下しもに掲げるのは、最近予よが本ほん多だし子しや爵く︵仮名︶から借覧する事を得た、故ドクトル・北きた畠ばた義けぎ一いち郎らう︵仮名︶の遺書である。北畠ドクトルは、よし実名を明あきらかにした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。予自身も、本多子爵に親しん炙しやして、明治初期の逸いつ事じさ瑣だ談んを聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、猶なほ二三、予が仄そく聞ぶんした事実をつけ加へて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だつたと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。現に後者に関しては、ドクトル自身の手になつた戯曲さへあつて、それはヴオルテエルの Candide の一部を、徳川時代の出来事として脚色した、二幕物の喜劇だつたさうである。
北きた庭には筑つく波ばが撮影した写真を見ると、北畠ドクトルは英イギ吉リ利ス風の頬髯を蓄へた、容貌魁くわ偉いゐな紳士である。本多子爵によれば、体格も西洋人を凌しのぐばかりで、少年時代から何をするのでも、精力抜群を以て知られてゐたと云ふ。さう云へば遺書の文字さへ、鄭てい板はん橋けう風の奔放な字で、その淋りん漓りたる墨ぼく痕こんの中にも、彼の風貌が看かん取しゆされない事もない。
勿論予はこの遺書を公おほやけにするに当つて、幾多の改かい竄ざんを施した。譬たとへば当時まだ授爵の制がなかつたにも関らず、後年の称に従つて本多子爵及夫人等の名を用ひた如きものである。唯、その文章の調子に至つては、殆ほとんど原文の調子をそつくりその儘まま、ひき写したと云つても差支へない。
―――――――――――――――――
本多子爵閣下、並に夫人、
予は予が最さい期ごに際し、既往三年来、常に予が胸底に蟠わだかまれる、呪ふ可き秘密を告白し、以て卿けい等らの前に予が醜悪なる心事を暴露せんとす。卿等にして若しこの遺書を読むの後、猶なほ卿等の故人たる予の記憶に対し、一片憐れん憫びんの情を動す事ありとせんか、そは素もとより予にとりて、望外の大幸なり。されど又予を目して、万死の狂徒と做なし、当まさに屍しかばねに鞭打つて後已やむ可しとするも、予に於ては毫がうも遺憾とする所なし。唯、予が告白せんとする事実の、余りに意想外なるの故を以て、妄みだりに予を誣しふるに、神経病患者の名を藉かる事勿なかれ。予は最近数ヶ月に亘わたりて、不眠症の為に苦しみつつありと雖いへども、予が意識は明白にして、且かつ極めて鋭敏なり。若し卿等にして、予が二十年来の相さう識しきたるを想起せんか。︵予は敢あへて友人とは称せざる可し︶請こふ、予が精神的健康を疑ふ事勿れ。然らずんば、予が一生の汚辱を披ひれ瀝きせんとする此遺書の如きも、結局無用の故こ紙したると何の選ぶ所か是これあらん。
閣下、並に夫人、予は過去に於て殺人罪を犯したると共に、将来に於ても亦同一罪悪を犯さんとしたる卑いやしむ可き危険人物なり。しかもその犯罪が卿等に最も親近なる人物に対して、企画せられたるのみならず、又企画せられんとしたりと云ふに至りては、卿等にとりて正に意外中の意外たる可し。予は是ここに於て、予が警告を再ふたたびするの、必要なる所ゆゑ以んを感ぜざる能あたはず。予は全然正しや気うきにして、予が告白は徹頭徹尾事実なり。卿等幸さいはひにそを信ぜよ。而しかして予が生涯の唯一の記念たる、この数枚の遺書をして、空しく狂人の囈げい語ごたらしむる事勿れ。
