山田は秀子の方が自分を誘惑したのだと思っていた。そして自分の方では、彼女を恋したのだと自ら云うだけの勇気はなかった。恋しなくとも男は女の奴隷︵或る意味での︶になることはあるものである。然し、彼女の誘惑の罠に喜んで、いくらかは自ら進んで、引懸っていったのは自分であると、彼は思っていた。二階の縁側に立って自分の通るのをじっと見下していたのは彼女だ。然しいつもその二階をそっと見上げたのは自分だった。彼女の姿が其処にないと、淡い失望を覚えたのは自分だった。然し彼女はそういう時、恐らく自分のことなんか考えもしないで階し下たの室に寝転んでいたのであろう。だが、門かど口ぐちに立っていたのは彼女だ。危くその前に足を止めようとしたのは自分だった。そして蠱惑的な微笑を見せたのは彼女だ。その微笑に、胸の動揺を押し包んだ笑顔を返したのは自分だった。それから、途にハンケチを落したのは彼女だ。然しそれを拾い上げたのは自分だった。 山田の心を最初に唆そそったものは彼女の唇と眼とだった。少し厚みのある真紅な唇は、閉じるともなくまた開くともなく、ただ自然に二つ合さっていた。白い歯が――彼女の歯並は実際美事であった――その唇の間から、ちらりと見えるかと思うと、すぐにまた見えなくなった。二つの唇の合さった両角がぽつりと凹んで、其処にいつも人の心を引きつける陰影があった。遠くから見ると、その唇は笑っていた。近くで見ると、新鮮な肉体的な︵もしこういう言葉が許されるなら︶魅惑に満ちていた。その唇の上に、少し間まを置いて――それは彼女の顔をいくらか下品に見せていた――低いつまらぬ鼻がついていた。その低い鼻が消えていると思われる眉根のあたりに、彼女はよく可愛いい皺を寄せた。その皺の両側に、薄い眉毛の下に、切れの長い眼がついていた。大きな黒い瞳の上にはちらちらと揺れる輝きがあった。その輝きは、それと捉え難いうちにもう別の輝きに移っていた。その中に彼女の見る凡てのものの影があった。また、彼女の心のうちの凡ての感情の影があった。その眼は多くのものを語り、多くの意味を伝えた。然し結局は何物も後に残さなかった。瞬間毎に移ってゆく輝きであった。風に揺れる木の葉の上を滑ってゆく光線であった。その眼は何物をも見つめることをしなかった。じっと一つの物に据えらるることはあっても、その輝きは一瞬毎に違っていた。 遠くから見ると、少し離れて見ると、彼女の顔は眼と唇とだけだった。真白に塗られた顔の上に、その二つがぽつりと浮出していて、一つが招き、一つが笑っていた。 電車通りから生籬の多い閑静な小路がU形に奥にはいっていた。その左足の下の方に山田の素人下宿があった。下の棒の右足の方に寄った所に、板塀の上から松や樫や檜葉などの植込みの梢が覗いている新らしい二階家があった。円い軒灯の下に﹁伊藤﹂という檜の表札が釘付にせられていた。秀子はよくその下に立っていた、山田が其処を通る頃に。 Uの字の上に棒を引くとそれが電車通りだった。山田は電車通りに出るのによく右足の方へ廻り途をした。電車通りの俗悪なのに比べて、その通りが如何にも気持ちよくこじんまりしていたので、その上秀子の存在があったので。然しわざとその廻り途をしない時もあった。そういう時、彼の心は乱れていた。 山田の姿を見ると、秀子は遠くから微笑みかけた。 ﹁寄っていらっしゃい?﹂と彼女は全身で物を云った。﹁私丁度退屈してる所だわ!﹂ 秀子の身体が磁石なら、山田は鉄片であった。而もその磁石は何という柔かな馥郁たる磁石であったか! 彼女は好んでブーケ・ダムールの香水を身から離さなかった。 彼女の八畳の室には、床の間に元もと信のぶの半軸がいつも懸っていて、その下の青銅の鉢には必ず花が活いけてあった。それと向い合った壁際には桐の箪笥が油ゆた単んに被われて、その側に紫檀の大きな鏡台が置いてあった。その少し斜め上の壁に細ほそ棹ざおの三味線が一つ、欝うこ金んも木め綿んの袋にはいって鴨居から下っていた。――山田は彼女の家から三味線の音が洩れるのを一度も聞いたことが無かった。琴の音は洩れている時があった。その琴は多分二階の室に置いてあるのであろう。――山田はいつもその室で、そして多くはその縁側で、秀子のくんでくれる茶を飲んだ。 ﹁今日はあなたを喫驚さしてあげるわ。﹂そう或る日秀子は山田に云った。 二人はいつものように、秀子の室の縁側に足を投げ出した。そしていつものような下らぬ話をしていた。わざと電気をつけないである室の夕暮の薄明のうちに、秀子の顔がほんのりと白く浮き出していた。その顔は、眼と唇とで絶えず山田に微笑みかけた。山田はその誘惑を感ずる毎に、しきりに手を額にやって、長い頭髪を撫で上げた。 ﹁喫驚させることって何です。﹂と遂に山田は尋ねた。 ﹁ほほ、まだあなたに分らないの?﹂ ﹁だって何とも云わないから分りようはないじゃありませんか。﹂ ﹁あら嫌な人ね、白ばっくれて、分ってるじゃないの。﹂ 山田はそう云う彼女の顔をじっと見守った。彼女は云った。 ﹁まあうまいわね、ほんとに白ばっくれることだけはお上手だわ。……それとも本当にまだ分らないの? それなら随分鈍感だわ。もうお止しなさいよ、つまんない。白ばっくれるのと鈍感なのとは結局お隣り同志だわ。電気でもつけましょうか、そしたら分るかも知れないわ。﹂ それでも彼女は立ち上ろうともしなかった。山田はその姿をじっと見たが、何処にも平素と異った所は見出せなかった、それから室の中にも。山田は一種の屈辱を感じて、眼を外らしながら庭の方を見やった。と、彼は急にそれに気付いた。 ﹁あ、あれですか。﹂と山田は云ったまま、口をぼんやり開いていた。 ﹁今分ったの、随分ね。﹂そう云いかけて秀子は山田の方を見た。﹁何を変な顔付をして被居るの。そんな風をしていると、あなたは丸でお馬鹿さんね。﹂ 山田は訳の分らぬ苦笑を禁じ得なかった。 庭は植込の間々に飛石を配置し苔を置いて可なりよく拵えてあった。然し今見ると、その真中の空地に、飛石をうまく利用して、可なり大きな池が新たに造られていた。一杯張った水が、薄闇の中に、その底に黒ずんだ色を湛えて仄白く光った水面を見せていた。よく見ると、一枚散り落ちた木の葉がその水面に浮んで、軽い微風に揺めいていた。 ﹁私大急ぎで拵えて貰ったのよ。﹂と秀子は口元に一寸見ると皮肉そうな云い知れぬ微笑を浮べて云った。﹁庭にはやはり池が一つないと淋しいわね。こうして拵えてみると、庭の眺めが自然に池の所に集って来て、云ってみれば池は庭の中心になるんだわね。それに、夏間は凉しくてほんとにいいわ。池が一つあるために庭中が凉しくなるような気がするのよ。私あれに暫くしたら、金魚を一杯放してやるつもり。どれ位入れられるものでしょう?﹂ 山田はそれに何とも答えないで、じっと池を見つめていた。そして秀子の言葉が如何にも真実であるように響いた。特に、池は庭の眺めを集める中心だと云う言葉は、一言にして池の特質を云いつくしたもののように感ぜられた。然し……前から彼は其処に池を一つ欲していたではないか。実際口に出してまでそれを秀子に云ったことがある筈である。