私共とともニ致し候て、盛なるハ二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら廿人斗の同志引つれ、今長崎の方ニ出、稽古方仕リ候。御国より出︵いで︶しものゝ内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十︵人斗︶も渡り候て、共ニ稽古致し候よし。実ニ盛なる事なり。 私しハ一人天下をへめぐり、よろしき時ハ諸国人数を引つれ、一時ニは︵た旗あ挙げ︶すべしとて、今京ニありけれども五六日の内又西に行つもりなり。然共下さるゝものなれバ、ふしみ宝来橋寺田や伊助まで下され候よふ御ね︵念ん︶じなり。 じつにおくにのよふな所ニて、何の志ざしもなき所ニぐず〳〵して日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり。 かへす〴〵も今日ハ九月節句とて、おやべがこ︵ん金ぺ米い糖と︶ふのい︵鋳が型た︶が、おしろいにてふさがり候こと察いり候。ねこおいだき西のをくのゑんニて、ひなたぼつこふ大口斗ヘヽラ〳〵さつしいり候。
乙大姉ニ申奉ル。
扨、先日文さしあげ候。
よろしく御らん可レ被レ遣候。
○ちかごろお︵ん御め面ん倒ど︶ふニ候得ども、実におねがいニ候間、御聞込つかハされかし。
あのわたくしがをりし茶ざしきの西のをしこみ書物箱がありし、其中ニいかにも︵こげしかきがみか︶のひ︵よ表ふ紙し︶かゝり候、小笠原流諸礼の書十本斗、ほんのあ︵厚つ︶さハ一分二分斗の本のあつさニて候。此頃あるかたより諸礼の書求くれよとあり候得ども、どふもこれなく、あれでなけれバどふもなり不レ申候。かならず〳〵めんどふとうちすておかずニ御こしつかハされたくねんじ候。
是よりおやべどんニもふす。
近頃御めんどふおんねがいニ候。どふぞ御きゝこみねんじいり候。扨、わたしがお国ニおりし頃ニハ、吉村三太と申もの頭のはげたわ︵か若い衆し︶ゆこれあり候。これがもち候哥本、新葉集とて南朝︵楠木正成公などのころよしのニて出来しうたのほん也。︶にてできし本あり。これがほしくて京都にて色求候得ども、一向手ニいらず候間、かの吉村より御かりもとめなされ、おまへのだ︵旦ん那な︶さんにおんうつさせ、おんねがい被レ成、何卒急ニ御こし可レ被レ下候。
上︵うへに︶申上候乙大姉えの御頼の本、又おやべより被レ下候本ハ、入道盈進までおんこし被レ成候時ハ私までとゞき候。
もし入道盈ヱイ進シムがおくにニかへり候時ハ、伏見ニておやしきのそバニ宝来橋ハシと申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。これハはたごやニて候。
此両家なれバちよふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおるよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州様西郷伊三郎と御あての︵マてマ︶、品ものニても、手がみニてもおんこし被レ遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。
九月九日
龍
おやべさん
京のはなし然ニ内ナリ
とし先年雷︵頼︶三木︵樹︶三郎、梅田源二郎、梁川星巖、春︵潜日庵︶などの、名のきこへし諸生太夫が朝廷の御為に世のな︵難ん︶おかふむりしものありけり。其頃其同志にてありし楢崎某︵将作︶と申医師、夫も近頃病死なりけるに、其妻とむすめ三人、男子二人、其男子太郎ハすこしさしきれなり。次郎ハ五歳、むすめ惣領ハ二十三、次ハ十六歳、次ハ十二なりしが、本十分大家にてくらし候ものゆへ、花いけ、香をきゝ、茶の湯おしなどハ致し候得ども、一向か︵し炊ぎぎぼ奉ふ公こ︶ふする事ハできず、いつたい医いし者やというものハ一代きりのものゆへ、おやがしんでハ、し︵ん親る類い︶というものもなし。