人間の思慮の及ぶ所には限度がある。天文学者が﹁宇宙﹂と云っている所は無限大の実在の一微塵に過ぎない。今のような構造をした頭脳を持っている限り、永久に﹁不可知の世界﹂が儼げんとして人間の上に掩おおいかぶさっている。それに対して、人間は全く盲目であり、唖であり、白痴である。 人間はその思慮の及ぶ範囲で思慮する外は無い。その範囲を越えると﹁迷信﹂に踏み込む。私達は最早﹁迷信﹂をも思慮の範囲に入れて生きることは出来ない。 野蛮人はその﹁不可知の世界﹂を怖れかつ尊んだ。幼穉な想像を以て、その﹁不可知の世界﹂に人間以上の奇怪な能力を持つ霊物――神格と名づくべき霊物――のあることを考え出し、全実在はそれの所造であり、それに司配されるものであると信じて、その霊物に服従し依頼することに由って生活の安定を得ようとした。 多神にせよ、一神にせよ、それが実在を創造したので無くて、実は人間が野蛮時代の想像に由ってそれ等の神を案出したのであった。 人間の案出した想像上の神は、久しい間、客観的に存在するものと迷信されて、人間以上の不可知の世界に最高の位地を占め、遙に人間を見下して、絶対の司配的威力を、人間には勿論、全実在の上に揮ふるうものとなった。 そうして、人間の所造である神は、どうしても人間を離れることが出来ず、神の性格は悉ことごとく人間の性格の倒影であった。人間の残忍性と恐怖心とに対しては猛悪な神が作られ、人間の愛と美と正義とを欲求する性格に対しては、それに応じる慈悲と端麗と明智とを備えた神が作られ、功利性には福徳の神、性欲には生殖の神が作られた。 人間はそれ等の神神を尊び怖れ、それに祈り、それに媚びた。犠牲が供えられ、財貨が捧げられ、なお足らずして人間自身の肉を裂き、血を流し、命をも捨てて悔いなかった。また互に異る神を祀る人人の間には、謂いわゆる異教徒の憎悪のために、悲惨な争闘が繰返された。こうなると、人間は自己の仮作した神のために多大の禍いを受けて悩まされたが、人智の蒙昧な時代にはその非を覚ることが出来なかった。 しかし必要に応じて起ったものは屹きっ度とその必要を満たして呉れる。神は一面に以上のような禍いを持ち来したが、一面に人間を益する所もまた多かった。人間は神の司配の下に、次第に自己を高め、深めて、愛を磨き出し、誠実を加え、勤労に堪え、理知を増し、芸術を作るに至った。古来の文化は、神の信仰に依る生活のために促進された所が実に多い。 神を必要とした古代には、当時の智者の中から神の代弁者が現われて威力を持った。その中の狡猾な者は神を利用して人心を収め、兵力を併せ持って、政治的に、経済的に、人間の司配者たる特権を占有し、その最も大なる者は神権と王権とを一身に兼ね備えた。ますます人智が進んで神の存在を疑い初めた時代に入っても神の信仰は王権に由って強制された。 けれども、人間が外在の神を不用とし、それの存在を否定すべく自覚する時代が終ついに来た。宗教上の聡明な改革者が次第に現われて神の性質が改造され、神を人間性に発見して、基督教の一神、仏教の﹁唯心の仏﹂が説かれるに至った。最早人間は客観的に対象として服従し祈拝すべき神を全く持たないのである。天に神は無い、西方に仏は無い。またそれ等のものは教会寺院の中にも聖書経典の中にも無い。私達の内に在る人間の霊性を自尊自敬して仮に﹁神﹂と名づけるだけである。 しかし人間の霊性を﹁神﹂と称すると否とは人人の自由でなければならない。私個人の実感としては早くから﹁神﹂の名を好まない。そう云う人間以上の神秘な名を附けずとも、唯だ精確に、自然に﹁人間性﹂と呼ぶことで十分である。加うるに﹁神﹂とか﹁仏﹂とか云う名には野蛮時代からの迷信の臭味が多量に附いていて私には厭である。 ﹁神﹂の位地を今は﹁人間性﹂が占めるに到ったが、﹁人間性﹂は﹁神﹂のような誇大妄想狂で無いから、実在の創造者でも無ければ司配者でも無い。自己の力の及ぶ限度を知って、唯人間の思慮の許す範囲で、人間同志の平和な、美しい、豊かな共存を目的として、敬虔にかつ勤勉に、生きようとする。従って、私にも宗教と名づくべき信仰があるなら、それは自己開発、自己創造、自己礼拝の意義の外の何ものでも無い。しかし私は元来、宗教と云う言葉さえも快く思わない者である。そう云うものは、私の生活には不用の詮議だと思っている。