形容詞の論

――語尾「し」の発生――

折口信夫




文法上に於ける文章論は、非常に輝かしい為事の様に見られてゐる。其が、美しい関聯を持つて居る点に於いて、恰、文法の哲学とでも言ふ様に、意味深く見られてゐるやうだ。私は常に思ふ。文章論は言語心理学の領分に入れるべきもので、文法から解放せられなければならない。文法は結局、形式論に初つて形式論に終る事を、覚悟してかゝらなければならないのである。総ての学問のうちに、最実証的でなければならぬ筈の文法にして、而も精神分析に似た傾きを持ち、その過程に於いて理論的の遊戯に堕するものが殖えて来たのも、この文章論の態度が総てに及ぶからだと言ふのである。此処にかうした平生の考への一端を漏すのは、外ではない。単語の組織の研究が、結局は文章の体制に就いての根本的な理会を与へるものだ、と思ふからである。
形容詞の発生を追及して行く事は、同時に、日本文章組織の或一面の成立を暗示する事になるだらうと考へるのだ。国語に於ける所謂、形容詞の生命を扼するものは、その語尾なる「し」である。
かなし妹  めぐし子
くはし  うまし国
かたし  まぐはし児ろ
とほ/″\し高志の国
うらぐはし山(?浦妙山)


イ、とこしへ  かたしへ
  いにしへ
ロ、いまし(く) けたし(く)
  しまし(く)
ハ、やすみしゝ  いよしたゝしゝ
  あそばしゝ
姿
いよしたゝしゝ……弓
やすみしゝ……おほきみ
あそばしゝ……しゝ(?)
つまりは、音脚の制限を受けた律文の中にあればこそ、熟語としての感覚が乏しいのに過ぎない。たとへば、
なぐはし(名細) よしぬのやまは、……くもゐにぞ、とほくありける(万葉巻一)
()()() ()()() 
  


(イ)調(ロ)(イ)


調

あなにやし  よしゑやし
あをによし  やほによし

あなに  よしゑ
あをに  やほに

おふをよし しびつくあま(記)
たれやし  ひとも……(紀)
()()()

はしけやし  (はしけよし〈紀〉)
はしきやし  (はしきよし〈万葉〉)
調便()

()()()()調

        
たかしるや……のみかげ  あめしるや……日のみかげ
○あまとぶや……カルノミチ……領巾片敷ヒレカタシき……鳥
○あまてるや……のけに(あまてる……月)
○おしてるや……なには(おしてる……なには)
        第二類
○をとめの(鳴)すや板戸
○ゆふづくひ指也サスヤ河辺
○さをしかの布須也フスヤくさむら
○さぬやまに宇都也斧音ウツヤヲノト
        第三類





A○やすみしゝワゴおほきみの 恐也カシコキヤみはかつかふる山科の鏡の山に……(万葉巻二)
 ○可之故伎也天のみかどをかけつれば、のみし泣かゆ。朝宵にして(同巻二十)
 ○可之古伎夜みことかゞふり、明日ゆりや、かえがいむたねを いむなしにして(同)
B○……海路に出でゝ、惶八神の渡りは、吹く風ものどには吹かず、立つ浪もおほには立たず、シキ波の立ちふ道を……(同巻十三)
 ○……海路に出でゝ、吹く風も母穂には吹かず、立つ浪ものどには立たず恐耶神の渡りのシキ浪のよする浜べに、高山をへだてに置きて……(同)
又、A○うれたきやしこほとゝぎす。今こそは、声の干蟹ヒルカニ、来鳴きとよまめ(同巻十)
B○……こゝだくも我がるものを。うれたきやしこほとゝぎす……追へど/\尚し来鳴きて、徒らに土に散らせば……(同巻八)

a 伴之伎(?)与之 かくのみからに、慕ひ来し妹が心の、すべもすべなさ(万葉巻五)
b 波之寸八師 然る恋にもありしかも。君におくれて恋しき、思へば(同巻十二)
c ……里見れば、家もあれたり。波之異耶之 かくありけるか。みもろつくかせ山の際に咲く花の……(同巻六)
d 早敷哉 ふれかも、たまぼこの 道見忘れて、君が来まさぬ(はしきかもとも訓むべきかも知れぬ。
(同巻十一)
e 級子(寸?)八師 吹かぬ風ゆゑ、たまくしげ ひらきてさねし我ぞ悔しき(同)

