一
お蓮れんが本ほん所じょの横よこ網あみに囲われたのは、明治二十八年の初はつ冬ふゆだった。
妾宅は御おく蔵らば橋しの川に臨んだ、極ごく手狭な平ひら家やだった。ただ庭先から川向うを見ると、今は両りょ国うご停くて車いし場ゃじょうになっている御おた竹けぐ倉ら一帯の藪やぶや林が、時しぐ雨れが勝ちな空を遮っていたから、比較的町まち中なからしくない、閑静な眺めには乏しくなかった。が、それだけにまた旦だん那なが来ない夜よなぞは寂し過ぎる事も度々あった。
﹁婆や、あれは何の声だろう?﹂
﹁あれでございますか? あれは五ごい位さ鷺ぎでございますよ。﹂
お蓮は眼の悪い傭やとい婆さんとランプの火を守りながら、気味悪そうにこんな会話を交換する事もないではなかった。
旦那の牧まき野のは三日にあげず、昼間でも役所の帰り途に、陸りく軍ぐん一いっ等とう主しゅ計けいの軍服を着た、逞たくましい姿を運んで来た。勿もち論ろん日が暮れてから、厩うま橋やばし向うの本宅を抜けて来る事も稀ではなかった。牧野はもう女房ばかりか、男なん女にょ二人の子持ちでもあった。
この頃丸まる髷まげに結ゆったお蓮は、ほとんど宵よい毎ごとに長火鉢を隔てながら、牧野の酒の相手をした。二人の間の茶ぶ台には、大たい抵ていからすみや海この鼠わ腸たが、小綺麗な皿小鉢を並べていた。
そう云う時には過去の生活が、とかくお蓮の頭の中に、はっきり浮んで来勝ちだった。彼女はあの賑やかな家や朋ほう輩ばいたちの顔を思い出すと、遠い他国へ流れて来た彼女自身の便りなさが、一層心に沁しみるような気がした。それからまた以前よりも、ますます肥ふとって来た牧野の体が、不意に妙な憎ぞう悪おの念を燃え立たせる事も時々あった。
牧野は始終愉快そうに、ちびちび杯さかずきを嘗なめていた。そうして何か冗じょ談うだんを云っては、お蓮の顔を覗のぞきこむと、突然大声に笑い出すのが、この男の酒さけ癖くせの一つだった。
﹁いかがですな。お蓮の方かた、東京も満まん更ざらじゃありますまい。﹂
お蓮は牧野にこう云われても、大抵は微笑を洩もらしたまま、酒の燗かんなどに気をつけていた。
役所の勤めを抱えていた牧野は、滅めっ多たに泊って行かなかった。枕もとに置いた時計の針が、十二時近くなったのを見ると、彼はすぐにメリヤスの襯シャ衣ツへ、太い腕を通し始めた。お蓮は自じだ堕ら落くな立て膝をしたなり、いつもただぼんやりと、せわしなそうな牧野の帰り仕度へ、懶ものうい流し眼を送っていた。
﹁おい、羽織をとってくれ。﹂
牧野は夜よな中かのランプの光に、脂あぶらの浮いた顔を照させながら、もどかしそうな声を出す事もあった。
お蓮は彼を送り出すと、ほとんど毎夜の事ながら、気疲れを感ぜずにはいられなかった。と同時にまた独りになった事が、多少は寂しくも思われるのだった。
雨が降っても、風が吹いても、川一つ隔てた藪や林は、心細い響を立て易かった。お蓮は酒臭い夜よ着ぎの襟に、冷たい頬ほおを埋うずめながら、じっとその響に聞き入っていた。こうしている内に彼女の眼には、いつか涙が一ぱいに漂って来る事があった。しかしふだんは重苦しい眠が、――それ自身悪夢のような眠が、間まもなく彼女の心の上へ、昏こん々こんと下くだって来るのだった。
二
﹁どうしたんですよ? その傷は。﹂
ある静かな雨降りの夜よ、お蓮れんは牧まき野のの酌しゃくをしながら、彼の右の頬へ眼をやった。そこには青い剃そり痕あとの中に、大きな蚯みみ蚓ずば脹れが出来ていた。
﹁これか? これは嚊かかあに引っ掻かかれたのさ。﹂
牧野は冗談かと思うほど、顔かお色いろも声もけろりとしていた。
﹁まあ、嫌な御ごし新ん造ぞだ。どうしてまたそんな事をしたんです?﹂
﹁どうしてもこうしてもあるものか。御おさ定だまりの角つのをはやしたのさ。おれでさえこのくらいだから、お前なぞが遇あって見ろ。たちまち喉のど笛ぶえへ噛みつかれるぜ。まず早い話が満まん洲しゅ犬うけんさ。﹂
お蓮はくすくす笑い出した。
﹁笑い事じゃないぜ。ここにいる事が知れた日にゃ、明あし日たにも押しかけて来ないものじゃない。﹂
牧野の言葉には思いのほか、真ま面じ目めそうな調子も交まじっていた。
﹁そうしたら、その時の事ですわ。﹂
﹁へええ、ひどくまた度どき胸ょうが好いいな。﹂
﹁度胸が好い訳じゃないんです。私わたしの国の人間は、――﹂
お蓮は考え深そうに、長火鉢の炭すみ火びへ眼を落した。
﹁私の国の人間は、みんな諦あきらめが好いんです。﹂
﹁じゃお前は焼かないと云う訳か?﹂
牧野の眼にはちょいとの間あいだ、狡こう猾かつそうな表情が浮んだ。
﹁おれの国の人間は、みんな焼くよ。就なか中んずくおれなんぞは、――﹂
そこへ婆さんが勝手から、あつらえ物の蒲かば焼やきを運んで来た。
その晩牧野は久しぶりに、妾宅へ泊って行く事になった。
雨は彼等が床とこへはいってから、霙みぞれの音に変り出した。お蓮は牧野が寝入った後のち、何な故ぜかいつまでも眠られなかった。彼女の冴さえた眼の底には、見た事のない牧野の妻が、いろいろな姿を浮べたりした。が、彼女は同情は勿論、憎ぞう悪おも嫉しっ妬とも感じなかった。ただその想像に伴うのは、多少の好奇心ばかりだった。どう云う夫婦喧嘩をするのかしら。――お蓮は戸の外の藪や林が、霙にざわめくのを気にしながら、真面目にそんな事も考えて見た。
それでも二時を聞いてしまうと、ようやく眠ねむ気けがきざして来た。――お蓮はいつか大おお勢ぜいの旅客と、薄暗い船室に乗り合っている。円い窓から外を見ると、黒い波の重かさなった向うに、月だか太陽だか判然しない、妙に赤あか光びかりのする球たまがあった。乗合いの連中はどうした訳か、皆影の中に坐ったまま、一人も口を開くものがない。お蓮はだんだんこの沈黙が、恐しいような気がし出した。その内に誰かが彼女の後うしろへ、歩み寄ったらしいけはいがする。彼女は思わず振り向いた。すると後には別れた男が、悲しそうな微笑を浮べながら、じっと彼女を見下している。………
﹁金きんさん。﹂
お蓮は彼女自身の声に、明あけ方の眠から覚まされた。牧野はやはり彼女の隣に、静かな呼吸を続けていたが、こちらへ背中を向けた彼が、実際寝入っていたのかどうか、それはお蓮にはわからなかった。
三
お蓮れんに男のあった事は、牧まき野のも気がついてはいたらしかった。が、彼はそう云う事には、頓とん着ちゃくする気けし色きも見せなかった。また実際男の方でも、牧野が彼女にのぼせ出すと同時に、ぱったり遠のいてしまったから、彼が嫉しっ妬とを感じなかったのも、自然と云えば自然だった。
しかしお蓮の頭の中には、始終男の事があった。それは恋しいと云うよりも、もっと残ざん酷こくな感情だった。何な故ぜ男が彼女の所へ、突然足踏みもしなくなったか、――その訳が彼女には呑みこめなかった。勿論お蓮は何度となく、変り易い世間の男心に、一切の原因を見出そうとした。が、男の来なくなった前後の事情を考えると、あながちそうばかりも、思われなかった。と云って何か男の方ほうに、やむを得ない事情が起ったとしても、それも知らさずに別れるには、彼等二人の間柄は、余りに深い馴な染じみだった。では男の身の上に、不慮の大変でも襲おそって来たのか、――お蓮はこう想像するのが、恐しくもあれば望ましくもあった。………
男の夢を見た二三日後のち、お蓮は銭せん湯とうに行った帰りに、ふと﹁身みの上うえ判はん断だん、玄げん象しょ道うど人うじん﹂と云う旗が、ある格こう子しど戸づ造くりの家に出してあるのが眼に止まった。その旗は算さん木ぎを染め出す代りに、赤い穴あな銭せんの形を描かいた、余り見慣れない代しろ物ものだった。が、お蓮はそこを通りかかると、急にこの玄象道人に、男が昨今どうしているか、占うらなって貰おうと云う気になった。