それとも云わなかったかも知れない。が兎に角、池は彼が欲していたよりも美事に出来上り、彼が思っていたよりもなお的確に其効果を秀子が説いている。 山田は妙に頭がぼんやりして来た。 ﹁何を黙って被居るのよ。池を拵えたことはあなたにも賛成して貰えるわね。﹂ ﹁ええ。初めから僕は池が欲しかったのです。﹂ ﹁そうお。私もそう思っていたのよ。ほんとに妙ね。いつも私とあなたは同じようなことを思い付くわね。﹂ 然し此度は山田は笑えなかった。いつか、リズム模様は嫌いだと云うと、いつのまにか秀子の半襟にリズム模様が消え失せてしまったり、空気草履は余りいいものではないというと、秀子はいつのまにか高めのぽくりをのみはくようになったりしたことは、まだ何でもなかった。が今は、山田に取って、秀子は余りに主権的であり、余りに彼の領地を犯すものであった。彼にはそれが、単なる媚とは思えなくなって来た。特に、夜更けの街ま路ちを歩き廻る癖までを奪われた今となっては。 そうだ、奪われたのだ。としか山田には考えられなかった。散歩の帰りなどに呼び込まれて遅くまで下らぬ話をして、やがて立ち上ろうとすると、秀子もよく外までついて来た。 ﹁少し、歩きましょうか。ほんとにいい晩だわね。﹂と秀子はよく云った。 確かにそれはいい晩であった。長く雨の無い暑い日が続いた夜は、心持ちからか特に空気が澄んだように思えて、少しの風さえも肌に凉しく、月も輝いていた。表戸のしめ切った町を、点々と電灯や瓦斯灯の浮んで見える中に電車のレールが青白く光っている町を、物影から迷い出て来る犬に交った帰り後れた一人々々の人影が見える町を、淋しい家並の上に月がぼんやり浮んでいる町を、取り留めもない考えを凉しい風に托しながら逍遙することは、山田にとっては云い難い楽しみであった。然しやがてその楽しみに秀子が加わるようになってからは、いつのまにか彼は従属の地位に置かれてしまった。 秀子は先に立って、例のぽくりをはいて、澄まし切って歩いた。彼女はただしなやかな線とふくよかな香りと滑かな肉体とのみであった。凡てに撓み凡てを拒まないうち開けた無心さであった。山田は少し後れがちに並んで歩き乍ら、時々彼女の方を顧みた。黒い房々とした髪の間から白い耳み朶みが覗いていた。小さな薄い耳み朶みであった。灯火に透したら一々血管がすいて見えそうな柔かい赤みを帯びた肉片であった。ぐるりと曲線の襞を描いて、その下に垂れている一片は、身体の運動につれてゆらゆらと揺めいているようであった。そのくせ指頭に挾んだら隠れる位の小さな薄さで、また水くら月げのような柔かさを具えていた。じっと見ていると、山田は胸が苦しくなって来た。妙にその耳朶と関連して彼女の﹁旦那﹂のことを思い出したからである。彼女の﹁旦那﹂の伊藤という実業家は、痩せた角ばった顔付で、その四角な顔のうちに細い眼や鼻や口が浮いて見えるような男であるのを、山田はいつのまにか知っていた。それは秀子の耳朶とは全く似てもつかぬ顔立であった。然しその二つがなぜ関連して思い出されたか? それは彼自身にも分らなかった。恐らく其処に、男女の接触の秘密が籠っているのであろう。山田は物を嗅ぎつけようとでもするかのように、鼻をうごめかした。 然し彼は別に嫉妬の情に駆られていたわけではなかった。彼は秀子に対してまだ純潔を保っていた。そして秀子も彼を、退屈な時間をつぶす友としてより外は待遇しなかった。そのことは、彼を嫉妬の情から遠く離して、伊藤と秀子とを眺むることを得せしめた。もし二人の交渉の圏内に引き入れられんとする時、自分の純潔な、肉体的に純潔な地位が危くなろうとする時、その時こそは断然と営を撒すべき時だと、彼は心に誓っていた。然しおか目には自分達二人は何と映ずるであろうかと思う時、彼は心が苦しくなってきた。そしてその苦しさを知り初めた彼の心を、しきりに秀子の耳朶が脅かした。 時としては、二人は夜更けに遠くまで歩き廻ることがあった。 ﹁もう帰ろうじゃありませんか。﹂と山田の方から促した。 ﹁そうね。もうあなた疲くたびれて?﹂ ﹁疲れはしませんが、いつまで歩いてもきりが無いから。﹂ ﹁ほんとね、いつまで歩いてもきりはないわ。だけど、一晩中こうして歩いていたいような晩だわね。私がいつまでも、夜の明けるまで歩くと云ったら、あなたも一緒に歩いて下すって? え、どうなの?﹂ ﹁歩くかも知れません。﹂ ﹁知れませんだって、いやな人ね。﹂ ﹁それでは屹度歩きます。﹂と山田は苦笑しながら云った。 ﹁ほんと? そんなら私嬉しいわ。ではもう帰りましょう。私が一晩中歩くと云えば、あなたも歩いて下さるんだから、あなたがもう帰ると仰言れば、私も帰って上げてよ。交換問題だわね。だけど愛情だってつまりは交換問題じゃないの。あなたどう思って?﹂ ﹁普通はそうでしょうが、然しそうでない場合も世の中にはあるでしょう。﹂ ﹁そう、世の中にはね。けれどそれは私達の世の中ではないわ。……あなたは絶対派だわね。﹂そして秀子は笑った。 山田は驚いて彼女の顔を見つめた。絶対派だの相対派だのという言葉は、山田がよく口にしていた言葉だったのである。 山田の視線を感ずると秀子は急に笑いを止めた。そして甘えるような調子で云った。 ﹁御免なさい。叱っちゃいやよ。絶対的なものは芸術の上だけだってあなたは仰言っていらしたわね。人生はみな相対的だって。であなたも本当は相対派だわね。私も相対派だわ。﹂ 山田は何か抗弁しようとしたが、言葉が出なかった。 ﹁つまらないこと云い出したものね。これで私も随分学者になったでしょう。みんなあなたのお蔭よ。だから、本当はもっと歩きたいんだけれど、一緒に帰ってあげるのよ。﹂ そして秀子は白い歯を出して笑った。山田は何とも云えずぞっと身震いがした。 二人はいつのまにか家の方に向って歩きつつあった。妙に銅色にぼかした月が低く向うには懸っていた。 ﹁何か食べたくなくって?﹂ ﹁そうですね。﹂ 通りを透すかし見ても、一軒も起きてる家は無かった。人影はもう全く途絶えていた。それで二人は黙って家の前まで帰っていった。 ﹁ご免なさい、方々引き廻して。﹂と秀子は軽くしなをして云った。﹁また来て下さいね。私一人でほんとに退屈だわ。この頃余り来ないのよ。︵秀子は伊藤のことを云うのに、いつも主格をぬきにして何気なく云ってのけるのであった。︶あした来て下さらないこと。御馳走するわ。﹂ ﹁あしたは用がありますから。またそのうち来ます。﹂ ﹁いいわよ。あした待ち伏せしてるから。﹂そして彼女は急に調子を変えて、早口に云った。﹁あなた私を堕落した女だと思っていらっして? 見捨ててはいやよ!﹂ 山田がその時何か云おうとするのを彼女は押っ被せるようにして云った。 ﹁おほほ、じょうだんだわ。ではおやすみなさい。またお待ちしてるわ。﹂ 門口を押し開いてはいってゆく秀子の耳み朶みがまた、山田の眼の中に刻まれた。山田はぼんやりして足を返した。と急に、自分のうちの何物かが彼女と共に奪い去られたような気がした。彼女と別れて自分一人になると、自分の影の薄いことが痛切に感じられて来た。