調使
        

世の中は、古飛斯宜志恵夜コヒシケシヱヤ。かくしあらば、梅の花にもならましものを(万葉巻五)
   



        
○射ゆしゝをつなぐ河辺の若草の(斉明紀)
 ………………認河辺の和草の(万葉巻十六)
○はるがすみ春日の里殖子水葱(同巻三)
 上つ毛野いかほの沼宇恵古奈宜(同巻十四)
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……山県に麻岐斯マキシあだね搗き め木が汁にめ衣を……(古事記上巻)
などの場合にも、偶々さうした表現法が残つて見える。即「染め木が汁にむる(或は染めたる)衣を」と解けば、気分的に納得するのだ。奈良朝頃の文献の中で、かうした形を発見するのは、多く序歌の場合である。つまり、気分的に解説すれば、ある契機となる語を中心として、二つの観念の転換が緊密に行はれてゐる。其為に文章又は句としては、不自然な処が生じるのだと言ふことになる。だが、さうした技巧も、元は技巧としてはじまつたのではない。唯古い表現法に準じてゐたのだ。さう言ふ点に、後代の文法意識が働くと、前句と後句との間に、緩衝的な語を挿入することを考へて来る。謂はゞ「ところの」と言ふ程の意識を含めるのである。二つの句の間にと言ふよりも、前句を後句から隔離し、半独立の姿を保たしめるのである。
……あだねつき染め木が汁にめ 衣を……(シムルトコロノ衣シメタル衣
上つ毛野いかほの沼に栽ゑ 小水葱……(ウヽルトコロノ小水葱ウヱタル小水葱
右の例における接続点は、前代の文法及び、其形式を襲ふものでは問題にならないが、やはり次第に、整頓せられて来る。仮りに序歌を以て説くと、
ますら雄のさつ矢たばさみ立ち向ひイ・むかひたち射るイ・いるや円方まとかたは見るにさやけし(万葉巻一、六一)

()
みつ/\し 久米の子らが垣もとに栽ゑ し はじかみ 口ひゞく……(記紀)
この例に、「うゑこなぎ」の歌をつき合せて見ると、「垣もとに栽ゑはじかみ」と言うてもよい処だつた事が知れる。
ありぎぬの 三重の子がさゝがせる みづたまうきに 浮き し 脂 落ちなづさひ みなこをろ/\に……(記)
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○山県にまきあだね搗き、染め木が汁に染め衣を……(記)
○やすみし わが大君のあそばし しゝの(病み猪の)うだき畏み、わが逃げのぼりありのうへの榛の木の枝(榛が枝あせを)。あせを(記紀)

この御酒は、わが御酒ならず、くしの神 常世にいますいはたゝす少御神の神ほき ほきくるほし豊ほき ほきもとほし まつり御酒ぞ……(記紀)

○つぎねふ 山代のこくは持ち、うちし大根 さわ/\に……(記紀)
   又、うちし大根 根白の白たゞむき(記紀)
○須々許理がかみし御酒に……(記)
此も詠歎とも言へるが、「うち大根」と言ふ風に説ける。
橿()

 
此等の例では、「に……し……」と言ふ形式も具へてゐるし、「し」の挿入せられた形跡が、まだ伺はれる。
……わが哭くつまこそこそは、易く膚ふれ(記紀)
※(「缶+墫のつくり」、第3水準1-90-25)()() 
……まさしに知りて、我が二人寝し(万葉巻二)



姿
        
()()()


……朝日なす目細毛、夕日なす浦細毛。春山のしなひさかえて、秋山の色なつかしき……
(万葉巻十三)


おし  をし
もし  けたし
いまし  しまし
神代巻以下まだ、神代の匂ひの失せない時代の記事を見ると、押・忍或は圧の字を上に据ゑた熟字に逢著することが多い。
○天押帯日子命 押阪連 押媛 押木玉蘰
○忍熊王 天忍人 忍穂耳命
○天圧神
()
○あたらしき君が老ゆらく惜毛ヲシモ(万葉巻十三)
○劔大刀 名の惜毛われはなし(同巻十二)
○君が名はあれど、吾が名之惜毛(同巻二)
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○ます・ら・男(ますいよと、同義語をなす健康の義の語根)
○たわ・や・め
○さゝ・ら・え+をとこ
○たわ・や・かひな
○ふはや・が・下
○なごや・が・下
  ×
○おだ(おだしく)・や・む
○すゝ・ろ・ぐ
○そび・や・ぐ(そびゆ・く?)