案内に応じて通されたのは、日当りの好いい座敷だった。その上主人が風流なのか、支シ那ナの書棚だの蘭らんの鉢だの、煎せん茶ちゃ家かめいた装飾があるのも、居いご心ころの好よい空気をつくっていた。
玄象道人は頭を剃そった、恰かっ幅ぷくの好いい老人だった。が、金きん歯ばを嵌はめていたり、巻煙草をすぱすぱやる所は、一向道人らしくもない、下品な風ふう采さいを具えていた。お蓮はこの老人の前に、彼女には去年行ゆく方え知れずになった親戚のものが一人ある、その行方を占って頂きたいと云った。
すると老人は座敷の隅から、早速二人のまん中へ、紫した檀んの小机を持ち出した。そうしてその机の上へ、恭うやうやしそうに青せい磁じの香こう炉ろや金きん襴らんの袋を並べ立てた。
﹁その御親戚は御おい幾くつですな?﹂
お蓮は男の年を答えた。
﹁ははあ、まだ御若いな、御若い内はとかく間違いが起りたがる。手てま前えのような老おや爺じになっては、――﹂
玄象道人はじろりとお蓮を見ると、二三度下げびた笑い声を出した。
﹁御生れ年も御存知かな? いや、よろしい、卯うの一いっ白ぱくになります。﹂
老人は金襴の袋から、穴あな銭せんを三枚取り出した。穴銭は皆一枚ずつ、薄赤い絹に包んであった。
﹁私の占いは擲てき銭せん卜ぼくと云います。擲銭卜は昔漢かんの京けい房ぼうが、始めて筮ぜいに代えて行ったとある。御承知でもあろうが、筮と云う物は、一いっ爻こうに三変の次第があり、一いっ卦けに十八変の法があるから、容易に吉凶を判じ難い。そこはこの擲銭卜の長所でな、……﹂
そう云う内に香炉からは、道人の燻くべた香こうの煙が、明あかるい座敷の中に上のぼり始めた。
四
道どう人じんは薄赤い絹を解いて、香こう炉ろの煙に一枚ずつ、中の穴あな銭せんを燻くんじた後のち、今度は床とこに懸けた軸じくの前へ、丁寧に円い頭を下げた。軸は狩かの野う派はが描かいたらしい、伏ふく羲ぎぶ文んお王うし周ゅう公こう孔こう子しの四大聖人の画像だった。
﹁惟これ皇こうたる上じょ帝うてい、宇宙の神聖、この宝ほう香こうを聞いて、願ねがわくは降臨を賜え。――猶ゆう予よ未だ決せず、疑う所は神霊に質ただす。請う、皇こう愍びんを垂れて、速すみやかに吉凶を示し給え。﹂
そんな祭さい文もんが終ってから、道人は紫した檀んの小机の上へ、ぱらりと三枚の穴銭を撒まいた。穴銭は一枚は文字が出たが、跡の二枚は波の方だった。道人はすぐに筆を執って、巻紙にその順序を写した。
銭ぜにを擲なげては陰いん陽ようを定さだめる、――それがちょうど六度続いた。お蓮れんはその穴銭の順序へ、心配そうな眼を注そそいでいた。
﹁さて――と。﹂
擲てき銭せんが終った時、老人は巻まき紙がみを眺めたまま、しばらくはただ考えていた。
﹁これは雷らい水すい解かいと云う卦けでな、諸事思うようにはならぬとあります。――﹂
お蓮は怯おず怯おず三枚の銭から、老人の顔へ視線を移した。
﹁まずその御親戚とかの若い方かたにも、二度と御お遇あいにはなれそうもないな。﹂
玄げん象しょ道うど人うじんはこう云いながら、また穴銭を一枚ずつ、薄赤い絹に包み始めた。
﹁では生きては居りませんのでしょうか?﹂
お蓮は声が震えるのを感じた。﹁やはりそうか﹂と云う気もちが、﹁そんな筈はない﹂と云う気もちと一しょに、思わず声へ出たのだった。
﹁生きていられるか、死んでいられるかそれはちと判じ悪にくいが、――とにかく御遇いにはなれぬものと御思いなさい。﹂
﹁どうしても遇えないでございましょうか?﹂
お蓮に駄だ目めを押された道人は、金きん襴らんの袋の口をしめると、脂あぶらぎった頬のあたりに、ちらりと皮肉らしい表情が浮んだ。
﹁滄そう桑そうの変へんと云う事もある。この東京が森や林にでもなったら、御遇いになれぬ事もありますまい。――とまず、卦けにはな、卦にはちゃんと出ています。﹂
お蓮はここへ来た時よりも、一層心細い気になりながら、高い見けん料りょうを払った後のち、々そうそう家うちへ帰って来た。
その晩彼女は長火鉢の前に、ぼんやり頬ほお杖づえをついたなり、鉄てつ瓶びんの鳴る音に聞き入っていた。玄象道人の占いは、結局何の解釈をも与えてくれないのと同様だった。いや、むしろ積極的に、彼女が密ひそかに抱いだいていた希望、――たといいかにはかなくとも、やはり希望には違いない、万一を期する心もちを打ち砕いたのも同様だった。男は道人がほのめかせたように、実際生きていないのであろうか? そう云えば彼女が住んでいた町も、当時は物騒な最中だった。男はお蓮のいる家うちへ、不あい相かわ変らず通って来る途中、何か間違いに遇ったのかも知れない。さもなければ忘れたように、ふっつり来なくなってしまったのは、――お蓮は白おし粉ろいを刷はいた片かた頬ほおに、炭すみ火びの火ほ照てりを感じながら、いつか火箸を弄もてあそんでいる彼女自身を見みい出だした。
﹁金きん、金、金、――﹂
灰の上にはそう云う字が、何度も書かれたり消されたりした。
五
﹁金きん、金、金、﹂
そうお蓮れんが書き続けていると、台所にいた雇やと婆いばあさんが、突然かすかな叫び声を洩らした。この家うちでは台所と云っても、障子一ひと重え開けさえすれば、すぐにそこが板の間まだった。
﹁何? 婆や。﹂
﹁まあ御ごし新んさん。いらしって御覧なさい。ほんとうに何だと思ったら、――﹂
お蓮は台所へ出て行って見た。
竈かまどが幅をとった板の間には、障しょ子うじに映るランプの光が、物静かな薄暗をつくっていた。婆さんはその薄暗の中に、半はん天てんの腰を屈かがめながら、ちょうど今何か白い獣けものを抱だき上げている所だった。
﹁猫かい?﹂
﹁いえ、犬でございますよ。﹂
両袖を胸に合せたお蓮は、じっとその犬を覗きこんだ。犬は婆さんに抱かれたまま、水みず々みずしい眼を動かしては、頻しきりに鼻を鳴らしている。
﹁これは今け朝さほど五ご味み溜ための所に、啼ないていた犬でございますよ。――どうしてはいって参りましたかしら。﹂
﹁お前はちっとも知らなかったの?﹂
﹁はい、その癖ここにさっきから、御茶碗を洗って居りましたんですが――やっぱり人間眼の悪いと申す事は、仕方のないもんでございますね。﹂
婆さんは水みず口ぐちの腰障子を開けると、暗い外へ小犬を捨てようとした。
﹁まあ御待ち、ちょいと私も抱いて見たいから、――﹂
﹁御お止よしなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。﹂
お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱だきとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震ふるわせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家うちにいた時、客の来ない夜は一しょに寝る、白い小犬を飼っていたのだった。
﹁可かわ哀いそうに、――飼ってやろうかしら。﹂
婆さんは妙な瞬またたきをした。
﹁ねえ、婆や。飼ってやろうよ。お前に面倒はかけないから、――﹂
お蓮は犬を板の間まへ下おろすと、無邪気な笑顔を見せながら、もう肴さかなでも探してやる気か、台所の戸とだ棚なに手をかけていた。
その翌日から妾宅には、赤い頸くび環わに飾られた犬が、畳の上にいるようになった。