ただ何時からそうなったか、彼には自分でも分らなかった。然し次第に自分のうちのものが彼女に蚕食されてゆくのを彼は感じた。それは単に趣味の上のことばかりではなかった。彼はやがて驚いて眼を見張らなければならなかった。 それはかの乞食に出逢った晩から初った。 その乞食というのは汚いいざりであった。両袖をもぎ取った汚い黄色がかった浴衣地の襤ぼ褸ろを着て、その裾をまくった両足には、紺の股もも引ひきらしいものをはいていた。両方の足の先は、軍隊用のゲートルみたいな布きれでぐるぐる巻いてあった。その両足をずるずる引きずりながら、草履をはめた両手と膝頭とで匐い廻っていた。頬骨の高く聳えた眉の濃い見るから悪党らしい顔の上には、茫々と伸びた頭髪が垂れ下っていた。背中に大きな雑嚢を一つ背負っていた。何がはいっているか、それは円く脹らんでいた。 もう夜はだいぶ更けていた。然し大勢の人が彼の後からぞろぞろついて歩いていた。﹁何だろう。――何処から来たんだろう。――巡査は咎めないのかしら。――今晩は何処で寝るつもりなんだろう。﹂――人々は口々に何か低く囁き合っていた。然しそう囁き合う人達の顔と乞食の姿とを等分に見比べながら、黙ってついて歩いてる人々の方がなお多かった。そのうちに酒屋の小僧らしい少年が一人居た。彼は謎の鍵を知ってでも居るかのように得意そうな顔をして、あたりの人々を顧みながら云った。﹁また来やがったな。なあに今に立ち上って馳け出すんだい。﹂ 山田と秀子とが其処に通りかかったのは、丁度小僧がそう云った時であった。その言葉を耳にすると秀子は眼で山田に相図をした。そして二人は黙って群衆に交って乞食の後からついて行った。 丁度其処は、並木の無い電車通りであった。乞食は歩道の縁ふちを匐って行きながら、時々止った。もう可なり疲れているらしかった。雑ぞう巾きんみたいな汚いものを下腹のあたりから取り出して、額の汗を拭った。そして、やがて或る電柱の根本に辿りつくと、其処に臀を据えたまま動かなかった。群集は遠くから半円を作って彼を取り巻いた。彼は時々眼を挙げて人々を眺めたが、またすぐに頭を垂れてしまった。そして何やら考え込んでいるらしかった。否、何にも考え込まないでぽかんとしていると云った方が適当であった。 山田は秀子の方を顧みた。彼女は眼を光らして、じっと乞食の方を見つめていた。少し首を前に突出し加減にして、きっと唇を結んで眼を光らしている彼女の姿は、残酷なほど好奇心に満ちていた。そしてその好奇心の底から、一種の壮厳な権威が覗いていた。山田は彼女のそう云う姿を初めて見たのであった。彼はその前に一種の圧迫を感じた。と突然、秀子はその権威の底から低く叫んだ、﹁それごらんなさい!﹂ 眼を外らして乞食の方を見ると、其処には一つの慈善が行われていた。二三軒先の麺麭屋から﹇#﹁麺麭屋から﹂は底本では﹁麭麺屋から﹂﹈、一人の女中が出て来て、乞食に麺麭の一片を恵んでいた。乞食はそれを片手に受けて、低く一度お辞儀をした。それから、その女中と手の上の麺麭を見比べて、また低くお辞儀をした。女中は向うに駆けて行った。乞食は暫く麺麭を﹇#﹁麺麭を﹂は底本では﹁麭麺を﹂﹈見ていたが、それを背中の雑嚢の中にしまった。 暫くすると、此度はすぐ横の薄暗い荒物屋から、年取った女が出て来て、乞食にゴールデン・バットを一個恵んだ。乞食は前と同様にして、それをまた雑嚢にしまった。年取った女は、すぐに店の中に引込んだ。其の荒物屋の軒には、﹁たばこ﹂という赤い文字の看板が小さく出ていた。 群衆の中にまた囁きが起った。一人の職人らしい男が可なり大きな声で云った。﹁つまらねえ広告をしてやがる! だがあの乞食も巧うめえことを考えつきやがったな。﹂乞食はその言葉が聞えたか聞えないか、ふと頭を上げて周囲を見廻した。そして粗らな人垣を見ると、また頭を垂れてしまった。もう誰もやって来て施しをする者も無いらしかった。乞食はまた匐い出した。 暫くすると、乞食はまた匐い出した。先さっ刻きからの見物に飽きはてて立ち去る者もあったが、その代りにはまた新らしい人々が群集の中に加わった。山田も秀子の方を顧みた。秀子は彼の視線に向って軽い微笑を返した。然しその微笑には強い力が籠っていた﹇#﹁籠っていた﹂は底本では﹁寵っていた﹂﹈。山田はまた彼女に引ずられるようにして、乞食の後について行った。 暫くゆくと、其処に大きな郵便局があった。その石の壁に沿うて狭い小路が薄暗い奥の方にはいっていた。乞食はその小路の中にはいり込んだ。そして十間ばかり先に止って、石の壁にもたれてじっと頭を掌ての中に垂れた。群集は、小路の入口に立ち止ってひしめき合った。 その時、郵便局の横の門から配達夫が四五人出て来た。彼等は、群集を眺め、それから眼を移して乞食を眺めた。彼等は何やら囁き合った。するとそのうちの一人が大声に叫んだ。﹁又来てやがる! 行かねえか、騙かたり奴め! 愚図々々してるとふん捉づかまえて、つき出してやるぞ!﹂ 乞食は黙ってふり返った。そして鋭い眼でじろりと見返した。それから急に向うの方へ匐い出した。人々は其処に立ち止ったまま、今までより勢よい速度で匐い去ってゆく乞食の姿を眺めていた。その姿が向うの薄暗い角かどに消えると、一番に配達夫等が郵便局の中に其処から立ち去った。それから群集が種々な意味のことを囁きながら、或は﹁騙り奴﹂を罵り、或は﹁不幸者﹂を弁護して、消え失せてしまった。 秀子は、散ってゆく人々にじろじろ見られるのもかまわずに、其処に立っていた。そして誰も居なくなると、急に真面目な顔で山田の方を顧みた。﹁行ってみましょう、﹂と彼女は云った。 二人は、郵便局の石の壁に沿ってその狭い小路にはいった。物のむれたような臭い匂いがあった。郵便局の壁がつきると、汚いごたごたした広場に出た。共同水道栓がその真中にあって、土地がじめじめしていた。それから広場を横に曲って、低い長屋の間を通りぬけると、ふいと静かな裏通りに出た。二人は夢から覚めたようにほっと息をついた。乞食の姿は何処にも見えなかった。 ﹁それごらんなさい!﹂と秀子は山田を顧みて云った。 山田は、心のうちの何からか急に呼び覚されたような打ショ撃ックを感じた。秀子のうちには今の出来事を支配する或る不可思議な権威があるように、彼は感じた。その権威が、﹁それごらんなさい。﹂という二度の言葉のうちに、否そのうちの﹁それ﹂という簡単な語の意味のうちに、籠っていた﹇#﹁籠っていた﹂は底本では﹁寵っていた﹂﹈。 山田は妙に瞑想的な気持に浸っていった。一方に、乞食を通じて見た人生の暗い姿が眼の前に浮んで来た。他方に、秀子を通じて感じた透徹した眼が心のうちに浮んできた。その二つが或は離れ、或はもつれて、混沌たる靄を遠くに展開さした。 ﹁丸っきり同じね。﹂と秀子は云った。 ﹁え?﹂ 山田は秀子の言葉の意味が分らなかった。そしてその顔を見返すと、彼女は揶揄するような微笑を眼の中に浮べていた。 ﹁分って? え、分らないの?﹂ そう云って此度は、彼女は媚びるようなしなをしながら、首を傾かしげてみせた。