは、出(で)來(き)るだけ男(をとこ)を殺(ころ)さずに、女(をんな)を奪(うば)はうと決(けつ)心(しん)したのです。が、あの山(やま)科(しな)の驛(えき)路(ろ)では、とてもそんな事(こと)は出(で)來(き)ません。そこでわたしは山(やま)の中(なか)へ、あの夫(ふう)婦(ふ)をつれこむ工(くふ)夫(う)をしました。
これも造(ざう)作(さ)はありません。わたしはあの夫(ふう)婦(ふ)と途(みち)づれになると、向(むか)うの山(やま)には古(ふる)塚(づか)がある、その古(ふる)塚(づか)を發(あば)いて見(み)たら、鏡(かがみ)や太(た)刀(ち)が澤(たく)山(さん)出(で)た、わたしは誰(だれ)も知(し)らないやうに、山(やま)の陰(かげ)の藪(やぶ)の中(なか)へ、さう云(い)ふ物(もの)を埋(うづ)めてある、もし望(のぞ)み手(て)があるならば、どれでも安(やす)い値(ね)に賣(うり)り渡(わた)したい、――と云(い)ふ話(はなし)をしたのです。男(をとこ)は何(い)時(つ)かわたしの話(はなし)に、だんだん心(こころ)を動(うご)かし初(はじ)めました。それから、――どうです、慾(よく)と云(い)ふものは、恐(おそろ)しいではありませんか? それから半(はん)時(とき)もたたない内(うち)に、あの夫(ふう)婦(ふ)はわたしと一しよに、山(やま)路(ぢ)へ馬(うま)を向(む)けてゐたのです。
わたしは藪(やぶ)の前(まへ)へ來(く)ると、寶(たから)はこの中(なか)に埋(うづ)めてある、見(み)に來(き)てくれと云(い)ひました。男(をとこ)は慾(よく)に渇(かわ)いてゐますから、異(いぞ)存(ん)のある筈(はず)はありません。が、女(をんな)は馬(うま)も下(お)りずに、待(ま)つていると云(い)ふのです。又(また)あの藪(やぶ)の茂(しげ)つてゐるのを見(み)ては、さう云(い)ふのも無(む)理(り)はありますまい。わたしはこれも實(じつ)を云(い)へば、思(おも)ふ壺(つぼ)にはまつたのですから、女(をんな)一(ひと)人(り)を殘(のこ)した儘(まま)、男(をとこ)と藪(やぶ)の中(なか)へはひりました。
藪(やぶ)は少(しば)時(らく)の間(あひだ)は竹(たけ)ばかりです。が、半(はん)町(ちやう)程(ほど)行(い)つた所(ところ)に、やや開(ひら)いた杉(すぎ)むらがある、――わたしの仕(しご)事(と)を仕(し)遂(と)ぐるのには、これ程(ほど)都(つが)合(ふ)の好(よ)い場(ばし)所(よ)はありません。わたしは藪(やぶ)を押(お)し分(わ)けながら、寶(たから)は杉(すぎ)の下(もと)に埋(うづ)めてあると、尤(もつと)もらしいをつきました。男(をとこ)はわたしにさう云(い)はれると、もう痩(や)せ杉(すぎ)が透(す)いて見(み)える方(はう)へ、一生(しやう)懸(けん)命(めい)に進(すす)んで行(ゆ)きます。その内(うち)に竹(たけ)が疎(まば)らになると、何(なん)本(ぼん)も杉(すぎ)が竝(なら)んでゐる、――わたしは其(そ)處(こ)へ來(く)るが早(はや)いか、いきなり相(あひ)手(て)を組(く)み伏(ふ)せました。男(をとこ)も太(た)刀(ち)を佩(は)いてゐるだけに、力(ちから)は相(さう)當(たう)にあつたやうですが、不(ふ)意(い)を打(う)たれてはたまりません。忽(たちま)ち一本(ぽん)の杉(すぎ)の根(ね)がたへ、括(くく)りつけられてしまひました。繩(なは)ですか? 繩(なは)は盜(ぬす)人(びと)の難(あり)有(がた)さに、何(い)時(つ)塀(へい)を越(こ)えるかわかりませんから、ちやんと腰(こし)につけてゐたのです。勿(もち)論(ろん)聲(こゑ)を出(だ)させない爲(ため)にも、竹(たけ)の落(おち)葉(ば)を頬(ほほ)張(ば)らせれば、外(ほか)に面(めん)倒(だう)はありません。