綺きれ麗い好きな婆さんは、勿もち論ろんこの変化を悦ばなかった。殊に庭へ下りた犬が、泥足のまま上あがって来なぞすると、一日腹を立てている事もあった。が、ほかに仕事のないお蓮は、子供のように犬を可愛がった。食事の時にも膳ぜんの側には、必ず犬が控えていた。夜はまた彼女の夜着の裾に、まろまろ寝ている犬を見るのが、文字通り毎夜の事だった。
﹁その時分から私は、嫌だ嫌だと思っていましたよ。何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御ごし新ん造ぞの寝顔をしげしげ見ていた事もあったんですから、――﹂
婆さんがかれこれ一年の後のち、私の友人のKと云う医者に、こんな事も話して聞かせたそうである。
六
この小犬に悩まされたものは、雇やと婆いばあさん一人ではなかった。牧まき野のも犬が畳の上に、寝そべっているのを見た時には、不快そうに太い眉まゆをひそめた。
﹁何だい、こいつは?――畜ちく生しょう。あっちへ行け。﹂
陸りく軍ぐん主しゅ計けいの軍服を着た牧野は、邪じゃ慳けんに犬を足あし蹴げにした。犬は彼が座敷へ通ると、白い背中の毛を逆さか立だてながら、無むし性ょうに吠ほえ立て始めたのだった。
﹁お前の犬好きにも呆あきれるぜ。﹂
晩ばん酌しゃくの膳についてからも、牧野はまだ忌いま々いましそうに、じろじろ犬を眺めていた。
﹁前にもこのくらいなやつを飼っていたじゃないか?﹂
﹁ええ、あれもやっぱり白犬でしたわ。﹂
﹁そう云えばお前があの犬と、何でも別れないと云い出したのにゃ、随分手こずらされたものだったけ。﹂
お蓮れんは膝の小犬を撫なでながら、仕方なさそうな微笑を洩らした。汽船や汽車の旅を続けるのに、犬を連れて行く事が面倒なのは、彼女にもよくわかっていた。が、男とも別れた今、その白犬を後あとに残して、見ず知らずの他国へ行くのは、どう考えて見ても寂しかった。だからいよいよ立つと云う前夜、彼女は犬を抱き上げては、その鼻に頬をすりつけながら、何度も止めどない啜すすり泣きを呑みこみ呑みこみしたものだった。………
﹁あの犬は中々利巧だったが、こいつはどうも莫ば迦からしいな。第一人にん相そうが、――人相じゃない。犬けん相そうだが、――犬相が甚だ平凡だよ。﹂
もう酔よいのまわった牧野は、初めの不快も忘れたように、刺さし身みなぞを犬に投げてやった。
﹁あら、あの犬によく似ているじゃありませんか? 違うのは鼻の色だけですわ。﹂
﹁何、鼻の色が違う? 妙な所がまた違ったものだな。﹂
﹁この犬は鼻が黒いでしょう。あの犬は鼻が赭あこうござんしたよ。﹂
お蓮は牧野の酌をしながら、前に飼っていた犬の鼻が、はっきりと眼の前に見えるような気がした。それは始終涎よだれに濡れた、ちょうど子持ちの乳ちぶ房さのように、鳶とび色いろの斑ぶちがある鼻づらだった。
﹁へええ、して見ると鼻の赭あかい方が、犬では美人の相そうなのかも知れない。﹂
﹁美びな男んですよ、あの犬は。これは黒いから、醜ぶお男とこですわね。﹂
﹁男かい、二匹とも。ここの家うちへ来る男は、おればかりかと思ったが、――こりゃちと怪しからんな。﹂
牧野はお蓮の手を突つっつきながら、彼一人上機嫌に笑い崩くずれた。
しかし牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。犬は彼等が床とこへはいると、古ふる襖ぶすま一ひと重え隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはその襖ふすまへ、がりがり前足の爪をかけた。牧野は深夜のランプの光に、妙な苦くし笑ょうを浮べながら、とうとうお蓮へ声をかけた。
﹁おい、そこを開けてやれよ。﹂
が、彼女が襖を開けると、犬は存外ゆっくりと、二人の枕もとへはいって来た。そうして白い影のように、そこへ腹を落着けたなり、じっと彼等を眺め出した。
お蓮は何だかその眼つきが、人のような気がしてならなかった。
七
それから二三日経ったある夜、お蓮れんは本宅を抜けて来た牧まき野のと、近所の寄よ席せへ出かけて行った。
手てじ品な、剣けん舞ぶ、幻げん燈とう、大だい神かぐ楽ら――そう云う物ばかりかかっていた寄席は、身動きも出来ないほど大おお入いりだった。二人はしばらく待たされた後のち、やっと高こう座ざには遠い所へ、窮きゅ屈うくつな腰を下おろす事が出来た。彼等がそこへ坐った時、あたりの客は云い合わせたように、丸まる髷まげに結ゆったお蓮の姿へ、物珍しそうな視線を送った。彼女にはそれが晴がましくもあれば、同時にまた何な故ぜか寂しくもあった。
高座には明るい吊つりランプの下に、白い鉢巻をした男が、長い抜き身を振りまわしていた。そうして楽がく屋やからは朗々と、﹁踏み破る千山万岳の煙﹂とか云う、詩をうたう声が起っていた。お蓮にはその剣舞は勿論、詩吟も退屈なばかりだった。が、牧野は巻煙草へ火をつけながら、面白そうにそれを眺めていた。
剣舞の次は幻げん燈とうだった。高こう座ざに下おろした幕の上には、日にっ清しん戦せん争そうの光景が、いろいろ映ったり消えたりした。大きな水みず柱ばしらを揚げながら、﹁定てい遠えん﹂の沈没する所もあった。敵の赤児を抱だいた樋ひぐ口ちた大い尉いが、突撃を指揮する所もあった。大勢の客はその画えの中に、たまたま日章旗が現れなぞすると、必ず盛な喝かっ采さいを送った。中には﹁帝国万歳﹂と、頓狂な声を出すものもあった。しかし実戦に臨んで来た牧野は、そう云う連中とは没交渉に、ただにやにやと笑っていた。
﹁戦争もあの通りだと、楽らくなもんだが、――﹂
彼は牛ニュ荘ーチャンの激戦の画を見ながら、半ば近所へも聞かせるように、こうお蓮へ話しかけた。が、彼女は不あい相かわ変らず、熱心に幕へ眼をやったまま、かすかに頷うなずいたばかりだった。それは勿論どんな画でも、幻燈が珍しい彼女にとっては、興味があったのに違いなかった。しかしそのほかにも画面の景色は、――雪の積った城じょ楼うろうの屋根だの、枯かれ柳やなぎに繋つないだ兎うさ馬ぎうまだの、辮べん髪ぱつを垂れた支那兵だのは、特に彼女を動かすべき理由も持っていたのだった。
寄席がはねたのは十時だった。二人は肩を並べながら、しもうた家やばかり続いている、人ひと気けのない町を歩いて来た。町の上には半輪の月が、霜の下りた家々の屋根へ、寒い光を流していた。牧野はその光の中へ、時々巻まき煙たば草この煙を吹いては、さっきの剣舞でも頭にあるのか、
﹁鞭べん声せい粛しゅ々くしゅく夜よる河かわを渡る﹂なぞと、古臭い詩の句を微びぎ吟んしたりした。
所が横よこ町ちょうを一つ曲ると、突然お蓮は慴おびえたように、牧野の外がい套とうの袖を引いた。
﹁びっくりさせるぜ。何だ?﹂
彼はまだ足を止めずに、お蓮の方を振り返った。
﹁誰か呼んでいるようですもの。﹂
お蓮は彼に寄り添いながら、気味の悪そうな眼つきをしていた。
﹁呼んでいる?﹂
牧野は思わず足を止めると、ちょいと耳を澄ませて見た。が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。
﹁空そら耳みみだよ。何が呼んでなんぞいるものか。﹂
﹁気のせいですかしら。﹂
﹁あんな幻燈を見たからじゃないか?﹂
八
寄よ席せへ行った翌よく朝あさだった。お蓮れんは房ふさ楊よう枝じを啣くわえながら、顔を洗いに縁えん側がわへ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳みみ盥だらいに湯を汲んだのが、鉢はち前まえの前に置いてあった。