白い耳み朶みが彼女の細りした頸うなじの上に、山田の心を唆った。山田は急に顔を外らした。 ﹁あらどうしたの、怒って?﹂ ﹁一体何のことです。﹂と山田は荒々しく尋ねた。 ﹁ほんとに性せっ急かちな赤ちゃんね。今教えてあげますからおとなしくしているんですよ。﹂ 山田はもう反抗するだけの力もなく、ただ黙って赤ん坊のように首肯いた。 すると急に秀子は真面目な顔に返った。嬌艶な色がその眼から消えて、重々しい真面目くさった輝きに変った。 ﹁あなたが貸して下すったトルストイ小話ね。あの中の天使や悪魔も、あの乞食にそっくりだわね。あんな風にして出て来て、あんな風に消え失せてしまうじゃないの。私初めからそう思っていたわ、あの乞食は天使だろうか、悪魔だろうかって。そしてどちらか分らないうちにもうおしまいだわ。あの麺麭屋や﹇#﹁麺麭屋や﹂は底本では﹁麭麺屋や﹂﹈荒物屋のお上かみさんには屹度、どちらだか分ったでしょうよ。私達はよその国の人だわね。﹂ 山田は何とも云えないで、ただ秀子の顔を見返した。なるほど彼は、何か面白いものをという秀子の乞いに任せて、トルストイの小話の飜訳を貸してやったのであった。秀子はそれを大変面白がって何冊も、そして何度も、くり返して読んだと云っていた。然しそれが、こんな所に応用されようとは、山田の予期しない所であった。山田自身もあの小話には心酔して読み耽ったものであった。然し乞食の後をつけてる間、それは一度も思い出しもしなかったのである。﹁それごらんなさい!﹂という秀子の言葉の意味が彼に漸く分って来た。と共にその言葉は直接に彼自身に返って来た。彼は漠然とした恐れを懐いた。然し何を恐れることがあったのか? 彼の主義や思想から云っても、秀子が多少なりと精神的に眼を覚してゆくことは喜ばしいことではなかったか? それでも彼は、内心の或る恐れと不安とをどうすることも出来なかった。 秀子はやがてこんなことを云った。 ﹁あなたはこれから文学者になろうとなさる方だから、分ってるでしょう。あの乞食はどちらなの、天使でしょうか、悪魔でしょうか。﹂ ﹁私には分りません。﹂と山田は答えた。﹁断定する前にはよく考えてみなければ……。﹂ ﹁だって何を考えることがあって? 眼で見たことが一番確かじゃないの。……でもそんなこと本当はどうでもいいわね。私達には、天使も悪魔も結局同じだわ。どちらにも近づきになりっこはないんですものね。﹂ 秀子はそう戯じょ談うだんらしい調子で云ってのけた。山田には、彼女が果して本当に考えて口を利いているのか、単なる思い付きで饒舌っているのか、分らなくなった。その眼は真面目な光りに輝くかと思うと、すぐにまた馬鹿にしたような微笑を浮べていた。彼はその捉え難い変化の前に、強いて次の問いを出してみた。 ﹁あの小話のうちで、あなたにはどれが一番面白かったのです。﹂ ﹁そうね、﹂と一寸秀子は言葉を切って、考えるような風をした。﹁やはりイワンの馬鹿が一番面白かったかも知れないわ。﹂ ﹁なぜです?﹂ ﹁なぜって、私には学問がないから、そんなことは分らないわ。﹂ そう答えながら、彼女は何を思い出したか一人でくすくす笑い出した。 ﹁何が可笑しいんです。﹂ ﹁だってあのイワンのことを考えてごらんなさい。私可笑しくて、可笑しくて……。今あんな人が居たらどうでしょう。屹度御飯が食べられなくなるわね。それでもこう云うでしょうよ。わしはちっとも悲しかない、食べられないから食べないんだって。﹂ そしてまた彼女は笑い出したが、急に真面目な調子に返った。 ﹁けれど、イワンと云う人は、外交官になると屹度成功するわね。﹂ ﹁外交官?﹂ ﹁ええ、ちっとも変じゃないわ。上手な外交官には何処かあんな所があるものじゃないかと私思ってよ。日本に外交官が居ないのも、日本人にあんな性質がこれんばかしもないからだわ。けれど、日本にだってちっとは外交官も出てもいいわね、あの大谷何とか云ったわね。本願寺の……そう、大谷光瑞ね、あの人は、外交官としては一番偉い人ですってね。或る外務大臣の時なんか、面倒なことが起るといつもあの人の所へ聞きに行ったものですわ。あの人が外務大臣にでもなったら、日本の外交なんか屹度わけなく片附いてしまうわ。﹂ 山田は全く呆あっ気けにとられてしまった。秀子が何処からそんなことを聞き噛ってきたかということよりも、そういうことを丸で自分の掌の中のことをでも語るような調子で云ってのけるのを、訳が分らなくなった。彼女のうちには一体何があるのか? それを覗のぞこうとすると、ただ大きい空洞のような気がした。それは凡てを呑みつくそうとしている。もはや其処には﹁消化﹂も﹁選択﹂も無い。ただあるものは無限の深い洞穴のみである。而も彼女は、ブーケ・ダムールの誘惑的な香りを発散させながら、嬌艶なしなを作って、微笑みつつ高いぽくりの軽やかな音を立てて歩いている。大きく束ねた髪に好んで一つした小形の翡翠の簪がぬけ落ちそうにするのを、彼女は細い指先を挙げては時々し直した。彼女の指は細くしなやかで、朝顔の蔓つるのようにすぐに物に絡みつくかと思われるほどであった。ただ爪は少し平たくて︵それは生れのよくないことを示していた︶不恰好であったが、その色は赤くすいて見えて美しかった。 軽い風はいつのまにか止んで、重く空気の澱んだむし暑い晩だった。然しふくよかな香気に包まれた秀子は、にじみ出してくる汗をも知らないらしかった。ふり返って通る人々の視線のうちに、彼女は晴々とした顔を上げて、山田の方を顧みた。 ﹁なぜ黙っているの? 何か怒ってて?﹂ 山田はそれに答えるに、ただ苦笑を以てした。 ﹁余り下らないことばかりお饒舌したわね。御免なさい。私あなたの側に居ると何もかも、頭の中のことはみんな云ってしまいたくなってよ。ね、それでもいいでしょう。でもあなた長く覚えていては嫌よ。忘れて頂戴。ねえ、忘れると云って頂戴。さあ忘れるとたった一言でいいわ。﹂ ﹁いいじゃないですか。僕だってあなたが云ったことを皆いつまでも覚えているものですか。﹂ ﹁でも、いや。いや。はっきり云わなきゃいやだわ。﹂ ﹁ではすっかり忘れます。﹂ 秀子はにっこと微笑んだ。 ﹁ではだけ余計だわ。でもそれ位我がま慢んしてあげてよ。﹂ 二人はその晩また可なり遅くまで歩き廻った。そして或るカフェーにはいって、紅茶と菓子とを食ったりした。 山田は麦酒を一杯のんだが、秀子は飲まなかった。 紅茶の匙をつまみ上げた秀子の指先がいつまでも山田の頭に残った。ニッケルの金属の光りに絡んだ彼女のしなやかな指先は、丁度めがねで覗いた海底の蛸たこの足のようであった。そしてその指先がふと、水くら月げのような耳みみ垂たぼを挾んだ時、山田ははっと胸に大きな衝動を感じた。彼の眼は貪るように其処に釘付にせられてしまった。と秀子はにこっと微笑んだ。然し其処には他の客が居たので、彼女は何とも云わなかった。 山田にとっては、もはや秀子を眺むる視点はその顔と唇とではなかった。今はその指先と耳み朶みとであった。 一人で街ま路ちを歩き廻る時なんか、彼女の指と耳朶とが眼先にちらついて離れないことが四五分も続くようになった。