予はこれ以上予の健全を喋てふ々てふすべき余裕なし。予が生存すべき僅少なる時間は、直ぢき下げに予を駆りて、予が殺人の動機と実行とを叙し、更に進んで予が殺人後の奇怪なる心境に言及せしめずんば、已まざらんとす。されど、嗚あ呼あされど、予は硯けんに呵かし紙しに臨んで、猶なほ惶くわ々うくわうとして自ら安からざるものあるを覚ゆ。惟おもふに予が過去を点検し記載するは、予にとりて再ふたたび過去の生活を営むと、畢ひつ竟きやう何の差違かあらん。予は殺人の計画を再ふたたびし、その実行を再し、更に最近一年間の恐る可き苦悶を再せざる可べからず。是果して善く予の堪へ得可き所なりや否や。予は今にして、予が数年来失却したる我わが耶ヤソ蘇キリ基ス督トに祈る。願くば予に力を与へ給へ。
予は少時より予が従妹たる今の本多子爵夫人︵三人称を以て、呼ぶ事を許せ︶往年の甘かん露ろじ寺あ明き子こを愛したり。予の記憶に溯さかのぼりて、予が明子と偕ともにしたる幸福なる時間を列記せんか。そは恐らく卿等が卒そつ読どくの煩はんに堪へざる所ならん。されど予はその例証として、今日も猶予が胸底に歴々たる一場の光景を語らざるを得ず。予は当時十六歳の少年にして、明子は未いまだ十歳の少女なりき。五月某日予等は明子が家の芝生なる藤棚の下もとに嬉き戯ぎせしが、明子は予に対して、隻せき脚きやくにて善く久しく立つを得るやと問ひぬ。而して予が否と答ふるや、彼女は左手を垂れて左の趾あしゆびを握り、右手を挙げて均衡を保ちつつ、隻脚にて立つ事、是を久ひさしうしたりき。頭上の紫しと藤うは春日の光りを揺りて垂れ、藤とう下かの明子は凝ぎよ然うぜんとして彫てう塑その如く佇たたずめり。予はこの画の如き数分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。私ひそかに自ら省みて、予が心既に深く彼女を愛せるに驚きしも、実にその藤棚の下に於て然りしなり。爾じら来い予の明子に対する愛は益ますます烈しきを加へ、念ねん々ねんに彼女を想ひて、殆ほとんど学を廃するに至りしも、予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず。陰いん晴せい定りなき感情の悲天の下に、或は泣き、或は笑ひて、茫ばう々ばう数年の年月を閲けみせしが、予の二十一歳に達するや、予が父は突然予に命じて、遠く家業たる医学を英京竜ロン動ドンに学ばしめぬ。予は訣別に際して、明子に語るに予が愛を以てせんとせしも、厳粛なる予等が家庭は、斯かかる機会を与ふるに吝やぶさかなりしと共に、儒教主義の教育を受けたる予も、亦桑さう間かん濮ぼく上じやうの譏そしりを惧おそれたるを以て、無限の離愁を抱きつつ、孤こき笈ふへ飄うぜ然んとして英京に去れり。
英イギ吉リ利ス留学の三年間、予がハイド・パアクの芝生に立ちて、如何に故こゑ園んの紫しと藤うく花わ下かなる明子を懐おもひしか、或は又予がパルマルの街頭を歩して、如何に天涯の遊子たる予自身を憫あはれみしか、そは茲ここに叙説するの要なかる可し。予は唯、竜ロン動ドンに在るの日、予が所いは謂ゆる薔薇色の未来の中に、来る可き予等の結婚生活を夢想し、以て僅に悶々の情を排せしを語れば足る。然り而して予の英吉利より帰朝するや、予は明子の既に嫁して第×銀行頭取満みつ村むら恭きよ平うへいの妻となりしを知りぬ。予は即座に自殺を決心したれども、予が性来の怯けふ懦だと、留学中帰き依えしたる基キリ督スト教けうの信仰とは、不幸にして予が手を麻ま痺ひせしめしを如いか何ん。卿等にして若し当時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が帰朝後旬日にして、再ふたたび英京に去らんとし、為に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。当時の予が心境を以てすれば、実に明子なきの日本は、故国に似て故国にあらず、この故国ならざる故国に止つて、徒いたづらに精神的敗残者たるの生涯を送らんよりは、寧むしろチヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるの遙はるかに慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛はう棄きせしめ、加しか之のみならず予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚よらしめ了をはりぬ。