冬ふゆ枯がれの庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽うがいを使いがら、今までは全然忘れていた昨ゆう夜べの夢を思い出した。
それは彼女がたった一人、暗い藪やぶだか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿たどりながら、﹁とうとう私の念ねん力りきが届いた。東京はもう見渡す限り、人ひと気けのない森に変っている。きっと今に金きんさんにも、遇う事が出来るのに違いない。﹂――そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。﹁戦争だ。戦争だ。﹂――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気き負おって見ても、何な故ぜか一向走れなかった。…………
お蓮は顔を洗ってしまうと、手ちょ水うずを使うために肌はだを脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触ふれた。
﹁しっ!﹂
彼女は格別驚きもせず、艶なまめいた眼を後うしろへ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、頻しきりに黒い鼻を舐なめ廻していた。
九
牧まき野のはその後ご二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田たみ宮やと云う男と遊びに来た。ある有名な御用商人の店へ、番頭格に通かよっている田宮は、お蓮れんが牧野に囲かこわれるのについても、いろいろ世話をしてくれた人物だった。
﹁妙なもんじゃないか? こうやって丸まる髷まげに結ゆっていると、どうしても昔のお蓮さんとは見えない。﹂
田宮は明あかるいランプの光に、薄うす痘い痕ものある顔を火ほ照てらせながら、向い合った牧野へ盃さかずきをさした。
﹁ねえ、牧野さん。これが島しま田だに結ゆっていたとか、赤しゃ熊ぐまに結っていたとか云うんなら、こうも違っちゃ見えまいがね、何しろ以前が以前だから、――﹂
﹁おい、おい、ここの婆さんは眼は少し悪いようだが、耳は遠くもないんだからね。﹂
牧野はそう注意はしても、嬉しそうににやにや笑っていた。
﹁大丈夫。聞えた所がわかるもんか。――ねえ、お蓮さん。あの時分の事を考えると、まるで夢のようじゃありませんか。﹂
お蓮は眼を外そらせたまま、膝ひざの上の小犬にからかっていた。
﹁私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大おお事ごとだと、無事に神こう戸べへ上がるまでにゃ、随分これでも気を揉もみましたぜ。﹂
﹁へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――﹂
﹁冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。﹂
田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋じゅ面うめんをつくって見せた。
﹁だがお蓮の今こん日にちあるを得たのは、実際君のおかげだよ。﹂
牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪ちょ口くをさしつけた。
﹁そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。おまけにまた乗った船が、ちょうど玄げん海かいへかかったとなると、恐ろしいしけを食くらってね。――ねえ、お蓮さん。﹂
﹁ええ、私はもう船も何も、沈んでしまうかと思いましたよ。﹂
お蓮は田宮の酌しゃくをしながら、やっと話に調子を合わせた。が、あの船が沈んでいたら、今よりは反かえって益ましかも知れない。――そんな事もふと考えられた。
﹁それがまあこうしていられるんだから、御おた互がい様さまに仕合せでさあ。――だがね、牧野さん。お蓮さんに丸髷が似合うようになると、もう一度また昔のなりに、返らせて見たい気もしやしないか?﹂
﹁返らせたかった所が、仕方がないじゃないか?﹂
﹁ないがさ、――ないと云えば昔の着物は、一つもこっちへは持って来なかったかい?﹂
﹁着物どころか櫛くし簪かんざしまでも、ちゃんと御持参になっている。いくら僕が止せと云っても、一いっ向こう御取上げにならなかったんだから、――﹂
牧野はちらりと長火鉢越しに、お蓮の顔へ眼を送った。お蓮はその言葉も聞えないように、鉄瓶のぬるんだのを気にしていた。
﹁そいつはなおさら好都合だ。――どうです? お蓮さん。その内に一つなりを変えて、御酌を願おうじゃありませんか?﹂
﹁そうして君も序ついでながら、昔むか馴しな染じみを一人思い出すか。﹂
﹁さあ、その昔馴染みと云うやつがね、お蓮さんのように好ハオ縹ピイ緻チエだと、思い出し甲が斐いもあると云うものだが、――﹂
田宮は薄うす痘い痕ものある顔に、擽くすぐったそうな笑いを浮べながら、すり芋いもを箸はしに搦からんでいた。……
その晩田宮が帰ってから、牧野は何も知らなかったお蓮に、近々陸軍を止め次第、商人になると云う話をした。辞職の許可が出さえすれば、田宮が今使われている、ある名高い御用商人が、すぐに高給で抱えてくれる、――何でもそう云う話だった。
﹁そうすりゃここにいなくとも好いいから、どこか手広い家うちへ引っ越そうじゃないか?﹂
牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土みや産げに持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。
﹁この家うちだって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。﹂
お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのに忙いそがしかった。
﹁そうなったら、おれも一しょにいるさ。﹂
﹁だって御ごし新ん造ぞがいるじゃありませんか?﹂
﹁嚊かかあかい? 嚊とも近々別れる筈だよ。﹂
牧野の口くち調ょうや顔色では、この意外な消しょ息うそくも、満更冗談とは思われなかった。
﹁あんまり罪な事をするのは御止しなさいよ。﹂
﹁かまうものか。己おのれに出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。﹂
牧野は険けわしい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。
十
﹁あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田たみ宮やの旦だん那なが御見えになった、ちょうどその明あくる日ですよ。﹂
お蓮れんに使われていた婆さんは、私わたしの友人のKと云う医者に、こう当時の容よう子すを話した。
﹁大おお方かた食しょ中くあたりか何かだったんでしょう。始めは毎日長火鉢の前に、ぼんやり寝ているばかりでしたが、その内に時々どうかすると、畳をよごすようになったんです。御ごし新ん造ぞは何しろ子供のように、可愛がっていらしった犬ですから、わざわざ牛乳を取ってやったり、宝ほう丹たんを口へ啣ふくませてやったり、随分大事になさいました。それに不思議はないんです。ないんですが、嫌いやじゃありませんか? 犬の病気が悪くなると、御新造が犬と話をなさるのも、だんだん珍しくなくなったんです。