そして下宿の室に一人机に向っても、もう書物を披ひらくだけの力も無くなっていた。自分のうちのものが次第に秀子のうちに移動してゆくような気がした。否もうその大部分は移ってしまっていた。彼は、ふと思い出して、トルストイの小話を頭の中に思い起そうとした。然し何にも的確な観念は浮んで来なかった。そして眼の前にはかの乞食の姿が浮んでき、耳には秀子の云った言葉が響いて来た。彼は其処に身を投げ出して、ぼんやり天井の節穴を見つめていた。そしてしめやかな夕暮、心を落ち付かせながらまた爽かに心を唆る薄暮の一瞬の静けさ、それももう彼は一人で味わうことが出来なかった。彼の代りに静かにその気持ちを味っている秀子が其処に居た。彼が甞て感じたようなことを逆に彼に語ってきかせる秀子が其処に居た。 ﹁私こうして夕方じっとしているのが、一番好き。﹂秀子は縁側に腰掛け、垂れた両足をばたばたやりながら云った。﹁みんな夕方の仕度に忙しく働き廻ってる頃、じっと空を眺てるほど気持ちのいいものはないわね。何だか自分一人の夕方のような気がするわ。男の方はそうでも無いけれど、女というものは夕方はそれは忙しいものよ。女という女がみんな汗を流して働いてるわ。その時に私一人こうしていると何とも云えないいい気持だわ。それに凉しい風は吹くし、空は夕映に真紅になってるし、今に露っぽい薄闇が下りて来るわ。﹂ 彼女の腰掛けている縁側はもう綺麗に拭掃除がしてあり、庭と門口とには水が撒いてあり、少しの夕餉の仕度は勝手許に出来つつあった。不当な収入のある買収された一人の女中は、まめまめしく立ち働いて秀子に箒一つ持たせなかった。そして秀子は早くから夕方のおつくりをして、菊五郎格子の浴衣に絞りの羽二重の帯をしめて、夕方の何処となく香りのある空気の中に、駄々っ児のように身体をゆすっていた。彼女の前には池の鯉がぼちゃりと水面にはねていた。 セメンの灰あ汁くのぬけきるかきらないうちに、秀子は池に一杯竜りゅ金うきんを放った。山田はそれを見て、その池には鯉の方がよくつくだろうと云ったことがある。するといつのまにか、池の竜金は美事な変り鯉に代ってしまっていた。秀子は得意そうに山田を顧みながら云った。﹁池には何よりも鯉が一番だわ。伸び伸びしててそして活溌だわ。それに可愛いいひげを口許にはやしたりなんかして。夜ねてて鯉の飛ぶ水音をきいていると、それは何とも云えないいい気持ちよ。あなた聞いたことがあって?……あらないの、お気の毒ね。見てごらんなさいな、随分念を入れて変りのいいのを集めたのよ。でも今年はいいのが大変少いんですって。去年の出み水ずで流されてしまったのよ。あれだけ集めるにも余程骨が折れたって金魚屋は云っていたわ。﹂ 山田はもう、自分の説をいつのまにか横取りしてしまっている彼女に抗議を持ち出すだけの勇気もなかった。彼女は素知らぬ風をして、池の鯉を見ながら足をばたばたやっていた。その度毎になだらかな肩の線がくずれて、一重の浴衣越しにぽつりと脹らんだ乳房の曲線が見えた。山田はきっと下唇をかんだ。憤怒に似た胸騒ぎが彼の顔を汗ばました。彼は突然こんなことを云った。 ﹁一体あなたは幾いく歳つなんです?﹂ その問いは余りに唐突だったので、それを発した山田自身までが、きょとんとした顔で秀子の顔を見つめた。がやがて、秀子はその問いの意味が分って、白い歯で笑い出した。 ﹁おほほ、あなた位変な人ったらありはしないわ。だしぬけに人の年をきいたりして。﹂ 山田は苦笑するだけの度ど場ばをも失ってしまった。そして左手の甲で額をこすりながら頭を垂れた。秀子はその姿をじっと見ていたが、急に軽い調子で云い出した。 ﹁あなたまだ私の年を知らないの。薄情だわね。もう忘れてしまって。いつか云ったじゃないの。あなたが二十三だから一つ上の二十四よ。あなた二十四という年はお嫌い? でももう二十四と云えば女ではお婆さんだわね。﹂ そして秀子は何と思ったか、真面目な顔をして考え込んでしまった。そして山田が彼女の上に驚いた眼を向けると、ふいに顔を上げてしみじみとした調子で云った。 ﹁はたから見ると私は年よりもずっと老ふけてるでしょう。種いろ々んな苦労をしたからよ。小さい時に母親を失ったのよ。そしてその後で父は失敗してしまったので、どうにもすることが出来なかったわ。許いい婚なづけの人も居たんだけれど、寄りつきもしなくなったわ。あなた許婚なんてこと嫌いだわね。私も嫌いよ。で、けっきょくその方がよかったわ。それから種いろ々んな惨めな目を見て来たわ。一日御飯を頂かないことなんかもあってよ。それから……こんな身になるまでには、それは話しきれないほど種々なことがあったわ。あなた小説にお書きなさらない。それなら話してあげるわ。ただ話したってつまらないもの。﹂ 彼女はもういつのまにか茶化したような調子になっていた。然し山田は執拗に質問を続けた。 ﹁あの年取った女の人が時々来るではありませんか。あの人は?﹂ 四十位の足の短いでっぷり肥った女が、秀子の家に訪ねて来るのを山田は二三度見かけたことがあった。身体の不恰好なわりに、いつも茄なす子こ紺んの紗の羽織なんかを着込んで、両手の指に大きい金の指輪を光らしていた。 ﹁あ、あの人、あれは私の知った人よ。﹂そう云いかけて彼女は妙な薄ら笑いをした。﹁でもあなた一体どうなさるの、そんなことを聞いて。丸で身許調でもなすってるようだわ。それとも……私と結婚でもなさるおつもり? そうね、あなたに結婚でも申込まれたら、私、……どうしましょうかね。それこそ、きめる前によく考えてみなくてはね。﹂ ﹁今に結婚を申込むかも知れませんよ。然し私もその前によく考えてみなければ。﹂と山田も戯談にまぎらした。 ﹁でも私本当は一人ぽっちよ。もう両ふた親おやのことなんかすっかり忘れてしまったの。許婚の男のことも、種いろ々んな面白いことやらつらいことも。そして今は人の妾の身分だわ。けれどもそれもすぐに忘れてしまうわ、屹度。あなたのことなんかも、後には忘れてしまうでしょうよ。過去は過去だってあなたいつか仰言ったわね。過ぎ去ってしまったことまでも引ずって歩いていたら、息が切れて倒れるばかりだわ。そして現い在まのことだって、いつかは過去になってしまうんですもの。いつかは忘れなければならないわ。﹂ 秀子にとっては、山田の所謂﹁過去は過去なり﹂ということもそのまま文字通りに真であるらしかった。もう彼女にとっては、﹁現在のために﹂という前提は無用であった。何故なら、現在もやがては過去になるべきものだから。そして彼女がその徹底した理論を本能的に何気なく云ってのけるのを、山田は愚鈍な賛嘆のうちにぼんやり聞いていた。彼の頭の中にはただもやもやとした霧が立ち罩めていた。そして胸の底から訳も無い苛ら立たしさがこみ上げて来た。彼はまた貪るように、秀子の襟から覗き出した滑らかな白い肌を見つめた。その肌の円みを帯びた曲線を頭の中で辿ってゆくと、其処に、むりに絹糸で結えたような小さな乳首がぽつりとついている、弾力性のまん円い純白色を薄い玉虫色にぼかした乳房の小山が、二つ並んでいた、一方は他方より少し小さく。 