わたしは男(をとこ)を片(かた)附(づ)けてしまふと、今(こん)度(ど)は又(また)女(をんな)の所(ところ)へ、男(をとこ)が急(きふ)病(びやう)を起(おこ)したらしいから、見(み)に來(き)てくれと云(い)ひに行(ゆ)きました。これも圖(づぼ)星(し)に當(あた)つたのは、申(まを)し上(あ)げるまでもありますまい。女(をんな)は市(いち)女(めが)笠(さ)を脱(ぬ)いだ儘(まま)、わたしに手(て)をとられながら、藪(やぶ)の奧(おく)へはひつて來(き)ました。所(ところ)が其(そ)處(こ)へ來(き)て見(み)ると、男(をとこ)は杉(すぎ)の根(ね)に縛(しば)られてゐる、――女(をんな)はそれを一(ひと)目(め)見(み)るなり、何(い)時(つ)の間(ま)に懷(ふところ)から出(だ)してゐたか、きらりと小(さす)刀(が)を引(ひ)き拔(ぬ)きました。わたしはまだ今(いま)までに、あの位(くらゐ)氣(きし)性(やう)の烈(はげ)しい女(をんな)は、一(ひと)人(り)も見(み)た事(こと)がありません。もしその時(とき)でも油(ゆだ)斷(ん)してゐたらば、一(ひと)突(つ)きに脾(ひば)腹(ら)を突(つ)かれたでせう。いや、それは身(み)を躱(かは)した所(ところ)が、無(む)二無(む)三に斬(き)り立(た)てられる内(うち)には、どんな怪(け)我(が)も仕(し)兼(か)ねなかつたのです。が、わたしも多(たじ)襄(やう)丸(まる)ですから、どうにかかうにか太(た)刀(ち)も拔(ぬ)かずに、とうとう小(さす)刀(が)を打(う)ち落(おと)しました。いくら氣(き)の勝(か)つた女(をんな)でも、得(えも)物(の)がなければ仕(しか)方(た)がありません。わたしはとうとう思(おも)ひ通(どほ)り、男(をとこ)の命(いのち)は取(と)らずとも、女(をんな)を手(て)に入(い)れる事(こと)は出(で)來(き)たのです。
男(をとこ)の命(いのち)は取(と)らずとも、――さうです。わたしはその上(うへ)にも、男(をとこ)を殺(ころ)すつもりはなかつたのです。所(ところ)が泣(な)き伏(ふ)した女(をんな)を後(あと)に、藪(やぶ)の外(そと)へ逃(に)げようとすると、女(をんな)は突(とつ)然(ぜん)わたしの腕(うで)へ、氣(きち)違(が)ひのやうに縋(すが)りつきました。しかも切(き)れ切(ぎ)れに叫(さけ)ぶのを聞(き)けば、あなたが死(し)ぬか夫(をつと)が死(し)ぬか、どちらか一(ひと)人(り)死(し)んでくれ、二(ふた)人(り)の男(をとこ)に恥(はぢ)を見(み)せるのは、死(し)ぬよりもつらいと云(い)ふのです。いや、その内(うち)どちらにしろ、生(い)き殘(のこ)つた男(をとこ)につれ添(そ)ひたい、――さうも喘(あへ)ぎ喘(あへ)ぎ云(い)ふのです。わたしはその時(とき)猛(まう)然(ぜん)と、男(をとこ)を殺(ころ)したい氣(き)になりました。︵陰(いん)鬱(うつ)なる興(こう)奮(ふん)︶
こんな事(こと)を申(まを)し上(あ)げると、きつとわたしはあなた方(がた)より殘(ざん)酷(こく)な人(にん)間(げん)に見(み)えるでせう。しかしそれはあなた方(がた)が、あの女(をんな)の顏(かほ)を見(み)ないからです。殊(こと)にその一瞬(しゆ)間(んかん)の、燃(も)えるやうな瞳(ひとみ)を見(み)ないからです。わたしは女(をんな)と眼(め)を合(あは)せた時(とき)、たとひ神(かみ)鳴(なり)に打(う)ち殺(ころ)されても、この女(をんな)を妻(つま)にしたいと思(おも)ひました。