﹁そりゃ話をなさると云っても、つまりは御新造が犬を相手に、長々と独り語ごとをおっしゃるんですが、夜よ更ふけにでもその声が聞えて御覧なさい。何だか犬も人間のように、口を利きいていそうな気がして、あんまり好よい気はしないもんですよ。それでなくっても一度なぞは、あるからっ風かぜのひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、――その御使いも近所の占うらない者しゃの所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、――御使いに行って帰って来ると、障しょ子うじのがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様でもいらしったかと思って、障子の隙間から覗いて見ると、やっぱりそこにはたった一人、御新造がいらっしゃるだけなんです。おまけに風に吹かれた雲が、御日様の前を飛ぶからですが、膝へ犬をのせた御新造の姿が、しっきりなしに明るくなったり暗くなったりするじゃありませんか? あんなに気味の悪かった事は、この年になってもまだ二度とは、出っくわした覚えがないくらいですよ。
﹁ですから犬が死んだ時には、そりゃ御新造には御気の毒でしたが、こちらは内ない々ないほっとしたもんです。もっともそれが嬉しかったのは、犬が粗そそをするたびに、掃そう除じをしなければならなかった私ばかりじゃありません。旦那様もその事を御聞きになると、厄やっ介かい払ばらいをしたと云うように、にやにや笑って御出でになりました。犬ですか? 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡きょ台うだいの前へ仆たおれたまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……﹂
ちょうど薬やげ研んぼ堀りの市いちの立つ日、お蓮は大きな鏡台の前に、息の絶えた犬を見出した。犬は婆さんが話した通り、青い吐とぶ物つの流れた中に、冷たい体を横たえていた。これは彼女もとうの昔に、覚悟をきめていた事だった。前の犬には生いき別わかれをしたが、今度の犬には死しに別わかれをした。所しょ詮せん犬は飼えないのが、持って生まれた因いん縁ねんかも知れない。――そんな事がただ彼女の心へ、絶望的な静かさをのしかからせたばかりだった。
お蓮はそこへ坐ったなり、茫然と犬の屍しが骸いを眺めた。それから懶ものうい眼を挙げて、寒い鏡の面おもてを眺めた。鏡には畳に仆たおれた犬が、彼女と一しょに映っていた。その犬の影をじっと見ると、お蓮は目まいでも起ったように、突然両手に顔を掩おおった。そうしてかすかな叫び声を洩らした。
鏡の中の犬の屍骸は、いつか黒かるべき鼻の先が、赭あかい色に変っていたのだった。
十一
妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬ほう莱らいが飾られたりしても、お蓮れんは独り長火鉢の前に、屈くっ托たくらしい頬ほお杖づえをついては、障子の日影が薄くなるのに、懶ものうい眼ばかり注いでいた。
暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発ほっ作さて的きな憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、未いまだにわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧まき野のの妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。――
ある時は床とこへはいった彼女が、やっと眠に就つこうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわりと重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。――ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐに枕まくらから、そっと頭かしらを浮かせて見た。が、そこには掻かい巻まきの格こう子しも模よ様うが、ランプの光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………
またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女の後うしろを、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しい鬢びんを掻かき上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度咄とっ嗟さに通り過ぎた。お蓮は櫛くしを持ったまま、とうとう後うしろを振り返った。しかし明あかるい座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの後のち白い物は、三度彼女の後うしろを通った。……
またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往おう来らいに、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音に交まじりながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近ちか々ぢかと、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……
またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ床とこの中に、いない筈の男が眠っていた。迫った額ひたい、長い睫まつ毛げ、――すべてが夜やは半んのランプの光に、寸すん分ぶんも以前と変らなかった。左の眼めじ尻りに黒ほく子ろがあったが、――そんな事さえ検くらべて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍おどらせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸くびへすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟つぶやいた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹せつ那なに、実際酒臭い牧野の頸くびへ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。
しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を擾さわがすような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。
十二
牧まき野のの妻が訪れたのは、生あい憎にく例の雇やと婆いばあさんが、使いに行っている留る守すだった。案内を請う声に驚かされたお蓮れんは、やむを得ず気のない体を起して、薄暗い玄関へ出かけて行った。すると北向きの格こう子し戸どが、軒さきの御飾りを透すかせている、――そこにひどく顔色の悪い、眼めが鏡ねをかけた女が一人、余り新しくない肩掛をしたまま、俯うつ向むき勝に佇たたずんでいた。