その誘惑を感じ出すようになると、山田は以前よりも屡々秀子の許を訪れるようになった。二人は長い間秀子の室で時間をつぶしたり、外を歩き廻ったりした。その上伊藤はめったにやって来なかった。﹁虐待してやるから怒ってるのよ﹂とも秀子は云った。﹁大阪の方に旅してるのよ﹂とも云った。彼女は如何にも巧妙に機会を処置してるらしかった。然し山田はもうそんなことを問題にもしていなかった。﹁秀子に対して自分は純潔を保っている﹂という頭の隅の考えが、彼に一切のなりゆきに対して目をつぶらした。目をつぶると共に、頭の中が愚鈍になってゆくのを自ら意識しなくなってきた。彼は甘んじて秀子の玩弄に一身を投げ出した。 じりじりと暑気の増してくる日中など、山田は自分の室に寝転んで午睡を貪った。何をするのも懶かった。暑を避けて旅をすることさえも念頭に浮ばなかった。苦しい汗ばんだ午睡の夢から覚めると、ただ無心の眼を空の方に向けた。空には北に向って低い断雲が流れるように飛んでいた。じっと見つめていると、雲の運動と反対の方向に、木立や人家や地上のもの凡てが急速に動いていた。彼はその運動に身を托しながら云い知れぬ不気味な快感をさえ味った。太陽が断雲に遮られて、地上は急に陰闇な影のうちに包まれるかと思うと、またぱっと強い光線が降り注いで来た。 台風は琉球の沖合から四国の方へ殺倒していた。岡田博士の言に依ると、低気圧の中心示度は七百十粍を下っているらしかった。強猛な速度を以て四国及び内海中部を横断して能登沖に出で、更に北海道の西部までを荒すらしかった。その途中、余波は東京にまで及んで、多少の風雨を見るということであった。昨秋の台風の記憶がまだ脳裏に新たな市人は、中央気象台のやや鎮撫的な報告があるのにも拘らず、緊張した顔面に不安の色を湛えていた。帽子の縁に手をあてて飛雲の急な空を仰ぎつつ、人々は皆足を早めていた。 山田は帽子もかぶらずに、ぶらりと外に出た。息をついては吹き来る南の烈風が彼の頭髪を乱し、彼の着物の裾をまくった。然し彼にはそれも結局快った。彼は自分の頽廃しきった頭脳を何物かに向ってぶっつけたくなっていた。そしてぼんやり歩いていると、ふいに誰かが自分を呼び止めた。眼を挙げると、二階の縁側に秀子が立っていた。彼は我知らず彼女の家の前まで来ていたのであった。 秀子は晴れやかな笑みを浮べて、彼を家の中に引き入れてしまった。 ﹁私屹度あなたが被入ると思って、二階から見張りをしていたのよ。﹂ 山田はただ口をもぐもぐさした。 ﹁いい気持ちね、こんな日は、頭の中のくさくさしたものが吹き払われるようで。﹂ そう云いながら秀子はお茶をいれて、戸棚からカステイラの箱を取り出したりなんかした。 風は益々激しくなってきた。そして、やがて沛然たる驟雨が伴って来た。雨戸は半ば閉められて、家の中は薄暗かった。ざーァと吹きつけてはまた一寸息をつく豪雨と烈風との響きが、家の中を満たした。二人は黙ってその音に耳を傾けながら坐っていた。山田はその時ほど目近に秀子を見たことはなかった。彼女の一挙一動は彼の心に投ぜらるる石であった。彼の心はそれにつれてざわざわと立ち騒いだ。その波紋のうちから眺めると、彼女の全体は無数の曲線を描いてるただしなやかな肉塊にすぎなかった。その輪廓がふと一つの線に静まりかかると、僅かな彼女の身振りが彼の心に大きい波紋を立てて、全体の姿はまたゆらゆらと大きく捉え難い曲線のうちに揺らめいた。流れに映ずる月影の捉え難いような焦燥と不安と魅惑とを彼は感じた。 ﹁二階に上ってみましょうか。此処よりはもっと痛快だわ。﹂ 秀子は彼の答えも待たないでもうすっくと立上っていた。下より立っているというよりも上から下っているというようなすらりとした無理の無い柔かな線が、山田の眼の前に在った。 山田は梯子段に一歩ふみかけた時、一寸躊躇した。彼はまだ一度もその二階に上ったことが無かったのである。二階の室は彼にとって一種の魔窟のような気がした。其処にはいることはやがて破滅の淵にふみ込むことのように思えた。然しその瞬間に一寸閃めいた理知の輝きは、次の瞬間にはもう険を冒して顧みない盲目な興奮に代ってきた。彼は秀子のすぐ後から二階にかけ上った。 然しそれは何等異った室でもなかった。三畳の控室を有する八畳の座敷で、床の間には書しょの軸がかかっていて、その下に、首を伸べた青銅の白鳥と孔雀の長い尾を四五本した螺鈿の花瓶とが程よく並べてあった。その横の琴を立てかけた違棚の上には、種々な画帖が乱雑に散らかっていて、山田が貸した五六冊のトルストイの小話集までが置いてあった。紫檀の円机の横にある衣桁にかかった虎の皮が一枚、室の中に異彩を放っていた。 ﹁何をぼんやりして居るの、おほほ。あなたまだこの室が初めてだったわね。﹂ そういう秀子の言葉を聞き流して、山田は其処に身を落して足を投げ出した。 風雨は益々急になっていた。一秒時二十米突近くの風力と一時間十五粍ミリに達する雨量とは、一面に大地の上に落ちかかって、樹木の梢にまた軒端に、白い水しぶ沫きを立てながら走り去った。滝のようなどよめきが樋といを流れ落ちて、半ばしめられた雨戸の間からは、水滴を含んだ冷かな空気が室の中に吹き込んだ。 秀子は夢みるような眼を挙げて、遠く奔馬のように馳り去る風雨の後を追っていた。而もその擾乱のうちに在って、彼女の呼吸は如何にやさしく静かであったか。家も揺ぐかと思われる中に、山田は、彼女のやさしい香しい息に脹らむ胸のあたりを喰い入るように見つめた。 秀子はふと、山田の方を顧みた。彼女はきっと下唇の端をかみしめた。眼が異様な輝きを帯びた。そしてその緊張した一瞬が過ぎ去ると、彼女の顔は、その眼とその唇とで静かな微笑のうちに、微笑とさえも云えない一抹の晴れやかな赤味のうちに、おのずと融とけ去っていった。……山田は彼女の腕の中に居た。そしてそれを自ら意識した瞬間に、息のつまるような柔かな圧迫と共に彼女の低い声を聞いた。 ﹁今日は帰さないわ。よくって。﹂ 豪雨は五時すぎに止んだ。然し風はやはり強かった。夜に入ると、時々驟雨が風に送られて襲ってきた。そしてその大きな魔物のような響きの中に、山田は従順な野獣に化していた。 一歩深淵に滑り込んだ足は止まる術を知らない。山田は自ら身をもがきながらその底まで陥らなければならなかった。而も陥ったのは彼一人で、秀子は高くから彼を見下していた。 それは単なる台風の余波のみとしては、余りに執拗な一夜であった。山田ははや為す術すべを知らない深いた傷でを身に蒙った。而も、﹁伊藤が居る間は……﹂という言葉は、その傷をして殆んど致命的のものたらしめていた。彼はもう自ら独立した考察を行うだけの力を有していなかった。そして七月十二日という日は、彼にとって決定的なものであった。再び起たち得ない彼の上に、彼の凡ての上に、主権を握った秀子はあでやかな微笑みを洩らしていた。そして愚鈍なる彼の眼は、恐る恐る彼女の方に挙げられて、其処に、山岳の裾野を思わするなだらかな弾力性の腹部の起伏を見守っていた。