学生時代の僕は第三次並びに第四次﹁新思潮﹂の同どう人じんと最も親密に往わう来らいしてゐた。元来作家志望でもなかつた僕のとうとう作家になつてしまつたのは全然彼等の悪影響である。全然?――尤もつとも全然かどうかは疑問かも知れない。当時の僕は彼等以外にも早わ稲せ田だの連中と交際してゐた。その連中もやはり清せい浄じやうなる僕に悪影響を及ぼしたことは確かである。
その連中と云ふのは外でもない。同人雑誌﹁仮かめ面ん﹂を出してゐた日ひな夏つか耿うの之す介け、西さい条でう八や十そ、森もり口ぐち多た里りの諸君である。僕は一二度山さん宮ぐう允まこと君と一しよに、赤い笠の電燈をともした西条君の客間へ遊びに行つた。日夏君や森口君は勿論、先生格の吉よし江えこ弧が雁ん氏に紹介されたのもその客間である。当時どう云ふ話をしたか、それはもう殆ほとんど覚えてゐない。唯いつか怪談の出た晩、人つ子一ひと人り通らない雨降りの大おほ久く保ぼを帰つて来るのに辟へき易えきしたことを覚えてゐる。
しかしその後ごは吉江氏を始め、西条君や森口君とはずつと御ご無ぶ沙さ汰たをつづけてゐる。唯鎌倉の大おほ町まちにゐた頃、日夏君も長は谷せに居きよを移してゐたから、君とは時々往わう来らいした。当時の日夏君の八畳の座敷は御同様借しや家くやに住んでゐた為、すつかり障しや子うじをしめ切つた後あとでも、床とこの間まの壁から陣々の風の吹きこんで来たのは滑こつ稽けいである。けれども鎌倉を去つた後のちは日夏君ともいつか疎そゑ遠んになつた。諸君は皆健在らし。日夏君は時々中央公論に詩に関する長論文を発表してゐる。あの原稿を書いてゐる部屋へはもう床の間の風なども吹きこんで来ないことであらう。
︵大正十三年五月︶