﹁どなた様でございますか?﹂
お蓮はそう尋ねながら、相手の正しょ体うたいを直覚していた。そうしてこの根ねの抜けた丸まる髷まげに、小こも紋んの羽織の袖そでを合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。
﹁私わたくしは――﹂
女はちょいとためらった後のち、やはり俯向き勝に話し続けた。
﹁私わたくしは牧野の家内でございます。滝たきと云うものでございます。﹂
今度はお蓮が口ごもった。
﹁さようでございますか。私わたくしは――﹂
﹁いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。﹂
女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほど罩こもっていなかった。それだけまたお蓮は何と云って好よいか、挨あい拶さつのしように困るのだった。
﹁つきましては今こん日にちは御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――﹂
﹁何でございますか、私に出来る事でございましたら――﹂
まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその﹁御願い﹂もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏ふし目め勝ちな牧野の妻が、静しずかに述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。
﹁いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近きん々きんに東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。﹂
相手はゆっくりこんな事を云った。その容よう子すはまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆あっ気けにとられたなり、しばらくはただ外光に背そむいた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。
﹁いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?﹂
お蓮は舌が剛こわばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔を擡もたげた相手は、細々と冷たい眼を開あきながら、眼めが鏡ね越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪あく夢むのような、気味の悪い心地を起させるのだった。
﹁私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可かわ哀いそうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。﹂
牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何な故ぜか黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金きんさんにも遇あえる時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見みい出だしたのだった。
が、何なん分ぷんか過ぎ去った後のち、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。
十三
七なな草くさの夜よ、牧まき野のが妾宅へやって来ると、お蓮れんは早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつを話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり燻くゆらせていた。
﹁御ごし新ん造ぞはどうかしているんですよ。﹂
いつか興奮し出したお蓮は、苛いら立だたしい眉まゆをひそめながら、剛情に猶なおも云い続けた。
﹁今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。﹂
﹁まあ、なったらなった時の事さ。﹂
牧野は葉巻の煙の中から、薄うす眼めに彼女を眺めていた。
﹁嚊かかあの事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが好いい。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?﹂
﹁私わたしはどうなっても好いいんですけれど、――﹂
﹁好よくはないよ。﹂
お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口を噤つぐんでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、
﹁あなた、後ごし生ょうですから、御ごし新ん造ぞを捨てないで下さい。﹂と云った。
牧野は呆あっ気けにとられたのか、何とも答を返さなかった。
﹁後生ですから、ねえ、あなた――﹂
お蓮は涙を隠すように、黒くろ繻じゅ子すの襟へ顎あごを埋うずめた。
﹁御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――﹂
﹁好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。﹂
葉はま巻きを吸うのも忘れた牧野は、子供を欺だますようにこう云った。
﹁一体この家うちが陰気だからね、――そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこか好いい所があったら、早さっ速そく引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、――何、もう十日も経たちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、――﹂
お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔かお色いろを改めなかった。……
﹁御ごし新ん造ぞの事では旦だん那なさ様まも、随分御心配なすったもんですが、――﹂
Kにいろいろ尋きかれた時、婆さんはまた当時の容よう子すをこう話したとか云う事だった。
﹁何しろ今度の御病気は、あの時分にもうきざしていたんですから、やっぱりまあ旦那様始め、御おあ諦きらめになるほかはありますまい。現に本宅の御新造が、不意に横よこ網あみへ御出でなすった時でも、私わたくしが御使いから帰って見ると、こちらの御新造は御玄関先へ、ぼんやりとただ坐っていらっしゃる、――それを眼鏡越しに睨にらみながら、あちらの御新造はまた上あがろうともなさらず、悪わる丁でい寧ねいな嫌いや味みのありったけを並べて御出でなさる始しま末つなんです。
