一
むかし、ギリシャの片かた田いな舎かに、ケメトスという人がいました。小さい時に両ふた親おやを失って、お祖じ父いさんの手で育てられていましたが、非常な乱暴者で、近所の子供達と喧けん嘩かをしたり、他人の果樹園に忍び込んで、林りん檎ごや無いち花じ果くの実を盗んだり、野山を駆け廻ったりして、その日その日を遊び暮らしていました。
お祖父さんは非常に心配して、いろいろ言い聞かせましたけれど、ケメトスは耳にも入れませんでした。
空に星がいっぱい輝いてるある晩、お祖父さんが庭を歩いていますと、上から石ころみたいなものが飛んできて、すぐ前に落ちました。拾い上げてみると、それは大きな林檎でした。お祖父さんはびっくりして、林檎が飛んできた方を仰ぎ見ました。すると、そこの屋根の上にケメトスが、星の光で林檎をかじりながら、にこにこ笑っていました。――そんなことが何度もありました。
﹁ケメトスの行ゆく末すえが気になる﹂とお祖父さんは眉まゆをひそめました。
お祖じ父いさんは考えたすえ、ある時ケメトスを側に呼んで、今まで隠していたことを話してきかせました。
﹁ケメトスや、わしの言うことをよく聞くがよい。……お前が生まれる時に、わしは庭に出ていた。空一面に星が輝いてる晩だった。お前が無事に生まれるようにと心で祈りながら、ぼんやり空を見上げていた。すると、一ひと際きわ強く光ってる星がわしの眼にとまった。しばらくすると、その星がすーっと流れて、瞬またたくまに消え失せてしまった。ちょうどその時に、家の中から、お前の産うぶ声ごえが聞こえてきたのだ。
わしには、そのことがいつまでもわすれられない。星が流れるのは、ことに一際輝いてる星が流れるのは、悪い知らせなのだ。お前が生まれる時に星が流れたのは、お前の運命がよくないという知らせだ。
だが、運命というものは、ある点まで自分の手でこしらえ直すことが出来る。わしのように老人になると、そのことがはっきりわかるのだ。自分の運命を自分の手でよくなしてゆくことが、人間の一番大切な仕事なのだ。﹇#﹁なのだ。﹂は底本では﹁なのだ﹂﹈
よいか、ケメトスや、お前はあまりよくない運命を荷になってるようだから、それをよくなそうと努めなければいけない。さもないと、お前の終わりはきっと悪い。わかったか、ケメトスや﹂
ケメトスは何とも答えないで、ただうなずいてみせました。お祖父さんのようすがいつになく極めて真剣なのに、すっかり気け圧おされてしまっていました。
けれどもケメトスには、お祖父さんの言ったことがよくわかりませんでした。ただ、自分の生まれた時に星が流れたということだけが、はっきり頭にはいりました。そしてそのことを考えると、何だか嬉うれしいような力強いような気がしました。
それから彼は、晩になるとよく星を眺ながめました。ことに、屋根の上にあがって、林りん檎ごやなんかをかじりながら、星を見るのが愉快でした。ぴかっと光って長い尾を引いて、空の奥へ消えてゆく流れ星を見つけると、喜んで飛び上がりました。
﹁自分もあんなに空が飛べたら……﹂と彼は考えました。
しかし空を飛ぶのは容易なことではありませんでした。それでケメトスは、高い所へ飛び上がったり飛び下りたりして、せめてもの心やりをしたいと思いました。飛び上がる方はむずかしいけれど、飛び下りる方はさほどでもありませんでした。
ケメトスは一生懸命になって、高い所から飛び下りる練習をいたしました。野山を駆け廻ったり、木によじ登ったり、いたずらばかりしていたものですから、大変身軽になっていました。一年もたつうちには、ちょっとした呼こき吸ゅうでもって、屋根や木の枝やその他の高い所から、わけなく飛び下りられるようになりました。
﹁ケメトスは鳥の生れ変わりだ﹂などと言って、近所の人達は驚いていました。彼はますます得意になって、その技を練習いたしました。
二
ケメトスの評判は次しだ第いに四方へ広がって、ついにその土地の王様の耳にはいりました。王様は珍しいことに思われて、人を遣つかわしてケメトスを招かれました。
ケメトスがいよいよ都へ出発する時になって、お祖じ父いさんは彼を側に呼んで言いました。
﹁とにかく一つの技能に秀ひいでるということは、それが不正なものでない限り、至いたってよいことだ。それでわしは今まで、お前が一生懸命になってるのを黙って見ていた。けれどよく考えると、わしはやはりお前の終わりが気にかかる。しかし今いま更さらもう仕しか方たはない。ただ何事も控え目にやるがよい。自分の力以上のことをしてはいけない。くれぐれも高こう慢まんな心を起こさないようにね、ケメトスや﹂