是に於て予は予の失恋の慰ゐし藉やを神に求めたり。当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸ぜん次じ熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、一いつに同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。予は屡しばしば、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜行かう人じん稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。若し卿等にして予が児女の情あるを哂わらはずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私ひそかに従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔きよ欷きせしを語るも善し。
予が愛の新あらたなる転向を得しは、所いは謂ゆる﹁あきらめ﹂の心理を以て、説明す可きものなりや否や、予は之を詳つまびらかにする勇気と余裕とに乏しけれど、予がこの肉親的愛情によりて、始めて予が心の創さう痍いを医し得たるの一事は疑ふ可べからず。是を以て帰朝以来、明子夫妻の消息を耳にするを蛇だか蝎つの如く恐れたる予は、今や予がこの肉親的愛情に依頼し、進んで彼等に接近せん事を希望したり。こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安の益ますます大にして、念頭些いささかの苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。
予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日両国橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機会として、折から校かう書しよ十数輩と共に柳橋万まん八ぱちの水楼に在りし、明子の夫満村恭平と、始めて一いつ夕せきの歓くわんを倶ともにしたり。歓くわんか、歓か、予はその苦と云ふの、遙に勝まされる所ゆゑ以んを思はざる能はず。予は日記に書して曰いはく、﹁予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆一いつ肚と皮ひの憤怨何いづれの処に向つてか吐かんとするを知らず。神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教へ給へり。然り而して予が妹を、斯かかる禽獣の手に委ゐせしめ給ひしは、何ぞや。予は最早、この残酷にして奸かん譎けつなる神の悪戯に堪ふる能はず。誰か善くその妻と妹とを強がう人じんの為に凌りよ辱うじよくせられ、しかも猶天を仰いで神の御み名なを称となふ可きものあらむ。予は今後断じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色しき鬼きの手より救助す可し。﹂
予はこの遺書を認したたむるに臨み、再ふたたび当時の呪のろふ可き光景の、眼前に彷はう彿ふつするを禁ずる能はず。かの蒼さう然ぜんたる水すゐ靄あいと、かの万点の紅燈と、而してかの隊たい々たい相銜ふくんで、尽くる所を知らざる画ぐわ舫ぼうの列と――嗚あ呼あ、予は終生その夜、その半はん空くうに仰ぎたる煙火の明滅を記憶すると共に、右に大たい妓ぎを擁し、左に雛すう妓ぎを従へ、猥わい褻せつ聞くに堪へざるの俚歌を高吟しつつ、傲がう然ぜんとして涼りや棚うはうの上に酣かん酔すゐしたる、かの肥大豕ゐの如き満村恭平をも記憶す可し。否、否、彼の黒くろ絽ろの羽織に抱だき明めう姜がの三つ紋ありしさへ、今に至つて予は忘却する能はざるなり。予は信ず。予が彼を殺害せんとするの意志を抱きしは、実にこの水すゐ楼ろう煙えん火くわを見しの夕ゆふべに始る事を。又信ず。予が殺人の動機なるものは、その発生の当初より、断じて単なる嫉妬の情にあらずして、寧むしろ不義を懲こらし不正を除かんとする道徳的憤激に存せし事を。