﹁そりゃ御主人が毒づかれるのは、蔭で聞いている私にも、好いい気のするもんじゃありません。けれども私がそこへ出ると、余計事がむずかしいんです。――と云うのは私も四五年前まえには、御本宅に使われていたもんですから、あちらの御新造に見つかったが最後、反かえって先さき様さまの御腹立ちを煽あおる事になるかも知れますまい。そんな事があっては大変ですから、私は御本宅の御新造が、さんざん悪あく態たいを御つきになった揚あげ句く、御帰りになってしまうまでは、とうとう御玄関の襖ふすまの蔭から、顔を出さずにしまいました。
﹁ところがこちらの御新造は、私わたくしの顔を御覧になると、﹃婆や、今し方御新造が御見えなすったよ。私わたくしなんぞの所へ来ても、嫌味一つ云わないんだから、あれがほんとうの結けっ構こう人じんだろうね。﹄と、こうおっしゃるじゃありませんか? そうかと思うと笑いながら、﹃何でも近々に東京中が、森になるって云っていたっけ。可哀そうにあの人は、気が少し変なんだよ。﹄と、そんな事さえおっしゃるんですよ。……﹂
十四
しかしお蓮れんの憂鬱は、二月にはいって間まもない頃、やはり本ほん所じょの松まつ井いち町ょうにある、手広い二階家へ住むようになっても、不あい相かわ変らず晴れそうな気けし色きはなかった。彼女は婆さんとも口を利きかず、大たい抵ていは茶の間まにたった一人、鉄瓶のたぎりを聞き暮していた。
するとそこへ移ってから、まだ一週間も経たないある夜、もうどこかで飲んだ田たみ宮やが、ふらりと妾宅へ遊びに来た。ちょうど一杯始めていた牧まき野のは、この飲み仲間の顔を見ると、早速手にあった猪ちょ口くをさした。田宮はその猪口を貰う前に、襯シャ衣ツを覗かせた懐ふところから、赤い缶かん詰づめを一つ出した。そうしてお蓮の酌を受けながら、
﹁これは御おみ土や産げです。お蓮夫人。これはあなたへ御土産です。﹂と云った。
﹁何だい、これは?﹂
牧野はお蓮が礼を云う間あいだに、その缶詰を取り上げて見た。
﹁貼ペー紙パーを見給え。膃おっ肭とせ獣いだよ。膃肭獣の缶詰さ。――あなたは気のふさぐのが病だって云うから、これを一つ献上します。産前、産後、婦人病一いっ切さいによろしい。――これは僕の友だちに聞いた能のう書がきだがね、そいつがやり始めた缶詰だよ。﹂
田宮は唇を嘗なめまわしては、彼等二人を見比べていた。
﹁食えるかい、お前、膃おっ肭とせ獣いなんぞが?﹂
お蓮は牧野にこう云われても、無理にちょいと口元へ、微笑を見せたばかりだった。が、田宮は手を振りながら、すぐにその答えを引き受けた。
﹁大丈夫。大丈夫だとも。――ねえ、お蓮さん。この膃おっ肭とせ獣いと云うやつは、牡おすが一匹いる所には、牝めすが百匹もくっついている。まあ人間にすると、牧野さんと云う所です。そう云えば顔も似ていますな。だからです。だから一つ牧野さんだと思って、――可愛い牧野さんだと思って御おあ上がんなさい。﹂
﹁何を云っているんだ。﹂
牧野はやむを得ず苦くし笑ょうした。
﹁牡が一匹いる所に、――ねえ、牧野さん、君によく似ているだろう。﹂
田宮は薄うす痘い痕ものある顔に、一ぱいの笑いを浮べたなり、委いさ細いかまわずしゃべり続けた。
﹁今日僕の友だちに、――この缶詰屋に聞いたんだが、膃おっ肭とせ獣いと云うやつは、牡同志が牝を取り合うと、――そうそう膃肭獣の話よりゃ、今夜は一つお蓮さんに、昔のなりを見せて貰もらうんだった。どうです? お蓮さん。今こそお蓮さんなんぞと云っているが、お蓮さんとは世を忍ぶ仮の名さ。ここは一番音おと羽わ屋やで行きたいね。お蓮さんとは――﹂
﹁おい、おい、牝を取り合うとどうするんだ? その方をまず伺いたいね。﹂
迷惑らしい顔をした牧野は、やっともう一度膃おっ肭とせ獣いの話へ、危険な話題を一転させた。が、その結果は必ずしも、彼が希望していたような、都つご合うの好いいものではなさそうだった。
﹁牝を取り合うとか? 牝を取り合うと、大喧嘩をするんだそうだ。その代りだね、その代り正々堂々とやる。君のように暗打ちなんぞは食わせない。いや、こりゃ失礼。禁きん句くき禁ん句く金きん看かん板ばんの甚じん九くろ郎うだっけ。――お蓮さん。一つ、献じましょう。﹂
田宮は色を変えた牧野に、ちらりと顔を睨にらまれると、てれ隠しにお蓮へ盃さかずきをさした。しかしお蓮は無ぶ気き味みなほど、じっと彼を見つめたぎり、手も出そうとはしなかった。
十五
お蓮れんが床とこを抜け出したのは、その夜の三時過ぎだった。彼女は二階の寝ね間まを後うしろに、そっと暗い梯はし子ごを下りると、手さぐりに鏡台の前へ行った。そうしてその抽ひき斗だしから、剃かみ刀そりの箱を取り出した。
﹁牧まき野のめ。牧野の畜生め。﹂
お蓮はそう呟つぶやきながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀のが、磨とぎ澄ました鋼はがねのが、かすかに彼女の鼻を打った。
いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が動いていた。それは彼女が身を売るまでに、邪じゃ慳けんな継まま母ははとの争いから、荒すさむままに任せた野性だった。白おし粉ろいが地じは肌だを隠したように、この数年間の生活が押し隠していた野性だった。………
﹁牧野め。鬼め。二度の日の目は見せないから、――﹂
お蓮は派手な長なが襦じゅ袢ばんの袖に、一挺の剃刀を蔽おおったなり、鏡台の前に立ち上った。
すると突然かすかな声が、どこからか彼女の耳へはいった。
﹁御お止よし。御止し。﹂
彼女は思わず息を呑んだ。が、声だと思ったのは、時計の振ふり子こが暗い中に、秒を刻んでいる音らしかった。
﹁御止し。御止し。御止し。﹂
しかし梯はし子ごを上あがりかけると、声はもう一度お蓮を捉とらえた。彼女はそこへ立ち止りながら、茶の間まの暗闇を透かして見た。
﹁誰だい?﹂
﹁私。私だ。私。﹂
声は彼女と仲が好よかった、朋輩の一人に違いなかった。
﹁一いっ枝しさんかい?﹂
﹁ああ、私。﹂
﹁久しぶりだねえ。お前さんは今どこにいるの?﹂
お蓮はいつか長火鉢の前へ、昼間のように坐っていた。
﹁御お止よし。御止しよ。﹂
声は彼女の問に答えず、何度も同じ事を繰返すのだった。
﹁何な故ぜまたお前さんまでが止めるのさ? 殺したって好いじゃないか?﹂
﹁お止し。生きているもの。生きているよ。﹂
﹁生きている? 誰が?﹂
そこに長い沈黙があった。時計はその沈黙の中にも、休みない振ふり子こを鳴らしていた。
﹁誰が生きているのさ?﹂
しばらく無むご言んが続いた後のち、お蓮がこう問い直すと、声はやっと彼女の耳に、懐しい名前を囁ささやいてくれた。
﹁金きん――金さん。金さん。﹂
﹁ほんとうかい? ほんとうなら嬉しいけれど、――﹂
お蓮は頬ほお杖づえをついたまま、物思わしそうな眼つきになった。
﹁だって金きんさんが生きているんなら、私に会いに来そうなもんじゃないか?﹂
﹁来るよ。来るとさ。﹂
﹁来るって? いつ?﹂
﹁明あし日た。弥みろ勒く寺じへ会いに来るとさ。弥勒寺へ。明あし日たの晩。﹂
﹁弥勒寺って、弥勒寺橋だろうねえ。﹂
﹁弥勒寺橋へね。夜来る。来るとさ。﹂
それぎり声は聞こえなくなった。が、長なが襦じゅ袢ばん一つのお蓮は、夜明前の寒さも知らないように、長い間あいだじっと坐っていた。
十六
お蓮れんは翌よく日じつの午ひる過ぎまでも、二階の寝室を離れなかった。が、四時頃やっと床とこを出ると、いつもより念入りに化粧をした。それから芝居でも見に行くように、上着も下着もことごとく一番好よい着物を着始めた。
﹁おい、おい、何だってまたそんなにめかすんだい?﹂
その日は一日店へも行かず、妾宅にごろごろしていた牧まき野のは、風ふう俗ぞく画がほ報うを拡げながら、不審そうに彼女へ声をかけた。
