九月六日朝、はからず京師寺町ニ川村盈︵え進いしん︶入道ニ行合、幸御一家の御よふす承り御機嫌宜奉二大賀一候。二︵つぎ︶ニ私共初︵はじめ︶、太︵高郎松︶無二異儀一憤発出勢︵精︶罷在、御安慮奉レ願候。 一、目今時勢御聞入候。 当時さしつまりたる所ハ、此四月頃宇和島候︵ママ︶より長州え送一封の事也。夫ハ此度将軍長征ノ故を、幕史より書付を以て送りタル写也。 其文ニ曰ク、此度進発在ルハ長州外夷と通じ、容易ならざる企有レ之候。尤︵もつとも︶和︵オ蘭ランダ︶コンシユル横浜ニ於て申立也と。 又曰ク下の関ニ私ニ交易場を開キたり。 其外三条皆小事件也。 時ニ龍ハ下春江戸より京ニ上リ、夫より蒸気の便をえしより、九国ニ下リ諸国を遊ビ、下の関ニ至る頃、初五月十日前なりし。当時長州ニ人物なしと雖、桂小五郎ナル者アリ。故ニ之ニ書送リケレバ、早速ニ山口ノ砦を出来リ候。数件ノ談アリ。末ニ及ビ彼宇和島より来るの書の事ニ及ビ候。龍此地ニ止ル前後六十日計ナリ。其頃和蘭舶中国海より玄海ニ出ルアリ。 時ニこれを止ム。長官ノ者上陸人数八名、其内英人一名アリ。桂小五郎及井︵伊︶藤春︵後助輔︶ラ、大ニ憤リ、アル時ニ当レバ彼ノ宇和島より来ル所の書を以て曰ク、︵此時春外長二名及龍馬もアリ。︶無種の流言して幕府長との中をたがへ、目︵マ今マ︶将軍大兵を発し大坂ニ来ル、是和蘭の讒より起りし事也。 何故ニ候やと申ヨリ初メ前後談数語別ニ書有、和蘭人も赤面し義︵ママ︶セしナリ。 和蘭曰ク毛も長を讒セし事なし。是則小倉候︵ママ︶ヨリ長州の讒申立しニよりし、則小倉より申立し書付ハ外国奉行より見セくれしより、手帳ニ記シアリし故、御見目かけ申べし。夫を幕史らが和蘭より申立し事と、事をあやしく仕立しなりと申しき。 長、井藤春曰ク、然レバ近日幕兵一戦ニ及バヽ、先初ニ此談ニ及ぶべし。 又小倉えも此国より無種流言其罪を責候べし。 其時ハ立合呉候べきかと尋候。 蘭うなづき承知致セし、夫ハさてをき上の事を一書付を以て此頃小倉を責問セしニ、小倉言葉なく幕府ニ其長の書と小倉の家老の付紙とを以て、急ニ御詮儀被レ下度とて願出候。 此上の事許︵ばかり︶ハ先、幕か蘭か小倉か其罪をうけずしてハすまず。 ○此頃幕府より長州家老又ハ末藩召出しの儀を下したり。然ニ長州ハ曽てより不レ出と云儀を定たり。幕ハ不レ出バ大兵西下と義を定メ、諸々触出したり。 其兵を出スの期根︵限︶ハ九月廿七日也。 此頃、長ハ兵を練候事甚盛。四月頃より今ニ至ルまで、日朝六時頃より四ツ時頃迄、国中の練兵変ルなし。先三百人より四百人を一大隊とす。一大隊ごとニ惣︵総︶官参謀あり、郷村朝大隊の練兵す。日本中ニハ外ニあるべからず。 其国ニ入レバ山川谷皆護胸壁計ニて、大てい大道路不レ残地雷火ニて、西洋火術ハ長州と申べく、小︵少︶し森あれバ、野戦鉋︵砲︶台あり、同志を引て見物甚おもしろし。 私夫より此頃上京ニ有り、又摂ニ有、唯頓︵ママ︶所ニ居申候。 御安心可レ被レ遣候。申上レバかぎりも無事ニて候間、後便ニのこし候
稽首謹白。
龍馬
尊兄
大乙姉
於ヲやべどの
大乙姉
於ヲやべどの
追白、乙大姉ニ申奉ル。かの南町のうバヽどふしているやら、時きづかい申候。もはやかぜさむく相成候から、なにとぞわたのもの御つかハし、私しどふも百里外、心にまかせ不レ申、きづかいおり候。
此書御らんの後ハ安田順蔵大兄の本ニ御廻願入候。かしこ。