妻(つま)にしたい、――わたしの念(ねん)頭(とう)にあつたのは、唯(ただ)かう云(い)ふ一事(じ)だけです。これはあなた方(がた)の思(おも)ふやうに、卑(いや)しい色(しき)慾(よく)ではありません。もしその時(とき)色(しき)慾(よく)の外(ほか)に、何(なに)も望(のぞ)みがなかつたとすれば、わたしは女(をんな)を蹴(けた)倒(ふ)しても、きつと逃(に)げてしまつたでせう。男(をとこ)もさうすればわたしの太(た)刀(ち)に、血(ち)を塗(ぬ)る事(こと)にはならなかつたのです。が、薄(うす)暗(ぐら)い藪(やぶ)の中(なか)に、ぢつと女(をんな)の顏(かほ)を見(み)た刹(せつ)那(な)、わたしは男(をとこ)を殺(ころ)さない限(かぎ)り、此(こ)處(こ)は去(さ)るまいと覺(かく)悟(ご)しました。
しかし男(をとこ)を殺(ころ)すにしても、卑(ひけ)怯(ふ)な殺(ころ)し方(かた)はしたくありません。わたしは男(をとこ)の繩(なは)を解(と)いた上(うへ)、太(た)刀(ち)打(う)ちをしろと云(い)ひました。︵杉(すぎ)の根(ね)がたに落(お)ちてゐたのは、その時(とき)捨(す)て忘れた繩(なは)なのです。︶男(をとこ)は血(けつ)相(そう)を變(か)へた儘(まま)、太(ふと)い太(た)刀(ち)を引(ひ)き拔(ぬ)きました。と思(おも)ふと口(くち)も利(き)かずに、憤(ふん)然(ぜん)とわたしへ飛(と)びかかりました。――その太(た)刀(ち)打(う)ちがどうなつたかは、申(まを)し上(あ)げるまでもありますまい。わたしの太(た)刀(ち)は二十三合(がふ)目(め)に、相(あひ)手(て)の胸(むね)を貫(つらぬ)きました。二十三合(がふ)目(め)に、――どうかそれを忘(わす)れずに下(くだ)さい。わたしは今(いま)でもこの事(こと)だけは、感(かん)心(しん)だと思(おも)つてゐるのです。わたしと二十合(がふ)斬(き)り結(むす)んだものは、天(てん)下(か)にあの男(をとこ)一(ひと)人(り)だけですから。︵快(くわ)活(いくわつ)なる微(びせ)笑(う)︶
わたしは男(をとこ)が倒(たふ)れると同(どう)時(じ)に、血(ち)に染(そ)まつた刀(かたな)を下(さ)げたなり、女(をんな)の方(ほう)を振(ふ)り返(かへ)りました。すると、――どうです、あの女(をんな)は何(ど)處(こ)にもゐないではありませんか? わたしは女(をんな)がどちらへ逃(に)げたか、杉(すぎ)むらの間(あいだ)を探(さが)して見(み)ました。が、竹(たけ)の落(おち)葉(ば)の上(うへ)には、それらしい跡(あと)も殘(のこ)つてゐません。又(また)耳(みみ)を澄(す)ませて見(み)ても、聞(きこ)えるのは唯(ただ)男(をとこ)の喉(のど)に、斷(だん)末(まつ)魔(ま)の音(おと)がするだけです。
事(こと)によるとあの女(をんな)は、わたしが太(たち)刀(う)打(ち)を始(はじ)めるが早(はや)いか、人(ひと)の助(たす)けでも呼(よ)ぶ爲(ため)に、藪(やぶ)をくぐつて逃(に)げたのかも知(し)れない。――わたしはさう考(かんが)へると、今(こん)度(ど)はわたしの命(いのち)ですから、太(た)刀(ち)や弓(ゆみ)矢(や)を奪(うば)つたなり、すぐに又(また)もとの山(やま)路(ぢ)へ出(で)ました。其(そ)處(こ)にはまだ女(をんな)の馬(うま)が、靜(しづ)かに草(くさ)を食(く)つてゐます。その後(ご)の事(こと)は申(まを)し上(あ)げるだけ、無(むよ)用(う)の口(くち)數(かず)に過(す)ぎますまい。唯(ただ)、都(みやこ)へはいる前(まへ)に、太(た)刀(ち)だけはもう手(てば)放(な)してゐました。――わたしの白(はく)状(じやう)はこれだけです。どうせ一度(ど)は樗(あふち)の梢(こずゑ)に、懸(か)ける首(くび)と思(おも)つてゐますから、どうか極(ごく)刑(けい)に遇(あ)はせて下(くだ)さい。︵昂(かう)然(ぜん)たる態(たい)度(ど)︶
