がけの上のひろい庭に、大きな椎しいの木がありました。何百年たったかわからない、古い大きな木でした。根かぶが張りひろがり、幹がまっすぐにつき立ち、頂の方は、古枝が枯れ落ちて、新たな小枝がこんもりと茂っていました。朝日がさすと、若葉がさわさわと波だち、椋むく鳥どりや雀がなきたてました。 春さきのこと、あたたかいそよ風が吹いて、この椎の木も笑ってるようでした。 その根もとに、二匹の鼠がかけまわっていました。小さいのが、根のはりだしたかげにかくれていますと、大きいのが、とびついてきます。とたんに、小さいのは逃げだして、根かぶの向うがわにまわります。大きいのは追っかけてゆきます。小さいのはまた逃げだします。そして、根のまわりをぐるぐるまわったり、立ちどまって相手のようすをうかがったり、逆にまわったりします。 そのうちに、こんどは大きいのが逃げ、小さいのが追っかけます。 鬼ごっこをして遊んでるのでした。 ところが、大きいのが、何かのけはいを感じて、じっと立ちどまりました。小さいのがとびついてきても、身動きもせず、ふりむきもせず、あちらを見つめています。首をすこしかしげ、耳をたて、長い尾をぴんと伸ばしています。 ――なんだか、あやしいぞ。どうもそうらしい。あ、そうだ。これはいけない。 大きい鼠は一声たてて、逃げだしました。小さい鼠もそれにつづきました。 そして二匹の鼠は、いっさんに、がけの下へかけおりて姿をかくしてしまいました。 そこへのっそりと、一匹の三毛猫がやって来ました。椎の木の根のあたりをうそうそとかぎまわりました。 ――これはおかしいぞ、こんなところに、鼠がいるわけはないが、どうも鼠くさい。おれが退屈してるように、鼠も退屈して、こんなところへ出て来たのかな。それにしても、俺が来たからって、逃げなくてもいいんだがなあ。俺はちょっとふざけてみせるだけで、鼠なんか食やしない。猫はそのあたりをかぎまわって、それから、落葉の上にねそべりました。 ――鼠でてこい、鼠でてこい。いっしょに遊ぼうよ。 そんなことをぼんやり考えながら、猫は眼をほそめて、うっとりと眠りかけました。春の日があたたかくさして、落葉の上はよい心地でした。 やがて、遠い人声に猫はすこし眼を開きました。 青い大空に、なにか一筋、ほそいものがかかっていました。たいへん高いようでもあれば、すぐ低いようでもありました。 猫ははっきり眼を開きました。 見ると、一筋の糸が、椎の木の上へのびていました。糸の先には、赤い絵のかいてある凧たこが、ふらりふらりとたぐりよせられていました。 椋鳥がとんでにげました。 凧はだんだん近くなりました。右にかたむき、左にかたむき、あぶなっかしいようすでしたが、にわかに、がくりとかたむいて、さかさまになりました。糸が椎の木の枝にひっかかったのです。そしてそのままたぐりよせられたので、凧までも枝にひっかかってしまいました。 ――ばかなことだ。とうとうひっかかってしまった。猫は立ちあがって、背のびをしましたが、またそこにねそべって、眼をつぶりました。 一郎と二郎が、凧の糸をまきとりながら、椎の木の下にやって来ました。 一郎は上を見あげながら、凧の糸を、ちょっちょっと引っぱり、ゆっくり引っぱり、強く引っぱってみました。そのたびに、椎の葉と凧がゆれ動くだけで、凧はそこからはなれませんでした。 ﹁だめなの。﹂と二郎は尋ねました。 ﹁うん。﹂と一郎は答えました。 ﹁さおをもってこようか。﹂ ﹁届きやしないよ。﹂ ﹁はしごをもってこようか。﹂ ﹁あんなとこまで、登れやしないよ。﹂ ﹁石を投げつけてみたら……。