爾来予は心を潜めて、満村恭平の行状に注目し、その果して予が一夕の観察に悖もとらざる痴漢なりや否やを検査したり。幸さいはひにして予が知人中、新聞記者を業とするもの、啻ただに二三子に止らざりしを以て、彼が淫虐無道の行跡の如きも、その予が視聴に入らざるものは絶無なりしと云ふも妨げざる可し。予が先輩にして且知人たる成なる島しま柳りう北ほく先生より、彼が西さい京きや祇うぎ園をんの妓楼に、雛すう妓ぎの未いまだ春を懐いだかざるものを梳そろして、以て死に到らしめしを仄そく聞ぶんせしも、実に此間の事に属す。しかもこの無ぶら頼いの夫にして、夙つとに温良貞淑の称ある夫人明子を遇するや、奴ど婢ひと一般なりと云ふに至つては、誰か善く彼を目して、人間の疫えき癘れいと做なさざるを得んや。既に彼を存するの風を頽おとし俗を濫みだる所ゆゑ以んなるを知り、彼を除くの老を扶たすけ幼を憐む所以なるを知る。是に於て予が殺害の意志たりしものは、徐おもむろに殺害の計画と変化し来れり。
然れども若し是に止らんか、予は恐らく予が殺人の計画を実行するに、猶なほ幾多の逡巡なきを得ざりしならん。幸か、抑そも亦また不幸か、運命はこの危険なる時期に際して、予を予が年少の友たる本多子爵と、一夜墨ぼく上じやうの旗亭柏かし屋はやに会せしめ、以て酒間その口より一場の哀話を語らしめたり。予はこの時に至つて、始めて本多子爵と明子とが、既に許いひ嫁なづけの約ありしにも関らず、彼かの、満村恭平が黄金の威に圧せられて、遂に破約の已やむ無きに至りしを知りぬ。予が心、豈あに憤いきどほりを加へざらんや。かの酒しゆ燈とう一いつ穂すゐ、画ぐわ楼ろう簾れん裡りに黯あん淡たんたるの処、本多子爵と予とが杯はいを含んで、満村を痛罵せし当時を思へば、予は今に至つて自おのづから肉動くの感なきを得ず。されど同時に又、当夜人力車に乗じて、柏屋より帰るの途、本多子爵と明子との旧契を思ひて、一種名状す可らざる悲哀を感ぜしも、予は猶明あきらかに記憶する所なり。請ふ。再び予が日記を引用するを許せ。﹁予は今夕本多子爵と会してより、愈いよいよ旬日の間に満村恭平を殺害す可しと決心したり。子爵の口吻より察するに、彼と明子とは、独り許嫁の約ありしのみならず、又実に相愛の情を抱きたるものの如し。︵予は今日にして、子爵の独身生活の理由を発見し得たるを覚ゆ︶若し予にして満村を殺害せんか、子爵と明子とが伉かう儷れいを完まつたうせんは、必しも難事にあらず。偶たまたま明子の満村に嫁して、未いまだ一児を挙げざるは、恰あたかも天意亦予が計画を扶たすくるに似たるの観あり。予はかの獣心の巨紳を殺害するの結果、予の親愛なる子爵と明子とが、早晩幸福なる生活に入らんとするを思ひ、自おのづから口辺の微笑を禁ずる事能はず。﹂
今や予が殺人の計画は、一転して殺人の実行に移らんとす。予は幾度か周密なる思慮に思慮を重ねたるの後、漸やうやくにして満村を殺害す可き適当なる場所と手段とを選定したり。その何いづ処こにして何なりしかは、敢て詳細なる叙述を試みるの要なかる可し。卿等にして猶明治十二年六月十二日、独ドイ逸ツ皇孫殿下が新富座に於て日本劇を見給ひしの夜、彼、満村恭平が同戯ぎぢ場やうよりその自邸に帰らんとするの途次、馬車中に於て突如病死したる事実を記憶せんか、予は新富座に於て満村の血色宜よろしからざる由を説き、これに所持の丸薬の服用を勧誘したる、一個壮年のドクトルありしを語れば足る。嗚呼、卿等請ふ、そのドクトルの面おもてを想像せよ。