――その紺(こん)の水(すゐ)干(かん)を着(き)た男(をとこ)は、わたしを手(て)ごめにしてしまふと、縛(しば)られた夫(をつと)を眺(なが)めながら、嘲(あざけ)るやうに笑(わら)ひました。夫(をつと)はどんなに無(むね)念(ん)だつたでせう。が、いくら身(みも)悶(だ)えをしても、體(から)中(だぢう)にかかつた繩(なわ)目(め)は、一層(そう)ひしひしと食(く)ひ入(い)るだけです。わたしは思(おも)はず夫(をつと)の側(そば)へ、轉(まろ)ぶやうに走(はし)り寄(よ)りました。いえ、走(はし)り寄(よ)らうとしたのです。しかし男(をとこ)は咄(とつ)嗟(さ)の間(ま)に、わたしを其(そ)處(こ)へ蹴(けた)倒(ふ)しました。丁(ちや)度(うど)その途(とた)端(ん)です。わたしは夫(をつと)の眼(め)の中(なか)に、何(なん)とも云(い)ひやうのない輝(かがや)きが、宿(やど)つてゐるのを覺(さと)りました。何(なん)とも云(い)ひやうのない、――わたしはあの眼(め)を思(おも)ひ出(だ)すと、今(いま)でも身(みぶ)震(る)ひが出(で)ずにはゐられません。口(くち)さへ一(ひと)言(こと)も利(き)けない夫(をつと)は、その刹(せつ)那(な)の眼(め)の中(なか)に、一切(さい)の心(こころ)を傳(つた)へたのです。しかも其(そ)處(こ)に閃(ひらめ)いてゐたのは、怒(いか)りでもなければ悲(かな)しみでもない、――唯(ただ)わたしを蔑(さげす)んだ、冷(つめ)たい光(ひかり)だつたではありませんか? わたしは男(をとこ)に蹴(け)られたよりも、その眼(め)の色(いろ)に打(う)たれたやうに、我(われ)知(し)らず何(なに)か叫(さけ)んだぎり、とうとう氣(き)を失(うしな)つてしまひました。
その内(うち)にやつと氣(き)がついて見(み)ると、あの紺(こん)の水(すゐ)干(かん)の男(をとこ)は、もう何(ど)處(こ)かへ行(い)つてゐました。跡(あと)には唯(ただ)杉(すぎ)の根(ね)がたに、夫(をつと)が縛(しば)られてゐるだけです。わたしは竹(たけ)の落(おち)葉(ば)の上(うへ)に、やつと體(からだ)を起(おこ)したなり、夫(をつと)の顏(かほ)を見(みま)守(も)りました。が、夫(をつと)の眼(め)の色(いろ)は、少(すこ)しもさつきと變(かは)りません。やはり冷(つめ)たい蔑(さげす)みの底(そこ)に、憎(にく)しみの色(いろ)を見(み)せてゐるのです。恥(はづか)しさ、悲(かな)しさ、腹(はら)立(だ)たしさ、――その時(とき)のわたしの心(こころ)の中(うち)は、何(なん)と云(い)へば好(よ)いかわかりません。わたしはよろよろ立(た)ち上(あが)りながら、夫(をつと)の側(そば)へ近(ちか)寄(よ)りました。
﹁あなた。もうかうなつた上(うへ)は、あなたと御(ご)一しよには居(を)られません。わたしは一(ひと)思(おも)ひに死(し)ぬ覺(かく)悟(ご)です。しかし、――しかしあなたもお死(し)になすつて下(くだ)さい。あなたはわたしの恥(はぢ)を御(ごら)覽(ん)になりました。わたしはこのままあなた一(ひと)人(り)、お殘(のこ)し申(まを)す譯(わけ)には參(まゐ)りません。﹂