﹂ ﹁ばか、破けるばかりじゃないか。﹂ それで、二郎はもう手段がつきました。うらめしそうに凧をあおぎ見ました。 ﹁兄さんがいけないんだよ。僕がもうやめようというのに、糸をすっかりくりだしてしまうんだもの。﹂ ﹁風がなくなったのがいけないんだ。きゅうになくなったんだから……。﹂ ﹁風がきゅうになくなるの。﹂ ﹁なくなるよ。きゅうに吹いてくることがあるだろう。だから、きゅうになくなることだってあるさ。﹂ ﹁でも、ゆっくり吹いてくることもあるよ。﹂ ﹁うん。ゆっくり吹いてきて、ゆっくりなくなることもあるさ。﹂ 一郎はまた凧の糸をいろいろに引っぱってみました。だめでした。 ﹁お前やってごらんよ。﹂ 二郎は糸を受け取って、いろいろに引っぱってみました。 一郎はあたりを見まわして、三毛猫を見つけました。 ﹁おや、ミミーがこんなとこにねてるよ。﹂ 一郎は猫を抱いてきました。そして、椎の木に引っかかってる凧を見せました。 ﹁ミミー、この木に登って、あの凧を取って来いよ。いいか、取って来たら、うまいものをあげるよ。取って来いよミミー。いいか、ミミー。﹂ 一郎は猫を椎の木にだきつかせました。猫はそこに爪をたててちょっと止まりましたが、身をねじりながら、ぱっと地面にとびおりました。 一郎は笑いました。 ﹁ミミーもだめだっていうよ。あきらめようよ。﹂ 二郎は考えこみました。それから、きゅうに眼をかがやかせました。 ﹁そうだ、植木屋にたのもう。近いうちに植木屋が来るって、お母さまが言っていらしたよ。植木屋なら、あすこまで登れるよ。﹂ ﹁ほんとに来るのかい。﹂ ﹁ほんとだよ。お母さまに聞いてごらんよ。﹂ ﹁そんなら、凧をつないでおこう。﹂ 糸を切って、そのはじを、つつじの木にゆわえつけました。 そして、二郎は糸巻をもち、一郎は猫をだいて、あちらへ行きました。 椎の上枝のへんは、にわかに、そうぞうしくなりました。そこに住んでる多くの椋鳥が、凧のことでしばらく静まりかえったあと、いっそうにぎやかに飛びかい、なきたてました。 そこへ、一羽の烏がとんできて、上枝にとまりました。椋鳥たちはちょっと黙りました。 烏は用心ぶかくあたりを見まわしました。それから、じっと凧を眺めました。凧にかいてある赤いひげだるまの絵を、うさんくさそうに眺めました。 その近くに、一羽の椋鳥がとびだしてゆきました。 ――いやな奴が、またやって来たな。 だが烏は、じっとしていました。 椋鳥は眼をぱちつかせて、烏を見ました。 ――おかしいな。こいつは、いつもいやな声で、カアカア鳴きたてるくせに、今日はどうして黙ってるのかしら。 烏は椋鳥に眼もくれないで、地面をあちこち眺め、それからまた、凧を見ながら、しきりに首をかしげています。 ――ははあ、凧をこわがってるんだな。 そう思って、椋鳥はあざ笑いたくなりました。 ――こいつは、ほんとにまやかし者だ。たいへん威勢がよさそうで、じつはひどくおくびょうだ。たいへん大胆なようで、じつはひどく用心ぶかい。どこかまぬけのようで、じつはわるがしこい。ほんとにまやかし者だ。烏はまだ、鳴きもせず、まばたきもせず、凧を眺めていました。 ――凧がそんなにこわいのかな。それとも、なにかたくらんでるのかな。 椋鳥は凧のそばにとびうつりました。 烏は、椋鳥ではなく、やはり凧を眺め、地面をあちこち眺め、また凧を眺めました。 椋鳥はもう、なんだかがまんしかねました。くちばしで凧をつついてみせました。かさかさと音がしました。それでも、烏はまだじっと凧を眺めていました。 椋鳥はまた凧をつつきました。