彼は々るゐるゐたる紅球燈の光を浴びて、新富座の木戸口に佇たたずみつつ、霖雨の中に奔ほん馳ちし去る満村の馬車を目送するや、昨日の憤怨、今日の歓喜、均ひとしく胸中に蝟ゐし集ふし来り、笑声嗚をえ咽つ共に唇しん頭とうに溢れんとして、殆ほとんど処の何いづ処こたる、時の何なん時どきたるを忘却したりき。しかもその彼が且泣き且笑ひつつ、蕭せう雨うを犯し泥でい濘ねいを踏んで、狂せる如く帰途に就きしの時、彼の呟つぶやいて止めざりしものは明子の名なりしをも忘るる事勿れ。――﹁予は終夜眠らずして、予が書斎を徘はい徊くわいしたり。歓喜か、悲哀か、予はそを明にする能はず。唯、或云ひ難き強烈なる感情は、予の全身を支配して、一いつ霎せふ時じたりと雖いへども、予をして安坐せざらしむるを如いか何ん。予が卓上には三シヤ鞭ンペ酒ンしゆあり。薔薇の花あり。而して又かの丸薬の箱あり。予は殆ほとんど、天使と悪魔とを左右にして、奇怪なる饗宴を開きしが如くなりき……。﹂
予は爾じら来い数ヶ月の如く、幸福なる日につ子しを閲けみせし事あらず。満村の死因は警察医によりて、予の予想と寸分の相違もなく、脳出血の病名を与へられ、即刻地下六尺の暗黒に、腐肉を虫ちう蛆その食としたるが如し。既に然り、誰か又予を目して、殺人犯の嫌疑ありと做なすものあらん。しかも仄そく聞ぶんする所によれば、明子はその良人の死に依りて、始めて蘇色ありと云ふにあらずや。予は満面の喜色を以て予の患者を診察し、閑ひまあれば即すなはち本多子爵と共に、好んで劇を新富座に見たり。是全く予にとりては、予が最後の勝利を博せし、光栄ある戦場として、屡しばしばその花はな瓦ガ斯スとその掛かけ毛まう氈せんとを眺めんとする、不思議なる欲望を感ぜしが為のみ。
然れどもこは真に、数ヶ月の間なりき。この幸福なる数ヶ月の経過すると共に、予は漸次予が生涯中最も憎む可き誘惑と闘ふ可き運命に接近しぬ。その闘たたかひの如何に酷烈を極めたるか、如何に歩ほ々ほ予を死地に駆逐したるか。予は到底茲ここに叙説するの勇気なし。否、この遺書を認したためつつある現在さへも、予は猶この水ハイ蛇ドラの如き誘惑と、死を以て闘はざる可らず。卿等にして若し、予が煩悶の跡を見んと欲せば、請ふ、以下に抄録せんとする予が日記を一いち瞥べつせよ。
﹁十月×日、明子、子なきの故を以て満村家を去る由、予は近日本多子爵と共に、六年ぶりにて彼女と会見す可し。帰朝以来、始はじめ予は彼女を見るの己おのれの為に忍びず、後は彼女を見るの彼女の為に忍びずして、遂に荏じん苒ぜん今日に及べり。明子の明めい眸ぼう、猶六年以前の如くなる可きや否や。
﹁十月×日、予は今日本多子爵を訪れ、始めて共に明子の家に赴おもむかんとしぬ。然るに豈あに計はからんや、子爵は予に先立ちて、既に彼女を見る事両三度なりと云はんには。子爵の予を疎外する、何ぞ斯かくの如く甚しきや。予は甚しく不快を感じたるを以て、辞を患者の診察に託し、惶そうくわうとして子爵の家を辞したり。子爵は恐らく予の去りし後、単身明子を訪れしならんか。
﹁十一月×日、予は本多子爵と共に、明子を訪とひぬ。明子は容色の幾分を減却したれども、猶紫しと藤うく花わ下かに立ちし当年の少女を髣はう髴ふつするは、未いまだ必しも難事にあらず。嗚あ呼あ予は既に明子を見たり。而して予が胸中、反つて止む可らざる悲哀を感ずるは何ぞ。予はその理由を知らざるに苦む。
﹁十二月×日、子爵は明子と結婚する意志あるものの如し。斯くして予が明子の夫を殺害したる目的は、始めて完成の域に達するを得ん。されど――されど、予は予が再ふたたび明子を失ひつつあるが如き、異様なる苦痛を免るる事能はず。
﹁三月×日、子爵と明子との結婚式は、今年年末を期して、挙行せらるべしと云ふ。予はその一日も速すみやかならん事を祈る。現状に於ては、予は永久にこの止み難き苦痛を脱離する能はざる可し。
