其後ハ定︵さ而だめて︶御きづかい察入候。 しかれバ先ごろうち、たび〳〵紀州の奉ブギ行ヨウ、又船セン将シヨヲなどに引合いたし候所、なにぶん女のいゝぬけのよふなことにて、度々論ロンじ候所、此頃ハ病ビヨ気ヲキなりとてあ︵会︶わぬよふ︵に︶なりており候得ども、後藤庄次郎と両人ニて紀州の奉行へ出かけ、十分にやりつけ候より、段々義︵議︶論がはじまり、昨夜今︵長井岡謙吉︶・中︵作島太郎︶・小︵吉田井源馬︶小太郎など参り、やかましくやり付候て、夜九ツすぎにかえり申候。昨日の朝ハ私しが紀州の船将に出合︵会い︶、十分論じ、又後藤庄次郎が紀州の奉行に行、やかましくやり付しにより、もふ〳〵紀州も今朝ハたまらんことになり候ものと相見へ、薩サツ州シウへ、たのみニ行て、どふでもしてことわりをしてくれよとのことのよし。薩州よりわ彼︵かの︶イロハ丸の船代、又その荷ニモ物ツの代お佛ハライ︵ママ︶候得バ、ゆるして御つかハし被︵なレされ成たし度︶と申候間、私よりハそ︵マハマ︶わ夫でよろしけれども、土佐の士サムライお鞆の港ミナトにすておきて長崎へ出候ことハ中〳〵すみ不レ申、このことハ紀州より主人土佐守へ御あいさつ︵マかマ︶わされたしなど申ており候。此ことわまたうちこわれてひ︵と一ゆ戦く︶さ致候ても、後藤庄次郎とともにやり、つまりハ土佐の軍グン艦カンもつてやり付候あいだ、け︵決︶して〳〵御安心被レ成度候。 先ハ早かしこ。
五月廿八日夕
龍
鞆殿
猶、先頃土佐蒸ジヨ気ヲキ船セン夕ユウ顔ガヲと云船が大坂より参り候て、其ついでに 御︵よ隠ふど居ふさま︶﹇#﹁御隠居﹂の左に﹁土佐御いんきよ﹂の注記﹈様より後藤庄次郎こと早々上京致し候よふとの事、私しも上京してくれよと、庄次郎申おり候ゆへ、此紀州の船の論がかた付候得バ、私しも上京仕候。此度の上京ハ誠ニたのしみニて候。しかし右よふのことゆへ下の関へよることができぬかもしれず候。京にハ三十日もおり候時ハ、すぐ長崎へ庄次郎もともにかへり候間、其時ハかならず〳〵関︵下関︶ニ鳥︵ち渡よつと︶なりともかへり申候。御まち被レ成度候。
○おかしき咄︵はな︶しあり、お竹に御︵お申まうし︶。直次事ハ此頃黒クロ沢サワ直次郎と申おり候。今日紀州船セン将シヨヲ高柳楠之助方へ私より手がみお︵マやマ︶候所、とりつぎが申ニハ高柳わきのふよりる︵留す守︶なれバ、夕方参るべしとのことなりしより、そこで直次郎おゝきにはらおたてゆ︵云︶うよふ、此直次郎昨夜九ツ時頃此所にまいりしニ、其時高柳先生ハおいでなされ候。
夫おきのふよりるすとハ此直次郎き︵マすマ︶てならずと申けれバ、とふ〳〵紀州の奉行が私しまで手紙おお︵寄こ越︶して、直次郎ニハことわりいたし候よし。
おかしきことに候。かしこ〳〵。
此度小曽︵マ清マ︶三郎が曽根拙セツ蔵と名おかへて参り候。定めて九︵伊三藤助太夫︶の内ニとまり候ハんなれども、まづ〳〵しらぬ人となされ候よふ、九三ニも家内ニもお竹ニも、しらぬ人としておくがよろしく候。
後藤庄次郎がさしたて候。かしこ〳〵。