家︵坂兄本権平︶より︵京︶より大坂までおこし候文ニ付て、さし出申候存意、 ○彼養子のつがふハ積年の志願ニて、先年も度々申出候得︵共兎角︶兄が︵心︶配ニ相掛候事なれば終に立︵マ服マ︶致候ほどの事にて候ハ、雅兄ニもよく御存︵知の︶所ニて候。又兼而︵て︶雅兄が御論ニも土佐一国にて学問致し候得バ、一国だけの論︵に︶いで︵世界を︶横行すれバ、又夫だけの目を開き、自ら天よりうけ得たる知を開かずバならぬとハ、今に耳ニ残居申候。一昨年頃に︵も今年︶今日有事ハ相分り申候故ニ、存意書を認︵したため︶候て家兄ニも出し、親類共ニも相談致しくれ候。其文ニも勢ニよりてハ海外ニも渡り候事も、これ可レ有故猶さら生命も定兼候。且又龍馬年四十ニ相成候まで修行仕度、其時ニハ兄上ハ御年六十ニも及候ものなれバ、家政も御らん被レ成候には今の内より可︵しレかる然べき︶人、御見立被レ下度との文も有レ之候。其文猶御らん被レ下度候。今時の武︵マ稽マ︶修行と申ハ、元亀天正ころの武稽人の如く時々、戦争の場に出合実の稽古致し申候よふ相成申候。 当時於二江戸一も弥︵いよいよ︶攘夷と申に相成、勝麟太郎殿其事に與︵あずかり︶、元より幕よりも重く被レ命候事ニて候。猶龍馬らも要ニ有レ之候て江戸よりの書状八月廿八日ニ参り同九日ニ大坂を発足致事ニ相成候。右の件ニ候得バ元より天下の事ニ引くらべ候得バ、一家の事ハかへり見るにいとまなし。 又すこしも家兄の家の後致し候事ハ、念を出すべき事ハ無レ之候。 龍馬が内︵家︶に帰らねバ養子もできず、家兄にまで大きに心配相かけ候とならバ、又々出奔か死か可仕より外なし。 何卒以前の御心ニ変り無レ之候時ハ、養子のつ︵都が合ふ︶御つけ被二成下一度候。早々
恐惶謹言
八月十九日
龍馬
茂太郎様
足下
此状のをもむきにてかしこ