此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先︵まず︶き︵や客く︶ぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おゝきに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私︵マ初マ︶栄︵高太松太郎郎︶なども其海軍所に稽古学問いたし、時船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸ジヨ気ウキ船センをもつて近のうち、土佐の方へも参り申候。そのせつ御見︵目︶にかゝり可レ申候。私の存じ付ハ、このせつ兄上にもお︵大ゝ︶きに御ど︵同ふ意い︶なされ、それわおもしろい、やれ〳〵と御も︵申ふ︶しのつ︵都が合ふ︶ニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍サでもはじまり候時ハ夫までの命。ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいゝし事を御引合なされたまへ。すこしヱヘンニかおしてひそかにおり申候。 達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれ〴〵ニもこれあり。 猶ヱヘンヱヘン、
かしこ。
五月十七日
龍馬
乙大姉御本
右の事ハ、まづ〳〵あいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがう人あるからは、をひとりニて御聞おき、
かしこ。