ケメトスはお祖父さんの首に抱きつきました。お祖父さんは黙って涙を流しました。ケメトスはその涙を拭ふいてやって、それから、きっと名前を揚あげると誓って、勇んで都へ上のぼりました。
国王はケメトスがまだ十五六歳の若者であるのを見て、案あん外がいな気がされました。しかしその技をためしてみられると、初めて舌を捲まいて驚かれました。十尺しゃく二十尺ほどもいきなり飛び上がるばかりでなく、飛び下りる方になると、七八十尺の高い所からでも平気で飛んで、すっくとつっ立ってるのです。
それは色々の運動が大変盛んな時でした。でケメトスは、飛び方の長おさとして王様から抱かかえられ、宮殿のうちの立派な部屋に住むこととなりました。
ケメトスの評判が諸しょ方ほうに響き渡ると、彼と技をくらべようという者がたくさん出て来ました。しかし誰も彼に及ぶ者はありませんでした。飛び上がる方ももちろんかないませんでしたが、飛び下りる方になると、大たい抵ていの者は足を挫くじいたり腰こしの骨を折ったりして、逃げ戻りました。
ケメトスはますますその技を磨みがくと共に、夜の空の流れ星を眺めては、お祖父さんの言葉を思い出して、一生一代の晴はれ業わざをして名を上げたいと考えました。
ある時王様は諸国の王を招かれて、盛んな宴を催されました。そして御自慢のケメトスを召されて、技を見せてくれと頼まれました。諸国の王様達も、かねがねケメトスの評判を聞いていられますので、一緒に所望されました。
﹁いよいよ時期が来た﹂とケメトスは考えました。
宮殿の横に、高さ三百尺しゃくの塔が立っていました。大きな河の流れや森を見下ろして、空高くそびえた、実に見事な塔でした。ケメトスはその塔の頂いただきから、夜、炬たい火まつを手に持って、飛び下りると言い出しました。
王様はじめ人々はびっくりしました。いくらケメトスが身みが軽るだからといって、三百尺の上から飛び下りられるわけはありません。そんなことをしたら体が粉みじんになると言って、人々は口をそろえて止めました。しかしケメトスは無理に言い張りました。彼の言うままに任せるの外はありませんでした。
三
その晩になると、大変な騒ぎとなりました。国王はじめ諸国の王様達は、塔の近くの河かわ原らに席を設けられ、その他の者はあたりを取り巻き、都の人々や近在の人達まで出て来て、塔が見える限りの土地は見物人で埋まりました。ケメトスが飛び下りる塔の下の場所には、もうせんが敷きつめられ、まわりにはかがりびが焚たかれました。
ケメトスは塔の頂に上って、空の星に向かって長い間祈りを捧げました。お祖じ父いさんから聞かされたことが、自分の運命が、今はっきりとわかる気がしました。やがて彼は右手に炬火を持って、塔の頂に現われました。それを見て四方から、雷らいのような喝かっ采さいのどよめきが起こりました。塔の上から眺ながめると、一面に茫ぼうとした星明りでした。大たい河がの流れがえんえんと続いており、所々に森がこんもりと茂り、宮殿からずっと都の町が屋やね根な並みを揃そろえ、その間々は、見渡す限り見物人で埋まっていました。
ケメトスは、空の星に向かって最後にも一度心で祈り、それから、右手の炬たい火まつを三度輪に振って、飛び下りる合図をしました。どっと歓かん呼この声が響いて、あとはしいんと静まり返りました。ケメトスは右手に高く炬火かざしながら、大河の深い淵ふちへ向かって力いっぱい飛びました。﹇#﹁飛びました。﹂は底本では﹁飛びました﹂﹈
人々は息を凝こらして、塔から離れたケメトスを見つめました。ところがケメトスの体は、塔の下のもうせんの上へ落ちて来ないで、あたかも羽が生えて飛ぶように、すっと空を掠かすめて、炬火の光を長く尾お﹇#ルビの﹁お﹂は底本では﹁を﹂﹈に引きながら、程ほど離はなれた大河の淵へ落ちこんで、そのまま見えなくなってしまいました。あまりに見事なのとあまりに意外なのとで、人々はしばらく茫ぼう然ぜんとしていました。
やがてその驚きが静まると、新たな騒ぎが起こりました。王様の命令によって、人々は急いで舟を河に出して、ケメトスが陥おちいった淵を探し始めました。その捜そう索さくは三四日間続きました。しかしケメトスはどこにも見出されませんでした。ケメトスは名前だけを残して、それきり消え失せてしまいました。
その報しら知せを受けたお祖じ父いさんは、一言も口をきかずに、ただ悲しげにうなずきました。
それから後、彗ほう星きぼしが空に出るのを見ると、土地の人達は、﹁ケメトスが飛んでる!﹂といつも言いました。実際、ケメトスが炬火をかざして塔から河の淵へ飛んだ有あり様さまは、空に出る彗星とそっくりだったそうです。