たま〳〵あるハそのき︵虚よ︶にじ︵よ乗ふ︶じて、家道具などめい〳〵ぬすみてかへりたる位にて、そのと︵当ふ時じ︶ハ家やしきおはじめど︵道ふ具ぐ︶じぶんのき︵り着も物の︶などうりて、母やいもふとやしないありしよしなれども、ついにせ︵詮ん︶かたなく、めい〳〵とりわかり、ほ︵ふ奉こ公ふ︶致し候てありしに、十三歳の女ハ殊の外の美人なれバ、悪者これおすかし島原の里へま︵舞い妓子︶にうり、十六ニなる女ハだまして母にいゝふくめさせ、大坂に下し女郎ニうりしなり。五歳の男子ハ粟田口の寺へつかハせしなり。夫おあ︵姉ね︶さとりしより、自分のき︵り着も物の︶をうり、其銭をもち大坂にくだり、其悪もの二人をあいてに死ぬるかくごにて、刄ハものふところにしてけ︵ん喧く嘩わ︶致し、とふ〳〵あちのこちのといゝつのりけれバ、わるものうでにほ︵り刺も青の︶したるをだしかけ、ベラボヲ口グチにておどしかけしに、元より此方ハ死かくごなれバ、とびかゝりて其者むなぐらつかみ、か︵顔を︶した︵マかマ︶になぐりつけ、曰イハク其方がだまし大坂につれ下りし妹とをかへさずバ、これきりであると申けれバ、わるもの曰ク、女のやつ殺すぞといゝけれバ﹁女曰ク、殺し殺サレニはる〴〵大坂ニくだりてをる、夫︵それ︶ハおもしろい、殺セ〳〵といゝけるニ、さすが殺すというわけニハまいらず、とふ〳〵其いもとおうけとり、京の方へつれかへりたり。
めづらしき事なり。かの京の島原にやられし十三のいもふとハ、としもゆかねバさしつまりしき︵づ気か遣い︶なしとて、まづさしおきたり。夫ハさておき、去年六月望︵も月ちづき︶らが死し時、同志の者八人斗も皆望月が如戦死したりし。
そのまへ此者ら今の母むすめが大仏辺にやしないかくし、女二人してめしたきしてありしが、其さわぎの時、家の道具も皆とりでの人数が車につみとりかへりたれハ︵マハマ︶、今ハた︵活つ計き︶もなく、自分ハ母と知定︵マ院マ︶と言亡父が寺に行、やしなハれてありし。日喰クウやくハずに、じつあわれなるくらしなり。
此あとハ又つぎニ申上る。
右女ハまことにおもしろき女ニて月琴おひき申候。今ハさまでふ︵不じ自ゆ由う︶もせずくらし候。此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引とりて人にあづけおきすくい候。又私のあ︵危よ︶ふき時よくすくい候事どもあり、万一命あれバどふかシテつかハし候と存候。此女乙大姉をして、しんのあねのよふニあいたがり候。乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひ︵よ評ふ判ば︶んなり。
○なにとぞお︵帯び︶か、き︵着も物の︶か、ひとつ此者ニ御つかハし被レ下度、此者内ねがいいで候。此度の願候よ︵用ふ事じ︶ハ、
乙さんニ頼候ほん
おやべニ頼みしほん
夫ニ乙さんのおびか、きものかひとすぢ是非御送り、今の女ニつかハし候。今のの︵マ名マ︶ハ龍と申、私しニにており候。早々たずねしニ、生レし時父がつ︵マれマ︶し名よし。
○そして早忘れし事あり。あの私がをりし茶ざ︵座し敷き︶の西の通りがある、其上ニ竹が渡してゑ︵絵︶やら字やらなにか、と︵唐ふ紙し︶ニ記し候ものあり、其中、順蔵さんのかきしものあり。御送り、そして短︵冊尺箱に︵母上―父上の︶御哥︵歌︶、おばあさんの御哥、権兄さんのおうた、おまへさんの御うたこれありけり。なニとぞ父上母上おばあさんなど死うせたまいし時と日と、皆短尺のうらへおんしるしなされおんこし。この中ニ順蔵さんが私しニおくりし文がとふしニしるし、大てい半紙位のものあり、御こし。是ハ英︵高太松太郎郎︶が父の者ほしがり候間、つかハし候。
夫︵それ︶ニ此度の御ねがいハ、それ〴〵おんきゝすてなく御こしね︵念ん︶じ、かしこ。
九月九日
[#ここから2段組]龍
乙あねさん
おやべどん
[#改段]
御頼のもの
かず/\並ニ
おはなし
長き御返じ被レ下度候。
[#ここで段組終わり]