わたしは一生(しやう)懸(けん)命(めい)に、これだけの事(こと)を云(い)ひました。それでも夫(をつと)は忌(いま)はしさうに、わたしを見(み)つめてゐるばかりなのです。わたしは裂(さ)けさうな胸(むね)を抑(おさ)へながら、夫(をつと)の太(た)刀(ち)を探(さが)しました。が、あの盜(ぬす)人(びと)に奪(うば)はれたのでせう、太(た)刀(ち)は勿(もち)論(ろん)弓(ゆみ)矢(や)さへも、藪(やぶ)の中(なか)には見(みあ)當(た)りません。しかし幸(さいは)ひ小(さす)刀(が)だけは、わたしの足(あし)もとに落(お)ちてゐるのです。わたしはその小(さす)刀(が)を振(ふ)り上(あ)げると、もう一度(ど)夫(をつと)にかう云(い)ひました。
﹁ではお命(いのち)を頂(いただ)かせて下(くだ)さい。わたしもすぐにお供(とも)します。﹂
夫(をつと)はこの言(こと)葉(ば)を聞(き)いた時(とき)、やつと唇(くちびる)を動(うご)かしました。勿(もち)論(ろん)口(くち)には笹(ささ)の落(おち)葉(ば)が、一ぱいにつまつてゐますから、聲(こゑ)は少(すこ)しも聞(きこ)えません。が、わたしはそれを見(み)ると、忽(たちま)ちその言(こと)葉(ば)を覺(さと)りました。夫(をつと)はわたしを蔑(さげす)んだ儘(まま)、﹁殺(ころ)せ﹂と一(ひと)言(こと)云(い)つたのです。わたしは殆(ほとんど)、夢(ゆめ)うつつの内(うち)に、夫(をつと)の縹(はなだ)の水(すゐ)干(かん)の胸(むね)へ、ずぶりと小(さす)刀(が)を刺(さ)し通(とほ)しました。
わたしは又(また)この時(とき)も、氣(き)を失(うしな)つてしまつたのでせう。やつとあたりを見(み)まはした時(とき)には、夫(をつと)はもう縛(しば)られた儘(まま)、とうに息(いき)が絶(た)えてゐました。その蒼(あを)ざめた顏(かほ)の上(うへ)には、竹(たけ)に交(まじ)つた杉(すぎ)むらの空(そら)から、西(にし)日(び)が一(ひと)すぢ落(お)ちてゐるのです。わたしは泣(な)き聲(こゑ)を呑(の)みながら、死(しが)骸(い)の繩(なは)を解(と)き捨(す)てました。さうして、――さうしてわたしがどうなつたか? それだけはもうわたしには、申(まを)し上(あ)げる力(ちから)もありません。兎(と)に角(かく)わたしはどうしても、死(し)に切(き)る力(ちから)がなかつたのです。小(さす)刀(が)を喉(のど)に突(つ)き立(たて)てたり、山(やま)の裾(すそ)の池(いけ)へ身(み)を投(な)げたり、いろいろな事(こと)もして見(み)ましたが、死(し)に切(き)れずにかうしてゐる限(かぎ)り、これも自(じま)慢(ん)にはなりますまい。︵寂(さび)しき微(びせ)笑(う)︶わたしのやうに腑(ふ)甲(が)斐(ひ)ないものは、大(だい)慈(じだ)大(い)悲(ひ)の觀(くわ)世(んぜ)音(おん)菩(ぼさ)薩(つ)も、お見(みは)放(な)しなすつたものかも知(し)れません。しかし夫(をつと)を殺(ころ)したわたしは、盜(ぬす)人(びと)の手(て)ごめに遇(あ)つたわたしは、一體(たい)どうすれば好(よ)いのでせう? 一體(たい)わたしは、――わたしは、――︵突(とつ)然(ぜん)烈(はげ)しき歔(すす)欷(りなき)︶
――盜(ぬす)人(びと)は妻(つま)を手(て)ごめにすると、其(そ)處(こ)へ腰(こし)を下(おろ)した儘(まま)、いろいろ妻(つま)を慰(なぐさ)め出(だ)した。おれは勿(もち)論(ろん)口(くち)は利(き)けない。體(からだ)も杉(すぎ)の根(ね)に縛(しば)られてゐる。が、おれはその間(あひだ)に、何(なん)度(ど)も妻(つま)へ目(め)くばせをした。この男(をとこ)の云(い)ふ事(こと)を眞(ま)に受(う)けるな、何(なに)を云(い)つてもと思(おも)へ、――おれはそんな意(い)味(み)を傳(つた)へたいと思(おも)つた。しかし妻(つま)は悄(せう)然(ぜん)と笹(ささ)の落(おち)葉(ば)に坐(すわ)つたなり、ぢつと膝(ひざ)へ目(め)をやつてゐる。