﹁六月十二日、予は独り新富座に赴おもむけり。去年今月今日、予が手に仆たふれたる犠牲を思へば、予は観劇中も自おのづから会心の微笑を禁ぜざりき。されど同座より帰途、予がふと予の殺人の動機に想到するや、予は殆ほとんど帰きし趣ゆを失ひたるかの感に打たれたり。嗚あ呼あ、予は誰の為に満村恭平を殺せしか。本多子爵の為か、明子の為か、抑そも亦予自身の為か。こは予も亦答ふる能はざるを如いか何ん。
﹁七月×日、予は子爵と明子と共に、今夕馬車を駆つて、隅田川の流りう燈とう会ゑを見物せり。馬車の窓より洩るる燈光に、明子の明めい眸ぼうの更に美しかりしは、殆ほとんど予をして傍かたはらに子爵あるを忘れしめぬ。されどそは予が語らんとする所にあらず。予は馬車中子爵の胃痛を訴ふるや、手にポケツトを捜さぐりて、丸薬の函はこを得たり。而してその﹁かの丸薬﹂なるに一驚したり。予は何が故に今宵この丸薬を携へたるか。偶然か、予は切にその偶然ならん事を庶こひ幾ねがふ。されどそは必しも偶然にはあらざりしものの如し。
﹁八月×日、予は子爵と明子と共に、予が家に晩餐を共にしたり。しかも予は終始、予がポケツトの底なるかの丸薬を忘るる事能はず。予の心は、殆予自身にとりても、不可解なる怪物を蔵するに似たり。
﹁十一月×日、子爵は遂に明子と結婚式を挙げたり。予は予自身に対して、名状し難き憤ふん怒ぬを感ぜざるを得ず。その憤怒たるや、恰あたかも一度遁とん走そうせし兵士が、自己の怯けふ懦だに対して感ずる羞しう恥ちの情に似たるが如し。
﹁十二月×日、予は子爵の請こひに応じて、之をその病床に見たり、明子亦傍にありて、夜来発熱甚しと云ふ。予は診察の後、その感冒に過ぎざるを云ひて、直ただちに家に帰り、子爵の為に自ら調剤しぬ。その間約二時間、﹁かの丸薬﹂の函は終始予に恐る可き誘惑を持続したり。
﹁十二月×日、予は昨夜子爵を殺害せる悪夢に脅おびやかされたり。終日胸中の不快を排し難し。
﹁二月×日、嗚呼予は今にして始めて知る、予が子爵を殺害せざらんが為には、予自身を殺害せざる可らざるを。されど明子は如いか何ん。﹂
子爵閣下、並に夫人、こは予が日記の大略なり。大略なりと雖いへども、予が連日連夜の苦悶は、卿等必ずや善く了解せん。予は本多子爵を殺さざらんが為には、予自身を殺さざる可らず。されど予にして若し予自身を救はんが為に、本多子爵を殺さんか、予は予が満村恭平を屠ほふりし理由を如何の地にか求む可けん。若し又彼を毒殺したる理由にして、予の自覚せざる利己主義に伏在したるものと做なさんか、予の人格、予の良心、予の道徳、予の主張は、すべて地を払つて消滅す可し。是素もとより予の善く忍び得る所にあらず。予は寧むしろ、予自身を殺すの、遙に予が精神的破産に勝まされるを信ずるものなり。故に予は予が人格を樹立せんが為に、今宵﹁かの丸薬﹂の函によりて、嘗かつて予が手に僵たふれたる犠牲と、同一運命を担はんとす。
本多子爵閣下、並に夫人、予は如じよ上じやうの理由の下に、卿等がこの遺書を手にするの時、既に死体となりて、予が寝台に横はらん。唯、死に際して、縷る々る予が呪ふ可き半生の秘密を告白したるは、亦以て卿等の為に聊いささか自みづから潔いさぎよくせんと欲するが為のみ。卿等にして若し憎む可くんば、即ち憎み、憐む可くんば、即ち憐め。予は――自ら憎み、自ら憐める予は、悦んで卿等の憎悪と憐憫とを蒙る可し。さらば予は筆を擱おいて、予が馬車を命じ、直ただちに新富座に赴かん。而して半日の観劇を終りたるの後、予は﹁かの丸薬﹂の幾粒を口に啣ふくみて、再ふたたび予が馬車に投ぜん。節せつ物ぶつは素もとより異れども、紛々たる細雨は、予をして幸に黄くわ梅うば雨いうの天を彷彿せしむ。斯くして予はかの肥大豕ゐに似たる満村恭平の如く、車窓の外に往来する燈火の光を見、車しや蓋がいの上に蕭せう々せうたる夜雨の音を聞きつつ、新富座を去る事甚はなはだ遠からずして、必かならず予が最期の息を呼吸す可し。卿等亦明日の新聞を飜すの時、恐らくは予が遺書を得るに先立つて、ドクトル北畠義一郎が脳出血病を以て、観劇の帰途、馬車内に頓死せしの一項を読まんか。終に臨んで予は切に卿等が幸福と健在とを祈る。卿等に常に忠実なる僕しもべ、北畠義一郎拝。
︵大正七年六月︶