何も別ニ申上事なし。然ニ私共長崎へ帰りたれバ又のりかへ候船ハ出来ず水夫らに泣〳〵いとま出したれバ、皆泣〳〵に立チ出るも在り、いつ迄も死共に致さんと申者も在候。内チ外に出候もの両三人計ナリ。おゝかたの人数ハ死まで何の地迄も同行と申出で候て、又こまりいりながら国につれ帰り申候。 幕︵幕府︶の方よりハ大ニ目おつけ、又長崎でも我々共ハ一戦争と存候うち、又幕吏ら金出しなどして、私水夫おつり出し候勢もあり候得共、中たのもしきもの計ニて出行ものなし﹂今御藩海軍を開キ候得バ、此人数をうつしたれバと存候﹂ 今朝伊予の大洲より屋鋪にかけ合がきて、水夫両三人、蒸気方三人計も当時の所、拝借とて私し人数を屋鋪より五大︵ママ︶才助が頼にてさし出し候﹂ ○木圭氏に手紙○ ○わ長崎の近時のよふを承り記したり。 を送りけるが、是ハ極内を以て御覧ラン被レ成候得バ、極テたしかなるたよりにて山口に迄御送被レ成度。
慎蔵大人
龍
右七月廿八日