それから、凧の上、赤いひげだるまの顔のあたりに、とび乗って、足でひっかいてやりました。ばさっと音がし、ばりっと破けて、凧はぐらりとかたむきました。 烏は大きな翼をひろげて、風のように飛んでいってしまいました。 椋鳥はなかばひろげた翼をひらいて、飛びあがろうとしました。ところが、片足が凧の紐ひもにひっかかっていました。凧の四よす隅みや中程についてる紐が一つにまとめてあるその真中に、足をふみこんだのです。 椋鳥はあわてました。片足にからんでる紐を、ほかの片足でけおとそうとして、そちらにも紐をからませ、両足をすり合せばたつかせて、ますます紐をからませました。と共に、飛びあがろうとして力いっぱいに羽ばたきをしました。 凧はゆれ動いて、枝からはなれました。枝にかかってる凧糸が、一方は地面のつつじの木につながれたまま、ぴんと張りきり、ついに切れました。 椋鳥は一生けんめいに羽ばたきしました。しかし、足に凧をつけたまま飛ぶほどの力はありません。凧といっしょにふらりふらりと地面へ落ちてゆきました。 椋鳥はもう羽ばたきをやめました。横ながれにばさりと地面へ落ちました。 そしてしばらく、椋鳥はけわしい息をつきました。 声や音がしました。一郎と二郎が、あちらから走ってきます。三毛猫もいっしょにかけてきます。 椋鳥は立ちなおりました。生命のあやういことがかえって気をおちつかせました。翼をおさめ、片足を静にもちあげました。足は凧紐からぬけました。ほかの片足をもちあげると、それもするりとぬけました。 一郎と二郎と猫は、すぐ近くまでせまってきました。 椋鳥は横手ななめに眼をすえて、ぱっと飛びたちました。飛びあがってしまえば、羽ばたきに力がこもって、ぐんぐん速くなりました。 がけの外にいで、大きく半円をえがいて、若葉のでだしてる椎の木にとまりました。 破れてる凧の上に、三毛猫はとびつきました。 ﹁ミミー、ミミー、おどきよ。﹂と一郎は叫びました。 二郎は凧をとりあげました。あちこち破れ、ことに、赤いひげだるまがひどく破れてるのを、じっと、眺めて、泣きだしそうな顔をしました。 一郎は凧の破れ目をしらべました。 ﹁あの椋鳥が破いたんだ。ほかのとけんかして、凧にひっかかったのかもしれないよ。﹂ そのあたりに、椋鳥の小さな羽毛が落ち散っていました。猫はそれをかぎはじめました。 ――おかしなことだ。さっきは鼠のにおいがしていたし、こんどは小鳥のにおいがしている。こんなところに小鳥のにおいがするとは、どうもへんだぞ。 猫はかぎまわって、がけの方まで行き、遠く見わたしました。日の光と人家ばかりで、なんの変ったものもありませんでした。一郎は猫のあとを見やりながら、二郎に言っていました。 ﹁凧にだるまの絵なんかかいてもらうからいけないんだよ。僕が張りかえてやるから、こんどは竜の絵をかいてもらえよ。﹂ ﹁だって、竜の絵は、黒い雲ばかりで、まっ黒だよ。つまんないや。﹂ ﹁赤いんだってあるさ。真赤な雲の中に、真赤な竜がおどってるのは、すてきだよ。﹂ ﹁そんなの、太田先生がかいて下さるかしら。﹂ ﹁僕がたのんでやるよ。﹂ ﹁でも、このひげだるまも、とてもよかったよ。﹂ ﹁そんなにすきなら、ちゃんとした紙にかいてもらおう。僕がたのんでやるよ。﹂ ﹁うん。﹂ 二郎は泣きそうな顔をやめて、にっこり笑いました。 ﹁だが、おかしいなあ。木の上の凧を、椋鳥が取ってくれるなんて……。﹂ 一郎はつぶやきながら、猫を呼びました。 ﹁ミミー、ミミー……。﹂ 猫は立ちどまって、一郎の方を眺めました。 ――小鳥のことかもしれないぞ。 猫はかけて来ました。 一郎は猫をだきとりました。