それがどうも盜(ぬす)人(びと)の言(こと)葉(ば)に、聞(き)き入(い)つてゐるやうに見(み)えるではないか? おれは妬(ねたま)しさに身(みも)悶(だ)えをした。が、盜(ぬす)人(びと)はそれからそれへと、巧(かう)妙(めう)に話(はなし)を進(すす)めてゐる。一度(ど)でも肌(はだ)身(み)を汚(けが)したとなれば、夫(をつと)との仲(なか)も折(お)り合(あ)ふまい。そんな夫(をつと)に連(つ)れ添(そ)つてゐるより、自(じぶ)分(ん)の妻(つま)になる氣(き)はないか? 自(じぶ)分(ん)はいとしいと思(おも)へばこそ、大(だい)それた眞(ま)似(ね)も働(はたら)いたのだ、――盜(ぬす)人(びと)はとうとう大(だい)膽(たん)にも、さう云(い)ふ話(はなし)さへ持(も)ち出(だ)した。
盜(ぬす)人(びと)にかう云(い)はれると、妻(つま)はうつとりと顏(かほ)を擡(もた)げた。おれはまだあの時(とき)程(ほど)、美(うつく)しい妻(つま)は見(み)た事(こと)がない。しかしその美(うつく)しい妻(つま)は、現(げん)在(ざい)縛(しば)られたおれを前(まへ)に、何(なん)と盜(ぬす)人(びと)に返(へん)事(じ)をしたか? おれは中(ちう)有(う)に迷(まよ)つてゐても、妻(つま)の返(へん)事(じ)を思(おも)ひ出(だ)す毎(ごと)に、嗔(しん)恚(い)に燃(も)えなかつたためしはない。妻(つま)は確(たし)かにかう云(い)つた、――﹁では何(ど)處(こ)へでもつれて行(い)つて下(くだ)さい。﹂︵長(なが)き沈(ちん)默(もく)︶
妻(つま)の罪(つみ)はそれだけではない。それだけならばこの闇(やみ)の中(なか)に、今(いま)程(ほど)おれも苦(くる)しみはしまい。しかし妻(つま)は夢(ゆめ)のやうに、盜(ぬす)人(びと)に手(て)をとられながら、藪(やぶ)の外(そと)へ行(ゆ)かうとすると、忽(たちま)ち顏(がん)色(しよく)を失(うしな)つたなり、杉(すぎ)の根(ね)のおれを指(ゆび)さした。﹁あの人(ひと)を殺(ころ)して下(くだ)さい。わたしはあの人(ひと)が生(い)きてゐては、あなたと一しよにはゐられません。﹂――妻(つま)は氣(き)が狂(くる)つたやうに、何(なん)度(ど)もかう叫(さけ)び立(た)てた。﹁あの人(ひと)を殺(ころ)して下(くだ)さい。﹂――この言(こと)葉(ば)は嵐(あらし)のやうに、今(いま)でも遠(とほ)い闇(やみ)の底(そこ)へ、まつ逆(さか)樣(さま)におれを吹(ふ)き落(おと)さうとする。一度(ど)でもこの位(くらゐ)憎(にく)むべき言(こと)葉(ば)が、人(にん)間(げん)の口(くち)を出(で)た事(こと)があらうか? 一度(ど)でもこの位(くらゐ)呪(のろ)はしい言(こと)葉(ば)が、人(にん)間(げん)の耳(みみ)に觸(ふ)れた事(こと)があらうか? 一度(ど)でもこの位(くらゐ)、――︵突(とつ)然(ぜん)迸(ほとばし)る如(ごと)き嘲(てう)笑(せう)︶その言(こと)葉(ば)を聞(き)いた時(とき)は、盜(ぬす)人(びと)さへ色(いろ)を失(うしな)つてしまつた。﹁あの人(ひと)を殺(ころ)して下(くだ)さい。﹂――妻(つま)はさう叫(さけ)びながら、盜(ぬす)人(びと)の腕(うで)に縋(すが)つてゐる。盜(ぬす)人(びと)はぢつと妻(つま)を見(み)た儘(まま)、殺(ころ)すとも殺(ころ)さぬとも返(へん)事(じ)をしない。――と思(おも)ふか思(おも)はない内(うち)に、妻(つま)は竹(たけ)の落(おち)葉(ば)の上(うへ)へ、唯(ただ)、一(ひと)蹴(け)りに蹴(けた)倒(ふ)された、︵再(ふたたび)、迸(ほとばし)る如(ごと)き嘲(てう)笑(せう)︶盜(ぬす)人(びと)は靜(しづ)かに兩(りや)腕(ううで)を組(く)むと、おれの姿(すがた)へ眼(め)をやつた。﹁あの女(をんな)はどうするつもりだ? 殺(ころ)すか、それとも助(たす)けてやるか? 返(へん)事(じ)は唯(ただ)頷(うなづ)けば好(よ)い。殺(ころ)すか?﹂――おれはこの言(こと)葉(ば)だけでも、盜(ぬす)人(びと)の罪(つみ)は赦(ゆる)してやりたい。︵再(ふたたび)、長(なが)き沈(ちん)默(もく)︶
