1
小をあ穴なり隆ゆう一いち君︵特に﹁君﹂の字をつけるのも可を笑かしい位である︶は僕よりも年少である。が、小穴君の仕事は凡ぼん庸ようではない。若し僕の名も残るとすれば、僕の作品の作者としてよりも小穴君の装さう幀ていした本の作者として残るであらう。これは小穴君に媚こびるのではない。世間にへり下くだつて見せるのではなほ更ない。造形美術と文芸との相違を勘かん定ぢやうに入れて言ふのである。︵文芸などと云ふものは、――殊に小説などと云ふものは三百年ばかりたつた後のちは滅めつ多たに通用するものではない。︶しかし大地震か大火事かの為に小穴君の画も焼けてしまへば、今度は或は小穴君の名も僕との腐くされ縁えんの為に残るであらう。
小穴君は神経質に徹してゐる。時々勇敢なことをしたり、或は又言つたりするものの、決して豪がう放はうな性格の持ち主ではない。が、諧かい謔ぎやく的精神は少からず持ち合せてゐる。僕は或時海から上あがり、﹁なんだかインキンたむしになりさうだ﹂と言つた。すると小穴君は机の上にあつたアルコオルの罎びんを渡しながら、﹁これを睾きん丸たまへ塗ぬつて置くと好いいや﹂と勧すすめた。僕は小穴君の言葉通りに丁てい寧ねいに睾丸へアルコオルを塗つた。その時の睾丸の熱くなつたことは火ひあ焙ぶりにでもなるかと思ふ位だつた。僕は﹁これは大変だ﹂と言ひながら、畳の上を転ころげまはつた。小穴君はひとり腹を抱へ、﹁それは大変だ﹂などと同情︵?︶してゐた。僕はそれ以来どんなことがあつても、睾丸にアルコオルは塗らないことにしてゐる。……
小穴君は又発ほつ句くを作つてゐる。これも亦また決して余技ではない。のみならず小穴君の画ゑと深い血けつ脈みやくを通かよはせてゐる。僕はやはり発句の上にも少からず小穴君の啓発を受けた。︵何なんの啓発も受けないものは災わざはひなるかな。同時に又仕合せなるかな。︶
足た袋びを干ほす畠の木にも枝のなり 隆一
2
堀ほり辰たつ雄を君も僕よりは年少である。が、堀君の作品も凡庸ではない。東京人、坊ちやん、詩人、本好き――それ等の点も僕と共通してゐる。しかし僕のやうに旧時代ではない。僕は﹁新感覚﹂に恵まれた諸家の作品を読んでゐる。けれども堀君はかう云ふ諸家に少しも遜そん色しよくのある作家ではない。次の詩は決して僕の言葉の誇張でないことを明らかにするであらう。
僕の
ぢつと聞いてゐると
皿やナイフの音がして来る。
堀君の小説も亦またこの詩のやうな特色を具そなへたものである。年少の作家たちは明あ日すにも続々と文壇に現れるであらう。が、堀君もかう云ふ作家たちの中にいつか誰も真ま似ね手てのない一ひと人りとなつて出ることは確かである。由来我々日本人は﹁早熟にして早老﹂などと嘲あざけられ易い。が、熱帯の女によ人にんの十三にして懐くわ妊いにんすることを考へれば、温帯の男なん子しの三十にして頭の禿はげるのは当り前である。のみならず﹁早熟にして晩老﹂などと云ふ、都つが合ふの好いいことは滅めつ多たにはない。僕は無ぶゑ遠んり慮よに堀君の早熟することを祈るものである。﹁悪の華はな﹂の成つたのは作者の二十五歳︵?︶の時だつた。年少高科に登るのは老大低科に居をるのよりも好よい。晩老する工くふ夫うなどは後あとにし給へ。
3
この後あとは誰を書いても善よい。又誰を書かないでも善い。すると書かずにゐるほど気楽であるから、﹁3﹂と書いただけでやめることにした。
︵昭和二年五月︶