﹁ちょいと行く所がありますから、――﹂
お蓮は冷然と鏡台の前に、鹿かの子この帯上げを結んでいた。
﹁どこへ?﹂
﹁弥みろ勒くじ寺ば橋しまで行けば好いんです。﹂
﹁弥勒寺橋?﹂
牧野はそろそろ訝いぶかるよりも、不安になって来たらしかった。それがお蓮には何とも云えない、愉快な心もちを唆そそるのだった。
﹁弥勒寺橋に何の用があるんだい?﹂
﹁何の用ですか、――﹂
彼女はちらりと牧野の顔へ、侮ぶべ蔑つの眼の色を送りながら、静に帯止めの金かな物ものを合せた。
﹁それでも安心して下さい。身なんぞ投げはしませんから、――﹂
﹁莫ば迦かな事を云うな。﹂
牧野はばたりと畳の上へ、風俗画報を抛ほうり出すと、忌いま々いましそうに舌打ちをした。……
﹁かれこれその晩の七時頃だそうだ。――﹂
今までの事情を話した後のち、私わたくしの友人のKと云う医者は、徐おもむろにこう言葉を続けた。
﹁お蓮は牧野が止めるのも聞かず、たった一人家うちを出て行った。何しろ婆さんなぞが心配して、いくら一しょに行きたいと云っても、当人がまるで子供のように、一人にしなければ死んでしまうと、駄だ々だをこねるんだから仕方がない。が、勿論お蓮一人、出してやれたもんじゃないから、そこは牧野が見え隠れに、ついて行く事にしたんだそうだ。
﹁ところが外へ出て見ると、その晩はちょうど弥勒寺橋の近くに、薬やく師しの縁えん日にちが立っている。だから二ふたつ目めの往おう来らいは、いくら寒い時分でも、押し合わないばかりの人通りだ。これはお蓮の跡をつけるには、都つご合うが好かったのに違いない。牧野がすぐ後うしろを歩きながら、とうとう相手に気づかれなかったのも、畢ひっ竟きょうは縁日の御蔭なんだ。
﹁往来にはずっと両側に、縁えん日にち商あき人んどが並んでいる。そのカンテラやランプの明りに、飴あめ屋やの渦巻の看板だの豆屋の赤い日傘だのが、右にも左にもちらつくんだ。が、お蓮はそんな物には、全然側わき目めもふらないらしい。ただ心もち俯うつ向むいたなり、さっさと人ごみを縫って行くんだ。何でも遅れずに歩くのは、牧野にも骨が折れたそうだから、余よっ程ぽど先を急いでいたんだろう。
﹁その内に弥みろ勒くじ寺ば橋しの袂たもとへ来ると、お蓮はやっと足を止めて、茫然とあたりを見廻したそうだ。あすこには河か岸しへ曲った所に、植木屋ばかりが続いている。どうせ縁えん日にち物ものだから、大した植木がある訳じゃないが、ともかくも松とか檜ひのきとかが、ここだけは人ひと足あしの疎まばらな通りに、水々しい枝えだ葉はを茂らしているんだ。
﹁こんな所へ来たは好いいが、一体どうする気なんだろう?――牧野はそう疑いながら、しばらくは橋づめの電柱の蔭に、妾めかけの容よう子すを窺うかがっていた。が、お蓮は不あい相かわ変らず、ぼんやりそこに佇たたずんだまま、植木の並んだのを眺めている。そこで牧野は相手の後うしろへ、忍び足にそっと近よって見た。するとお蓮は嬉しそうに、何度もこう云う独り語ごとを呟つぶやいてたと云うじゃないか?――﹃森になったんだねえ。とうとう東京も森になったんだねえ。﹄………
十七
﹁それだけならばまだ好よいが、――﹂
Kはさらに話し続けた。
﹁そこへ雪のような小犬が一匹、偶然人ごみを抜けて来ると、お蓮れんはいきなり両手を伸ばして、その白犬を抱だき上げたそうだ。そうして何を云うかと思えば、﹃お前も来てくれたのかい? 随分ここまでは遠かったろう。何しろ途中には山もあれば、大きな海もあるんだからね。ほんとうにお前に別れてから、一日も泣かずにいた事はないよ。お前の代かわりに飼った犬には、この間死なれてしまうしさ。﹄なぞと、夢のような事をしゃべり出すんだ。が、小犬は人ひと懐なつこいのか、啼なきもしなければ噛かみつきもしない。ただ鼻だけ鳴らしては、お蓮の手や頬ほおを舐なめ廻すんだ。
﹁こうなると見てはいられないから、牧まき野のはとうとう顔を出した。が、お蓮は何と云っても、金きんさんがここへ来るまでは、決して家うちへは帰らないと云う。その内に縁日の事だから、すぐにまわりへは人だかりが出来る。中には﹃やあ、別べっ嬪ぴんの気違いだ﹄と、大きな声を出すやつさえあるんだ。しかし犬好きなお蓮には、久しぶりに犬を抱だいたのが、少しは気休めになったんだろう。ややしばらく押し問答をした後のち、ともかくも牧野の云う通り一応は家うちへ帰る事に、やっと話が片附いたんだ。が、いよいよ帰るとなっても、野やじ次う馬まは容易に退のくもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥みろ勒くじ寺ば橋しの方へ引っ返そうとする。それを宥なだめたり賺すかしたりしながら、松まつ井いち町ょうの家うちへつれて来た時には、さすがに牧野も外がい套とうの下が、すっかり汗になっていたそうだ。……﹂
お蓮は家いえへ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へ上のぼって行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝ねだ台いから石畳の上へ、飛び出したのと同じ歩きぶりだった。
﹁おや、――﹂
座敷の暗いのを思い出したお蓮は、不思議そうにあたりを見廻した。するといつか天井からは、火をともした瑠るり璃と燈うが一つ、彼女の真上に吊つり下さがっていた。
﹁まあ、綺麗だ事。まるで昔に返ったようだねえ。﹂
彼女はしばらくはうっとりと、燦きらびやかな燈とも火しびを眺めていた。が、やがてその光に、彼女自身の姿を見ると、悲しそうに二三度頭かしらを振った。
﹁私は昔の蓮けいれんじゃない。今はお蓮と云う日にほ本んじ人んだもの。金きんさんも会いに来ない筈だ。けれども金さんさえ来てくれれば、――﹂
ふと頭かしらを擡もたげたお蓮は、もう一度驚きの声を洩もらした。見ると小犬のいた所には、横になった支那人が一人、四角な枕へ肘ひじをのせながら、悠々と鴉あへ片んを燻くゆらせている! 迫った額、長い睫まつ毛げ、それから左の目めじ尻りの黒ほく子ろ。――すべてが金に違いなかった。のみならず彼はお蓮を見ると、やはり煙きせ管るを啣くわえたまま、昔の通り涼しい眼に、ちらりと微笑を浮べたではないか?
﹁御覧。東京はもうあの通り、どこを見ても森ばかりだよ。﹂
成なる程ほど二階の亜あじ字ら欄んの外には、見慣ない樹木が枝を張った上に、刺ぬい繍とりの模様にありそうな鳥が、何羽も気軽そうに囀さえずっている、――そんな景色を眺めながら、お蓮は懐しい金の側に、一いち夜やじ中ゅう恍こう惚こつと坐っていた。………
﹁それから一日か二日すると、お蓮――本名は孟もう蓮けいれんは、もうこのK脳病院の患かん者じゃの一人になっていたんだ。何でも日清戦争中は、威いか海いえ衛いのある妓ぎか館んとかに、客を取っていた女だそうだが、――何、どんな女だった? 待ち給え。ここに写真があるから。﹂
Kが見せた古写真には、寂しい支那服の女が一人、白犬と一しょに映っていた。
﹁この病院へ来た当座は、誰が何と云った所が、決して支那服を脱がなかったもんだ。おまけにその犬が側にいないと、金さん金さんと喚わめき立てるじゃないか? 考えれば牧野も可哀そうな男さ。蓮けいれんを妾めかけにしたと云っても、帝国軍人の片かた破われたるものが、戦争後すぐに敵国人を内地へつれこもうと云うんだから、人知れない苦労が多かったろう。――え、金はどうした? そんな事は尋きくだけ野暮だよ。僕は犬が死んだのさえ、病気かどうかと疑っているんだ。﹂
︵大正九年十二月︶