妻(つま)はおれがためらふ内(うち)に、何(なに)か一(ひと)聲(こえ)叫ぶが早(はや)いか、忽(たちま)ち藪(やぶ)の奧(おく)へ走り出(だ)した。盜(ぬす)人(びと)も咄(とつ)嗟(さ)に飛(と)びかかつたが、これは袖(そで)さへ捉(とら)へなかつたらしい。おれは唯(ただ)、幻(まぼろし)のやうに、さう云(い)ふ景(けし)色(き)を眺(なが)めてゐた。
盜(ぬす)人(びと)は妻(つま)が逃(に)げ去(さ)つた後(のち)、太(た)刀(ち)や弓(ゆみ)矢(や)を取(と)り上(あ)げると、一箇(かし)所(よ)だけおれの繩(なは)を切(き)つた。﹁今(こん)度(ど)はおれの身(み)の上(うへ)だ。﹂――おれは盜(ぬす)人(びと)が藪(やぶ)の外(そと)へ、姿(すがた)を隱(かく)してしまう時(とき)に、かう呟(つぶや)いたのを覺(おぼ)えてゐる。その跡(あと)は何(ど)處(こ)も靜(しづ)かだつた。いや、まだ誰(だれ)かの泣(な)く聲(こゑ)がする。おれは繩(なは)を解(と)きながら、ぢつと耳(みみ)を澄(す)ませて見(み)た。が、その聲(こゑ)も氣(き)がついて見(み)れば、おれ自(じし)身(ん)の泣(な)いてゐる聲(こゑ)だつたではないか? ︵三(みた)度(び)、長(なが)き沈(ちん)默(もく)︶
おれはやつと杉(すぎ)の根(ね)から、疲(つか)れ果(は)てた體(からだ)を起(おこ)した。おれの前(まへ)には妻(つま)が落(おと)した、小(さす)刀(が)が一(ひと)つ光(ひか)つてゐる。おれはそれを手(て)にとると、一(ひと)突(つ)きにおれの胸(むね)へ刺(さ)した。何(なに)か腥(なまぐさ)い塊(かたまり)がおれの口(くち)へこみ上(あ)げて來(く)る。が、苦(くる)しみは少(すこ)しもない。唯(ただ)胸(むね)が冷(つめ)たくなると、一層(そう)あたりがしんとしてしまつた。ああ、何(なん)と云(い)ふ靜(しづ)かさだらう。この山(やま)陰(かげ)の藪(やぶ)の空(そら)には、小(こと)鳥(り)一羽(は)囀(さえづ)りに來(こ)ない。唯(ただ)杉(すぎ)や竹(たけ)の杪(うら)に、寂(さび)しい日(ひか)影(げ)が漂(ただよ)つてゐる。日(ひか)影(げ)が、――それも次(しだ)第(い)に薄(うす)れて來(く)る。もう杉(すぎ)や竹(たけ)も見(み)えない。おれは其(そ)處(こ)に倒(たふ)れた儘(まま)、深(ふか)い靜(しづ)かさに包まれてゐる。
その時(とき)誰(だれ)か忍(しの)び足(あし)に、おれの側(そば)へ來(き)たものがある。おれはそちらを見(み)ようとした。が、おれのまはりには、何(い)時(つ)か薄(うす)闇(やみ)が立(た)ちこめてゐる。誰(たれ)か、――その誰(たれ)かは見(み)えない手(て)に、そつと胸(むね)の小(さす)刀(が)を拔(ぬ)いた。同(どう)時(じ)におれの口(くち)の中(なか)には、もう一度(ど)血(ちし)潮(ほ)が溢(あふ)れて來(く)る。おれはそれぎり永(えい)久(きう)に、中(ちう)有(う)の闇(やみ)へ沈(しづ)んでしまつた。………
︵大正十年十二月作︶
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