彼の視点が顔に止まり、耳と指先とに止まり、また胸に止っていた間は、彼はなお自己の主であることが出来た。然しその視点が腹部に、神秘な不可測なる生命の息吹きと蠱惑とを有する女性の腹部にまで及んだ時、彼はもはや自己を制することが出来なかった。而も現実として彼がそれを知覚したのは、最初にしてまた最後だったのである。 彼はむやみと町を彷徨した。眠れぬ夜が続いた。午前の二時から三時までの間に、全く空気の流れが止ったむし暑い澱んだ時間があるのを、彼は初めて知った。その前は宵から引続いた夜であり、その後は冷ひえ々びえとした北の微風が流れ出す朝であった。その凡てが澱んで動かぬ時間の間、彼は床の中に幾度か身を悶えて自ら自己を訶さいなんだ。 山田の心が闇黒になればなるほど、秀子は益々晴れやかになった。山田は自ら秀子を方々に誘い出した。然し彼は、主人を門口に誘い出して尾を垂れながらその伴をする犬であった。犬が立ち止ると、主人は眼に微笑を浮べて﹁おいでおいで﹂としなやかな五本の指でさし招いた。そして主人は馳け寄って来た犬の頭を軽く叱るように叩きながら、その漫歩を続けた。荒い三筋縞の紗の着物を着て同じく紗の帯をしめぽくりをはいたその立像はしとやかであったが、薄色の絽縮緬の半襟から覗いたその頸筋には、人を悩殺せしむる爛熟した肉体の片影が見えていた。 彼等はよくレストーランに寄っては酒を飲んだ。 ﹁私この頃よく飲めるようになったでしょう。みんなあなたのお蔭よ。﹂ 秀子はキュラソーのグラスを手にして、睥むような眼付をした。山田はその前に白痴のようにぽかんとした瞳を見張りながら、しきりに麦酒のコップを干した。 ﹁この次は何処にしましょう。﹂ 秀子は首を傾かしげて山田の眼の中を覗き込むようにした。彼等は散歩の度毎に一軒々々違ったレストーランやカフェーにはいり込むことにしていたのである。 ﹁どうせこうなったら、おしまいまでやり通すわ。﹂と秀子は云った。﹁もう何にも考えっこなしよ。あなたは私のする通りになるのよ、よくって。さあおててを上げて。……渋めっ面つらをして。くしゃみをして。おほほ、くしゃみだけはうまくゆかないものね。さあこちらにいらっしゃい。﹂ そして秀子は大きく両腕を拡げた。然しそれは、彼女があの後山田に許す唯一の愛顧であった。それ以上求めようとする時、秀子は指を眼の所に上げて﹁しッ!﹂と云った。そして山田はそのまま首を垂れた。 暑気は次第に上っていった。午後二時の温度が九十度を越す日もあった。汗と炎熱とに蒸された市人は、夕方になるとカフェーに集って冷たいもので胃袋を冷した。凉しげな二階のついてるカフェーでも、夜遅くなっても、秀子と山田とは階下の狭い暑苦しい室で我慢をしなければならないこともあった。 彼等が室の一隅で、うす汚い其処の小犬にコール・ビーフの切れをやって笑っていると、向うの卓テー子ブルに居た三人の職人らしい男が、彼等の方にじっと酔っぱらった眼付を据えていた。 ﹁あの犬も物価騰貴で痩せてるらしいぜ。﹂とその一人が云った。 ﹁然し馬鹿に豪ごう気きな人も居るもんだな。だから犬の野郎いつまでもくたばらねえんだ。そこにいくと人間が一番可哀そうだぜ。﹂ すると三人目の角かく刈がりの若いのが、大きい声を立てて云った。 ﹁おい姐ねえさん! 勿体ねえことをするんじゃねえや。犬よりも人間の方がよっぽど腹が空いてるんだ。﹂ 秀子は呆気にとられて、その方を見返した。 角刈の男は立ち上った。そして二人の男が止めるのもきかずに、ビールのコップを高くさし上げた。 ﹁やあこれは失敬、あはは、こちとらは酔っ払ってるんだ。姐ねえさんと云ったなあ悪かった。勘弁してくんなせえ。で改めて、……えーと、奥さん! 犬のために祝盃を上げるんだ。人間は腹が空いても大丈夫だ。犬の野郎は浅ましいもんだ。わんわん吠えやがる。奥さん、勿体ねえが、なに構うこたあねえ、もっとやっておくんなせえ。わしらだって助けてやりまさあ。憚りながら五十銭もする米の飯を食っているんだ!﹂ ﹁よせよ。よしなったら!﹂と一人の男が彼をしいてまた椅子に坐らした。 然し此度は秀子の方で口を開いた。彼女は一種の強猛な眼を光らしながら、口元には微笑を湛えていた。 ﹁ほんとにいい景気ですわね、あなた方は。もう二三本私が麦酒を奢ってあげましょうよ。﹂ ﹁そいつは有難え。﹂と角刈の男は云った。﹁実は………ええと、奥さん、この上ねえ不景気なんだ。こいつらがしみったれたことを云うもんで、なお胃袋が淋しくっていけねえ。おい姐さん萬歳………や奥さん萬歳をやるんだ。立たねえか。﹂ そう云って彼は立ちかけたが、また椅子の上によろめいてしまった。 そのうちに女中が麦酒を二本彼等の卓子の上に持って来た。すると一人の男が煙草に火をつけながら低く囁いた。 ﹁人を犬と同じにしてやがる!﹂ その間に秀子は皿のコール・ビーフをそっくり床ゆかにあけてしまった。小犬は尾を振りながら舐めまわした。 ﹁犬だって人間だって同じですわ。﹂と秀子は落ち着き払って答えた。﹁私なんか家うちの猫と一緒に寝るんですもの。﹂ ﹁そうだ!﹂と角刈の男は立ち上った。﹁犬も猫も人間も同じだ。奥さんはさすがうめえことを云う。わしらだって、なあに、今に野良犬と一緒に寝て見せますぜ。女が無けりゃあ野良犬と寝るんだ。男が無けりゃあ猫と寝るんだ。奥さん万歳!――おい何を愚図愚図してるんだ。麦酒をつがねえか。﹂そう云って彼は女中を怒鳴りつけた。 その間に秀子は勘定をすまして、山田をつれてふいと外に飛び出した。 ﹁おほほ、面白い人ね。女が無ければ野良犬と寝るし、男が無ければ猫と寝るんだって。﹂ そして彼女はヒステリックに笑い出した。然し山田が驚いて見返った時には、彼女はもういつもの晴れやかな顔に返っていた。 然しそれは単なる酒の上の戯談ばかりではなかった。欧州大戦争の影響として凡ての経済状態が根本から覆った余波を受けて、米価も奔騰し、政府の干渉にも拘らず、先さき物もの三十円を突破する乱調な相場を来した。そして実際下層の市民は饑えつつあった。闇黙の間に、彼等のうちには何物とも知れぬ反抗の気勢が醸されつつあった。山田は漠然とそれを感じた。然し、秀子の笑顔は忽ちにして彼の脳裏から凡てを抹殺し去った。彼の頭にはただ先刻の秀子のヒステリックな笑いがその底にこびりついた。そして彼はもう自ら抑えることが出来なかった。ぐぐぐという痴呆的な笑いが彼の胸からこみ上げて来た。そして彼は歯をくいしばった。 秀子は喫驚したように眼を見張って彼を顧みたが、つとその手を取って握りしめてやった。﹁どうしたの。お馬鹿さんだわね。﹂と彼女は云った。 その言葉と彼女の柔い掌とを感ずると、山田は急に我に返った。彼は首を垂れて、溺れる者のように秀子の手に縋りついた。 山田はもはやただ喘いでいる野獣に過ぎなかった。而も極端に従順なる野獣に。あの夜受けた獣性の痛手は、それが最初でまた最後であっただけに、益々深く彼のうちに喰い込んでいった。そして彼の思想や趣味と称すべきものは、既にその痛手を受くる前にみな秀子に蚕食せられ強奪せられてしまっていた。彼のうちにはもはや何物も残っていなかった。