其後ハ御遠敷奉レ存候 此頃定而御きづかい被レ遊候ハんと奉レ存候。然ニ私共英太郎共皆ぶじニ出勢︵精︶仕候。 何卒今年中御まち被レ成候得バ、おもしろきはなし御聞ニ入候。当時ハさつまのや︵屋し敷き︶おり申候。 このころ将軍家大坂ニ参り、長州を征し候儀もあり候へども、大軍唯む︵無へ益き︶に日をついやし候のみニて、何の事もあり不レ申候。 池蔵ハ此頃八度の戦段ダン軍功もこれあり、此頃長州ニては遊イウ撃ゲキ軍グン参サン謀ボヲ︵はかりごとにあづかる人︶と申ものニなり、其勇気ありて諸軍をはげまし候事故、もの見の役ヤクをかね一軍四百人の真マツ先サキニ進ミて、馬上ニて蔵太がは︵旗た︶ひとながれもたセ候事ニて候。 惣じて土佐より出候ものハいづくニても皆大将致し又戦ニも一ばんつよく、よくうち死致し候ものおふく、あハれ今、土佐の政をつがふよく致候時ハ、天下ニ横行の国と申され候べく。 ざんねんニて候。