父の形見

豊島与志雄




 正夫よ、君はいま濃霧のなかにいる。眼をつぶってじっとしていると、古い漢詩の句が君の唇に浮んでくるだろう。幼い頃、父の口からじかに君が聞き覚えたものだ。
 その頃君の父は、土地の思惑売買に失敗し、更に家運挽回のための相場に失敗し、広い邸宅を去って、上野公園横の小さな借家に移り住んでいた。君の母はもう亡くなっていた。老婢が苦しい世帯をきりもりしてくれた。父は感情の調子で時々酒を飲んだ。陶然としてくると、君を連れて散歩に出た。公園下に、まだ電車が通っていない時分で、木のベンチが並んでいた。
「正夫、見てごらん、星が、きれいだろう。」
 そう云って、酔ってる父はベンチの上に仰向にねそべり、小さな君はその側に、足先を宙に腰掛け、或は地面に膝をついてよりかかり、星を眺め、池を眺め、父を眺め、しまいにはうとうとと眠りかけるのだった。蚊が多かった。君ははっと眼をあいて、首筋や脛をぼりぼりかいた。父も着物の袖で蚊を追いながら、君の方を顧りみて微笑した。それから中声で詩を吟じた。
霜満軍営秋気清……云々
鞭声粛粛夜過河……云々
蛾眉山月半輪秋……云々
月落烏啼霜満天……云々
高原弔古古墳前……云々
 
 調
 

 
 
 椿
 

 
 
 

 

 

 
 

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
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 調
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 
 

 
 使使
 
 
 
 

 





底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「行動」
   1934(昭和9)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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