ただ痛手を蒙った獣性のみであった。彼はむやみと彷徨した。そしてまた、自己の牢獄に帰るようにして秀子の許に帰っていった。秀子はもう、門口や二階の縁側に彼を待ち伏せる必要はなかった。 ただ不思議なことには、山田は一度も秀子の家で伊藤に逢わなかった。然し彼はもうその危険を念頭に置いてもいなかった。が……。 或日、彼はいつものようにその﹁彷徨﹂から秀子の家の方へ走りつつあった。その時、電柱の影から不意に彼を呼び止める者があった。ふり向くと、その男は云った。 ﹁君はたしか山田達二君でしたね。﹂ 山田は何とも答えないで、その男を見返した。四十位の、塩瀬の単ひと衣えと縦たて呂ろの羽織とを重ねて、白足袋をはいていた。小さな眼と鼻と口とをかこんだ四角な痩せた顔の輪廓、額のあたりに何処か神経質な皺、……と山田ははっとした。それは伊藤であった。 一瞬間、互の凝視が続いた。そして山田は、挑戦的な身構えをして緊とステッキの頭を握りしめた。然し伊藤は穏かに云った。 ﹁僕は君に一寸話したいことがあって、前から機会を待っていましたが、仕事の方が忙しかったものですから、後れたのです。用件は大抵お分りでしょう。そこいらまでつき合って貰えませんか。一杯やりながら話しましょう。﹂ ﹁それには及びません。今すぐ承りましょう。﹂ と答えて、山田は一歩後に退った。 ﹁それでは歩きながらでも話しましょう。然し、まあそう興奮しないでもいいです。﹂伊藤はそう云ったが、明かに或る内心の動揺を押し隠しているらしかった。そして彼は、後について来る山田の方は顧みもせず、ゆっくり歩を運びながら独語のような調子で云い出した。﹁用件というのは簡単なことです。秀子のことについて一寸一言君にも云って置きたいのです。実はあの女は、全く大変な奴で、到底男の手におえるような代しろ物ものではありません。で僕は君に少し忠告して置きたいのです。君が本当に自分の一身を大切に思うなら、あの女から遠ざかりなさい。長く関係をつけて置くと君の身を破滅さす許りです。僕はこれを嫉妬や何かの情に駆られて君に云うのではないのです。僕が嫉妬をしているのなら他に取るべき方法はいくらもあるのです。ただ僕自身痛切な経験をなめたので、君のためを思う老婆心から云うのです。僕はもうあの女には少しも心を残してはいません。やりたいことをやらして勝手に放任しているのです。ただ生活上の保証だけは与えてやっています。これからもあの女が拒まない限り、物質上の不自由はさせないつもりです。僕にもそれ位の意地はあるですから、このことは諒として貰いたいです。……ただ僕は君の身が気遣われるのです。君にもあの女はどんな者だか大凡分ってはいるでしょうが、よく反省しないととんだ目に逢うことがあるのです。全くの老婆心だが、君がまだ本心を失わないでいるなら、よく考えられるようにお勧めしたいです。﹂ 伊藤はそこまで云って立ち止った。 ﹁仰言ることはそれだけですか。﹂と山田は吐き出すように云った。 二人は又互いに相手の眼の中を凝視した。一瞬間緊張した沈黙が続いた。と山田はふいに云った。﹁御忠告はありがたく受けます。然し私にも少し考えがありますから、何れ御返事は後で致しましょう。それに少し急ぎますから、今日はこれで失礼します。﹂ そして彼はくるりと伊藤に背を向けて歩き去った。彼は背中に伊藤の視線を感じたが、ふり返りもしなかった。何か強暴な力が彼をただ前へ前へと押し進めた。 山田は、暫く行くとふり返った。其処にはただ静かな夜の裏通りがあるのみだった。彼は強く頭をうち振ってまた歩き出した。電車通りに出たり、裏町にはいり込んだりした。そして歩いてるうちに、いつしか彼の頭は夢の中に居るようなぼんやりした痴呆状態に陥っていた。ふと気がつくと、彼は足の運動につれて、口の中で機械的に﹁はらだ、はらだ、はらだ﹂とくり返していた。原田というのは途中で見た或る表札の名前であった。その時彼は、妙な身振りをした。何か眼の前のものを払いのけようとでもするかのようであった。そして自ら﹁馬鹿!﹂と声に出して叫んだ。彼はまた歩き出した。そして此度は﹁ばか、ばか、ばか、﹂と口の中で足の運動に合して機械的に云っていた。 その晩、彼は秀子の家に寄らずに、遅く下宿に帰って、蒲団の中に倒れるようにはいり込んだ。 八月三日、山田はその午後、どしりと頭から打撃を被った。﹁動員アリ七日朝マデニ入営セヨ。﹂そういう電報を彼の国許の父から受取った。 山田は電報の紙片を見つめながら、惘然としてしまった。巨大な岩石の下に押し潰されたような心地がした。凡てが彼の眼の前から消え失せてしまった。ただ闇澹たるものが彼の前に、測り知られぬ深さを以て展開された。それは単に動員もしくは戦争ではなかった。不可抗なる大なる運命の暴力であった。彼は既に秀子によって自己の主ではなくなっていた。そして今や大なる暴力の手によって更に奪い去られんとしているのであった。 彼はいきなり立ち上った。そして外に飛び出した。自分を縛いましめている陰闇なる鎖から逃れんとするかのように、彼はむやみと歩き出した。 或る電車通りの古本屋の前を通りかかると、店先に並べられた書物の上に小猫が一匹戯れていた。よく見ると、堆い書物の隙間に大きな蝶が一つ羽はねと足あしとで逃げ廻っていた。小猫は別にそれを取ろうとするでもなく、身体を横にしたり、とんぼ返りをしたりしてそれに戯じゃれついていた。その戯れは何時までも続いた。山田の外に二三人の通行人が足を留めてそれを見ていた。そのうちに店の奥から小僧が出て来て、小猫を向うに抱えて行ってしまった。蝶の姿は何処へ行ったか分らなかった。 山田はそれを見ているうちにいい気持ちになった。何だか無性に嬉しくなった。そして小猫が連れ去られると、妙に身体が自由になると共に頭がぼんやりしてしまった。彼はなお歩き続けた。 その晩八時頃山田は秀子の家に辿りついた。︵辿りついたというのが彼の有様を一言にしてつくす言葉であった。︶彼は青い顔色をしていた。眼ばかりが妙に据って輝いていた。 ﹁まあどうしたの。ほんとに変ね。……こちらへいらっしゃい。私の小ちゃな赤ちゃん。おっぱいあげてよ。﹂ 秀子は山田に向って残酷なほどあでやかな笑顔を見せた。絞りの浴衣に博多の細帯をしめていた。 山田は何とも云わないで、懐から国許の電報を取り出して彼女の前に置いた。 ﹁なあに、これ。﹂そう云いながら彼女はその紙片を取ったが、読み下すうちに顔色を変えた。それから暫くじっと山田の顔を見つめていたが、急に彼の膝に身を投げた。 ﹁山田さん!﹂そう秀子は彼の姓を呼んだ。そして肩を震わして泣き出した。 山田は何が何やら訳が分らなかった。秀子のその急激な変化は、彼のうちに異常な混乱を起した。彼は秀子の身体に猛獣が餌物に爪を立てるように掴みかかった。 ﹁山田さん! 私、私、あなたに恋していたのよ。許して頂戴。許して!﹂ そう云いながら、秀子も涙の顔を上げて山田に掴みかかった。もはやそれは愛の抱擁ではなかった。一の争闘であった。彼等は互いの肉体を掴みながら、息をつめ一団となって狂い廻った。