平時にあっては、父親は子供たちにとって、一種の大きな友だちであり、且つ、雨露をしのぐ家屋のようなものである。時々相手になってくれ、またじっとそこに控えていてくれる、それだけで充分なのだ。その影で、子供たちは彼等自身の世界を持つ。
休暇になって、何かの興にかられ、三人の子供たちだけで相談しあって、いきなり宣言する。
﹁お父さま、あたくしたち、今晩徹夜するのよ。﹂
﹁え、徹夜……?﹂
﹁みんなで、一晩徹夜してみることにきめたの。お父さまは?﹂
﹁お父さまは……さあ……。﹂
云いしぶってるのがおかしくて、父も子供たちも笑いだしてしまう。がそのあとで暫くして、子供たちは父を誘いにくる。
﹁お父さま、今晩、お仕事がおありですか。﹂
﹁なぜ?﹂
﹁今ね、きくやが、アイスクリームをそう云いに行ったの。お父さまの分も一つありますよ。だから、それがくるまで、トランプをするの。﹂
もうそれにきめてるという顔付だ。だから父もその通りになる。四人でトランプの遊びをして、アイスクリームを一つずつたべて……さてそれから先は、もう、父親は書斎に籠ろうと、寝室に退こうと、全く自由だ。用は済んだのだ。
﹁おやすみなさい。﹂と子供たちは云う。
父親は寝る。子供たちは徹夜だ。
*
非常時にあっては、父親は子供たちに対して、一種神秘な力を持つ。子供たちはその力によりかかってくる。
三十九度以上の病熱になやまされてる子供のそばに、父親は殆んどつききりでいる。夜がふけて、看護婦はうつらうつらしている。覆いをした電灯の光のうす暗いなかで、熱にうかされた子供の大きな黒い瞳が、じっと父親の方に向けられる。何かを訴えてるようだ。
﹁なあに?﹂
﹁…………﹂
返事もなにもない、その沈黙のなかに、魂が溺れていく……。
﹁大丈夫よ。﹂
﹁…………﹂
﹁じきになおりますよ。﹂
﹁なおりますよ。﹂
﹁あしたから、熱がさがるの。﹂
﹁熱がさがるの。﹂
﹁今日は、いい気持だ。﹂
﹁いい気持だ。﹂
子供はうっとりと、赤ん坊のように父の言葉をまねている。
﹁だから、もう、ねんねしましょう。﹂
﹁ねんねしましょう。﹂
﹁おめめつぶりましょう。﹂
﹁おめめつぶりましょう。﹂
子供は眼をつぶる。
﹁ねんねしましょう。﹂
﹁ねんねしましょう。﹂
父親の掌に小さな手を任せたまま、子供はうとうとと眠っていく……。何か大きなものに信頼しきった眠りだ。
*
この子供たちには、烱眼なる読者が既に察するだろう如く、母親がない。そして、母親の細かな監視の眼がないだけに、至って自由である。自由な子供たちは、亡き母親への追憶を中心に互いに結びつくこと以上に、また互いに年齢の差の少ない女児二人に男児一人という実情以上に、自由な境涯にあるというそのことのために、極めて仲がよい。然るに、仲のよい自由な子供たちには、ただ精神的規律だけが必要だ。云いかえれば、自律的にしっかりしていなければならないという感情が必要だ。
その一事が、まだ子供たちにはよく会得出来ないらしい。
よそから、子猫が一匹来る。まだ小さくてよくしつけの出来ていない子猫だ。食卓の上にはい上る。食事の時になき立てる。遠慮もなく皿に頭をつきこむ。時とすると、とんでもない場所にそそうをする。ところが、その不行儀を叱ることが、子供たちにはどうしても出来ない。
﹁可哀そうだ。﹂と彼等は云う。
猫のような飼養動物にとっては、精神的規律は第二の天性になるということが、子供たちには分らないのである。
﹁だって、可哀そうよ。﹂と朗かに云う。
父親は苦笑する。それから微笑する。子猫に対する子供たちの朗かな愛撫が、彼の微笑を誘うのである。そして、子猫は叱っても、子供たちはまだ叱れない……と思うのである。