そして二郎といっしょに、あちらへ行きました。 椎の木の上には、多くの椋鳥がさわいでいました。 それらの椋鳥のなかに、さっきのいたずら者の椋鳥も、もうたち戻っていました。 彼は羽毛をすこしいためていました。それを、くちばしでなでつけて、身づくろいをしました。いまいましくもあれば、またとくいでもありました。 ――あの烏のせいだ。こんどやってきたら、つっついてやろう。だが、危いところだった。俺もすこしあわてたかな。それにしても、ふしぎだなあ。ふだんとまりなれた木の上で、凧にひっかかり、とまりなれない地面の上で、凧からぬけだしたんだからな。これには、なにか、俺の思い及ばないことがありそうだ。まあゆっくり考えてみよう。こんなことは生れてはじめてだ。いや、誰にもはじめてだ。俺一人が知ってることだ。 椋鳥は身づくろいをすまして、一声たかく叫びました。そして、椎の木のいちばん高い枝にとびうつりました。そこから、四方を眺めました。 風はやみ、うららかな春の日で、遠くはぼーっとかすんでいました。近くの低い木の茂みに、雀の声がかすかにしていました。椋鳥は二三度鳴きたてました。それがあいずでした。そして飛びたちますと、ほかの椋鳥もついてきました。一群れになって、中空をさーっと飛んで、近くの木立へ遊びに行きました。 この一群れが飛びたつ羽風に、椎の古葉がいくつも散って、はらはらとまい落ちました。 そこへ、また三毛猫が出てきました。ちょっと椎の木を見あげたきり、のっそりと歩きつづけました。鼠のことも小鳥のことも、もう忘れてしまってるらしいようすで、鼻も耳も動かさず、平気な顔つきをしています。 ところが、ふいに、猫は立ちどまりました。つつじの木にゆわえられた凧糸が、切れて地面に横たわってる、その糸のそばに、こがね虫が一匹はいだしていました。 猫はこがね虫をじっと眺めました。それから、右手をそっと差し出して、虫の背にさわるかさわらないかぐらいに、ちょっかいをだしました、こがね虫は、すぐ、そこにすくんで、頭も足もちぢこめてしまいました。 猫はまた右手を差し出して、こんどはほんとに、虫の背にさわってみました。虫は身体ぢゅうをちぢこめて、身動きもしませんでした。いつまでも動きませんでした。 猫はまた右手を出しかけて、やめました。 ――おかしな奴だな。生きてるのか死んでるのか、さっぱりわからん。 猫は虫をかいでもみないで、椎の木の根もとの方へ行きました。 だいぶしばらくして、こがね虫はしずかに頭をもたげ、足をのばしました。そしてはいだしました。 凧糸が地面にのびてるそのわきを、すれすれに、こがね虫ははってゆきました。先の方になると、糸は椎の木から落ちて不規則にこんぐらかっています。そこまでたどってゆくと、こがね虫は立ちどまりました。立ちどまって、みじかいしょっかくだけを動かして、しばらく考えました。 ――はてな、どうしたものかなあ。どちらへ行くとしようか。 こがね虫は迷ったあげく、羽をひろげて、飛びあがりました。ぶーんと羽音をさして、まっすぐに飛んでゆきました。そしてすぐ、その姿は見えなくなりました。 こがね虫のかわりに、椎の古葉が一枚、ひらひらとまい落ちてきました。その古葉が落ちたあたりに、ほかの落葉の上に、三毛猫はもうまるくなって眠っていました。そこはあたたかく日がてっていました。 椋鳥の群れはまだ戻ってきませんし、あたりはおだやかで静かでした。猫は時折、うっすらと細眼をあけて、でも何も見ずに、またすぐ眼をふさいで眠りました。 大きな椎の木も、日の光のなかに静まりかえって、うっとりと眠りかけてるようでした。