○いくばくも生けらじ命を(不生有命乎)(万葉巻十二)
○今宵のみ相見て、後は不相アハジものかも(同巻十)
幾時イクバク不生物乎イケラジモノヲ(同巻九)

○竪薦も持ちて来ましもの(履中記)
○岩根しまきて死なましものを(万葉巻二)
○山の雫にならましものを(同巻二)
  ×
○国知らさまし島の宮はも(同巻二)
○うちなびく 春見ましゆは(同巻九)
○こゝもあらましツミの枝はも(同巻三)

○うつそみも、つまをあらそふらしき(万葉巻一)
○うべしかも。蘇我の子らを、大君のつかはすらしき(推古紀)
そのうへ、「らし」にも、
○わが大君の、夕さればめし賜良之(神岡の……)、明け来ればとひ賜良志神岡の山の黄葉を。(万葉巻二)
使

()姿
なこひそ吾妹  かづらせ吾妹
ひもとけ吾妹
命死なまし甲斐の黒駒
そこし恨之(?)秋山われは
つかへ奉れる貴之見れば
と言ふ様な形ならば、呼格として意味は明らかである。
あひ見ずて、ながくなりぬ。このごろはいかに好去哉ヨケクヤ? いぶかし。吾妹(万葉巻四)

        

イ、しゝじもの  鹿児じもの
  馬じもの   犬じもの
  鵜じもの   鴨じもの
  鳥じもの   雪じもの(露じもの?)
  うまじもの(――あへ「饗」……)
ロ、男じもの   牀じもの



()      
わが待つもの ナル鴫はさやらず、いすくはし モノくちらさやる


あをによし 奈良のはざまに、斯々弐暮能シヽジモノ みづくへこもり、みなそゝぐ 鮪の若子ワクゴを あさりな。ゐのこ(武烈紀)
()寿
○辞別。伊勢坐……皇吾睦神漏伎・神漏弥命宇事物頸根衝抜※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)……(祈年祭)

○わがトコロとうすはきいませとタテマツるみてぐらは、明妙・照妙・和妙・荒妙にそなへまつりて、見明物ミアキラムルモノ鏡、翫物モテアソブモノ玉、射放物弓矢、打断物大刀、馳出物御馬、……に至るまでに、横山の如、几物に置き足らはして……(遷却祟神祭)


()()()()()()()()調()()※(「敬/手」、第3水準1-84-92)
(出雲国造神賀詞)

が臣としてつかへ奉る人等も、一つ二つを漏し落す事もあらむか、と辱なみ、愧しみおもほしまして、我皇太上天皇の大前に「恐古之物カシコシモノ進退匍匐廻シヾマヒ?ハラバヒモト保利ホリ……
(宣命、神亀六年八月五日)
が命きこしめせとのりたまふ御命を「畏自物」受賜食国天下恵賜治賜……
(宣命、天平勝宝元年七月二日)

冠位上賜治賜。又此家自久母藤原卿等(乎波)掛畏聖天皇御世重※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)於母自氏(自)門止(波)……
(宣命、天平宝字三年六月十六日)
の如き用語例のあつた事を示してゐる宣命、及び其前型としてあつた幾多の旧宣命並びに、弘仁・延喜以前の祝詞に現れた筈の形容詞の様子を、今一度思ひ見る必要がないだらうか。
○……ゆふべには、入り居なげかひ、わきばさむ児の泣く毎に、雄自毛能負ひみ抱きみ、朝鳥の哭のみ泣きつゝ、恋ふれども……吾妹子が入りにし山をよすがとぞ思ふ
(万葉巻三、高橋虫麻呂)
○……鳥自物朝立ちい行きて、入り日なす隠りにしかば、吾妹子がかたみにおけるみどり児の、こひ泣く毎に、…………………男自物わきばさみもち、……旦はうらさび暮し、夜は息づき明し、なげゝどもせむすべ知らに、恋ふれども、逢ふよしをなみ、……石根さくみてなづみ来し……
○……みどり児のこひ泣く毎に、……烏徳(穂)自物わきばさみもち、……昼はも……、夜はも……なげゝども……こふれども、……石根さくみてなづみ来し……
(右二首、同巻二、柿本人麻呂)
○おもがたの忘れてあらば(るとあらば)、あぢきなく、男士物屋恋ひつゝ居らむ(同巻十一)

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20081130

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